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トーキングスティックボード
321
:
さくら
:2011/10/19(水) 21:55:35 ID:T/77sMGw
スレッド3>1396のトキ様
トキさま、出張されて、水臭いじゃありませんか〜
どうぞボードに書いてくださいな、笑。
(しかも、さくら宛に。)
>内村鑑三の「余はいかにしてキリスト教徒となりしか」を読むと、アメリカと基督教の悪口が、これでもか、これでもか、と書いてあります。最初にアメリカに上陸して、友人がスリにあった話から始まり、最後は「これなら、異教徒のほうがマシだ」とすら書いています。そして、宗教が組織を持つ事の弊害を悟り、その中で、無教会派という立場になるのです。
これ、読むしかないですね、内村鑑三ほどの方が書いた宗教組織の悪口、読みたいです、笑。
>この問題への正解はわかりません。しかし、かってのように、一部の指導者のみが決定する体制ではなく、広く信徒の声が反映するような運営の体制が必要とされる時代になったと思います。
上にも書きましたが、ある面では、良い流れなのかもしれないですね。
新しい変革をなそうとする過渡期。わたしは、希望を持ちたい、と思っております。
322
:
初心者
:2011/10/19(水) 22:03:05 ID:4IaAZAME
役行者様
べつの板で何度か書きましたが、文化的状態へのひきこもりは、脳の構造に由来すると、わたくしは考えております。その構造とは、左脳と右脳の直結ということだけでなく、左脳の能力が飛躍的に向上したという点をあげることができるとおもいます。
自我の担い手であり、個人意識の担い手であるのが左脳でありますね。そこでひとつのアイデアが浮かんでまいります。それは、左脳の機能を低下させることができれば、自然状態に回帰できるというアイデアであります。
禅問答は左脳の機能を低下させるためのひとつの手段であると、わたくしは考えております。すでにこちらの掲示板でも書きましたように、わたくしはかつて、雅春先生の『無門関解釈』を読んだことで、左脳の機能が極端に低下するという事態に陥ったことがあります。自分がどこにいるのか、自分が誰なのか、それさえもわからなくなるという、そんな状態に、長期にわたって陥ったのであります。
むろんそれは、常時というのではなく、ときとしてそんな状態に陥るということでありました。さらに、意図的に左脳の機能を低下させるということもできていたようにおもいます。
左脳の機能を低下させると、たとえようもない幸福感につつまれることになります。脳内麻薬が大量に分泌されている。そんなような状態であります。しかも、必要なアイデアが、ひとりでに天から天下ってくるようにもなります。なにかのアイデアを欲するときには、意図的に左脳の機能を低下させます。すると、どこからともなく、最適ともいえるアイデアがあらわれてまいります。さらにはですね、あらゆるものごとを自分は知っているという感覚に満たされることにもなります。宇宙のすみずみにいたるまで、自分はなにもかも知っている。そんな感覚に満たされることになるのでありますね。
こうした状況が、おそらくは自然状態に近い状況であろうと考えます。しかし、これには問題があります。すでに述べたように、クルマを運転している最中に、通いなれた道であるにもかかわらず、どこを走っているのかがわからなくなる。突如として、途方もない幸福感につつまれて、自分がどこの誰であるのかさえもわからなくなる。こうした事態に、たびたび見舞われるようになったのでありますね。
これではですね、近代社会を生きていくのは困難でありますね。それでわたくしは、もとの状態にもどることにいたしました。完全にもどるのに5年かかりました。それでもなんとかもどることができました。自然状態への回帰。これは可能であるとおもいますが、近代社会を生きていくには、はなはだしく不都合な状態でもあります。さて、どうしたものでありましょうね。
323
:
トキ
:2011/10/19(水) 22:10:08 ID:6z/E1qmQ
>>321
さくら様
いやー、失礼をしました。流れを止めるような気がしたので、あちらへ書きました。
スリにあった話は有名ですね。アメリカは基督教の國だから、理想の國だろうと考えていたら、
友人がスリにあい、それを見たアメリカ人女性から「アメリカにはスリが多いから気をつけろ」
と言われて、仰天する話です。それで、基督教の國、アメリカへの幻想が第1日目から打ち砕かれる
という話です。
私も生長の家青年会に入って、生長の家青年会の会員に変な人がいるのを見て、仰天をした記憶が
あります。彼の気持ちはわかりますね。(笑)
内村鑑三は、お金がないので、日曜日に教会に行って、異教徒だった自分が基督教に回心
する体験をします。するとお金がもらえるのです。これが、彼にとっては屈辱だったみたいで、
「自分は動物園のサイと同じような見せ物だった」と書いているのです。あちこちの教会に
行って、それをしてみたみたいです。こういう体験をしているうちに、段々と基督教が嫌に
なり、悩みだすのです。
彼は、最後、人間は神の子である、と気がつくのですが、そこで、神ではない、と注釈が
つくのです。ただ、まだ、神様と人間に隔たりがあるような印象を持ちました。
大事な事は、信仰生活の中で矛盾があったら、それに正面から立ち向かい、答えを見つける
事かと勝手に考えております。
324
:
さくら
:2011/10/19(水) 22:38:27 ID:T/77sMGw
>322
横から入って、つぶやきます。
初心者さまの個人的体験も非常に興味深いですね、
左脳の機能を意図的に低下させる、まあ、初心者さまなら、普通にやりそうです、笑。
普通の暮らしができない、のは、たとえ幸福状態、といっても、やっかいなことでしたね。
わたし自身は、当たり前のことができる、ということに、悟りの本質があると、感じています。単純すぎるけれど、ぐるっと回って、結局ここだということに、いたりました。
ふつふつとした感謝の心に満たされた幸福感。ここにある、という実感。
今生きること、を離れたところに、悟りがあるとは、思えなくなりました。
自然状態への回避の状態と、近代社会を生きることは、矛盾なく出来る道があるのではないか、と思いますが、どうでしょうか。
325
:
役行者
:2011/10/20(木) 09:43:43 ID:oS3yKmtw
>初心者さま
>>322
>近代社会を生きていくのは困 難でありますね。それでわたくしは、もとの状 態にもどることにいたしました。完全にもどる のに5年かかりました。それでもなんとかもど ることができました。自然状態への回帰。これ は可能であるとおもいますが、近代社会を生き ていくには、はなはだしく不都合な状態でもあ ります。さて、どうしたものでありましょう ね<
分かるような気が致します。懐かしいことですが、こちらの板の誕生まもない頃から、初心者さまと訊けさんと三つ巴で、宇宙論から哲学にいたるまで、さまざまなテーマについて語ってきました。その経験を踏まえ、これから憶測で話しますが、初心者さまはもともと右脳が特に発達しておられたのではないかと・・・恣意的なのか、無意識なのか、人生の途中から左悩を駆使されるようになった。無門感解釈に触れ、その閉ざされていた右脳が活性化され、本人にとっては居心地がよいのですが、カルチャーショックからしばらく生活に支障をきたしてしまった。
そして、戻すのに5年もの歳月をようしてしまった。
やはり、普通のお方ではございません(^_^;
おおいなるモノにより、経験させられている!そんな気がします。
人生前半は縄文的世界、それから弥生は結構はやく通り越して、近代的知性にいたった!無門感解釈に触れたとき、その縄文的世界が再現されたが、あまりにも生活に支障をきたすので、縄文的感覚を記憶に留めながら、もとの状態に戻すよりほかなかった。
考察してみますと、初心者さまの人生史と地球史の軌跡が合致するのです。
これから未来のことに話を展開します。
初心者さまが述べられたよう、右脳が活性化された状態で、近代社会を生活してゆくことは不都合なことが多いのではないでしょうか。
ならばどのように折り合いを付けていけば良いのか?
禅問答ですよo(^-^)oワクワク
しかし、さくら様も投げかけておりましたよう、難しいです。
これは皆様の考えを伺いたいです!
最後に、これはなんの史実に裏付けされてない勝手な憶測から述べましたので、その点、ご了承のほどお願い申し上げます。
326
:
八百比丘尼
:2011/10/20(木) 14:07:46 ID:j8iOdie.
場違いな話になるかもしれませんが、お許しを。
清超先生のご著書に『人生はドラマである』という御本があります。
この中に、人生ドラマは自分で作った筋書きを自作自演するのだ。と
書かれております。
私は考えます。
さて、この人生ドラマは自分が望んで、その通りに演じているのだろうか?と。
私は、他人の目から見た幸福を演じているだけではないのだろうか。
親の喜ぶ相手、世間も認める相手と結婚して、良い夫、妻を演じ、
良い父親、母親を演じ、また良い息子、娘、また良い隣人を演じ続けて
いるのではないだろうか。
「良いご家族で、何不自由なく暮らしていらっしゃる幸福なご家庭」
と言われること。
そういう舞台の上で私は演じ続けている。
本当の心は、仮面の下に隠していつも愛想よく笑っている。
そうして、神さまが幕を降ろされる時までひたすら観客達が喜ぶ台詞を言い続ける。
まるで仮面舞踏会で踊り続けているような世界。
いよいよ千秋楽の日、幕の降りる寸前に、
「ありがとう、いい人生だった。今度生まれ変わっても、またあなたと
一緒になりたいな。」と言うのでしょうか。
楽屋に戻り、ドーランを落とし衣装を脱ぎ捨てて、私は何とつぶやくのでしょう。
お客さまに喜んでいただけて良かった。と心から言うのでしょうか?
シュレーディンガーの猫のたとえではありませんが、
生と死を半々に持った猫が顔を出すような気がしてなりません。
でも、結局は自分から望んでその舞台に立ったのは、私なのでしょうね。
−−鈴夜 楽屋こぼれ話ーー
《 人は悪口に 「人三化七」なんていうが、
ほんとうのことをいうと、比丘尼には悪いが 「人無化十」といって
人間のほうに籍が遠いんだよ。
世間をだまして生きていたって、いいじゃないか。
妖怪だもの・・・・・。》
327
:
役行者
:2011/10/20(木) 22:25:52 ID:n/FIBW6E
合掌
形骸化された言葉が織り成す世界というのは、どうしても建前と本音の二重構造の仕組みになってしまいますね。
ですから、本心を隠す生き方が展開されてしまう。
心の拠り所は、夜の世界に求めたり、既成宗教に求めたり、となるのだと思います。果たして、そこが安らぎかと云うと、決してそうともいえない!
その挙げ句、このような近代という複雑怪奇な世の中が築かれてしまったのでしょう。
>清超先生のご著書に『人生はドラマである』と いう御本があります。 この中に、人生ドラマは自分で作った筋書きを 自作自演するのだ。と 書かれております 。私は考えます。 さて、この人生ドラマは自分が望んで、その通 りに演じているのだろうか?と 私は、他人の目から見た幸福を演じているだけ ではないのだろうか? 親の喜ぶ相手、世間も認める相手と結婚して 良い夫、妻を演じ 良い父親、母親を演じ、また良い息子、娘、ま た良い隣人を演じ続けて いるのではないだろうか 。良いご家族で、何不自由なく暮らしていらっ しゃる幸福なご家庭 と言われること。 そういう舞台の上で私は演じ続けている 。本当の心は、仮面の下に隠していつも愛想よく 笑っている。 そうして、神さまが幕を降ろされる時までひた すら観客達が喜ぶ台詞を言い続ける 。まるで仮面舞踏会で踊り続けているような世 界。 いよいよ千秋楽の日、幕の降りる寸前に ありがとう、いい人生だった。今度生まれ変わっても、またあなたと 一緒になりたいな。」と言うのでしょうか? 楽屋に戻り、ドーランを落とし衣装を脱ぎ捨て て、私は何とつぶやくのでしょう。 お客さまに喜んでいただけて良かった。と心か ら言うのでしょうか? シュレーディンガーの猫のたとえではありませ んが 生と死を半々に持った猫が顔を出すような気が してなりません。 でも、結局は自分から望んでその舞台に立った のは、私なのでしょうね<
最終的には、一人で生まれ、一人で死んで逝くのですから、自己責任なんでしょう!
形骸化された言葉が織り成すこの世界にて、自分の描いた筋書きは、ほとんど建前の世界を演じているだけ。儚いといえば、儚いことです。楽屋に戻って、独りになったとき、淋しさがヒトシオ襲ってくるのでしょうね。
ならばこの一生、本当の自分のドラマを演じたいものです。
きっと、縄文時代というのは、建て前などなくても、人々が平和に楽しく、和気藹々と暮らせたのでしょうね。
いつの頃から、この世は作意策略の跋扈する世界になってしまったのでしょうか。
あの平安から鎌倉に時代が移ろうとしているとき、天下に名高い悲劇がありました。
情を内に秘め理性の兜を着た兄・源頼朝と、情の弟・源義経の戦です。詳しくは義春さんに任せて、簡潔に書きます。
武家社会が確立され、平和がもたらされる寸前のときでした。兄と弟の天下分け目の戦いが勃発してしまったのです。
鎌倉にて兄頼朝は妻政子の北条一族に跋扈され、孤独のなか日々の暮らしを営んでおりました。
遠く奥州藤原で和気藹々と暮らしている弟を想いながら・・・
弟義経は純粋でした。仲間を大切にし、義と情をもって生きてました。縄文時代なら通用するのでしょうが、時は平安時代末期、策略渦巻く世界です。純粋さだけでは通用しませんでした。ある意味、それが悲劇をもたらしたと云っても過言ではありません。
乗ってしまうのです。座布団のうえに・・・そして、甘い言葉の裏に隠された陰謀、策略を理解できず、兄と弟が和解しようとする寸前にいつも、嵌められ、その壁はますます高いものとなってしまったのです。二人の心に反して・・・
そして、とうとう、お二方とも、まわりの囃しに頷くしかない状況に追い込まれてゆくのです。
歴史に学べと先達によく云われます。なのになのに、学びきれず、同じ過ちを犯してしまうのが人間なのでしょうね。
このような悲劇は、現代に至るまで、数限りなく繰り返えされてきました!
そして今、このような魑魅魍魎の跋扈する形骸化された言葉の織りなす世界から、真理燦然と輝く世界に変わろうとする過渡期。
我々はどのような人生ドラマを自作自演すれば良いのでしょうか?
328
:
義春
:2011/10/21(金) 00:55:17 ID:iu5Ar./Q
役行者様
話を振られたので、書かせて頂きます。
何か歩く歴史辞典と化しているのは気のせいでしょうか?
頼朝と義経ですね。
確かに頼朝と云う人は元来情が大変深い人です。
吾妻鏡でも最初は感極まって泣いてばかりです。
それから、毎日、父・義朝の供養に称名を1000回、又義朝と共に討たれた、
郎党の為に100回の称名を上げるくらいの情厚き方でした。
しかし、頼朝は坂東に流されて、武士達の暮らしに触れ、彼等の為に生きる事を
決意します。そのために情を抑えないといけませんでした。
そして、理性の人になったのです。
それだから、鎌倉政権の基盤になった縁戚の北条氏の顔色を常に伺う日々でした。
あるとき北条時政と仲たがいをして、時政が伊豆に帰った時は、物凄く狼狽するほどでした。
それでも、義経と富士川の合戦で対面した時は、元来の性格を出し、
大変厚い歓迎をしました。それが、義と情の人・義経の生きる原動力になったかと
推察いたします。そして、義経はその情の赴くまま、平家を滅ぼします。
しかし、平家討伐を成し遂げて、心に隙が出来ました。
その心の隙に後白河法皇が頼朝との仲を裂く為に近付いてきます。
そう、頼朝と義経の仲が良ければ、困るのは…大天狗・後白河法皇なのです。
天才的な政治家である頼朝と、天才的な戦術家の義経が組めば、できぬ事はありませんからね。
だから、後白河法皇はこんな手を使ってきました。
京都生まれであった義経にすれば、後白河法皇は正に雲上の人、
それを熟知している後白河法皇は、事あるごとに義経に優しく接します。
優しくされる事で、義経は有頂天になってしまいました。
そして、こう囁くのです。
「兄の頼朝は汝を認めておらぬな、可哀想にのぉ…余が位を授けて進ぜようぞ」
…と。
義と情の人ではあったけれど、政治的な知恵が無かった義経は、
まんまと嵌められてしまいます。
そして、義経は後白河法皇の担ぐ神輿に乗ってしまいます。
そういえば、平家討伐の綸旨は中々出さなかったのに、
頼朝討伐の綸旨は直ぐに出しましたね。
おそらく、後白河法皇の中では、坂東と京という分裂状態を作り出して、
その上で京側が勝利する事で、自分の天下にしたかったのでしょう。
こうして、頼朝は坂東を守る為に義経を討たねばならなくなりました。
全ては義経の政治的な知恵の無さで…。
その義経の為に多くの武士が粛清に遭い、殺されています。
そうして、義経も結局は奥州藤原氏の当主、泰衡に裏切られて衣川で殺されます。
…果たして、こんな結末で良かったのでしょうか?
私には悲劇としか言いようがありません。
全ては兄弟が真に通じ合っていれば…良かったのに…と。
そして、歴史は往々にして繰り返すといいます。
まぁ…私はそんな歴史を見たくありませんね!
…そんな策略に乗せられてしまうなんて悲劇ですから。
329
:
さくら
:2011/10/21(金) 02:13:30 ID:T/77sMGw
合掌、スティックボードファンの皆さま(だれ?)、
現在スティック保持者、さくらです、
比丘尼さま、
役行者さま、
義春さま
いつもながら哲学的な考察から壮大な歴史の流れが展開されて、おりますね。
比丘尼おねえさま
劇団希望のさくらも、仮面なら、幾つも隠し持っておりますよ、
(そんな話じゃないですか・・。)
さて、私が、宗教組織の矛盾を感じていたことを、初心者さま始め、みなさまとの問答を通して、自分の気持ちとしては、少し整理ができたところがあります。
(上記、「さくら問答集」参照)
文化的状態へのひきこもりから、自然状態への移行の過渡期として現在の生長の家組織も、位置づけることとして、
では、今の方針の方向性はどのようなものかを見直して、可能性を、考えていきたいとおもっているのですが・・。
これは、どうでしょうか。
思い付きでも、どなたでも、自由なアイディアを話しあえれば理想なのですが、
どうなるか、分かりません。
リアルな仲間内でも、今生長の家を信仰するものとして、外部に提供できるものや、発信していける方法、その可能性の、具体化が大切であるとも考えています。
その中の一つなんですが、他の縁のある人の繋がり(とくに311以降意識の変化があった方も多く、方向性を同じくする方が増えているようです)を持つことや、個人の技能や個性を生かして(仕事や得意なこと)役に立つことなどを大切にして、有志が集まり、組織を超えて活動していくことなど、があります。
(その中でも話していますが、今までの組織で活動する時のお役の責任、などのように、あまり重い考えではなく、自分の楽しんで出来る、ある意味、軽さを大切にして、まず長くつづけられることも大切にしたいということもあります。
茶道のお稽古で、重いものは軽いように、軽いものは重いように扱う、ってありますが、
これは様々な物事扱うにも、応用できそうです。
僕たちは世界を変えることができない、というスタンスでしょうか。
立派な理念、ばかりが先立って、それをたいそうに実現しようとすると、身体が堅くなったり、重くなって、動けてないってことがあるので、だから、それはなしにしよう、ということです。)
自然状態への移行は、現代の私たちの無意識で求めているもの、
もしかしたら世界全体が、その方向へと流れているのではないか、ということも感じるところがあります。
やはり過渡期なので、問題は様々浮上していますが。
ですから、まず「自然状態」の理念、ありき。というだけでなく、
いま。現代社会の問題から与えられる気づきや、置かれた環境の中で、
出来ることを探していく、
これが本来の正しい流れに沿っているなら、
自然状態への道、となっていくのでとも考えるのですが、
いかがでしょうか?
330
:
初心者
:2011/10/21(金) 10:51:47 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ
「僕たちは世界を変えることができない」。たしかにそうなのです。わたしたちは、世界を変えることができないのです。
主体と構造の一元論。これの意味がわかりますか。主体とは、個人意識。構造とは、世の中を、背後から、人知れず支配する強固な仕組み、とこのように考えればよいでありましょう。
主体と構造の一元論とは、主体はすでに構造のいちぶとなっており、その働きのすべてが構造のなかに取り込まれてしまっている、ということでありますね。この意味で、主体の働きは、そのすべてが構造の働きとして説明されてしまいます。
「世界を変える」とは、世界の構造を変えるということでありますね。誰が変えるのかといえば、主体である個人意識が変える、ということになります。しかし、すでに個人意識が構造に取り込まれてしまっているとすれば、個人意識が世界を変えようとする試みは、それ自体が構造の働きとみなされてしまうのでありますね。つまりは、構造が構造を変えようとしていると、このように見なされてしまうのであります。
構造が構造を変えることはできない。主体が構造を変えられるとすれば、それは、主体と構造を異なった存在とみなす二元論が必要となりますね。しかし、現代では、主体と構造を一体の存在とみなす、主体と構造の一元論が、圧倒的な支配力をにぎっているのでありますね。
ビクニねえさんは、「舞台の上で私は演じ続けている」と書いてらっしゃいますが、これは、「私」が存在するという二元論的な見方でありますね。事実はこれとは異なっているとおもわれます。「舞台の上で私は演じさせられている」。これが一元論的な見方ということになりますね。仮面の下にかくすべき「本当の心」。そんなものはどこにもない。あるのは構造のみ。これが、主体と構造の一元論であります。
僕たちは世界を変えることができない。なぜなら、「僕たち」とは、それ自体が「構造の効果」として説明されてしまう、見せかけの存在だからであります。僕たちにできること。それは、構造であることにとりあえずは抵抗してみせるという、むなしい身振りだけなのでありますね。
331
:
トキ
:2011/10/21(金) 14:22:17 ID:/gHI5BnI
トーキングスティクで書くべきではないかもしれませんが、ご招待をいただいたので、とりあえずはここへ書きます。
組織運動で気になっていたのが、専従職員という存在です。もちろん、本部講師になって、管理職になる人もいますが、
大半の職員は、事務職として教区で走り回ったり、道場でパソコンを叩く、という生活を送ります。今回は本部講師には
目をつぶり、この一般職員の事を考えてみます。
一般信徒が一番、接するのが、この一般職員ですが、いろいろと話を聞くと、考える事が多いです。
最初に断っておきますが、職員の大半は、薄給にもかかわらず、献身的に頑張っており、頭が下がります。
しかし、問題点がない訳ではないです。少し箇条書きにしてみます。
身分が不安定という話はたまに聞きます。(もちろん、昔に比べたらずっと待遇はよくなったのですが。)あと、
部内でのセクハラ、パワハラの話を聞かない訳ではないです。上司が変な人で、問題のある言動をしても、部下は
泣き寝入り、というケースも聞いた事があります。逆に、管理職の人が部下に何気なく言った冗談を本部に密告され、
降格になった人もいるので、このあたりは少しちぐはぐな感じがします。
給与で気になるのは、教区職員と本部職員との差です。同じような仕事をしているのに、この差は何だ? と
感じる事があります。また、教区職員でも、大きな教区の職員と小さな教区の職員では給与にすごい差があり
ます。一生懸命働いている人と、怠けている人でも、あまり給与の差がないので、納得できない、という話も
聞きます。
職員への研修体制が、まだ不十分だと感じます。特に教区の場合、採用したら、研修なしですぐにその日から
仕事につくケースが大半です。社会経験のある人なら問題はないですが、あまり社会経験のない人がすぐに勤務
につくと、やはり信徒さんから苦情が来る場合はあります。言いにくい事ですが、信徒さんに横柄な態度をとる
職員はいます。一般論として、企業が社員への研修にお金も時間も使っている事に比べると、生長の家教団はこの
点はこれからだと感じます。
職員の採用で、こんな話を聞いた事があります。教区の場合、職員の採用には教区五者の承認が必要になります。
たまに教区五者からの推薦で職員の採用試験に来る場合があるが、職員としての資質に欠ける人が推薦された時には
対応に困る、と教区の事務局長が話しておりました。
職員の場合、労働基準法が適用されますが、活動家は奉仕なので、法律の適応外です。すると、職員が定時で帰り、
活動家が深夜までがんばる、という光景が見られます。この点は、活動家としては、少し納得ができない話です。
こういう問題点の他に、もっといろんな問題点があると思います。やはり、話し合いを開始して、職員さんも信徒
さんも、互いに納得できるような勤務体制を作る事が大事かと思いますね。
以上、とりとめもない話ですが、御許し下さい。
合掌 ありがとうございます
332
:
さくら訂正
:2011/10/21(金) 14:25:30 ID:ffRoNxFc
初心者さま
少し寝不足ぎみでして…どうも個人的感情に走っていまして、失礼で、粗い表現がありましたら、お許しください。
初心者さま、私は、正直表面的なことばかり突いて非難しあったりするのは、もううんざりするんですよ。
限界を感じて新しい道を模索しようとしているのに、誰がこう言った言わない、そんなことばかりに、立ち止まってたりすると、正直、シラっとします。
なぜ、真髄が流れていることを、そんなにも、信頼しないのでしょうか?なぜ、そんなに恐れているのでしょうか。
自分の思うような姿が、人や物事に現れたら、この世の成功ですか?
世の中を理想の世界に変えようとする、変われば、成功ですか?
本当は、この世で経験している、それ自体が成功、とは、言えませんか?
「見せかけの存在」の「むなしい身振り」結構じゃないですか、
自分の本体は、それを楽しむために、ここへ来たのではないのですか?
初心者さまは、生長の家では、決して教えて下さらなかった面での、世の中の構造や、心理や
哲学的真理を語って下さいます。ある意味、「生長の家」が、目をつぶって来た大切な視点がたくさんあります。
それを以前「生長の家」でないもの、と表現がなされていたこと、ありませんでしたか?生長の家は大宇宙の真理と雅春先生は、いわれたのに、違う視点での指摘をそのようにいう事に違和感がありました。
自分を守るため不都合なものから目を逸らすのは、いつも簡単ですね。
今日はどうか分かりませんが、…また、出直して参ります。
初心者さま、よろしくお願いいたします。
さくら 拝。
333
:
初心者
:2011/10/21(金) 15:45:45 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ
文化的状態とは個人意識の時代であるはずですから、個人意識をどうするか、ということが、ひとつの課題として出てまいりますね。「個人意識はない」といって片付けることもできますが、だからといってどうなるものでもありませんね。現代人の魂がかかえる問題とは、個人意識の時代をどう生きるか、という問題でもあるはずです。この点をふまえて、今は、個人の信仰のあり方、組織としての活動のあり方を考えるべき時代であるという気がいたします。
共同体をはなれた個人はいかに生きるべきか。これを問題にしたのが、ヘーゲルの『精神現象学』であったといわれています。この意味で、ヘーゲルに学ぶことは少なくないとおもいます。ヘーゲル自身は、神の絶対観念の展開としての現象世界を想定していたはずですが、コジェーヴの解釈によれば、これが、「他者の欲望を生きる個人」が、「主と奴の相剋の弁証法」をとおして自由を獲得し、歴史を終焉へとみちびく過程として描かれることになるのでありますね。
ヘーゲルのみならず、多くの先人たちが、個人意識の問題で思い悩み、格闘してきたはずであります。ですが、生長の家では、これを「ない」のひと言で片づけてきたのでありますね。「ない」といってみたところで、個人意識の問題が解決されるわけではありません。欲望を持ちながら欲望はないと否定することで生じるダブルバインド状態に代表されるような矛盾が、いたるところで噴出し、蓄積されてきたはずであります。本流掲示板の方々の、あの断末魔の叫びともいえる抵抗は、蓄積された矛盾をなにがなんでも認めようとしない人々の、最後のあがきであるともいえそうですね。
ここへきて、教団内部の若い人々のあいだで、古い因習にとらわれずに、個人意識の時代を積極的に生きてみようとするような、新しい動きが出てきているようにも感じます。「見せかけの存在のむなしい身振り、結構じゃないですか」といえる人たちが、生長の家にもようやくあらわれてはじめたのでありますね。
本流の方々というのは、「見せかけの存在のむなしい身振り」を否定することで信仰的態度を保ってきた人たちばかりでありますね。こういう人たちは、「構造化された意識」を否定するよりほかに、信仰の道を確立する術を持たない人たちでもあるのですね。これにたいして、若い人たちというのは、理念だけでは世の中のあり方を説明できないと知り、知るために「構造化された意識を、むしろ積極的に生きてみようじゃないか」とおもえる人たちであり、「たとえ構造化された意識どうしの関係であったとしても、新しいなにかが発見できる」と信じることのできる人たちでもあるということですね。
生長の家が転換期にあるのはたしかでありましょう。転換期とは、いつの時代にあっても、抵抗勢力が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時期でもあります。抵抗勢力は、やがてその意に反し、「消え行く媒介者」として、大いなる役割を果たすことになるでありましょう。若い人たちの活躍が、転換期においては、ことさらに重要になってまいります。古い因習にとらわれずに活動できる環境が、現教団において徐々にととのいつつあるのを感じます。
334
:
さくら
:2011/10/21(金) 15:47:28 ID:ffRoNxFc
トキ様
書き込み、感謝いたします。
ありがとうございます。
知り合いが、生長の家の仲間とボランティアチームを作り他の団体のボランティアなどに参加していたところ、非常にチームワークや雰囲気がいいと、いつも評判だったようです。やはり行事の経験がやくに立ったのと、生長の家の実践が光っていたみたいです。
そのチームには、他のボランティア団体の経験者がいてコーディネートなどのノウハウがあったのも、スムーズにいったみたいです。
生長の家の信仰を持って、社会や外部のノウハウ、教育研修や経験をしっかり取り入れて組織が整っていけば、素晴らしいですね。
内部だけで通用することなどの問題や、奉仕で成り立っていることなどで起こる問題点など、ただの不満に終わらせず明らかにして、他の組織のいい点を取り入れて変わっていくとよいとですよね。
やっぱり、変わる過程では、旧い体制との摩擦はある程度あるのでしょうね。
変わる過程では、色々ありますよね。
335
:
さくら
:2011/10/21(金) 15:49:31 ID:ffRoNxFc
18行目 よいとですよね→よいですね。
(ため息)
336
:
頑張れ
:2011/10/21(金) 16:40:09 ID:2tqnPiu.
,. ‐''三ヾ´彡シ,=`丶、
/'".:=≡ミ_≧_尨彡三:ヽ、
//.:;:彡:f'"´‐------ ``'r=:l
/〃彡_彡′,.=、 ̄ ̄ ,.=、 |ミ:〉
'y=、、:f´===tr==、.___,. ==、._ゞ{
{´yヘl'′ | /⌒l′ |`Y}
゙、ゝ) `''''ツ_ _;`ー‐'゙:::::l{ あきらめたら
. ヽ.__ ,ィnmmm、 .:::|! そこで試合終了ですよ・・・・
,.ィ'´ト.´ ´`"`"`゙″ .::::;'
http://goo.gl/GfvqM
イ´::ノ|::::l \ "' :::/
::::::::::::|:::::l ヽ、 ..:: .:::/.、
:::::: ::: |:::::ヽ ヽ、.......::::/..:::/!\\
::::::::::: |::::::::ヽ ``''‐--ァt''′ |!:::ヽ:::\
:::::::::::::|::::::::::::ヽ、 /i|iト、 |l:::::::ヽ:::::\
:::::::::::::|::::::::::::::/:ヽ、 ∧|i|i|i|〉. ||::::::::::ヽ:::::::\
337
:
トキ
:2011/10/21(金) 17:16:18 ID:/gHI5BnI
>>334
さくら様
教団外のボランティアをすると、生長の家以外の人とも話をします。ボランティアの相手方が創価学会の人で
あったり、共産党の活動者の方という事例も実際にありました。共産党などは、党規約2条というのがあり、
日本共産党部内の話題を外部の人間と話してはいけない、という拘束があるので、あまりお話はできません
でした。ただ、肩書きとかにこだわらずに一生懸命していると、仲良くなります。すると、立場は違うけど、
いい人なんだな、という感じがして、やたらと喧嘩をするような気持ちは薄れてきます。また、彼らにしたら
「ファシスト」「仏敵」の生長の家の人も、同じ人間なんだ、という事がわかり、戦意を喪失するみたいです。
まあ、こういう事を書くから、本流掲示板からは、攻撃を受けるのでしょうが。
ただ、生長の家という組織の中でいる限りは、組織内の常識とか価値観がそのまま通るかもしれませんが、
組織の外に出たら、生長の家の常識とか価値観とかは通用しません。あくまでも、1個人であります。すると
1個人として勝負をするしかありません。その時に、頼りになるのは、自分の見識とか人格、そして信仰なん
です。組織外に出て、誰かと話をすると、相手も馬鹿ではないですから、こちらの人間性などは見抜かれます。
私などは、いい加減な人間ですから、世間からは信用はされませんが、他の優秀な人を見ていると、社会の一線
で頑張っている人がたくさん生長の家にもいて、そういう人の信仰は、浮ついていない、しっかりしたものだと
いう事がよく分かります。
そもそも、生長の家という組織というものが、何のためにあるかと言えば、生長の家という運動のためにあり
ます。生長の家という運動が何のためにあるかと言えば、生長の家という信仰のためにあります。生長の家という
信仰が何のためにあるか、というと、人間の幸福と国家の安泰、世界の平和のためにあります。だとすれば、
講習会の受講券を購入するとか、聖使命会員を増やすのは、「手段」であり、「目的」ではないはずです。それ
が、今では、「手段」と「目的」が逆転していると思えます。このあたりの倒錯が、生長の家という組織の問題点
であるのかもしれません。
だとすれば、組織も運動も、あくまでも「手段」である事を考え、本当の目的は何であるか? という原点に
戻って、組織や運動のあり方を考え直す必要はあるような気がします。
と、柄にもなく、真面目な事をもうしました。
合掌 ありがとうございます
338
:
義春
:2011/10/21(金) 22:14:10 ID:SjZg29/2
まぁ…私からも宗教と組織について書いてみますか。(まぁ…あんまり関係ないかもしれませんが)
私には創価学会二世の友人がいます。
まぁ…あちこちでサヨクぶっ叩いたりして暴れまわっていた頃に仲間になった良い奴なんですな。
…で、その子は学会に対して、どうなのかと言うと、物凄く嫌悪感を示すのです。
それこそ、学会嫌いな私でも、そない言わなくても…と言ったりするくらいです。
それで訳をじっくり聴いていくと…考え方の強要が彼にしたら、大変、腹立たしいみたいなのですね。
彼に聴くと、学会も二世・三世になると、親の付き合いでやってるとか、色々なんだそうです。
それで、その種の事は生長の家でも見掛けたりします。
教えは良いけれど、親の姿を間近で観ていて組織には関わりたくない…そんな事を見聞きもします。
私個人も、最近は距離を置いています。
まぁ…・・・私の場合、私が滅茶苦茶過ぎて、組織に迷惑をかけているからですが(笑)
まぁ…反省はするも後悔はしますまい。これも一所懸命に生きた人生故のこと。
それから、もう一つあるなら、展望が見えないのですな。
それをやる事で何があるのか?理念や目的や、そして、それをやって、具体的にどんな結果を見せてくれるのか?
それが非常に見えにくい…眺めていて、そんな事を感じます。
もっと熱い言葉を!何を願っているのかを、魂の言葉が必要なのかもしれません。
良い媒体があるでしょう、もっと活用なさいませ。
339
:
義春
:2011/10/21(金) 22:16:30 ID:SjZg29/2
字数に引っ掛かりました。最後を書き換えます。
もっと活用したら良いなぁ、そんな事を思ったりしますなぁ…。
340
:
義春
:2011/10/21(金) 23:46:02 ID:SjZg29/2
義経に関しての書き足りない部分がありました。
まぁ…源平合戦の終盤は平家の地盤である、西国でした。
この西国の地形は、坂東と違い、広大な平野がなく、坂東武者の得意とする騎馬戦は使えません。
又、海軍がないので、海軍主体の平家には勝てないだろうという予測もされる程でした。
現に義経の異母兄の範頼は大苦戦しています。それだから、もしかすると、日本は東西分裂もあり得ました。
その中で義経は出陣します。
一ノ谷、屋島…そして、檀ノ浦と奇抜な戦術で勝利を重ねます。
確かに、奇抜な戦術でした。
一ノ谷では背面奇襲。
屋島では荒海に乗り出して本陣奇襲。
檀ノ浦では掟やぶりの漕ぎ子を攻撃。
…ですが、それだけではありません。
彼の熱意が軍全体に伝わったからだと存じます。
組織とは人あって動くもの。
組織あって動くものではありません。
今、流行りの組織論を観ると、これを勘違いしたものを見掛けますが、それは違うと想います。
確かに、言葉の暴走は厳に諌めねばなりませんが、将の想いが一人一人の兵に感染して、初めて闘える組織になるのです。
それを見極めた義経の様な熱い人が、今の世の中に必要とされている様にも感じるのですけどね…。
341
:
義春
:2011/10/21(金) 23:54:16 ID:SjZg29/2
>>340
補足
まぁ…感染というより共有ですね。どんな願いを共有するか?その先には何があるか?これって大事な気もするんですけどね。
342
:
義春
:2011/10/22(土) 00:54:52 ID:iu5Ar./Q
やっと家に帰ってまいりました。
それで、先ほどからの私の文章を踏まえつつ、
>>333
での初心者さまの御文章での個人意識について、未熟ながら
思う所を述べさせていただきたく思います。
正直なところ、纏まっていません。
ですが、書く事で、それも纏まる気も致します。
上の安西先生も仰っているではないです。
「諦めたら、そこで試合は終了だよ」って。
悪戯か何かでしょうが、良いAAを貼って貰って、少し励みになります。
確かに、私も色々な事に悩みます。
まぁ、私の場合は普通の人よりも悩む事は多く、正に悩める人間であります。
確かに、先輩方には色々辛らつなご意見を賜る事も多いです。
ですが、それでも、私はこの自分の意識が仮の物と分かっていても、
これを一所懸命に生きる事で、貫く事で、仮じゃなくなる。
少なくとも、その人生は仮じゃない。
その中で、何か一つでも為せたり、発見できたらもうけ物だと思います。
まっ、私の場合、26で此の身体は死ぬべきところを、29まで現存させているだけでも、
十二分に愉しんでいますけどね。
そして、人と云うのは、物質的には孤独な存在です。
大地に寝転がってみると、温かく感じるものです。
先ほど、熱さについて書きましたが、その熱で人は活きるのです。
人間が本来のところより流れてくる願いや祈りであれば、
熱狂とか、暴走とかではなく、自然のままにあるんじゃないかと感じるのです。
だからこそ、縄文的な意識で、思いを共有し、その中で、仮初の意識でも
個人個人の意識と云うのが個性のある特性を発揮する…そう私はかんじています。
…だめですね、ほんと、纏まってないですわ。
343
:
初心者
:2011/10/22(土) 09:22:40 ID:4IaAZAME
義春さん
>ですが、それでも、私はこの自分の意識が仮の物と分かっていても、
これを一所懸命に生きる事で、貫く事で、仮じゃなくなる。
少なくとも、その人生は仮じゃない。
コジェーヴによれば、ヘーゲルは、人間存在を「否定性」としてとらえた、おそらく人類最初の哲学者となるようです。不勉強でよくはわかりませんが、カントにもそうした傾向があったような気もいたします。
「否定性」とはなにか。これもやっかいな概念ですね。ジジェクがこの言い回しを好んで使います。わたくしなりに解釈すれば、「無を自分とおもえる存在」、これが「否定性」としての人間存在の本質ではないか、という気がしています。
簡略にいえば、「無」という否定性を肯定できる、これが「否定性」の概念であるようにおもいます。現象はない。これは否定性によって世界や人間を理解しようとする態度ですね。そして、この否定性を否定する。つまりは、現象を無価値のものと考える。これが仏教的態度であり、生長の家では、無意識のうちにそうした方向へと向かってしまわざるを得ないような精神的態度、ということがいえそうでありますね。
「否定性」を肯定するとは、「無でもよいではないか」とする精神的態度であると、わたくしは考えます。「現象なし」とする否定性にたいしてさえも価値を見いだす。こうした精神的態度が「否定性」の概念にはふくまれているように感じます。
ジジェクの著書に『否定的なもののもとへの滞留』があります。ヘーゲルは、『精神現象学』の序論で、「精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を、絶対的分裂のうちに見出すときのみなのである。この否定的なもののもとへの滞留こそは、それを存在へと展開させる魔法の力なのである」と述べているようです。義春さんが、#342の投稿でいわんとされているのは、この「否定的なもののもとへの滞留」ということではないかと理解いたしました。
ところで、ここでいう「絶対的分裂」とはなんでしょうか。我田引水ともいえる解釈をすれば、「絶対的分裂」とは、自然状態との分裂であり、共同体意識とのそれであり、神や実相にたいしてさえも分裂しているという意識のありようである、と考えることができそうです。
じつはそこにはなにもない。これが絶対的分裂の状態ということになりますね。そして、そのことを知りながら、それでもあえて、その「なにもない」場所へと滞留することによってこそ存在は展開される、と考えるのが、「現象なし」の言葉で語られる否定性を肯定する生き方、つまりは、「現象なしでよいではないか」と考える生き方、ということになるのではないかと、わたくしは考えるのでありますね。
これが、義春さんがいっておられる「これを一所懸命に生きる事で、貫く事で、仮じゃなくなる」ということではないかという気がいたしますね。「現象なし」と否定してみせるのではなく、あえてこの状態にとどまることで、そこに存在を展開させる。これが、現代的な個人意識が存在する理由でもあるような気がいたします。
文化的状態とは、否定的なもののもとへと、そうと知りながらあえて滞留してみせる、ということでもあるのですね。そうなると、自然状態への回帰をどうとらえるのか、という問題が出てまいります。文化的状態へととどまりながらも自然状態を実現する。こうした、究極のダブルバインド状態ともいえる難題をどのようにして克服してゆくのか。これが現教団の、ことに若い人たちに課せられた課題であるのかもしれません。どうやら、義春さんには、答えが見えてきているようでもありますね。
ここに書いたことは、まだ結論が出たことではないので、義春さんやさくらちゃん、そしてほかの方々にも一緒に考えていただければという気がいたします。
344
:
トキ
:2011/10/22(土) 11:23:19 ID:tIAElqys
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える 3 で、琴音さんが天理教のお金もことを書いておられるので、
少し「お金」の話をしたいと思います。
日本共産党があと数年で消滅する、と言われています。その根拠は「赤旗」が毎月1億円の赤字を出している、という
事です。しかも、最近はその赤字が増えており、毎月2億に迫る勢いだそうです。(本流復活派の皆様、喜んで下さい!)
共産党の参議院議員だった筆坂秀世氏によると、赤旗拡大月刊を儲けて拡大活動をしたら、逆に減った、という漫画のよう
な話もあります。(「日本共産党」新潮新書 P57)
もともと、共産党は、機関紙の使用を戦略的に重視していたみたいです。前の共産党に指導者だった宮本顕治さんの時代
に、赤旗を拡大し、それで宣伝をすると共に、活動費にする、というビジネス パターンが成立したのも大きかったと思います。
ところが、共産主義の崩壊後、共産党は大幅な勢力の後退を始めます。その中で、赤旗も減部を続け、ついに巨額の赤字を
出すに至ります。ところが、赤旗を活動の中心にしてしまったので、今更、赤旗の日刊発行を止める訳にはいかないのです。
その上、今まで、他党の政党助成金の受け取りを散々、批判したから、政党助成金の受け取りもできない、窮地に陥って
いる訳です。
次に創価学会に目を転じると、彼らは「財務」という名目での献金を定期的に行っているみたいです。創設当時は、
裕福な人だけを選んで、財務部員とし、彼らに寄付をさせたようですが、今では、会員の大半に「財務」を強制する
ようです。そして、その金額も、何百万、何千万という単位になっているようです。聖教新聞に至っては、一人が何部も
購読するというのが普通みたいです。何故か? そうすると「功徳がある」という説明をされているみたいです。
おかげで、創価学会の会員には、夜逃げをする人が続出する反面、創価学会の総資産は1兆とも10兆とも
噂をされています。(創価学会とは何か? 山田 直樹 (著) 新潮社)
さて、生長の家に目を転じると、生長の家の「ビジネスモデル」は、聖使命会員制度と講習会です。
このうち、聖使命会員は、今、急激に減少しております。講習会も教区の貴重な収入源でしたが、それも今回の
強制割当禁止で、収入源としては見込めません。内部留保がたくさんある本部は、まだ痛痒を感じないかもしれ
ませんが、教区は結構、不満を感じております。講演会も禁止、普及誌も魅力がない、となれば、中には独立を
考える教区も出て来る可能性はあります。
実は、宗教法人法を調べたのですが、包括関係から離脱、つまり教団からの独立を画策しても、責任役員(つまり
教化部長)へ不利益な扱いをすることを明文で禁止しているのです。(宗教法人法78条 (被包括関係の廃止に係る
不利益処分の禁止等))。
これを防ぐには、方法がいくつかあります。今の生長の家には、宗教本来の魅力はありません。絵手紙や環境
が悪いとは思いませんが、これはあくまでも「おまけ」です。それをなくして、どんな機構の改革をしても、
信徒は、運動をしようとは思いません。講習会を始め、普及誌なども、もっと信徒の意見を取り入れるべきだと
思います。(左翼運動の経験者が話しておりましたが、左翼系組織では定期的に、無記名アンケートや会員の意識調査
を実施し、部内の世論を調べているそうです。)
もう一つは、今までとは違う、「ビジネスモデル」を構築する事です。教区が今、着目しているのが、練成会です。
これは、ある程度の収入が見込めます。講演会もある程度の条件付きで、復活してもよいと感じます。
あと、大事なのは、本部と教区がもっと対話をする事です。お互いに、相手に不信感を感じております。これは
良くない事です。相手の良い分を謙虚に聞く姿勢が大事だと感じます。
以上は、ざっと考えた事なので、欠点が多いと思います。御許し下さい。
合掌 ありがとうございます
345
:
さくら
:2011/10/22(土) 13:24:59 ID:.VaT7b3.
初心者さま
トキさま
義春さま
ありがとうございます。
初心者さま
初心者さまのおかげで、私の相変わらずの暴言も昇華?され、どうにか気持ちのまとまりがつきますね。
感謝の念にたえません。
>この点をふまえて、今は、個人の信仰のあり方、組織としての活動のあり方を考えるべき時代であるという気がいたします。
個人意識の時代をどう生きるか。
それを、宗教においても、掘り下げて考えていけなくては、
若い人なんて、どんどん離れるのは当然だと思います。
例えば、本流対策で、初心者さまが、天変地異と「心の法則」についての指摘をされておりました。
宗教は、真理をうたって、実は「何も語れない」ということになってはいないか、その様なことも考えます。
先日、仲間のなかでも、私たちが何を語れるか、を話しました。
経験が少ないので、まず行動を大切にすること。
学ぶこと。
正しいと思えることを、自分の言葉で伝えられること、など。
…学ぶこと、なのですが、これは、初心者さまが指摘されますように、
共同体をはなれた個人はいかに生きるべきか、いま、それを語る言葉がなくてはならない、と、思うようになりました。
ヘーゲルの『精神現象学』やジジェク『否定的なもののもとへの滞留』などを学んでいくことは、大きなヒントになりそうな気がします。こうした視点からも話が出来る、青年会、いいですね。
(義春さまも、ご自分の経験からくるセンスや歴史の深い洞察によって、自分の言葉を持って語れる素晴らしい青年です、生長の家の力になって頂きたいですね。)
>ここへきて、教団内部の若い人々のあいだで、古い因習にとらわれずに、個人意識の時代を積極的に生きてみようとするような、新しい動きが出てきているようにも感じます。「見せかけの存在のむなしい身振り、結構じゃないですか」といえる人たちが、生長の家にもようやくあらわれてはじめたのでありますね。
はい、生長の家の新しい力になると、希望を持ちたいです。色々非難されますが、意識の高い若い子は多いと思います。ただ、いまの生長の家の中で、方向を見失っている、ということがあります。
>文化的状態とは、否定的なもののもとへと、そうと知りながらあえて滞留してみせる、ということでもあるのですね。そうなると、自然状態への回帰をどうとらえるのか、という問題が出てまいります。文化的状態へととどまりながらも自然状態を実現する。こうした、究極のダブルバインド状態ともいえる難題をどのようにして克服してゆくのか。これが現教団の、ことに若い人たちに課せられた課題であるのかもしれません。
私は、これを今までのように、「理念まずありき」のような態度だけでなく、行動することや自分の学んだ言葉で考えることで、可能性が広がると感じています。
これを具体化するために、広く対話ができれば、と感じています。
とりあえず、書き込みしました。
他のコメントは、あとで読ませて頂きます。
またよろしくお願いいたします。
また、いまのおしえの方向性をまとめたいのですが、ちょっと時間ないので、またあとで。
346
:
さくらモノローグ
:2011/10/22(土) 21:36:04 ID:.VaT7b3.
もううんざり。となんども思った。
宗教団体、にかかわったことなんか。
だから、あえて、宗教団体、を選んだ。
私には、うんざりするくらい、付き合わないといけないから。
347
:
義春
:2011/10/22(土) 21:52:01 ID:iu5Ar./Q
初心者さま
1日、この究極的ダブルバインド状態について、どうすれば良いのか考えてみました。
文化的状態、ひきこもりの状態とは文明つまり現在意識という意識レベルでの
自分のうちにとじこもることであろうかと想います。
それで、解決策がこの【自分のうち】、【自己】という範囲かと存じます。
今の現代文明での【自己】とは他人の関係性について、非常に冷たくなっております。
それから考察すると、【自己】という範囲が非常に狭くなっているように感じます。
それだから、その【自己】という範囲を周りの人ばかりではなく、空気や水にまで広げる
…それが自然状態への回帰の第一歩になるかと存じます。
但し、これは擬似的なものになろうかと私は仮定しております。
なぜかと申しますと、個人意識…私は個々の現在意識と訳しておりますが、
これは無力であります。絶えず、他者の大文字・文明の影響下にあるからです。
(言い回しがおかしいかもしれませんが)この文明自体が縄文的なものに変わらない
限り、個人意識も変わらない…そう感じるのです。
だから今はその過渡期にあたるかと感じております。
現代文明自体が後ほど述べるように旧約聖書の誤読であるので、神の心に叶わぬから、
行き詰まっている、その具体的なものとして東日本大地震における福島原発事故になるかと
存じます。
そして、縄文的な文化とは何か?私はそれは人間と自然の調和であり、
科学技術も現代文明では、大量生産・大量消費・利便性を重視したもので
ありますが、これからは【自己の内面】の為に活かされるものになるかと
個人的に予測しております。
そして、その基調に流れるのは、【人間は自然と共にあり全てとつながっている】
そうなろうかと存じます。それだから、現代文明…例えば、原発のように、
自然を汚染するなんていう考えとは根底から違ってきます。
現代文明は旧約聖書で神が治めよと示したものを【物質】と解した事から、
発生したものであると私は考えています。
恐らく原典ではその示したものは【霊】であると私は予測しております。
それだから、人間至上主義的な自然から乖離したものではなく、全体で以て、
1つであるとも予測しております。
それが具体的に現れる1つのきっかけになるのが…
【スマートグリッド】というものではないかと私は考えています。
【スマートグリッド】とは:次世代送電網とは、電力の流れを供給側・需要側の両方から制御し、
最適化できる送電網を指します。
大まかに言えば、
1.ピークシフト(昼間電力消費の一部を夜間電力に移行させる方法)による
電力設備の有効活用と需要家の省エネ
2.再生可能エネルギーの導入
3.エコカーのインフラ整備
4.停電対策
この4点になります。
(参照:
http://www.kankyo-business.jp/topix/smartgrid_01.html)
先日、テレビで初めて知りましたが、12月に三菱重工が試験的に運用するそうです。
これは再生可能エネルギーを活かしきる技術になろうかと感じております。
そして、生長の家でも、森のオフィスを通して、再生可能エネルギーを使います。
具体的には北杜サイト太陽光発電所になりますが、これを用いて本部の運用をしていくので、
このスマートグリッドの実用例になろうかと考察しております。
(それから、北杜市がこれを為せたのは、かの地の立地条件にあります。
北杜市は日本でも有数の日光があたる土地なのですね。
だから、大規模な太陽光発電所が作れたのです。)
このような所から全体を以て1つとする、自然状態への回帰・縄文的な文明
が現れていくのだと私は感じております。
348
:
さくら
:2011/10/23(日) 05:57:40 ID:.VaT7b3.
トキさま
>346削除願います。
初心者さま
わたしは、しばし、沈思黙考した方が、いいかもしれません、が、
まだ、助けて頂きたいことが、たくさん、あります。
まだスティックは、持ってます、
349
:
初心者
:2011/10/23(日) 08:32:26 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ
宗教団体。たしかにうんざりすることがありますね。
変われない人たちばかりが集まってます。変わろうとする人たちにとっては、
たしかにうんざりするよりほかはない人たちばかりです。でもね、現教団は
変わろうとしているような気がします。変わりたくない人たちがジャマを
はじめてます。仕方がいなことです。変われる人たちだけでやってくいしかない。
そういうことなのだろうとおもいます。
350
:
初心者
:2011/10/23(日) 08:37:54 ID:4IaAZAME
義春さん
わたくしの発想源のひとつは、心理学者のアーノルド・ミンデルです。そのミンデルに、「小さな自己」と「大きな自己」の思想があります。「小さな自己」とは、肉体にひきこもった個人意識ですね。「大きな自己」とは、個人意識が認識できる外的世界のすべてをさします。個人意識が見ているもの、それもまた、じつは自分なのだと、ミンデルは主張しています。
ここでもなんどか書きましたが、ミンデルの発想は、その多くが現代物理学の、とりわけ量子力学に負うところが少なくありません。ドリーミングは、ミンデルが好んで使う用語ですね。ドリーミングとは、大宇宙からの働きかけであり、それは量子波動方程式によって示されている、というのが、ミンデルのおもな主張であるようです。
ですから、
>それだから、その【自己】という範囲を周りの人ばかりではなく、空気や水にまで広げる
…それが自然状態への回帰の第一歩になるかと存じます。
をミンデルふうに言いかえれば、【自己】の範囲は、宇宙全体に拡大するのが自然であり、むしろそれがほんらいのあり方ということになるのでありますね。
ただ、ミンデルには限界がありますね。その限界とは、ミンデルがユング派の心理学者であり、フロイトからラカンにつらなる系列にかんしては、まったくの門外漢であることからきているようにおもいます。
フロイトからラカンにつらなる系列とは、言語を重視するという系列ですね。ミンデルには、言語を重視するという発想がありません。量子波動方程式によって示される世界とは、言語以前の世界です。言語以前の世界と、言語以後の個人意識の内的世界は、それはつまり自然状態と文化的状態と言いかえてもよいものなのですが、これら両者は、ともどもに、言語によってどうしようもないほどに分断されています。こうした認識がミンデルには欠如している、ということがいえるような気がしてならないのでありますね。
このことが、
>但し、これは擬似的なものになろうかと私は仮定しております。
なぜかと申しますと、個人意識…私は個々の現在意識と訳しておりますが、
これは無力であります。絶えず、他者の大文字・文明の影響下にあるからです。
といっておられる、義春さんの言葉によって表現せられておるのでありますね。個人意識は、現代文明によって象徴される大文字の他者の影響下におかれています。しかも、そうした影響力でさえ、個人意識と小文字の他者との想像的な結びつきによって断ち切られてしまうというのが、個人意識をめぐる、いつわらざる現実なのでありますね。
自然状態と文化的状態の極限ともいえるダブルバインド状態、これはミンデル的な手法によれば、いとも簡単に実現されてしまうことになるのですが、現実には、言語の問題が大きく立ちはだかって、その実現はなはだしく困難ということになってくるのでありますね。
こうした課題を乗り切るのに、生長の家の標準的な手法は「その気になってみせる」という、ただこのひとつだけであったはずです。その気になればなんとかなる。この一点張りで、現実の問題を乗り越えようとしてきましたが、こうした手法が、ミンデル的手法とおなじ限界をかかえこんでしまうのは、あきらかなことなのでありますよね。
問題はダナオイの贈り物、つまりは言語ですね。言語によって設定された限界をどうやって乗り切るか。これが生長の家に課せられた課題であるような気がいたします。
ただし、「スマートグリッド」という言葉で義春さんが表現しておられるように、現教団は、言語の問題に真向から取り組むのではなく、まったく異なった方向から自然状態へのアプローチを試みているようでもあります。
ダイナミックな運動がはじまってますね。これを理解できない人たちが反対しています。それでも、ダイナミックな動きはすでにはじまっています。わかっている人にはわかっている。面白い時代になったものでありますね。
351
:
トキ
:2011/10/23(日) 09:30:27 ID:gwlgYZpw
>>346
さくら様
別に問題はないと思いますが、どうしましょう? でも、どうしても御希望なら、削除します。
管理人 敬白
352
:
初心者
:2011/10/23(日) 10:48:41 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ
人類学者のグレゴリオ・ベイトソンに学習理論というのがあるそうです。手元に資料がなく、うろ覚えですが、学習にはⅠからⅣがあって、たしか、学習Ⅰが、人として生きていく上で必要な学習とすれば、学習Ⅱは、学校などで受ける教育という定義がなされていたようにおもいます。
ベイトソンは、人類には、いまだ学習Ⅳのレベルに達した人はいない、といっていたようにもおもいます。さて問題は、学習Ⅱは、ひとたびこれを習得してしまうと、このレベルから逃れることは、はなはだしく困難であるということでありますね。学習Ⅱを逃れることができた人だけが、学習Ⅲに達することができる。こんなようなことを、ベイトソンはいっていたようにおもいます。
宗教的学習は、ほんらいであれば、学習Ⅲに位置すべきものでありますが、現状をみれば、学習Ⅱのレベルにとどまっている人がほとんどであるような気がいたします。いちど習得した宗教的信念からは逃れられない。こうした人たちが学習Ⅱのレベルにとどまっている人たちなのでありますね。
こういう人たちをいくら相手にしても無駄でありますね。学習レベルⅢに到達するのは不可能な人たちなのでありますね。相手にすべきは、レベルⅢに到達可能な人々だけであるような気がいたします。レベルⅢが何であったか、具体的な内容はおぼえておりませんが、少なくとも、いちど習得した学習を手放せない人たちがレベルⅢに到達できない人々であるのは、たしかなことでありましょうね。
宗教にたいするいらだちとは、ほんらいはレベルⅢに到達すべきであるのに、レベルⅡにしがみついて離れようとしない人々にたいするいらだちでもあるような気がいたします。
353
:
さくら
:2011/10/23(日) 10:57:06 ID:.VaT7b3.
>351トキ様
いじわるですか?笑
(それとも、賛同して下さるのですか、嬉)
トキさまの公平な判断を信頼しておりますので、
では、お任せいたします、、どちらでも。
(いつもみなさま共々、お手数おかけします)
354
:
義春
:2011/10/23(日) 16:24:25 ID:SjZg29/2
>>350
初心者さま
ミンデルについて調べてみました。量子力学に易や老荘思想を取り入れいるそうですね。
個人的には昔、老荘思想と孫子によるところが多かったので、興味がわきました。
確かに、ミンデルは言葉以前の姿を提示する、それは言葉というもので世界が歪められるから、言葉によらないというスタイルだと私は感じております。
ただ、初心者さまの仰る様に、問題は、言葉により自然状態から切り離された個人意識であるので、
このミンデルのスタイルには限界がある…言葉により歪められた世界には、最善の手法ではない、そう私は感じてます。
>個人意識は、現代文明によって象徴される大文字の他者の影響下におかれています。
>しかも、そうした影響力でさえ、個人意識と小文字の他者との想像的な結びつきによって断ち切られてしまうというのが、
>個人意識をめぐる、いつわらざる現実なのでありますね。
これは私の感覚的なもので裏付けはありませんが、大文字の他者が影響力を発揮できたのはインターネットが普段の生活に活かされた2000年前後までかと感じてます。
個人の欲動が反映されやすい、インターネットは、この小文字の他者の影響下にあると言える…その様に、感じております。
そして『ダナオイの贈り物』に対して、言葉で向かうのは、恐らく、難しい…不可能と言えるかもしれません。言語を贈られたのに言語を越えられるのだろうか?そう想わえて仕方ないのです。
しかしながら、初心者さまの仰る様に…生長の家教団は、これに対して、『正を以て対し、奇を以て打つ』つまり、言葉に依存しない方法で、
又は生長の家独特な方法で自然状態への回帰を目指しているのかもしれませんね。真に面白い時代だと痛感しております。
355
:
さくら
:2011/10/23(日) 18:20:47 ID:7UF3gf.w
初心者さま、返信頂いていて、ありがとうございます。
あまり細かく書く時間がなくなってまして…
でも、たいへん理解の助けになっております。
わたしは、考えがまとまらないまま、
宗教組織の矛盾と、これからの宗教組織の可能性を考えたいと
ここへ来ました。
(ある意味、わたしには、ダブルバインド?のようなストレスも感じながら、笑)
広げすぎとか、論点が定まらない印象で、すみません。
宗教組織の矛盾を考えると、自分の実感ではありますが、感情に走りがちで、反省もあります…。
それでもたいぶ助けて頂きながら、わたしなりには見えてくるものもありました。
私もちょっと今は、書き込みができなくて、間隔が空きそうなので、とりあえず、少し、お時間を下さい。
初心者さまと義春さまのやりとりも大変、参考になってますし、
それを、自分なりにふまえながら、いまのおしえの方向についても…少し考えたいと思っています。
では、また、よろしくお願いいたします。
356
:
トキ
:2011/10/23(日) 19:52:59 ID:sUxsMp.w
>>353
さくら様
「いじわる」ではないので、ご安心下さい。(笑)
357
:
トキ
:2011/10/24(月) 22:02:42 ID:ruwtSjEI
「挨拶」板のsakura様の文章を拝読し、創価学会についての話題もありましたので、
少し、組織について、考えたいと思います。長い文章なので、2日に分けて
投稿します。お許し下さい。
生長の家に限らず、発祥当時は、純粋に信仰の事だけ考えていたら良かった
のに、組織が大きくなったら信仰がお留守になる・・・・。
これは、多くの宗教法人の信徒の間で聴かれる声です。
確かに、立教当時の少人数だと、学級会を運営するような感覚で、運動は
出来ました。しかし、人数が増えて、組織ができると「能力」という別の
要素が要求されます。組織運営がきちんとできないと、信徒さんに迷惑
がかかるからです。
例えば、何か講演会をするとしましょう。勿論、そこで行われる講話が
魅力的である事は大事です。が、同時に、運営が正常に開催される事は、
同じ位大事な事です。例えば、マイクの調子が悪くて講演の内容がよく
聞こえなかった、弁当の数が足りなかった、案内員の口ぶりがぞんざいで
不愉快な気分だった等々というトラブルがあれば、参加者は二度とその教団の
講演会には参加しないでしょう。その意味で、組織なり、行事を正常に運営
する能力は、必須のものになっていきます。
そして、その能力は、一般論として、活動経験の長い人ほど優れたものを
持っています。活動歴20年、30年という幹部や職員になると、将棋で言えば、
5手先、10手先を読むだけの見識があります。こういう人がいるか、いない
かで、組織運動の成果や行事の内容は全然変わってきます。ですから、
宗教法人で、いわゆる「教団官僚」というべき人達が発生するのは、ある種の
必然性があるからなのです。(つづく)
358
:
トキ
:2011/10/24(月) 22:03:21 ID:ruwtSjEI
ところが、問題は、そういう「能力」と「信仰心」とは、独立した存在なの
です。私の周囲にも、信仰的には熱心なのに、組織指導をさせたら全然ダメ、という人もいます。逆に、永年、活動をし、卓越した能力を持っているのに、
人望があまりない人もいます。(もちろん、古い活動者の人の大半は能力も信仰
も、優れたものを持つ人が多いですが。)
ただ、こういう「能力」派とも言うべき人と、「信仰」派ともいうべき人
に関して言えば、どちらかを排斥するのも良くない、と思っています。
職員にしろ、役職者にしろ、大人がする事なのですから、やはり責任のある
「仕事」が要求されます。すると、やはり能力は高い方が良いです。
しかし、宗教法人という存在ですから、やはり「信仰」はそれ以上に必要
です。信仰心がない宗教は、エンジンのない自動車みたいな存在です。その
意味では、極端に「能力」を過大評価するのは危険だと感じます。
例えば、創価学会などは、おそらく、昇進の基準が「能力」なのかと想像
しております。ですから、社会的には異常と思われる人物が創価学会の幹部に
いるのを散見します。創価学会の本などを読むと、池田大作さんご自身が
教団官僚出身というべき人ですから、信仰という建前は別にして、教団運営を
おそらくはビジネスと割り切っている部分があると思います。
(残りは、明日、投稿します。)
359
:
トキ
:2011/10/25(火) 16:22:38 ID:hvuI9opE
新宗教だけでなく、既成宗教も含めて、巨大な教団を運営する以上、ビジネスライクな部分は必要になって
きます。組織を維持する以上、お金も必要だし、人材も必要です。また、社会的な存在である以上は、内部
統制も整備し、第三者からの評価に耐える存在でなければいけません。が、それが行き過ぎると、信仰という
部分が飛んでしまいます。このバランスが難しいです。
そして、本来、信仰のための運動であり、組織であったのが、いつの間にか、運動や組織の維持が目的とな
り、信仰はそのための手段になってしまいます。
これは、本末転倒だと思うのであります。つまり、発祥当時の教団と、現在のような巨大化した組織で、同じ
ような内部統制のやり方では、限界が来ると思います。その部分にも率直に目を向ける必要はあると思うので
あります。(つづく)
360
:
トキ
:2011/10/25(火) 16:59:38 ID:hvuI9opE
では、生長の家は? と見ると、幹部や職員を見ても、信仰に徹するのではなく、活動のプロでもなく、中途半端な人が多いと
感じます。
生長の家という組織は、よくも、悪くも、緊張感が薄いですから、職員にしろ役員にしろ、普通に外の社会で仕事をしている
人間から見たら、「そんな仕事ぶりはないだろう」と思う点はあります。仕事や活動に打ち込む姿勢には、?を感じてしまい
ますね。(これは、朝から夜まで、仕事や活動をしろ、という意味ではないです。念のため)。
では、信仰的に優れているか、というと、それも中途半端で、どうも昔のような情熱も感じられない。職員や幹部役員の言動に?を
感じてしまうのは、信仰面でも同じです。かえって、末端の役員さんの信仰姿勢に感動を覚える事があります。
ここで、付け加えますが、組織内の幹部や職員にも、能力的に優れた人や信仰的に尊敬できる人もいます。しかし、そういう人達に
負担が集中しているのも事実です。言い換えれば、組織内部の矛盾を、少数の人達が犠牲になることで、糊塗していると言えるのです。
(つづく)
361
:
トキ
:2011/10/25(火) 17:23:05 ID:hvuI9opE
つまし、組織内の相当数の幹部や職員には、悪い意味での「お役所仕事」のような言動をする人がいると認めざるを得ません。
しかし、その責任を彼らだけに押し付けるのも、違うと思うのです。中間幹部や職員は教団上層部の指導内容や言動を見ています。
中間幹部や職員の活動姿勢や勤務態度、信仰心に問題があるとたら、その相当部分は、教団上層部にも責任があると自覚してもらう
必要があると思うのです。
もともと、生長の家は、谷口雅春先生が既成宗教の問題点をよくご存知でしたから、自由のある、それでいて緊張感のある組織でし
た。が、組織が巨大化するにつれ、階層化が始まり、ハイアラーキーな体制になりました。普通、組織が巨大化した場合、権力を統制
するために、監査体制を充実させるなど、組織の近代化をする必要があるのですが、そういう面には無関心なままでした。結果、今日
のような迷走状態が始まったのです。(つづく)
362
:
トキ
:2011/10/25(火) 17:31:44 ID:hvuI9opE
少し余談になりますが、私個人にも経験があります。昔、ある本部幹部の人が教区に来られた事があり、用事が終わってから、お食事をご一緒したのです。
その時、その幹部の人からは、現在の教団がかかえる問題点について的確な指摘があり、私もその内容には大いに賛同したものでした。そこで、その幹部の
人に「それを公表し、教団を改革する事が大いに必要ではないのですか?」と言いました。すると、その幹部は苦笑いをして、
「これを公表したら、私は教団にはいられません。」と即座に返答をされたのです。
つまり、教団の中堅幹部も上層部の人も、教団が抱えている問題には認識はあると感じております。が、それが言えない「空気」が形成されていると思うの
です。この空気が感染し、上から下まで、当たらず触らずの組織指導を繰り返すようになり、いつしか部内の士気が低下し、活力が失われて行った、と思うの
です。
363
:
トキ
:2011/10/25(火) 17:44:01 ID:hvuI9opE
(つづく)
言い換えると、組織内には問題が充満していたのに、こういう場面だけは「問題はない!」という実相世界に超入し、目をそらしていたのです。
では、どうすれば良いでしょうか?
一番、分かりやすいやり方は、「誰か、悪者を見つける」というやり方です。例えば、本流復活派は、谷口雅宣総裁に全部の責任があると考えて
います。(確かに、責任がないわけではないです)。反して、教団側は、学ぶ会を「異端視」しています。が、こういうやり手法は、テレビの水戸黄門
の中ぐらいしか、通用しない話だと思っています。
同時に、これほど多様化した社会の下では、従来のように、単純な活動モデルや目標で全ての信徒を束縛するのは無理です。
現象人間がする事ですから、問題は当然に発生します。それを認めましょう。講習会が面白くないのも、谷口雅宣先生の指導に納得できない人が多いのも、
本流復活派の言動がカビ臭いのも、百万運動は繰り返したくないのも、ごく普通の感性だと思います。今までは、それを口にするのはタブーでした。
が、幸い、ネットという手段があります。知性と人生経験、そして信仰心があります。
ある意見が登場した時に、それを全面否定するのでも、全面肯定するのでもなく、それをまず咀嚼し、より建設的に信仰や運動に昇華するようにする。
そのための「議論」が必要だと思います。それができる場が「ネット」だと思います。(つづく)
364
:
トキ
:2011/10/25(火) 17:50:20 ID:hvuI9opE
今、生長の家には100万人近い信徒がいると言われています。しかし、信仰という面で考えるなら、本当は、一人、一人が信仰の主人公
であるべきです。「一即多、多即一」という言葉はあります。が、今までは、組織信仰という面に重点が置かれて来たように思います。
組織の存在は大切ですが、これからは個人の信仰も等しく問われるべきでしょう。
そのためにも、活動も信仰も「議論」が普通にできる生長の家こそが、求められると思う次第です。
どうも、さくら様のトーキングスティクを奪ったみたいな形になり、申し訳ありません。
お詫び申し上げます。
合掌 ありがとうございます
365
:
ぼるぼ
:2011/10/25(火) 18:33:06 ID:M0AaoEgg
>トキさん
>>357
から
>>364
まで、生長の家の掲示板管理人として、模範的見解であると思います。
生長の家は人類光明化運動でありますから、守備範囲は非常に広いのでありまして、今や、信徒数は70億人と見て良いのであります。
ですが、我々は日本人として生まれて来たので、当面は日本語で狭いコミュニティを持つことしかできない。ネット掲示板の参加者も日本人を対象にするしかない。なので、信徒は精々1億3000万人止まりということになる。
それでも、内容的には十分バラエティに富む。人間知では図り知れないボリュームである。
自分一人の力と日本人全体の力を比較すると、蚊と鯨ほどの差がある。
アマゾンの大家事を消すハチドリのようなものである。
それでも、一人の赤心は全体の心を掴む。宇宙真理は、一人一人の心に映ずるから。
掲示板に雅春先生の言葉をコピペする愛行は尊い。その人がその言葉の真理を感得したことを示す。また、有縁の読者はその真理を共有し、歓喜する。
この掲示板が、ますます良くなるよう祈ります。
366
:
トキ
:2011/10/25(火) 21:49:07 ID:hvuI9opE
>>365
ぼるぼ様
ご投稿、ありがとうございました。ぼるぼ様の言われる通り、一人の力発心が、日本を変える事が
できると信じております。今後とも、宜しくお願いします。
合掌 ありがとうございます
367
:
さくら
:2011/10/26(水) 01:39:47 ID:T/77sMGw
トキさま
スティック持ったまま、しばらく、留守にしましてすみません。
(その間に、トキさま、スティックを奪ったなんて言って、またいじわるですか、笑。
トキさまの、いじわる、なら、甘んじて受けます、)
トキ様が、生長の家で体験されてきた組織の雰囲気や事情がよく伝わりました。
エホバの証人の最高中枢機関にいた幹部が書いた「良心の危機」という本があり、
信仰の崇高な志を持った活動が、組織化する過程で、やはり当初の高邁な目的からの「ずれ」や、内部の信仰の腐敗していく様子が書かれていて、
これは、カルト団体についての特殊な事情、というだけではなく、組織の、ある傾向として考えるのに、客観性や説得力もあるようです。
ある意味、組織への「依存」のようなものから、個人としての責任ある思考や行動が、甘くなっていったり、人としての良心がゆるんでくるといったことは、多かれ少なかれあると思いますし、こうした事は、大きく成長し過ぎて監査機能が、やはり充分に行き届いていない組織の傾向として大きくなる、と言えるそうですね。
あと、過去の事実や情報を開かれて話すことを、タブー視するような傾向が問題を見えなくする傾向など。
宗教組織においては、組織としての力の維持と、信仰の崇高な理想の実現といったところでの亀裂が大きくなりやすく、内部にいる者は、自分の信仰心や真理を基準とした判断と、組織の維持や組織上の立場の間で妥協することなど、普通の組織にいるより、葛藤が大きくなる面があるように思います。
また宗教は特に、教義や信仰の形によって、内部の「特殊な常識」をつくりやすい傾向もあります。
トキさまの生長の家の組織の体験の実感からも、雅春先生が築かれた初期の形から、組織が大きくなるにつれて、変わっていく様が分かりますし、
内部の信徒の中でも、感じていることだと思います。
トキさまがいうように、過去の弊害もオープンに語って、新しい方向を議論することは、本当に大切なことなのですね。
そういえば、トキさまのお話の中で、人材の教育のことがありますが、
生長の家では、一般企業の新人研修に練成など受けているところがあり、研修から帰った新人は、本当に評判が良いと聞きました。親に感謝し、日本の国の素晴らしさに目覚め、人間が神の本性をもち無限力だということなど・・生長の家の生き方で社会経験を積めば、ほんと、素晴らしい人材になりますよね・・。
生長の家の職員の方でも優秀な方は多いと思いますが、組織のゆるみ、などのようなものから、トキさまが仰られたような、様々な弊害がでてくるのでしょうか。
信仰の深化と、社会的な経験や実践力のバランスなどが、大切ですね。
368
:
さくら
:2011/10/26(水) 01:41:11 ID:T/77sMGw
運動について、
雅宣先生は、副総裁時代になりますが、教修会においてこう言われてました。
「・・私たちの運動は「現象」だということです、違いますか?
・・言葉が現象であるならば、我々の運動は、当然現象です。なぜなら、我々の運動は言葉の運動なんですから。
では、「運動は現象だ」ということは、何を意味するのでしょう。私たちは「現象は不完全である」と学んでいる。とすると、我々の運動も不完全なのです。
・・我々のやろうとしていることは実相世界の顕現であるけれども、その過程では、ころんだり、泣いたり、笑ったりするではないですか。それでいいんですよ。だから、それと同じように我々の運動もつまずくことがある。倒れて起き上がることもある。
その事実を認めないといけないと思うのです。
谷口雅春先生は、確かに実相世界を説かれました。
しかし、現象世界にどのようにして実相を現わすかということについては、大変悩まれました。何回も試行錯誤されています。
・・生長の家がやろうと思ったことが、現象的には出来なかったことは数多くある。その理由を「私たちの信仰が足りなかった」とおっしゃるけれど、そういう理由も一部あるかもしれないけれど、それだけじゃない。
現象の運動というものは、つまずいたり倒れたりするのが当たり前です。日本が戦争に負けたのもそうである。だから、先生が色々なところで説かれている様々な方策というのも、必ずしもすべてうまくいったのではない。我々は、そのことを認めなければいけないでしょう。そして、そこから私たちは学ぶのです。単に私たちの信仰が足りなかったとか、人の数が足りなかったとかいうのでは、理解が足りません。われわれ自身に対して、もっと真剣な問いかけが必要です。
なぜ、信仰が足りなかったのですか?なぜ信徒の数が不足していたのですか?不足していたのに、なぜそれが分からなかったのですか?なぜ、我々のやり方が世間から受け入れられなかったのですか?なぜ、我々の運動が政治家に利用されたのですか?
・・そういう真剣な反省や分析がなかなか今まで出来なかった。・・今までなぜか知らないけれどタブーだった色々なことにも挑戦すべきです。」
私は、こうした姿勢は、支持して良いものだと思います。
やはり切り込んだ視点で考えることが必要な面があると思います。
しかし、その「タブー」にたいする、雅宣総裁の切り込んだ発言が、様々問題となったのですね。
その是非を、ここで判断にすることはないですが。
偏った傾向があるのも分かります。
しかし、今、雅宣総裁が取り組んでいることを、大きな流れの中で理解して、
今の組織の中で出来ることを考えていくことは、無駄ではないと思っているところがあります。
初心者さまは、実相顕現の経由として、自然状態への回帰が必要なのではないか、との命題を与えられました。
雅春先生の時代は、国と国との対立である戦争を、迷いと迷いの自壊作用であるとして、それを通して日本の実相顕現を説かれ、運動されてこられた時期があります。
今雅宣総裁は、、人間と自然との対立、人間至上主義のエゴが、いわば、迷いの自壊作用として、災害や気候変動などの様々な問題を引き起こしている、その地球環境問題に、宗教として取り組むことで、日本や地球の実相顕現を目指そうとしてる、
そういった方向があります。
それを、今の方針は、「自然状態の回帰」の運動を通して、されようとしている傾向が、実は方向としてあるように思われます。
なかなか、運動の展開として、今の組織で、うまくいっているとはいえないかもしれませんが、理解の輪を広げていけば、可能性のある運動になるのではないかとも思っているのですが。
ネットの活用も、スカイプなど使って、今はネット会議やネット誌友会などを開催したりしていますね。
ネットコミュニティや特にフェイスブックで、他言語が話せれば世界とすぐに繋がれるし、
今はそこで、生長の家の取組とか行事とかを知ったり、活動の様子なども簡単に発信したりできます。組織とか地域を超えて、有志が繋がったりして活動する機会も増えますし、他の団体の取り組みでも、共鳴する人がすぐに繋がれたりしますし、アイディアもたくさん出てくると思いますね。
聖典の抜粋も素晴らしいですし、それをまた、新しい視点から語れるような言葉も、今、必要な気がしています。
ゆっくりで申し訳ないのですが、時間ができれば書きたいと思います。
お願いいたします。(誤字脱字の類あれば、すみません。)
369
:
さくら
:2011/10/27(木) 08:43:03 ID:T/77sMGw
尊敬する志恩さま
志恩さまの愛深いメッセージ、感謝しております。
こちらへ書きことを、お許しください。
学校に関する件については、私は事情を知りませんので、トキさまなどから、詳しい説明、読ませていただきました。
私は昨日、志恩さまに、考えさせて下さい、といったのは、
雅宣派、という言葉について、でした。
ここでは、ちょっと胸が痛くなって。
雅春先生の聖典でもなんでもここに引用すれば、
雅宣派なんて言われないですものね・・笑。
私も、生命の實相で救われて、それからは雅春先生の聖典を、乾いた心に水がしみるような気持ちで、拝読しましたし、古事記の解釈、日本の素晴らしい理念も、私には本当に全身のうろこが落ちるような感覚で、魂が洗われました。
いまは毎日、神棚や氏神に参拝しては、天照大神の御霊を授かった日本人として生まれたことや、天皇がおられる日本の奇跡に、打たれるような気がしています、
それは、私の本心ですし、ずっと本当の魂の喜びだし、原点だと思うことに変わりありません。
雅宣先生が、その雅春先生の「教えを否定」して、今の方針を進めている。
そのことで、いわゆる今の問題が起こっている、ということは、表面的な理解であると思います。
ですから、雅宣派、と呼ばれることは、雅春先生を理解せず否定したうえで、雅宣先生を支持している、なんとなく、そんなニュアンスがあるのかな、と考えていました。
生長の家の出発点や信仰心は、同じはずなのに、
やっぱり、宗教とは、〜派と言って、分裂を繰り返すものかな、と。
私は、ただ、初心者さまの情?に流されて、ここで対話しているのではないとおもってます、笑。
雅宣総裁がこう言って、雅春先生を否定していた、と言葉だけをとらえて判断する、というだけでなく、本質的な部分を少しでも私なりに理解したいな、とか、
哲学的な切り込んだ見地から、真理を見つめなおす、洗い流すようなことは、新たな発見があり面白いと思ってます。
雅宣総裁の言動の問題があるのはそうなのでしょう。
理知的な面を優先で、冷徹な対処もあり、恨みもかっていったのでしょうか。
今までの生長の家の体質ややり方に対する積年の思いを、あまりうまいやり方とは言えない方法で、進めてきたのかもしれません。
でも、どうも、それに対する、ある種の過剰な反応も、
総裁を頑なにしていった原因になっていったのではないかとも、感じています。
そうした反応が、総裁の一連の言葉や対応を引き出した面も、一部にはあるのではないか、と、。
本流などを見ていたりすると、私には正直、それが強く、感じられるところがあります。
志恩さまのように真理を実証されてこられたような大先輩には、浅はかな理解の私の様なものの態度は、はがゆいことだと思います・・
が、雅春先生のその時代時代に残された言葉そのものを、怒りやあるおそれを持って何かから守る、よりも、今の組織の中でもその真髄が流れていることを、考えたいとも思っています。
真髄なんて、あまりに深くて、そんな簡単に理解する、というものとは思っていませんが、
でも、宇宙に満る真理であるなら、どんな淘汰にも耐えて私たちの魂の真髄に流れているものなのですから、そんな大安心の心を持って、信仰していきたい思いがあります。
雅宣総裁の今の方針を理解する方向ですが、
生長の家の真理の真髄をお伝え下さった雅春先生のご恩を忘れることではありませんし・・。
雅宣派、と分類されるのは、まだちょっと抵抗気味です、笑。
志恩さまのような信仰深い先輩が、愛深く見守くださることに、感謝をお伝えいたします、
長々すみません。
(私が情が移ると言えば・・「雅春派」も「雅宣派」も、またはどちらの「否定派」も、同じように、情が移ってしまうかもしれません、笑。)
さくら 拝
370
:
さくら
:2011/10/27(木) 08:50:38 ID:T/77sMGw
あ、それから、ウルフルズバージョン、聞いて下さって、ありがとうございます〜、
わたし元気ないとき、なんだよお前、元気出せよ、ばかでいいじゃん、って、
背中を大きく叩いてくだるような、歌を聞くのが、好きなんです、笑。
そんなお兄ちゃんが、いてくれたらいいな、とも思っています、笑。
371
:
初心者
:2011/10/27(木) 10:48:39 ID:hogyfr1M
あいもかわらず、人間知をさけずむような発言が、いたるところにみられますね。
それが、実相知であるのか、自覚知であるのか、名称はともかくとして、それほど
までにすぐれた叡智を発揮でるのであれば、ぞんぶんに発揮なさればよいので
ありますよ。人間知をはるかにしのぐ、実相知なり自覚知なりを発揮なさって、
問題を解決してゆかれればよろしいのでございますよ。
問題の解決にむすびつかない実相知や自覚知をふりまわすことに、どのような
意味があるというのでありましょう。実相知や自覚知という言葉をもちいれば、
人間知を高みから見おろすことができる、というのはありますね。そう、たしかに
高みから見おろすことはできますね。で、それからなにをなさりたいのでありましょう。
高みからみおろすこと、それ自体が目的でありますね。高見から見おろすだけで、
あとはなにもしない。高みから見おろすことができさえすれば、それでよいので
ありますから、見おろしたあとになにかをなさりたいというわけではありませんね。
生長の家には、このような方々があまりにも多すぎませんか。高みから見おろす
ことだけを目的に、実相知か、自覚知か、それに類する言葉を好んでもちい
たがる方々が、あまりにも多いのではありませんか。
人間知とちがって、実相知や自覚知に努力は必要ありません。ただその言葉を
もちいればよいのですね。その言葉をもちいさえすれば、人間知を見おろしたい
という目的は易々と達せられるのでありますから、これを好む人々が多いのは、
とうぜんのことなのでありますね。大口をたたくのは、まずは叡智を発揮なされた、
そのあとというのは、いかがでありましょう。
372
:
さくら
:2011/10/27(木) 14:05:59 ID:T/77sMGw
あ、初心者さま
またしても、スキゾフニックな、小逃亡からお戻りでパワーアップでありますか。
・・まあ、まずは、熱いお茶でも、どうぞ。
では、早速、雅宣派ということで。
雅宣総裁は
「五感で感じられる現象世界の背後には、広大な善一元の実相世界がある、というのが生長の家の世界観です。これは、「現象世界はつまらないが実相世界はすばらしい」という観念的に、二分法でとらえるのとは違います。
そうではなくて、まず、現象世界をきちんと味わうところから始めようと言うのです。
現象世界の中に実相の現れがある「真象」を見つけるのです。
すると、日常生活の左脳的ループから離れるチャンスが生まれる。
・・そこから、目に見えないホンモノの理解も生まれてくる。」
総裁は、理知的な考察も細かくされていますが、非常に体験主義的であると思われます。
森へ行って、そこに、正解があるわけじゃない、行かなければ分からない、ただ、自分たちの行動が「大海に一石を投じる」ものになればよい、と仰っています。
自然と向き合う、共存する生き方とはどういうことなのかを、考えて行動することから始まり、自分たちの代では為し得ないかもしれないけれど、小さな一歩を踏み出したい、と思っておられると書かれています。
「我々はこれまでの活動は、心の問題だけ扱っていれば良いということになりがちでした。
心が整えば、環境も自動的に整うなど考える傾向にあった。
「自然との共存」は心だけではない、毎日の衣食住が問題で、都会の生活は、信仰も「バーチャル化」してしまいがち・・。自然は本物を要求する。信仰、信念の原点は、自然の中にある。」
ということで、「森」での生活を選ばれたのですね。
初心者さまが、ヘーゲルの「精神現象学」にヒントがある、と言われていました。
全くの、概要だけしか把握してないですが、
これは、意識の経験の叙述、であるようですが、その意識には、絶えず、認識(主観)と対象(客観)の対立、分離があり、一挙に認識できない「真なるもの」を、一定の仕方でとらえていく、そういう過程のようですよね。
実は、生きて体験していく、というのは、絶対的な真に安定する、というよりも、たえずある対立や分離された意識の中にあって、ある否定性の中に留まる状態である、というのが、本当は、生きている実感なのではないかと思うことがあります。
でも、そこから、何かを見出していけるのが生きていることだし、「見せかけの存在のむなしい身振り」にも、意味があり、体験を与えられているのだとも、考えます。
初心者さまが、実相への飛躍は危険?だとおっしゃっていましたので、そんなことを考えました。
また、お願いいたします。
373
:
義春
:2011/10/27(木) 16:08:02 ID:SjZg29/2
>>371
初心者さま
まぁ…確かに。人間知を否定する事は考えなくて良いという事に繋がりますね。
…ですが、彼等はそれで解決出来ても、万人向けとは言い難いと感じます。
例えば、悩んでいる友人達やらに、それをぶつけたら、恐らく、友人達は傷付きます。その言葉は友人達が悩み苦しむ、そういった事を全て否定しますから…。これは目に見えて分かります。
初心者さまの仰る様に、そんな人達を彼等は見下ろすだけなのでしょうね。ちょっと私には出来ません。
彼等に人間知と見下ろされたとしても、ずっと話を聴き、共に悩み、共に泣き、共に考える…少なくとも、見下ろすよりも、神ならそう在ろうとされると信じますから。
まぁ…この色々な事に関して、彼等の行動で何かしら実相知が発揮されたのでしょうか?私はちょっと見当たらない様な…というのが感想です。そして、いい加減、その実績を見たいなって想ったりします。
374
:
さくら
:2011/10/27(木) 17:21:32 ID:wzws7xnM
雅宣総裁のことを書いても、反対も、賛成も、ありませんね。
宗教組織のことも、トキさまの体験がわかっただけで…。
納得できない、ボードは、いつまで、続くたら、良いでしょうか?
ボードが終わったら、旅に出たいので。
義春さま、彼らって誰でしょうか?
375
:
さくら
:2011/10/27(木) 17:29:21 ID:wzws7xnM
誰か、次のスティッカー候補は、いますか?
今の方針かくなら、本流対策が、良いのか、
違うスレッドででも、呟くか。
トキさまは、ここの司会ですか?
どちらでも、構いません、
ご判断お願いします。
376
:
さくら訂正
:2011/10/27(木) 17:42:12 ID:erAfhhIE
続くたら→続けたら
377
:
義春
:2011/10/27(木) 18:02:10 ID:iu5Ar./Q
さくら様
いやぁ、初心者さまが仰る人間知をさけずむような発言をしている人達、
その人達を指して、彼等って言ってるんですよ。
378
:
さくら
:2011/10/27(木) 18:22:52 ID:T/77sMGw
義春さま
変なこと聞いてごめんなさい。
さくらは、ステイック持ってから、少し焦りがあるのか、
気持ちが時々、突っかかってしまったりして、
…まだまだ未熟者ですみません。
義春さまは、今の組織に、なにか、可能性を感じられますか?
義春さまなら、何が出来るとお考えですか?
組織にこだわらなくても、青年会の残った仲間でも今、何が出来ると思いますか?
どんな行動をして、影響を与えられますか?
義春さまの深い体験や見地から知恵を、お借りしたい気持ちです。
わたしも、大切にしたいのが、人に寄り添う気持ちだと思っています。
何もできないと…思う時がありますが、寄り添う気持ちを大切にしたいし、
何が出来るかを、考え続けて行動できたらと思っています。
379
:
義春
:2011/10/27(木) 18:56:15 ID:iu5Ar./Q
さくら様
まぁ…私は活動を離れて何年にもなる不良信徒なので、今の青年会の現状に関して
絶対量の情報が不足しており、あまり知らない本当の所でありますが、
思うままに少し書かせて頂きます。
孫子には組織で重要視しないといけない項目のトップに『信』を置いています。
信とは何かですが、それは信頼関係になろうかと思います。
戦場に於いて、連絡等を綿密に取れる環境ではないので、日頃からの信頼関係による、
阿吽の呼吸が重要視されたといえます。
又、西洋に於いてもドイツのモルトケも、そういったものを重視したというのが
西洋での軍事関係の本にもありました。
それだから、基本的な話で申しわけないのですが…本当に実情が分からないので、
堪忍して頂きたく思います。
380
:
初心者
:2011/10/28(金) 10:29:22 ID:hogyfr1M
なんどもいうようでありますが、実相知、実相知といわれるのであれば、その叡智を
存分に発揮なさればよいのでありますよ。それほどまで卓越した能力をお持ちで
あれば、それを発揮して問題を解決なさればよいだけの話なのでありますよ。
あなた方は、実相知を、人間知をさげすむという、ただのそれだけの目的でしか
使っておられません。それでは、あまりにももったいないことでありましょう。あなた
方は、人間知をはるかにしのぐという実相知を発揮できる立場におられるのであり
ますから、その実相知を発揮なされて、人間知では解決できない問題を、てきぱきと
解決してゆかれれば、それでよいのでありますよ。
実相知から見れば、解決すべき問題はどこにも存在しない。だからなにもしなくて
もよいのだ、とお考えなのでありましょうか。なるほど、それはそれで、すばらしき
悟りの境地でございます。そうやって、問題解決のために、日々努力をつづける
人間知をさげすんでおられれば、それでことたりてしまわれるのでありますから、
たしかに実相知の功徳には、はかり知れないものがあるということなのでございましょうね。
実相知。それは安住の地でごさいますね。その高みにのぼってさえいれば、人間知
のすべてを見おろすことができて、自分ひとりを高しとすることができるのでありま
すから、いちどでもそうした境地の快楽を味わってしまわれれば、ふたたび手放す
ことなどできた相談ではないというのは、たしかな道理というものでございますね。
実相知とは、ようするに能力とは無縁の世界ということでありますね。その言葉を
知ってさえいれば、それですべてがことたりてしまうという世界なのでございますね。
実相知という言葉さえおぼえてしまえば、オールマイティーのカードを手に入れた
も同然なのでございます。むろんそれは、生長の家の内部だけに通用するカード
であって、世間一般ではまったく相手にされないカードでありますが、少なくとも
内部においては、絶大な威力を発揮するカードということになるのでござまいす。
カードを手にされたみなさま、使い心地はいかかでございましょう。ヘーゲルの
「主と奴の相克の弁証法」のたとえにちなみますなら、カードを手にされたみなさま
は、「主」ということでよろしゅうございますね。そして、人間知で問題を解決しようと
するものたちは、さしずめ「奴」に身を落とした輩ということになるのでございましょうね。
「奴」は、自由を得るために「主」に戦いをいどみます。わたくしがここでやろうとして
いるのは、「主」であるみなさま方に向けた、「奴」の解放運動なのでございますよ。
むろん、総裁先生であろうとも、人間知の信奉者であり、その権化でもあるという
意味では、「主」であるみなさま方のまえでは、ひとりの「奴」にすぎないということに
なるのでありましょうね。
わたくしは、総裁先生と同類の「奴」として、カードを手にされたみなさま方に戦いを
いどまなくてはなりません。「主と奴の相克の弁証法」。それを現象世界に顕現して
みせるというのが、現教団の活動目標のひとつであると考えております。総裁先生が
なにをお考えになり、現教団がなにを実現しようとしているのか。その全貌がようやく
見えてきたような気がいたします。
おもえば、ヘーゲルの『精神現象学』は、予言の書でもあったような気がいたします。
こんにちの事態を、ヘーゲルは、まるで予知していたかのような錯覚にとらわれて
しまいます。哲学学徒とは無縁のド素人の悲しさか、なかなか理解は進みませんが、
「主」との戦いをまえにして、ぜひとも知っておきたいことがらが、同書には記されて
いるような気がしてならないのであります。
381
:
トキ
:2011/10/28(金) 10:42:57 ID:lV3PWRPw
>>374
ご本人が納得するまでは続けて大丈夫なんですが。
どうでしょう、疑問に思われる点を具体的に挙げてみてはどうでしょうか?
私も、昨日は、間違って「女子」板に書いてしまいましたが、続きはこちらで
書きますから。
合掌 ありがとうございます
382
:
さくら
:2011/10/28(金) 11:31:56 ID:T/77sMGw
トキ様
疑問というより、書いたことに何か、意見があれば、
考えをまとめたいのですが、。
なんだか、自分が伝わってる文を書いてるのか、
今のままだと、よく分からなくて、
心が揺れまして、
すみませんでした。
すみません、まだボード使わせて下さい、。
疑問といえば、
今は、宗教組織の問題点と、
今の教え、の可能性なのですが、。
週末は、まとめて、書けないので、
また来週書いてきます。
長く使って、迷惑なら、いい加減なところにしますから。
お手数おかけして、申し訳ありません。
383
:
トキ
:2011/10/28(金) 11:40:52 ID:lV3PWRPw
活動について、少し小さな事を書きます。
以前は、本部の幹部が教区に来ると、用事が終わった後に、本部の幹部と教区の役員が会食をすることがありました。
この時、教区のお金で飲食をするケースが多くなったため、本部通達が出て、本部の幹部への接待は禁止となりました。
私個人も、公費での飲み食いは嫌いなので、それ自体は歓迎する措置だと思います。
しかし、最近は、本部の幹部が教区に来ても、用事が済んだらすぐに帰る、というケースが目立つ様になりました。
もちろん、出張の多い本部の幹部が、教区に来るたびに、余計な支出を繰り返したら破産してしまう、という事情もあ
るし、余計な事をして、誤解されたくない、という気持ちもあるでしょう。
が、従来、用事が終わってからの飲み食いの席で、教区の人間と本部の幹部が、腹を割って話す事も多かったので、
そういうコミュニケーションという意味では、貴重な場を失った、という気持ちもします。公式の会議、例えば講習会
後の懇談会なども、総裁と教区の幹部はやりとりをしますが、あれは教区の人間にとっては、本音を言っている場では
ありません。会議では建前、お互いに本音を出し合うのが会議後というのは、ある意味、日本的なんですが、それで
ある意味、うまく回っていたのも事実なんです。
最近、本部のやる事が的外れなのも、こういう場面が背景にあるような気がします。
384
:
さくら
:2011/10/28(金) 12:39:45 ID:T/77sMGw
トキ様
いつも、真摯に、トキ様の実感としての組織に対する思いを、書いてくださり、ありがとうございます。
私は、組織の運営的な面と、本当の意味での信仰心、というのは、
完全な一致というのは、難しいと考えていました。
宗教組織が不必要とまでは言いすぎだと思いますが、
トキさまが色々な内部の事情なども書いてくださったことからも分かりますが、宗教としての組織というのは、弊害が多いと感じてました。
誰に対して、弊害が大きいのかは、団体に属する信徒だと感じています。
その教えを純粋に信じて信仰していこうとする、団体に属した信徒にとって、だと思います。
また、組織化する宗教は、教えがイデオロギー化してしまうというか・・そうならざるを得ない面があるのかな、などの疑問もありました。
組織運動は、何か一つの目的や理想を掲げて(数や利益?なども)全員が一つにならなければなりませんが、
信仰というのは、全く神と自分との世界を見出していくことで、次元も違うのではないか・・とも感じます。
組織は組織で、使命があると思うので、運動の展開の可能性を、考えていくことが大切だとは思うのです。
組織の運動や管理の体制も、絶えず周囲の環境、社会情勢によって変革しなければならないと思いますが・・それは、「普遍的な教え」の展開として、どういう変革をしていくべきなのかは、難しいことですね。
だから、組織は完全ということはなく、失敗も当然だと思いますし、それでこれからどうしたらよいか、それをオープンに話し合うのが良いとは思いますが・・
でも、一部では、いまだに、過去の発言がこうだから、正しかった、正しくなかった、ということばかり問題にされて、正直、新しい展開への理解などが、よく見えないような気がしています。
トキさまが肌で感じておられるような細かい事柄からそうですが、
生長の家も、やはりオープンな議論や本音の話しあいができない体制がつくられてきて、改善が困難だったり、いまの総裁に対しても、内部の方でさえ、何も提言もできないような体質になっている、そういう事情が色々とあるのだと、思います。
でも、その体質は、誰がつくってきたのでしょうか・・。
わたしのような、一般信徒には分かりません。
組織の問題や、矛盾点はどこにでもあると思いますが、宗教団体のようにもっとも人間存在の根本になるような信仰や真理を掲げている団体においては、
その信仰を求めてくる信徒には、そうした組織の体質を感じれば、
余計に迷いや葛藤も大きくなるのではないかとも、思います。
組織に期待ができなくもなる原因になってもいると思います。
だから、このような場でも、トキさまのように実感として組織の弊害を話していただくと、
改善点も分かってくるのではないと思います。
385
:
初心者
:2011/10/28(金) 12:41:20 ID:hogyfr1M
さくらちゃんへ
どうもわたくしは、この場を、自分の考えをアピールする場として使っているような気がいたします。それはそれで、十分に申し訳のないことでありますが、さくらちゃんの考えとも近似した考え方でもあるはずでありますから、どうかお許しいただきますようお願いいたします。
>実は、生きて体験していく、というのは、絶対的な真に安定する、というよりも、たえずある対立や分離された意識の中にあって、ある否定性の中に留まる状態である、というのが、本当は、生きている実感なのではないかと思うことがあります。
でも、そこから、何かを見出していけるのが生きていることだし、「見せかけの存在のむなしい身振り」にも、意味があり、体験を与えられているのだとも、考えます。
これは、生長の家のコアな信仰者の方々には、とうてい受け入れていただけない考え方でありますね。絶対的な真に安定するというのが、コアな信仰を持った方々の唯一の望みでありますから、その否定性を認めながらも現象的世界にひたすら留まってみせるという考え方は、そうした方々にはとうてい受け入れてはいただけない思考方法ということになってくるのであります。
絶対的な真に安定したければ、すればよいのですよ。好きなだけ安定なさればよいのでありますよ。ただ問題は、こうした方々が、現象世界に留まって見せようとする人たちの足を引っ張ろうとすることなのでありますね。絶対的な真に安定することだけを唯一の価値観とする人たちには、そうでない価値観を受け入れるという選択肢などあり得ないのでありますね。だからこそ、留まろうとする人たちが許せなくて、批判するだけでなく、自分たちの価値観になにがなんでも従わせなくては気がすまなくて、足を引っ張ることだけを考えるようになってしまうのであります。
問題の核心というのは、絶対的な真に安定するというのが生長の家の唯一のあり方なのかということでありますね。生長の家に、現象世界という否定性に留まるという選択肢はないのか、ということなのであります。コアな信仰をお持ちの方々は、現象世界に留まるという選択肢を認めません。絶対的な真に安定するという価値観以外は、絶対にお認めにならない方々なのでありますね。
これまで、生長の家は、実相世界へのひきこもりを標榜してきましたから、これは絶対にゆずれない一線なのでありますね。現象世界を認めれば、それは生長の家ではないとする考え方なのでありますね。これはいってみれば、実相世界という素晴らしい世界があるのに、なぜ現象世界に留まるのかという批判であったわけですが、これにたいして、実相世界がたとえどんなに素晴らしくとも、それでも現象世界に留まることの意義を見いだそうとする人たちが、どうやら新しい流れとしてあらわれてきたようにも思えるのでありますね。実相世界のことはわかったから、それなら余裕で現象世界を楽しんで見せようとする、そうした人たちがあらわれてきたということなのでありますね。
コアな信仰者の方々は、そうした「余裕」に気づけないのであります。それは「余裕」であるのに、「迷い」に見えてしまうのでありますね。だから、どうしても批判せずにはおれないという話になってくるのでありますね。
余裕で真理と現象世界を、ともどもに味わってみせる。今はこうした流れにあるはずです。かつての時代であれば、真理を自分のものにするということは大変なことでありましたね。だからこそ、いちど手にした真理は手放せないとする強迫的な観念にしばられるのが当たり前のこととして受け入れられてまいりました。ですが、今はちがいます。真理は、それなりに楽に手に入れられる人たちが増えてきたようにおもいます。易々と手に入れた真理にしばられる必要はない。手放すときは、いとも簡単に手放してみせる。そうした余裕派があらわれてきたということなのでありますね。
真理を手に入れるために人生のすべてをささげ、その至上性という絶対観念にしばられた人たちには、いくらかの苦悩を体験しながらも、それでもいともあっさりと真理を手にし、余裕で楽しもうとする人たちの存在は、とうてい許せるはずもないのであります。そう簡単に味あわせてなるものか。これが本音だろうという気がします。問題を大きくしたがるというよりも、真理を大きくしたがる人たちなのでありますね。
386
:
初心者
:2011/10/28(金) 14:00:32 ID:hogyfr1M
義春さん
いい加減、その実績を見たい。これはいつわらざる思いでありますね。
そんなにいうなら、実績で示せ。どうしたって、いってみたくなりますね。
実相知でなにをしてらっしゃるのですか。それをたずねてみたくもなります。
じっさいは、なにもしてらっしゃらないでしょう。ただ言葉だけなのですね。
差別化。これは大事なことなのですよ。実相知と人間知はどのように
差別化されるのか。これは語られなければなりませんね。
言語学にひっかかるのは、人間知の浅はかさであると考えられているようで
あります。ならば、実相知では、言語はどのように解釈されるのか、それを
具体的に述べていただく必要がありますね。
実相知で語られる言語解釈が、ソシュールの人間知によって語られる言語解釈に
たいしてどれほどの優位性を持っているのか、それを示していただきたいもので
あります。
じっさいにはなにも示せないでありましょう。無理に語ろうとしても、ソシュールの
足元にもおよばないような、稚拙な解釈がなされるだけであります。語れば馬脚を
あらわしてしまう。馬脚をあらわさないために、実相知の持ち主はなにも語ろうとは
しません。実相知は、具体的なことはなにも語らないことでしか、その優位性を誇示
できないのであります。
人間知をさげすんでおられる方々には、人間知を超えるというその方法で、これまで
なにをやってこられたのか、まずはその具体的な実績を示していただきたいもので
あります。それと、本流掲示板において実相知がどのように展開されているのか、
その見解についても、ぜひうかがってみたいものであります。
387
:
さくら
:2011/10/28(金) 15:15:04 ID:T/77sMGw
いえ、初心者さま
初心者さまには、感謝しております。
私は、正直、今まで自分の実感を、言葉にすることを、おろそかにしていた気がします。
ここで、自分なりには、多少もがきながらでもそれを言葉にしてみよう、と思ってお願いしましたが、
言葉も知識も何も足らずもどかしかったり、表現することへの恐れがある自分があるのが分かりましたし。
でも、初心者さまが、それを見事にフォローしてくださっているようで、
感謝しています。
そんな風にできるのは、真理の探究に真摯に向き合われてきた初心者さまの世界があるからだ、と思います。
私は、宗教や精神世界を経験して、何を求めてきたのか、自分の実感をごまかしては来なかったか、「与えられる言葉」に、甘えてはいなかったか、真実の姿を見る真摯な姿勢よりも、そこに「癒し」や、「救い」をただ求めてはいなかったか、宗教組織に自分の信仰心をただ利用されるがままになっていなかったか・・とかなんとか、
色々反省があります。
>実相世界のことはわかったから、それなら余裕で現象世界を楽しんで見せようとする、そうした人たちがあらわれてきたということなのでありますね。
これも、私の実感を言葉にして下さったようで、うれしいです、笑。
そんなことです。だから、ある苦悩だって、楽しめるのです、笑。
真髄が流れているのが分かれば、何も手放すことを恐れることはない気がします。
後は、とことん「現象の迷い」の世界で何ができるか、行動するために考える、それだけの様な気がしています。
今、自然と共存する日本の復興や再生のあり方についても、考えていかなくてはならないと思いますが、漠然とした希望の方向があります。他のスレッドの皆さんの話を聞きながらでも、知恵をお借り出来たら、有り難いと思います。
それはまた、ちょっと時間が足りないので、またお願いします。
388
:
さくら
:2011/10/28(金) 15:15:52 ID:T/77sMGw
>337
トキさま
時間足りない時に見たので、前の処に戻ってすみません。
>そもそも、生長の家という組織というものが、何のためにあるかと言えば、生長の家という運動のためにあります。生長の家という運動が何のためにあるかと言えば、生長の家という信仰のためにあります。生長の家という信仰が何のためにあるか、というと、人間の幸福と国家の安泰、世界の平和のためにあります。だとすれば、講習会の受講券を購入するとか、聖使命会員を増やすのは、「手段」であり、「目的」ではないはずです。それ
が、今では、「手段」と「目的」が逆転していると思えます。このあたりの倒錯が、生長の家という組織の問題点であるのかもしれません。
つまり組織の目的は、人間の幸福と国家安泰、世界平和のためということでしょうか。
では信仰には、目的、というものが、果たしてあるのでしょうか。
前にマザーテレサの姿を思い出したことを書きました。
「人を救う、効率を考えては」
と人に言われて、
「効率なんて考えていない、ただ、1人を助けたいだけ」といって、戦場に向かっていったことです。
復興G様でしたでしょうか、
前に、「ハチドリのひとしずく」のことを書いていらっしゃいました。
ハチドリは、効率や、なにか目的の様なものの達成のために、山火事にひとしずくを、運んでいるのではないと思います。
やらずにいられないからそうする。それだけのことなのでしょう、と感じます。
組織には、目的があるけれど、信仰には、目的の達成ではない世界があると思いました。
総裁が「大海に一石を投じる」と表現されていましたが、
生長の家が今なにか運動をして、すぐに世の中が変わらないかもしれない、
でも、何かをやらずにいられないから、そうする。そのような信仰の衝動があるのだと思います。
雅春先生も、そうされてきたのだと思います。
大海に一石を投じた時には、何も変わらなくても、それを見た人が、自分にも、一石なら、出来るとおもって、行動を起こすかもしれない、そういう人が増えるかもしれない。
そうしたら、向こうでも、やっぱり同じように、一石を投じている人がいるのが分かり、協力し合う。石がどんどん増える。そうしているうちに、海に、一つの島ができるかもしれない、そんな希望が生まれる。
そのようなイメージがあるようです。
>組織も運動も、あくまでも「手段」である事を考え、本当の目的は何であるか? という原点に
戻って、組織や運動のあり方を考え直す必要はあるような気がします。
組織の目的があるなら、信徒の信仰を支える、目的でもあってほしいと思います。
信徒の信仰に寄り添い、まず、その信仰心を大切にできる組織作りが出来ていけばよいと思います。
教えの正しさを伝えるだけでなく、トキさまが仰るように、組織は、信仰のための「手段」であってほしいです、が、まず、組織ありき、「正しい教え」を伝える目的ありき、の様な気がしていますね。
>344
>講習会を始め、普及誌なども、もっと信徒の意見を取り入れるべきだと思います。(左翼運動の経験者が話しておりましたが、左翼系組織では定期的に、無記名アンケートや会員の意識調査を実施し、部内の世論を調べているそうです。)
>もう一つは、今までとは違う、「ビジネスモデル」を構築する事です。教区が今、着目しているのが、練成会です。これは、ある程度の収入が見込めます。講演会もある程度の条件付きで、復活してもよいと感じます。
>あと、大事なのは、本部と教区がもっと対話をする事です。お互いに、相手に不信感を感じております。これは良くない事です。相手の良い分を謙虚に聞く姿勢が大事だと感じます。
オープンな話し合いや、改善のためのオープンな話し合いができない体質は、
なぜなのでしょうか?
まず、信徒の信仰、を第一に考える、という視点の一致を、大切にしていきたいのですが、やはり「組織の目的」第一の様な気がします。その目的は、立派な大義名分やイデオロギーかもしれませんが、信徒の声が届きにくい、体質をつくっているような気もします。
練成は、やはり一番、信徒の信仰に近い場所にあると思います。
でも、あまり昔と違って人が集まらない、とか問題があれば、
魅力ある練成は何なのか、考えることも大切ですね。
今の時代に魅力ある、練成会ってどのようにしていけばいいかも、話し合いがされると良いのに、と思います。
390
:
トキ
:2011/10/28(金) 17:36:32 ID:lV3PWRPw
さくら 様
長文のコメント、ありがとうございました。論点というべき点がいくつもあり、考えさせられますね。
何回かに分けてご返答をさせていただきます。すみません。
もともと、生長の家という組織は、結構、自由度の高い組織でした。谷口雅春先生はあまり他人を束縛するのを嫌われたらしいし、あと、生長の家の地方組織というのは
現地の信徒が自発的に作ったという背景があるからです。教化部なども、信徒の寄付で出来た場所も多いと聞きました。本部にそれほどお金も人のなくて、どうしても
地方組織については、手が回らないという事情もありました。結果、教区から見れば、自分達の力で組織を作ったのだから、本部からあれこれ言われる筋はない、という
発想が強くなりました。
こういう歴史があったので、地方組織が本部の言う事をきかないケースが頻発しました。これは、生長の家という教団にとっては、たいへん困る事でした。そこで、
本部は地方組織をなんとか自分の言う通りに動かそうとやっきになります。生長の家政治連合時代以来、その傾向が強まったとも聞いております。この傾向は、生長の家
政治連合がなくなってからも強まりました。例えば、教化部長の報告書も、以前は理事長宛でしたが、最近は総裁宛に直接メールで詳細に送り、それに対して総裁からも
細かい質問が届くと聞いております。そして、最近では、教区は本部の言う事には全く反対できない状態であると聞いております。特に、オーストラリア教化部の包括関係
離脱や生長の家社会事業団の反乱以来、相当、神経を尖らせているみたいです。
そういう状態になると、教区の裁量というものが極端に狭くなります。また、一々、本部にお伺いをたてないと、動けない状態になると、運動へ主体的に参加する意思は
落ちます。この状態が行き着くと、もう本部のご機嫌だけとって、大過なく年月を送ろう、という発想になります。その本部の方針が納得のできるものだと会員も従おうと
いう気持ちにはなりますが、最近のように、環境とか絵手紙だけの運動になると、もう馬鹿馬鹿しくて、やっておれない、という感情になります。しかも、本部も議論をし
て負けそうになると、「嫌なら、辞めろ」という伝家の宝刀を抜くので、教区から見たら「ずるい」ということになります。
思うに、生長の家が発展したのは、教区の「独走」があったからです。その弊害もありましたが、教区を監視対象とする現在の本部の姿勢では、教区も活動をしようとい
う気持ちにはなりません。北海道から沖縄まで、金太郎飴のような組織ではなく、地域の個性を生かせる体制をつくるべきではないか。もちろん、教区独自の運動になると
「地域ボス」みたいな人が出て来たり、あるいは組織の大きな方針にも反する行動をする可能性はあるけど、それはそれで個別に手当をすれば良いと思います。
(つづく)
391
:
トキ
:2011/10/28(金) 18:47:27 ID:lV3PWRPw
マザーテレサのお話の中で、彼女の偉大さは、「他人の信仰を尊重する姿勢を見せた事」だと思います。
昔、内村鑑三が、アメリカ留学から帰国した後、ミッションスクールに就職したが、「信じる事は、何ごとも
自由です。」と言って、仏教信徒の生徒に基督教への改宗を強要しなかったという話に通じるものがあります。
また、お話にあったように、一人の人を救いたい。そういう発願を大事にした姿勢は、素晴らしいと思います。
今、目の前に居る人を救いたい。そういう動機での行動をするときに、その人の信仰はそれほど重要ではあり
ません。ただ、本当の信仰を伝える事で、その人が幸せになるのなら、伝えたいというだけかと思います。
余談ですが、ベテランの活動者を見ていると、「個人救済」に力を入れる人と、「組織指導」に関心を持つ人
とに分類できるような印象を持っています。具体的に言うと、個人指導を頼まれると、何時間も、それを何日も
辛抱強く対応する人がいるかと思うと、行事で華やかな場所に行きたがる人もいます。組織指導に関心を持つ人
はやはり幹部に多いです。個人救済派の人は、少し目立たない人が多いです。しかし、長い目で見ると、尊敬を
集め、また、組織内でも長く活動をする人は「個人救済」派が多いみたいです。
例えば、楠本加美野先生は、青年会副会長も経歴もありますが、大半が練成道場生活で個人指導をメインにされ
ていました。理事としては、非常勤理事だったと記憶しております。しかし生長の家という世界の中では、現在、
最も尊敬されている人の一人でしょう。影響力も大きいです。同時期に活動をした人の大半が消え去っている中、
現在も活動をされています。尊敬に値する指導者だと思います。
今までの生長の家という組織の考え方は、生長の家という信仰を広める為には、生長の家の運動を活発にしなければ
ならない。そのためには、生長の家という組織を大きくしなければならない。そのためには、信徒は多少の事は我慢して
運動をしなければいけない、という発想でした。(ある時期、そういう運動をする事は大切かもしれませんが。)
しかし、組織にあまりにも入れ込み過ぎたために、個人というものが忘れ去られたと思うのです。
組織と個人との関係を、今までのように対立関係ではなく、相互に補完する関係にする。そういう発想を、これから
考えていく時代になっているような気がします。(しばらく休んでから、続きをかきます。)
392
:
初心者
:2011/10/29(土) 09:46:14 ID:hogyfr1M
わたくしごとを申し上げます。生長の家の組織を離れて20年以上の月日が
たちますが、このかん、生長の家にたいしましては、よい感情を持ちつづける
ことができていたようにおもいます。今年の6月に、そうした好意的な感情は
嫌悪感へと一変いたしました。生長の家にたいする否定的な感情が、一気に
押し寄せてまいりました。いうまでもなく、その原因は本流掲示板であります。
あの掲示板に集まってらっしゃる方々の、高慢で威圧的で自己中心的で、しかも
他者を自己の望むままに支配したいとする欲求があからさまに表明された言葉
づかいにたいして、次第に嫌悪感をつのらせるようになっておったのであります。
ここでみなさまにおうかがいいたします。信仰心とは、はたして何なのでありま
しょう。原点に立ち返って、信仰心とは何かということを、みなさまにおたずね
いたしたいとおもいます。
予想される回答は、それがきれいごとでうめつくされるということであります。
きれいごとによって語られる信仰心が、その回答になるであろうということが、
確実に予想されるのであります。
信仰をきれいごとで語りたい。これが、宗教に関係する人たちに共通する、基本的
な欲望なのでありますね。現代の信仰とは、欲望の充足なのであります。ですから
それは、きれいごとで語られなければならなくなっているのでありますね。
信仰の原初のあり方というのは、得体の知れぬ自然にたいする怖れや畏怖の念で
あったはずでありますね。過剰な欲望を満たすというのではなく、自然をうやまう
ことで、ひたすらおのれの身の安泰を願うという、必要最低限ともいえる欲望の
充足であったともいえるはずなのでありますね。ですから、この時代の信仰は、
きれいごとで語る必要もなければ、語られるはずもない信仰であったということ
がいえるはずなのであります。
かつての時代、自然とは、人間の力が及ぶはずもない怖れの対象でありました。
そうした自然にたいして、人々は、ただ恐怖と畏怖の念で向きあうよりほかに、何も
できなかったはずなのであります。
ロゴスの誕生とともに、人は、自然の制圧を欲望しはじめました。その欲望が実を
結んだのが近代科学でありますね。人は、近代科学の力によって、自然の秘密を
つぎつぎと解き明かし、それまで、人間の手には負えないものと考えられていた
自然を、欲望の対象へと置き換えることに、徐々に成功するようになってきたので
ありますね。
当然のことに、近代において、信仰のあり方も大きく変貌してまいりました。自然に
たいする恐怖や畏怖の念から、欲望の充足へと、信仰のあり方が置き換えられる
ようになってきたのであります。現代の信仰は、ロゴスの成果である近代科学の
発想の延長線上に、それと酷似する形であらわれてきたということがいえるはず
でありますね。
つづく
393
:
初心者
:2011/10/29(土) 09:47:05 ID:hogyfr1M
恐怖心を取り去る。これが生長の家が説く光明思想の発想の原点でありますね。
それはまた、近代科学がめざしてきた方向性とも完全に一致する考えかたなの
であります。自然の秘密を解き明かし、自然にたいする恐怖心から人類を解放
するというのが、近代科学の出発点であり、生長の家が説く光明思想の出発点も
また、同様の場所にあったはずであります。
近代科学の発達によって、人類は、得体の知れない自然へと向けられていた
恐怖心から解放されました。それとともに人類は、自然を欲望の対象へと置き
換えることにも成功しはじめたのでありますね。
いまや自然は、人類にとって欲望の対象でしかありません。そして、生長の家が
説く光明思想もまた、自然状態の恐怖から人々を解き放ち、周囲の環境を欲望の
対象へと置き換えることにも大きく貢献してきたのであります。
実相とは何かというと、それは恐怖に満ちた自然状態ではなく、欲望の対象としての
周囲の環境ということになっているのであります。欲望が満たされたとき、生長の家
では「実相があらわれた」とみなします。恐怖に満ちた自然状態は、ほんらいあるはず
のない現象世界とみなされます。こうした見方ができるようになったということは、
近代科学と光明思想によって、恐怖に満ちた自然状態から、自然的世界を欲望充足
の対象とみなす文化的状態への転換がみごとに果たされたということなのであります。
周囲の環境を欲望充足の対象とみなし、いつまでも光明思想の恩恵に浴して
いたい。これが本流掲示板に集まってらっしゃる方々の本音でありますね。
総裁先生は、そうした本音にたいして、おそらく反対の意思を示しておられるので
ありましょう。欲望の充足を求める本流復活派と、欲望の充足からの離脱を表明
しているようにもおもえる現教団との対立は、むしろ歓迎すべき事態でありますね。
生長の家におけるこのゴタゴタは、欲望の充足を求める勢力と、そうした状態からの
離脱を遂行しようとする勢力との対立と見ることができるでありましょう。両者の和解
にはたしてどのような意味があるのか。現代の信仰が、はたして欲望充足型の信仰
であるのかないのか。考えるべきは、まずはこのことであるような気がいたします。
394
:
トキ
:2011/10/29(土) 15:25:39 ID:wJoHOt/6
初心者様
評論家の立花隆さんが、昔、雑誌でご自分のご両親の事を書いていたのを読んだ事があります。
彼のご両親は、無教会派基督教を信仰しており、その影響で基督教というものが特別な宗教で
あるという観念から抜けきれなかったと言います。ところが、後年、エルサレムに行き、本場の
基督教と見ると、結構、土着的で原始的な、言い換えると、加持祈祷に近い形だったので、その
観念というか、呪縛から逃れたらしいです。
これは、考えると、基督教も、日本に入って来たら、日本人は日本式に変えて信仰をしてきた
のでしょう。基督教だけでなく、仏教もかなり日本流に変えて信仰をしてきました。同じ基督教
でも、韓国の基督教は、もっと現世利益を全面に打ち出すものらしいです。仏教も、小乗仏教と
いわれる国々と大乗仏教と言われる国々で、違いはみられます。分派とまで言わなくても、信仰
の「個性化」という流れは昔から、程度の差はあれ、存在しました。
こういう傾向はもっと強まると感じております。これだけ価値観が多様化すると、一つの信仰
例えば、「生長の家」と称しても、それでどこまで組織が個人を束縛できるか、疑問に思います。
今、教団を脱退する人が増えているのは、今の総裁の方針に納得できないという点もありますが、
それ以上に、もう教団に束縛されたくない、という人が増えたという感想を持っています。内村鑑三
が「信じる事は自由です」と言いましたが、その自由が奪われるという印象を信徒がもっていると
感じます。
「本流掲示板」がいまいち、人気がないのは、初心者様が指摘された通り、傲慢な姿勢に嫌気が
さした人が多いからでしょう。
ただ、純粋な個人の信仰ばかりだとすると、運動は停滞してしまいます。そのバランスは難しい
ですが、信仰のあり方ーそれは、もっとシンプルで、単純なものになるでしょうがーを再検討し
その上で、組織のあり方を考える時期が来ているとも考えています。
395
:
トキ
:2011/10/29(土) 15:43:21 ID:wJoHOt/6
それと、付け加えると、本流復活派は総裁の悪口だけを言っているけど、理事会に居た人達、あるいはいる人達も含めて
少し反省すべきだと思います。
例えば、相愛会では、一時期、「父親教室をしよう」という方針で頑張っていました。が、統括実行委員長が変わると「父親教室」
はどっかへ行ってしまいました。長期的な視点がなくて、目先の数字だけをあげるような方針ばかりだと現場は感じていました。今
本流復活派にいる人達で、かって理事などをしていた人達にもそれは共通していると感じます。
今、やっとみんなが考えだしたのですから、もっと地に足をつけた、着実な運動や信仰のあり方を考えるべきだと思います。
これは、勝手な感想ですが、信仰のあり方とか、信仰の定義などを、あまり組織が会員に強要するのは、これから難しくなるような
気がします。もちろん、あまりゆるゆるにすると間違いますが、ミニマムな部分はきめるが、それ以上、会員がどうするべきかは、
会員の自由にしてもらうのが良いかと思います。大事なのは、現場の会員が納得して活動をしてもらうことで、それは、本部と現場
、さらには現場の幹部と会員がよく話し合って決めたらよいかとも考えています。ただ、それをオープンにすることで、内外の批判を
現場も覚悟する必要があるとは思います。権力の濫用の危険性は本部だけではなく、現場の幹部にもあります。おかしいときは、やは
り、批判や外部の介入は必要で、そのためにも本部の介入権は必要だと思います。
すみません、とりとめもない内容になってしまいました。
396
:
SAKURA
:2011/10/29(土) 19:10:12 ID:zrpEHTE.
>395
トキ 様…
〜〜それと、付け加えると、本流復活派は総裁の悪口だけを……言っているけど……?
私も失礼ながら…此の掲示板を参考にしながら〜〜双方の反省点があると思います。
トキ様のおっしゃることは…賛同します〜〜ネ…。 (微笑)
さて!現総裁「雅宣先生」…どうかしますと?「昆虫」に興味がかなりあられますよ〜ネ!
先日も…「フェイスブック」にて「ゴキブリ…」の記事
――>コメントさせて頂きました…。
やはり「この世界は想念・感情」世界ですよね〜〜♫
ゴキブリさん…10cm巨大??
ある男の子の“腕”だけその“ゴキブリさん”のらなかったとの事です…。
きっとその時…男の子に“ネガティブ感情…”――>“叩いて殺す?”
2回目も…腕には乗らな〜〜イ!他の子供には…全ての腕に乗った“ゴキブリさん”
やっと〜やっと〜3回目に〜〜“ゴキブリさん”彼の腕に???
“ゴキブリさ〜ン” 僕の腕にも…乗って〜〜ネ!
従いまして「ポジティブな素直な感情」は、“ゴキブリさん”にも通じるモノが〜〜♫
(個人的には?嫌いですが…?)
現総裁先生は…別の観点からの「生命の実相哲学」述べられている様に思います…。
当に「頭の体操…」かしら〜〜ン♫
そのように思います…。如何でしょう〜〜かしらん♫
そして、「人間・生物・自然」の共存世界は、もはや時間が内容に思います。
【理想世界 = 実相世界】エデンの園〜〜♫〜〜♫
行ってみた〜〜イ☆ 合掌
397
:
SAKURA
:2011/10/29(土) 19:25:11 ID:zrpEHTE.
訂正させて頂きます…。「オバケ目」にて…ごめんなさい!
もはや時間が内容に思います。
<変更後>
もはや時間がないように思います。 ウフフ
合掌
398
:
初心者
:2011/10/29(土) 19:33:43 ID:hogyfr1M
トキ様、掲示板をおさわがせして申し訳ありません。こちらでわたくしの考えを展開
させていただくにあたって、いちぶの強固な信念を持った方々をけん制する必要が
あると判断いたしましたので、あえて過激な表現を使わせいただいておるところで
あります。
これからの教団の組織運営ということでいえば、試行錯誤の連続になるかとおもわれ
ますので、チャレンジ精神を持った方々の活躍が期待されるところであります。
トキ様が述べておられますように、個人の自由を尊重するという組織運営が、なに
にもまして重要になってくるものとおもわれます。
わたくしはこれまで、教団と本流復活派の和解を訴えてまいりましたが、ここへきて、
和解ではなく完全分離をつよく意識するようになってまいりました。対立するふたつ
の勢力をひとつに混ぜあわせてみたところで、なにが実現できるものでもないと
いう気がしてまいったのであります。ふたつの勢力を分離し、それぞれがめざす
べき方向へと進んだほうが、よほど多くのことが実現できるのではないかと考える
ようになりました。
本流を復活させたい方々は、復活させればよいのでございますよ。本流とは
異なった方向へ進もうとする人たちを、あえて巻き込む必要などどこにもないので
ありますよ。
生長の家は、これまで万教帰一をうたい文句にしてまいりましたが、そのために
何をしてきたのかといえば、じつは何もしてきていないのでありますね。総裁先生は、
環境問題への取り組みをきっかけとして、世界の主要な宗教との連携を模索して
おられるようでもあります。対立する教派を、環境問題という、人類共通の課題を
とおしてひとつにまとめあげるという難題に挑戦しておられるようにも見受けられる
のでありますね。
成功の可能性はともかくとして、これまで誰ひとりとして取り組むことのなかった、
万教帰一の理念の実現に情熱を傾けておられるとするなら、その姿勢は尊重される
べきであり、こうした局面において、あえて辞任を要求するとすれば、それは万教
帰一の理念の否定につながるものと心得なくてはなりませんね。
真偽のほどはともかくとして、総裁先生が、じっさいの活動をとおして万教帰一の
理念を実現なさろうとしておられるとの解釈は可能でありますので、こういった
観点からも、総裁先生のよい面を観てさしあげるということが必要なのではないか
という気がいたします。
本流復活派の方々には、現教団へのアプローチは断念していただいて、みずから
が進むべき方向へと時間とエネルギーを費やされたほうが、よほど有意義であると
いうことに、一刻も早く気づいていただきたいものであります。
399
:
役行者
:2011/10/29(土) 21:17:53 ID:Un8dQjys
合掌!
初心者さまとトキ様の御文章が順番に掲載されているので、自分の意とは反し、比較をしてしまいました。失礼致しました。
双方のコメントは、立ち位置、視点が違うなあ!というのが感想です。
まず、ヒトコトで云いますと、
初心者さまは大局的な立場から述べられ、一方、トキ様は現場の立場から語られています。
この大局的な立場とは、生長の家教団における立場というより、地球史、人類史から観て、人類の進むべき使命を説かれているかと思うのです。
>かつての時代、自然とは、人間の力が及ぶはずもない怖れの対象でありました。 そうした自然にたいして、人々は、ただ恐怖と 畏怖の念で向きあうよりほかに、何もできなかったはずなのであります。 ロゴスの誕生とともに、人は、自然の制圧を欲 望しはじめました。その欲望が実を 結んだのが近代科学でありますね。人は、近代科学の力によって、自然の秘密を つぎつぎと解き明かし、それまで、人間の手には負えないものと考えられていた 自然を、欲望の対象へと置き換えることに 徐々に成功するようになってきたので ありますね。 当然のことに、近代において、信仰のあり方も 大きく変貌してまいりました。自然に たいする恐怖や畏怖の念から、欲望の充足へ と、信仰のあり方が置き換えられる ようになってきたのであります。現代の信仰 は、ロゴスの成果である近代科学の 発想の延長線上に、それと酷似する形であらわ れてきたということがいえるはず でありますね。<
自然状態から文化的状態への変貌の末、その終焉期を迎え、光明思想の生長の家が誕生した。
そして、下記文章に続く、
>近代科学の発達によって、人類は、得体の知れ ない自然へと向けられていた 恐怖心から解放されました。それとともに人類 は、自然を欲望の対象へと置き 換えることにも成功しはじめたのでありますね。いまや自然は、人類にとって欲望の対象でしかありません。そして、生長の家が 説く光明思想もまた、自然状態の恐怖から人々 を解き放ち、周囲の環境を欲望の 対象へと置き換えることにも大きく貢献してき たのであります。実相とは何かというと、それは恐怖に満ちた自然状態ではなく、欲望の対象としての 周囲の環境ということになっているのであります。欲望が満たされたとき、生長の家 では「実相があらわれた」とみなします。恐怖 に満ちた自然状態は、ほんらいあるはず のない現象世界とみなされます。こうした見方 ができるようになったということは 近代科学と光明思想によって、恐怖に満ちた自 然状態から、自然的世界を欲望充足 の対象とみなす文化的状態への転換がみごとに 果たされたということなのであります。<
歴史の必然であるのか、生長の家教団は結果的に、
“それは恐怖に満ちた自然状態ではなく、欲望の対象としての 周囲の環境ということになっているのであります。欲望が満たされたとき、生長の家 では「実相があらわれた」とみなします。”
この“みなします”という言葉にこの文章の深さがあると思います。
上記、“結果的に“に下記文章をつなげます
。
人類の欲望の充足を援助していたことになってしまう。
続く!
400
:
役行者
:2011/10/29(土) 21:22:24 ID:Un8dQjys
続きです。
この人類史の変貌期に、果たして、生長の家教団は、このままで、いいのだろうか?
生長の家教団の使命はどこにあるのか!だと思うのです。
>生長の家におけるこのゴタゴタは、欲望の充足 を求める勢力と、そうした状態からの 離脱を遂行しようとする勢力との対立と見るこ とができるでありましょう。両者の和解 にはたしてどのような意味があるのか。現代の 信仰が、はたして欲望充足型の信仰 であるのかないのか。考えるべきは、まずはこ のことであるような気がいたします 。<
初心者さま!もうしわけないですけど、上記文章の“対立”に関しては、飛躍しすぎと思われます。現総裁に人類史的な意識があったもしても、まわりはついてきてないと思われるのです。
なんと云っても、人類史の維新に関することですから・・・
そこで、トキ様の御文章ですが、
トキさんの文章の根底に流れているのは、実際に運動を現場で、一歩一歩してきた方の声が反映されていると思います。
ですからそのことを含め、ヤッパリ、下記コメントに集約されるのではないでしょうか。
>信仰の定義などを、あまり組織が会員に強 要するのは、これから難しくなるような 気がします。もちろん、あまりゆるゆるにする と間違いますが、ミニマムな部分はきめるが それ以上、会員がどうするべきかは 会員の自由にしてもらうのが良いかと思いま す。大事なのは、現場の会員が納得して活動を してもらうことで、それは、本部と現場、さらには現場の幹部と会員がよく話し合って 決めたらよいかとも考えています。ただ、それ をオープンにすることで、内外の批判を 現場も覚悟する必要があるとは思います。権力 の濫用の危険性は本部だけではなく、現場の幹 部にもあります。おかしいときは、やは り、批判や外部の介入は必要で、そのためにも 本部の介入権は必要だと思います 。<
つまり、話し合い、共鳴、共感することが大切だと思うのです。
もう一度、初心者さまの文章を掲載します。
>現代の 信仰が、はたして欲望充足型の信仰 であるのかないのか。考えるべきは、まずはこのことであるような気がいたします 。<
応えますと、生長の家教団を含め、現代の信仰は、“”である“”でしょう。
いち早く、その転換に気づき、人類に貢献するため、話し合いの場をもつことでしょう!!
また、初心者さまが仰るよう、本流に対しての対策は大切ですが、まず、人類史のビジョンを語っていくことが大切かと思います。
そのなか、素晴らしい神縁が生まれてくると思われるのです。
401
:
神の子さん
:2011/10/29(土) 22:09:26 ID:ZtQPM/ao
吾が臨れるは物のためではない、生命のためである。
肉のためではない、霊のためである。
これを悟るものは少ない。
物の消滅に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、
物が減ったときに信仰を失い、
身体が健康になったときに神を讃え
家族の誰かに病気が起こったと云っては
信仰を失うが如きは
神を信じているのではなく
物を信じているのである。
物は結局移り変わるものであるから
物のご利益の上に建てられた信仰は
物の移り変わりによって壊れるのである
神が病気を治して見せるのは
肉体は心でどうにでも移り変わらせることができる
という事実を見せて、「体」は念の影だという真理を悟らせるためである
・・・・・・・・・・・・・
「久遠生命」の神示 の一部
・・・・・・・・・・・・・
生長の家は 「ご利益信仰」では決してありません!!
402
:
トキ
:2011/10/29(土) 22:42:42 ID:wJoHOt/6
>>401
すばらしい投稿、ありがとうございます。
本当にその通りですね。甘露の法雨の真の意味を信徒全員が深く味わうべきだと
思います。
403
:
神の子さん
:2011/10/29(土) 22:56:08 ID:zvvAb1BE
信仰の目的は
真理を悟ること ですね
それ以外ないと思うんですが
404
:
初心者
:2011/10/29(土) 23:00:07 ID:hogyfr1M
役行者様
>現総裁に人類史的な意識があったもしても、まわりはついてきてないと思われるのです。 なんと云っても、人類史の維新に関することですから・・・
たしかに、対立と呼べるほどの現象はまだ起きてはいませんね。それでも、書いて
みたかった。わたくしの欲望とご理解いだければ、ありがたく存じます(このことに
気づかれるほどに関心をもって読んでいただきましたことに感謝いたします)。
ですが、わたくしは、教団内部で小さな変化がおきていると見ています。総裁先生の
意図を理解する人たちがあらわれてきた。そのことを実感しています。わたくしも
また、内部に属してこそいませんが、それなりに理解が進んできているものと考え
ています。
すでに変化がはじまっている。このことを実感せずにはおれません。波に乗り遅れ
まいと、いまはそのことばかりを考えています。面白いですよ、この流れ。役行者様
がいわれるように、まさしく人類史的な流れでありますね。行き先は不明でも、波に
ひとまず乗ってみるしかないでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=xMwU30Cw5q8&feature=related
405
:
トキ
:2011/10/29(土) 23:03:56 ID:wJoHOt/6
初心者様
教団分離論は、少数ですが、私の周囲にも言う人がいます。実際、昔の本流掲示板にも
そういう趣旨の投稿があり、即座に管理人から削除されていました。やはり、ある程度の
数の賛同者はいると思われます。ただ、それですぐに騒ぎが収まるか、というと、個人的には少し
疑問かと思います。
つまり、いくら教団側が休戦を宣言しても、本流復活派は喧嘩を止めないで、むしろ、
エスカレートすると思います。もちろん、本流復活派と言っても一枚岩ではないので、各グループ
で対応は別れるでしょうが。
このあたりは、少し難しい話題なので、あらためて投稿をしてみたいと思います。
どうも、歯切れの悪い返答で申し訳ありません。
合掌 ありがとうございます
406
:
初心者
:2011/10/29(土) 23:09:20 ID:hogyfr1M
神の子様
信仰の目的は、たしかに真理を悟るためでありますね。ですが、いまは、悟ったあとに
どうするかという、その生き方が問われているような気がいたします。
大きな問題が起こっていますね。神の子様のような、純粋な信仰心をお持ちの方は、
さぞかし御心を痛めておられることでありましょう。
問題解決のために、ダーティーな役柄を引き受けるものが必要なのでありますね。
誰がそれを引き受けるのか。今はそれが問題なのであります。本流掲示板で
書き込みをつづけておられる方々も、きっとそうした覚悟ができておられる方々ばかり
なのでありましょう。
どっちがよりきたない役柄を引き受けるか。それで勝負が決まるような気がいたします。
407
:
トキ
:2011/10/29(土) 23:10:44 ID:wJoHOt/6
役行者 様
現場の立場になると、確かに大きな事を考える余裕はなくなります。(こういうのを”意思決定に関するグレシャムの法則”というらしいです。)
自殺者が1年に3万人とか言いますが、現場の立場からは、環境がどうの、国家がどうの、というよりも
目の前で、明日の食事にも事欠く人の相手をしなければなりません。しかも、これをボランティアでしている、という
ことですから、どうにも納得できない点はあります。
ただ、こういう事を現場も声を上げなかった、という事は認めるべきだと思うのです。
マクロの視点とミクロの視点をあわせて、どうすれば良いか。これから、両者が話し合いを始めるべきだと思います。
合掌 ありがとうございます
408
:
役行者
:2011/10/29(土) 23:16:46 ID:Un8dQjys
合掌
生長の家の説く教えは、ご利益信仰ではありません。
また、キリスト、
釈迦の説く教えもご利益信仰ではありません。
現代文明に迎合して組織を維持しようとしたとき、どんな高尚の教えもご利益信仰に陥りやすいのです。
それも、現代における業でしょう。人類史の転換期において、否が応でも、久遠生命の神示を生きれるような時代になると信じてます。
また、そのような時代を向かえるために、お役に立つにはどうしたら良いかを、話し合う必要はあります。
409
:
初心者
:2011/10/29(土) 23:22:37 ID:hogyfr1M
トキ様
たしかに分離は簡単ではありませんね。教団は教団のやり方を遂行するしか
ないような気がいたします。それで実績をつくっていくよりほかはないでありま
しょうね。たしかな実績をつくって対抗勢力を黙らせる。いまはこれしかないような
気がいたします。
410
:
神の子さん
:2011/10/29(土) 23:30:30 ID:.F278eQo
初心者様
ありがとうございます
いつも楽しみに読んでます
拝
411
:
義春
:2011/10/29(土) 23:31:50 ID:iu5Ar./Q
>>398
初心者さま
本流掲示板等での本流復活の方々のご意見を拝読するに、私も同意見であります。
又、教団側が、もしその様な考えであれば、非常に魅力的であり建設的であります。
私のような若い世代は、そういったものにこそ生きがいを感じます。
本流のこれからの行動に関しましては、
>>405
でのトキ様のご意見と同意見であります。
トキ様の仰る様に、本流の各グループでも色々な考えがあるみたいですから、
動き方も様々でしょうが、教団を攻撃する事で、アイデンティティを確立する
グループもあろうかと存じます。
こういったことになれば、現場の人間としては少々悩みます。
まぁ、正直なところ、私のような一般の役職なしの人間には然程気にはなりません。
教区も個人には行動に然程干渉できませんから。
ただ、教区の幹部の方になればなるほど、気を使う事ばかりになってしまい大変になろうかと感じております。
ですが、本流掲示板を拝見するに、手段の目的化をしているので、
如何に
>>409
で初心者さまが仰る様に、実績を作ろうとも、攻撃の手を緩めることはないと予想できます。
それよりも、まぁ、現実的に可能かどうかをさておき、
一定の緩衝地帯的な会議なり、何かしら接触する機会を設けて、
お互いの調整をする事が良いのではないかとも勝手ながら感じています。
412
:
役行者
:2011/10/29(土) 23:33:41 ID:Un8dQjys
>初心者さま
わたしも、そのように思います。
是非、人類史の波に乗っていきたいものです。個人としても、生長の家教団としても・・・
YouTubeを見れない環境なので、また改めて感想を述べます。
413
:
役行者
:2011/10/29(土) 23:49:53 ID:Un8dQjys
>トキさま
>目の前で、明日の食事にも事欠く人の相手をし なければなりません。しかも、これをボラン ティアでしている、という ことですから、どうにも納得できない点はあり ます。 ただ、こういう事を現場も声を上げなかっ た、という事は認めるべきだと思うのです マクロの視点とミクロの視点をあわせて、ど うすれば良いか。これから、両者が話し合いを 始めるべきだと思います。
私もそのように思います。
マクロ的視点とミクロ的視点を合わせもつことは、大切かと存じます。ですから、建設的な話し合いの場をもつべきでしょう。
414
:
義春
:2011/10/29(土) 23:52:43 ID:iu5Ar./Q
>>412
最後の調整云々に関してですが、正直なところ、現実的に不可能とも
感じております。ただ、昔、教区での活動をしていた頃を思い出すと、
教区の上の役職の人達は色々気を使っていたのだろうなぁ…と思い出す事が多いのです。
そして、教区での活動はトキ様の仰る様に、ボランティアで、色々気を使っているので、
そういった事まで、気を使うのは大変だろうなぁ…と感じて、そう書かせて頂きました。
415
:
さくら 拝
:2011/10/30(日) 05:11:44 ID:mtaNjOeA
初心者さま、ありがとうございます…
スティッカーは、あなたがふさわしい。
みんな、あなたなら、きいてくれるから、
あなたにはわたしの気持ちをわかってくださる。
ほんと、読む時間なくて、すみません。
気持ちを組んでくださってありがとうございます。
わたしは、今の生長の家で、具体的にやりたいことが、たくさんあるし、
出来る事がたくさんあると思う。っていうか、ある。
自殺の問題、経済の問題、だって、いろんな問題に取り組める、
たくさんの可能性がある、別に、ことさらいえない、だけ。
そのためのつながり、アイデアを、私たち、大切にする。
やってますよ、もがいてなにがわるい。
生長の家を愛している。雅春先生と、おなじように、
雅宣先生も、理解し、愛する。だめですか?
今の生長の家は、環境ばっか、様々、文句いうなら、
もうむしろ、ほおっておいて欲しい。
偉そうにいえば、それらしいもんね。
組織や、なんやら、期待や、救いを求めてはいない。
すみません、失礼お許しを、お許しください。
ここに具体的に書けない、本音も立場もアイデアも、
たくさんある。
わかる人だけで、やっていきたい、もう。
では、
416
:
さくら 拝
:2011/10/30(日) 05:53:55 ID:mtaNjOeA
全く、前の文、読んでないこと、前提で。お願いします、
いろんな人の、新しい、アイデアや、想いを実現するために、今の組織にも、変わってほしい。
でも、今までの、です。
今までの、生長の家の組織の、体質、や、体制では、絶対、無理。
誰がつくってきたのですか?
もと本部職員ですか?
だから、その矛盾や、私なんか、どうしようもない現実を明らかにして欲しい、改善をしようとして欲しいと思ってました。
それが、今が、チャンスではないか、と思いました。
環境ばかりで何もやってない?
そんないっしょくたに語るだけですか?
出来る事ならたくさんある、
大きな流れで、人類の救いの方向がある。寄り添うような信仰姿勢や祈りで、やっていける。
現代社会の様々な問題を、どう解決できるのか、を考えていける。
本流さまには、感謝してます。
わたしの想いがはっきりして、
生長の家にもどしてくれたから。
では、トキ様、スティッカーは、終了します。
ありがとうございました。
417
:
さくら 拝
:2011/10/30(日) 06:09:44 ID:mtaNjOeA
何度もいいたい。
考えてるのは、環境だけの、問題だけではない。
寄り添うような祈りで、今の現実的問題に、
信仰者として、とりくめる。
今度こそ、
沈思黙考。
418
:
役行者
:2011/10/30(日) 07:58:24 ID:fRqafFrE
>初心者さま
吃驚(゚ロ゚) YouTube!
古き良き時代のサウンドが耳に飛び込んできました。
ビーチボーイズのSurfinUSA!
今日も、乗っていきます
(^^)/~~~
ありがとうございます。
419
:
初心者
:2011/10/30(日) 11:00:45 ID:hogyfr1M
さくらちゃん、スティックを手放さないでください。今後の組織活動を考えるに
あたって、重要な話し合いがなされているような気がいたします。いましばらく
スティックを持ちつづけていただきますようお願いいたします。
420
:
さくら 拝
:2011/10/30(日) 12:21:50 ID:SG2dIIkE
初心者さま
いつも、ありがとうございます。
携帯で、細かなことが、しばらく、読めません。
みんな、あなたなら、聞きますから。
しかも、わたし、失礼なことばかり、言ってしまった。
つたわらない。
もどかしすぎて、心がゆれゆれ。
未熟者ですみません。
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