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トーキングスティックボード

525さくら:2011/11/04(金) 07:52:19 ID:T/77sMGw
義春さま

私の言葉足らずの表現に対して、
義春さまの深い思いと洞察で解釈していただいて、
理解を深めることができ、心より感謝致します。
義春さまの思いに、改めて、胸が打たれる思いです。
ありがとうございます。


>私は天皇国・日本の天皇という存在は、常に自然と共に在り、
自然を祀る事、国の民と共に歩んでこられたからこそ、中心者となるのであって、
それを無理矢理力づくで中心に据える事はやってはならないと感じております。
私が言うところの天皇陛下の大御心を吾が心としてと言うのは、自分の我利の為ではなく、
自然と共に歩む生き方だというところなのです。
戦前の様に、天皇陛下を蔑ろにする様な在り方は絶対に容認してはならない。
それが天皇陛下の願いに沿う事だと私は確信しております。
それだから、天皇万歳と言う実体のない言葉ではなくて、私達も自然に親しみ、
そのなかで得た言葉を、自由に寛容に伝え合える、そんなあり方が一番自然で、
安らぎがあると想うのです。

本当に、その通りですね、

そのような姿勢こそ、天皇陛下の御心に添うものと、つくづく感じています。

今回の震災の際の天皇・皇后両陛下のお姿も、
常に被災した方のお心に思いを寄せられておられますね、

被災された方のことで感じたのは、
東北の方は特にそうなのでしょうが、
非常にがまん強くて、ご自分の辛いお気持ちを、
ストレートに表現したり、愚痴や泣き言をそのまま表現することは、
あまりなさらないようです。
周りが辛いのは、みな同じだからと、ご自分の気持ちを抑えたり、
ことさらに自分の事情を話さないかもしれません。
しかし、少しづつ、話を聞いていくと、心の深い傷を抱える事情に、
本当に、たまらない思いになります。

これから、そうした心の問題も、長く、寄り添うべき問題と感じますが、
生長の家の信仰をもつからこそ、寄り添い、
言葉もそうですが、それだけではなく、伝えられることがあると思っています。

>動物に感謝の日、それも良いのでしょうが、もう少し中身をつめないと、
厳しいと感じます。祈りを捧げつつ、もっとディスカッションしていくのが、
良いんじゃないかと…。具体的に申しますと、志恩様も書かれていらっしゃいましたが、
ノーミートと肉食で料理を作った際の、費用の差に先ず、注目してください。
そうすると、肉の方が安いようになっている筈なのです、そして、若い人の平均的な賃金や、社会情勢を御覧になって下さい。賃金が安く、就職もままならず、食事はジャンクフードになりがちになっていく構図が明らかになってくるでしょう。ノーミートはノーミートだけで終る問題ではなく、社会全般に発展する問題なのです。だからもっと、広い目で見て考えていけば、社会の矛盾や生命に関する社会の考え方に違和感が出てくると存じます。
その上で、自分達はどう生きていくか?


オーガニックの食品商品とかとかレストランとかもそうですが、
身体に良いもの、地球環境に良いものを選びたいと思っても、そんなところにだれでもいつでも行けるわけはないですよね。

生活することがまず、第一に大切にすべきことで、
では、その中で、何を選択できるか、そのことを考えていくべきですよね。
肉を食べない、それ自体が目標ではなく、
どんな思いをもって、自分の生活のことを選択するか、
自分の生活の範囲内で、考えて実行できることがないか、
その思いが大切なのだと思います。

費用を安く、少し面倒臭いけれど、野菜のお弁当を作ってみることとか、
自分ですこしだけ、手作りを心がけること、
商品を選ぶとき、高いものを選択する必要はないけれど、
どちらが地球に良いか、すこしだけ考えること。
生活の中では、社会の矛盾や生命に関する考え方に、
すこしでも関心を寄せて考えながら、
自分の生活の選択を考えていく、そのような姿勢は大切だと思いますよね。

これも、充分、広い視野で取り組んでいくべき課題だと思います。

526さくら:2011/11/04(金) 07:53:19 ID:T/77sMGw
自分自身、経験や知識不足は重々承知で、
わたしの言葉は、生長の家の先輩方には、
失礼なことが多く、はがゆい思い与えてしまっていることに、
心苦しい思いがあります。

それでも、言葉ややり方が違っていても、
日本を愛する思いや天皇への思いは、
自分が日本人として、魂の根源に流れている、
やはり原点だと思っていますから、

それは、偏った思想におかされたと見えても、
今の現代人が見失ってしまったと見えても、
年齢や知識や経験が、どんなに違っていても、
それでも、日本人として魂の根源にながれている、
真実の想いなのだと信じています。
それが顕れていないだけですね、。

だから、日本の本来の姿を現わすために、
何ができるか、
それも、なにか声高に主張ばかりしたりする姿勢ではなく、
寄り添う思いを持っていたいし、

その時に、一信仰者としては、何を大切にすべきなのか、
考えたいと思っています。
勉強不足は反省点です。
が、まず、一体、何を大切にすべきなのか、
見失わないようにとしたいと思っています。

元青年会様

ありがとうございます。
私の表現に失礼があれば、申し訳ありませんでした。

大変お手数なのですが、
他のスレッドにて、七つの燈台の誓願を、
私も勉強されていただきたいと思っておりますが、
お願いできますでしょうか。

青年会の先輩からの愛情あるご指導に、心より感謝しております。
どうぞこれからも、ぜひ、よろしくお願い申し上げます。

役行者さま
お気遣い、本当にありがとうございます。
わがままを言い、貴重なスレッドを、使わせていただき申し訳ありません。
本当に、どんな発言でも、制限を設けるつもりはありませんし、
どのような立場の方も、書いていただき、
私も広く考えていきたいと思っているののですが、

テーマをある程度絞っていかないと、話が見失ってしまうので、
どうしても、みなさまにお気遣いいただくことになってしまって、すみません。
本当に、広く発言していただくことには、感謝してお願いしたいと思っております。

どうぞその点は、よろしくお願いいたします。

義春さま
改めて、ありがとうございます。
いつも勉強させていただいて、
考える機会を与えてくださるので、感謝しています。
これからも、問題提起でも、提案でも、
あなたの考えを必要としておりますので、ぜひ、お願いいたします。

527さくら訂正:2011/11/04(金) 07:57:59 ID:T/77sMGw
今の現代人→現代人

勉強されて→勉強させて

・・他、日本語おかしいところ、正しく直して、
読んでください、人。

528役行者:2011/11/04(金) 08:35:58 ID:.c7ckQ3Y
>さくら様

 とんでもありません。

 みんなで、より良い世界をつくっていきましょう!

529ももんが:2011/11/04(金) 10:40:22 ID:XXCuaQns
皆様、おはようございます。
さくら様。

昨日、私の『一燈園』のレスに、コメント、ありがとうございます。

一燈園の方が、雅春先生の御自宅のお庭を掃除して、落ち葉が、無くなって、雅春先生が、ガッカリしたお話は、存じてます。

この、お話は、続きが、有りまして、後に、雅春先生は心変化に気づき、天香先生に、感謝されてます。


それは、生長の家が、公式の挨拶として、必ず、『合掌』するのは、一燈園の儀礼を取り入れたからですね。



皆様、素晴らしい、神の子ですから、必ず、生長の家に、復帰致しますよに、心から、神想観させていただきます。ありがとうございます。

530初心者:2011/11/04(金) 10:47:39 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

「ボロメオの輪」について書きますね。「ボロメオの輪」は、中世ルネサンス期の
ボロメオ家の紋章だそうです。

これがそのイメージです。

http://green.zero.jp/hkabuto/fukashigi/a01.html

見てのとおり、3つの輪が描かれていますが、よく見ると、どの輪も交わっては
なくて、結びつけられているわけではないのですね。なのに、3つの輪がかさなる
ことで、すべての輪が結びつけられて、たがいに離れることができないような構造が
できあがっていますね。

こうした構造を「ボロメオ結び」といいます。ジャック・ラカンは、想像界、象徴界、
現実界の3幅対の関係を「ボロメオの輪」で説明いたしました。これら3つの界は
「ボロメオの輪」のごとく結びつけられていると、このように説明したのでありますね。

想像界、象徴界、現実界のどの2つをとってみても、たがいに結びつけられては
いないのですが、3つがそろうことで、それらは1つの構造として結びつくことに
なるのでありますね。そして、どれか1つの輪が欠けたときに、残りの2つの輪は、
結びつきの力を失い、バラバラとなることで世界は崩壊するということを、
「ボロメオの輪」は示しているのであります。

真理、救済、信仰も「ボロメオの輪」の関係にあるような気がいたします。どの2つを
とってみても、たがいの結びつきを見いだすことはできないはずでありますが、
真理、救済、信仰の3つがそろうことで「ボロメオ結び」が完成し、まるでひとつの
構造体ででもあるかのような振る舞いを見せはじめるような気がいたすのであります。

わたくしは、さくらちゃんとの対話をとおして、真理、救済、信仰を「ボロメオの輪」の
関係として理解するにいたったのでありますが、生長の家では、真理、救済、信仰は
三位一体の関係として理解されているはずであります。真理、救済、信仰は、つねに
三位一体の関係をなし、けっして切り離すことはできない関係にあると、このように
信じられているはずなのでありますね。

したがって、ひとつの救済活動をおこなうにしても、たとえばそれがエコ活動で
あってもよいのですが、そうした活動は、つねに真理や信仰と結びついていなければ
ならないという、強固な信念にしばりつけられてしまうのであります。

これはダブルバインドどころではなくて、トリプルバインドといった状況でありますね。
こうした状況にしばりつけられて、何をなせばよいのかということがわからなくなって
いる、というのが、これまでの生長の家の活動の全般的な実情ではなかったかと、
このように考えるのであります。

わかりやすくいえば、真理、救済、信仰の3つの方向から引っ張られて、すべての
活動が分裂を余儀なくされてきたということであります。これら3方向からのトリプル
バインドによって、あらゆる活動が分裂状態におかれ、何をなせばよいのかが
わからないにもかかわらず、それでも何かをなさなければならないという、神経症的と
もいえる強迫症状を呈していたということがいえるような気がいたすのであります。

こうした神経症状の行きつく先が教義のイデオロギー化であったはずです。教義を
イデオロギー化させるよりほかに、神経症状の苦痛をやわらげる方法は見いだせ
なかったのでありますね。教義をイデオロギー化することでみずからを救済する。
こうした救済策が、これまでも延々とつづけられ、これからもつづけられようとしている
のではないでしょうか。

真理、救済、信仰が「ボロメオ結び」の関係にあると理解することが神経症状の
改善に役立つのではないか。なんにしても思いついたばかりで、浅い理解ではあり
ますが、とりあえずはこのことをいっておきたいとおもいます。

531元青年会:2011/11/04(金) 11:48:53 ID:???
義春さん、夜更かしをさせてしまって申し訳ない。
気がついてくれて安心しました。七つの燈台について・・・期待しています。

役行者さま、御意>たしかに心得ました。

ここはさくらさんの部屋だったのですね
申し訳ない、義春くんが熱く語っていたので義春くんの部屋と勘違いしました。
朝めざめてから皆さんの投稿を改めて読んでみて、ああやっぱり日本人として、生長の家を学んだものとして
つながっているなあー
こう感じています。本当に昨夜は乱入して申し訳ない。

ミズカラ「本流」を名乗るものは確かに怪しいと思っています。本物の継承者は日々淡々と雅春先生の語り部として
周りの人達に範を示して活動されていますね。宮澤先生のような方は尊敬しています。

あっこれ以上は迷惑になるので退出いたします。

532役行者:2011/11/04(金) 12:39:04 ID:eraKNq66

 >元青年会員 さま

 ご丁寧に返事までいただき、ありがとうございます。

 どう考えても、私の方が若輩者と思えるので、“御意“
は、畏れ多いお言葉です。

 この世知辛い世の中、われわれ若輩者に、真っ向から体当たりで伝えてくださり、それが何よりもホント、うれしゅうございます。
 
            合掌

 追伸;さくら様。本当に迷惑をおかけしました。

533義春:2011/11/04(金) 13:05:36 ID:SjZg29/2
>>531
元青年会様
お気遣い、真に有り難うございます。
又、重ね重ねご無礼の段、申し訳ありません。

七つの燈台の誓願と意味について、信仰板にて書いていきたく存じます。
雅春先生の想いを書ききれる自信は全くなく、至らぬ点が多々あると存じますが、その時は、ご指導・ご鞭撻の程、伏してお願い申しあげます。

534さくら:2011/11/04(金) 15:37:20 ID:T/77sMGw
ももんがさま。

メッセージありがとうございます。
ともに生長の家を考える仲間としてよろしくお願いいたします。

元青年会さま

ここが、さくらの部屋なんて、あと、迷惑なんてとんでもありません。
まあ、今はちょっとした仮住まいではありますが、。

私の表現が拙くはがゆい思いもあるかとは思いますが、
先輩方の経験や知恵をお借りできれば、大変ありがたいことですので、
どうぞこれからも、よろしくお願いいたします。

他のスレッドでも学ばせて頂きますので、よろしくお願いいたします。

役行者さま

迷惑では全然ないです。
私が一度切れちゃったので、たびたび、お気遣い頂いて、申し訳ありません、。
相変わらず、多くの方に、広く書きこんでいただきたいと思っております。

535さくら:2011/11/04(金) 15:38:43 ID:T/77sMGw
ただ、ご指摘あるなら、やんわりということを、
お願いしておりまして、。
くれぐれも男の戦場と化しませんように、おねがいいたします、笑。

また、テーマを確認いたしますと、

・宗教組織と本来の信仰心との間にある、違和感、嫌悪感の正体

・これからの生長の家の活動の新しい可能性を考える
(組織を超えた信仰運動として様々な問題に取り組むために、
どう考えどう行動するかという課題)

うーん、なんだか、まとめるとこんな感じですが、
まあ、大体、心においてくだされば、
後は、フレキシブルに書き込んで下さいますよう、
重ねてお願いいたします。

536さくら:2011/11/04(金) 15:39:45 ID:T/77sMGw
初心者さま

>したがって、ひとつの救済活動をおこなうにしても、たとえばそれがエコ活動で
あってもよいのですが、そうした活動は、つねに真理や信仰と結びついていなければ
ならないという、強固な信念にしばりつけられてしまうのであります。

これはダブルバインドどころではなくて、トリプルバインドといった状況でありますね。
こうした状況にしばりつけられて、何をなせばよいのかということがわからなくなって
いる、というのが、これまでの生長の家の活動の全般的な実情ではなかったかと、
このように考えるのであります。

わかりやすくいえば、真理、救済、信仰の3つの方向から引っ張られて、すべての
活動が分裂を余儀なくされてきたということであります。これら3方向からのトリプル
バインドによって、あらゆる活動が分裂状態におかれ、何をなせばよいのかがわからないにもかかわらず、それでも何かをなさなければならないという、神経症的と
もいえる強迫症状を呈していたということがいえるような気がいたすのであります。


あー、そうなんですよね、初心者さま。
私には、これは、組織運動をしていての、実感だと思いますが、
他の方はいかがでしょう。
本部の方針なんかの試行錯誤というか、右往左往ぶりを感じますと、
この「トリプルバインド」に心当たりがあるような気がいたします。

結局、真理とは、どの面の真理を指すのか、
救済とはどういった救済を意味するのか、
信仰とは、何を基準とする信仰なのか。

そのことがはっきりせずに、何かをなさなければならないという活動の方針があって、
そのことで、
個人の葛藤が大きくなったり、
組織間の亀裂の原因になっているような気がいたします。
そのことがはっきりとせずに行っている宗教活動が、
教義のイデオロギー化をまねくということなのでしょうか。


> 生長の家は、いくつものことがらについて混同しているような気がいたします。
実相と自然状態の混同、実相世界と今の宇宙である実在宇宙の混同、言語的世界で
ある文化的状態と現象世界の混同、そしてさらには、今回、新たに気づいた、
真理と救済と信仰の混同。こうしたいくつもの混同が、これまでずっとなされてきて
るはずなんですよね。違和感の正体は、このあたりにあるような気がいたしますよね。

こうしたことを、はっきりされていかなくては、
この違和感の正体は分からないかもしれませんね。

どうぞ、初心者さま、よろしくお願いします。

537初心者:2011/11/04(金) 17:48:14 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

違和感の正体。これは、いくつもあげることができそうですね。視線の一致。
ジジェク流にいえば、この「視線の一致」もまた、宗教にたいする違和感の
正体ということがいえるような気がいたします。

宗教は、ことに生長の家は、そしてわたくしもまたそうなのでありますが、自己が
対象を見る視線と、神が神自身を見る視線とを一致させようとしますね。
神が神する。実相が実相する。こうした言いまわしが、自己の視線と神の視線を
一致させようとする試みであるのはあきらかでありますよね。

こうした「視線の一致」を、ジジェクは倒錯的な享楽と見なします。もっとも禁欲的で
あるべき宗教が、ほかのあらゆる欲望よりもさらに欲望的である享楽を追い求めて
いると、ジジェク的にはこのように解釈されるのであります。

神が神する。実相が実相する。こうした言いまわしを、歴史が歴史する、と言い換え
れば、マルクス主義の唯物史観イデオロギーとなり、人民が人民する、と言い換え
れば、共産主義による大粛清を正当化するイデオロギーともなり得ますよね。これは
いったい、何を意味するのでありましょう。

神が神する、実相が実相する、という言いまわしは、左翼革命思想がそうである
ように、宗教が本質的に享楽的であるということを示しているような気がいたします。
欲望は欲望を抑えるためにある。意外かもしれませんが、ラカン的には、欲望は、
欲望が享楽へと向かわないために、心の暴走を抑制する働きを持つものと解釈
されるようであります。

宗教は、ときとして欲望を解放させます。政治的イデオロギーもまた、おなじように
欲望を解放させますね。解放された欲望は、欲望の禁止原則をやぶって、享楽へと
向かいますね。ほんらいは禁欲的であるはずの信仰者が、左翼革命家が自己の
視線と歴史の視線、あるいは人民の視線とを一致させて享楽へと向かうように、
それとさしてちがわないやり方で、究極の享楽を味わうとしているのでありますよ。

こうしたやり方は、男性には好まれても、女性にはあまり好まれたりはいたしません。
男性信仰者は、神が神する、実相が実相する、という言いまわしを好んで
もちいますね。そうすることで脳内物質を分泌させ、ひそかな享楽を楽しもうとして
おりますね。このようなやり方で、宗教的享楽を、どこまでも追い求めようとする
男性信仰者に、女性のみなさまは、もしかしたら心のどこかで気づいておられて、
そのことでいい知れぬ不信感と違和感をいだいておられるのではありませんか。

宗教は、男どもにとっては、左翼革命思想とどうよう、ほんらい的に享楽であります。
いちど手にした享楽は手放したくない。本流とはすなわち享楽そのものであるのかも
しれませんね。宗教にさえ享楽を追い求めなければならない。これが男どもの悲しい
サガであるとすれば、違和感どころのさわぎではないような気がいたします。

538ももんが:2011/11/04(金) 18:09:10 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます。

先日、『甘露の法雨講話・テープ』で、谷口雅春先生の、御講話を、拝聴していましたら、面白い事を、お話、されていました。

生長の家の立教当時ですから、昭和初期ですね、東京の護国寺で、初めての講習会をされた時の出来事で、講習している時、輝子先生他、6〜7人の聴衆の方が、天から、音楽が、奏でるのを、聞い、会場は騒然としたそうです。丁度、『甘露の法雨』の中にある、天から音楽が、聞こえる部分とそっくりそのままです。凄い話ですね。

東京護国寺は、新義真言宗の寺で、本尊は、観音様です。
現在は、お寺の東側を歩い行くと、生長の家第一強化部があります。西に、向かって、歩いて、いくと、カトリックの東京大聖堂・東京教区の本部で、あの、フランスの聖地『ルルドの泉』のレプリカの、泉と、聖母マリア様が、います。教会も大変美しい教会です。


私は、雅春先生の御講話テープ拝聴しなが、神様の知恵の、人智の及ばない、偉大さに、感銘を覚えています。


『汝の父、母に感謝せよ』』現代人の思考は、昭和初期の頃方、明治の方に、比べ、無意識に、我が儘ですよね。私も、いつも、思い知らされます。

昔、会社の社長や、団体の長は、どんなに、自分と意見が合わなくても、父であり、母として、奉公するのが、当たり前だった。だが、現代人は、嫌なら、辞めて、リセット出来る、環境が、自由が、存在する。

今、我々、一人一人が、我々で有る事を自覚して、


人の知恵に頼らす、神様の知恵によて、素晴らしい、生長の家に、なるよに、神想観して、行けば、きっと、また、元の生長の家に、戻るようになりますよ。

だって、神の子なんですも。

すいません、つまらない、お話、長々、書きまして。

皆様、幸せを、祈念して、ありがとうございます。

539義春:2011/11/04(金) 18:44:34 ID:iu5Ar./Q
さくら様
 レス遅くなって申し訳ありません。
全身全霊を尽くして述べてまいりたく存じます。
至らぬ点ばかりになってしまうかと存じますが、宜しくお願い申し上げます。
尚、余力がないので、ちょっとレスできなくなりそうですが、他意はありませんので、
宜しくお願い申し上げます。

540志恩:2011/11/04(金) 19:01:14 ID:psrFh/ZU
ももんが様

いつも生長の家そのままのすばらしいコメントをお寄せくださって、ありがとうございます。とてもためになり、感謝しています。

私は、両親もでしたが、5人兄弟姉妹、一人残らず熱心な生長の家ですので、みなと会うと、生長の家の話ではじまり、生長の家の話でおわるので、
可笑しく可笑しくて、みなでそのことを言って笑い合います。生長の家にふれて、本当に,ありがたいことだと思っています。

私の子供たちは、3人、みな結婚して独立しましたが、私のこと、「母さんは、こんな年になるまで、よくこんなに汚れずに
生きて来れたね。かあさんのような純粋ないい人間、社会にでても会った事はないよ」と、言ってくれます。

生長の家が、あればこそと、この世界一の真理にご縁がありましたことを、しみじみとありがたく思っております今日この頃です。

541ももんが:2011/11/04(金) 19:47:02 ID:XXCuaQns
>>540

志恩様へ

私の下らない、お話、お読み、下さり、ありがとうございます。

私も、母と祖母が、生長の家でして、最近、私も、母と祖母の意思を継承して、錬成会や浄心行なんか、行かせてもらってます。


祖母は、京都宇治に永代供養されてるので、代参で、お参りに、時々行きますよ。


宇治は、いいですね、平等院もあるし、川の宇治川の反対側には、清超先生の好きな、曹洞宗の道元禅師最初開い、お寺で、興聖寺が、ありますし。CMで有名な、お茶屋、福寿園・伊右衛門の本店が、あって、見学できます。


話が、横にそれて、申し訳ありません。


志恩様が、幸せでありますよに、ありがとうございます。

542志恩:2011/11/04(金) 20:05:57 ID:psrFh/ZU
ももんが様

おばあさまも、母上さまも、生長の家でいらしたのですね。古くからの生長の家人でいらっしゃるのですね。お幸せですね。
私も、宇治は,大好きなところです。
私は、学生時代の夏休みに、宇治の練成会に参加しまして、ある本部講師のお方に「原宿本部に奉職しませんか」とスカウトされて、本部に入る事を決めたんです。
私は、じつは、そのときには、就職先が決まっていたのです。日比谷のきれいなビルの会社、貿易会社のニューヨークマーチャンダイズ・カンパニーに、決まっていたんですけれど、
そちらを,お断りして、本部にさせていただきました。
貿易会社に行っていたら,アメリカ人と結婚していたかもしれません。私は、日本がすきなので、日本人のお方とご縁があり、そういう意味でも、本部に入ることができたのは、幸運でした。

543志恩:2011/11/04(金) 20:19:35 ID:psrFh/ZU
私は、高校生のときも、夏休みとかに、まめに飛田給や河口湖の練成会に参加してましたし、青年会も熱心にやってましたし、東京都の”生長の家高校生連盟”の副委員長もさせていただいていましたので、
何人もの本部講師のお方とは、以前から顔見知りだったという特典が、あったことも、スカウトされた理由の1つだと思います。

544ももんが:2011/11/04(金) 20:57:51 ID:XXCuaQns
>>543志恩様へ


志恩様、お話、ありがとうございます。大変な、ご経歴ですね。素晴らしい!

私などは、親不孝の鏡ですよ

私は、生まれ時に、祖母が、原宿本部へ、安産祈願へ行くと、田村ギョスイ先生直筆の、『甘露の法雨』の腹帯を、貸与されたそうです。普通、そう言う事無いそうですね?祖母は、大変喜んで、帰って来たそうです。


その後、私は、近所の仏教系の幼稚園に通い、子供心、御釈迦様に、憧れてました。


だから、成人してから、生長の家関係には、あまり触れず、仏教系のお寺や、最後、坐禅もしまた。

生長の家に通い初めてたのは、坐禅の師のお陰ですね。


有る意味、反抗していたんだと思います。


人間、心を素直なり、我臭を無くす事、根気のいる作業ですね。

私のような、甘い人間には、神様は、厳しい時もありますが、私と言う人生を、全う出来るよう、頑張ってみたいですね。

これは、聞いた話ですが、谷口雅春先生も、たくさん、一般信徒一緒、浄心行なさったそうですね。浄心行は、密教の胡麻行見たいですよね。

私は、生長の家を信仰する人皆が、浄心行して、心の底から、神想観するなら、生長の家は、きっと良くなると信じてます。

545義春:2011/11/04(金) 21:22:50 ID:iu5Ar./Q
>>544
ももんが様
はじめまして…いつも素晴らしいお話有り難う御座います。
私こそが親不孝の見本と云うべき者ですよ。
癌で二回も死に掛けて親に心配をかけました。
それでも、母は私を生かそうとして下さいました、
生かされたようなものですので、一所懸命日々を生きて、
早く母に楽させたいなって想ってがんばっています。

546「訊け」:2011/11/04(金) 22:07:39 ID:UodBcqiE
>早く母に楽させたいなって想ってがんばっています。

 いい話じゃあないか。

 ちなみに今度、福岡ソフトバンクホークスに入団する武田翔太くんを
紹介しておこう。

 彼は父親が障害者なのよ。それでお母さんが女手ひとつで家計を支えて
いたわけなんだが・・・そんな家族を見ていたからなんだろうね、この武田
君ってのは、非常に立派な男なのよ。「家族のためにがんばる」という思いで
野球に打ち込んだためだろうか、いつの間にか「高校球界ナンバー1投手」
になっちゃった。そしてSBから1位指名されたのよ。(それでいて非常に
謙虚な子なのよ。うちのセガレが見に行くと、いつもニコニコしてくれてね)

 そういえば昔、名前を忘れたんだけど五輪マラソンでこんなことがあったな。
「自分のためにがんばりました」とコメントした選手が銅メダルだったんだ
けど、「家族のためにがんばりました」とコメントした選手、これが銀メダル
だったね。
 ちなみに金を取った選手(ロバ選手?)のコメントは「祖国のためにがんばり
ました」だったなあ・・・

 まあ、親孝行せにゃならんね。(俺も)

追伸

 野球好きな方はぜひ、この「武田翔太」くんの応援をよろしくお願いします。
もう絶対、皆さんが気に入る子ですわ。

547ももんが:2011/11/04(金) 22:18:06 ID:XXCuaQns
>>545義春様へ

義春様、コメント、ありがとうございます。

義春様は、とても、人に、お優しいお人柄と御文章から、お見受けいたしました。


私も、昨年、父を癌で亡くしました。

病気は、成った者や、その家族にしか、わからい、部分もありまね。


世の中に、『不幸』言う、現象を、なるべく、少なくするのが、生長の家の教えの素晴らしい、ところなのに、最近は、『不幸』をばら蒔く、ように、なってるところが、凄く、私としては、悲しいですね。


たくさん、神想観して、喜びで、満たして、いきましょ!
義春様とお母様が、お幸せで有ります様に、ありがとうございます。

548さくら:2011/11/04(金) 22:44:14 ID:T/77sMGw
ここどこ。
わたしは、イケメンが大嫌いなのです、マジで。

549さくらブラック:2011/11/04(金) 22:58:15 ID:T/77sMGw
初心者さま、

今日は、デートだったんで。
明日時間できたら、返事かくので、
待ってて下さい。

550「訊け」:2011/11/04(金) 23:07:19 ID:UodBcqiE
>さくらマネ

 ・・・すみません。少しはしゃぎ過ぎました。

 そして実はわたし・・・あんまりイケメンではありません。(あくまでも〝あんまり〟)
ですのでお許し、を。

551さくらブラック:2011/11/04(金) 23:26:14 ID:T/77sMGw
そう、イケメンじゃないの、かんとく。
んじゃ、安心した。
福山の顔、マジで苦手なんだよね。

552義春@非イケメン:2011/11/04(金) 23:30:34 ID:iu5Ar./Q
私はイケメンじゃありません。
まぁ…リアルじゃ…もういいや・・・ハァ・・・。

553「訊け」:2011/11/04(金) 23:36:52 ID:UodBcqiE

 明日の祭ですが「足軽役」をおおせつかったくらいの、
そんなレベルのイケメン度です。ご安心を。

554「訊け」:2011/11/04(金) 23:38:08 ID:UodBcqiE

 ・・・ってなにが安心なんだ、俺。

555さくらブラック:2011/11/04(金) 23:38:25 ID:T/77sMGw
世の中には、だてくうむし、ってことばが、あるよ、よしはるくん。

あたしはね、その種の人間だな、

悪くないね。

556義春:2011/11/04(金) 23:38:58 ID:iu5Ar./Q
ももんが様
そうですか・・・お父様も癌でしたか…。
癌は中々、辛い病なのですよね…周りの方はそういった状態を見て、本当に辛い気持ちになろうかと感じます。
あの時の母の顔を思い出すと…ごめんねって、今でも言いたくなります。
そして私は末期癌も経験しましたが、末期になれば精神が崩壊する程の痛みです。
それが、何よりも辛いだろうと想います。

>世の中に、『不幸』言う、現象を、なるべく、
少なくするのが、生長の家の教えの素晴らしい、ところなのに、
最近は、『不幸』をばら蒔く、ように、なってるところが、
凄く、私としては、悲しいですね。

何と申しますか…真に、辛いですよね。
もう、そんな時じゃないって思いもします。

>たくさん、神想観して、喜びで、満たして、いきましょ!
義春様とお母様が、お幸せで有ります様に、ありがとうございます。

有り難う御座います!私は母が幸せなら、私はそれが幸せです。
そのために頑張って生きないとって思っています。
真に有り難う御座います。心が癒されました。有り難う御座います。

557さくらブラック:2011/11/04(金) 23:55:58 ID:T/77sMGw
ごめんなさい…
お話の続きは、信仰版でお願いできますか?
それとも、もうこの話は、生長の家では、ふさわしくないとの
ご判断でしょうか。

558さくらブラック:2011/11/04(金) 23:56:51 ID:T/77sMGw
トキ様、557消して下さい。

559さくら:2011/11/04(金) 23:58:57 ID:T/77sMGw
しばらく、反省のため、沈思黙考。

560初心者:2011/11/05(土) 00:28:56 ID:hogyfr1M
こちらでの書き込みは意味がないようですね。ボードの精神をないがしろにした
書き込みは、意図的な妨害と理解いたしました。

561義春:2011/11/05(土) 00:39:15 ID:SjZg29/2
初心者さま
さくら様
申し訳ありません。反省しております。
訊け管理人様のブログよりトーキングスティックの方法を再掲致しますので、このボードで書き込まれる方は、お手数ですが、ご一読の程をお願い申しあげます。

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65572497.html

562さくら:2011/11/05(土) 00:46:29 ID:T/77sMGw
もう、いいです。

563義春:2011/11/05(土) 01:20:32 ID:SjZg29/2
暫くパソコンが使えないので、トーキングスティックに参加させて頂きます。
>>525
さくら様
>費用を安く、少し面倒臭いけれど、野菜のお弁当を作ってみることとか、
自分ですこしだけ、手作りを心がけること、
商品を選ぶとき、高いものを選択する必要はないけれど、
どちらが地球に良いか、すこしだけ考えること。

『めんどくさい』という事に関して、今年の全国大会での雅宣先生の御講話で『めんどくさいという事を大事にしないといけない』という様な内容があったかと記憶しております。
あの時はアンチ雅宣先生でしたのですが、その点は同感でした。今ならば言葉に出来ますが、それは実体験、肌感覚という事を大事にしなければならないという事だと感じております。


>生活の中では、社会の矛盾や生命に関する考え方に、
すこしでも関心を寄せて考えながら、
自分の生活の選択を考えていく、そのような姿勢は大切だと思いますよね。

確かに、そうだと存じます。
その『すこし』も考えていないのが、現代文明の在り方であろうかとも存じます。
そして、その生命に関する視点がある方とない方の差は益々激しくなっております。
これは感性の差なのだろうか…何なんか、私にはハッキリしておりませんが、この視点がないという人たちに、どうやって訴えかけていくか…それを思います。

何故なら視点がないという人が圧倒的多数なのです。それは現代文明への疑問がないという人たちが圧倒的多数という事でもあるのですが、このままではいけないと存じます。

その具体的な方法等は、七つの燈台の誓願と、その意味する所を一刻も早く書き上げ、考えていきたく存じます。

564義春:2011/11/05(土) 01:54:47 ID:SjZg29/2
さくら様
参考になるかどうか分かりませんが2chのベジタリアンについてのスレッドのまとめです。
↓此処になります。
http://chaos2ch.com/archives/3129116.html

565義春:2011/11/05(土) 02:08:01 ID:SjZg29/2
>>564
それでこの引用元を見ていますと肉食についての考え方も様々です。

大まかに肉食をしないだけではなく、調味料に至るまで肉を必要にしない生き方をされている方から、健康の為に、肉食をしない方まで様々です。

それなのでノーミートの在り方についても複数の在り方を提示する事で、その人に合わせて選択出来る有り様を打ち出すのも大事かもしれません。

又、日本古来の肉食についての考え方は、信仰板に投稿してます、七つの燈台の誓願の次の投稿で触れておりますので、ご参考下さい。

引用元スレッドではベジタリアンへの悪印象も見受けられますので、それに対する反論にもなると私個人は考えております。

566さくら:2011/11/05(土) 10:20:16 ID:T/77sMGw
私の考えが、間違っていました。

広く書いて下さい、などと隙を作って、
はっきり言わなかったのが、悪かったですね。

もう一度、書きます。

私は、宗教や生長の家に接したときに、まとわりついて離れない違和感というものがあって、
その違和感を、
はっきりさせたいと思っています。

ます、それが、第一のテーマです。

宗教の違和感。
これをはっきりさせないで、
今後の生長の家の未来の話し合いは、ないと思います。

まずここからいきます。

昨夜からの一連の書き込み、
ボードに置いての書き込みとして、
私には、正直、大変違和感が、あります。

違和感。
感じない人には、私の取り組みは、さぞかし不快な話題でしょう。
私にとっては、あまりに真剣な問いかけであっても、
生長の家の教えに照らしあわされれば、
いい加減な迷いの産物ととられるのでしょう。

はっきり言いますが、
私には、生長の家の教えの解釈は入りません。

自分との闘いです。
だから、なかなか決意できなかったし、逃げもつくっておきたかった。

しかし、みなさんのおかげで、
決意できました。

逆に、私にも、違和感、あるなら、
その思いをはっきりと、
書いて下さい。
遠回しの、解釈講義は、入りません。

567さくら:2011/11/05(土) 11:46:09 ID:T/77sMGw
この違和感を、はっきりさせなければ、
宗教が問題解決をしようとしても、
同じことが繰り返されると思っています。

教えや真理を使って、世の中が変えられるように錯覚する人が必ずいたり、
信を持てば全ての解決がなされるとしたり、
誰の言った言葉が、絶対だ、違うと解釈をはじめたり、
宗教で社会的成功をおさめたことや、知識を持ってることを信仰の証明としたり、
宗教組織が信徒の信仰には、無関心だったり、



どんなに真摯に社会問題に取り組もうとしても、
宗教組織の矛盾に気づかなければ、
必ず限界がくると思っています。

その違和感について、
出来るだけ皆様と考えて頂きたいと思っていましたが、
甘かったと、反省しています。
やはり、孤独な旅になりそうです。

568初心者:2011/11/05(土) 12:42:38 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

違和感ということでいえば、たしかにぬぐいがたいものがありますよね。
わたくしがとくに感じるのは、生長の家の人たちの信仰的態度にたいする
違和感ですよね。そこには2重のごまかしがある。そんな気がしてならない
のでありますね。

文化的状態における宗教というのは、ダナオイの贈り物を受け取ったことによって
生じた失敗をとりつくろうためのものであるはずです。生長の家の人たちの信仰的
態度を見ておりますと、そうした失敗による宗教を受けいれて、なおかつそれを
正当化しようとしているように感じられるのでありますね。こうした2重の失敗が
あるのではないかと、こんなふうに感じられてなりません。

はっきりとした確証があるわけではないのですが、感覚としてぬぐいがたく
感じられる違和感の正体のひとつが、失敗をなおも正当化しようとする信仰的
態度に向けられたものであるよう気がいたしますね。もちろんこれは、これから
考えていかなければならないことだろうとも考えております。

孤独な旅。それは仕方のないことでありますよね。

569初心者:2011/11/05(土) 13:08:40 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

失敗を正当化する。もしもこうしたことが、生長の家で恒常的におこなわれている
とすれば、それたいして違和感を抱くのはとうぜんのことでありますよね。

失敗を失敗と認めて、それでもあえてその失敗にとどまってみせる。浅い見方で
あるのかもしれませんが、これがヘーゲルのいう「否定的なもののもとへの滞留」
の根本的な意味あいであるような気がいたします。

このあたり、まだ何も断定できる段階ではありませんが、こうした切り口からも
違和感の正体にせまってみたいと考えているところであります。

違和感の正体を見きわめ、可能なかぎりそれらのものを払しょくしてみせるには、
このまま孤独な旅をつづけるしかないということでありましょうね。

570八百比丘尼:2011/11/05(土) 13:54:36 ID:j8iOdie.

さくらちゃんの言うところの違和感、実は私もずっと感じてはいたのです。
もっとはっきり言えば、胡散臭さみたいなもの。
でも、生長の家の信徒として、そういう感情は自分の心が悪いのだろうと
自己嫌悪に陥ってしまったのです。
信仰すればするほど、自分を責めて苦しくなる。
でも、そんな気持ちは心の奥にじっとしまって、ひたすら良い人のふりをして
組織の中でお世話をさせていただきました。
本当は、潜在意識の私は苦しんでいたのです。
いつでも楽しげに笑っている私の表面しか知らない周囲の人達。
嫌なものは嫌、辛いときに辛いと言えない私の苦しみを、たぶんほとんどの人
は知らないでしょう。
今は、ちょっとうまく言うことができませんが、
少し整理がついたら、また書かせていただくかもしれません。
                          合掌

571初心者:2011/11/05(土) 15:21:36 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

真理の批判をいたします。根本的な批判です。

生長の家では「無の関門」ということをいいますね。「無は関門である」、こんな
言い方がなされます。「無の関門」とは、はたしてなんなのでありましょう。明確に
説明できる方がおられますでしょうか。

わたくしに流に説明すれば、「無の関門」とは、言語的2分法からの離脱ということ
になります。言語がほんらい的に持つ2分法的性格からの離脱。これが「無の関門」
であると考えます。

動物の世界というのは、基本的に2分法的世界であるということがいえそうです。
敵か味方か、安全か危険か、食えるか食えないか、オスかメスか。こうした
2分法的な世界を動物は生きているということがいえるような気がいたします。

言語もまた、これとさして変わらない2分法的な性格を持ちます。大きいか小さいか、
軽いか重いか、遠いか近いか、ウソかホントウか、あるかないか、つまりは、それで
あるか、それでないかという2分法的性格を言語は持つということがいえるのでは
ないかとおもうのであります。

2分法で世界のすべてを説明しようとするのが言語であると考えられます。もし
そうであるとすれば、わたしたちは、あるかないかという単純な仕方でしか世界を説明
できないということになってしまうのですね。こうした単純な仕方による世界の理解を
乗り越えようとするのが、言語的2分法からの離脱、すなわち「無の関門を通過する」
ということなるのではないかと、わたくしは考えるのであります。

ここで問題となるのは、言語的2分法を離脱して無の関門を通過することに、はたして
どれほどの意味があるのかということでありますね。生長の家では、「無の関門」を
通過することは、あたかも大変なことのように取り上げられていますが、それがいわれ
ているほどに大変なことなのか、というのが、言語的2分法からの離脱でしかない
「無の関門の通過」を大仰なこととしてとらえておられる、生長の家のみなさま方に
たいする、わたくしの根源的な批判ということになってくるのであります。

「無の関門の通過」は、言語的2分法からの離脱でしかありません。これはそれほど
たいした問題ではないということであります。通過してみせたところで、言語的2分法
の限界を突破してみせたということでしかありません。そんな程度のことで真理の
一端に接近できると考えておられるということに、生長の家の方々の、真理の見方に
たいする甘さがあるように、わたくしにはおもわれてならないのであります。

世界の真の姿、それを真理と名づけるとするなら、その真理に到達するには、
言語の限界それじたいを乗り越えるしかありませんね。言語の限界、それを
「ソシュールの関門」と名づけるなら、生長の家は、いまだ「ソシュールの関門」
を通過しえてはいませんね。ソシュールの名前でさえ語られたことはないはずで
ありますから、通過しえていないというのは、とうぜんのことなのであります。

「ソシュールの関門」を通過せずして真理は語れない。わたくしはこのように考え
ます。それであるがゆえに、たとえ「無の関門」を通過しえたにしても、いまだかつて
「ソシュールの関門」を通過したことのない生長の家に真理は語れるはずがないと、
わたくしはこのようにも考えるのであります。

生長の家は、いまだかつて真理を語ったことがない。これが、真理を語っていると
錯覚しておられる生長の家のみなさま方にたいする、わたくしからの根本的な批判と
いうことになるのであります。こうした批判をかわすために、「霊的直観」という超越項
を持ち出すのは可能でありますが、もしもそれができるのであれば、「無の関門」を
通過することに、はたしてどのよう意味があるのかという問いかけがなされることに
なります。「霊的直観」ですべての問題が解決できるのであれば、そもそも
「無の関門」を通過する必要はなかった、ということになるのであります。

572志恩:2011/11/05(土) 15:26:21 ID:psrFh/ZU
初心者さまも、さくらちゃんも、八百比丘尼さまも、たぶん、義春さまも、「違和感」について、強く感じておられるようなので、
「違和感」は、確かに存在するのだと思います。

私の大昔の本部時代は、まだ組織が、動き始めたばかりのときで、私は、地元に青年会を新たに作ったりしていましたが、まだ、組織としての違和感が、感じられないときでした。
思い出せば、上部の人で、自分の手柄にこだわる人も、いらしたことは、いらしたけれど、ごく少数でした。
信仰すればするほど,自分が苦しくなる事も無く、そのころから、いやな事はいやと言い、辛いときは,辛いと言ってたし、いい人でありたいと思いましたが
無理にいい人を演じようとしたこともなく、自然体でいれました。胡散臭さについても、なんとか、
思い出そうとしましたが、ないし、生まれつき、能天気な性格なのかもしれません。

生長の家人だから,いい人だということではなく、いい人が、生長の家をやっているか、性格の悪い人が、生長の家をやっているか、どういう精神の人が、生長の家を
やっているか、なのかもしれません。

でも、思い出しました。あの当時(昭和30年代後半〜)企画局の佐脇先生、林先生、大狭先生と、時間外にお茶をのみながら部屋で団欒したとき、佐脇先生がおつしゃったこと。
「まだ、組織がはじめのころは、今よりもっとよかったんだよ。もっともっと家族的だった。皆、貧乏だったけれど、大判焼きをほおばりながら、皆、徹夜で真理を語り明かしたり、光明化運動を
ひろめるためにはどうしたらいいか、語り明かしてた。あのころが、一番たのしかったな」

私としては、当時も充分、家族的に思えていました。お山の先生方も本部職員との交流を深めてくださっておられた時代でした。
清超先生も、まだ副総裁でいらしたので、心も時間もゆとりが、おありになるご様子で、私は、なにかの集まりで、お山に行った時、お山に卓球台がありまして、
私は、みなさまと はずれて畏れ多くも清超先生と、まじで卓球の試合をしたこともございました。勝ったのは、私です。高校のとき卓球部で卓球の対校試合にでていたほどの腕でしたから。
その他も、数多くのエピソードは、ありますが、差し障りがあるといけませんので,省きます。そのくらい家族的だったということです。

あのときから何十年と月日が流れて、組織も信仰も、年月とともに、初心者さまが、おっしゃるように信仰的態度やその他のことも、変わって来たのでしょうか。
それとも、最初から、あのころから、この信仰運動は、まちがっていたのでしょうか。

573志恩:2011/11/05(土) 15:32:53 ID:psrFh/ZU
いま、書き込みをし終わってから初心者さまの571の投稿文を拝見しました。どうも、私の文は、横道にそれているようです。
初心者さまの疑問は、組織の違和感というより、生長の家の根本的な真理に対する違和感のようですね。
ピントが、はずれているようで、すみませんでした。

574初心者:2011/11/05(土) 16:00:47 ID:hogyfr1M
志恩様

すでに志恩様が言及しておられますように、わたくしは、根源的なところで
違和感の正体をあきらかにできたらと考えております。個別に、あの人はいい
とか、あの人はよくないとかのレベルでの違和感を語ろうと考えているわけでは
ないのでありますね。

わたくしが、生長の家のみなさまにたいして抱いている違和感とは、それが
救済であるにもかかわらず、真理であるかのごとく語られていることにたいする
違和感であるような気がいたします。

生長の家で語られているのは、救済に役立つ真理でありますね。このように
信じれば救われる。そのような言葉が語られているのでありますね。なのに、
そうした言葉があたかも「真理それ自体」であるかのごとく語られていることに、
いいようのない違和感を抱かざるをえなくなっているような気がいたします。

生長の家で、おそらく「真理それ自体」は語られておりませんね。生長の家で語られて
いるのは救済であります。そうした救済の言葉を、あたかも真理のごとく思い違い
している人たちが、真理でないものを真理と思い込むことによって生じる矛盾を解消
するためにシニフィアンを暴走させているような気がしてならないのでありますね。

生長の家の方々の信仰的態度にたいする違和感とは、矛盾を解消するために、
たえずシニフィアンを暴走させているみなさま方にたいする違和感でもある
ような気がいたします。

ではその「矛盾」とはなんであるのか。それを突きとめてゆけたらと考えおります。

575義春:2011/11/05(土) 16:40:13 ID:iu5Ar./Q
根本的なところかどうか、私には分からないのですが、
宗教全般に関しての違和感で、一つ確実に言い切れる所があります。
キリスト教では特にそうなのですが『真理は汝を自由にならしめん』と言いますが、
この言葉に反して、キリスト教では真理の強制と云うものが、よく行なわれていました。
何と申しますか、『真理は汝が自由である』って変換されたの?と思えるくらいなのですね。
または『真理は汝を自由にならしめん、但し真理の間だけである』なのかもしれませんが・・・。
そして小なりとも、その傾向は生長の家でもあり、真理で以て、往々にして他人を裁き、
『真理で自由である』と変換されている事を見かけるようであります。
それなので、今でも悩むところがあるというのが正直なところであります。

576さくら:2011/11/05(土) 16:49:20 ID:T/77sMGw
初心者さまへ

初心者さま。
あなたは、知っていましたよね、ずっと。

私は宗教組織にいたので、
真理への道は、たった1人の道だと、
忘れるところでありました。

何度も、ここへ書く意味を失いそうになっています。
何度も、もうこんな話題いいんじゃない、って思っています。
こんなこと書いて、何の役に立つ?
だれが宗教の矛盾になんて興味持つ?
だれが、宗教組織の矛盾になんか本気で考える?
どうでもいいでしょ、もう。
こんな一部のバーチャルな世界で、向き合おうとする問題なのか?
デートも断って、取り組むべき問題なのか?
宗教のいいとこどりして、楽しんだ方がお得じゃない?
私は神を求めて、身も心もぼろぼろにされたんだ。
でも、もう終わったじゃないか。
そんなの忘れて、自分を楽しもうよ。


それでも、あなたの言葉があって、なんとか、ここに留まっている、
それだけのことです。

孤独な旅は続けるしか、ありません、
その通りですね、
たとえここへ来なくても、私から、この問題が消えるわけじゃないですし。

孤独な旅に、たった一人でも、たったひと時でも、
心寄せてくださる方がいれば、私には、救われる思いであります。
どんな、抜き書きの真理のきれいな言葉よりも、どんな立派な行いの表明よりも、
真実を語ろうと真摯に向き合って下さる姿勢を、
私の心にとても近くに感じる思いであります。

分かりますか。

577さくら:2011/11/05(土) 16:50:42 ID:T/77sMGw
比丘尼ねえさま

あなたのセンスには、いつも宗教組織の中で活動してたら
なかなか感じられない、
すごく人間的なあたたかさと
なんというか、色気を感じています。

志恩さまも言ってたけど、
いい恋愛もしてきたのでしょうね。
そんな話もしたいなー、
って思わせて下さる、素敵な女性です。

だから、大好き。

わたしも、
ほんとは、いい子ちゃんの仮面をかぶって、宗教組織にいて、
すごく苦しかった。
やってられないですね。

おかしいことをおかしいっていえないんだもん。
愛や神を真摯に求める人の方が、
結構おかしい扱いされたり、する。

比丘尼ねえさんとなら、
はなせるなーって気がしてます。

宗教への違和感。
どうぞ語ってください。

ありがとうございます。

578さくら:2011/11/05(土) 16:51:32 ID:T/77sMGw
志恩さま

大変失礼ですが、
私も初心者さまに同じで、
生長の家の、人間関係がどうあったか、
宗教をしていて、どう社会的に成功したかの中に、
解決方法があるとは思っておりません。

根本的に、真実を知りたい。
そのことに焦点を当てたいのです。

失礼をお許しください。

579義春:2011/11/05(土) 17:02:23 ID:iu5Ar./Q
>>575に続きます。
初心者さまの御文章を拝読して、この違和感がそれが原因であるのかなと
気がついたのですが、『真理は汝を自由にならしめん』は救済での言葉なのかもしれません。
ですので、真理そのものに関しての言葉ではないのかもしれません。
確かに、初心者さまの仰るトリプルバインドは起きていると納得できます。
今、私が記しています、誓願も救済についてかもしれません。
まだまだ勉強不足で申し訳ありません。

580さくら:2011/11/05(土) 17:15:47 ID:T/77sMGw
義春さま

前のところで、肉食について書いてくださり、
ありがとうございます。
すみません、後でこのことにも、ちゃんと、向き合います。
いつも真摯に考えて下さり、感謝に堪えません。

生命尊重の観点
健康への影響
命を扱うということを軽視する社会システムの問題
食糧飢餓に繋がる問題
資源の奪い合いを引き起こす問題

様々な視点から、肉食の弊害を考えて訴えていく必要がありますね。



義春さま、なぜ宗教が、崇高な理想を掲げながら、
その理想を実現できないのでしょうね。
自由をならしめるはずの真理が、人を縛るのでしょう。
人を愛するはずの真理が、人を判断したり、お互いをを裁くようになるのでしょう。

根本的な問題を考えていかないと、
やはり、このことは繰り返しになるように思います。
生長の家も、例外ではなく、やはり向き合うべき問題だと考えるのですが。
試行錯誤です。
よろしくお願いいたします。

581義春:2011/11/05(土) 17:32:47 ID:iu5Ar./Q
さくら様
いえ、板の性質から外れてしまったので、トーキングスティックの姿に戻そうとして、
どうしたら良いのか悩んで、取り急ぎ、前の流れを生かしただけなのです。
肉食の弊害については後ほどという事で。

>義春さま、なぜ宗教が、崇高な理想を掲げながら、
その理想を実現できないのでしょうね。
自由をならしめるはずの真理が、人を縛るのでしょう。
人を愛するはずの真理が、人を判断したり、お互いをを裁くようになるのでしょう。

私は真理と救済が一体化させないといけないというものがそうさせていると考えています。
確証はありませんが、真理は万能でないといけず、真理で救済も行なわれなければならない。
それだから、真理からはずずれば、その真理の証になっています救済も出てこない。
だから、人を縛り、裁いてしまっているのでは・・・?と個人的に考えています。

>根本的な問題を考えていかないと、
やはり、このことは繰り返しになるように思います。
生長の家も、例外ではなく、やはり向き合うべき問題だと考えるのですが。
試行錯誤です。
よろしくお願いいたします。

是非、参加させていただきます。誓願について記しながらでありますが・・・。
真理と救済、どちらについても考えていかなければならないと感じております。
至らぬ点は多々出てくるでしょうが、宜しくお願い申し上げます。

582志恩:2011/11/05(土) 17:32:51 ID:psrFh/ZU
さくらちゃん

私は、宗教をしていて、どう社会的に成功したかという外見的なことをいって、それが、今回のテーマの解決法だということを言った覚えは、一度もありません。
また、人間関係がどうあったかで、解決するともいっておりません。
たまたま、姉妹が、生長の家の教えを実行して、夢を実現できたことを、以前に別のスレッドで体験談として申し上げたことは、ございましたが。

私は、違和感が生まれたのは、組織の長い年月による変遷によるものか、それともこの信仰運動自体が、まちがいだとおもわれているのかという疑問は、申し上げました。

535:のさくらちゃんの今回のテーマは

・宗教組織と本来の信仰心との間にある、違和感、嫌悪感の正体
・これからの生長の家の活動の新しい可能性を考える(組織を超えた信仰運動として様々な問題に取り組むために、どう考えどう行動するかという課題) でした。

そして、何にたいして一番初心者様とさくらちゃんが、違和感をかんじているのか、私は、先に言いましたが、組織の変遷にあるのかなと感じたりしていましたが、さきほどの
初心者さまの投稿文を拝見して、初心者さまは、この生長の家の真理自体に、違和感をお持ちだと、理解した次第です。

あとは、わかりませんので、みなさまの投稿文を拝見して、勉強させていただきます。

583さくら:2011/11/05(土) 18:20:43 ID:T/77sMGw
志恩さま

私は、今藪の中を、かき分けかき分けすすんでいる気持ちでいます。
自分の課題に精一杯で、配慮の欠けた言い方をしているかもしれません。
申し訳ありません。
これは、皆さまにもお許しいただきたいことでございます。

志恩さまの信仰姿勢には、尊敬しているのです。その点は変わりありません。
どうぞ、この板では、御理解いただけたら、大変ありがたい思いでございます。

584さくら:2011/11/05(土) 18:21:31 ID:T/77sMGw
初心者さま

本来「シンプル」であるはずの真理や信仰が、
大変複雑なものとして扱われるのが、
宗教組織の様な気がしますね。

複雑にしておけば、「得」をする人間がいる。
社会そのものもそのようなシステムかもしれませんね。

救済、真理、信仰。
初心者さまが言われていたように、
それぞれのことがはっきり示されていないまま、
生長の家でも、信、ということに、片付けられているような気がします。
まだまだ、信仰が足りないから、未熟なのだ、
信仰が足りないから、教えを理解できないのだ
信仰が足りないから、人が集まらないのだ
信仰が足りないから、社会的に成功もできないのだ
信仰が足りないから、雅春先生の教えを否定するのだ

宗教やってるとどうしてもこのような思考に陥りやすいです。
組織の運動の問題も、いつもこのことで、堂々巡りの様な気がします。
何も根本的な問題の解決にはならない、考えだと思えますが。
それは、雅宣先生も指摘していました。
ではなぜ、信が足りなかったか、信とはそもそもなんなのか、何に対する信なのか。
今までそうしたことにまで言及しようとは、為されなかったようです。


真理そのものと、救済ということは、繋がっていながら、
きちんと分けて把握しなければならないことと、感じられます。
そして信仰とは、個人と神を繋げるのに、どのような意味を持っているのか、
向き合わなければならないと考えられます。

初心者さまが以前、
>ブッダやキリストは、ジュリアン・ジェインズの二分心の仮説によれば、左右の脳が脳梁でむすばれたことで、高度な言語能力を獲得した人類が、自然状態をはなれ、文化状態へとひきこもったことによって生じた不具合を矯正するために登場したということになっていますね。

そう仰っていました。
このことを聞いて、宗教の出現自体、人類にとっては、不自然だったと思わずにはいられません。
その不自然な産物を、権威として扱ったり、人を操るためのからくりをつくったり、
今までのそうした宗教組織の実態こそ、不自然なものの、違和感を感じるものです。


>こうした「視線の一致」を、ジジェクは倒錯的な享楽と見なします。もっとも禁欲的で
あるべき宗教が、ほかのあらゆる欲望よりもさらに欲望的である享楽を追い求めて
いると、ジジェク的にはこのように解釈されるのであります。

宗教が欲望的である、というのは、宗教をしている人には、
認めたくない、ものかもしれません。
宗教が欲望の抑制をうたっていて、
しかし、欲望とはなんなのか、自覚がないまま、
宗教的な欲望を結局は追い求めている、
このことを自覚した時、ある違和感の一面にも気づくはずだと思いますが。

違和感の自覚自体もなかなか難しいものがあると感じるようになりました。



>こうしたやり方は、男性には好まれても、女性にはあまり好まれたりはいたしません。
男性信仰者は、神が神する、実相が実相する、という言いまわしを好んで
もちいますね。そうすることで脳内物質を分泌させ、ひそかな享楽を楽しもうとして
おりますね。このようなやり方で、宗教的享楽を、どこまでも追い求めようとする
男性信仰者に、女性のみなさまは、もしかしたら心のどこかで気づいておられて、
そのことでいい知れぬ不信感と違和感をいだいておられるのではありませんか。

男性の快楽の感じ方求め方と、女性の快楽の感じ方求め方は、明らかに違いますね。
それも興味深いテーマでありますが、あらぬ脱線を起こしそうですので、ここでは深入りしないことに致します。

男性女性の真理の求め方、実践しようとする仕方も、違いがあるようですね。
宗教社会の中で、男性は「宗教的享楽」を求めることに夢中になりすぎて、
女性の真理の求め方や真実の愛の実現の仕方を、
時に、軽視することがございませんでしょうか、?
どちらが崇高であるのか、そちらが神に近いのか、
分からないところでございますが。

585義春:2011/11/05(土) 18:48:22 ID:iu5Ar./Q
>>581に関して訂正と云うべきか補足させていただきます。

>真理は万能でないといけず
ですが、真理と救済を分けて考えていかず…の方が正確な私の考えでした。
手探りで考えているので、ご容赦下さい。

586初心者:2011/11/05(土) 19:41:42 ID:zmyXmAyk
さくらちゃんへ

>孤独な旅に、たった一人でも、たったひと時でも、
心寄せてくださる方がいれば、私には、救われる思いであります。
どんな、抜き書きの真理のきれいな言葉よりも、どんな立派な行いの表明よりも、
真実を語ろうと真摯に向き合って下さる姿勢を、
私の心にとても近くに感じる思いであります。
分かりますか。

1里を行くものとともに2里を行け、という言葉がありますね。さくらちゃんとともに
であれば、わたくしは、2里どころが、3里でも5里でも行きたい気分であります。

それにしても、心を寄り添わせるというのは、むつかしいことではありますよね。
自分では寄り添わせているつもりでも、相手は迷惑に感じているということが
ないとはいえませんね。さくらちゃんからこのように表明していただけたことで、
寄り添わせていただけてる、ということが確かめられたような気がいたしております。

>男性の快楽の感じ方求め方と、女性の快楽の感じ方求め方は、明らかに違いますね。
それも興味深いテーマでありますが、あらぬ脱線を起こしそうですので、ここでは深入りしないことに致します。

女性は、自然にあるがままに、男にくらべてより多くの快楽を享受できるような
仕組みになっておりますよね。男は、女性にくらべて、自然に受け取ることのできる
享楽は圧倒的に少なくできているようであります。こうした享楽の分量の不足を、
男は人為的な仕方でおぎなうよりほかはないでありましょうから、真理の求め方に
おいてすら享楽的にならざるをえないのではありますまいか。

真理とは、少なくとも男にとっては享楽でありますね。享楽は、それを追えば追うほど
外傷的な体験となってはねかえってまいります。それが、ジジェクのいう、「共生を
学ぶべき堪えがたい真理」ということになるのでありましょうか。

真理それ自体への接近。それは享楽的な体験であるがゆえに、外傷的な体験と
なってはねかえってくるのでありますね。外傷的な真理といかにして対決するか。
これが、少なくとも男にとっては、ほんらい的な真理とのかかわり方であるような
気がいたします。

わたくしが感じる違和感が、ほんらいであれば享楽的で外傷的であるべき真理を、
欲望のレベルにおしとどめることで、外傷的体験を回避しようとつとめる男性諸氏に
向けられたものであるのは、ほぼ間違いのないところだろうという気がいたします。

>宗教社会の中で、男性は「宗教的享楽」を求めることに夢中になりすぎて、
女性の真理の求め方や真実の愛の実現の仕方を、
時に、軽視することがございませんでしょうか、?

わたくしは、不思議と、生長の家の女性のみなさまにたいしては、違和感を抱くと
いうことがないようでありますね。「宗教的享楽」を追い求める必要のない女性の
みなさまにたいしては、「宗教的享楽」の求め方に違和感を抱くこともないという
ことになってくるのでありましょうか。そのぶん、女性のみなさの信仰の姿勢に
たいする関心のうすさというのは、あるのかもしれませんね。

587初心者:2011/11/05(土) 20:11:57 ID:hogyfr1M
志恩様

わたくしは、生長の家で語られる真理自体に違和感があるといっているのでは
ありません。真理でないもの真理と思い込み、その間違いを、シニフィアンを
暴走させることで覆い隠そうとしている方々にたいして違和感があるということを
申し上げているのであります。

「ソシュールの関門」を通過しないかぎり真理を語ることはできないとわたくしは
考えます。真理とおもわれているものの正体は、シニフィアンの連鎖であります。
シニフィアンを連鎖させることが真理を語ることであると、思い違いをなさって
おられる方々が少なからずおられるということなのであります。

シニフィアンの連鎖で真理を語ることはできません。ですが、シニフィアンの連鎖で
人を救うことはできるはずです。たとえそれがシニフィアンの連鎖であったとしても、
人が救われたのだから、それは真理であるにあるに違いないと、そのように思い
込まれてしまうのでありますね。

こうした思い込みによって、生長の家では、そしてほかのほとんどの宗教においても、
シニフィアンの連鎖が真理であると思い違いされているのであります。

シニフィアンの連鎖が真理であれば、シニフィアンを暴走させることもまた真理である
と考える人たちが出てきたとしても不思議ではありませんね。こうした、不思議とも
いえない出来事がじっさいに起きているのかいないのか、それを突きとめていく
ことが、さくらちゃんの問題提起によってはじまった、今回のボードの中心的なテーマ
のひとつであるような気がいたしております。

588初心者:2011/11/05(土) 20:15:58 ID:hogyfr1M
義春さん

真理は汝を自由ならしめん。わたくしは、この言葉の意味がいまだにわかりかねて
おります。本流の掲示板でこの言葉を引用しておられる方が、ときとしておられる
ようでありますが、掲示板で引用される以上は深く理解しておられるはずであります
から、いちどたずねてみたいとはおもうのでありますが、なにせ書き込み禁止の
身の上でありますので、いまだかなわざる願いということになっておるのであります。

じっさいは、トリプルバインドでがんじがらめになっている、というのが実情のように
感じます。たとえばですね、「真理は汝を自由ならしめん」という言い方は、真理を
知ったからには自由に生きよ!という命令形につながっていたりもするはずなので
ありますよね。真理に命令され、しばりつけられている方々があまりにも多いのでは
ないかと、このようなことを考えてしまいますね。

たとえば救済活動。これもまた、「救済せよ!」との真理の命令にかりたてられる
ようにしておこなわれている可能性がありますよね。信仰もまた、「真理とともに
あれ!」との命令形でなされているのかもしれません。

真理、救済、信仰が「ボロメオの輪」の関係にあるとすれば、それぞれは、たがいに
分離され離れ離れであるにもかかわらず、一見すると、強固に結びつけられている
ような錯覚にとらわれてしまいますね。こうした錯覚から、救済や信仰は真理と結び
ついていなければならないとする思い込みが生じている可能性は否定できないので
ありますよね。

こうしたことがらについて、いまいちど考えてみる必要があるようにもおもうのであり
ますが、「信が第一である」といっているような方々にどこまで受け入れていだける
のかといえば、それはほぼ不可能であるといわざるをえないのが、これもまた実情
であるようにおもうのでありますね。

そういった方々のご参加は無理としても、かぎられた人数であってもよいので、
このボードで考えてゆければという気がいたしております。

589ももんが:2011/11/05(土) 23:04:39 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます。

今日は、東北被災地に、ダライ・ラマ法王来られ、被災地の寺院で、法要に、参加されたそうです。御既得な、事です。ダライ・ラマ法王は、我が国なら、天皇陛下と同じ存在です。何故なら、ダライ・ラマ法王は、観世音菩薩の化身ですからね。


ダライ・ラマ法王だけが、出来る、仏教後期密教、最高の儀式、時輪タントラの灌頂は、ダライ・ラマ法王だけが、出来る、儀式です。

我が国の、高野山で、行われてる、真言密教の、伝法灌頂や結縁灌頂は、仏教中期密教の灌頂で、儀式としは、未完成品の灌頂とされてます。


チベットの仏像や、曼陀羅には、男女抱き合いの、仏像や仏画が、あります。


日本人の宗教感覚とは、違う、優れた、宗教感覚や、宗教思想があります。

それに、彼らは、祖先は、敬いますが、お墓は、無いのです。

自然葬ですね。


私も、向こうへ、旅行へ行った事が、あるの、分かるですが、何せ、富士山より、高い所で、人々が、生活し、在家も、出家も、決めらた、戒律、必ず、守り、生活してるのが、印象的でしたね。

宗教即生活、生活即宗教と、いゆう事です。


とにかく、食事たいする、戒律、宗派や、信じる、仏様によっても、違うようです。


日本もかって、戒律を守って、宗教生活を実践できましたが、現代人は、私も、含めて、我が儘だから、本当の宗教生活は、難しいでしょ。

自分の心の我が儘を、無くす、訓練をするよう、皆様、共に、頑張っていきましょう!

神様、皆様の我が儘治り、仲良く、慣れますよに。ありがとうございます。

590八百比丘尼:2011/11/05(土) 23:08:39 ID:j8iOdie.

 信仰すればするほど苦しくなる、というジレンマ。
これも自分の信仰心の薄きがゆえと己を責めます。

人を責めるなかれ、裁くなかれ。の教えに従って、間違ったことにも
目をつむってきた自分が情けない。

不二子ちゃんは、非常にまっすぐで正義感の強い女性ですから、
おかしなことは、おかしいとはっきり会議の席でも発言しました。
そのために誤解され、出講停止になり周りから敬遠されました。
でも、私は彼女のまっすぐさが羨ましかった。
彼女のことをずい分悪く言う人もいました。
その代わりのように、私は良い人(たぶん都合の良い人、使い勝手の良い人)
とおだてられ、色々と頼まれてきました。
波風を立てるのを好まぬ私は、取り合えず笑顔で皆さんに接していました。

でも、本当に愛深い人間はどちらでしょうか。
耳の痛いことでもちゃんと言ってくれる人でしょうね。
私は、いばりんぼう夫人にも地雷女にも、いつも低姿勢で話を合わせていました。

それは、彼女たちが私にとってどうでもよい存在だったからです。
世間から嫌われようが、評判が落ちようが知ったことではなかったから。
とてもひどい言い方をすれば、人間と思えば腹も立つが、道端の石ころだと
思えば腹も立たない。
気づかずにつまずいて転んだとしても、相手が石ならば自分の不注意さを
責めればよいと。

われながら、とてつもない冷酷な人間だと思います。
不二子ちゃんは違います。正面からぶつかって行きます。
彼女の中には熱い情熱と愛があるのです。
でもそのために彼女は、身も心もボロボロになりました。
生長の家の人達は、彼女を助けてはくれませんでした。
かえって嘘つきの地雷女を持ち上げて、不二子ちゃんを責めました。
地雷女が自分の都合のいいように話をでっち上げて、彼女を陥れたから。

地雷女は人格が崩壊していました。
それは子供時代に親に捨てられたか、虐待されたかのトラウマのせいだった
らしいのですが。
それならば何故、生長の家の人達はただ、気の毒な人だから言う通りに
してあげて。などというおためごかしを言うのか。
それが本当の宗教的な救いになるのですか。

私は絶望しました。
これでは、大声でわめき散らす人間だけが得をする社会と同じではないか。
もう私がここにいる理由はない。
このまま教区に留まれば、心の中に地獄の風が吹き荒れそうな気がしました。

本当の救いとは何ですか?
本物の信仰って何ですか?

591HONNE:2011/11/06(日) 00:00:37 ID:jtmmmlXY
神は「喜び」だそうです。
ですから、自分の行いについて、魂の底から喜びを感じるならば、自分の行いに自身を持って良いのだと思います。
そしてまた、自分の行いを理解してくれる人が、一人でもいてくれたなら、それはそれは、うれしいものです。

592ももんが:2011/11/06(日) 07:37:19 ID:XXCuaQns
皆様、ありがとうございます
お釈迦様のお言葉には、『自己のより処は、自己のみである、どうして、自己を知らないのに自己が、他者を救えるのか?自己の心知り、思い尽くして、修行することが、悟りへ近道であり、世を救う道である』と


此れと、近い、お話が、昭和の名僧、山本玄峰老師と、当時、老師にお世話に、なってた、田中清玄さん、会話から、理解できます。


老師は、ある当時、清玄さんに『お前、何の為に、修行してるのか?』と、問います。
清玄は『はい、日本の為です』と答えます。

この時は、老師は、何も言わずに、帰ります。

また、暫くした日に、老師は、『お前は、何の為に、修行してるのか?』

自信満々の清玄さん『はい、日本の為でございます!』

すると、にわかに、老師の顔色が、激変、怒声ともに『バカ者め!わし、わしの為に、修行している、一変足りとも、他人様の為に修行した事なぞ無い!』


清玄は、この一つ渇に、修行の本来の意味を悟られたそうです。何故、『自分自身の為に修行してる』と言われた老師は、たくさんの人々を救われてる姿まのあたりし、逆に、『日本の為に修行してる』と言った自分が、誰の約にたっていないからでした。

清玄さんは、この言葉で、目覚めて賢明に修行なさったようです。


私は、『他人救う』と考えは、好きでは、有りません。


寧ろ、それは、自己の驕りに、繋がるからです。

私も、また、修行未熟者ですが、他者に手差しのべる時は、『神様から頂いた、修行』と思い、ありがとう!と言う気持ちで、行います。


本来、生長の家の、救いも、修行の一環だから、救う側にありがとうが、無いと、無い、成立しない、行だと、私は、心得ます。


では、皆の、今日の幸せを、お祈りして、ありがとうございます。

593さくら:2011/11/06(日) 08:49:14 ID:T/77sMGw
宗教組織において決定された教義や方針に対して、
それに従う信徒の良心の葛藤、という構図は、良く見られそうですね。

宗教組織の権威的に決定される教義や方針に従うことは、
個人の良心や、本当に神に従うことになるのか、
そんな葛藤が生まれることがあります。

前にも書きましたが、「エホバの証人」の中枢幹部のレイモンド・フランズが
書いた「良心の危機」という本がありますが、
これは、純粋な動機で始まった宗教運動が、組織の成長とともに、
次第に権威的支配をふるうようになり、信徒や幹部の信仰や生活を犯していく様を、
組織幹部としての立場から、赤裸々につづったものです。

この著者は、自分の経験した宗教的権威に対する憎悪の気持から書いたのではなく、
真実を知った者は、
ある事実が人々を危険にさらされることであるならば、
たとえその真実が、何かを傷つける結果になったとしても、
自分が知った真実を隠すことは、道徳的義務から逃れる言い訳にはならない、
との信念から、この本の出版を決意した、と記しています。

真実を明らかにする、というのは、勇気がいるし、
自分だけでなく、周りのものを傷つけることになるかもしれないし
その真実と向き合わなければ、なんの抵抗にも遭わずにすむ、
たいてい、その場その場で、なあなあに随うことを選んでしまうことが、
大半の様な気がします。


生長の家のような良心的宗教組織において、
宗教の権威的支配など大げさかもしれません、
表だって、信徒の生活や信条を犯すことのない自由がありますし、
他の閉鎖的宗教組織の構図に、そのまま当てはまる、というわけではありません。

しかし、組織の方針と、信仰との間の葛藤という点は、他人事の事情ではなく、
どの宗教団体であっても、真剣に活動すればするほど直面する問題だと感じられます。

この団体でも、組織の教義や方針に異議を唱えて、追放になった幹部が大勢いました。
その方たちには、自分の宗教的良心に反していると感じ、
耐えられない衝動があったのだと思いますが、
その行動から起こる事態は、宗教に関わらない一般の方が考えるより
物質面でも心情面でも損失が大きいことと言える事実があるようです。

ある一面の見方として、生長の家では、現在、雅宣総裁という、いわば生長の家においては「権威的」存在の決定する方針や教義の解釈に、
異議を唱える、また信仰的良心というものに葛藤を覚える幹部や信徒がいる、いう状況があると言えますね。
雅宣総裁に、異議を唱えて、方針に従えない、とする人にとっては、
自分の信仰の良心に従うことという信念をもっていることであり、
その良心に従うことこそ、正義なのだと信じていると思います。

エホバの反乱においても、異議を唱えて追放になった幹部のその後の行動は様々で、
反対運動をして声高に正しいことを主張するものや、
内部暴露であることないこと中傷する行為にはしるもの、
ただ、自分の信じる信仰生活を穏やかにおくるもの、
正しいと思う聖書の解釈を信じて伝える運動をおこすものなど。

組織型宗教には、多かれ少なかれ、そうした構図が見られるのかな、と思いました。

594さくら:2011/11/06(日) 08:50:08 ID:T/77sMGw
ももんがさまが書いて下さってる内容は、
このボードのテーマでも、大切なことであるように思います。
信仰は、あくまで個人の犯すことのできない神との関係を築くためのものだと、
わたしも感じます。
信仰は、世の中や人を変えるためには用いられない、
宗教組織においては、これを混同していることで、
葛藤が起こるような気がします。

なんのための信仰であり、
なんのための真理であり、
なんのための救済運動なのか、
それをはっきり分けて考えないと、
宗教においての、運動、活動というものは、
どうしても、行き詰まりや矛盾、葛藤に突き当たるような気がします。


比丘尼おねえさまの葛藤は、
わたしには、良く理解ができます。
時に宗教団体において、自分の良心に従うことが、
あまりに抵抗を生むことだったりするので、
ほとほと疲れてしまうことがあります。
だから、無難に組織にいようと思えば、
そんな葛藤を感じ無くなれば、一番楽なことです。

組織にいなければ、自分の自由の意志で宗教的良心から選ぶことができたの行動が、
組織の方針、組織の義務、組織の命令、組織の雰囲気に
かなり縛られてしまっていることがあります。

595さくら:2011/11/06(日) 11:09:05 ID:T/77sMGw
宗教哲学家であり教育者であるJ・クリシュナムルティは、
「宗教組織や組織的な活動によって真理に到達することは不可能である。」
として、自ら率いていた宗教団体を解散し、
生についての真実は、各々のそれぞれが自分自身で発見しなければならない、としました。

どんな宗教的教義や権威も信じず、永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間のあり方を提唱した方のようです。

このクリシュナムルティは、言葉によってつくられるシンボル的概念的世界で生きている人間は、真実を生きているのでなない、という指摘をしています。
宗教的な組織的、霊的経験も、
実在する真実そのものよりも、シンボルや言葉が重要視され、
言葉によってもたらされる刺激により、あるシンボルが最高の内的権威、努力の対象である理想となるような仕組みがある、それを超えなければ、個人の精神的変容(悟り)はありえない、としています。

「ソシュールの関門」と初心者さまが仰いましたが、
そのことに通じ重要なことがある気がいたします。

他にも、宗教に対する批判で、この方の主張は、
とても共感できるところがたくさんあります。

596ももんが:2011/11/06(日) 11:34:06 ID:XXCuaQns
>>594

さくら様、私のレスに、コメント、ありがとうございます。

しかし、私が、レスで、書いた、お話は、宗教生活の、神様と自分と関係は、あくまでも、個別の問題あるというとです。


さくら様が、『もし』? 組織の問題で、御悩みなら、それは、さくら様の自身の心の問題であり、神様が、さくら様が、与えた、さくら様が、神想観をして、解決していくべく、与えらた、問題だと、私は、思います。


神様は、各個人、個人に、解決すべき、問題を、与えるのであって、それが、自己の内部(心の目)で、解決出来ないかぎり、苦痛や、違和感に、成って、感じらるのは、私の数少ない、体験からでも、明らかです。

病気であれ、人間関係、会社の問題であれ、自己の問題が、自己の心の内部で解決した時、宗教生活をし、神想観なり瞑想したりしてる人々は、自己の内部に真の神を観るはずです。

真実の神を観る事によって、『信』が養われて行くのだと思います。だから、生長の家において、理屈より、神想観を実習して、毎日神様と対話する事が、必要なんでは、ないでしょうか。


私は、谷口雅春先生の講和テープを聞き度に『神想観をして、実相の鍵を持って、内部の神と対話する事が大切です』

各、雅宣先生、講習会で、同じ事、言われていたので、雅春先生も、雅宣先生も、私には、変わらないな、思われます。


さくら様、多少、無礼な、言葉に、成ったとした、ごめんなさい。

さくら様の実相が、より一層輝きますよ、お祈り、いたしたします、ありがとうございます。


皆様も、つまらない、私のお話、ご拝察、ありがとうございます。皆様、幸せでありますように、ありがとうございます。

597さくら:2011/11/06(日) 11:50:33 ID:T/77sMGw
ももんがさま

わたし個人のことを申しますと、
組織のことで悩んではおりませんし、
信仰のことでも苦しんではおりません。

生長の家の今の問題が、どこにあるのか、
組織がなぜ現在の状況になったか、考えたいと思っているだけです。
生長の家の純粋な信仰をもちたいと思っている信徒が
悩む状況があるわけですから、ただ、考えたいだけです。

神想観で、幹部の皆さんでも、信仰深い信の確立した皆さんで、
解決していただいたら、一番いいですね。

信仰深きみなさまには、
わたしの心の戯れの独り言を、ただ、聞き流して頂ければ、
幸いです。

また、ご指導ください。

598さくら:2011/11/06(日) 11:53:35 ID:T/77sMGw
信仰を確立した方、お願いいたします。
神様と対話して、
神想観で、
世の中の問題も、すべて解決してください。
お願いいたします。

599さくら:2011/11/06(日) 12:05:58 ID:T/77sMGw
否定性の中にとどまることを選ぶのは、
神を宿してあえてこの制限ある世の中に生まれれて来た、
人間の大きな自由であると、私には、感じられます。

心に神を宿すと確信しているからこそできる、
とてつもない勇敢な自由であると、感じています。

600初心者:2011/11/06(日) 14:27:35 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ

クリシュナムルティがいっているように、現実世界というのは言葉によって
つくられた世界ですから、そこで何がおころうとも、そのすべては言葉の効果
と考えるしかないのでありますね。病気も言葉の効果であれば、病気の治癒も
言葉の効果であり、それがたとえ奇跡的な治癒体験であったとしても、それも
また言葉の効果でしかないのではないか、との疑いを持たざるを得なくなって
くるのでありますね。

すべてが言葉の効果であるとするなら、真理もまた言葉の効果であると考えるしか
ありませんね。シニフィアンを連鎖させることで、その効果として「真理らしきもの」が
あらわれてくるのであります。一般的には、シニフィアン連鎖によって生じた
「真理らしきもの」が、真理と受け止められているようであります。

言葉の効果ではない本物の真理があるとすれば、それは「ソシュールの関門」の
向こう側にあるはずであります。ですから、本物の真理に接近しようと試みるので
あれば、「ソシュールの関門」を突破するということが、どうしても必要であると、
わたくしは考えるのであります。クリシュナムルティも、おそらく似たようなことを
考えていたはずであります。

なんどもいいますが、生長の家は、「ソシュールの関門」を突破しえていないはず
であります。雅春先生においてすら、「ソシュールの関門」にかんしての考察を
なされたという形跡を見いだすことはできません。一般の信徒の方々がソシュール
の限界を超えたという可能性は、ほとんどゼロに等しいものと考えます。

以上のことからわたくしは、生長の家では、これまで真理について語られたことは
いちどもなかったということを申し述べているところであります。生長の家で語られて
いるのは、真理ではなく、「シニフィアンの効果としての真理」だけであると考えます。

こうした批判にたいする生長の家の切り札は、神想観でありますね。神想観で真理に
接近できる。この信念が切り札であります。神想観によって、はたして「ソシュールの
関門」は突破できるのでありましょうか。はたして神想観とはなんなのでありましょう。

言葉によるイメージの喚起力。神想観はこれを利用しているようにも感じられます。
言葉によるイメージの喚起力によって言葉の限界を突破する。神想観には、こうした
効力があるということなのでありましょうか。

601初心者:2011/11/06(日) 14:51:42 ID:hogyfr1M
おもえば、生長の家の運動は、神想観と実相知と、そして神によってなされてきた
のであります。その、神想観によってなされたはずの運動が、失敗につぐ失敗という
現実となってあらわれてきたのでありますね。

それはなぜなのか、問題点はどこにあったのか。それをこの場で考えようとして
いるところでありますが、「理屈ではない、神想観せよ」との回答が与えられました。

こうした回答が与えられるところに宗教の本質があるようにおもいます。神想観に
よる失敗を神想観で解決する。こうした無限後退のループを温存させることで、
問題の解決を永遠に先送りできるというのが、宗教の宗教たるゆえんであるような
気がいたします。

602ももんが:2011/11/06(日) 14:59:02 ID:XXCuaQns
>>597

さくら様 レスお話、ありがとうございます。

さくら様は、『組織について、悩んでない』言われてますが、以下の様に、言われても、いますね。

>『生長の家の今の問題が、どこにあるのか、
組織がなぜ現在の状況になったか、考えたいと思っているだけです。
生長の家の純粋な信仰をもちたいと思っている信徒が
悩む状況があるわけですから、ただ、考えたいだけです。』

と言事は、さくら様の、『心の内』上記の問題が、存在すると、言う事です。

『考える=悩む=自己の心問題』ですね。


すなわち、さくら様が、ここに、テーマにしてるのは、全て、『自己の内成る』問題ですね。


例え、組織の事に、違和感じて、嫌な思いや、色々考えてるなら、それよも、自分の毎日の行いや、働きに、よって、変えて、いかれたら、よいのでは、ありませんか?


あとは、神想観していたら、神様の思いとさくら様の心一致したら、自然に変化して行くと思われます。


偉そうな、事ばかり、申しましたが、

さくら様も、神想観や聖経読呪を、頑張って、たくさんの、人、物、父、母、そして、神様に、感謝して、生活して、参りましょ!


皆様、また、下らない、お話、申し訳ありませんでした。皆様の、お幸せ、お祈りして、ありがとうございます。

603初心者:2011/11/06(日) 15:45:32 ID:hogyfr1M
わたくしはこちらで、真理と救済はべつものだ、ということを申し述べさせていただい
ております。これによって救われた、だからこれは真理だ。人はこのように思い込もう
といたします。

救われた、とはどういうことでしょう。それは、不都合な出来事が消えて、自分にとって
都合のよい出来事が起きた、ということでありましょう。自分にとって都合のよい
出来事が起きた。だからこれは真理だと、人は考えてしまうのでありますね。

悪はない、善のみがある。これは真理でしょうか。悪とは、不都合ということですね。
善とは好都合ということですよね。自分に不都合なものはなくて、都合のよいもの
だけがある。これが真理ということになるのでありましょうか。

悪はない、善のみがある。これは真理ではありません。これは救済です。都合のよく
ないものはなくて都合よいものだけがあるとすれば、これは、救済ではあっても、
断じて真理ではないということを、ここで強くいっておきたいとおもうのであります。

善や悪とは、言語による2分法でしかありません。善の反対が悪であり、悪の反対が
善であるという、相対的な尺度による2分法でしかないのであります。こうした2分法
で真理が語れるはずがありません。善悪とは「無の関門」以前の問題なのであります。

善悪の判断で真理を語ることはできません。語れるのは救済であります。「善一元の
世界」とは、真理ではなく、救済について語られた言葉なのであります。「神は善なり。
善一元の世界、これが真理だ」と口に出した途端に、その人は大きな過ちをおかした
ことになるのであります。

604初心者:2011/11/06(日) 16:02:34 ID:hogyfr1M
ももんが様は、ここで提示されている問題が、すべて「自己の内なる問題である」
と考えておられるのでありますね。組織に問題があると見えているのも、活動が
ことごとく失敗に終わったと見えているのも、すべてが「自己の内なる問題」と
考えておられるのでありますね。

もうそうであれば、それは正しい考えであります。「ソシュールの関門」とは、それが
すべて「自己の内なる問題」であることから生じてしまうものなのであります。した
がって、この世界のすべての出来事は、客観的な世界とは何の関係もない、すべて
が「自己の内なる問題」でしかない、ということになってくるのでありますね。

たとえ神想観で問題を解決しえたとしても、それもまた「自己の内なる問題」でしか
ありません。たとえどんなに神想観をつづけようとも、「自己の内なる問題」を出て
客観的世界とつながることはできない。ここれが「ソシュールの関門」ということに
なるのであります。

ももんが様がいっておられるように、すべては「自己の内なる問題」であります。
そして、たとえ神想観によって何かが変わり、何かが解決されたとしても、それも
また「自己の内なる問題」の域を出ることはなく、それは客観的世界とはまったく
無関係の、ただ「自己の内なるささやかな問題」でしかないということになるので
あります。

どうか神想観をおつづけになってください。自己の内なるささやかな問題のために。

605さくら:2011/11/06(日) 16:40:43 ID:ME8aqZFE
ももんがさま

アドバイス、ありがとうございます。

悩むことを、わたしは、選び、
そして、後悔をしておりません。

毎日、わたしは、生きています。
神様の余りに、偉大で、静かな奇跡の中で、
感謝の中を、私は、生かされております。
拝。

606さくら:2011/11/06(日) 16:41:44 ID:ME8aqZFE
初心者さま、
またゆっくり、読んで、書きます。
拝。

607さくら:2011/11/06(日) 16:53:52 ID:ME8aqZFE
これが、わたしの心の内にある問題か…

面白いですね、

608ももんが:2011/11/06(日) 18:42:42 ID:XXCuaQns
>>604

初心者様、レス、ありがとうございます。

初心者さまのレス読みました。

失礼ですが、初心者さまは、余り、神想観なされない方のようです。


例えば>また「自己の内なる問題」の域を出ることはなく、それは客観的世界とはまったく
無関係の、ただ「自己の内なるささやかな問題」でしかないということになるので
あります。



上記の、表現の中に、初心者さまは、『自己の内在する心』を『ささやかな』と、表現されてます。


谷口雅春先生も、『自己の内なる神と対話すること』

神想観する事により、現象と実相が、一つに成り、実相独在になるような世界が、自分の内部から、外の世界に、現れて車ようになるのです。


神想観しなければ、

実相は現れないし、現象のままの世界で、主、客、二元の世界のままです。


そう、先程、レスされた、初心者さまの、書かれた世界が、二元論の世界です。初心者さまの心の中は、二元論の世界で、物事を捉えておられるのです。


初心者さまも、しつかり、神想観して、神の子として、ともに、頑張って、いきましょ!


初心者さま!ありがとうございます

皆様、ありがとうございます!

609初心者:2011/11/06(日) 19:01:08 ID:hogyfr1M
ももんが様

その、神想観をして、神と一体となった「内なる世界」は、客観的な世界においても
反映されるのでありましょうか。もしそうであれば、ぜひ反映なされて、現教団に
おける2元論的問題を、できるかぎりすみやかに解決していただきますよう、お願い
いたします。わたくしのことはさておき、ももんが様の偉大なる内的世界が、外の世界
にも反映されますことを、期待しております。

610ももんが:2011/11/06(日) 19:48:08 ID:XXCuaQns
>>609

初心者さま、レス、ありがとうございます。

初心者さま、『主、客』二元に、観てらしゃるのは、失礼だが、初心者さまの『心』です。


初心者さまが、まず、その、二元的、観方を、神想観に、よって、打ち破らない、限り、私や、また、他者に、何かを、求めもて、同じ、実相世界は、ご理解出来ないと、思われます。


まずは、理屈をいわず、毎日、ご自分の、日々の神想観を、頑張って、下さい。

そうしたら、組織を見るめを、多少は、変わる事でしょう。
初心者さまが、幸せに、成りますよに、ありがとうございます!

611初心者:2011/11/06(日) 20:04:16 ID:hogyfr1M
ももんが様

お望みとあらば、24時間神想観意識状態というものを実現することも、わたくしに
は可能でございます。ももんが様がいっておられることは、すべて理解しております。
実現しようとおもえば、今すぐにでも実現できます。ですが、この場でそれを実現する
ことがわたくしの役目であるとはおもえません。理屈も言える。神想観意識状態にも
なれる。それでよいではございませんか。あまり堅いことはいわないでくださいませ。

612神の子さん:2011/11/06(日) 20:17:59 ID:???
おい、初心者さんよ
あんた以前の書き込みで「神想観は苦手です」と発言していたことを
忘れてはいないよ。
ぼくも、ももんがさんに同意します。初心者さんの論には神が抜けている


禿げちゃびんな机上のコトバ遊びだね。

613ももんが:2011/11/06(日) 20:31:00 ID:XXCuaQns
>>611

初心者さま、レス、ありがとうございます。


堅い事、は、言って、おりませんよ。


普通の事を、言わせ、頂きました。


主、客一体、実相と現象の一体を体験できるのが、神想観ですね。


初心者さま、色々、ありがとうございます。

614初心者:2011/11/06(日) 20:44:00 ID:hogyfr1M
神の子様

わたくしは、神想観とはいってませんよ。神想観意識状態といったはずです。
それが正確に、神想観とおなじ意識状態であるとはおもいませんが、それなりに
近いものだろうと考えております。そうした意識状態を実現しようとおもえば、
いつでもできます。今すぐにでも。

神の子様は、神想観意識状態は、正式な神想観によってしか実現できないと
考えおられるのでありますね。わたくしも、正式な神想観意識状態というものが
どのようなものであるのかは存じませんが、これが正式なものとは異なっていた
としても、とくに問題があるとは考えておりません。

机上のコトバ遊び、ですか。どういう意味なのか、べつのスレッドで、より具体的に
言及してくださいませ。

615さくら:2011/11/06(日) 20:51:11 ID:ME8aqZFE
神の子さま

さくらのトーキングボードへようこそ。
神を知ってる方が、
あんた呼ばわり、するのかしら。
お願い、します。
初心者さまが負けず嫌いなの、知っておりますでしょ。
挑発的な論議は、お控え下さいませね。
あなたも、生長の家の、未来について、話して下さいませ。

616さくら:2011/11/06(日) 20:54:10 ID:ME8aqZFE
別のスレッドにおいても、発展的議論とは、思えません。
お二人共、未来の生長の家のために、お願いいたします。

今時間なく、一言で失礼、

617神の子さん:2011/11/06(日) 20:54:41 ID:???
神想観意識状態?そんな造語は聞いたことがありません。
貴殿は、練成会を受けたことも無い方のようです。

つまり、知らない事を知っているかのごとくわざと難解な言い回しで語りつづけているのは
どのような意図があるのか、不思議な人ですね。負けず嫌いの人だとはわかりますがwww

618神の子さん:2011/11/06(日) 20:56:01 ID:???
ごめんなさい。さくらさん。消えます。

619神の子さん:2011/11/06(日) 20:57:58 ID:???
あんたのバラーード♪  あんたって親しみをこめたのになぁーバイバイ

620さくら:2011/11/06(日) 21:03:38 ID:ME8aqZFE
神の子さま
どうしたら、神想観で、今の生長の家を導きましょう。
一信徒に、教えて下さいますか。

621さくら:2011/11/06(日) 21:05:47 ID:ME8aqZFE
消えないでお答え下さいますか?
初心者さまが、大好きなんですのね、
初心者さまの、ファンが多くて、困りますわね…。

神の子さま、あなたとお話したいと思っておりますのに。

622初心者:2011/11/06(日) 21:28:56 ID:hogyfr1M
神の子様

きわめていい加減ではありましたが、わたくしは、25年ほど神想観らしきものを
実習いたしました。もちろん、「らしきもの」であって、時間は、超がつくほどに短く、
正式なものとは雲泥の差であります。あのようなスタイルは、わたくしには向かない
のでありますね。

自己流。これが、すべてのわたくしのやり方であります。神想観意識状態。
これは、ついさきほどこしらえた造語であります。神想観を実習してどのような
意識状態に入るのか、それは人それぞれで異なるのではありませんか。それを
総称して神想観意識状態と呼ぶ。とくに問題はないと考えます。

たとえばわたくしの場合、気功の本を購入して、わずか5分で基本をマスターする
ことができました。いっさいの修業をおこなってはおりませんが、体内の気であれば、
自在にコントロールできるはずです。それができたのも、神想観意識状態であった
からこそと考えております(世間では、これを変性意識状態と呼ぶのかもしれませんが)。

もちろん、ひとことで神想観意識状態といっても、レベルは人それぞれで、わたくしの
それがハイレベルのものであると申し述べるつもりはありません。レベルは低くとも、
それなりのことはできるということであります。ただしこの場では、理屈以外を語ろう
とはおもいません。

623「訊け」管理人:2011/11/06(日) 21:50:01 ID:UodBcqiE

>さくらマネ

<今回の『生命の實相』問題に関し>

 情報源がトキさんご投稿文しかないのですが、今回の件(取り越し苦労かも
しれぬが)やや心配をしております。
 貴女ご提題と絡めるかたちで今回の件、貴女のご意見など頂戴できますか?
貴女の意見はいつも、感心するくらいに核心を突いておられます。貴女の意見
なども聞いた上で今回の件、自分なりに考えてみたいのです。

 貴女の問題意識と関連するかたちで構いません。一度貴女の意見を参考資料
としてご開陳願えれば幸いです。ややTSBの趣旨と外れるかもしれぬと申せ、
「さくらマネの意見は重視」な声、内部から聞こえてくるためです。


追伸
 
 もうホント、今回の件を如何に解釈すべきか不明なのです。

 ちなみに現状の個人的意見では「下記、雅春先生の御言葉が最も重いの
では?」と思っている現在です。

●七つの燈台の点燈者の神示
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65603623.html

624さくら:2011/11/07(月) 01:07:38 ID:T/77sMGw
ややイケメンの、訊けかんとく

おかしいですね。
内部の人間であるトキさまなんて、
ここ、読んでくださってないのですよ。
わたしがいままで3回、削除してくださいって頼んだ3つの文を、
削除して下さらないのです。
・・でも、トキ王子のいじわるは、甘んじて受けようと、わたしは思っています、。


それはさておきまして・・
今回の件、これは、信徒が教団に対する不信感の決定的根拠にするのに、
充分な理由になると、危惧を感じるところです、。

つまり、この事実に関連する情報、(独り歩きも始める情報も含め)
例にもれず、過剰な反応を、またもや生むことになることとなると思いますし、
その反応自体もまた、おそらく、
問題を大きくする原因になっていくだろうとも思われます・。
もうすでに、過剰反応は起こっておりますので、それが加速するだけのこととは思いますが、。
物事を複雑にしていく過剰反応が、私には、いまだにとても厄介に感じてしまいます。

雅宣総裁率いる現教団は、生長の家の命ともいえる、生命の實相を抹殺する。
・・というような。
今までの経緯からしても、この情報は独り歩きをするのに充分な内容ですが、
感情的な反応が、またさらに、分裂を大きくしていくような気がしています。


訊けさま
わたしのような一信徒が、このような重大な事柄に意見を述べようとすることは、
難しい、と改めて感じています、
情報を冷静に把握して、みなさまともに、考え話していく大切なことですよね、

わたしの問題意識に関連して考えますなら、
まず、根本的に、生長の家が、言葉を使った運動であること、
これが何を意味するのか
まず、このことを考えていかなくては、ならないと感じてしまいます、
この「言葉の正体」とは何であるかということです。

雅春先生のお悟りや教えの根本は、本物でありますが、
その運動の展開は、「言葉による運動」であったのは、何を意味するのか。
今まで、初心者さまとの対話でも、焦点になってきたことだと思っています。

はたして、「生命の實相」を、
このような形で、頑な迄に守ることは、
まず、根本的に、どこに意味があると思っているのか、
わたしは問いたくなってしまうというところがあるのです・。
この疑問は、ちょっと、簡単に言い切れないところですが、・・

生長の家の教えの神髄は、どこにあるのでしょう。
「生命の實相」は、裁判という世俗なものに落としてまで守るべきものなのでしょうか、
一番大切にされているのは、信徒の信仰ですか、それとも、組織の事情ですか?
言葉による、宗教運動とは、どんな意味があり、どんな結果をもたらしてきたのでしょうか。
「生命の實相」を失った、生長の家の「信仰運動」とは、どんな運動になりますか。

この点は、訊けさまとは、違う視点かもしれません・・。

そして、現教団は、大きな流れの中で、もしかしたら、
「生命の實相」を失うべくして失っていく。
そのようなこともあるかもしれません、
それは、善し悪しの判断を加えなければ、
なるべくしてなっていくような流れ、なのかもしれません・・、

個人的には、色々な想いが湧いてきますが・・
感情的な反応だけで、考えたくはないのですね。


訊けさまと方向を同じくしているのは、
では、信徒として、何をすべきか、という点でしょうか。

信徒は、なんらかの理想を求めて、その理想を叶えるためという理由で、
組織に関わってはいけないということを、最近さらに感じます。
組織に、期待ばかりを求めては、いけないということを感じます。
逆に組織に影響を与えるような思いで、自分の信仰や行動を考えていかなくてはならないと思うようになりました、

さて、信徒の皆様には、どんなことができますでしょうか。

わたしも考えていきたいのですが、
あくまで最も大切にしたいのは、
各人の信仰、
ということだと思っています。

それは、私の問題意識に関連しますなら・・
「生命の實相」を、頑なに守ることには、限定されてはいない気がしているのですよ、。

あなたの求める答えには、なってないかもしれません・・
ただ、ボードで対話することで、見えてくるものもあるかもしれませんね、、
訊けさまの今後のご参加を、期待する次第であります。

追伸:そういえば、義春さんが、旅に出たっていうのは、本当ですか。
もしそうなら、ここでも、とても、困りますね・・。


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