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トーキングスティックボード

1義春:2011/07/26(火) 23:44:46
初心者さまのご提案により、不肖義春がトピ立てを致しました。ルール等はコメント1から記します。

67義春:2011/08/03(水) 14:20:55 ID:SjZg29/2
(友人の事なので実話である以上、フェイク仕込んであるので、ご容赦ください。)
まぁ…別スレにも書きましたが
アレから進展があり、やっと解決したそうです。

半日、話し合ったそうです。
まぁ…お疲れさまな事です。

経過を話すと…

アレから、OBから連絡があって、
対立してる方を責めないでくれ、
問題の解決をしていた
我々の代に責任があるんだ。
彼も組織を想って行動しているんだ。
だから、お互い誤解はあるから、
今までの感情抜きでゼロベースで
話し合って欲しい。

という事があり、
それから友人の解決策に
周りが分かってないという話も
あったので、一から周りに説明して、
誰も追い出さずに、規約を決めて、
皆が協力して進めていくとなりました。

まぁ…お互い、疑心暗鬼になってたのかな?という気もします。


とりあえず、円満解決して
友人の為にホッとしました。

次から元のお題に戻します。
一寸、眼ン玉がドライアイか何かで
痛いから、ゆっくりやります。
これから眼科にかかってきまする。

68義春:2011/08/03(水) 14:35:53 ID:SjZg29/2
×問題の解決をしていた
○問題の解決をしていなかった

まぁ…規約とかないと、人的な運用に依らざるを得ないという感じでしたね…。

よくよく聞けば友人は勿論、
向こうさんも良い人みたいで
誤解していたみたいです。

それを聴いてトキさまの書かれた
生長の家の事を思い出して、
複雑な想いになってます…。

69義春:2011/08/03(水) 14:47:25 ID:SjZg29/2
私が天皇陛下に触れる時は
理念としての天皇陛下です。

正直なところ、政治の渦中に
天皇陛下を関わるのはどうなんだろう
という気がしています。

又、天皇陛下を明治憲法みたいな
立ち位置にされれば、よほど、
バランス感覚のある人達が
天皇陛下の輔弼をされなければならない
と想います。

しかも、永続的に隙なく、
元勲並みの能力と責任感、
それから時代に合うという運を兼ねて。


私は明治憲法とは維新の元勲が
存命だったからこそ、運用可能だった
と想います。

言うなれば人的資産にかなりの部分を
依存する形だったと…。

まぁ…これは今の憲法も
同じようなものですけどね。
民主党の運用を観察して
比較材料にしています。

次に続きます。

70義春:2011/08/03(水) 15:12:28 ID:SjZg29/2
>>69
天皇陛下とは無であるからこそ、
国や国民の為に生きてらっしゃいます。
文字と出先であるから
簡略になりますが…。

明治天皇様は、国の為に旧習を改め、
生活を洋風にされました。

又、昭和天皇様は国民の為に、
終戦の聖断を下されました。

そして今上陛下は皇太子時代から、
国民の暮らしに合わせてらっしゃいます、
又、皇祖皇宗を祭った宮中三殿での
お祈りをご高齢の今でも欠かさず、
平和への想いに生きてらっしゃいます。

日本のために、全てを捧げられる方々に
政治と云う偏りのある世界に
お出ましを願って良いものかと
…想うんですよね…。

続きます。

71初心者:2011/08/03(水) 17:25:24 ID:4IaAZAME
義春さん

66の投稿には気づきませんでした。申し訳ない。

組織に問題はつきものであるにしても、問題がおこると、どうしてもエネルギー
を吸い取られてしまいますね。義春さんは、エネルギーを吸い取られたご友人に
エネルギーを分けてさしあげたのですね。

そのために、義春さん自身のエネルギーが、一時的にせよ減ってしまった。こういう
ことなのでしょうね。それでも、義春さんからもらったエネルギーで、ご友人は問題の
解決にこぎつけることができたみたいですね。

もしかしたら、話を聴く側がエネルギーを減らし、それが話す側のエネルギーになるの
かもしれませんね。エネルギー保存則は、人間関係にも有効なのでしょうか。

天皇陛下の話にもどります。
わたくしはこれまで、義春さんが、理念としての天皇陛下を語っておられたとは理解して
おりませんでした。それは義春さんにとっての経験であると理解しておりました。
天皇陛下に思いを寄せる。これは理念なのでしょうか。それとも経験なのでしょうか。

そこに理屈が加われば理念となるのでしょうか?感情が移入されれば経験ということに
なるのでしょうか?
理念と経験。同じものなのでしょうか、別のものなのでしょうか。
理念を経験する。そういうことは可能なのでしょうか。

理念と経験が一致すれば、天皇陛下を政治にことよせる必要はないのかもしれませんね。
理念に飽き足らず、あるいは理念を信用できずに、経験だけを求める人たちが、政治という
手段を用いるのかもしれませんね。

書いている本人が何を言っているのかわかりません。でもなぜかひっかかります。
理念と経験。義春さんは整理できていますか?

72義春:2011/08/03(水) 20:35:03 ID:SjZg29/2
>>71
初心者さま
まぁ…仰る通りです(泣)
ホントに察して頂いて救われますよ(泣)
もろにエネルギー吸われますよ。
でも、ソイツが良い人生送れば、
満足なんですよ><b
こんなんで良ければくれてやるです。

それで私は哲学は分かりません。
ですから、感じるままに
書いているのですが、
アレなんですよ、
経験を通して、理念…つまり實相を
観るという方法を私は取っています。
だから、経験は理念を観るツールと想ってるんです。

まぁ…見も蓋もない言い方をすれば、
私の人生ってはた目から見ても
悲惨なものですじゃないですか?
私も同じでして、この経験から、
この経験を何とか活かして、
一寸でも人の役に立ちたいし、
それも何かしら、實相への道だと
想いたいのです。

だから、そんな活かし方をするんです。

それだから、
知識を自分の身体に流して
それから天皇陛下を観ようとしてるのだと想います。

だから、感情的な人間である私に流れるから、情緒的になってゆくのでしょう。

天皇陛下と政治は、先ず自分の中の
天皇陛下を書くためには避けれないから
触れました。

では続きますね。

73義春:2011/08/04(木) 13:29:27 ID:SjZg29/2
>>70
で、(若輩故の浅さは置いて)
此処で天皇陛下の自分の感じたまま、
勉強したままを書いてますが、
それから通して、想うのは、
日本という国の日本人同士の
無言の了解というべき世界の
不思議さです。
まぁ…よく『空気嫁』じゃなかった
『空気読め』という言葉が出てきますが、
それはお互いの脳内の
言語が共通してないと
出てこない発想です。
他の国なら
逆に己が立場や想いを
これでもかって言うくらいに出します。
それが日本では逆にお互いが
繋がっている安心感みたいな所
があります。
その根本的なところは、
天皇陛下という存在であると想います。
日本人の心に天皇陛下がいらっしゃるから、天皇陛下を通して、皆と繋がり、
それが日本という国そのものを支えている。
だから、日本人には天皇陛下という
存在が必要不可欠なのです。
それだから、天皇陛下は日本の中心者
であらせられると想うのです。

74義春:2011/08/04(木) 13:30:58 ID:SjZg29/2
これで私は満足しました。
次のスティックは…
八百比丘尼お姐様にお願いします。
(一方的ですみませんw)

75初心者:2011/08/04(木) 14:29:12 ID:4IaAZAME
義春さん

義春さんにとって、理念とは實相のことであったのですね。
だとすれば、實相イコール経験と理解してもツジツマはあってきますね。

義春さんの人生が悲惨だといってしまえば、それはたしかに実もフタもないという
ことになるかもしれないけど、それでも悲惨であるのはたしかなんだよね。その悲惨さを
生かして誰かの役に立つことができれば、それが實相へとつながる道であると、義春さん
は想いたいということなんだね。

悲惨さが實相へとつながる?これはちょっとしたパラドックスではあるけれども、義春さん
のような悲惨な人生は、世の中にはずいぶんとあるにしても、その経験を人のために活かそう
と考える人はそんなにいるとは思えないので、活かそうとすることが、すでに實相のあらわれ
であると見ることはできるよね。義春さんの人生や生き方が、實相がすでにあらわれて
きつつある姿だと想いたいよね。

話は変わります。前にここの掲示板で、ロラン・バルトという言語学者が「日本語は天皇制に
よって支えられている」と言ったということを書いたことがあるけど、それはつまり、
天皇陛下を中心にみんながつながっているということなんだよね。つながっているからこそ、言葉に意味を詰め込まなくても、たがいがわかりあえるということなんだよね。
日本語には意味がない。これがロラン・バルトの日本語にたいする見方だった。

下手に外国語を習ったり、外国の風習になじんだりすると、言葉に意味が詰まってないと
気がすまなくなるみたいなんだよね。意味が詰まってないと不安で仕方がないということになってしまうみたいなんだよね。
言葉に意味がないというのは、精神にとっては、ふつうは空無で耐えられないものなんだよ。
日本人がなぜこの空無に耐えられるかというと、それは、天皇陛下という空虚な中心者によってみんながむすばれているという感覚がふつうにあるからだよね。義春さんが言うように、
天皇陛下は日本の中心者なんだよ。

つぎは八百比丘尼おねえさまの番ね。おねえさま、この部屋に入りたがってたもんね。
八百比丘尼おねえさまって、ほんとうはどんな方なのかしらね。興味津津だわ。

76トキ:2011/08/04(木) 17:11:43 ID:SO3fpWEI
義春様

 すばらしいご投稿、ありがとうございました。

 天皇信仰は、生長の家の中心をなすものであります。その点、ご自分の体験を
通して、切々と説明をされた義春様の情熱には深い感銘を受けました。
 
 では、続きましては、八百比丘尼様、宜しくお願いを申し上げます。
また、基本的に、八百比丘尼様がご満足されるまで、他の方はご投稿をご遠慮下さる
ようにお願いします。どうしても、という場合は、他のスレッドで司会宛にご投稿を
お願いします。

合掌 ありがとうございます

77八百比丘尼:2011/08/04(木) 17:12:13 ID:vfQXyn92

 ここは、『紳士クラブ』で、女はご法度のはず。
それに、入りたがっていたのは鈴夜でございますぅ。
私に 天皇陛下について・・・・などと。ここに不二子比丘尼がおれば、
彼女のご子息は、自衛隊におられるが、母の送った言葉が、あっぱれであります。
「よいか、おまえが最後の最後に命をかけてお守りせねばならぬのは、
家族でも、国でもない。天皇陛下じゃ。」

それから、これは京都にいる叔母から聞いた話ですが。
私の父方の高祖母は、かつて京都御所で女官をしていた。と
大叔父は、昭和天皇に宮中でお会いしたことがあります。

 あああ、無理ですぅ。
私では、こんなレベルの高い所ではついていけませぬ。
誰か助けてくだされ。
私は鈴夜とふざけた話をしている方が、似合っておりまするぅ。
トキ様、ハイ!スティック。(逃げる・・・)

78トキ:2011/08/04(木) 17:34:11 ID:SO3fpWEI
>>77

八百比丘尼様

 その点は大丈夫ですよ。ここは「天皇陛下」の説明をする場所ではなく、八百比丘尼様
の「天皇陛下」についての考え方を披露する場所です。誰も、八百比丘尼様の事を批判し
ません。思いつくまま、気軽に書いて下さい。

79八百比丘尼:2011/08/04(木) 20:10:11 ID:vfQXyn92

鈴夜 乱入。
 おい おい、比丘尼のやつ、布団かぶって寝込んでしまったぜ。
オレのメシはどうなるんだ。
よし、じゃあオレが少し話しをしようか。

 昔、昔、まだこの時代に来る前の話だ。
平安時代、一条天皇の御代に『命婦のおもと』という猫がいた。
これが、内裏で産んだ仔猫の一匹が、オレだ。
『馬の命婦』という人間の乳母がいたんだが、昼寝中のオレのおっかさんに
犬をけしかけて、一条天皇にひどく怒られてな、
もう、御前にも出られず引きこもってしまった。

 ま、あんまりうちのオニババ、いじらんといてくれ。
むずかしい話をすると、頭が煮えてしまうんでな。
第一、教区にいる頃から、真面目な話のできん お笑い講師で有名やったんや。
オレとの漫談ぐらいでかんべんしてやってよ。
 スティック、返すよ。後は、
初心者殿  ヨロシクお願い申す。

80トキ:2011/08/04(木) 20:15:33 ID:SO3fpWEI
>>79

 八百比丘尼様は寝込んでしまいましたか。それは仕方がないですね。
では、鈴夜様、八百比丘尼様の代理でお願いできないでしょうか?

 お題は何でもいいですよ。難しい話でなくてもいいです。

81トキ:2011/08/04(木) 21:44:30 ID:SO3fpWEI
 八百比丘尼様が寝込んでしまわれたので、急遽、初心者様がトーキングスティクを
持って下さる事になりました。皆様、拍手と歓声でお迎え下さい!

 では、初心者様、宜しくお願いします。

82初心者:2011/08/04(木) 22:59:08 ID:4IaAZAME
司会者がついて、なんとなくスターになった気分でございます。
ではみなさま、これから、きわめて個人的なつまらぬ話をさせていただきます。
わたくし、じつは中森明菜ちゃんの大ファンなのであります。デビュー当時の明菜ちゃん
については、かわい子ちゃんにしては歌がうまいな、といった程度の関心しかありません
でした。

かわいくて歌がうまい。そこそこの関心ではありましたが、のめり込むというほどでは
ありませんでした。そんな明菜ちゃんがヒット曲を連発し、レコード大賞も、たしか2年つづけて
受賞いたしましたよね。そんなある日、この掲示板でもしきりと話題となっている女子高生
ネタとなるのですが、とある女子高生から、明菜ちゃんのヒット曲満載のカセットテープを
プレゼントされたのでありますね。

女子高生からもらったテープということで、それはそれは熱心に聴いたものであります。
飽きるほど聴いて、じっさいに飽きてしまったのでありますが、それがここへきて、ふたたび
明菜ちゃんに熱をあげるという怪現象が起きてきたのでありまする。

いつのころからか、明菜ちゃんは「歌姫シリーズ」というCDを出してらっしゃいますよね。
この「歌姫シリーズ」にはまってしまったのでありますね。
これまでわたくしは、生長の家を辞めて四半世紀がたつと述べてまいりましたが、ほんとう
は、四半世紀までまだいくらかあります。なのになぜ「四半世紀」という言葉を使いたがる
のかといえば、明菜ちゃんの「歌姫シリーズ」に『楽園の女神』という曲がありまして、
この曲がなんど聴いてもいい曲だからなのでありますね。
とりあえず聞いていただきましょう。

http://www.youtube.com/watch?v=FQzuDl3ewaU

この曲の歌詞に「人知れずすごしたハレアカラ半世紀」というのがあるのですね。
「ハレアカラ」とはハワイの地名のようでありますが、CDを聴いておりますと、
「人知れずすごした晴れやかな半世紀」と聞こえてまいります。
これがわたくしの理想の女性像でありますね。チャラチャラと町なかを出歩くのでは
なく、絶海の孤島で人知れず半世紀ものときをすごした女性。神秘のベールにおおわれた、
このような女性に、ひそやかなあこがれを抱いてしまうのでありますね。

あこがれの女性に一歩でも近づきたい。そんな思いを込めて、「四半世紀」という言葉を、
あえて使っておるのであります。
『楽園の女神』。それはわたくしが理想とする女性の姿をあらわしているのでありますね。
人知れず800年のときをすごした。こういう女性もまた、あこがれの女性であるのかも
しれません。

まだまだ続きますよ。

83初心者:2011/08/05(金) 15:53:08 ID:4IaAZAME
きのうの続きです。
中森明菜ちゃんが大好き。簡単にいえばそういうことなのでありますが、その大好きな
明菜ちゃんをどうやって聴いているか、じつはこれが今回のテーマなのであります。

わたくしは、明菜ちゃんの歌声をミニコンポで聴いております。このミニコンポには、
ハードディスクが内蔵されており、CDを録音して聴いております。もちろん、聴くのは
明菜ちゃんだけではありません。最近の歌手では、槇原敬之、あさみちゆき、中島美嘉、
矢野真紀が好きでありますね。ほかには、コブクロ、スキマスイッチ、絢香といったところも
聴きます。いちばん古いのは、アメリカのトミー・ドーシー楽団で、かのフランク・シナトラも
在籍したことがあるという、由緒ただしきビッグバンドでありますね。

それでこのミニコンポでありますが、見た目はチープという印象であります。10万円も
しないような普及機でありますので、いたしかたのないところでありますが、オーディオ
機器というのは、じつのところ高級感が売り物であったはずなのでありますね。

日本の重家電メーカーもオーディオ製品には特別な思いを寄せてきたようで、オーディオ
機器専用のブランドを設けておりましたね。パナソニックはテクニクス、三菱はダイアトーン、
東芝はオーレックス、シャープはオプトニカ、日立はローディーというように、ソニーをのぞく
家電各社は、他の家電とは差別化する独自のブランドを設けておりました。

どこが違うのかというと、それが「高級感」なのでありますね。音量調整のためのツマミ、
これも「アッテネーター」と称しておりまして、その精密、精巧なつくりによって、カシャッ、
カシャッと、快適そのものの操作フィーリングが約束されておりました。

昨今のミニコンポには、残念ながらこうした高級感は期待できません。操作じたいがリモコン
ですから、操作フィーリングもへったくれもないわけでありますが、見た目も安上がりで、
どこから見てもチープといった印象がぬぐえない仕上げになっておりますね。

でも問題はこれだけではないですね。問題はそれがデジタル家電だということなのですね。
デジタル家電の特徴は、すべての操作がOS(オペレーションソフト)まかせということなの
ですね。人間は、製品にたいして何もできませんね。電源のオンオフでさえOSまかせであり
ますね。

たしかに便利ではあります。ハードティスク内蔵であれば、CDをいちいち抜き差しする必要は
ありません。リモコンで曲を選びさえすれば簡単に再生できます。あらゆる操作がリモコン
ひとつでできますから、便利であるのはたしかでありますが、しかし、それらの操作は、すべて
がOSまかせでありまして、人間は、装置にたいして手も足も出せないというのが、悲しむ
べき事実なのであります。

ボリュームの上げ下げにしてもOSにやってもらうしかありませんね。人間は、デジタル家電に
たいしましては、どうしようもなく無力な存在なのでありますね。明菜ちゃんの曲を聴き
ながら、けっしてぬぐいさることのできない無力感にさいなまれるわたくしなのであります。

トミー・ドーシー楽団の “ I’m getting sentimental over you” 聞いてくださいませ。

http://www.youtube.com/watch?v=67XIT6f0KDE

まだ続きますよ。

84初心者:2011/08/05(金) 19:36:17 ID:4IaAZAME
話を続けます
デジタル家電は人間を疎外する。こういうことなのでありますが、ではアナログ時代は
どうであったのか、そのことについてこれからふれてみたいと思います。

アナログレコードの時代には、レコードプレーヤーと呼ばれる再生装置がありましたね。
プレーヤーにレコードを載せて、その上に針を乗せて聴いていましたね。

高級機では、プレーヤーといわずにターンテーブルといいます。ターンテーブルには、
先っぽにレコード針がついた、トーンアームと呼ばれるパイプ状のパーツがついております。
トームアームは固定されておらず、上下左右に自由に動かすことができますね。ようするに、
トーンアームはグラグラの状態で、ターンテーブルの上に乗っけられておるわけです。

先っぽのレコード針は交換が可能です。この部分はカートリッジと呼ばれています。トーンアーム
からカートリッジをはずして、べつのカートリッジに交換することで音色のちがったサウンドを
楽しめるようになっていたのでありますね。

わたくしは、2本のカートリッジを使い分けておりました。シュアーのV15タイプⅢと、
エンパイアの2000EⅢの2本です。V15とは「バーティカルトラッキング15度」の略で、
レコード盤と針が15度の角度で接するという、カートリッジの名門、シュアー社自慢の一品で
ありました。

なぜ2本だけなのかというと、カートリッジは交換が非常にメンドウであったのですね。
さきほども申しましたように、トーンアームは、上下左右にグラグラの状態でありまして、
固定されてはいません。この先に、重量のあるカートリッジをつけたらどうなるでありましょう。
いうまでもなく、先端がカートリッジの重みで垂れ下がりますね。

このままの状態でレコードに針を乗せますと、重みでレコードが削られてしまいますね。
それをふせぐために、カートリッジがついている側とは反対側の先端に錘(おもり)が
ついておりまして、これでシーソーのようにバランスを取るのであります。

錘は回転式で移動させることができますので、微妙に回転させながら、まずはトーンアーム
が水平になるような位置に、錘を移動させます。左右のバランスがとれたら、ここで一休み
します。この状態では、トーンアームは水平になってますから、先っぽの針は、レコード盤から
浮いていますね。もちろん音は出ません。

錘の先端部分には、さらに回転するべつの部品がついております。なんともややこしい装置で
あることがおわかりいただけますでしょう。この部品には目盛りがついておりますので、
目盛りがゼロになるように、この部品だけを回転させます。「だけ」というのは、錘も一緒に
回転させてしまいますと、せっかくバランスをとって水平にしたトーンアームがどちらかに
傾いてしまいますね。ですから、この部品だけを回転させて目盛りをゼロのところにもって
いかなくてはなりません。

ゼロというのは針圧のことですね。針圧とは、どれだけの圧力が針の先端にかかっている
かということです。今はまだトーンアームは水平ですから、針圧はゼロであります。通常の
カートリッジであれば、適正な針圧は1グラム少々であります。この針圧でレコードをひっかき
ます。それぞれの人の好みで針圧を調整します。

調整の方法は簡単です。錘を回転させて移動させれば、トーンアームのバランスがくずれます。
カートリッジの側が下にさがるように錘をまわします。このとき、さきほどの目盛りも一緒に
回転するようになっていますので、この目盛りが1.1グラムとか1.2グラムとかを指すように、
錘を回転させればよいのですね。ようするに、カートリッジのある側が、反対側よりも1グラム
ほど重くなるように、左右のバランスを調整すればよいということなのであります。

これで適正な針圧が確保されました。いよいよレコードを聴くことができるのかというと、
まだやらねばならぬことがあるのでありますよ。

続きます。

85初心者:2011/08/05(金) 19:36:59 ID:4IaAZAME
いよいよ大詰めですね。
カートリッジの針圧は調整できました。あとにはどんな問題がのこるのでありましょう。
回転するレコードに針を落とします。そうすると、レコード針を、トーンアームごと、レコード盤の
中心に向かってすべらそうとする力が働くのでありますね。

この力を「インサイドフォース」といいます。この力によって、じっさいに、トーンアームが
レコードの上を横すべりするということもあるでしょうが、たとえそういうことが起こらない
にしても、音質には微妙に影響しそうですね。そこでこのインサイドフォースを打ち消す
必要が出てくるのでありますね。

打ち消してくれるのが、インサイドフォースキャンセラー、あるいはアンチスケーティングと
呼ばれる装置であります。インサイドフォースの大きさは針圧によって変わってきますので、
設定した針圧に応じて、インサイドフォースキャンセラーの値を調整しなくてはなりません。

調整といっても難しいことではありません。インサイドフォースキャンセラーのダイヤルを
まわして調整する。これを忘れなければよいということでありますね。あとは、ターンテーブル
の回転数を調整すれば、これでようやくレコードを聴くことができるのでありますね。

このように、カートリッジの交換はメンドウな作業でありますので、2本でも十分であったので
あります。さて、では、このことから、わたくしは何を言いたいのでありましょう。それは、機械式のカメラや腕時計がいまだに人気であることからもおわかりでありましょう。

機械式のカメラは金属製で、シャッタースピードと絞りの決定、ピントあわせをすべて自分で
こなさなければなりません。金属製の機械をじかにいじる。この操作フィーリングがマニアには
たまらないのでありますね。

機械式の腕時計には、ストップウオッチがついたクロノグラフだけでなく、複雑時計と呼ばれる
高級タイプのものがありますね。複雑時計は、永久カレンダー、ミニッツリピーター、
ムーンフェイズ、パワーリザーブといった精巧な仕掛けが、ステンレス製の小さなケースの
なかで、機械的に動作しつづけておるのでありますね。この仕組みが、きっと、とろけるような
喜びを所有するものにもたらすのでありましょう。

人々に何が起こっているのでありましょう。それが「ひきこもり」だとわたくしは考えます。
人間は、高級感あふれるアナログ仕立てのオーディオ機器や、機械式のカメラや腕時計の
世界にひきこもることができるのでありますね。何かのなかにひきこもりたい。人は誰もが、
こんな願望を、心のどこかでつねにいだいているのではないでしょうか。

人は、デジタル家電に夢中にはなれても、そのなかにひきこもることは、けっしてできないで
ありましょう。じかに操作する。こうした身体的なつながりがなければ、機械のなかに
ひきこもろうとは、誰も考えないでありましょう。

ようは感触なのでありますね。身体的な接触が心地よければ、ひきこもりもまた心地よい
体験であるということでありますね。心地のよいものにひたっていたい。これがきっと、
誰もがもつ願望なのでありますね。
絶海の孤島に、半世紀ものあいだ人知れずひきこもりつづけた楽園の女神。
そこにはいったい何があったのでありましょう。

長々と書いてまいりました。こんなに書いてしまって、はたして参加者はおられるのでありま
しょうか。長すぎて、ややこしすぎて読む気がしない。そんなところではありますまいか。
みなさま、ここは、他者への忍耐と寛容をやしなう場でもありますよ。
参加者がいなくてもよろしいです。書いただけで、わたくしはすっかり満足してしまいました。
このままスティックをお渡ししてもよろしいでございますよ。
トキ様、いかがいたしましょう。何かご質問があればどうぞ。

そうそう、サンヨーのオーディオブランドはオットーでしたね。忘れるところでした。

86トキ:2011/08/05(金) 20:11:39 ID:Xyebz.6o
 初心者様、ありがとうございました。

初心者様のご投稿について、質問がありましたら、お願いをします。
また、共感する意見があれば、どんどんお寄せ下さい。

 なお、御質問が投稿されましたら、司会者がいなくても、
ご返答下されば幸いです。


 最初で、皆様、書きにくいでしょうから、司会から感想を。
とりとめもない感想ですが、お許し下さい。

 中森明菜さんは、「少女A」の頃から覚えています。懐かしいです。

 昔のオーディオは、真空管を使っていたものもありました。
(レコードの針などはナガオカという会社がありましたね。)
 初心者様のご文章を拝読しながら、昔を思い出して、
 何か、個人的にも、じーんと来るものがありました。

 オットーとかテクニクスとか、オーディオのブランドは、それ
自体が一つの「夢」だったと思います。憧れましたね。テレビの
コマーシャルも高級感を訴えるものでしたし、電器店に行き、
パンフレットをもらうだけでもワクワクしました。
 
 デジタル時代の到来で、ネットで音楽がダウンロードできる
時代になりました。それ自体は否定できないのですが、その反動
として、アナログ的な機械がどんどんと後退をしています。
 つまりは、「引きこもる」場所が少なくなる、という
寂しい時代なのかもしれません。

「引きこもる」という表現はとてもピッタリだと感じます。
そういう場所を、誰もが密かに求めていると思います。

 このデジタル時代になっても、まだ、レコードプレーヤー
は販売され、売れています。機械式の時計も、フィルムの
カメラを愛用している人がいます。その点の心理を適切に
説明をして下さった初心者様に深く感謝申し上げます。

87トキ:2011/08/05(金) 20:19:16 ID:Xyebz.6o
 追加すると、個人的には、初心者様のご文章は、一読了解、よく趣旨が理解できました。
最初は明菜ちゃんから始まりましたが、最後は締めて下さり、感銘を受けました。
よい内容だったと思います。
ありがとうございました。

88義春:2011/08/05(金) 20:36:22 ID:SjZg29/2
>>85
初心者さま
く、詳しい…詳しすぎます(汗)

だけど…分かります。
初心者さまとは一寸ちがいますけど。
私の仕事は事務方で予算ないから、
法的な資料整える為のシステム入れる
金もないから、エクセルでシステム作り上げたンですよ。
Vlookupという関数を駆使してるだけなんですが、
それを作ってる時なんかは、機械の中に
ひきこもりしていたんだと想う。
だって、心地よくて6時間くらい、
ほぼじっとパソコンの前になってましたから。

それが矛盾せずにシステムとして
機能し続ける事にスゴく感動した気分でした。

まぁ…上司にはビビられましたけど(笑)


他人からは人好きだと思われがちな私なんですが、
私の場合は矛盾した部分が矛盾せずに存在するという性格上、
外に出っぱなしと完全ひきこもりの部分が共存してしまってて、何となく分かりますよ。

確かに、人と触れていると楽しいは楽しいのですが、

人と触れ合い過ぎて
自分自身がなくなってしまう
様な時もある。

だから、機械と触れ合う事で、
自分を見詰め直す。
その機械に自分自身がある。

何となくですが、ある種、
座禅を組んでいる様な
気持ちになりますよね?

もし違ってたらすみません。

89トキ:2011/08/06(土) 09:08:38 ID:QF0tSrb6
 おはようございます。
 初心者様のお話については、質問がないようですので、トーキングスティクを
受け取る事にさせていただきます。初心者様、ありがとうございました。

 さて、次にトーキングスティクを持ちたい方はどなたでしょうか?
自薦他薦、受け付けます。宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

90トキ:2011/08/06(土) 12:13:41 ID:QF0tSrb6
 ごめんなさい。

>>89は取消ます。引き続き、初心者様、よろしくお願いします。これから出かけますから
帰ったら続きを書きます。

91トキ:2011/08/06(土) 14:07:40 ID:QF0tSrb6
>>90

 初心者様、失礼をしました。深くお詫び申し上げます。では、続けたいと思います。
義春様の感想について、コメントなどありましたら、お願いします。

92初心者:2011/08/20(土) 22:37:15 ID:4IaAZAME
トーキングスティックボードは、ねばってみましたが、閑古鳥が鳴きつづける
ばかりでありますね。そろそろスティックを手放すことにいたします。

とりあえずコメントをいただいたみなさまにお礼を申し上げます。
トキ様の話を聞いておりますと、昔の情景がよみがえってまいりました。
電気店のオーディオ売り場に足しげくかよい、あれもこれもと視聴していたころの
自分を懐かしく思い出しました。古き良き時代でありましたね。

個人的には、オーディオ機器にひきこもっておりましたですね。
見てよし、聴いてよし、さわってよし。一般の家電とは差別化されたオーディオ機器は、
五感の欲求を、高いレベルで満足させてくれておりましたですね。
ひきこもるにはもってこいのエンタテイナーたちでありました。

義春さんは、昔のことをご存じないので、「ひきこもる」ということに焦点を
あてて共感してくださいましたね。機械にひきこもるあの感触は、やはり
男どうしでなければ理解しあえないものがあるのでありましょうね。

デジタルの場合は、どちらかというと作業に没頭するということになるのでしょうか。
機器の持つ質感や操作フィーリングを味わったり、あるいはブランドイメージへの陶酔
という、宗教的ともいえる感覚にひたりきることができるという意味では、デジタルよりも
アナログのほうが、個人的には上回っているという気がいたましす。

義春さんも、ご自身のことをアナログ的だとおっしゃっておれたと思うので、この
あたりの感覚にも共感していただけるものと思っております。

長々とスティックを持ちつづけてしまいました。このボードもすっかり忘れ去られた
ことだろうと思います。それでも、存在することにこそ価値があります。みなさま、
ここは理解と共感の場であります。気が向けばいつなりともお越しくださいませ。
一同、心よりお待ちいたしております。

では、スティックを手放すことにいたします。トキ様、あとはよろしくお願いいたします。

93トキ:2011/08/20(土) 22:58:03 ID:aBkaGUDo
>>92

初心者様

 ご投稿、ありがとうございました。了解しました。あまり気にしないで下さい。
興味深い内容でした。あまり型にはめるのも面白くないでしょうし、言いたい事がある
人が自由に書くのも良いかと思います。

 デジタル化は便利になりましたが、レコード屋さんが消え、写真屋さんが消え、電器店
が消える結果とありました。進歩の代償というものを考えざるを得ません。初心者様のご
指摘には共鳴します。

 では、次の”トーキングスティク”を持ちたい人は、どんどん名乗り出て下さい。

 例えば、「百万運動」とか「森のオフィス」についても良いです。また、「みんなが総裁
の悪口を言っているけど、本当はいい人だ」「優生保護法改正の理想を忘れるな!」でも
良いです。

 自薦他薦を問いません。どんどん、立候補をお願いします。

合掌 ありがとうございます

94トキ:2011/08/21(日) 18:28:35 ID:8IS2Bob.
>>93

 えー、今の段階では、名乗り出る方がおられません。ですから、こちらで提案をしたいと
思います。復興G様、たとえば榎本先生の事で想いを語られる、というのはどうでしょうか?
もちろん、題材は原則自由です。よろしければ、申し出下さい。

95復興G:2011/08/22(月) 10:35:37 ID:Ir7svY6w

>>94 :トキ様

>提案をしたいと思います。復興G様、たとえば榎本先生の事で想いを語られる、というのはどうでしょうか?

──私は今、別のかなり時間と精力を要する仕事(ボランティアですが)が入りまして、それにかからなければなりませんで、ご遠慮させていただきます。

他の方、どうぞよろしくお願いいたします。

96トキ:2011/08/22(月) 14:08:20 ID:brgDvfPo
>>95

復興G様、了解しました。どうも勝手に指名をして、申し訳ありませんでした。
御仕事のご成功を心からお祈り申し上げます。

97トキ:2011/09/03(土) 18:43:58 ID:fwWNfuKM
 トーキングスティクを急遽、書く事になりました。不肖 トキです。
宜しくお願いします。時間をかけて、ボチボチと書きますので、おつきあい下されば幸いです。

 テーマをどうするか、少し考えました。最近、関心があるのが、カルト問題とか信仰の自由とか
の問題ですが、今回は「教区の視点」というお題でお話をさせていただきます。

 生長の家の歴史の本は、例えば、「生長の家30年史」「生長の家40年史」「生長の家50年史」
という大分のものがあります。いづれも枕になるほどの大きさです。(さすがに枕にした事はあり
ませんが)。「生長の家50年史」でも、確か、あの当時で1万円ほどした高価な本でした。、
 いづれも、優れた内容で、読むとたいへん勉強になる本です。
 そこには、谷口雅春先生を始めとした、本部の先生方のご苦労、さらには激動の時代を生長の家
という教団がどう動いたか、が生き生きと描かれています。最近では入手が難しい本ですが、
優れた内容です。

98トキ:2011/09/03(土) 19:11:28 ID:fwWNfuKM
 と、同時に、ある古い生長の家の信徒さんのお話も紹介しなければならないと思います。
その人は、戦前の入信で、生長の家の活動を50年以上もの間、続けた方です。体調を崩され
たので、最近、活動からは引退をされましたが、会員は継続をされています。

********************************************

 生長の家がここまで大きくなったのは、生長の家の信仰の素晴らしさ、谷口雅春先生の偉大さ、
本部のご努力の賜物であったのは確かだ。しかし、同時に、教区の幹部や信徒が、地道に活動を
続けたから、生長の家がここまで大きくなったのも事実だ。しかし、その観点が、最近、すごく
過小評価されていると思う。

 例えば、教化部の職員になっても、給料などは満足に出ない状態だった。だから、職員は内職
をしながら教区の事務をしていた。手が足りないと、時間のある信徒が交通費や食費も自腹で作業
を手伝ったものだ。それでも、みんな、喜んで奉仕をしていた。
 活動費もほとんどなく、地元の金持ちの信徒が自発的に寄付をしたケースが多かった。
とにかく、貧乏だったが、信徒はみんな助け合い、家族のような気持ちで活動をしたものだった。

(つづく)

99トキ:2011/09/03(土) 19:20:36 ID:fwWNfuKM

 立教当初は、生長の家本部も、教区の存在や役割りをある時期までは正当に評価していた。
ご講習会で谷口雅春先生が教区にお越しになった時のお食事も、運営委員全員と同じ場所で
同じお食事を召し上がったと聞いている。実際、その写真も残っている。

 戦前、戦後のある時期までは、谷口雅春先生も、本部の先生方も、家族のように親しく
交流する事が出来た。吉田國太郎先生でも、戦前はまだ体調が良かったので、講演のあとに
青年部(当時)の人達と一緒にハイキングに行かれた写真が残っている。

 しかし、生長の家が大きくなり、組織指導が強化されると、急激に中央集権化され、
教区の信徒の意見が無視される事が多くなった。特に講習会の割当や神誌の拡大など
無理に無理を重ねる運動になった。
 この中央集権化は年ごとに強化され、最近では、教区の自主的な動きを封印するよう
な姿勢が目立つ。

 このような、支配と被支配の関係は、本来の生長の家の組織のあり方ではない。

 もう一度、この点を考え直す必要はあるのではないか。

***************************************

(今日はここまでです)

100トキ:2011/09/03(土) 19:22:41 ID:fwWNfuKM
>>98

 この文章は、戦前から戦後初期の生長の家の教化部についての記述です。失礼をしました。

101トキ:2011/09/04(日) 16:41:29 ID:MvGY3c36
 すみません、復興G様より、トーキングスティク板への登場御希望の申し出がありました。
私個人は、一時、中断をした上で、順番をお譲りする気持ちはありますが、皆様のご意見は
どうでしょうか? 明日中にお返事を頂戴できれば幸いです。

合掌 ありがとうございます

102初心者:2011/09/04(日) 17:17:45 ID:4IaAZAME
物事にはタイミングというものがありますので、トキ様さえよろしければ、
バトンタッチなさってください。

103トキ:2011/09/04(日) 18:01:08 ID:MvGY3c36
>>102

 ありがとうございます。今日、一日、様子を見て、それで特に反対意見がなければ、復興G様に
バトンをお渡ししたいと思います。

合掌 ありがとうございます

104志恩:2011/09/04(日) 18:28:32 ID:psrFh/ZU
トキ様のお話を伺えるのも、うれしいですけれど、
復興G様の お話伺えるなんて、すごくたのしみです。

私は、観覧席の方でゆっくり静かにニコニコ
大先輩の閣下、
復興G様のお話を拝聴させていただき、勉強させていただきます。

最近、私は、入りすぎましたので、また、しばらくは、入らず、観覧者でいたいと思っております。
よろしくおねがいします。

105a hope:2011/09/04(日) 21:22:55 ID:MNrNIsM2
わたしは、生活に追われているので(笑)、なかなか全部の「板」を読むことができません。
それに、話の展開が速すぎて、ついていけないことが多いです(笑)。
でも、このトーキングスティックボードでは、先輩方のお話をじっくり聞けそうなので、大変ありがたいです。
復興Gさま、わたしも、お勉強させていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

106トキ:2011/09/05(月) 09:22:55 ID:lGFnp2B2
おはようございます。今の時点では、特に反対する意見もないようです。
ですから、トーキングスティクを復興G様にお渡ししたと思います。
 では、宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

107前監督【電信柱の影より】:2011/09/05(月) 10:43:30 ID:UodBcqiE

 復興Gさまのお話しですが、期待大です。ものすごく楽しみです。

108「訊け」管理人:2011/09/05(月) 10:44:52 ID:UodBcqiE
 107はもちろん、私です。
 現在、吉田國太郎先生御文章の修正作業を行っております。
ですんで、許してください(笑)

109復興G:2011/09/05(月) 11:15:31 ID:Ir7svY6w

合掌 ありがとうございます。

トキ様、そして皆様にお許しいただいて、このボードのトーキングスティックをバトンタッチしていただき、感謝感激です。トキ様、トーキングスティックを強奪したみたいで、すみません。(土下座し両手をついて頭を下げている花文字を入れたいんですが、ボク、若い人のようにできないんで、その気持ちだけ汲んで、お許し下さい)

     ○

さて、テーマは、

「実相独在」

としておきましょう。
固いイメージに感じられるかも知れませんが、
内容は固いものではなく、私の思いをそのまま素直に吐露噴出させていただきますので、よろしくお願いいたします。

トキ様から前に

>たとえば榎本先生の事で想いを語られる、というのはどうでしょうか?<

とお勧めいただいていたことは、必然的に出てまいりますよ。では。

   ****************

まず、その榎本先生の事から始めることにいたします。

私の中で、榎本恵吾先生というのは、やっぱり大先生でしたね。というか、今も大先生です。

もちろん、谷口雅春先生は大先生の大先生なのですが、谷口雅春先生をも乗り超えてしまったくらい「実相独在」に徹しておられた……。

「実相独在に徹する」というのはどういうことかというと、
決して「実相を拝みなさい」と言わないことなのです。

もし榎本先生から「実相を拝みなさい」という指導を受けたという人がこの世にいたら、探し出してきて下さい。100万円差し上げます。いや、100億円とでも言いたいのですが、私がすぐ出せるのは100万円ぐらいなので、申し訳ありませんが、いちおう100万円としておきます。

榎本先生は、なぜ「実相を拝みなさい」と言わなかったかというと、実相は「自性(そのままで)円満」(『生命の實相』第1巻冒頭)だから。拝まなければ出てこないようなものは、「そのままで円満」とは言えない。拝まなければ出てこないようなものは、「実相」とは言えない。

実相は拝まなくても、自ら(みずから・おのずから)現れ出てくる力を持っており、現れよう、現れようとしている。だから、われわれはただ喜ぶだけでよい。もっと喜びなさい──というのが、徹底した榎本先生の指導でした。

徹頭徹尾「現象なし」「実相独在」に徹して、「実相独在」を生ききり、説きつづけ、たくさんの人を本当に救ってこられた、私もそれで根本的に救われて来たと思うんです。

「救われる」とは、どういう状態をいうのでしょうか。
それは、一切の不安・焦躁から解放され、大安心の、喜びの境に導かれること、と言えると思います。

それは、まさに今「訊け」管理人様のブログでクローズアップされてる吉田國太郎先生の「往相精進の境を超えて」の境に超入することだと思うんですが……。

「往相精進」とは、「これでもか、これでもか」と、一心不乱に神様に近づくよう努力精進すること、と言えるでしょう。

榎本先生は青年時代、その「往相精進」をやっていた。「これでもか、これでもか」と、「悟り」を求めて猛烈な、並外れた精進努力を続けていた。──

(つづく)

110復興G:2011/09/05(月) 11:16:36 ID:Ir7svY6w
(つづき)
榎本先生の高校時代の親しい友人だったという人から、聞いたことがあります。

「(高校時代の)あるとき、榎本は焼きおにぎり7個を持参し、僕の下宿で一週間瞑想(神想観)を続けたことがあった。
すごいやつだと思った」──と。

つまり、一日一個焼きおにぎりを食べるだけで、あとは一週間ただ坐りつづけ祈り続けていたということですね。面壁九年の達磨大師を思わせます。

高校卒業後、(昭和30年代)飛田給道場に入り徳久克己先生のもとで練修生(朝から昼間は道場で働きながら修行し、夜間大学に通う)をしていたとき、道場で飼っていた鶏の世話を命じられた。そのとき「一切は自分の心の影だ。鶏を拝んで祝福して餌をやったら生む卵の数が増えたという体験があるから、君もそうし給え」と言われ、その通り一所懸命やった。けれども、卵の数は増えなかった。それでこれではまだ駄目だ、駄目だと自分を責めつづけ、ひたすら聖典を読み、これでもか、これもかと精進努力をつづけた。

そうしているうちに、高校時代の友人から、「お前は生長の家をやっていないときの方がずっと明るかった。生長の家の修行を始めたら、すっかり暗くなってしまった」と言われたことがあったそうです。

服部仁郎先生という、『生命の實相』にも出てくる生長の家初期の有名な本部講師(本部会館の元の正面玄関上に安置されている御神像の)が東京豊島区の長崎だったか千川だったか(西武池袋線東長崎駅から徒歩数分のところ)にいらっしゃって、たしか毎週誌友会をひらいていらっしゃいました。私もそこへ1回か2回は伺ったことがありますが、榎本先生は毎週通っておられたとか。

その動機について、榎本先生は『今を生きる』という日本教文社刊の新書本の座談会でこう述べておられます(名前は出ていませんが)。

「ぼくは青年会活動をやっていて、自分が先か他が先か、自分のことと青年会のこととどちらを先にすべきか、自分と世界との関係は──というようなことで悩んでしまったことがあります。そのころ、青年会の全国大会で服部先生がお山の先生といっしょに並んでおられる姿を見て、その服部先生の姿には、青年大会の雰囲気以上のものがある。一触即発の危機せまるという世界の情勢の中で、あの先生はどうしてああいう確実な、よい感じの歩を運んでおられるもだろう、あの先生の立っておられるところいったいどういうところなんだろう、とおどろきに似た思いでお慕いしていました。……いよいよ“自分の悩みを解決してくれるのはこの先生しかいない”と思いました。そんなところから、服部先生とは離れられない感じになり、誌友会に通いました」

と書かれています。

ちなみに、服部仁郎先生は鳩山一郎元総理(鳩山由紀夫さんの祖父で、総理になったときは国中に熱狂的な“鳩山ブーム”がわき歓迎された。「大調和」へと保守合同・日ソ国交回復などに大きな功績を残された)が高血圧で倒れられたとき、療養中の伊豆韮山までたびたび訪ねて直接指導され、政界復帰に導かれた方でもあります。そのことは前記『今を生きる』(日本教文社刊)の「序にかえて」でも触れられてあります。(ちなみに私はこの本の制作に深く関わったものです)

で、榎本先生はひたすらこの服部仁郎先生の立っておられるような「今」の悟りの境地に達したい、悟りたい、悟りたいと精進努力を続けておられた。

しかし、「悟りたい」という心は、「まだ悟っていない」という心であって、「まだ駄目だ、まだ駄目だ」という不安焦躁の心なんですね。

あるときふと、その心を捨てようという気になった。聖歌を歌っていたとき、ふと「悟りは明日にしよう」という思いがわいてきたそうです。

「悟りは、要らない」と悟ったということです。

(つづきますが、午後は予定があるので、あとはまた夜に。)

111復興G:2011/09/05(月) 11:48:45 ID:Ir7svY6w
>>110
でちょっと抜けがありましたね。

> 服部仁郎先生という、『生命の實相』にも出てくる生長の家初期の有名な本部講師(本部会館の元の正面玄関上に安置されている御神像の)・・・

は、

・・・御神像の彫刻制作者)・・・

と訂正お願いします。

112「訊け」管理人:2011/09/05(月) 12:17:52 ID:UodBcqiE
もし榎本先生から「実相を拝みなさい」という指導を受けたという人がこの世にいたら、探し出してきて下さい。100万円差し上げます。いや、100億円とでも言いたいのですが、私がすぐ出せるのは100万円ぐらいなので、申し訳ありませんが、いちおう100万円としておきます。
榎本先生は、なぜ「実相を拝みなさい」と言わなかったかというと、実相は「自性(そのままで)円満」(『生命の實相』第1巻冒頭)だから。拝まなければ出てこないようなものは、「そのままで円満」とは言えない。拝まなければ出てこないようなものは、「実相」とは言えない。
実相は拝まなくても、自ら(みずから・おのずから)現れ出てくる力を持っており、現れよう、現れようとしている。だから、われわれはただ喜ぶだけでよい。もっと喜びなさい──というのが、徹底した榎本先生の指導でした。


        ___
       ,∠==、ヽ `i'ー- .
      /    ヽ| 「`'ー、`ー、
       l     ミ| /   `ー、ヽ
      j     R|イ ー-、.  ノ7┐
      `Vハハハ/ヽ.「~ ̄ `''ァf‐┘
.         `、 }ー-`、__..._/::l
          `|:::::::|ヽ/l:;:;:;|
.            |::::::::l:::::::::::::::l
.            l::::::::l:::::::::::::::l
           l:::::::::l::::::::::::::l
           l;::::::::{:::::::::::::l
              `iiiiiiiハiiiiiiiij´
          ∠-、レ'ヽ〃〕

最敬礼の姿勢にて
拝読中であります。

113a hope:2011/09/05(月) 13:59:20 ID:MNrNIsM2
子どもがみんな学校に行ってくれたので、落ち着いて読めます。感謝!

榎本先生は、本流宣言の伝統さまのスレッドや、訊けブログでの記事を読んで、
すごい先生だと思いました。

読んでいると、どんどん心が軽くなっていくんです。

これからのお話が本当に楽しみです。

114復興G:2011/09/05(月) 22:15:02 ID:Ir7svY6w

榎本恵吾先生は、
「悟りは、要らない」
と悟ったといいますか、悟りを探し求める心を放ち去ったとき、世界が変わりました。『生命の實相』を拝読しても、それは今までは「悟りを求め、悟りを開くため」だったのが、「悟りは要らない」となったとき、それは前にも増して光明燦然と光り輝く聖典そのものとなりました。そこに書かれているのは谷口雅春先生が、すべての人の神の子なる本当のすがた、実相を拝み出して下さる拝みのお言葉だと、魂に響いて来たのです。

榎本先生はそうして、最も徹底した生長の家そのもの、谷口雅春先生の御教えの神髄に超入され、決して妥協することなく「実相独在」の真理を生ききって、それを死ぬまで説き続けられた方だったと、私は思います。

しかし榎本先生は、生長の家の当時の“本流”の中では、全く良い意味での変わり者でした。悪くとられると異端者のようでした。

異端者のようだった、というのは──もうすでに本掲示板の別スレッドで、『弟子像』を読んでの感想レポートなどの形で書き込みもありましたように、当時生長の家の新体制「国民総自覚運動」というものの基礎を確立する「総企画局」局長をされていた山口悌治先生のもとでも、信念に反することには徹底して反対意見を述べ、妥協することがなかった。いわゆる「新体制の運動」の基礎が、「数は力なり」ということで、教勢拡大とは具体的には数の拡大であるというのに反対意見を述べ、ただ頭数を増やそうというのは唯物論ではないか、「神の光」「仏の光」「喜びの光」の拡大でなくてはならないと、主張してゆずらなかった。そして独自の「実相独在」の信念に基づいた「生長の家人類光明化運動論」を構築し、鉄筆をもってガリ版刷りで刷って、わかってくれそうな人に配ったりしておられた。

「人類光明化運動発進の宣言」とも言われている、『生長の家』創刊号巻頭の「『生長の家』出現の精神とその事業」というお言葉が生長の家の原点だというのも必ずしも正しくないと主張された。(これは後に「実相研鑽会」という場で、谷口雅春先生も「あれは若いときに少々力みをもって書いたようだが、今ならあんな書き方はしない」というような御結語を賜っています。)

宇治別格本山に配属されてからも、たとえば、次のようなことをいつも言われてました。
  ──────────────
 人間は修行の積み重ねによって救われるのではない。修行が出来たか出来ないかということと、救われるか否かは全く関係のないこと。
 もしも神は、修行した人だけしかよう救わないというのであれば、殆んどの人類を救うことが出来ない力不足の神を認めることになって、“修行しなければ”というのは神を尊敬するのではなく、神を軽蔑することになる。
 そして、最も重大な問題は、
「修行しなければ……」という立場に立つと、修行の出来ていないと思う人を審かざるを得なくなる。「あの人も出来ていない」「この人も出来ていない」そして「自分も出来ていない」ということになって「天地一切を拝む」のではなくて、「天地一切を審く」という罪を犯すことになる。
 そして、「あの道場は……」「この道場は……」と道場同志が審き合うということが始まる。これが、多くの宗派が派閥に別れた原因の一つになっていると考えられるのである。
  ──────────────
 ──この言葉、皆さんどうお考えになりますか?
(上記は、榎本先生が宇治別格本山で研修生の指導担当をされていたとき「研修のヒント」というのを作られた、その中に記されている言葉の抜粋です。)

人工流産児の問題でも、
「人工流産は殺人だ、宿った子は生まれたかったのに、途中で堕ろされた流産児は親を恨んでいる、流産させた人は心から懺悔し供養しなければ救われない」と言って、流産児の供養をさかんに勧めていた講師が多かったようなときにも、榎本先生の指導はちょっと違っていました。何回も流産させて、「自分はひどい殺人者だった」という罪の意識で自分を責めさいなんでいる母親に対しても、「喜びなさい」という指導をされてました。
「流産児は、お腹に宿っただけでも、あなたの子宮を祝福し、光明でお家を輝かすために宿られたのですよ。流産児霊牌には、“実相光明宮○○童子之霊位”と書いてあるでしょう。実相とは神ということです。光明宮の“宮”というのは子宮のことです。神様が子宮というお宮に、輝く光明として宿られて、祝福して下さったのですよ。喜びましょう。笑っていいのですよ。笑いましょう」でした。「喜ぶことが大懺悔なのですよ」と指導されました。

(つづく)

115復興G:2011/09/05(月) 23:16:28 ID:Ir7svY6w

(つづき)

「大調和の神示」について。

「汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。……天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。……」

──え? それじゃ、「神は完全」とは言えないのじゃないの? 「実相独在」なら、「争いの念波」なんて、存在しないのじゃないの?

──そうです。「争いの念波」なんて、存在しないのです。それが、「実相独在」ということなんです。「天地一切のものは、すでに和解し調和している」というのが、「実相独在」なのです。

榎本恵吾先生は、前に引用させていただいた「研修のヒント」というのに、次のように記されています。

  ──────────────
 尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。『生命の實相』や『甘露の法雨』の冒頭に「大調和の神示」がおかれているのは、人間は「仲よくせよ」といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初によくわかるように警告を発しておくために、あの神示がおかれているのではないのであります。そうではなくて、「私が悟ってみたら、どんなに殺し合い、憎しみあっているかのように見えていても、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。ありがとうございます」と、尊くも尊師が天地一切のものを拝んでい給うことを示されたものであります。ですから、谷口雅春先生の住んでいられる世界は、すべてが神仏に観えていられるのであります。「神一元」つまり「唯神實相」論からゆけば、「今ここ極楽、天国浄土」なのでありますから、谷口雅春先生だけが悟っており、その他のものはすべて「これからみ教えによって教えて悟りに導いて彼岸に度(わた)すべき材料」ばかりが住んでいる、というような天国はないのであります。それ故、谷口雅春先生がお悟りになったということは、同時に全宇宙が悟ったのでなければならないのであります。「同時成道」なのであります。「同時成道」は釈迦の表現せられた言葉であります。お釈迦さんが悟りの眼をもってごらんになられたとき、山川草木国土悉皆成佛、有情非情同時成道と観えたのであります。そのように釈迦がすべてを拝まれたのであります。これはお釈迦様の「汝ら天地一切のものと和解せよ」の現成であったのであります。

 ……そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべてにおいて神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。
 尊師が啓示を受けられたとき、庭の木が黄金色の光りに輝き、その木の枝から枝に飛びうつる雀が金色に輝いていたのであります。このときすべての生きとし生けるものがこのように拝まれたのであります。尊師が「招神歌」において「生きとし生けるものを……」と言われるときは、このような光明生命として生きているすべてのものを拝み給うているのであります。……
『生命の實相』は、ただただそのような生命のほんとの相を、讃えに讃えて書かれたものなのであります。
  ──────────────

(つづく)

116「訊け」管理人:2011/09/06(火) 11:13:07 ID:???
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榎本惠吾先生は黒船なんでしょう。

117復興G:2011/09/06(火) 11:44:34 ID:Ir7svY6w

(つづき)

前記、「大調和の神示」について。

<尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。……云々>

と書かれているのは、榎本先生自身が

<自分も悟ってみたら天地一切のものが神そのものであったのであります。一切が神そのもので、そのまますべてが神と神、仏と仏とが抱き合って喜んでいる姿に観えて来たのであります。「大調和の神示」というのは、人間は『仲よくせよ』といってもなかなか仲よくしないから、先ず最初に神が発せられた警告、というようなものではなかった。すでに天地一切のものが和解し調和しているすがたを見て讃嘆されて、「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれているのだ。>

と思われたのだ。

「尊師谷口雅春先生」というところを「榎本恵吾」「自分」と置き換えて読んでもよいのだ。

──と、私は拝しています。

  **********

前の榎本先生「研修のヒント」のご文章で、

<神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。>

という意味がもうひとつ腑に落ちない、という声が聞こえてまいりました。

それは、空は空している、山は山している、川は川している。どじょうは金魚のまねすることねんだよなあ、と言ってどじょうしている、金魚は金魚している。というのは、そのままのいのちをよろこんで生きている、という意味であると私は思っています。だから、「神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿」というのは、今ここが神の世界であり、私たちのいのちは神のいのちなのである、もっと言えば私たちはみんな神なのである、ということになりますね。
そして、「神が神を拝む」というのは、たとえば夫婦がお互いに自分のいのちも神のいのちであり連れあいのいのちも神のいのちである、として拝み合う。そして本来の一体を実現する、ということになるのではないでしょうか。(笑)

118「訊け」管理人:2011/09/06(火) 12:23:48 ID:???
――――――――――――――――――――――――――――
それは、空は空している、山は山している、川は川している。
どじょうは金魚のまねすることねんだよなあ、と言ってどじょ
うしている、金魚は金魚している。
というのは、そのままのいのちをよろこんで生きている、とい
う意味であると私は思っています。だから、「神が神の世界で
神しているのが私たちの生きている姿」というのは、今ここが
神の世界であり、私たちのいのちは神のいのちなのである、も
っと言えば私たちはみんな神なのである、ということになりま
すね。
そして、「神が神を拝む」というのは、たとえば夫婦がお互い
に自分のいのちも神のいのちであり連れあいのいのちも神のい
のちである、として拝み合う。そして本来の一体を実現する、
ということになるのではないでしょうか。(笑)
――――――――――――――――――――――――――――

 な る ほ ど !!

 感激しております。

119復興G:2011/09/06(火) 12:59:38 ID:Ir7svY6w

(つづき)

さて、
「人類光明化運動発進の宣言」とも言われている、『生長の家』創刊号冒頭の「『生長の家』出現の精神とその事業」という谷口雅春先生のお言葉について。

  ──────────────
「自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き観はないか。自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れてゐたのだつた。一求道者としていつまでも謙遜でゐたかつた。併し今は謙遜でありたいと云ふことが自分にとつては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分はこの誘惑に打ち克って人類を救はねばならない。自分の有つてゐる限りの火で人類を救はねばならない。自分の火は小さくとも人類の行くべき道を照さずにはおかないだらう。此の火は天上から天降つた生長の火である。火だ! 自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。自分は今覚悟して起ち上つた。見よ! 自分の身体が燃え尽すまで、蝋燭のやうにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する。……(後略)」
  ──────────────

──上記の創刊号の御言葉こそ人類光明化運動の原点だ、この尊師の御言葉に応え、尊師の御跡に続け! とよく言われて来たものです。もう、耳にタコができるくらい、何千回、何万回も言われたような気がします。最近でも、信徒の気持ちを奮い立たせるにはこのお言葉を持ち出すしかない、とばかりに、使われることがあります。

 しかし、それが本当に「生長の家人類光明化運動の原点」と言うべき大切な宣言なのか。そうであるなら、『生命の實相』の最初に、「七つの光明宣言」よりもこの「発進宣言」を掲げておかれるのが当然、適当であるはずだ。しかし、生長の家の根本聖典と言われる、谷口雅春先生が編集された『生命の實相』のどこにもこの「発進宣言」は収録されていない。

それは、この「発進宣言」と言われているご文章には
「人類は今危機に頻してゐる。生活苦が色々の形で押し寄せて人類は将に波にさらはれて覆没しやうとしてゐる小舟の如き観はないか。……」
というお言葉があって、先生が起たざるを得なくなったのはまず現象の「危機」、人類の危機をご覧になったからだと誤解されやすいところがある、それは先生の真実に反するからではないか──と、疑問を呈したのが榎本先生でした。
生長の家人類光明化運動発進の真の原点と言うべきものはどこにあるか、と言えば、「現象なし」「実相独在」という先生のお悟りにある。そのことは『生命の實相』自伝篇(頭注版第20巻、132〜162頁)を読めばわかる通りだ。要約すれば、
  ──────────────
「物質はない! 知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」──「では、心はあるであろうか?」
「心もない!」──「心もなければ何も無いのか?」
「実相がある!」
「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみであるこれが実相だ」
「今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」
  ──────────────
という大濤(おおなみ)のような啓示をお聞きになって、悟りを開かれた。その時のご心境は、

  ある日、わたしは心の窓を開いて、
  大生命のみ空から光線のように降りそそぐ
  生命の讃歌に耳を傾けた。
  ああ! 声のない奏楽、声を超えた合唱
  けれどもわたしはその声を聞いていた。
  宇宙の囁き、神の奏楽、天使のコーラス。
  わたしの魂は虚空に透きとおって
  真理そのものと一つになった。
  なんという美しい旋律だろう。
  「これが真理そのものか!」
  とわたしは恍然として嘆声を漏らした時、
  「お前は実在そのものだ!」
  わたしはこう言って天使たちが
  わたしを讃える声を聞いた。

というようなご心境であった。そして──

(つづく)

120復興G:2011/09/06(火) 13:28:37 ID:Ir7svY6w

(つづき)
  ──────────────
「わたしはついに神を見出し、本当の自分を見出したのであった。
久遠不滅の大生命が自分であった。

それ以来、わたしの見る景色が変貌した。すべての存在が物質ではない、何か後光のような燭光を発するエーテルの波のような存在に見えるのだった。わたしは朝湯がことに好きであったが、朝の遅い太陽は、わたしが朝湯をあがっての帰り途、向こうの樹間(このま)からさしのぽることが多かった。
  早晨
  日光が樹間からさしのぼる、
  生命そのもののような光だ。
  うれしい!
  自分が一個の生命であることが
  うれしい!
 というような心境であった。わたしの住む世界が、景色が変貌した。

(中略)

<先生は、その悟りを発表して人類を光明化するため雑誌を発行しようと思われたが、それには月々の月給の一部を貯蓄して、それが発行維持費に達した時に始めようと思っておられた。しかし少したまると盗難に遭い、また少したまると盗難、と2度の盗難に遭われて、こんなことを続けていたら、いつ使命感を完うする仕事ができる時が来るかわからない。永久に、自分の使命感を果たさずにこの肉体は死んでしまうかもしれないと思われた。その時>

 「今起て!」という声が、覚えずわたしの頭の中で、どこからともなく降るように聴こえてきたのだ。

 「今起て!」とその声は言った。
 「今のほかに時はない。『今』の申に無限があり、無尽蔵がある。軍資金ができてから、時間の余裕ができてから、身体の余裕ができてから、光明化運動を始めようなどというのはまちがいだ。三界は唯心の現われだ。力が出ると知れば、その時すでに無限の力はなんじのものである。実相のお前は久遠の神性であり、すでに無限の力を持っているのだ。すでに無限の力をもっているのだ。」
 「だけど、それは実相のことです。わたしはまだ現象としては無力であり、現象としては資力がありません」わたしは心の中で抗弁した。
 「無力なことはない。力は与えてある。資力も与えてある。」
 「実相はそうでも、現象の自分は……」
 「現象は無い! 無いものに引っかかるな。無いものは無いのだ。知れ! 実相のみがあるのだ。お前が実相だ、釈迦だ、キリストだ、無限だ、無尽蔵だ!」
 大きな降雹のたばしるような声がわたしの頭の中でした。わたしは全身の痺れを感じた。
 久遠の今、すでに無限力であり無限知であり、仏である自覚が自分に蘇生ってきた。
 肉体は無い、物質は無い、現象は無い、実相のみ独在であると神から知らされていながら、わたしは今までやはり肉体を見ては自分だと思い、その痩せた姿を見ては自分自身を虚弱だと思い、財嚢の中の軽きを見ては自分は貧しいのだと思っていた。しかしそれはまちがいであった。天地から満ちている大宇宙の大生命がわたしの生命であったのである。すべての人の財嚢に、すべての地鉱に、全世界の金鉱に、大宇宙に満ちている無限の多宝が自分のものであって、それが必要に従って必要なだけ、自由に流通し循環して来るものであるということがわかった。
(『生命の實相』第20巻自伝篇より)
  ──────────────
──これを読めば、先生が起たざるを得なくなったのは、現象の危機の姿を見てではなく、「現象無し」「実相独在」の真理を自覚されたからであることは明らかです。

だから『生命の實相』第1巻「總説篇」「『七つの光明宣言』の解説」の冒頭に、

「生命の実相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

と書かれていて、この「總説篇」「『七つの光明宣言』の解説」の締めくくりには

「ああ、人生はなんという喜ばしさだ! わたしは諸君とともに手をたずさえて、この善き事業が大きくひろがる日のために尽くしたいとの念願で一杯です」と書かれているのです。

いわゆる「発進宣言」の雰囲気とはちょっと違いますよね。

で、前にも触れましたが、後に「実相研鑽会」という地方講師研鑽の会で、「発進宣言」をテーマにして数人の講師が所感と決意を発表した後、谷口雅春先生に御結語を頂いたとき、先生は「あれ(「発進宣言」)は若いときに少々力みをもって書いたようだが、今ならあんな書き方はしない」というようなお話をされたことがあるのです。

(つづく)

121復興G:2011/09/06(火) 15:57:27 ID:Ir7svY6w

(つづき)

生長の家人類光明化運動の出発点は、現象ではなく「実相」である。時空を超えた「久遠の今」であり、「現象無し」「実相独在」の真理である。その最初の出発点を間違えたら、全く違うところへ行ってしまうことになる。「発心(発進)正しからざれば万行むなしく施す」という道元の言葉がある。

「自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなつたのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。……」

というこの「発進宣言」を、榎本先生は、次のように解釈されました。
  ──────────────
 尊師(谷口雅春先生)はなぜ、「起たざるを得なくなったのである」と言わざるを得なかったのであるか。

 それは、“神はなぜ「光りあれ」と言わざるを得なくなったのであるか”ということと同じことである。それは神は光であるからである。光がみずから光りを表現したくなったのである。それは神以外の外部的状況によって“光あれ”と言わされたもうたのではないのである。神以外には神のわざを規定づけるなにものも存在しないのである。

 “友よたすけよ”の友の中には、あらゆる神々が入っているのである。だから、誰が来ても尊師は神として拝まれるのである。友よ、光なるものよ! という「友」は釈迦が言った成仏裡の存在なのである。

 尊師が『今、起て!』という天徠の御声をお聴きになった。そのいのちの響きを開示されたのが「発進宣言」であり、それは神なるいのちの光明として発せられているのである。

 尊師が一見、現象の危機をとらえていられるかのように見えるのは、それは、現象の不完全性、無常性、即ち非道を、そこには“何も無い”“あるのは神のみ、光明のみ”の世界を指し示されているのである。

 『生命の實相』第27巻の中の“神の子の自覚に点睛す”という章において、綱島梁川の「神の子の自覚」と生長の家の「神の子の自覚」のちがいについて述べられているところがある。
  ──────────────
 彼は「事実に面しては」という。しかしその「事実」とは伺ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」をありと観るかぎり、彼のごとく実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「われらは弱し、われらは完からず」と嘆ぜざるをえないのである。しかし、これを「事実」というのはまちがいであるのである。知れ、事実というは実相のみであるのである。だから実相の実在のみを強調し「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさいの悪を空じ去って、しかして「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは弱し、われらは完からず」と現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。
・・・・・・
「現象は現象としては在るのである」といって現象界を本体界に対立せしめたり、「本体界の自叙自展が現象界であって、本体界と現象界とは一如である、そして、現象界は本体界のうちに包摂せられるものである」というような在来の見方を脱しえないような宗教では、とうていそれは現実人生を支配することができないのである。生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、主として「現象無し」とスカッと截ち断り、実相独在を明快に斬然と主張しているからであるのである。
(『生命の實相』第27巻127〜129ページ)
  ──────────────
(つづく)

122復興G:2011/09/06(火) 15:58:47 ID:Ir7svY6w

(つづき)

 ──綱島梁川は一応神の子の自覚に達しているのであるが、“現象は現象として在るのである”というように現象を最後の一点において認めているのである。尊師が火を点ずるといわれるのは、この最後の一点を払い浄めて神の子の姿を拝み給うことなのであった。

 現象の状況の上に立って運動を展開すると、光明一元論を全力的にうち揮えなくなる。“いくら光明一元でもそれを知る人の数がこれだけという状況では”ということになって、力を抜かれ、きばを抜かれてしまうのである。情熱が出なくなる。それはまた、尊師への堅信の喪失でもある。

 尊師が大啓示をお受けになったあとの詩
「天使の声」に

“わたしの魂は虚空に透きとおって
真理そのものと一つになった。・・・・・・
「お前は実在そのものだ!」”

 というおコトバを書かれたときが、そもそもの光明化のはじまりである。これが生長の火が立ったときであったのである。これこそが初発の「発進宣言」であった。

 「自分に触れよ。自分は必ず触れる者に火を点ずる。生長の火を彼に移す。」
とは、『七つの燈台の点燈者の神示』の中の“疑わずにわが光を受けよ”ということにあたるのである。
 そして、尊師の立たれたのと同じ“光”として立つことが、神の子の一人一人に出来るのであるということを宣言されたのが同じ神示の中の
“今、すべての病人は立つことが出来るのである”という宣言となっているのである。

 尊師の開かれ給うた世界には、光明しかないのである。すべてのものの仏なる姿を祝福されて、お拝みになり給うて、その拝みの合掌のかがやきの姿としてここに『生命の實相』は輝やいているのである。それだからこそこの『生命の實相』は、「あなたはこれを読まなければ救われませんよ。神の子になれませんよ。生長の家になれませんよ。」という姿をしていないのである。却って、

 「私は、すべてのものが、はじめのはじめから、如来であることを発見したのです。何ものをもつけくわえる必要のないいのちであることを私は発見したのです。こうして私はこの本ですべての人々を拝んでいるのです!! ……」

 と鳴り響いているのである。ここに、“火を点ずる”ということの消息があるのである。
  ──────────────
(つづく)

123a hope:2011/09/06(火) 22:21:42 ID:MNrNIsM2
>前記、「大調和の神示」について。

<尊師谷口雅春先生がお悟りになられたとき、目覚めてみれば天地一切のものが神そのものであったのであります。
その心境を尊師は「汝ら天地一切のものと和解せよ」と喜びうたわれたのであります。……云々>

大調和の神示は、実は「喜びのうた」だったのですね!
そう思うと、聖教読誦の時の気持ちも全然違ってきますね!
「天地一切のものは、すでに和解し調和している」んですから、そのことをただ素直に喜べばいいんですよね!

すごいですね。
やっぱり、榎本先生はすごいですね。


119〜は、これから読みます。

今夜は、眠れないかもしれません(笑)

124復興G:2011/09/06(火) 22:39:42 ID:Ir7svY6w

(つづき)
──以上は、榎本恵吾先生の「発進宣言拝誦」というご文章からの抜粋でした。

 さて、ずいぶん長く、榎本先生のことを書いてきました。

 そろそろまとめに入らなければならないかなと思いながら、榎本先生の講話記録DVDを再生して見てたら、このところ睡眠時間が短くなってたので眠くなって、榎本先生の映像が流れてるパソコンの前で寝てしまっていました。娘から「お風呂へどうぞ」と声をかけられて、目が覚め、パソコンを止めてDVDを取り出し、風呂に入ってきました。

 さあ、榎本先生の事じゃなくて、自分は「実相独在」をどう考えてるのか、それをちゃんと言わなきゃなりませんね。

 私は、生長の家と縁が深くて、生長の家が大好きで、80年ちかくの今までの人生のうち60年ほどは、まあひたむきに生長の家をやってきたなあという思いがあります。で、100歳まで生きるとしても、そろそろわが今生の人生のまとめにも入るべきときかもしれません。

 で、生長の家って何だったのか? 榎本先生は、

 「『生長の家』とは何か。それは自分のいのちのことである。“久遠の今”において、万物はこの一点におさまっているのである」

 と、『光のある内に』という本に書かれています。

 『生長の家』の真理とは何か。「現象無し」「実相独在」で、「人間神の子」というのは「人間は神だ」ということが根本です。時間・空間のスクリーン上に展開されてる現象世界は影、映像です。その映像を映し出してる本体は、時間・空間をも作り出した元のところ、すなわち「久遠の今」なる実相世界にいて、肉体の寿命が終わっても、時空を超えて永遠に生き続けている。その「元のいのち」に汲むものは永遠に「元気」で、肉体は死んでも死なないのです。

 それが実相で、「実相独在」とは、いかに影なる現象世界では深刻な争いがあるように見えても、みんな本当は一つで、すでに大調和して抱き合ってるのが本当の姿だということ。

 青年時代によく、「生長の家に命をかける」と言ったものです。『理想世界』100万運動に命をかける、とか……。榎本先生は「生長の家に命をかける」とは、「実相独在」に命をかけるということでなくてはならない、と言っていました。私も、そう思います。これからの人生、「実相独在」に命をかけて生きたい。

 というのは、具体的には、ただ感謝、感謝で生きることになります。

<115>の中に、

「そもそも私たちは神のいのちによって誕生し、生かされていたのであります。和解のあるところ神があり給い、神のあるところ和解があるのでありました。天地すべてのものに感謝したときに神が顕われるのであります。そして天地一切のものがすでに神であることを礼拝するのが感謝であります。そしてまた天地一切が神であることを拝めるのは、自分のいのちが神であるからであります。すべてにおいて神が神の世界で神しているのが私たちの生きている姿なのであり、實相の世界で實相が實相しているのがこの世界であり、唯神實相、光明一元の教えが生長の家の教えであります。」

 とありました。空は空している、山は山している、川は川している。それぞれ光り輝いて生きている。人間は神だから、神は神の世界で神して、神らしく輝いて生きるのが「そのままの姿」だと思います。感謝、感謝で生きたい。

 「大調和(みすまる)の歌」の最後に歌われる詞、「宇宙(くに)静かなり」の「静か」とは、すべてのものが処を得ていることである。聖は聖。光りは光。神は神。人は人。すべてそのものが自らをそのものしているときを「静かなり」と言うのであります。人間は神であり、聖であり、至上であり、光りであるときを、「静かなり」というのである。
 心臓でも、異常があって動悸が大きくしているときはまことににぎやかでありますが、それは心臓のいのちが処を得ていない、充分にその働きが出来ていないときであります。心臓が処を得て、まことになめらかに作動し、人体に最もよい貢献をなしているときは、心臓があるのかないのか全く忘れられているときであります。「静かなり」とは、全くすべてのものが調和して、澄み切って、大活躍の出来ているときであります。全くの澄み切りの状態であります。それは全く気づかれないすがたであります。

 ──と、榎本先生は「研修のヒント」に書かれていました。
 私は、それで行きます。

(つづく)

125復興G:2011/09/06(火) 22:40:46 ID:Ir7svY6w

(つづき)

 最後に、榎本先生が『光のある内に』のご本の中で、「生長の家人類光明化運動の楽的展開論」序曲というところに書かれているご文章の末尾の所を引用し、かみしめたいと思います。

  ──────────────

 宇宙は何故発展と秩序を感じさせるか。それは宇宙の出発において神が間違わなかったからである。

 また、宇宙は何故、永遠の持続を感じさせるか。それは神が喜びであるからである。

 太陽は常にわれわれの上に輝く。それを見ている人間に、無理をしている感じを与えないのは、太陽は喜んで照っていることをわれわれの魂は知っているからなのである。太陽にはどこにも無理がないことを知っているからである。

 この世の中で何が一番長つづきするか。それは喜びである。喜びだけはどんなに長くつづいてもつづきすぎるということはない。人間が長つづきしてほしいと一番のぞんでいるのが、喜びということであるからだ。この内部要求の永遠の軌道に乗った生活であれば、どこまでいっても退屈したり、やめてしまうということはないのである。

 私はここに永遠につづく「生長の家人類光明化運動の楽的展開論」を試みようと思う。人類光明化運動に真剣にとり組み、一生をこの運動に捧げようとする者は、常にその運動の根本を、本源をつかもうとする。そこから運動への真に永続的な情熱と力と未来への展望が生れるからである。──

  ──────────────

 このあたりでひとまず筆を措き、皆様のご感想、ご質問などを頂きたいと思います。

 スティックを渡してくださったトキ様、応援してくださった皆々様、特に途中でも声援を書き込んでくださった「訊け」管理人さま、a hopeさま、本当にありがとうございました。

126絹ごし豆腐:2011/09/07(水) 06:44:31 ID:psrFh/ZU
復興G様

合掌。復興G様、尊いご講話、ありがとうございました。「実相独在」の真理が新鮮に蘇りました。思い切り光明を吸い込まさせていただき、幸せに存じました。

友人が、旅にでましてね、友人に「閣下のご講話、ボイスレコーダーに録っといてよ」と頼まれたもんで、ひそかに録りながら、観覧席の隅で、今まで最初から最後まで、わたしは、静かに拝聴させていただいておりました。
のちほど友人も、旅から帰りましたら、心して拝聴すると思います。

「実相独在」、実相は完全でありましても、現象は現れる。「実生活は、捨てては ならず、捨てねば ならぬ」「すべてのものは、自分のものではない。神様からあずからして戴いている」(真理7)
生ずれども私するところなし、、無心の全託を忘れぬよう、喜び、感謝の気持ちで、これからも全身全霊を尽くして祈り、自分のできる範囲で、ささやかでも実践して行きたいと思っております。

友人から、さきほど心の電話(テレパシー)がありまして、温泉で入浴してたら、どこからともなくBGMに「風立ちぬ」の曲がながれて来て、そのあとに「堅信歌」の曲が流れて来たって言ってました。
堅信歌〜”♫われ常に汝を導けば、何時のとき何処にあるも、汝は完く清く汚れず、行く道に迷うことなし。。♫”  

友人は、いま、ムーミン谷という地で、温泉巡りをしているそうです。 
で、ムーミン谷にすむ ある人から友人が、聞いた話だそうですが、榎本恵吾先生の次の著書がでるようです。ただいま編集中とか。今度のは、すごいですよ。1,000頁は、あるそうですから。
まだ、まだ、発売は先の話だそうですが。また自費出版になるのかな?めちゃたのしみですね。ときどき、恵吾記念館をチェックして見てましょうね。そのうちに広告、でるかもしれませんから。

では、さようなら

127絹ごし豆腐:2011/09/07(水) 06:53:32 ID:psrFh/ZU
わたしも、これからムーミン谷に行くところなので、返信できません。ご了承ください。

128「訊け」管理人:2011/09/07(水) 07:38:05 ID:???
>ある人から友人が、聞いた話だそうですが、榎本恵吾先生の次の著書がで
>るようです。ただいま編集中とか。今度のは、すごいですよ。1,000頁は、
>あるそうですから。


な  ん  で  す  と  !!!

チ  ェ  ス  ト  ー  !!!

129桜島:2011/09/07(水) 07:39:15 ID:???







































      (⌒⌒)
       ii!i!i   ドカーン
      ノ~~~\
  ,,,,,,,/ ^o^  \,,,,,,,,,,

130前監督:2011/09/07(水) 07:50:23 ID:???
食いよった薩摩揚げ、
思わずクチから、
落としもした!

131トキ:2011/09/07(水) 09:11:32 ID:4jTddN5Q
 復興G様、ありがとうございました。素晴らしい内容で、感激しました。

 ご覧になられた方々で、御質問がありましたら、ご投稿をお願いします。
また、感謝や応援のメッセージも歓迎です。

 宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

132絹ごし豆腐:2011/09/07(水) 11:55:38 ID:psrFh/ZU
〜ひとりごとです。お聞き流しください〜

わたしも貴康様のご講話ダイジェストを拝聴しまして、ますます貴康様のフアンになりました。数人の親戚や友人にもメールに添付して、送信しましたが、好評の返信メールが、いくつか届いています。
でも、聞きましたが、現総裁のことは、まえからみなで大批判はしてはいますが、
山ちゃん1952様には、叱られそうですが、トキ様が、おっしゃるようなかたちで、なんとか、現総裁が弟に総裁の座を、おだやかなかたちで
禅譲することにはならないでしょうが、禅譲しなければ、致し方のないかたちになってしまえば、一番いいのだけれど、と、心のどこかでみな望んでいます。生長の家の真理で生きて来たサガなんでしょうね。
神業は、顕れないのか。
まだ、こころは、ゆれたままなのです。別派ねえ、昔と違っちゃったねえと、困惑気味がの人が多くて。
(閣下によれば、すでに、自ら、実相は になりますがW)雅宣さまの本能が、ゆがめられているというのは、現象で見聞きすれば充分わかっておりますが。はっきりしなくて、すみません。

みなさまと、ご一緒に、近くに清流があって緑に囲まれたひなびた温泉で、ゆったりしたいところですね。
では、しばらく友人が待つ温泉へ行ってきます。ごきげんよう(返信、いりません。)

133復興G:2011/09/07(水) 12:05:57 ID:Ir7svY6w

>>126 :絹ごし豆腐様

ありがとうございます。
どうぞ、ムーミン谷の温泉を楽しんできて下さい。

そして、皆々様。

私も、<125>まで書き終えてから、もう何回自分の書いたものを読み返して、自分で感動していることやら。

自分で書いた気がしないんです。
何ものかに導かれて、書かされたような・・・・

これからも、何回も何回も読み返したいと思います。
榎本先生が天界から降りてきて、よろこんで、導いてくださってるのかなあ。

「宇宙(くに)静かなり」の静かな喜びが、ふつふつと湧いてきます。
ありがとうございます。

この板に書き込みをしたくなるようなきっかけを与えて下さった方々は、皆さま、天のみ使いであられたと、心から感謝しています。そして、祝福の祈りを捧げています。
ありがとうございます。

絹ごし豆腐様が
<ムーミン谷にすむ ある人から友人が、聞いた話だそうですが、榎本恵吾先生の次の著書がでるようです。ただいま編集中とか。今度のは、すごいですよ。1,000頁は、あるそうですから。>
とおっしゃってる話は、私もちょっと、「榎本恵吾記念館」サイトの管理人様からもれ承りました。その内容についても。
『弟子像』が、小さい活字でA5判564頁。その2倍ちかくの量があるそうですから、一冊ではなくて何冊かの分冊になるのでしょう。

イエス・キリストは神の福音を語られたのに当時の権力者からは憎まれ迫害された。榎本先生にも似たようなことがあったかも……現象界では生長の家の異端児のように誤解されかねない発言なんかありますから。慎重に、編集・自費出版が検討されてるようです。

私も少しはらはらしながら、期待しています。

「実相独在」にいのちかけて、私は今までより「祈り」にかける時間を増やしてまいります。
ありがとうございます。

134「訊け」管理人:2011/09/07(水) 12:12:41 ID:???
イエス・キリストは神の福音を語られたのに当時の権力者からは憎まれ迫害
された。榎本先生にも似たようなことがあったかも……現象界では生長の家
の異端児のように誤解されかねない発言なんかありますから。


                   |     |
                       _| /\|___
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        r、fl_fl         |_l________,l_|─┐      fl、_/j__
    _,. -─ ヾr‐`\‐────┤   l├───┴------ /、_j,)ソ´_
   |         ̄\ 丶 ________|   l l_______ / /      |
    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ \   |   l│        ,r'  ノ  ̄ ̄ ̄ ̄
                  \ ヽ   |   l│    , -─' ,/
               \ `r'彡三ミミ-‐'´ ̄ _,. -‐'´
                   ヽjjリ',,`ヾゞ ト、〃/´
                  ヾi,へfjン'  j
                   |.ト 。 l  。 、l
                    | トミ 主 彡'/
                    | l、  l   ,〈
                     |ノ 、 ' ,   1
                   /ゝ、__ __ノl
                  /ノ、ノ_,∠-= イ
                  T_,、_,jヽ、rソ
                   lj ヽ !ノ  ノ
                   lj  、l  l
                   |ハ ,}j,'  l.
                   l.  ハ  l
                    ll   l l   ,!
                    |l  ll.  l
                    |.l  l.  l
                     | l   l  l
                     | l  ヾ、,'
                     | ヽ、 ヾヽ、
                      |\ ヾ、シ、
                      |  |` ̄ ̄´| 

ペリーに喩えてすみませんでした(笑)

135「訊け」管理人:2011/09/07(水) 12:14:03 ID:???

一点補足を。

 復興Gさま御文章効果で、ですね、今日の神想観ですが・・・

 はじめてワクワクしました(笑)いままではなんか、力みがあったん
ですけどね。本当にありがとうございました。

136a hope:2011/09/07(水) 15:21:12 ID:MNrNIsM2

復興Gさま

わたしは、復興Gさまのお話をすべてプリントアウトして、今読んでいます。
1回読んだだけで、簡単に理解したと言いたくないからです。

でも、1つだけ今はっきり感じていることがあります。
それは、復興Gさまの主張されていることこそわたしが求めている「本当の信仰」なのではないかということです。

生長の家の先輩方、どうぞ、復興Gさまのこの素晴らしいお話にコメントをお願いいたします。

137復興G:2011/09/07(水) 16:37:54 ID:Ir7svY6w

>>135 :「訊け」管理人殿
> 復興Gさま御文章効果で、ですね、今日の神想観ですが・・・ はじめてワクワクしました(笑)いままではなんか、力みがあったんですけどね。本当にありがとうございました。

私も、貴殿に負けないようワクワクしながら楽しい祝福の祈りをして行きますよ。

>>136 :a hope様
> わたしは、復興Gさまのお話をすべてプリントアウトして、今読んでいます。
1回読んだだけで、簡単に理解したと言いたくないからです。
でも、1つだけ今はっきり感じていることがあります。
それは、復興Gさまの主張されていることこそわたしが求めている「本当の信仰」なのではないかということです。

ありがとうございます。
1人でもそうおっしゃって下さる方があることは、涙が出るくらいうれしいです。

誤字に気がつきましたので、ご訂正を。

>120 の中ほどより少し前のところで

 「今起て!」とその声は言った。
 「今のほかに時はない。『今』の申に無限があり、……

とあるところの

×『今』の申に → ○『今』の中に

と訂正をお願いいたします。
ありがとうございます。

138初心者:2011/09/07(水) 16:37:58 ID:4IaAZAME
「実相独在」がテーマでありますね。反・生長の家主義者のわたくしとしては、非常に
つらいテーマであります。ですが、ここは理解と共感の場であります。なにがあろうとも
理解し共感するよりほかはありません。

「実相独在」とは、ようするに、バカボンのパパでありますね。「これでいいのだ」。
難しいことはさておき、ひと言でいえば、「これでいいのだ」でありますね。

「実相独在」といわれると、実相以外には何もないのかと、反発したくなります。
実相でないものがあってもよいではないかと、このようなこと考えます。
勝手に決めつけるな。こういうことなのであります。
しかし、ここが理解と共感の場である以上、どのような決めつけも、認めないわけには
いきません。

おっしゃるとおりであります。実相は独在であります。
しかし、難しく考えることはありません。これはバカボンのパパなのです。
「これでいいのだ」。なんだ簡単なことではないですか。
「実相独在」。認めましょう。
これでいいのですね、復興G様。

139「訊け」子:2011/09/07(水) 17:52:48 ID:UodBcqiE

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65572497.html

初心者さあ、そいはルール違反でごわんど(笑)

140「訊け」管理人:2011/09/07(水) 17:59:58 ID:UodBcqiE

 パパ生誕以前の、久遠不滅なるところのバカボンのパパ。

141初心者:2011/09/07(水) 18:26:01 ID:4IaAZAME
トーキングスティックボードはさすがに厳しいでござる。
信条をまげねばならぬ。これは、いかにしても堪えがたいことでござる。

あせることはありますまい。もちっと時間をいただきたい。

142トキ:2011/09/07(水) 20:23:26 ID:4jTddN5Q
 いやー、皆様のご意見、すばらしいですよ。
もう少し復興G様のお話も聞いてみたいです。

 他の皆様も感想や質問等、どんどん投稿をして下さい。

合掌 ありがとうございます

143トキ:2011/09/07(水) 20:37:19 ID:4jTddN5Q
 あ、ちなみに批判はご遠慮願いますね。

管理人敬白

144復興G:2011/09/07(水) 20:54:57 ID:Ir7svY6w

>>138 :初心者様

コメントを下さったご愛念に、深く感謝します。
しかし、私、漫画やアニメのこと不勉強で、バカボンのパパを見てないもんですから、自信を持って
「それでいいのだ!」
と言えないことをお許しください。

しかし、考えてみれば、今回のテーマは、トーキングスティックボードのテーマとするのにふさわしいテーマだったかどうか、むつかしいテーマだったなあと思っています。
というのは、「実相独在」とは、「現象無し」つまり人間の五官、眼耳鼻舌身でだれでも認識できる五感の世界を「ない」と否定して、それを超えたものを全生命的に把握する、いわゆる「悟り」の境地にかかわるものですね。だから、通常の感覚の「理解」とは次元の違う理会というか、そんなことが求められるとすると、完全に「理解と共感」が得られたと感じられるまでやるとなれば、とても難しいということかも知れません。

で、
>あせることはありますまい。

私もあせりはしませんし、ある程度でスティックをお返しするつもりではいます。

ルールについては、あまりきびしく考えずに、皆様、楽にご感想などを発言いただいてもよろしいのではないでしょうか。もちろん、ご質問も大歓迎です。

初心者様にもせっかく愛念をもってご発言いただいたので、少しでも「理解と共感」を進めることができますように、後ほど私の体験など少し書かせていただきましょう。ちょっと風呂に入ってきます。

145義春:2011/09/07(水) 23:01:28 ID:iu5Ar./Q
参考においておきますね〜
http://www.youtube.com/watch?v=zXtpHLqbzHs&amp;feature=related
ちなみ私の十八番なんですよねw
歌詞に突っ込みながら歌っていますww

146復興G:2011/09/08(木) 06:44:07 ID:Ir7svY6w

>>142 :トキ様
> いやー、皆様のご意見、すばらしいですよ。
> もう少し復興G様のお話も聞いてみたいです。

ありがとうございます。
では。

>138(初心者様) の
>「実相独在」とは、ようするに、バカボンのパパでありますね。「これでいいのだ」。

というご質問に一言でお答えしようとするなら、それは
そのとおり、「それでいいのだ!」ともとも言えるし、
「No」 とも言える、ということになろうかと思います。

(義春さん、<145>ありがとうございました。見させて頂きました。でも、「バカボンのパパ」とは何かをくわしく理解しようとしますと、スティックを初心者様にお渡ししなければならなくなりそうですが)

「天才バカボン」のアニメを少し見ての感想としては、面白くて、まず「それでいいのだ!」と言いたくはなります。現象界に出てくるすべてものの源は、形なき無限の形を蔵している実相世界にある。バカボンのパパの元祖は赤塚不二夫さんだけど、今はたくさんの人から派生作品バカボンも生まれてるそうですね。それぞれ、見えない無限の(夢幻の)世界からアイディアが天降って作品化され、楽しませてくれているのでしょう。実相世界は無限に楽しい喜びの世界でもありますから、「それでいいのだ!」とも言いたくなります。

しかし、限定された形の世界に出てきたものをつかんで、「それでいいのだ!」と言えば、「それだけじゃないだろう!」ということにもなろうかと思います。

禅語に「説似一物即不中」ということばがあり、「これが仏だ」「これが悟りだ」と一物を示せば即ち中(あた)らず、外れてしまっているという意味だそうです。榎本先生は、

「これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中(あた)っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
 自分が光明一元のいのちに帰ったときに、すべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。」

と、「発進宣言拝誦」の中に書かれていました。

実は、昨夜私はある方と電話で問答をしていました。その方は長年生長の家を勉強してきた方で、結婚せずにもう60歳になった方。ずっとお母さんと二人暮らしをしていたのですがお母さんが亡くなられ天涯孤独となり、ひたすら永遠の真理について究めようとされており、榎本恵吾先生の書かれたものも色々私がさしあげたので読んでおられて、ときどき電話をかけて来られ、「こういう解釈でよろしいのでしょうか」と質問をしてこられるのです。

昨夜の質問は、いくつかありましたが、その中に、こういうこともありました。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に入っているある地方講師の方から、いつも「学ぶ会」の月刊誌を送ってこられ、入会を勧められているのだそうです。最近もそれがあった。学ぶ会では、谷口雅春先生を忠実に学び、そのお志を継いで実現しようとしている。先生は帝国憲法復元を叫ばれたからそれが正しいと学ぶ会の方は言われるけれど、そんなことは不可能ではありませんか。とか、谷口雅春先生の戦前のご文章に、「爆弾三勇士」を肯定されてるようなところがある。それって、自爆テロを肯定することになりませんか、というような質問もありました。

それに対するお答えは、まさに前記
「これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中(あた)っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
 自分が光明一元のいのちに帰ったときに、すべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。」
ということになりましょう。ですから

「爆弾三勇士」は、形から見ればまさに自爆テロの元祖でしょう。しかし、「自我を死にきって愛を行ずる無上の喜び」を知った人(谷口雅春先生)は、その無限歓喜の境地を伝えたくて、あるときには「爆弾三勇士」の心を肯定するようなご文章を書かれた。それらは皆、現象の言葉では伝えきれない実相の悟りの境地を指し示そうとされる、倶てい和尚が立てて示した指のようなものだ。「説似一物即不中」で、指を立てればよいと形だけ真似したのでは駄目なのである、ということになりましょう。

(つづきます)

147復興G:2011/09/08(木) 07:54:31 ID:Ir7svY6w
(つづきです)

また、前述の方の質問の続きですが、榎本先生は「実相独在」だけを説かれ、いわゆる横の真理「心の法則」、「現象は心の影」というのは「影だから気にしなくてよい」ということだと言われています。しかし谷口雅春先生のご文章には、必ずしもそうでないことも書かれている。たとえば『人生を支配する先祖供養』のはしがきには

「原因があれば結果を生ずる。これは宇宙の大法である。それを仏教では『因果、昧(くらま)さず』と教えているのである。悪業を重ねながら現世に於いて悪果が出て来ないからとて、人生を馬鹿にしてはならないのである」

と、脅しのような言葉も書かれているので、心が動揺しています、と言われるのです。

親鸞聖人は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言われたのである、だから「南無阿弥陀仏」と唱えれば悪人もみんな救われて極楽浄土へ生まれることができると説かれていて、わが家は浄土真宗ですからそれを信じて母の供養をしているのですが、それでいいんでしょうか、という質問なのでした。

私は、
「それでいいんですよ」
とお答えしました。

谷口雅春先生のお教えを否定するわけではありません。谷口雅春先生は、あの手この手の方便説法も使われて、最高の自由の境地、悟りの境地の喜びを伝えようとされている、と思います。自由自在なのです。私たちは形に引っかかっていたら自由になれないのです。

「実相独在」というのは、<144>で書きましたように、だれでも認識できる五感の世界を「ない」と否定することと表裏の関係なのですね。それは、五感の世界、現象世界を「あり」と認めていたら絶対に得られない自由と喜びが得られる真理なのだけれども(キリストも“真理は汝を自由ならしめん”と言った通り)、本当にそう思えるようになるのはとても難しいといえばむつかしい。

もちろん私にも、とても難しかったです。

でも、ふと気がついてみれば、なあんだ、このことだったのか、コロンブスの卵みたいなものだったなあ、と世界が開けるような感じで──。

「実相独在」ということが、五感の世界、現象世界をありと見ている人に、普通の頭脳知でも理解納得されるようにと、谷口雅春先生は『生命の實相』等の聖典で、これもか、これでもかとあらゆる方便智を尽くしていろいろな方面からお説きくださっています。
す。

たとえば、『新講甘露の法雨解釈』などで図解されている映写機にかけられたフィルム、光源、レンズ、スクリーン、そこに投影された映像。その映像が現象であって影に過ぎないということ。これは、私にも理屈でなるほどと納得することのできるものでした。
時間・空間というのはこのスクリーンにあたるもので、これも本来ナイものだということ。

現象界のすべてのものは時間・空間のスクリーンに投影された影だ。そのスクリーンが本来無いものならば、そこに投影された映像が本来無いのは当然です。

それで現象人間には誕生日があって、必ず終わりの時もある。しかし、実相世界というのは、時間・空間をも作り出した元のところにあり、実相人間には誕生という初めもなければ死滅という終わりもない。
実相世界は、そこから一切が現象界にも出てきた源であるから、そこはすべてが一つであって、そこには一切がある。

──というこの理屈も、ふと気がついてみれば、なるほどと思われる。

「この世に神も仏もあるものか」という人に、「その通り、この世には神も仏もない。しかし、この世は神、仏の中にある」ということもうなづけます。

まあしかし、そういった理屈は頭脳知であって、「全生命的把握」にはまだ遠い。理屈でわかったと思うだけでは、本当に一切の束縛から解放され解脱した仏(ほどけ)、「真理は汝を自由ならしめん」と言われている真理そのものと一つになった自覚にはほど遠いかも知れません。

(つづきます)

148神の子さん:2011/09/08(木) 09:40:08 ID:PDuRusEU
>復興G 様

はじめまして。
榎本先生の文章のUPありがとうございます。
久々に先生の読んでいて気持ちも新たになります。

因みに>>147で書かれた雅春先生と榎本先生の違い(?)ですが
私は、無門関の二則「百丈野狐」の話のような気がします。

「因果を超える」と言う事と「因果を晦まさず」の立場で

雅春先生は、両方を時と場合によって説かれた。
榎本先生は、因果ばかりでは人はそれに囚われるので第一原因(神)
のみを主に表現された。その違いであると思います。

大先輩の前で、両先生を評価するのは何なのですが。

149神の子さん:2011/09/08(木) 09:41:40 ID:PDuRusEU
久々の投稿でHNを入れていませんでした。
>>148は、風笠 と申すものです。

150「訊け」管理人:2011/09/08(木) 11:46:26 ID:???
>復興G閣下

 重ねてではございますが、ご解説の労誠に謝意を表明する次第であります。
さて、愚生より一点、リクエストしたきテーマ「これあり」・・・

 次回、閣下お時間のございますときに、取り上げて頂きたいのは、「同時
成道」になります。まあ、一切者の自覚と申した方が解り易いかもしれません
が・・・あっ、なお本日の弊ブログでもこのテーマ、取り上げました。

●同時成道(吉田國太郎+榎本惠吾対話付)
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65586120.html#more

 ・・・まあブログに取り上げながらも愚生、やはりいまひとつこの同時成道
ですが、「うーん・・・」となってしまう次第です。まあ、理屈は解かるんで
すよ、理屈は。ですがなんか・・・御文章拝読後しばらくすると、フォワーん
と消えていってしまっているという(笑)そんな程度の理解なんです。

 ですんで閣下に於かれましてはこの難題「同時成道」・・・これについて
語って頂くことは可能でありましょうか?そんな依頼であります。善処賜りま
したら、これに優る喜びはありません。

 よろしくお願い申し上げます。

151復興G:2011/09/08(木) 12:29:48 ID:Ir7svY6w

(つづきです)

私の場合、理屈の世界でも納得するにはなかなか時間がかかりました。「1+1=2」というのは頭でわかるけれども、1+1が時には0であったり、∞(無限大)であったりするというような、頭脳知を超えた次元の真理というのは、おいそれと理解できない。それでも、白隠禅師は「大悟十八回、小悟は数知れず」と言ったとか、自分は36回悟りを開いたと言ったとか言われています。ふと悟る、わかってくるということの積み重ねで、だんだん「見えるものは本当には無くて、見えないものが実在する」というような非常識というか超常識的なことが、「ふと」の積み重ねでわかってきて、自由自在な境地がひらけてくる、ということがありました。

数年前、榎本先生が吉田國太郎先生のことを話されている講話の記録映像を何回か繰り返し見ていました。それは『生命の實相』第21巻29頁の最後の行から31頁の最初の行までのところを読み上げて、話されているのです。以下は『生命の實相』第21巻からです。

  ────────────────

 実相一元、光明一元、迷いも闇も本来存在しないという極めて明るい朗々たる人生観が生長の家の特徴なのであります。この迷いというものが無いということについて、昨日吉田国太郎さんといわれる方が生長の家の本部へ来られて、御自身の悟りについて大変良い話をされたのであります。この方は腎臓結核と睾丸結核とを患っておられて、そうして一方の腎臓を切り除ってしまって片方の腎臓も悪いとかいう話を聞きましたが、そういう状態ではもうわるいのを切り捨てるわけにもゆかないわけであります。この吉田さんが「生長の家」の信徒になって「神想観」をしておられると、その病気を治すような自働運動が起こって来ましたが、少しよくなっても、なかなか完全によくならない。それでその方が「これは自分の心に迷いがあって、それに引っかかっているからだろう」と気がつかれて、その迷いを摧破するために、『久遠の實在』を繰り返し繰り返し読んでおられた。すると、忽然として「迷いというものは何もないのだ。それはからっぽである」とわかった。たちまち病気がズンズンよくなり、よくなるにしたがって、病気を治すための自働運動もなくなったそうでありましたが、昨日その報告をなさる時に、「迷いというものは何もないのだ、からっぽであるとわかった」と、「からっぼ」という言葉をお使いになりまして、非常にその「からっぽ」という言葉がわれわれの心に「迷いの無」をいかにもハッキリと、言い表わしてくれたのであります。この方は今まで「迷い」というものがあると思って、この迷いをいかにして征服しようか。──「ここに経済難というものがある、ここに病気というものがある」──こう思っている限りにおいては、なかなか自分に対立している迷いなり、病気なり、経済難なりが実在性をもって自分の前に立っているから、それと取り組み合うことになっていた。それでどうしても、自分は神である、仏である。経済難はない、迷いもない、病気もないとこう思っても、自分の自覚が相対を離れることができないので、「迷いは無い」と一応は思ってもあるような気がしてどうしても、そいつを打ち破ることができなかった。ところが聖典を繰り返し繰り返し読んでおられるうちに「迷いというものはないものである、病気も経済難もないものである、この世界は神一元の世界である。仏一元の世界である」ということがわかったとこう言われました。(中略)
今まで、病気がある、あると思っていたのが「ああこれはからっぽの別名であった」と気がついたときに吉田さんの病気は治ったのであります。
(『生命の實相』第27巻29頁〜31頁より)

  ────────────────

榎本先生が吉田國太郎先生のことを話されているその講話の記録映像を何回か繰り返し見ていて、そしてある朝仏壇の前に座り、まず先祖に感謝の思いを捧げたときに、ふと

「ああ、自分のいのちは先祖からいただいた命だった。本来自分というものはなかったんだ、からっぽだったんだ」

と思った。そうして

「本来の“からっぽ”に還ったら、自由自在なんだ」

と気がついた。
そしたら、それだけで世界が変わりました。
自分は、どうしても本当に人を愛するということができない人間なのではないかという劣等感みたいなものがあったのが、ふっと消えたのです。
「私は光だ、愛そのものだった」
と思えたのです。

何でもない、コロンブスの卵みたいなことです。
(つづきます)

152復興G:2011/09/08(木) 13:43:24 ID:Ir7svY6w
(つづきです)

コロンブスの卵というのは

<1492年コロンブスはアメリカ大陸を発見したが、彼を妬んだ男が、「ただ航海中にたまたま見つけただけじゃないか。」という意味のことを言った。コロンブスは、一同に向かって卓上のゆで卵を取り出して、「誰かこの卵を立てることが出来ますか?」・・・みんなが、いろいろやってみたが出来ない。コロンブスは、ゆで卵をポンと殻を割って立てた。皆が、「なんだ簡単じゃないか。」といった時、コロンブスは「何事も、後から種を明かされたら簡単に見えるものがだ」といったという話>

さて、
「自分は光だ、愛そのものだ」

と思えたら、妻もまた愛だ、光だ、神だと思えたのです。
そして長年連れ添った妻が、本当にいとおしく思えました。

そうしたら、神想観や聖経読誦が楽しくてたまらなくなりました。そして、

> 復興Gさま御文章効果で、ですね、今日の神想観ですが・・・ はじめてワクワクしました(笑)いままではなんか、力みがあったんですけどね。(「訊け」管理人様)

>大調和の神示は、実は「喜びのうた」だったのですね!
そう思うと、聖教読誦の時の気持ちも全然違ってきますね!(a hopeさま)

などと言って頂けるように、変わってきたんです。

ここで、「不退転の決意」という言葉が思い浮かびます。

ふつう、「不退転の決意で」と言えば、政治家が「不退転の決意で責をまっとうします」言ったり、「固い決意」という程度の意味で使っています。
しかし、本来この「不退転」という言葉は仏教用語で、その意味はかなり違うということです。
本来の意味は──禅の悟り、「見性(けんしょう)体験」と深いかかわりがある言葉。見性とは、仏性を開き見(あらわ)すこと。この身がこのまま仏であると悟ること。
見性すると、仏道から脱落することはなくなるが、見性しないと仏道をやめてしまうことがある、といわれます。仏道から脱落するのを「退転」といい、脱落しないのを「不退転」という。それが本来の意味だということです。

見性したら心身脱落して、解放され自由になって、力みが要らなくなります。拳を突き上げて、「がんばるぞ!」と叫ぶようなのが「不退転の決意」ではないのですね。

しかし、一度見性し悟ったら、そのまま何もしなくても退転することなく悟りがつづくかというと、そうはいかない。
悟りの喜びを保つには、やはり「行」が必要です。それは、いちど飯を食ったらもう何も食べなくても生きられるかというと、生きられない。魂が生き続けるためには、行じなければならない。しかし、見性する前は苦しい行であったものが、見性するとうれしい、楽しい行に変わってしまうのです。

生長の家の「三正行」も、同じです。

神道で「不退転の決意」を示したものが、「しめ縄」です。
しめ縄は、古事記神話で、天照大御神が岩戸隠れなさった。その岩戸が開かれお再び出ましになったときに、もとへ戻られないように岩戸にしめ縄を張りわたしてしまわれたのが始まりだと言われていますね。

己を空しうして、素直にからっぽになって、すでに天照大御神は出でましてこの世は明るいのだと感謝して、明るく笑いましょう。「実相円満完全」「実相独在」にいのちをかけてまいりましょう。

(つづく)

153復興G:2011/09/08(木) 19:44:33 ID:Ir7svY6w

>>148: 風笠様
>>150 :「訊け」管理人様

ご両人様の書き込みは、まさに天の声、私を高め励ましてくださるための神の声であります。

風笠様。
あらためて『無門關解釋』第二則「百丈野狐」のところを精読させていただきました。
感動、歓喜に打ち震えております。
昔読んだことがあり、その時「すごいことだなあ」と思った記憶は甦ってきましたが、今拝読しなおしてみますと、もう、昔読んだときとは全然感銘の度が違います。

そして、風流様が今この時にこの「百丈野狐」の谷口雅春先生御解釈をすぐに思い浮かべられたということが、またすごいことだと、驚いています。「風流」というHNは、もしかしたら『無門關解釋』30頁・44頁に

「若し者裏に向つて一隻眼を著得せば、便ち前百丈贏ち得て風流五百生なることを知得せん」
(自分の実相が既に迷はず、既に輪廻せず、既に病まないものであることを知つたならば、五百生野狐に生れてゐても、菊五郎が四谷怪談のお岩をやるのと同じことで、迷つてゐるとは云ひ条、それは芝居をやつてゐるのも同じこと、五百生風流三昧をやつてゐるやうなものだ)

とあるところから採られたものでしょうか。

この無門關「百丈野狐」の公案御解釈の中には、期せずして
>150 :「訊け」管理人様のご要望──「同時成道」ということを理解するヒントもちゃんと出ているのですね。これはまさに人間業ではないような気がします。

それで、この無門關「百丈野狐」の公案とその御解釈をわかりやすく咀嚼して、「訊け」管理人様のご要望にもお応えしたいと思います。少しお待ちください。

(つづく)

154復興G:2011/09/09(金) 04:08:29 ID:Ir7svY6w

(つづき)

『無門關』第二則「百丈野狐」の公案とその谷口雅春先生御解釈を、できるだけやさしく、子ども向けの童話のように飜訳してみます。

       ○

昔むかし、中国の洪州というところに、大雄山という山があり、高さが百丈(300メートル)もあるようなすごい大きな岩が重なってそびえ立っていましたので、「百丈山」とも呼ばれていました。その百丈山に禅寺が建てられ、壊海(えかい)大智禅師という有名なお坊さんがいて、「百丈和尚」ともよばれていました。悟りが深く教化の力がすばらしいというので、いつも雲のようにたくさん雲水(うんすい)といわれる修行僧たちが集まってきて坐憚をし、和尚の説法を聴いて修行をしていました。
その多勢の中に、毎日坐って説法を聴いている一人の老人がいました。和尚の説法が終わりみんなが立ち去るとその老人も立ち去るのでしたが、ある日、みんなが解散してしまってもその老人ひとりじっと百丈和尚の前に坐っていて、出ていかないのです。そこで百丈和尚はふしぎに思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。するとその老人は「ハイ、私は人間ではありません。ずうっと昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代、この寺の住職でしたが、ある時、一人の修行者が質問しました。「修行に修行を重ね悟りを開いた人は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と。
「因果の法則」というのは、皆さん、「花咲かじじい」のお話を知っているでしょう。正直爺さんには次々と大判小判などの宝が続々と出てきて、最後には殿様から特別なご褒美まで与えられます。いじわる爺さんは、形では同じことをしても、ゴミがらくたばかり出てきて、最後には牢屋に入れられてしまいます。よい心でよいことをすればよい結果が出て来、悪い心で悪いことをすればわるい結果が出てくる。殺した者は殺される。「原因があればその結果が出てくる」のです。「因」はタネです。豆の種子ををまき、水をやり、肥料を施すと、芽が出て、やがて実がつく、これが「果」です。「よい種をまいたらよい実ができる」というこの宇宙の法則のことを「因果の法則」というのです。
ところが、悟りをひらいた人はその「因果の法則」をこえてしまう、とも言われています。
それで、先ほどの老人──昔、この寺の住職だったけれども今は人間ではないという──は、実は百丈和尚を鏡に写した分身なので、この老人を「前百丈」と呼ぶことにします。
前百丈は、昔修行僧から「修行に修行を重ね悟りを開いた人は、因果の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と質問を受けたときに、「因果に落ちません――因果の制約を受けません」と答えました。その答えがまちがっていたので、五百回もの生まれ変わりの間、野狐(やこ=人間でないものに変身したすがた)の身におとされました。なにとぞ、憐れと思って正しい答えを教えてください」とお願いします。「修行に修行を重ね悟りを開いた人は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と、前の質問をくりかえすのです。
 それに対して百丈和尚は、即座に、「因果昧(くら)まさず――因果の法則をごまかすことはできない」と答えます。
 老人(前百丈)はその言葉ですぐにパッと悟りをひらいて、「野狐」の身から「人間」にもどります。

この話は、前百丈の「悟りを開いた人は因果に落ちません」という答えが間違っていたから野狐の身におちた。「因果くらまさず」という答えが正しかったから、その言葉でパッと悟りをひらいて、「野狐」から「人間」にもどった。悟りをひらいた者でも、「原因・結果の法則」の制約、縛りを受ける、という意味に解釈されるけれども、実はもっと深い意味があるのです。
だいたい、「一体、お前さんは誰か」ときかれたときに、「ハイ、私は人間ではありません」と答えたことがまちがっているのです。老人は実は百丈和尚自身を鏡に写した分身なので、「私はあなたです」と答えればよかったのです。百丈和尚は悟りをひらいているので、ふつうにいわれる「因果の法則」をこえています。というのは、ふつう「因」というのは「中間因」(途中で出てきた原因)であって、大もとの因、「第一原因」は、神の心、仏の心なのです。途中で出てきた原因、「中間因」は、本来ナイものです。悟りをひらいた人にとって、「因果くらまさず」というのは、その「根本因」「第一原因」をくらまさない、「完全円満な神の心、仏の心」が根本の因だということをくらまさないで、はっきりと自覚するということなのです。今百丈はその悟りの心で「因果くらまさず」と言ったので、前百丈(老人)はパッと悟って、野狐から人間に戻ることができたのです。

(つづく)

155「訊け」管理人:2011/09/09(金) 04:22:07 ID:???

> 復 興 G 閣 下 !

 早朝よりなにやら、ただならぬ動きが・・・・
 これまた今回のテーマ、

 名 文 の 予 感 ア リ ア リ

 であります。

156八百比丘尼:2011/09/09(金) 09:35:57 ID:j8iOdie.

   −−鈴夜より質問状ーー

 復興Gさま
ボクも、野猫から人間にもどれるのでしょうか。
うちのオニババも、妖怪から真人間になれるのでしょうか。

どうして私たちが、このようなあさましい姿になってしまったのかは、
いつかちゃんと、お話しいたします。
                  合掌。

157神の子さん:2011/09/09(金) 09:58:39 ID:MNrNIsM2

復興Gさま

風笠さまの おっしゃっていた、無門関の二則「百丈野狐」の話ですが、
復興Gさまが、子ども向けの童話のようにお話してくださったので、
わたしにもよくわかりました。

本当に、これからのお話が楽しみです! ワクワクしてます!

158a hope:2011/09/09(金) 10:14:59 ID:MNrNIsM2
 すみません。

↑神の子 a hope です。

159復興G:2011/09/09(金) 11:07:58 ID:Ir7svY6w

>>155 :「訊け」管理人殿
> 早朝よりなにやら、ただならぬ動きが・・・・
> これまた今回のテーマ、
> 名 文 の 予 感 ア リ ア リ

なんて言われると、

ウーン、がんばらなくっちゃ!
なんて、構えてしまうじゃないですか。

構えたら、負けですね。

「構える」ってことは、相手は自分と相対した向こう側にいると思うから構えるんですね。

構えたら、必ずどこかにスキが出来るから、負けちゃうんです。

相手はいない。自分ばかりだ。聞いてくれる人(読んでくれる人)も、みんな自分だ。自分が、自分の分身に話をするんだ。相手は自分なんだ。なんてうれしい、楽しいことなんだろう!

――と思えるようになったとき、私は初めて、「オレは話が最大の苦手だ」と思ってた劣等感から解放されました。今じゃあ、話をしに行くのが楽しみになって・・・・。

ああ、皆さんは私なんですね。

そういうわけで――

「百丈野狐」の話も、百丈和尚と一老人の話になっているけど、老人は百丈自身の心中の人物、心の影なのだ、というのが谷口雅春先生の御解釈です。老人は「前百丈(ぜんひゃくじょう)」。説法している百丈大智禅師「今百丈(こんひゃくじょう)」の心の影、旧我である。前百丈は「私は人間ではありません(非人なり)」 “real man” でない、変化身(へんげしん)つまり野狐だと言う。それが
「修行に修行を重ね悟りを開いた人(原文:大修行底の人)は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と問う。

谷口雅春先生は、
<<(「大修行底の人」というのは)人間的工夫をこらし、修行を尽くして其の極に達せば、つひに神に到達し得ると信じて大修行して或る境地に達した人が大修行底の人である。それは余程の境地に達してゐても、修行修行と云つてゐる間は自力の境を脱してゐない。自力の境を脱してゐない限りに於て、自力は旧我であるから、旧我を磨き磨きする事によつては、つひに新我に到達することは出来ない。それは瓦を磨いて珠となすことが出来ないのと同様である。また自力は仮我であるから、仮我を捨てない限り真我を発見することは出来ない。>>

<<前百丈が五百生野狐身に堕して、その野狐身を脱することが出米なかつたのは、「不落因果(因果に落ちず)」と答へたためではない。瓦を磨いて宝石になるかと云ふにも等しい愚問に対して、大修行がどうの斯うのと問題にしてゐるところにある。そんな悟の程度では「不昧因果(因果くらまさず)」と答へたところが矢張り野狐身に堕するであらう。答は渾心の悟から出て来なければならない。>>

<<不落と云っても不昧と云っても、悟った人なら、どちらを答へて見ても正しいが、悟らぬ人なら、どちらを答へて見ても間違だ。
「不昧因果」と唯口の頭(さき)だけで云つても、それは口頭禅であって、決して五百生野狐身を脱し得る筈はないのである。・・・・前百丈は旧我として偽我として、又今百丈は新我即ち実在我として相対してゐる。偽我の立場に於て、不落因果と云つても不昧因果と云つても、その「因」なるものは、中間因であり、妄想因であるから、「因果に落ちず」でも、「因果を昧まさず」でも妄想を弄ぶことになるから、妄想は妄想を生んで五百生(ごひゃくしょう)野狐身、変化身、無常身を脱することが出来ないのである。ところが、実在我としての自覚に立つ者が、「因果を昧さず」と云ふときの因は中間因ではなく、「本来因」であり、「実相因」である。「実相」に於て吾々が本来佛性であり神性であることが根本因である。この根本因を昧すことがなかったならば、「不昧因果」こそ野狐身を摧破する一大鉄槌となるべきである。
だから裏山の巌の下へ行くと、野狐身が死んで了つてゐたのである。その死んでゐる野狐の姿は今百丈の「迷ひの我」であり、「旧我」であり、「変化身」であつた。さればこそ懐かしいものの一つであり、僧を葬る儀式に則つて葬つたのである。>>

――いや、私も谷口雅春先生から「野狐身を摧破する一大鉄槌」を受けている気持ちです。
(つづく)

160「訊け」管理人:2011/09/09(金) 12:34:16 ID:???

 なんか、余計なプレッシャーを与えてしまい恐縮です(笑)しかし・・・
復興G閣下ならば「構えて」ても圧勝でありましょう(笑)相手はなにせ、
イタリア陸軍程度の脅威しかありませんし(笑)

 しかし本当に、おもしろい(興味深い)です。可能ならばこれらの御文章、
あの本流掲示板に行って貼り付けてきたいくらいですが(笑)

161復興G:2011/09/09(金) 13:21:41 ID:Ir7svY6w

>>156 :八百比丘尼様
>−−鈴夜より質問状ーー
ボクも、野猫から人間にもどれるのでしょうか。
うちのオニババも、妖怪から真人間になれるのでしょうか。

それは、むつかしいでしょうね。(笑)

というのは、無門關の第1則「趙州狗子」で、
「狗子(くし=いぬころ)に仏性ありや無しや」
という問いに対して、趙州和尚は
「無」と答えていますからね。

でも、お釈迦さんは悟りを開いて
「山川草木国土悉皆成仏」と、無機物すら悉く皆成仏している、と言われているところから見ると、もと人間だったものなら、みんなすでに仏のいのちが成りひびいているというのが実相なんでしょう。

私も今から「趙州狗子」の公案を真剣に拝読しなおして、勉強します。それから、ご質問に対して、私なりのお答えを、出させて頂きます。お待ちください。

162風笠:2011/09/09(金) 15:58:57 ID:NzDbkRGE
>>153 復興Gさま

お褒め頂きありがとうございます。
素晴らしくわかりやすい表現は流石です。
日頃見落としていた部分の再発見にもなります。

ところで実は手元には「生命の實相」しかなかったりします。
所有する大方の書籍類は今の住居に置いていないので、本を直
ぐに開けて引用などは出来ない状態です。
ですので、すべてカンで書いております。(汗)
あとHNは、風流にしようかと思った事もありますが、すこしふ
ざけて笠にしました。(あまり深い意味は問わないで下さい。)


>>161
つ 正法眼蔵 光明の巻

>「狗子に仏性ありや無しや」
『ある』『無し』を超えた両方超越の「無」ではないかと。

私があまり書き込むと話がずれていきそうなので、この辺で。

163復興G:2011/09/09(金) 21:41:54 ID:Ir7svY6w

>>162 :風笠様

風流様でなく風笠様でした。まちがえてごめんなさい。
風笠とは、風流よりも風流な、いい感じですね。

そして、
>「狗子に仏性ありや無しや」
『ある』『無し』を超えた両方超越の「無」ではないかと。

いや、まさにその通りでした。
お手許にテキストがないまま、カンで急所をずばりおっしゃっているのは、すごいと思います。

私は『無門關解釋』を一所懸命こまかく読んで、やっとポイントはそこだ! と思ったところです。ピタリです。


>>156 :八百比丘尼様

「狗子(くし=いぬころ)に仏性ありや無しや」
という問いに対して、趙州(じょうしゅう)和尚が「無」と答えている、無門關の第1則「趙州狗子」を、一所懸命読みました。
(谷口雅春先生の『無門關解釋』を通してですが)

面白かったです。
勉強の機会を与えてくださったことに、感謝します。

結論から言えば、そのままでよろしいのではございませんか。野猫も、妖怪も、たのしいのではございませんか。
何も、どじょうが金魚の真似をすることはないし、野猫は野猫、妖怪は妖怪で、皆さんを楽しませてくださっていますから、そのままがよろしいかと思いますよ。真人間になんかなられたら、みんながさびしがりますよ。

しかし、せっかく『無門關解釋』の第1則「趙州狗子」を、一所懸命拝読して勉強させていただきましたので、それについてはまた後ほどに書かせて頂きます。
ありがとうございます。

あ、それから「訊け」管理人様のご要望にもまだお答えできていませんでしたね。もう、ある程度のヒントはあったかも知れませんが。「同時成道」ですね。それは、私が悟ればすべてが悟る、ということだと、頭でわかるだけでなく、全生命で、『無門關』第1則「趙州狗子」の言葉でいえば、「熱鉄丸を呑了するが如く」 自知する、というのが宿題でありますね。困難な課題には違いありませんが、挑戦しましょう。しばらくのご猶予を。

164「訊け」管理人:2011/09/10(土) 08:51:31 ID:UodBcqiE
>復興G閣下

(以下は本日の「神想観後の気づき」であります。なお、貴ご提示テーマと
は余り関係はありませんので、返信の労を特に求めるものではありません)

<〝ごわす〟とは〝御・和す〟ではないか?>

 薩摩言葉の「ごわす」ですが、これは「御・和す」なのではないか?これ
がそもそもの語源なのではないか?そのような気づきが忽然と湧いた今朝で
ありました。先人たちは「ごわす」と締めることですべての会話を「神化」
していたのではなかろうか・・・

「行くでごわす」とは、肉体人間の我が、A地点からB地点へ移動することで
は〝ない〟のではなかろうか。実相の吾へ帰一し−−「御・和す」行為、久
遠の今の地点から、単なる移動行為すらも神化せしめていたのではなかろう
か。たとえば、ここにあるお茶はこれ、単なるH2Oなる物質なのではない。
これは妻が、夫の喉の渇きを癒さんとして献してくれた愛念なのである。
 薩摩の先人たちは全ての行為を「ごわす」と締めることにより、全ての行
為を「久遠の今」から高覧し得ていたのではなかったか。あの、先人たちの
尋常ならざる熱誠はこれ、薩摩言葉「ごわす」に拠るところの奇蹟であり作
品群であったかもしれぬ・・・

165「訊け」管理人:2011/09/10(土) 08:56:02 ID:UodBcqiE
<上記駄文主張根拠>

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65586636.html#more

 それは、もう一つ別の言葉で云ふと、支那の『中庸』と云ふ書物に書いて
ある、「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ」と書いてある、その中でありま
す。天之御中主神の御中であります。一切の時間と一切の空間とが未だ發せ
ぎるところの御中の中心であります。これは未發の中と云はれてゐるところ
のものである。「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ。發して節に當る。これ
を〝和〟と云ふ」とありますがその中から一切のものが現はれて、時と人と
處に應じてピタリッと急處に當つて有數にすべてのものが、ピシリ、ピシリ
と出來て行くのが、其れが〝和〟、即ち和解の〝和〟なんであります。


(「久遠の今」レコード1より)

166「訊け」管理人:2011/09/10(土) 11:32:16 ID:???
●完全な者を相手になぜ、運動をするのか
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65586965.html#more

 現在の運動の問題点を、「一切者の自覚」(同時成道)の観点から眺めた
お話です。筆者はもちろん、榎本惠吾先生。
 諸賢に於かれましてはぜひ、ご高覧賜りますようお願い申し上げる次第
であります。


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