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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

2ラピ。:2013/07/06(土) 10:48:23
T師匠!

ご訪問、ありがとうございます。

師匠の言葉は私の今の状況を完璧に表しています。

私はかつて がむしゃらに道を歩いていましたが
師匠に出会うちょっと前頃は実はその道からそれていました。

そして師匠と出会うことによって
再び道を歩き始め
至ることができました。

至ってる方、本物は
確実にその道を求めるものを導きます。

私はその頃は訳もわからぬまま導かれていたことを
至って初めて知りました。

だから、もし、
本気で至りたい方がいればその方に言いたい。

まだ至ってない時にはわからない、
知っているつもりでもわかってない世界があるのだと。

だから、それを想像したり考えたりするのではなく
やるしかないのだと。

私はそれをしました。

師匠は私の段階(彼岸)の更なる段階(涅槃)があると
教えてくださいました。
その先へ進むかどうかは流れに任せたいと思います。

そして師匠は自分の道を行け
と背中を押してくださいました。

これからも私なりに真理を表現し続けていきます。

ありがとうございます。

師匠に出会えたことに感謝します。

3TK:2013/08/10(土) 09:51:58
なかなか新装オープンのこの掲示板も関心を引いているようなので、
この場を借りて私からも一言述べようと思います。

私はラピ。さんには縁があって悟りに至るための「激流」の教えを開きましたが、
実際は私にとって教える対象となる人の幅はもっと広いと思います。

その人から苦が少しでも減って、楽が増えればそれで良いと言う観点から、
それなりの教え方が主になるのだと思います。

精神世界とは一体なんでしょうか、人はなぜ今の時代に宗教を求める人がいるのでしょうか。

恐らく、苦しいからですよね。

苦しいから、苦しくて何が何だかわからないから求める。

楽になりたいからと言うはっきりした動機ではないかもしれない、
そこに行ったら楽になれると確信を持ててやっているわけではないのかもしれない。

ある意味では苦しみがあるのは仕方がないとあきらめている、あるいは、
根本動機は生きる事そのものが分からないから、と言うものではないかと思います。

実はこの物質世界とは思いが実現しにくいと言う特性を持っていますが、
その特性が手助けするような形で発生していると思います。

では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。

単純に言えば、迷いがあり疑問があり生きている人がいる、それに対して、
何も考えないで気にならないで生きている人がいる、人間から迷い苦しむ機能が無くなってしまった、
悟りとは、つまり、そのようなものでした。

それは決して「知ったり」「分かったり」「理解」したりすることではありません。

もし、精神世界の心地よさがほしい人は、精神世界に行った方が良い、束の間ここちよく、
その後苦しさが襲ってくる繰り返し、束の間の娯楽ビデオの鑑賞を楽しむような気分で精神世界に酔う事を楽しんでいればいい。
ただその人たちの本心が求めていることはその状態ではないので、やがてそれ自身が苦しくなってくるのだろうと思います。

私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。

苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。

私の話しするのもこれだけです。

全然変わってないですよね。

そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

(長いので続きます)

4TK:2013/08/10(土) 09:53:59
(前の続きです)
釈迦のこの世を去る最後に私たちに残した言葉にも、その根幹の部分のみが適格に言葉短く述べられているように思います。


大般涅槃経 - Wikipedia(2013年8月8日 (木) 07:40  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C

>原始仏教経典の涅槃経

中 略

>「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」


釈迦のこの世界で最後に発した言葉が「怠らず努めなさい」なんですね。

それはけっして、「人々のために」とか、「善を為せ」とか、「世界の為に」とかの言葉ではなかった。

この世界で最後に発した言葉は「怠らず努めなさい」なのです。

もしかしたら多くの方々は、この点を勘違いしているのかもしれません。


むしろ、スポ根アニメとかの中の方が「怠らず努めなさい」の要素が強いですし、
現実にスポーツの優れた選手は悟った人に近いメンタルなのです。

私も高成績のスポーツチームの者と話したことがありますが、エゴ少ないですね、人間出来てます、
苦を減らし楽を凄く実現できている、おかしな精神世界の者と比べたら雲泥の差で彼らは達成できてます。
反対に成績の振るわない仲良しクラブ的な所の人と話しても、エゴ多いです、彼らは苦しみ多く生きていますね。


私がここで悟った状態と語りましたが、スポーツも存分に「怠らず努めなさい」のような
要素があるので悟りには身近な状態にありスポーツの世界ではこの意識状態を「フロー」若しくは「ゾーン」
と言うのです。宮本武蔵あるいは柳生宗矩に沢庵禅師が説いたと言われている「剣」「禅」一致はこの辺りの事を指しています。

フロー - Wikipedia(2013年6月11日 (火) 11:13  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC

>この概念は西欧心理学の中ではチクセントミハイによってはじめて示したと言える。
>しかし、彼はこの心理現象に気づき、それに基づく技術を開発したのは、
>ほぼ間違いなく彼が最初ではないと、彼自身、躊躇なく認めている。
>
>2500年以上前、仏教や道教といった東洋の精神的な伝統の実践者は、
>この訓練を彼らの精神開発の非常に中心的な部分として磨いた。日本の実践者は、
>そのような禅の技術を、彼らの選んだ、剣道から生け花までを含む、
>芸術の形式(芸道など)を習得するために学んだ。

ちなみに私の知っている高成績なスポーツチームでは、厳しい訓練は当然ですが、寮で集団生活をし、
生活の全てがスポーツであるとして、日常の規律の厳守、奉仕の実践と挨拶の重視、
練習前の正座とか、私から見て十分にフローの達成に近づけるための実践要素が取り入れられていました。
強くなるチームは技能訓練以外にも強くなるためのメンタル面の的を得た要素をしっかり踏まえているという事ですね。


精神世界にそれを求める人たちに言いますが、
「心身を鍛えて、よりよく過ごすために私はスポーツ又は稽古事に打ち込みます」と言う人が世の中には多数いると思いますが、
これは悟った立場から見ても立派に理論にかなっています。
私は精神世界にそれを求めてうだうだ知ったかぶりのオタクをしているような人たちよりも、
時々これらの人の方が楽を達成できて人生を前向きに歩いているように思えて仕方がない部分を感じます。

何事につけても、だらだらといい加減にではない、真剣に何かに打ち込んでいる人の姿を目にするのは、それは素晴らしいものです。

悟ると、一般の人の視点から見たらそれは理想的で素晴らしいと言う状態になると思います。

苦が無くなって楽が実現するだけではありません、あえてたとえるなら遊びと同じ楽な感覚で仕事が出来てしまう、
しかもエゴの人と比べたら圧倒的に優位な効率でインスピレーションもどんどんと出てきますし、
楽していい仕事ができると言うのは、一般的には願ったり叶ったりと表現するのかもしれません。

(長いので続きます)

5TK:2013/08/10(土) 09:58:33

(前の続きです)

私は釈迦の我々に残した最後の言葉の「怠らず努めなさい」を成就した者です。

努力に努力を重ねて努力し尽したのでもう逆立ちしても努力ができません、努力不要(不能)の者となりました、
そして、ラピ。さんも私の教えを受けてこれを成就しました。

もしかしたら、私たちのこの「私達は逆立ちしても努力などしません」の成就した後の表現を、
至る前の人が勝手に「努力」するのは駄目なんです不要ですと取った人もいるのかもしれません。

ですが、釈迦が最後に我々に残した言葉は「怠らず努めなさい」の言葉なのです。

本当にスピ系にかぶれて私と同じところまで来た人はいるのでしょうか、
当然スピ系の分からない私に導かれたラピ。さんは私の取り入れた方法で至りました。

それは、私が成就したと認めたとかではなくて本人が自分自身でこの状態に、
意識そのものが変容してなってしまったのです。

次は至った直後のラピ。さんの言葉です。

[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。

実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

ただし、的を得た導師とは、ただ普通に暮らしていてこれらの努力や忍耐を要するような出来事をやり過ごさせるのではなく、
あえて、これらの事が過剰に実践者の前に起こる方法を作り出すのです。

それが、ラピ。さんの言っている「激流」と言うものの正体です。

じつはラピ。さんに関して言えば、私と出会った時には、
恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。
もっともこの屁理屈も、ある段階の者には激流を渡るための筏(イカダ)として機能しますが、
同じ屁理屈でも使い回す者が悟ってないとこれが全く同じ言葉なのに筏(イカダ)の機能も果たせない
駄作の単なる屁理屈に大変わりしてしまいます。

達成した私達には内面(心)と言うものが無い、これがほんとうの無心です。
内面が無いから従って外面もないのです、よってヴィパッサナなどの内面観察系の実践は
逆立ちしても実践不可能(完了)です。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外
> 側から来るのでしょうか?
>
> マハラジ
> その表現は当てはまらない。
> 私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。
> 必要な知識をあなたから得るかも知れない。
> だが、あなたは私から離れていないのだ。

私は以前これを、あなたの前には私がいる、だが、私の前にはあなたはいないと言う言語化で表していました。

至った私達の意識状態は精神の集中の次です、意識の拡散と言う状態になります。
至った私達には精神の集中と言う言葉はありません。

私がここで「努力」と言う表現を使いまわしていますが、それ自身も私は成就者なのでそうでない人とは違うのです、
人間のメンタルの構造の上でどのような作用が起きた時に、この「努力」と言う感覚が発生するのかまで、
熟知したうえでこの表現を使いまわしています。

(長いので続きます)

6TK:2013/08/10(土) 10:03:39
(前の続きです)

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」大いにやってください、
私もラピ。さんもその実践をして成就したのですからこの件についても胸を張って述べる事が出来ますが、
最終的には実践不能の状態でこの実践は成就を迎えます。私もできるものならまだこれらの実践をするのですが、
逆立ちしても不可能なのです、つまり、意識の状態がこの実践の成就を迎え根幹から変容したと言う意味です。
「清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような〜」スッタニパータと言う
経典に出てくる表現ですが、この状態が完成形ですから。

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」が出来るうちは大いにやって下さい、
ただし、その実践が出来るうちは私の居る所まではまだまだ全然至っておりませんので、
そのような状態で人に何かを説くなどの行為はくれぐれもしないようにして下さい、
これは説かれた方も当然に至る事が出来ず害がありますが、説いた方にも害があるので、ご法度です。

まず、自分から先に成就をする、それをしないで、あるいはしたと誤認して、人に教えを説く者をイエスは偽善者と呼びました。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

ラピ。さんの至った所は、もしも人から認められず否定されるようなことがあったとしても、
本人にとって揺るぐことのないものであるわけですが、私も今回ラピ。さんが成就していただけたおかげで、
ようやく次のような聖典も実績として説く事のできる身の上となりました。


ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

(長いので続きます)

7TK:2013/08/10(土) 10:04:55
(前の続きです)

私は今まで多くの超える手前で、超えたと自らの誤認により教えを説いたりしている人を何人も目にしてきました。

実は私に出会った時のラピ。さんもそのようだったのですが、私にはそのような経験がありませんので、
今までもそのような人たちを目にしても中々力添えが出来ずにおりましたが、ラピ。さんは
そのような人たちに暗闇の中で灯火をかかげる人となれると私は考えています。

言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。
その違いを一番よくわかっているのが今のラピ。さんですから。

至った後のラピ。さんのコメントです。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1674.html

>はじめの私は師匠に対してかなり偉そうで
>反抗的態度でした、、、。
>(;´▽`A‘‘
>
>だって、私、
>
>自分がすべてを知ってるのだ!
>
>なんて思ってたのですから、、、、。
>(あ〜あ(笑)


次は至る以前のラピ。さんのコメントですが、かなりの自信の持ち主でした。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。


このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

彼女が聞く準備やその他の準備が整うまでに約4カ月の期間を費やしましたが、飛び越える時は僅か1日で飛び越えましたね。

彼女なら、私に出来なかったことをやれそうな気がします。


『相応部経典』1・4・1・5
>比丘たちよ。私は天界のものであれ、人間界のものであれ、一切の束縛から自由になった。そなたたちも同様に自由となった。
>諸人の利益と幸福のために、また世の人への共感を持って、(天に住む)神々と人間の利益、幸福のために、そなたたちは出かけるがいい。
>
>(なるべく多くの人に教えられるよう)二人して同じ道をゆくな。初めも善く、中ごろも善く、終わりも善く、道理と表現とが備わった教えを説きなさい。
>この上なく完全で清らかな行いを人に示しなさい。
>世間には心の目が(欲望の)塵垢にそれほど覆われていないのに、教えを聞くことがないところから堕落している人がいる。(教えられれば)かれらは真実を悟れるであろう。

8ラピ。:2013/08/10(土) 23:13:06
T師匠、ありがとうございます。

師匠は私を師匠のいるところまで完璧に導いてくださいました。

それまでももちろん、実践を頑張ってました。
でもスピリチュアルな教えによって停滞してしてました。

この停滞。
実はその頃、私にとっては実感のないものでした。
師からビンタをもらい、目が覚めたのですが
それまでは自分が停滞してることすらわかっていませんでした。

師の教えはそんな私を確実に導きました。

まだ、この世界で師の言葉が必要な人、たくさんいると思います。

めったにないチャンスです。

悟りを本気で目指してる方、本気であるのであれば
師は答えてくれると思います。

ただ、本気で、本当に本気で挑んでください。

私のお伝えすることが合わない方もいると思います。
なぜなら至る道は一つではないから。

その時こそ、師の言葉が導いてくれると思います。

師匠、ありがとうございます!!

(*・ω・*)ポッ

9あーみん。:2013/08/10(土) 23:55:40
ラピ。さんに巡り合えただけでもラッキーだと思っていたのですが、
ラぴ。さんのお師匠様のお言葉まで聞けるなんて、
なんてお得な・・(いや違う!)なんて貴重な掲示板なのでしょうか!!^^
(↑この空気で冗談を言おうとする自分が恐ろしいです)

レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、
ひとつ、どうしても気になったことがあります。。

(現在、エゴに押し負け続けており、実践の方が遅々として進まない私が
お二人に質問する資格があるのかどうか分かりませんが^^;)

エピ。さんとお師匠様は全てメール(ネット上?)でのやりとりだけだったのでしょうか?
直接お会いになったりすることはなかったのですか?

私が過去に読んだ「悟り・覚醒」等に関する本では、マスターの存在無しで悟ることは
非常に困難であり、ある程度準備が出来たものはマスターの導きが必要になる。。とありました。
中でも、直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。
これもやはり余計な知識なのでしょうか。。?

あ、まあ、私の場合はまだその「準備」すら全く整っていない状態ですので、
もしそういったことが必要になるとしても、実践が順調に進んだ、先の先の話に
なるかとは思うのですが^^;

ふと、ラピ。さんとお師匠様の場合はどうだったのかな?と気になりました。
もし、差支えなければ教えて頂けますか。。?

10ラピ。:2013/08/11(日) 07:44:10
あーみん。たん、おはよう!

うん、このチャンスを逃すのはもったいないですよ。
これが最後の最高のチャンスです。
エゴが何を言おうが実践です。ここが分かれ道になります。

残念ながら私たちは 実践をしない人たちの力になることはできません。
自分自身が進むしかないのです。
私たちはきっかけをお伝えすることはできますが、ただそれだけです。

私と師匠のやり取りはメールだけです。
確かにマスターの存在なしで至るのは困難だと思います。

私は師匠に出会う前に ある実践をとことんやっていまして
激流を渡り彼岸に足を突っ込み、また戻ってきた経緯があります。

そして結局 相対的世界に落ち着いて スピリチュアルにはまってしまいました。
そこで長い間停滞していました。

激流の終りまで行きかけたのに、行きかけただけではまったくだめなのです。
確実にわたり終える必要があります。

いくら彼岸に足を突っ込んだと言っても、そこから戻ってしまったのでは
全然ダメで、一度からまたやり直しなのです。

>言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。

まさしくこのことです。渡り終えなければ全く駄目です。
彼岸に足を突っ込んだ、だからそれがどうした?それでは意味がない、です。

ちなみに実践をし続けて、光を見たり幸せな気分になって
それで至ったと思う人もいると思いますがこれも全くダメです。

この経験は無駄ではないと思いますが
「その経験、だからどうした?」です。
さらに実践し続けてください。実践ができなくなるまで。

師匠がこう書いてくださっていました。

>恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。

まさしくあと一歩、あと一歩のところで停滞していました。
この停滞は私だけでは気付くことはできず
師がいなければ至れませんでした。

「楽」は実現できていましたが、まったくそれでもダメでなのです。
「楽」の実現、だからそれがどうした、まだまだだ!という感じです。
私は単なる低次元、相対次元の屁理屈の酔っ払いでした。

なので、本気で至りたい方に必要なのは
目を覚まさせるビンタだと思っています。
師は私の目を覚ましてくれました。

私が酔っぱらっていることを師は私の文面ですべてお見通しでした。
マスターからしたら至ってないものは 丸見えなのです。

続きます(*・ω・*)ポッ

11ラピ。:2013/08/11(日) 07:45:06
10の書き込みの続きです。

>直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。

これについてですが、少なくとも私にそれはありませんでした。

悟りの一瞥は実は私自身の実践で体験しており
確かにその一瞥があったからこそ師の言葉によって導かれ
至ることができたのかもしれません。
(ただ、この一瞥もまれなことらしいです。)

ちなみにこの相対的世界にいる時は
いろんな思考や思いに支配されているので
マスターの「在る状態」に気付ける人はいないでしょう。
悟りの一瞥を得ることは難しいでしょう。

だからマスターはその思考や思い、それらの幻想をぶった切るために
とことん下まで 至ってないものを落とします。まずはそこからです。

>このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

まさしくそれです。最高の奥義です。
これがなければ私は至れませんでした。
この奥義がなければ至れませんでした。

だから私にとって師は必要でした。

大切なのは常に立つ位置を低くし、ひたすら実践です。

あーみん。たん。
厳しいことを言えば、エゴを言い訳にして
実践を怠けてる、私からしたらそうとしか言えませんよ?

まだまだですね。スタートラインにも立ってないです。

だから兎にも角にも実践です。
とことんエゴの声を無視して実践してからですね。

私は師からの「悟りの一瞥」はなかったし、
師のそばにいてあったとしても、至る前の私であればそれを勝手に解釈し、誤解し
受け取れてなかったでしょう。
その一瞥はあってもないことと同じです。

だからマスターのそばにいて同じ時間を過ごしても
次元が全く違うのでマスターのその状態を知ることはできないでしょう。

ひたすら実践をしてある瞬間、空っぽになる時があります。
(エゴの声が静まる時)
これだけではまだ静まってるだけでエゴはいますので至れてないのですが
この空っぽの状態なら、一瞥を味わうことはできるかもしれません。

ただその一瞥は師がいなければできない、ということではないと思います。
ひたすら実践をしていれば勝手に一瞥を経験しているでしょう。

だからまずはとことん実践してその状態まで進んでください。

そして、実践中、何かありましたら掲示板の「悟りを目指している方」に書き込んでね。
その都度、対応できると思います。

私が今回書いたこと、師の書き込みにすべて書かれてますので
じっくり読んでね。
(*・ω・*)ポッ

12TK:2013/08/11(日) 09:44:52
一言述べますが、書店に行けば、あるいはネット上で、スピ系の本、又はサイト、セッション、
死ぬまで酔わせてもらえるような手段は沢山ありますので、
そのような方には今の時代は願望が手ごろに叶ってとてもラッキーな時代だと思いますよ。

ただし、これはこのサイトを見ている人の中にいないかもしれませんが、
本当に切羽詰まったような人、このような人たちにはかなり厄介な時代です。

何かの高次元の手掛かりがなければアセンションは無理です。

ただし、私自身は僅かながらの聖典を師にしましたので、生きている師はおりませんから、
一般的には無師独悟に分類される事になると思います。

メールと言う手段であろうとも、生きた師なら聖典よりなおいいわけです。

ただし、はっきりと言いますが、生きた人間を師として求めた場合、今は失敗するケースが多いです。

ラピ。さんが運がよかったのだとお考えいただいた方が良いと思います。

今は仏教でいう所の「末法の世」と言う時代です。


まっぽう(‥ポフ)【末法】
仏語。三時の一つ。釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期で、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期とされ、
一万年の間とする。日本では正法・像法各千年の後、永承七年に末法にはいったとする。末法時。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


つまり確実なものとして教法だけが残っているとされています。

これもとらえ方で、教法だけは確実な手掛かりとなるものがあるのだと捉える事も出来ます。

「私は至りました、本物です」と複数の者が口をそろえてこのように述べても、本当かどうか判断が着きませんね、
忠告しておきますが、実際にはほとんど全てと言っていいほど、期待にかなうものではないと考えて下さい。
もっとも始末に負えないのは、ほとんどの本物宣言は悪気とかそういうものでは無くて、
本人自らの誤認によるものだと思います。

私自身は人を師として求めたら、今の所までは至れなかったと思っています。

その場合、今のラピ。さんの悟りは無かったわけです。

私もネット上で本職の僧の方や様々な方と話をしましたが、未だかって私がまともに対話を交わした人の中で
私の所に至っている人など誰もいませんでした。

適当な事を言われて、成就の印可を授けられたような人も何人もいるようです。

そして、そのでたらめな成就認定をされた人が、また、さらに他を成就認定していく、
この辺りは、「末法」の予言の通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


釈迦の遺言は、今の我々に対して末法を予言していたようなものでした。

>レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、

ここもポイントです、分かりやすいものほど次元の低さの証であり受け入れやすく、
だからこそ外れなのですが人が飛びつきます。

ラピ。さんは実に運が良かった、ただ、それだけだと思います。

13ラピ。:2013/08/11(日) 22:31:36
☆ TK師匠  あーみん。たん

はい!
あーみん。たんにお返事した内容は
師が本物であること前提で書いてしまいました。

今のこの世界、本物はほとんどいないみたいです。
偽物に師事してしまうと逆効果ですね。

私が運がいいというのは
TK師という本物に出会えたからです。

もし、偽物に師事したのなら、まったく至ることはできなかったと思います。

でも実は私は師を求めてはいませんでした。

でも縁があって師匠とメールのやり取りをしているうちに、
「ん?これは??」というなにか直感的なものがありました。

私はTK師だからこそ師匠と呼ばせていただきました。

TK師に出会わなければ、私には師はいなかったと思います。

(*・ω・*)ポッ

14あーみん。:2013/08/13(火) 01:02:04
ラピ。さん、たくさんのお返事ありがとうございます。
ラピ。さんが辿って来られた道がよく分かりました。。
きっと壮絶な体験も色々あったんでしょうね。。
でも実践が始まったきっかけが、特に出来事があったわけではなく、
ふと自分のわがまま気づいた、それだけです、というところに少し驚きました。
そして、ラピ。さんが実践されて来た長い年月を思うと、
これからの自分の行く道を考えて、つい気が遠くなってしまいますが^^;
もう多分、嫌でもこの道しか残されていないというか、失敗しながらでも進むしかないですね。
実践方法は、皆さんがされているように、そのうち私も私のオリジナルを見つけたいなと思います。
それまで、ラピ。さんのおすすめ「自分を捨てて、喜んで何でもしよう」を
私なりに努力して行こうと思います。

本当にありがとうございます。

あ、もうひとつだけ・・
ラピさんのお返事の最初の部分なんですが、
私は自分の考えが正しいと思って、その正しさを主張したかったわけではないんです。。
ただ、まずは出来るだけ自分の考え方、感じ方を、ありのままに
さらけ出して、ラピ。さんにお伝えすることが必要だと思いました。
私なりの、よかれと思ったやり方でした。
でも、そうですね。。自分の正しさを主張しているような文章になってしまっていたのかもしれませんね。
でも決して自分が正しい、なんて思って文章を書いているわけではないんです。
どうあがいたって「自我」は何が正しいかを判断することは出来ないんだってこと、
本当に身に染みて分かっているつもりです。(ときどき忘れてるかもしれませんが)
でも誤解を生むような書き方になってしまってすみませんでした。

私は少し、悟った方のことを、まるで超能力者のように思っていたようで、
多少文章が変でも、こちらの気持ちを汲み取ってくれるだろう。。なんて、
勝手なイメージを持っていたようです。とんだ勘違いですね^^;すみません。。

あと、私にとっては悟りの道も「スピリチュアル」だと思ってましたので、
解釈の違いという誤解もあるのかもしれませんね。

「誤解」はほんとうにやっかいですね^^;
世の中、この「誤解」さえなくなれば、どんなに生きやすくなるか。。と思います。
まるで罰ゲームのルールを無理やり課せられているように感じます^^
でもやっぱり必要だからあるんでしょうね。いや、意味なんてないんでしたね。
だから人は自分の好きなように意味を付けて生きていこうとするんですね。。
(↑あ、これも「これが正しい」ってことじゃないです。単なる私の考えです。)+

15あーみん。:2013/08/13(火) 01:04:54
↑ごめんなさい!板を間違えて投稿しました!
「悟りを目指している方」への投稿のつもりでした!

16ラピ。:2013/08/13(火) 03:29:32
あーみん。たん、了解です。

この書き込みを移動させますね!
(*・ω・*)ポッ

17TK:2013/08/14(水) 11:13:34
さて、この掲示板にもスピ系にかぶれている人がいますが、私もラピ。さんも
ぶっちゃけスピ系をけちょんけちょんにコケにする者の立場をとっているわけですが、
ぜひスピ系で至りましたと言う自称覚者さんがもしいたらここに出てきてもらいたいものだと
思いませんか。

我々にとって悟りとは、何かを理解したり知ったりする事ではなく、
メンタルそのものの機能が変わってしまう事だったわけですが、
当然我は本物ですと言う方が居れば、その方がもし偽物か自らの誤認によるものであれば、
我々と対話を少しすると本当に意識の機能が変容していない方は見事にそれが明らかになってしまう事になります。

我等はスピ系では無い方法で至りましたと言う立場ですから、そのスピ系で至ったと言う自称覚者さんたち、
色々な人のために我等と少しここで話をしてみようではありませんか。

私もそのような自称覚者さんたちと実際に対話してみたいと思います。

どちらにしても、至っていない人たちの大いに力になれる対話になると思いますが、ただし、
いられたらの話しですが。(笑)

ま、いないでしょうけど、このように私がここで呼びかけるだけでも、誰もいないイコール、
スピ系がダメだという事のあかしに繋がって、途中の人の参考になりますね。

私は実際スピ系と言うのは学んでないので良くわかりませんが、
スピ系だったという至る前のラピ。さんを知っているので、
間接的に駄目な教えと位置づけているわけです。

私と至る前のスピ系ラピ。さんとの間では確か、
ラピ。さんはある程度悟りを達成できていると言う認識だったと思いますが、
私にしてみたら、ただの堕落して酔っぱらっている人でしかありませんでした。

酔っぱらって幸せな気分に浸っているというのと、酔いからさめて至った状態とは当たり前ですが違いますね。

精神世界知識を大量に詰め込んで、理解力でカバーできる範囲をうんと広げて、
我々の本当に至った者の変容したメンタルの状態を理解力と知識量で受け答えをして、
例えば自分と言うのは幻です、この世界には実態が無いんです、あなたは私ですとか、
自分は悟った者だとして言っている人、いますよね、これはもちろん本人の悟った至ったの誤認の典型例です。

至った我々は、「理解力」と表現できるようなマインドの次元のものなどないのです。
「理解力」をすっかり捨て去って、バカを極めると我々のようになるのです。
つまり、アプローチの位置づけとしても「理解力を増やすと言うのとは真逆」です。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」

(続きます)


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