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トーキングスティックボード
1326
:
トキ
:2012/04/21(土) 13:17:53 ID:0o.pZHMY
あ、すみません。場所は、もしよければ、トーキング スティックの板でお願いをします。
勝手を申しまして、すみません。なお、トークング・スティックがいっぱいになったら、
「誌友会」板を作ろうかと思っているのですが、よろしいでしょうか?
みなさまのご意見をお待ち申し上げます。
合掌 ありがとうございます
1327
:
うのはな
:2012/04/21(土) 13:53:15 ID:El6gIMAw
1326
わたしは、上記の案に賛成です。トキさん、いつも御苦労おかけしてすみません。
合掌、ありがとうございます。
1328
:
如月
:2012/04/21(土) 15:53:00 ID:ki/haAjk
私も賛成です。
よろしくお願いします。
28日までに、この板を消費した方がいいですよね?
うのはなさま、こんにちは。
うのはなさまが、応援ソングを貼ったり、宣伝されたりするのを見るにつけ
ああいい人なんだなぁと思います。
天知る地知る、見る人は見ています。わかっています。
文章もたくさん載せて下さって、古いビルに住みついた霊の話もすごく面白かったです。
ありがとうございます(^ω^)
1329
:
如月
:2012/04/21(土) 16:00:45 ID:ki/haAjk
志恩さま、金木犀さま、ユタカ(なせば成る我ハ神の子)さま。
先日は「的を…」の話を丸投げして申し訳ございませんでした。
言いだしっぺの私は未だに結論が出ませんが、知識が深まり感謝しています。
◆「うる」と読むのは、終止形(得る。)と ◆
◆連体形(得る時、得る場合のように名詞につなげる時)の時だけなので◆
これ、教えていただいておいて良かったです。 間違えるところでした。
みなさま、ありがとうございます。
1330
:
「訊け」管理人
:2012/04/21(土) 16:11:28 ID:???
<お知らせ>
「的を射る・得る」論議は今後、「部室」板でお願いできましたら幸いです。
誌友会が今後、こちらを使用させて頂きます。ご理解の上よろしくお願い致します。
拜
1331
:
「訊け」管理人
:2012/04/21(土) 16:12:27 ID:???
<第二回 W E B 誌 友 会>
●日時:4月28日(土)21:30〜
●テキスト:『生命の實相』第一巻 「七つの光明宣言」
●場所:「部室2」板
●前夜祭期間:4月19日〜27日
(前夜祭期間は該当箇所に関する話題を、どしどしお寄せください。多少の脱線もありです)
∧_∧
( ゚∀゚ )
/`y/∧彡ヘ
<二二二派━━━━━らゝ,ュ/ ・ ヾ
`.,イ/ ヽ_)
〈,イ {、 )
,'. ゙;, `ヽ)
{、, ゙ .l
l ,; r‐<´ .ト、ミミヾ、 ・ ・
l ,;_l に,ノ:::ヽ ヾミ三彡"━╋━┓
l ト(. l lヽ:::::::::ノ. ┃ ┃
l、_ノ::>.l l く::::r'. ┃ ┃
/:/ 〈__,〉. l:::l
/:/ , l:::l ━╋━┓
/:/ ; .l:::l. ┃ ┃
〈;;ゝ .〈;;;ノ ,; : ,.:┃ ┃
、 、;, 、.,' ' ;' ,. '";', "' ┃┃ ┃
` ゙\ ;.,. ,..”,' / , ,./,. .;'__ ┛
___,,,,,,,,,... -----―――'''''''''''"""" /
'''''''''""""__,,,,. -‐''''" _,,. -''" ,,. -'' ,,.-'' ,r'" /
<予告・・・>
次回触れる箇所はけっこう、重要だったりします。皆さんで精読しましょう。おや?榎本先生もこのようにおっしゃっておられますよ・・・
『生命の實相』第一巷4頁より謹写――
▽吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを日標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて来た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。吾々が『生命』をこの世界に享けて来たと申しますと、〝わたし〟というものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて来たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。
『波状光明化への道』(榎本恵吾著書)12項より謹写 ――
此処(上記尊師御文章)に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんとうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。
扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出て行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称して解決と言ふのである。
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんとうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。
1332
:
如月
:2012/04/21(土) 16:19:17 ID:ki/haAjk
>>1330
訊け管理人さま
了解しました。
このスレを早く消費した方がいいかなと思って、他の話題も持ってくるつもりだったのですが
結構傷つきました。
部室板に引きこもります。
___
/ \
. / _ノ ヽ\ わたしのーお部屋のーまーえでー♪
/ ( -‐) (‐-)
| (__人__)| 泣かないでくださいー
\ _ `i i´ノ_
/ `⌒く(::::) そとにーわたしはー出ませんー♪
|  ̄ ̄ ̄⌒) .|
| ´ ̄ ̄ ̄ /. .| | ハロワなんか行きませんー
1333
:
金木犀
:2012/04/21(土) 16:24:09 ID:zilIu2tA
如月様
現代語として「得る。」が終止形で使われている状態ですので、
現代国語では「える」と発音していますから、
それを歴史的仮名遣いのまま「うる」と発音すれば、
普通は、お金を得る(うる)。となりますが、厳密には、古語では、お金を得(う)。
であって、得(う)と一音で、終止形です。
(一応、本来の形についてです。)
1334
:
金木犀
:2012/04/21(土) 16:25:59 ID:zilIu2tA
訊け管理人様
読む前に書き込んでしまい、申し訳ございません。
1335
:
「訊け」管理人
:2012/04/21(土) 16:39:19 ID:???
>金木犀さま
いやいや(笑)この種のご投稿は不要でございます。
私も誌友会、TSB板移行は存じておりましたが、この論議の妨害回避のために
部室板にいた次第です。おもしろい話をありがとうございます。
ちなみに私は「的を射る」・・・・こちらの方がしっくり来ています。
1336
:
金木犀
:2012/04/21(土) 21:34:15 ID:zilIu2tA
ですよね。
1337
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/21(土) 21:38:04 ID:Se9jErLg
的を射る
すみません、勉強になりました。 有難うございました。
と、言う事で、的事件は終了です。
1338
:
金木犀
:2012/04/22(日) 10:26:51 ID:XJ2w09Xw
ところで、ユタカ様の見られた幻影のことが、
どうも頭から離れずに、つい考えてしまうのですが。
心の法則を考えれば、いまの雅宣総裁の出現は信徒の心の影だ
と言うことは絶対確かなことだと思っています。
それについて、組織の緩みなどということも、
原因の一つであるかも知れません。
しかし、もっと根本のものがあるのではという気もして、単に組織の緩み硬直化
だけではないような気もするのです。
今、雅宣総裁の何が許せないかというと、
なんといっても雅春先生の御文章を絶版になさったことであり、
さらに碧巌録解釈などの原稿を、書籍として世に出さないでいることです。
雅春先生の弟子としてはこれが何より悲しいことです。
しかし、これは今雅宣総裁がそのようになさっているから、
非常に悲しみを感じ、苦しい思いが起るのであって、
それ以前はどうであったかというと、
いつでも注文すれば手に入る、買えば手に入るという状態に安心して、
飢え渇くような求道の心もなく、今手に入れなくても、またいつか買おう。
今読まなくてもいつか読もう。
さらに、この教えを今伝えなくても、
そんなに困っているような人は近くに見当たらない、などと、
ことごとに、怠け心に流されていたような気がします。
御教えを知った当初こそ、
『生命の實相』を読みふけり、誰かに伝えなくてはと思いましたが、
いつか、信仰自体が生活の中で、埋没して、忘れられている状態でした。
ちゃんとやられている人は、きっといたとは思いますが、
多くの信徒は怠惰に流されていたのではないでしょうか。
毎月の神誌でさえ、今は一冊でも貴重なものに感じますが、
かつて雅春先生のご存命の頃に、その神誌をどれだけ保存しておいたか
と考えると、どれほど、自分が教えを粗末にしていたかがわかります。
雅宣総裁が聖典を絶版にし、新規の原稿を製本化なさらないことで、
どれほど、雅春先生の御文章が大切で、どれほど『生命の實相』が大切か、
どれほど、それが神の言葉であったか、どれほど、人生を照らす光であり、
どれほど世を救う燈臺であったかを
如実にわからせていただいた気がします。
今回、復興G様が『実相と現象』を長文に渡って書き写し、
投稿して下さった時、
どれほどこれが有難く感じられましたことでしょう。
今こそあらゆる雅春先生のお言葉が、光り輝く真理の言葉として、
礼拝せずにはおれないような、渇仰する気持ちが多くの方に
生じているのではないかと思います。
現在『生命の實相』は在庫も少なくなり、手に入らなくなっているそうで、
光明社のリニューアル版もまだ一巻しか出ていない状態です。
今まで、いつも手に入る時に、私たちは何をしていたのでしょうか。
せいぜい自分が読む分を買って持っているだけで、
これらをまだ御教えを知らない多くの人に与えることもせず、
紹介することもせず、伝道を怠っていたのではないでしょうか。
以前訊け管理人様が『生命の實相』を流布する提案をなさったことがあり、
私はこれが本来の伝道だと思います。
これをもっと早くにやるべきだったのではと思います。
そういう意味では百万運動も基本的には正しかったのではと思います。
もっとも、数合わせになったという批判もあるようだし、おそらく
新聞の押し紙に似た状態があったのは確かではと思います。
私も当時かなり部数を取り、私の支部にもたくさんの理想世界が貯まりましたが、
田舎の支部であり、時々都合のつく人間で、一斉に配ったりしても、
全員が注文した神誌を完全に配り切ることは出来ませんでした。
たくさんの神誌が月遅れになって行き、
置き場のなくなった神誌がちり紙交換に出された話も聞きました。
人間というのは、こうも中身よりも形の方へ、
堕してしまう傾向があるようですが、
『実相と現象』の中にもそれについて雅春先生が言及しておられ、
形でなく、人類光明化という「愛行」としての本質を
しっかりと握っていれば、形ではなく愛の運動であったなら、
会員自身も救われていたはずであるとおっしゃっています。
この失敗から文書伝道という広域流布の運動が
停滞してしまったのではないでしょうか。
求道と伝導に対する失われた熱情、それが、
現在の絶版になってあらわれているのかもしれない
そう思うのです。
雅春先生は、かつて、笛吹けど踊らずと嘆かれたことがあったように思います。
この雅春先生の思いに答えて、信徒一人一人が情熱を取り戻す時、
観世音菩薩である総裁の今の姿は消えてゆかれるのではと考えます。
それがどのような解決になるかはわからないですが、
本来の人類光明化という生長の家が復活するのではないかと思います。
1339
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:44:21 ID:???
部室板に投稿致しましたWEB誌友会用の参考資料、これをこちらに投稿して
参ります。
よろしくお願い致します。
拝
1340
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:50:20 ID:???
<予告・・・>
次回触れる箇所はけっこう、重要だったりします。皆さんで精読しましょう。おや?榎本先生もこのようにおっしゃっておられますよ・・・
『生命の實相』第一巷4頁より謹写――
▽吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。
吾々が生命を礼拝し、かうした『生命』の法則にしたがつて生活することを日標においてゐますのは、吾々がこの世界に『生命』を享けて来た事実から出発するのでありまして、事実ほど力強いものはないのであります。吾々が『生命』をこの世界に享けて来たと申しますと、〝わたし〟というものが別に何処かにあつて『生命』というものを何処かほかのところから貰つて来たやうに聞えるかも知れませんがさう云ふ意味ではないのであります。吾々各々そのものが一個の『生命』であります。何ものを否定しましても、自分が生きてゐると云ふ事実は否定出来ないのであります。自分は生きてゐると云ふ事実は取りも直さず自分自身が『生命』であると云ふことであります。
『波状光明化への道』(榎本恵吾著書)12項より謹写 ――
此処(上記尊師御文章)に全『生長の家』の全説法の要がある。今此処に生きる生命、この生命は何ものであるか。その生命の実相(ほんとうのすがた)が、この否定不可能の絶対事実が、実在なのであり、神なのであり、完全なのである。
扨て、問題の解決とは一体何であらうか。解決とは神が『今』『此処』に顔を出すと云ふことなのである。神は完全であるから完全が顕れる時最早や問題と云ふべきものは無いのである。そして「生命」が「実在」であり、「神」であり、それがそのまま自分なのであるから自分が解決そのものなのである。太陽が出る前に昼と云ふものがあるのではない。太陽の出て行つた処を称して昼と云ふのである。問題の解決と云ふものは自分を離れた処の何処かに形として存在するのではない。自分の行つた処を称して解決と言ふのである。
人間はすべてこの『生命』の実相(ほんとうのすがた)に還へらなければならない。此処にのみ、人生くると云ひ得る世界があるのである。『此処』とは『久遠の今』のことであり、『実相』であり、『神』である。
1341
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:50:59 ID:???
<WEB誌友会用・参考資料>
『安心と喜びを得る道』(藤原敏之著書)より謹写――
医学や常識では、到底治る筈が無いというような重患が、一瞬にして消えたり、人間業では解決しそうもない困難な問題が、忽ちのうちに解消すると言っても、一般には一寸納得出来かね又体験として発表しても信じようとはしないのであります。其れ程迄に現象にとらわれ、現象を信じ込んでいるのが人間なのであります。この長きに亙る迷妄を打ち破ることこそ御教えの目的であり、根本的課題であると信ずるものであります。『生命の實相』第一巻第三頁に、この神癒の原理が示されているのであります。
『生命の實相の自性圓萬(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば、大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフジカルヒーリング(神癒)となります』
とも御示し戴き又實相圓萬の自覚によって、大生命の治す力が働いて、われわれの不幸を癒(なお)して戴くことが出来るとも御教えを戴いておりますから、私達は只信じて実行すれば、それだけでよいのであります。
私は練成の根本方針を、此処のところにおいて実施させて戴いております。御教えが絶対であり間違いないからこそ御教え通りどんな悪性疾患も機能障害もみんな消えて行き治ってしまうのであります。別に種も仕掛けもないのであります。強いて言えば、同じお話しをしても行事をするにしても、形式的とならず、生命が篭り生命を通したものがそこに発現して練成を受けられる皆様の魂を打ち、肉体の耳で聞くだけではなく、魂で受け止め、身体で受けられる結果神様に直結せられ神癒をお受けになるものと信じます。理由は私共にも判らず又治る方々にも判らないのであります。
兎に角人間は少し本を読んで判りますと、覚えたものを自分のものだと思い違いしたり、御教えを私有物とし勝ちでありますが、このことは極めて警戒を要することだと思います。御教えを御説き下さる谷口雅春先生も『自分は教祖ではない。教祖は自分を指導して下さる御神霊である』と申しておられます。私達は常に神想観して自己を否定し、己れを空しうする時、神に直結し神の導きを戴くことが出来るのであります。
人間心や人間力で人間が救われる筈がなく、私達が祈りに徹し自己を放下し切った時、神は私達を媒体として働き給い、神智と神愛とを天下し給いて神癒を現わされるものと信じます。
1342
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:51:30 ID:???
<WEB誌友会用・参考資料>
『安心と喜びを得る道』(藤原敏之著書)より謹写――
<どれだけ相手の實相を拝み得たか>
人間は、現象の悪や不完全なものがあるという迷妄によって、ありもしない苦しみや悩みを造り出しているのでありますから、この根本的な間違いを打ち破る以外に、解決の道は無いと確信致します。
現象の悪に執へられて苦しんでおられる方達は、丁度ありもしない夢を見て夢を本当だとして恐れているのと同様でありますから、夢の中の出来事を解消する為の努力を払う必要もなく、夢が醒めることが根本なのであります。
私達練成担当者の使命は、この夢にうなされて苦しんでいる人達の夢を醒ましておあずけすることだと信じます。そのことを忘れて一緒になって夢の解決に力を入れているようでは、本当の救いとならないのは当然であります。指導する立場にある者が現象や悪を認めて現象処理の方便としての横の真理のみに力を入れて、心の持ち方や、又先祖祀りの形式や、神想観のやり方の上手下手によって問題の解決が決まるというような導き方で、根本的な解決の出来る道理はありません。それだけでは生長の家の肝腎要の神髄が失われ、骨抜きになります。救いの顕れるのは本人の自我的努力によるものでは勿論なく、指導者の巧拙によるものでもなく、「どれだけ相手の実相を拝み得たか」ということにあると確信致します。拝むということは人間を拝むのではなく、神を拝むのであります。相手を人間と見乍らどれ程拝んでも、それは拝んだ恰好をするだけであって、拝んだことにはならないと思います。本当に拝むということは、徹頭徹尾現象を否定し、人間を否定し切ることであります。そこに初めて神を観ることが出来、無条件に拝むことが出来ると信じます。否、拝まずにはおられなくなるのだと思います。
<神のみが神を観、生命のみが生命を観る>
生長の家の練成会には必ず〝神性開発〟という肩書きが附けられるのも、この為だと思います。このことが抜けた場合は、只の練成会となり、他の団体等で行われている単なる集団訓練と変わらないことになります。神癒の原理は人間的常識を超越することによって起るのであり、現象の法則を超えた神の世界に於いてのみ現れるのでありますから、常識では納得出来ないのが当然であります。キリストも『汝の信ずる如く汝にまでなれ』と教えております。
この信とは単に頭で理解するだけはなく、真理に醒め自覚することであり、自覚とは生命で把握することでありますから、小賢しい者程人間智が邪魔して自我が捨て切れず、真剣さに欠けたり素直さが失われ本来の相(すがた)を観ることが難しいのであります。神のお造りになった世界には、元々聾唖も盲目も居ないのでありますが、現象界には現象界の法則があり、生長の家の横の法則としては仏教でいう三界唯心であり、運命や環境は心の影でありますから、無いものでも仮りにはあるが如く現れ造ることも出来るのであります。病気や不幸等もみんなこのありもしないものをありと想像し思い違いした結果あるかの如く現れているに過ぎないのでありますから、無いものが無いと判れば自然と消えるのであります。 このことを離れて生長の家の御教えは存在しないのであります。
唯単に、御教えを受売りするだけの言葉では、中々魂の底には響かないで肉の耳にしか達しません。正しい祈りにより神想観を通して生命で把握した言葉は、只の言葉ではなく相手の生命に結び附くことが出来るのであります。
「神のみが神を観、生命のみが生命を観る」とはこのようなところを指して、お教えを戴いたものと有難く拝受致しております。
以上は講師としての尊い御使命を頂戴致した者が、最も関心を持ち、第一に把握しなければならない最重要事項として、常に自分に言い聞かせ、常に内観を怠らず反省を繰返しているところであります。自我流になった時、御教えを毒し汚すことになりますので、注意が肝要と存じます。
1343
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:52:11 ID:???
<WEB誌友会用・参考資料>
WEB「榎本恵吾記念館」“今をよろこぶ”生活のヒント(7)より謹写――
自分を喜び拝むためには、現象の自分を見ていては拝めません。現象というのは、心と、心の現われとしてのすべてです。この現象は、生長の家では「無い」と言うのです。現象はたえず変化しているのです。心の状態はたえず変化し、一秒間に三千回も変化すると言った人もおります。それが正常な心だと言われております。ただし、それはたとえば雲のようなものです。雲はいくら曇っていても、青空はよごれないのです。今日どんなに曇っていても、明日晴れたら、今日の雲のしみは青空に残らないのです。心と心の現われなる現象は雲のようなものです。変化しない實相は、青空のようなものです。一秒間に三千回も変化するのが正常なる心であり、正常なる心の雲であり、正常なる現象です。ただし、それは現象であって、いくらあるように見えていても無いのであります。自分を拝むというのは、雲を飛び越えて青空なる自分をたたえることなのです。青空は、雲がなくなってからあるのではありません。雲があろうがなかろうが、全宇宙が青空であります。このように、心の変化がおさまっていいことが出来てから、自分を拝むのではないのです。心のきれいな人ほど、反省して心をきれいにしてから自分を拝もうとされるのですが、それは、タバコの煙を、火のついたタバコをもった手で消そうとするようなもので、人類は何千年間もそれをやって来たのですが、これをやればやるほど迷いが深まって行くという結果になったのです。
また心のきれいな人ほど「私は我がつよいですから、宗教で反省して、この自我をたたき壊してから自分を拝もう」とされるのですが、これは宗教ではありません。宗教は神の完全と人のいのちの完全とを拝むのですから、「神は完全だから、自我というような不完全なものはつくっていられない」と、自我という雲を放っておいて、青空である、太陽である自分をたたえるのが宗教です。本当の宗教は、反省によって心を浄めて行くのではないのです。それではいつまでたっても新しい反省の材料が入って来ますから、浄まり切るということは出来ないのです。つまり、我をなくしてから自分を拝むのではなく、我はあろうがなかろうがそんなものは放っておいて、神そのものなる、完全なる自分を讃えるのであります。電気をつけると暗はそのあとで消えるのであって、反省して心の暗をみがいて明るくしてから電気をつけるのではないのです。自分を祝福するという光明の電燈がつくことによつて、あとで自我という暗は消えると思ってもいいのであります。
要するに、「ハイ」と素直に、神のつくられた完全なる自分を受けるのです。感謝をして、神想観をして、本を読んで、愛行をして、生長の家になり切ってから自分を拝み、喜ぶのではないのです。それらの何ものがなくとも、このまま「神は完全」「自分は完全」と拝むのであります。これが生長の家であります。すべて、すでにある「完全」を拝むのが生長の家であります。ここからすべては始まるのです。自分を赦(ゆる)し拝むのです。「先生、帰ったらすぐ離婚の審判が下りるんですが……」と言われた方がありましたが、こんな方はきっと、毎日毎日心の雲である自分を見ては「駄目だ、駄目だ」と自分を裁判にかけているのです。「あなた、自分を裁く裁判をやめなさい」と教えられて、そこから起ち上って救われた方もあります。
1344
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:52:59 ID:???
<WEB誌友会用・参考資料>
吉田國太郎「往相精進の境を超えて」より謹写――
又自分の今ある生活、今の惱み苦しみを救ひに到る道程とみなし、これで良くなるのである、これが結構なのである、必ずよくなる、必ず助かるなどと、段々と助けられて行き、助かつて行きつつある姿に見返し、こんなにも今現に助けずにはおかない力が働いてゐるではないか、これが神である、これが救ひである。煩ふこともない、惱むこともない、素直にまかせきつて生きれば好いではないか。といふ助かり方は、私達の先を歩いて行つた多くの先人の方々によつて尋ね當てられた魂の憩ひの世界であつた。樣々な苦惱の中に身を擦り減し人生の歩みに疲れ果てた人々にとつては、かうした救ひも一種の魂の慰安とはなり得るであらう。然しこれも亦如何に低位な救ひに過ぎないであらうか。これは未だ救ひの光と自分とが一枚の存在ではなく、無明の自分を光明が照らして呉れてゐるやうな姿であり助けられる事にきまつてはゐるが、それは未来のことであつて、今はまだ助かつてゐない自分であり、暗の中から光を拜んでゐる姿である。今迄私達に與へられた信仰は全て此の種のものに過ぎなかつた。無明が光を拜んでゐる姿。罪の子が神に縋(すが)つてゐる姿。足らぎるものが完さを願つている姿。これも亦明かに光明一元ではなく、明暗混淆の世界であるに過ぎず、生長の家の繁えの外である。此の種の信仰――自分が惱みの塊として惱みの世界に住み、自分の現實の外に神を認め、光を認めて、その神の救ひが己の惱みの世界に恵み與へられ、惱みの世界が消えて光の世界に変貌することを願つてゐるやうな信仰がどんなにか氾濫してゐることであらう。深く神を崇め高い信仰に達してゐると云はれてゐる樣な人々にも、此の種の種類の信仰に墮ちてゐる人がどんなにか多いことであらう。正しくはこれは信仰の墮落である。絶對の神、絶對の神と拜しながらも、絶對の神以外に其の神に助けられる事を哀號し、或ひは又勵んで其の神に迄到らうとしてゐる自分があるやうな鈍い信仰ではなからうか。例へば學者學生が學問の世界で捻りまはしてゐる絶對といふものには、得てしてこんな絶對がある。學者の自分が此處にをつて、絶對といふ言葉を文字の上で轉がしてゐるやうな姿である。これでは絶對は夢で事實は相對でしかない。信仰がかうした姿に墮ちたならば、遂に救はれ得ないことである。神以外にはみ出してゐる自分、その自分の力での勵みは空しい。神ならざる力、わしがの力での勵みは空しい。
●全文
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65584652.html
1345
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:53:39 ID:???
(補足)吉田國太郎「往相精進の境を超えて」に関し。
――――――――――――――――――――――――――――
無明の自分を光明が照らして呉れてゐるやうな姿であり助け
られる事にきまつてはゐるが、それは未来のことであつて、今
はまだ助かつてゐない自分であり、暗の中から光を拜んでゐる
姿である。今迄私達に與へられた信仰は全て此の種のものに過
ぎなかつた。無明が光を拜んでゐる姿。罪の子が神に縋(すが)
つてゐる姿。足らぎるものが完さを願つている姿。
――――――――――――――――――――――――――――
この部分が特に印象に残りました。なぜならば次回誌友会で触れます内容――▽吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。――
これに関連すると思われたからです。
この光明宣言で云われるところの〝生命を礼拝し〟とは、「無明が光を拜んでゐる姿」を意味しません。同時に「罪の子が神に縋(すが)つてゐる姿」「足
らぎるものが完さを願つている姿」も意味しないわけでありますね。
この点もけっこう、重要だと思いまして特に、補足させて頂きました。
――――――――――――――――――――――――――――
神以外にはみ出してゐる自分、その自分の力での勵みは空しい。
神ならざる力、わしがの力での勵みは空しい。
――――――――――――――――――――――――――――
解っちゃいるがなかなか・・・・であるならば余計に、皆で学びそして、皆で実行して参りましょう。
拜
1346
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:54:46 ID:???
216 :復興G:2012/04/20(金) 13:35:23 ID:ojEbkDH2
>>161
:
「訊け」管理人様
皆々様
>WEB誌友会前の前夜祭としまして以下、七つの光明宣言「第一条」について触れて参ります。参考資料はご紹介しました『実相と現象』になります。
さて、同書の全文謹写の時間はありません・・・<
とありました、上記参考資料
谷口雅春著作集第4巻 『實相と現象』 より、
『「七つの光明宣言」解義』(p.85〜147)の全文を謹写し、「聖典引用板」に、20回に分けて投稿させていただきまました。
このご講義は、昭和39年5月、青年会全国大会でのご講話記録がもとになっており、「理想世界」昭和39年9〜11月に掲載されたものでして、私は直接その御講話を拝聴し、『理想世界』に掲載されたご文章を感激して拝読した記憶もあるのですが、このたび聖典『實相と現象』のご文章を改めて拝読・謹写しているうちに、二度、涙がこみ上げるのを押さえることが出来ませんでした。……
皆様、ぜひご拝読、心読、霊読、体読して、明28日のWEB誌友会にご参加くださいませ。
1347
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:55:20 ID:???
221 :復興G:2012/04/20(金) 18:51:42 ID:ojEbkDH2
>>219
:
「訊け」管理人殿
>追伸の追伸 復興G閣下がご落涙あそばされた箇所とは、どのお言葉の部分なのでありましょうか。おそらく皆さんも気になっていると考えますので、代理で質問させて頂きます。差し支えなくばこれ、閣下の思い出話等を交えながら、なにかご投稿をお願いできぬものでありましょうか。よろしくお願い致します。 拜 <
ありがとうございます。
「閣下」でなく「Gさん」で結構ですが・・・
私が「涙がこみ上げるのを押さえられなかった」のは、まず最初が聖典板<476>の後半部分を拝読謹写した時です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ……マタイ伝の二十二章で、イエスはこういうふうに答えておられます。
「『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっているのであります。それでここに「主なる神」とありますから、人間の方は僕(しもべ)で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではないのです。「なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なる“汝の神”を愛すべし。」といわれた教に注目すべき言葉があるのです。
「汝、イエスの神を愛すべし。」とはいっておられないのです。「主なる“汝の神”を愛すべし。」即ちお前の主人公であるところの“汝の神”を愛すべし。とこう言っておられるのであって、すべての人間には、その自己の内に神が宿っているということをイエスは認めて、「汝の内に宿っている汝の主なる神を愛すべし。」と、このように言っておられるのです。
その時まで弟子たちは自分の内に神が宿っているなんて知らないで、罪が宿っているくらいに思っておったのですね。ところがそうではないのであって、汝の神が、汝の内にあるのだから、それを愛すべし。とこういわれたわけなのであります。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここを拝読・謹写したとき、感動して、こみ上げてくるものがありました。
<つづく>
1348
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:55:53 ID:???
222 :復興G:2012/04/20(金) 18:54:00 ID:ojEbkDH2
<つづき>
次に感動したのは――聖典板<483>の後半で、八百半の和田一夫さんが「商売の競争相手を祝福して却って繁昌」したお話のところです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
> ……熱海の八百半デパートの和田一夫さんが、“八百半ビル”を建てて、始めは食料品ばかり売っていたのでありますけれども、去年から大きなビルの一部分に衣料品をあつかう衣料部をこしらえて、反物を売りだしたのです。ところが最近、八百半から歩いて五分間くらいの処に長崎屋という衣料専門の大デパートが建築を始めた。それが近く愈々開店するという事になったら、さすがの和田一夫さんも、衣料を主にした大デパートが自分の店から歩いてわずか五分間くらいの距離にできることになったら、そこへ自分の衣料部の客を取られるのは決まっている。それでどうしたら好いか。というので、一時非常に悩んだというのです。
ところが、和田一夫さんはやっぱり生長の家の信者ですから偉いですね。“与えよ、さらば与えられん”“祝福するものが祝福される”という根本法則を利用するより仕方がないと悟られまして、神想観をなさいますときに、その長崎屋が繁栄しているありさまを、心に描いて一所懸命に「長崎屋の繁栄」を祈ったというのです。そうして、いよいよ長崎屋のデパートが開店する日に、「長崎屋さん、開店おめでとう。八百半。」と書いた広告を四つの新聞に堂々と出して、長崎屋の開店を祝福してあげたのです。
そうしますと、その開店の日は自分の店の衣料部はいつもの売上げ高の三十パーセント減ったけれども、そのかわり、長崎屋さんは「開店祝い」の広告まで出して祝福してもらったので、沢山のお客さんが長崎屋になだれ込んで満員の盛況になったそうですが、午前中に長崎屋へ買物に出かけて行ったお客さんが、そこから歩いて五分くらいの距離ですから、帰り途に八百半の食堂の方へなだれ込んできて、その時には食堂が満員になった。その日、衣料部の売上げは減ったけれども、食料品の売上げの増加で、いつもよりもなお収益が多かったという結果が出て、競争相手を祝福してあげることによって自分の店も一層繁昌することになったのであります。
それから後も、また奇蹟が起ったというのです。あたり前ならば衣料品の方は長崎屋さんの方へ沢山お客が流れて行って、自分の店のお客は減ると思っておったら、そうではなくて、自分の方の店の衣料部も、これまでの売上げより増え、総売上げは今迄の三倍も増えて来て、今では長崎屋ができる時より繁昌しているというような話をなさいましたが、そういう風に“敵”とみとめられるものも、本当は“敵”じゃないのであります。およそ“敵”なんてものは“実相”に於いてはないのです。神様のおこしらえになった世界は、みんな大調和の「共存共栄の世界」なのであります。<
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ここを拝読・謹写しているとき、落涙してしまいました。
昭和39年の青年会全国大会は、5月3日から5日まで三日間にわたって、東京の台東体育館で行われ、谷口雅春先生の御講話はその間、5講話以上いただいたと思います。
<つづく>
1349
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:56:44 ID:???
223 :復興G:2012/04/20(金) 18:55:05 ID:ojEbkDH2
<つづき>
そうして聖典板<484>の結びのお言葉にありますように、
>すべての人間に“言葉の力”によって、本来ないところの“悪”を無いと宣言することによって消滅して、病気を治したり、人生苦をなくしたり、犯罪傾向を無くしたり、一切の悪を消尽して、皆なが「人間、神の子。互いに兄弟姉妹である」との自覚をもって互いに愛し愛されて、相愛協力の人類すべてが拝み合い、互いに力を合わして、みんなが栄えて行くところの地上天国を建設せんが為の、実際運動を起こすのが、生長の家であるというわけであります。皆さんは、そういう高い理想と、重大な目的との為に、ここへ集まって来ておられるのでありまして、自分だけが救われたらいいというような、けちな考えの人はいないわけなのであります。
さて、その為には、自分自身が神の子であるという事を悟らねばなりません。皆さん、十分、『生命の實相』を読み、真理を体得し、“国の柱”となり、“人類の救済者”となり、神が皆さんを人類光明化の選士として選びたもうた、その使命を忘れずに一路邁進、愛行に努力せられんことを希望いたします。<
と、切々と三日間にわたる青年会全国大会の烈々たる御講話を結ばれたのでありました。
今振り返ってみましても、涙がこみ上げる思いであります。
1350
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 11:59:41 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
WEB「榎本恵吾記念館」より謹写――
聖典『生命の實相』の中には、“物質なし”と書かれているのであります。これは、本自身が“私は無いのでありますよ”と言って無我になっているのであります。つまり、聖典『生命の實相』自身が、無我になって万物を拝んでいるのであります。“あなたはこの本を読んで神の子であることを自覚しなければ救われませんよ。”とは一行も書いていられないのであって、却って、“あなたはこの本を読まなくてもそのまま完全なのですよ”と、本がそれを読む神の子を礼拝しているのであります。尊師谷口雅春先生は、“現象なし、實相独在”を悟られたとき、「すべてのものが光り輝いて観えた」と書かれています。このとき、「尊師」となられたのであります。聖典『生命の實相』本論冒頭の第一行目には、「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いて、メタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。」と書かれているのであります。「生命の實相の自性円満」のところまでですべてのすべてが言いつくされているのであります。これを「自覚すれば大生命の癒力が働いて云々」ということは現象のことであって、無いのであります。自覚というのはあってみたりなかってみたりするのですから、それによって出て来たり出て来なかったりするのはまさに現象であって、無いのであります。神癒というのは現象であります。そのまま無いのでありますから、まぼろしのように現わして楽しむ現象芸術であります。
くり返しますが、「生命の實相の自性円満」だけがすべてのすべてであります。「自覚」も「大生命の癒力」も「メタフィジカル・ヒーリング(神癒)」もすべて現象でありましてそのまま無なのであります。尊師のお書きになられたこの第一行目には、“現象なし”ということが書かれていませんが、“現象なし”とお悟りになった尊師が、物質を完全に否定した上でお書きになっているのでありますから、第一行目全体が“無し”と自らを死に切って、實相が実在の輝きをそこに満たしているばかりであります。“物質なし”“現象なし”とは即ち、そこには実在のみが満ちていることを指し示しているのであります。
<全文>
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65566970.html
※ 『生命の實相』第一巻と併せてお読みくださいませ。
1351
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 12:00:44 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
吉田國太郎「往相精進の境を超えて」後篇
<ダイジェスト1>
現象に立つての努力は空しい。現象と實相と二つの世界に心またがりながら、現象の足りなさを嘆いての努力も空しい。それは恰も、神をいと郄きものとし、己を醜く低きものとして、神に到る勵みを勵んで行く愚に等しい。現象は元々そして今も無いものである。如何樣な姿に現はれてもをれ、それは無の一字に盡きるものでしかない。生き切れてゐない自分も無く、況んや、兩者の間に横はる溝も本來無いのに、何時しか無いものの變轉に心拉し去られてゐた愚かさ。無いものには整つたもなければ整はないもない。無いものは無いのである。如何にともあれ、現象は無いのである。何故此の空しいものに、實在の衣裳を着せて、實相の前へ曝さうとしたのか。總じて現象を捉へて、どうしたならば實相の完全なる如く此處も亦全くありうるであらうかと足掻いてゐた愚かさ。何故こんな解り切つたことに足を掬はれやうとしてゐたのであらうか。最近神に誠實でありたいとの心強く、實相が開かるれば現象は整ふのである。此處がより好く整ふことは神が生きて動くことである。整ふべきであり整へるべきである。どうか完全でありたい、神でありたい。此の真摯な心の前での躓きであつた爲に躓きを躓きと悟れず、寧ろ尊い一歩の前進であるやうに考へ違へてゐたことに氣がついたのである。ことさら深く落ちる危險が此處にあつた。神への誠實てふ美はしい心を抱いて私は地獄へ顛落しようとしてゐたのであつた。
<ダイジェスト2>
實相と現象との關係などと愚かにも考へた日もあつた。たつた今迄その心が残つて居た。然しこれは何と愚かしいことの沙汰ではなかつたか。實相獨在で現象は無いのに、どうして兩者の側に關係などがあり得るだらうか。關係などと考へる間は未だそれは現象無しが悟り切れてゐないのである。現象が死に切らずふらふらしてゐるから兩者の關係などと躓くのである。魂が目を覺ますこと。現象が死に切つて、其處へ實相が生れ出づること。完全のみがある、そして不完全はない。善のみがある、そして善でないものは無い。芿めあげなければならない自分は無く、勵みに依つて完全にしなければならない自分も無く、實相の完全さをみて未だ到り得ないことを歎かなければならない自分もなく、今あるやうにみえてゐる不完全なものは幾らあるやうに見えても全てなく、そして今既に始めから完全なる神と通ずる自分のみが此處にあり、それ以外は何も無く、吾らは始めから成佛して居ると諭されて居たのであり、神一元、佛一元で、それ以外は無いのであると知らされて居たのであつた。これを悟ることによつてのみ吾等は神であり、佛であり、完全であり、芿くあり郄くあり得るのであつて、それ以外には道は無いのである。悟ること。新たに生れること。誠にも、人新たに生れずば神の國を見ること能わず、である。
<「往相精進の境を超えて」全文>
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65585101.html
※ 『生命の實相』第一巻と併せてお読みくださいませ。
1352
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 12:01:48 ID:???
(
>>1350
追加文章)榎本恵吾先生ご文章――
よく「宗教は弱いものがたよりにするものであって、強いものには必要がない」と言われる方がありますが、ある意味では、それはまことによく「自性円満」の神の子の言うべきことであるとも言えるのであります。何をも外から必要としない、「自性円満」なのが神の子人間である訳でありますから、神の子人間は、やはり何ものからか助けられることを嫌悪するように出来ているのであります。
この意味では、生長の家は、神の子である、自性円満なる實相のほかは何ものをもみとめないのであり、宗教さえも必要ではないと言っているのであります。生長の家も、何かを神の子につけ加えるという意味では必要はない、と言い切っているのであります。ただただ、すでに自性円満なる神の子の姿を讃え、拝むために、生長の家の聖典があり、講話があるのであります。それですから、生長の家という宗教が自ら姿を消して、無我になっているのであります。そして、天地一切のものを「完全円満なり」と拝んでいるのであります。これから完全にしてあげるというのではないのであります。
1353
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 12:04:58 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
>>1352
までが既投稿文であります。以降は「部室2板」未掲載の参考資料を
投稿して参ります。
なお、云うまでもないことですが、参加各位に於かれましても参考資料、この
投稿を強くお勧めする次第であります。聖典拝読時の問題意識、これが変化して
参りますのでこの体験を皆さまにも、味わって頂きたいと考えるゆえであります。
それではよろしくお願い致します。
拝
1354
:
神の子さん
:2012/04/22(日) 12:06:55 ID:tEFQwaPU
元モー娘。加護ちゃんついにAVへ
http://yorutomo1.blog77.fc2.com/blog-entry-1214.html
1355
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 12:18:05 ID:???
>>1354
神の子さま
さっそくの妨害行動、誠にありがとうございます。いやーやはり、メールで寄せられた
注意報ですが「マジだった?」てな感じです。
WEB誌友会はそんな、工作員の方も大歓迎であります。加護ちゃんもよいですが、まあ
たまには『生命の實相』、これを拝読されるのはいかがでしょうか。
追伸
ちなみに昨日の「報道特集」ですが、合同結婚式という話を放映しておりました。
なんていう宗教か忘れましたが、まああの宗教、素晴らしいですね。なにせ教祖が
結婚相手、探してくれるシステムとか。婚活よりも宗活、そんな時代です、はい。
1356
:
うのはな
:2012/04/22(日) 12:29:01 ID:El6gIMAw
> 婚活よりも宗活そんな時代です、はい。
こんな話のどこに根拠が在るのかわかりません。
訊け氏は自分のブログに来たメールのことでひとり盛り上がってるみたいですが、
また、うのはなさんではないから安心してと書かれていましたが、あなたのブログコメント欄を
見ると、人のことを統一教会ときめつけたかのように書く人がいたり、投稿を誤読する人なだが散見されますから、
一応ここの掲示板で混乱を招かないために書いておきますね。
わたしは訊け氏にこれまで個人メール出したことはないし、上の妨害行動をしたのも
わたしではありません。あしからず。
1357
:
うのはな
:2012/04/22(日) 12:30:17 ID:El6gIMAw
256 :ユタカ(なせば成る我ハ神の子):2012/04/21(土) 21:35:32 ID:Se9jErLg
>なお一点だけ業務連絡など。
私とトキさんにケンカを売ってそして、その後「ほーら見ろ!和解なんてできないじゃん」・・・・そういうことを言いたい方がいらっしゃるそうです。(メールですがw)誌友会大盛況だからなのかもしれませんが、まあ、近々おもしろいことが起るかもしれません。その方々のためにもこの部室板、空けましょう。ええ、TSB板への誌友会移転、大賛成です(笑)
訊けさんへ、、、すみません、内容がよく理解できないのですが??
何か妨害があるのですか? 個人的に返答しないで、WEB誌友会にお誘いしてそこで発言して頂いてはどうでしょうか???
違いますか? 意味が分かってないので・・・すみません・・・
1358
:
うのはな
:2012/04/22(日) 12:32:18 ID:El6gIMAw
271 :志恩:2012/04/22(日) 01:12:30 ID:.QY5jUA6
訊け君
「婚活」ならまだしも「結婚できない女にありがちなこと」なんて話題は、最低な話題です。
もう、やめた方がいいのでは。。。
そのようなことを、いつまでも、くどくど言ってると、訊け君の品性が,疑われてしまいますよ。
私とこの子供たちは、さっさと結婚しましたけれどね、今の時代、結婚できないのでなく、自分の意志で、しない人が
溢れているそうですね。
結婚しようと、しまいと本人の自由です。ご縁もあります。いくつになっても、巡り逢いのチャンスはあるものです。
いくらムカつくからといって、毎日、うのはな様に向かって婚活、婚活と言い続けていては、
訊け君らしくありませんよ。いとしの訊け君らしくなってください。
私は、うのはな様とは女同士ですので、うのはな様の幸せを祈っています。
1359
:
うのはな
:2012/04/22(日) 12:33:52 ID:El6gIMAw
1325 :水戸黄門:2012/04/21(土) 12:51:59 ID:???
ちょっと見かねたので言わせてもらうと、訊け君というのは調子がいいね。
段取り、下準備をユタカ氏にやらせ、その他にも多くの人が準備に参加した誌友会に
さっそうと登場。 閉会時間も決められずにユタカ氏にうながされ、苦情が無かったと喜ぶ。
ユタカ氏は人間が出来すぎておられる方で、訊け君の悪口は書かないで全部自分がかぶると言われる。
次回の段取りも、殆どがユタカ氏がやっているにもかかわらず、その経過を確認すらしない。
年配者の忠告にも耳を貸さず、バカ笑いをして聞き流し女の子イジメだけは続けている。
調子がいいというのも才能だが、面白く思っていない年配者もいる事を知らせておく。
1360
:
うのはな
:2012/04/22(日) 12:36:08 ID:El6gIMAw
「訊け・管理人」さんは本当の「生長の家」ではないのでは? (6238)
日時:2012年01月20日 (金) 22時08分
名前:東京大田区の中小企業経営者
あの方は、「生長の家」に関するブログを出していますが、本当の「生長の家」からズレているのではないでしょうか。
いつまでも女性と喧嘩を続けていますが、ふつうの「生長の家」の人間ならば、
「なぜいつまでも争いが続くのだろうか。自分の心が現れているのではないだろうか。」と最初に考えるはずなのに、結局そのような考えはしない、理解できないようです。
また以前、この掲示板の管理人さんに絡んできた時もそうでしたが、今も「大調和の神示」を錦の御旗にして「本流」に戦いを挑んでいます。ご本人が書いたイラストには、馬に乗った軍勢が前進する絵がありますが、その軍勢の上り旗には「大調和」「和解」などと書いてあります。
数十年前の新左翼過激派が「平和」を大義にして機動隊と争い、さらには内ゲバにまで進んでしまった事とどこか似ています。
また、自称「経営者」も不可解です。
「よくあれだけの時間をブログや掲示板のために取れるものだ。」と驚くだけでなく、そもそも彼のような物の言い方をしている経営者を私は見たことがありません。
「あまりにも軽い」ではありませんか。本流にカルトや暗い勢力が入っていると聞くと、「どれどれ。」と、さっそく出てくる。それもあの人自身が噂を振り撒いたような節があります。
私ならば彼の会社とのお付き合いは、体よくお断り申し上げます。というよりも、本当に「経営」をなさっているのか、どうも不可解です。
1361
:
うのはな
:2012/04/22(日) 12:56:47 ID:El6gIMAw
生長の家聖歌隊チャリティーコンサート
http://youtu.be/tU84ZQaXaDE
1362
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 14:33:28 ID:???
>>1358
〜
>>1360
貴重な投稿をありがとうございます。
うのはなさまご投稿文も、WEB誌友会用の資料の模様です。みなさま、ぜひご拝読ください。
合掌
1363
:
うのはな
:2012/04/22(日) 14:46:13 ID:El6gIMAw
訊けさん、あなたの攪乱混乱ぶりを表示するために載せたんですよ。
素知らぬ顔で、うのはなが妨害してるかのように印象させる手口はさすがですね。
トキ管理人様、1358,1359、1360 は削除をお願いします。
1364
:
うのはな
:2012/04/22(日) 14:51:54 ID:El6gIMAw
280 :うのはな:2012/04/22(日) 09:16:33 ID:El6gIMAw
すみません、勝負事のような誌友会に出席しないのに口出しするのをお許しください。
訊け氏はユタカ氏が意味不明だ、トキさんにわかってもらえばいいという話しから
結婚情報サイトまで、お気に入りキャバ嬢に会えなかったせいかひとりで興奮していたみたいですが、
なにやら怪しげな人たちのために部室版をあけておいたほうがいいとか仕切っていますね。
でも、心配したら心配したとおりになるという教えもありますし、物議をかもしだすような
余計な詮索、妄想などは控えたほうが、みんなのためになるのではないかと思います。
水戸黄門さんも、上記のような訊け氏の動向をみて心配して注意してくれたんだと思います。
そんなことに場外じゃなくて誌友会に出席して発言するようにと促すのは筋ちがいかと思います。
前回の誌友会が無事に終了したように、次回も滞りなく行われるように祈っています。
ユタカさんの開会前のおいのりも素晴らしかったですね。
ご成功を外野から応援しています。
如月さんも、お心遣いをいただき、ありがとうございました。
1365
:
うのはな
:2012/04/22(日) 14:53:29 ID:El6gIMAw
287 :「訊け」管理人:2012/04/22(日) 10:33:53 ID:???
>如月さま
一点だけ述べますね。
>うのはなさまは、誌友会の妨害なんて事はされません。
ブログ読者に女子大生がおります。彼女は誌友会参加を表明しておりましたが、
結局姿を見せませんでした。
以上です。
恵美子先生に拳銃をつきつけた、「訊け」管理人
合掌
1366
:
うのはな
:2012/04/22(日) 14:58:42 ID:El6gIMAw
わたしは訊け氏の昔の投稿で、聖典や恵美子先生や拳銃が出て来る話を
詳細は覚えていませんが、そんな言葉が書かれている記事などを読んで、
聖典でも誌友会でも勝負事みたいだと印象を述べたことが有りますが、
すると、ぼくが拳銃をつきつけろと言ったみたいだとか、創作苦情はやめてとか
なんだかんだと絡まれたので、もう面倒くさい議論はいやだから、管理人さんに削除してもらおうと
思っています。上で、「拳銃をつきつけた」と訊け氏が書かれているのはデマですから、
みなさまは本気にしないでください。
1367
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/22(日) 17:35:31 ID:J2hOH0ZI
金木犀様、
>1338の レス 今の教えと本流復活2の 297 につけました。
遅くなってすみません。 時間をとってしっかり読みたかったので、今になりました。
1368
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 17:54:28 ID:???
>トキ理事長
ええっと・・・・WEB誌友会会場は、ここで間違いなかったでしょうか。
ええっと・・・そろそろ誌友会用の資料、これを掲載したいんですが・・・・
1369
:
「訊け」管理人
:2012/04/22(日) 18:05:50 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
『生命の實相』第11巻149頁より謹写――
實相一元、光明一元、迷ひも闇も本来存在しないといふ極めて明るい朗々たる人生観が生長の家の特徴なのであります。この迷ひと云ふものが無いといふ事に就いて、昨日、吉田國太郎さんといはれる方が生長の家の本部へ来られて、御自身の悟りに就いて大変良い話をされたのであります。
この方は腎臓結核と睾丸結核とを患つてをられて、そうして一方の腎臓を切り除つて了つて片方の腎臓も悪いとかいふ話を聞きましたが、さういふ状態ではもうわるいのを切り捨てるわけにも行かないわけであります。此の吉田さんが『生長の家』の信徒になつて『神想観』をしてをられると、その病氣を治すやうな自動運動が起つて来ましたが、少しよくなつても、なかなか完全によくならない。それでその方が『これは自分の心に迷ひがあつて、それに引つかゝつてゐるからだらう』と氣がつかれて、その迷ひを摧破するために、『久遠の實在』を繰返し繰返し讀んでをられた。すると、忽然として『迷ひといふものは何もないのだ。それはからつぽである。』と判つた。
忽ち病氣ところが聖典を繰返し繰返し讀んでをられる中に『迷ひといふものはないものである、病氣も経済難もないものである、この世界は神一元の世界である。佛一元の世界である。』といふことがわかつたと斯ういはれました。神一元、佛一元の世界である。だから、迷ひも、病氣も経済難もそれは『からつぼ』である。 『からつぽ』で何もないものの別名が病氣であり、経済難であり、迷ひである。ないものであるから、ないものの中には何でも自由に入れられる。こんなやさしい事はない。迷ひといふ實在のものが既に這入つてゐる中へ悟りといふ水を入れるのだつたら幾ら入れても流れ出てしまふわけであるけれども、『迷ひ』といふものはからつぽである、『からつぽ』といふ事を言ひ換へたのが『迷ひ』である、『からつぽ』といふことを言ひ換へたのが病氣である、『からつぽ』といふことを言ひ換えたのが『経済難』であるといふことがわかつた。さうしたら悟りを入れるのは何でもなくなつたのです。
がズンズンよくなり、よくなるに従つて、病氣を治すための自動運動もなくなつたさうでありましたが、昨日その報告をなさる時に、『迷ひと云ふものは何もないのだ、からつぽであると判つた』と『からつぽ』といふ言葉をお使いになりまして、非常にその『からつぽ』といふ言葉が吾々の心に『迷ひの無』を如何にもハッキリと、言ひ現して呉れたのであります。この方は今まで『迷ひ』といふものがあると思つて、この迷ひを如何にして征服しようか。―― 『茲に経済難といふものがある、茲に病氣と云ふものがある』――斯う思つてゐる限りに於いては、却々自分に封立してゐる迷ひなり、病氣なり、経済難なりが実在性をもつて自分の前に立つてゐるから、それと取組み合ふことになつてゐた。それでどうしても、自分は神である、佛である。経済難はない、迷ひもない、病氣もないと斯う思つても、自分の自覺が相封を離れることが出来ないので、『迷ひは無い』と一應は思つてもあるやうな氣がしてどうしても、そいつを打破ることが出来なかつた。
今まで、病氣がある、あると思つてゐたのが『あゝこれはからつぽの別名であつた』と氣が附いたときに吉田さんの病氣は治つたのであります。経済難の方はどうなつたかと云ひますと、吉田さんはまだ就職をしてをられないのでありましたが、その人を非常に同情して生活の世話をして下さつてゐる方が、吉田さんが悟りを開いて、『経済難はからつぽである』と氣が附いたら、世話をしてをられた方が、急に二十五円も月給が上つて、今まで主任であつたが次長に上つた、と斯ういふ具合にその方の経済難が補はれたといふ風な話をされました。
(関連動画)
●【動画】吉田國太郎先生のこと(榎本恵吾先生ご講話)
http://www.youtube.com/watch?v=iTR61yg86Bw
1370
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/22(日) 18:21:19 ID:J2hOH0ZI
訊け様
訊けさ〜〜〜〜〜ん
勢力的な書き込みをありがと〜〜〜〜〜ぉ!!!!
勇気をもらったよ〜〜〜〜〜〜ぉ! 本当に生長の家の教えは素晴らしい!!!
もうチョット行間をあけてくれたら読みやすいなぁ・・・・ そんだけは言わせて。
1371
:
うのはな
:2012/04/22(日) 19:17:09 ID:El6gIMAw
訊け氏は自分がわずらわしくなると他の人やトキさんを利用しているみたいですね。
長年組織会員に対しては徳久先生や雅春先生の女性向け聖典を引用し、
嫌がらせのようなことをいい、元本部職員や白鳩さんなどの苦言は聞き流し、
どこの誰だかわからない女子大生などが誌友会にこなかったらそのことを
神経質に問題にし心配する。
前回出席されていた白鳩さんが「もう参加しない」といっても平気のチャラチャラ。
ここを初めて御覧になる方が、真の生長の家男性信徒が、みなこんなものだと
思い違いをしないことを願います。
1372
:
うのはな
:2012/04/22(日) 19:21:38 ID:El6gIMAw
名前:トキ 投稿日: 2012/04/21(土) 23:23:48 ID:0o.pZHMY
昨日の朝日新聞の夕刊に、地球が寒冷化している、との科学者の調査結果が出ていました。
本流掲示板の投稿者様が見たら、喜びそうなネタですね。(笑)
総裁ご自身は、地球的な規模で考える、という意味で、温暖化の問題をとらえられたと思い
ますが、しかし、科学者の知見で信仰が右往左往するのは、自分は考えてしまいます。結果的に
地球温暖化に疑問符がつき、次に生長の家の信仰のありかたに注文が来る事になります。
そもそも、信仰を具体的に、どう実現するかは、各人の判断に任せるべき問題だと思います。
その上で、組織や運動として、矛盾があれば、議論をすべきだと思います。その議論の仲裁者と
いうか、主宰者に総裁がなられたらよいのではないか、とかんじました。
今はネットがあります。ネット上での会員同士の議論が深まれば、多角的な視点が広まり
運動も幅が出るのではないかと思います。
1373
:
うのはな
:2012/04/22(日) 21:45:52 ID:El6gIMAw
訊けさんへ
誌友会場はここになっているみたいですから、次回からいちいち確認しないで
参考資料など掲示してください。 他人の時間節約のため。
1374
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 05:38:36 ID:???
ええっと・・・・WEB誌友会会場は、ここで間違いなかったでしょうか。
1375
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 07:13:41 ID:T2l6C5DY
うのはなさん、ご心配やアドバイスを有難う御座います。
こちらも慣れないのでご迷惑をおかけします。それと、いつも素晴らしい聖典引用版のご投稿を読ませて
戴いています。 こちらにも何か資料になりそうなものがありましたら、ぜひよろしくお願いいたします。
今、話題の住吉大神の”両刃の剣”(もろはのつるぎ)ですが ”護国の神剣”を 貴康氏が運ばれたのですね。
今も近くに住まれていると言うことは、守護ってくれているのでしょうね。。これは自分の想像です。
1376
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 07:35:03 ID:GMctEx5M
資料 聖典版
迷いの暗を切り光を現わす真理の神剣の働き
『生命の實相』第一巻の開巻冒頭に、“はしがき”よりも、目次よりも、尚、
その前の頁に、新約聖書の『黙示録』の第一章にある白髪の翁の姿をもってあらわれた
「久遠のキリスト」の姿が描写されているのである。「何故、生長の家はキリスト教ではないのに、
キリスト教聖書の一節を、『生命の實相』第一巻の“はしがき”よりも目次よりも尚前に引用して提出
してあるか」といいますと白髪は久遠の表象であり、キリスト教に於いては“生長の家の大神”は白髪の
久遠神(ユダヤ人のイエスではない)としてあらわれていられるからであります。その白髪のキリストの御姿の
描写の中に「その口より両刃の利き剣出で」と示されている。
これ真と偽とを別ち美と醜とを分別し、善悪を審く、最後の審判の神剣なのである。善悪・美醜を審判する“秩序の智慧”が
神であり、その神剣によって悪は切り棄てられ、偽は葬られ、本来無いのに姿をあらわしている病その他一切の醜きものは切り棄てられて
地獄の火の杭に投げ入れられ焼きほろぼされて、真なるもの、美なるもの、善なるもののみがそこに住吉の世界が地上天国として姿をあらわすのであります。
もし、この真と偽とを分ち、真なるもの、善なるもの、美なるもののみを顕わし、これに反するものを切り棄てるハタラキが発動しなければ天地は完成しないのであります。
この真偽を分ち、美醜を区別し、善悪を審判するはたらきによって、天地は一新するのである。
『黙示録』第二十一章にはこの事が明らかにされている
『我また新しき天と新しき地を見たり、これ前の天と地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。我また聖なる都、新しきエルサレムの夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、
天より降るを見たり・・・見よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、かれらの目の涙をことごとく拭い去り給はん。今よりのち
死もなく、悲嘆も、号叫も、苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり・・・斯くて御座に坐し給ふもの言ひたまふ「視よ、われ一切のものを新たにするなり」....』
これが、“両刃の剣”のはたらきであります。“剣”は“片無”(刀)ではないのであって、敵を切るために、敵に向う一方にのみ刃がついていないで、自分に向う側にも刃がついていて、真ならざるもの、
美ならざるもの、善ならざるものがあれば自分を切るのが、剣のハタラキであります。
これが地上に平和をもち来らし、最後の審判によって、新しき天と地とをもち来たす住吉の世界を創造する神剣のはたらきである。
参考につぎに『秘められたる神示』の中に収録せられている『最後の審判の神示』を再録して、両刃の剣のハタラキを明らかにする。
生長の家 誌 昭和53年11月号 谷口雅春 先生
1377
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 07:39:46 ID:GMctEx5M
うのはなさん、、ありがとうございます、こっちに貼りました。
すごくサンキュー! WOW!! 喜んで・・WOW!!
一人 EXILE やってます!!
これからもよろしくお願いします。。。
1378
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 07:59:36 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
『神と偕に生きる真理365章』250項より謹写――
神われに語りたまう詩――
神はわれに語り給う
あなたが私を必要とするあらば
わたしは既にあなたの其処にある
あなたは私を見ることはできないが
あなたは私の光によって万物を見ることができるのだ
あなたは私に触れているとは知らないが
わたしはあなたの手の中で働いている
どんな方法で私があなたの中で働くかを
あなたは理解することができないが
わたしはあなたの中で働いている
あなたは私をみとめることはできないが
わたしはあなたの中で働いている
わたしは単に不可思議な霊象(れいしょう)でもなければ
神秘的な存在でもない
ただ絶対の寂静(じゃくせい)である
自我を去れ その時に
あなたは、私が〝本当のあなた〟だということがわかるのである
それはただ感じるのだ 信仰だ
しかし其処に私はいる
私は聴くことができ、答えることができる
あなたが私を必要とする時に
わたしは既に其処にある
たといあなたが私の存在を否定しようとも
わたしは既に其処にある
たといあなたがどんなに孤独の感に襲われるときにも
わたしは常にあなたと偕にある
わたしはあなたの父であり、母である
常にあなたと偕にある
わたしは愛であり、愛そのものである
あなたが愛するとき
わたしは常に其処にある
わたしは平和であり、何人(なんぴと)も憎まない
たといあなたが憎しみの感情を起こしているときにも
わたしはあなたの内にあって
その敵でさえも愛している
わたしは平和であり
其処に戦いが演ぜられているように見えているときにも
此処に無限の平和がある
あなたがわたしの内に深く沈潜して来るとき
其処には常に無限の平和が用意されている
あなたがわたしを信じない時にも
わたしはあなたが〝神の子〟で、
かならず立派なものであることを信じている
目覚めるがよい
あなたの〝神の子〟たる実相に
あなたの信仰がグラツクとも
わたしがあなたを信じる信仰は
決してぐらつくことはないのである
1379
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 08:18:03 ID:???
前回誌友会にて「前座」を行いました。その際のご文章をこちらに掲載致します。
直接にはないとはもうせ、間接的に関連するテーマだと考えます。よろしくお願い致します。
(前座にしては高度な吉田國太郎先生・・・・「七つの燈臺の點燈者の神示」について)
『常樂への道』162項より謹写――
郄く廣く大いなる神の御言葉――汝等天地一切のものと和解せよ、との七つの燈臺の點燈者の神示。此處に神がましまし、萬教の眞髄がこもる。天地一切和解とは絶對感謝である。有無を云はずに無條件感謝である。其の儘感謝である。これが甦りの生命である。神の子となるとは絶對感謝の誕生である。有難いといふ心の無い處には神は居ない。絶對感謝の無い悟りは悟りの幽靈であるにすぎない。天地一切和解とは絶對が誕生することであり、絶對にまみえることである。絶對感謝の中で血を喀くならば血を喀くことも結構である。血を喀きつつも絶對感謝にかへれば、眼の鱗は落ちて其處に其の儘佛を發見する。其の儘の其の姿も有難い淨めの姿とわかる。此の世は絶對であり絶對の現れであるから、此の世には創(はじめ)から惡は無いのである。此の世には神と神の顯れ以外無いと天下つてゐるのである。それ以外は何も無いのである。如實にあるものは絶對感謝に價するものばかりなのである。
御心に病氣は無いから病氣が現はれてをらうともそれは無いのである。病氣とみえるものは、それがあるのではなく御心が現れてゐないと云ふことである。御心が現れてゐないから何も無いのである。其處は空無である。病氣無しである。病氣の其處を空無と斷ち切り、一切現象空無と斷ち切り、じつと心をとどめれば、病氣とみえる處にも健康なる生命の營みが動いてゐる。それ以外其處に生きて動いてゐるものは無い。痛みも苦しみもみんなその營みの現れである。かく拜みかく觀ずる時誰も病氣などしてゐる人はない。其の儘に健康なる人が生きてゐるばかりである。とつてもつてかく拜みかく觀ずる時、裟婆は其の儘寂光上であり、此の儘が光明一元、神一元である。其處に起るもろもろの物事は、それが其の儘正法の現成されて行く大法論がめぐる響きである。神は惡魔と戰ひつつ次第に惡魔を征服して神の世界を現成して行きつつあるのであると此の世を觀じた思想家もあつたが、それでは病氣の存在を認めて生命力が次第にそれを征服して、やがて健康なる姿を現成すると云ふことにもなるのであり、神の生命が絶對の王座からはかなくも相對の世界へ轄落してゐる。目覺めて觀ずれば、此處には神と神の現れ以外無いのである。
神は未だかつて惡魔と戰つたこともなく、生命は未だかつて病氣と相撲をとつたこともない。此の意味に於いては神も生命も寂然として靜かなものである。惡魔は無いものであり、病氣も無いものであり、無明も業も無いものである。征服する相手も無しに一人寂然たる中に生命は其の雄渾なる營みを績けてゐるのである。此處で私達は神の御言葉を信じて五官の囁やきを信ずることをしてはならないのである。これこそ恩師より賜りたる深き有難き救ひの御手である。神と神の顯れ、完全なるものと完全なるものの顯れ以外は無い。神をしばるものはなく生命をしばるものは無い。唯神が其の儘に何ものをも征服せずに、己れ自からを現成して行きつつある大法輪の響きこそ、今此處にある響きである、此の世の誠の姿である。そして此のことが、此の自分自身のことであつたと悟らせて載くことが救はれることである。それは此の世のことであると思ひ、此の世の中はそんなにも素晴しいのかと讚嘆出来ても、それが其の儘自分自身のことであつたと氣がつかねば救ひは成就されないのである。
神と神の顯れ、完全と完全の顯れ、實相と實相の顯れ以外何一つない世界であれば、天地一切和解する以外に道は無いのである。これは人間として至極富然の道であり、價値の深さよりみれば至高至美至善の道である。これも私にとつては自分一人に説き聴かされた道であり、自分自らの自戒の爲に書きしるす言葉である。此の世の眞實に到る時絶對感謝が生れてくる。絶對感謝に甦る時、此の世の眞實がみえてくる。 一つは道元の歩んで行つた道であり、 一つは親鸞の超えて行つた道であつた。そしてこれら二つを一つにした甦りの道が吾等の行ずる神想觀である。神想觀は絶對感謝の行であり、此の世の眞諦をあきらめる行でもある。
1380
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 08:37:50 ID:???
以下も前回誌友会にて使用した「前座」ご文章です。その際のご文章をこちらに掲載致します。
直接にはないとはもうせ、間接的に関連するテーマだと考えます。よろしくお願い致します。
(藤原敏之先生に「前座」をお願い申し上げる、不届きな私w)
●WEB誌友会「前座」
『救われ済みの人生』(藤原敏之著書)132項より謹写――
『生命の實相』には、こう書いてあります。頭注版第一巻79項、「真理はなんじを自由ならしめん」というところで、<<「生命」自身の力で治すには>>と書いてあって、神様頼んで助けてもらうとは書いてないのです。生命自身の力でなおすにはと言うように書いてあるところが生長の家の違うところです。生長の家の神様におすがりして助けてもらうとは書いていないのです。
<<生命とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません>>本当の自分とは何者かということです。<<表面(うわつら)の心で知るだけではなく>>と書いてあってここで心に二通りあるということに気がつかなければなりません。みんな心というものは一つだと思っている。ところが心は二つあると書いてある。<<奥底の心で知らねばなりません>>つまり、目が覚めているときだけ働く心と、寝ているときも忘れているときも働いている心があるのです。そのもう一つの、自分でも気がつかないでも働いている心、これを潜在意識というのですが、その奥底の心で知らねばなりませんと書いてあります。
その次に一番大事なことが書いてある。<<「生命とは神の子である」―― 一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。本当これがわかれば自分で自分をなおすことができる>>と書いてあります。神様にすがってなおしてもらうとは書いてないのです。本当に自分が発見すれば、勝手に変わると書いてあるのです。
<<病気だけでなく>>と書いてありますからご安心ください。経済問題も入っている、夫婦げんか、子供の問題、結婚の問題は入っている、<<境遇でも運命でも自分で治すことができる>>と書いてある。神様の力を借りて治すとは、どこにも書いてないのです。その次には治すんではないと書いてある、<<真理を本当に知ったときひとりでに治っている>>と書いてあります。どうかして、どうかしてと思うのは大間違いです。一人でというのは、なんもせんでもということです。今まで通りで変わるということです。目が覚めた途端に、夢から夢でない世界に変わるということです。だから、悪いからどうしよう、悪いからどうしようというのは、もうやめた方がいいのです。
1381
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 15:40:49 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
「七つの光明宣言」第一条に関し。
▽吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんこと期す
『美しき日本の再建』11項より謹写――
<明治日本の精神>
明治日本の精神というのは、非常に質素で、質実剛健であったのであります。本来、日本人の物の考え方というものは、質実剛健なのである。吾々日本人は、よく〝もったいない〟という言葉を使うのでありますが、〝もったいない〟というのはね、〝物体無い〟であります。〝物〟という字は、〝物〟(ぶつ)とも読むけれども〝無一物〟とか〝無一物中無尽蔵〟とかいう言葉もありますが、この〝物体無い〟ということは、一切のものは〝物体(ぶったい)ではない〟という言葉でありまして、生長の家の教えの説く〝物質無し〟という真理を表現しているのであります。
<日本人は〝一切は単なる物体ではない〟と観た>
吾々日本人は、お米でも、御飯でも、あるいは野菜の一枚の葉でも、悉くこれは〝物体じゃないんだ〟と、神様の生命がここに姿を現しているのであるから大切にしなければならないという精神で〝もったいない〟と言ったのであります。
古来、日本人はこのような精神で生きて来たのである。ですから吾々子供の時分――それは、むろん明治時代だけれども、御飯を一粒落としても、その一粒の御飯を、足で踏む汚い畳の上どころか、お便所の踏み板の上に落としても、それを丁寧にひろって拝んで頂いて食べたものであります。その時代には、黴菌を恐れる思想みたいなものはなかった。明治時代には既に病原体と、黴菌の存在は知っていましたけれども、恐れられたのは、ペストとかコレラとかチフスの病菌だけであって、そういう流行病でないかぎり、お便所には大腸菌がいるとか、それが病源になるとか、そんなことは考えなかったのです。そこに落ちているお米、御飯は、これは神様の生命の現れである、物体(もったい)ない、〝物体(ぶったい)じゃないんだ〟と言う感じで、便所の踏み板に落ちている一粒の御飯でも拝んで食べたものなんであります。(注・普通は〝もったいない〟という語は漢字で「勿体ない」と書きます)
こういう精神が、日本の国民を質実剛健に育てて来た。そして日本が明治時代に大きく飛躍した精神の基礎工事になっていると思うのであります。
<いのちを拝むという意味>
谷口輝子先生の本に『いのちを拝む』というのがありますが、この〝物体ない〟という気持で一切のものに接する事が〝生命を拝む〟という事なんであります。すべてのものがただの物質だったら、いのちを拝むということはないわけです。〝物質じゃない。物体ないんだ〟と、「これは物質じゃない、物体じゃない、神様の生命がそこに現れているのである」というのが古から伝承して来た日本人の思想である。そして一切のものをことごとく神の生命、如来の生命の現れであるとして拝むところの崇高にして謙虚な精神をもって生きて来たのです。そこへ仏教が入って来て、釋迦牟尼世尊の悟りの言葉等が伝えられ、〝山川草木国土悉皆成仏〟という思想が入って来た。山も川も草も木も国土も、悉皆、ことごとくみな成れる仏(すなわち仏のいのちの現成)であるという釈尊の悟りであります。天地一切のものは、すべて是れ仏の生命の現成である。肉眼で見れば物質と見えているもの、鉱物と見えているもの、山も、川も、国土も、植物と見えている草も木も、ことごとくこれ如来の生命の現れなのだという悟りが仏教として入って来たのですが、この考え方は、日本人がずっと『古事記』が編纂される時代、否、それよりも古く神話の時代から伝承されておった日本的思惟であります。それが仏教が入って来てなお一層それがはっきりと、説明されるというようになって来たわけなんであります。
1382
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 21:08:09 ID:???
<WEB誌友会・参考資料>
最近再読して、感銘を受けたご文章です。『生命の實相』第一巻とはあまり関連はありません。しかし、なぜ敢えて、誌友会用の参考資料として掲載するのか?その理由を今から説明致します。
『生命の實相』では雅春先生、よく「神に全托せよ」と言われます。しかしなぜ人間は、この「全托」がなかなか出来ないのでありましょうか。そしてその、なかなか全托出来ない人間という存在を、どうして神は「地上へ遣わした」のでしょうか・・・・
なかなか出来ない「全托」ですがそこには、ある意味が込められている様子なのであります。その辺りの消息を雅春先生、もう、素晴らしい喩えを以てご解説くださっておられます。ぜひ
>>1383
をご拝読ください。
拜
1384
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 21:14:04 ID:???
生長の家『白鳩』 昭和42年5月号より謹写――
神様は最初に天地の萬物をつくって、それを支配する最高の存在として人間を〝神の子〟として造ったのです。人間は、神の全能を、自己の内に宿らせて、それを内に秘めつつ、その全能を自分の働きや仕事を通して徐々に顕わし出すように設計されているのです。それについて、こんな神話があります。
或る日、神は人間を彼の許に呼んだ。神様のテーブルの上には二つのコップがあった。一つのコップには「めぐみ酒」という葡萄酒のような赤い酒が這入っていた。もう一つのコップには「努力」と書いたレッテルが貼ってあり、日本の清酒らしく琥珀色の透明な酒がそれに這入っていた。神様は、人間に対してこう言った。
「お前もいよいよ大人になった。そして自分の人生を創造るために働きに出るのであるが、その前にお前と別れの盃を交わしたいと思う。この赤い方の酒は<めぐみ酒>という葡萄酒だ。これを飲むとよい気持ちになる。そして何でも他力にまかせ切ってやすらかに眠い気持ちになるだろう。この琥珀色の酒は<努力>という日本酒だ。これを飲むと内部から力が涌いて来る、他に頼まないで、〝何でも自分の力でやるぞ〟という勇気が涌いて来る。お前はどちらの盃(コップ)を飲むかね。残った方をわたしは飲むから、好きな方を飲みなさい」
神様にこう言われて人間は考えました。皆さん、あなたならどちらの酒を飲みますか?
人間は「めぐみ酒」と「努力酒」の二つのコップを見詰めながら暫く考えておりました。彼は〝この世界〟は神が労苦し努力してこの世界を創造り、人間にこの世界を贈物とせられたのだと思いました。
彼は神様の顔を見ました。神様は白髪で白髯で、額には三本の深い皺が横にきざまれており、その世界創造の努力のほどが窺われ、既に老いておられるように人間には見えたのでした。「併し、自分はまた若く元気で、精力旺盛で、生き生きしている」と人間は考えました。
「だから、この〝お父さん〟ともいうべき神様のお世話にばかりになって、〝めぐみ〟の受けっぱなしでは申し訳がない。私はお父さんを助けるために努力しなければならない」と彼は考えたのです。そこで人間は「めぐみ酒」を手にとらないで、「努力」というレッテルが貼ってある日本酒をグッと飲みほしました。
すると、神様は「めぐみ酒」のコップを手にとって、その一半を自分で飲みほすと、あとの残りを、人間の頭の上に潅ぎました。そして「私はお前を祝福する。お前は神の子である。努力を重ねて、お前の中に宿っている無限を搾り出すがよい。お前の力が尽きて、くたびれたと思うときには、この『めぐみ酒』がお前の力を復活させてくれるであろう」こう神は仰せられたのであった。「めぐみ酒」の葡萄酒の匂いが馥郁(ふくいく)として人間の身辺にかぐわっていました。彼は努力をなすべく人生の旅に出発して行きました。
私たちは「めぐみ」の酒に酔い痴れて眠ってしまってはならないが、自力の努力精進ばかりを続けていると疲れ切ってしまって、一歩も前進できないような気持ちになる事もありがちである。それは完全に悟境に達した人は別であるけれども、普通程度の心境の人ならばそんな事もありがちのものである。
この事は法華経の「化城喩品」に比喩物語の形をもって書かれているのである。
旅人が幾多の険難悪路を踏み越えて、くたくたに疲れ切ってもう一歩も進むことができないと思っていると、そこに立派な化城(幻の城)があらわれてそこで休息して元気を快復する。元気が快復したならば、気がついてみると、そこにはもう立派な御殿などはなく、山の中腹の岩場の上に眠っていて夢を見ていたのだと気がついて、再び〝自分の努力〟によって前進するのである。
神のめぐみと、自分の努力とはこのように交互にあらわれて、吾々を高め上げ前進させて下さるのである。しかし、結局は〝自分の脚〟で歩いただけが本当の努力であり、それだけ頂上に近づいたのである。〝化城〟は結局〝幻の向上〟である。信仰には常に精進努力が要るのである。〝南無阿弥陀仏〟と一向専心唱えるだけで救われると教えられても、〝南無阿弥陀仏〟と一向専心唱える気持ちになることは、普通の人間には非常な努力を要するのである。
向上とは、神が自己に既に宿し給える無限を努力を通して発揮することなのである。自分の内に既にあるものを出すことである。
1386
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 21:23:05 ID:y.RAC1z6
訊け様
連日、勢力的な誌友会資料の書き込みを有難う御座います。 先日、本文まで進んだので、内容の資料で大事な文章の掲載と存知増す感謝します。
それと、巻頭言の 住吉大神様とはどう言う神様で、どんな働きをして生長の家総本山に祭られている意義をさらに深く広く本文に入るに先立ちて学んで行けば、本文もさらに理解しやすいと思います。
前夜祭で先に進むのも大事ですが、訊けさんも少し前に戻って、巻頭言をもう少し学んでいきませんか。上記のうのはなさん掲載文をよく読みますと、私は次に”最後の審判”に就いての神示の謹写して掲載をしたいと思いました。
訊けさん、少し進むスピードが速くないですか? 巻頭言をもう少し先達に学びませんか?本流青年会に圧巻の掲載文がありました、巻頭言から生長の家の教えの根幹を学べるようなきがしますが・・・
いかがでしょうか?????
1387
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 21:25:24 ID:???
>巻頭言をもう少し先達に学びませんか?
ああ、是非、そうなさってください。
現在は前夜祭です。いろいろな方向性があると思います。個人個人で最も興味を
覚えた箇所などを、それぞれが持ち寄れば好いと考えます。いかがでしょうか。
1388
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 21:53:55 ID:vLx53a.s
>ああ、是非、そうなさってください。
やりますよーー、当然です。これが生命の實相全巻の抽出エキス・根幹となる重要箇所と思いました。
ここはみんなが充分に理解してそれから各自の方向性に分かれるという段階になるのではないか?と思って訊けさんに伝えました。
いかがでしょうか。
1389
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 22:00:50 ID:???
ここはみんなが充分に理解してそれから各自の方向性に分かれるという段階になるのではないか?と思って訊けさんに伝えました。
いかがでしょうか。
とのことですが、良いと思います。いかがでしょうか。
1390
:
「訊け」管理人
:2012/04/23(月) 22:03:12 ID:???
あとご一緒にポテトとドリンク、いかがでしょうか。
1391
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 22:11:13 ID:jYpYPvuY
ありがとうございます。
ついでに一緒にDVDでも・・・・○Vでなく・・・
と言うことで・・・ ところで、訊けさんはうのはなさんの巻頭言を読んでの感想を聞かせてください。
1392
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 22:19:04 ID:jYpYPvuY
感想がなければいいですが、青年板の永久に護らんも読んでいただけないでしょうか。
読んでいただければそれで結構です。 わがままをいい、申し訳ありません。
1393
:
復興G
:2012/04/23(月) 22:26:05 ID:ojEbkDH2
>>1386
:
ユタカ様。
>訊けさん、少し進むスピードが速くないですか? 巻頭言をもう少し先達に学びませんか? 本流青年会に圧巻の掲載文がありました、巻頭言から生長の家の教えの根幹を学べるようなきがしますが・・・<
基本的に、同感です。訊け殿、もう資料は十分すぎるほど十分に出ています。これ以上資料を掲示すると、消化しきれなくなりますから、ストップした方がよいと思います。
ところでユタカ様。「巻頭言」というのは、黙示録のことでしょうか、と思いましたが、
>巻頭言の 住吉大神様とはどう言う神様で……<
と言っておられるので、“?”です。七つの燈台の点燈者即ち住吉大神、ということで、そう言われているのでしょうか?
私はそろそろ休みまして、また明日にとおもいますが。
1394
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 22:33:58 ID:3Q0oZamQ
>七つの燈台の点燈者即ち住吉大神
その通りでございます。 本流青年板に行かせていただき、学ぶことが沢山あることをしりました。
よろしければ、復興Gさま、本流永久に国護らんのウインドウを一つづつの解説をお願いしたいくらいです。
できれば・・・よろしくお願いいたします。
1395
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 22:50:45 ID:3Q0oZamQ
本流青年板 519
>創造の完成者としての住吉大神
「ヨハネ黙示録」にあらわれたる老翁のキリストが住吉大神と一体であるということには深い意義があるのであります。
とあったので、 住吉大神と書いたのですが、そのように書くと分からなくなりますか?これからは、七つの点燈者と書きます。
また、よろしくお願いします。
1396
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/23(月) 23:05:33 ID:3Q0oZamQ
すみません、よく分からないことが・・・
生命の実相の巻頭言の黙示録は「ヨハネと言う人が書いたもの」と思ったのですが、これでいいでしょうか?
黙示録とは何人もの人が書いたのでしょうか? 私はこのような基本中の基本も知らないので、いろいろ質問してお手数をかけます。
では、後日、よろしくお願いいたします。
1397
:
金木犀
:2012/04/24(火) 01:29:06 ID:XJ2w09Xw
ユタカ様
その質問のお答えは、
ユタカ様は以前に黙示録の「われふりかえりて……」のわれとは誰かと質問しておられました。
その時に復興G様が、「われ」というのは、ヨハネ伝及び黙示録の筆者であり、イエスキリストの弟子の
使徒ヨハネのことであると答えておられます。
また復興G様が転写されました聖典板の
>>379
にも、ヨハネという人がイエスキリストの弟子の中で、
一番霊感の優れた人で、その霊感によって黙示録を書いたのであるという雅春先生の御説明が書かれています。
ここを参照して下さいと復興G様はおっしゃっておりました。
このように、以前に一度ユタカ様が質問されて、それに答えられた復興G様のお答えの中に全て書かれています。
1398
:
復興G
:2012/04/24(火) 05:56:10 ID:ojEbkDH2
ユタカ様。
合掌 ありがとうございます。
最高にすごいご質問を賜りました。
これは現象人間がお答えできるようなことではございませんが、神に祈りつつ、私の魂の段階で把握できましたことを、お答え申し上げてまいりたいと存じます。
まず、
>>1396
の
>生命の実相の巻頭言の黙示録は「ヨハネと言う人が書いたもの」と思ったのですが、これでいいでしょうか?<
というご質問のお答えは、「その通りでございます」。
>>1397
で金木犀様がお答えくださいましたとおり、黙示録の「われ」というのはヨハネ伝及び黙示録の筆者であり、イエスキリストの弟子の使徒ヨハネのことであります。ところで、ヨハネに現れて黙示(啓示)を授けた永遠のキリストなる七つの燈台の点燈者が、なぜ住吉大神であるのか、ということであります。それは――
現象界のすべてのものは、四次元時空間の中に、相対的に展開されたものであります。四次元時空間と申しますのは、タテ・ヨコ・厚みの三方向のひろがりをもつ場が三次元空間であり、それにもう一つ時間という別次元のひろがりを加えた、生命表現の舞台が四次元時空間であります。ここに表現展開されたものはすべて相対的に現れており、そして、始めがあり終わりがあります。誕生した時・場所があって、死滅する時・場所があります。個別人間には皆誕生日があって、死ぬ時が来ます。
しかし、実は、この現象界は、四次元時空間というスクリーンに映し出された映画のようなものであります。その中に肉体をもってこの世に誕生したわれわれは、その四次元時空間というスクリーンに映し出された映画なる現象という世界で、その映画を見るための、五官という感覚器官を備えておりまして、その映画は仮のすがた、映像(かげ)であるにもかかわらず、影とは思わず、本物だと信じております。したがって生命は時空間の中に誕生しやがて死滅するものだと思っております。
しかし、あにはからんや、実は、映画を映しているスクリーンなる四次元時空間そのものをも創り出したのが、生命なのであります。すなわち生命は時空間の中に誕生したのではなく、時空間というスクリーンを作り肉体という表現身をもその中に現しだした主人公なのであります。それが、現象以前の、現象を超えた真理なのであります。
そのことを「永遠の真理」と申すことにいたしましょう。
この「永遠の真理」を自覚し、自由自在な生命(たましい)の解放を得たのが、釈迦でありキリストであり、天才的な哲人、宗教家、高僧などであったのであります。
また、わが日本人の祖先は、直感的にこの真理を自覚し、それを神話物語の形で伝承してきたのであります。それを、奈良時代天武天皇の命で、語り部の稗田阿礼という天才的な記憶力の持ち主が口述し太安萬侶が書き記して、712年(和銅5年)推古天皇に献上したとされているのが、日本古典の「古事記」であります。
<つづく>
1399
:
復興G
:2012/04/24(火) 05:57:18 ID:ojEbkDH2
<つづき>
さて、「黙示録」でヨハネに現れた「人の子の如き者」すなわち永遠のキリストは、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。」と言っております。
これは、肉体イエスは33歳で磔にかかって死んだと見えるけれども、生命の本体は時空間を超えて時空間をも創り出したもの、すなわち父なる神と一体なるものでありますから、死んでいないのであります。だから自由自在に復活してヨハネにあらわれ黙示(啓示)を与えることが出来たのであります。それで「死と陰府(よみ)との鍵を有(も)てり」――生死の鍵を握っている者だと言っているのであります。
では、住吉大神とは何者であるかと言いますと、古事記神話の中で、天照大御神様がお生まれになるに先立ち、宇宙浄めの神として、水と塩(霊)とを以て浄め給う龍宮海の神様として現れられた、上筒之男神(うわつつのおのかみ)、中筒之男神(なかつつのおのかみ)、底筒之男神(そこつつのおのかみ)と言われる三柱の神様を一体として総称し、住吉大神(すみのえのおおかみ、俗称すみよしの大神)と申しており、これが生長の家大神であると言われているのであります。
住吉大神は其の後同書に塩椎神(しほつちのかみ)又は塩椎翁(しほつちのおじ、日本書紀・神武天皇の巻)として現れ、天孫(てんそん、天照大神の御孫)ニニギノミコトの御子で皇統を継承される火遠理命(ホオリノミコト)――またの名を彦彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト、山幸彦)と申し上げる――が兄君から借りた釣り針を魚に取られて海辺で泣いておられたときに、ミコトを龍宮海にお導きして、失われた釣り針を取りもどし、美しい豊玉姫と結婚なされるようお導きをされております。
神話は、真理の象徴物語であります。
龍宮は海の底にあると言われておりますが、それは創造(ウミ)の根底(ソコ)すなわち、現象世界の一切のものを表現展開して映し出しているスクリーンであるところの時空間をも創造した、創造の根底の本源世界を象徴しています。そこにはあらゆる一切のものが備わっており、喪失ということのない世界でありますから、失われた釣り針も出てきたのは当然なのであります。
この龍宮海にお導きするとき、塩椎(シホツチ)翁、塩椎神すなわち住吉大神は目無堅間(めなしかつま)の小舟に乗せ奉ったとあります。目無堅間とは、時空間の目盛がない、すなわち時空間を超えている、時空間をも創造した根底の本源世界へお導きする船ということを意味しているのであります。
それで、「終戦後の神示」には
「われは七つの燈台に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫よりつづく無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚(な)釣らす鈎(つりばり)を失い給ひて憂ひ泣きたまふ海辺に来りて、尊(みこと)を龍宮海に導きたる塩椎神(しほつちのかみ)である。塩椎神とは水(し)火(ほ)土(つち)之神の謂(いひ)である。霊は水火土と顕れ、一切のものは水火土から生れたのである。
われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と、火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって万物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鑰(かぎ)を持てり』と録(しる)されてゐるのがそれである。
われを単に海の神だと思ふな。龍宮海の神の如くあらはれてゐるのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造(うみ)の神であるから無にして無尽蔵である。」
とあるのであります。
<つづく>
1400
:
復興G
:2012/04/24(火) 05:58:37 ID:ojEbkDH2
<つづき>
神話は真理の象徴物語であり、この古事記神話は、黙示録に書かれた白髪の老翁のなる永遠のキリストが、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。」と言っている真理と同じ真理を、別の形で表現されているものと言えるのでありまして、それ故に谷口雅春先生は、この「『ヨハネ黙示録』にあらわれた老翁のキリストが、住吉大神と一体である」とおっしゃっているのであります。と、私は理解させていただいております。
イエス・キリストが「真理は汝を自由ならしめん。汝は真理を知らざるべからず」と言った「真理」というのも、この真理であります。時空間を超えた永遠生命を自覚し、創造の根底世界即ち生命の実相に立てば、本当の自由自在を得て、限りない歓びをもって使命に邁進する事ができるということであります。
それで谷口雅春先生は「永遠(とわ)に国護り給わん」で
<まことに住吉本宮の「顕斎」とは、眠っていた実相の魂が、その眠りから目醒めて、自己が“神の子”であるということを開顕する、そしてその開顕された実相の誠実さが現実生活にあらわれる「新生」でなければならないのであります。
わたしは日本国民のすべてが住吉本宮の建立を契機としてその誠実を結集して、自己を「神の子」として礼拝し、住吉大神の分身として宇宙浄化の、そしてその浄化の中核体たる日本国浄化のために起ち上がり、単に「主よ、主よ、神よ、神よ」と呼ぶ者たるに留らず、神の御心を行ずる者となって下さることを希(こいねが)わずにはいられないのであります。>
とおっしゃっているのであります。この「眠っていた実相の魂が、その眠りから目醒めて、自己が“神の子”であるということを開顕する」というのは、永遠のキリストと一体なる、龍宮無量寿・無限供給の本源なる住吉大神とわれは一体である――という限りない歓びをもって、宇宙浄化の使命実現に邁進せよということだと思います。先生は、「住吉大神の分身」どころか「住吉大神の全心全霊」として起て、ともおっしゃったのであります。
その使命というのは、「国土安泰、万民泰平を謳歌し、天照大御神の御稜威(みいつ)六合(りくごう=くにのうち)に照り徹りて、神武天皇建国の御理想は実現せられ八紘(八方の荒れた国々)は一宇(いちう=ひとつの家の家族)となり、永久平和の世界連邦の理想達成を期するということであります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて、「新天新地の神示」の最後の方に、
<神の人類光明化運動に協力せよ。『生長の家の神』と仮に呼ばしてあるが、『七つの燈台の点燈者』と呼んでも好い。七つの教へとイスラエルの十二の分派(わかれ)がわが教へで新しき生命を得るのだ。わが教へはどんな教へをも排斥するやうな狭い宗教ではない。教への太宗(もと)であるから宗教と言ふのである。>
とあります。そしてそのご解説に、
“「イスラエルの十二の分派」とは「五十鈴川の流れから発して世界各民族となったすべての人類」という意味である”
と書かれています。
これは、「現象あり」とする常識から考えたら、荒唐無稽な牽強付会(こじつけ)としか思われないでありましょう。これも、「すべては時空を超えた根源世界において、本来一体である」という「永遠の真理」に立って解釈しなければ、谷口雅春先生が――七つの燈台の点燈者なる永遠のキリストが――そうおっしゃっている意味がわからないことだと思われます。また項を改めて、のちほどその謹解をさせていただきたいと思います。
1401
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/24(火) 07:57:40 ID:9ntwzCI2
金木犀様
今379に再度行きましたが、答えはありませんでしたが、ヒントにはなりました。
すみませんが、もう少し質問させてください。
1402
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/24(火) 08:02:34 ID:bJVWGv.I
復興G様、
質問です。まず、自分の分からないところからのです。
黙示録というのは聖書の中の一部の章みたいなものでしょうか?
そこからして分かっていないので質問します。 ちなみに私は聖書を見たことがありません。
1403
:
「訊け」管理人
:2012/04/24(火) 08:08:34 ID:???
ありがとうございます。司会者として御礼申し上げます。
まだ全文拝読しておりません。今から読みまして返信など行って参ります。
活発なやり取りに期待します。重ねてではありますが、ありがとうございます。
拜
1404
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/24(火) 08:45:46 ID:bJVWGv.I
私も時間があるときじっくり読みます。
ありがとうございます。
1405
:
復興G
:2012/04/24(火) 09:33:06 ID:ojEbkDH2
>>1402
:
ユタカ様。
キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなっています。イエス・キリスト出現以前の預言者と神の契約、つまりユダヤ教の聖書を旧約と言い、キリスト以降のキリストの言葉や奇蹟を弟子達がキリストの死後書いたものを新約聖書と称しています。文書の量から言うと、旧約の方が新約の三倍くらいあります。
新約聖書はマタイ伝・マルコ伝・ルカ伝・ヨハネ伝の4つの福音書と、使徒行伝、それから使徒パウロが書いた14の書簡、その他の使徒が書いた公同書簡といわれるもの7つ、などがあって、その一番最後に収録されているのが「ヨハネの黙示録」、『生命の實相』の巻頭に掲載されている「黙示録」であります。
黙示録は、ヨハネ伝福音書の著者で、キリストの弟子の中で一番霊感の秀れた使徒ヨハネが、キリストが磔(はりつ)けになってからローマ帝国の迫害を受けて、パトモス島といふ小アジアの小島へ流されて居つたときに神に祈つていたら、霊感的に、目の前に七つの燈台の有様が見え、白髪の老翁がその間に歩みたまうて啓示を与えられた。それを書き記したものといわれています。全22章から成っていて、そのうちの第1章12節から20節までが、『生命の實相』第1巻の巻頭に引用掲示されているわけです。
私は新約・旧約聖書を一つにまとめた分厚い聖書を持っており、「コンコルダンス」という、聖書の語句の索引を1冊の本にしたものも持っていて、時々これを使って聖書を引用したりします。新約聖書をもとにした「讃美歌」も、谷口雅春先生からお教えいただいた永遠の真理に照らして詞をかみしめながら歌うと、魂が打ち震えるくらい嬉しくなって歌えます。
1406
:
「訊け」管理人
:2012/04/24(火) 12:42:09 ID:???
>復興Gさま
>ユタカさま
興味深く拝読中であります。なお、どこから話を開始すればよいのやら、そんな現在でもあります。ですので以下、感想をツラツラと語って参ります。よろしくお願い致します。(引用は全て復興Gさまご投稿文)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
神話は真理の象徴物語であり、この古事記神話は、黙示録に書かれた白髪の老翁のなる永遠のキリストが、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。」と言っている真理と同じ真理を、別の形で表現されているものと言えるのでありまして、それ故に谷口雅春先生は、この「『ヨハネ黙示録』にあらわれた老翁のキリストが、住吉大神と一体である」とおっしゃっているのであります。と、私は理解させていただいております。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
安東ガマタ(※)さん風に云えば「そのとおりです」(笑)ユタカ氏の疑問への回答ですが、復興Gさまご投稿文で間違いないと考えます。いかがでしょうか。
なお住吉大神に関して余談、ツラツラと述べます。同大神でおもしろいと思う点はこれ、「現象に悪を見た神」になりますよね。少なくとも個人的にはその点、外せない要素だと考えます。
新羅が攻めてきて、日本が滅びるか、潰れるかというような国家の一大危機に当たっていた当時、神功皇后様がお祀りするわけです。そしてその際、日本の戦勝の祈願をなさったのが住吉大神でありました。
第二義の神(創造神ではない)である点、これは論点としておもしろいのかなあと、考えた次第であります。
<註>
※ 安東ガマタ
徳久先生をメロメロにさせた、スジガネ入信仰者。なお、『生命の實相』34巻や、同先生講演にたびたび登場することで有名。雅春先生のご解説に対して「そのとおりです」と答え、「どっちが先生か分からんね。ガマタ、だああはははは(笑)」とツッコミが入った。
1407
:
さくら
:2012/04/24(火) 13:15:58 ID:8vNNeA2Q
割り込み独り言、失礼致します。
>第二義の神(創造神ではない)である点、
これは論点としておもしろいのかなあと、考えた次第であります。
これ、わたしも、いろんなとこで、不思議に思ったとこで、
まだ、把握し切れてません。
今後も、皆様のやりとり拝見し、学びたいと思ってます。
1408
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/24(火) 18:17:56 ID:LTqEGDHY
復興G様
聖書の説明を有難う御座います。大変分かりやすく、急にヨハネだ、何とかと言われても
さっぱり頭に入っていかなかったのが、スッキリ分かりました。
分かりやすい解説をありがとうございました。
復興Gさまが登場されると、すごく楽しくなります。 それは、こちら側の理解できない気持ちを理解してくれ、分かりやすく解説してくれるところにあります。
これからもよろしくお願いします。 有難う御座いました。 合掌
皆さんで、ますます盛り上がって楽しくなりそうです。
1409
:
復興G
:2012/04/24(火) 20:14:43 ID:ojEbkDH2
>>1406
:
「訊け」管理人殿
あなたは私が精魂こめて書いた投稿文を読んでも、ただ上っ面をなでるだけの読み方しかしていない。そんなレスを読むと、もう書く気を失います。あまり軽口をたたかないでください。
1410
:
春らんまん(旅の空から)
:2012/04/24(火) 20:36:06 ID:68QAB1/g
復興G閣下
がお怒りになったのは、
>第二義の神(創造神ではない)である点、これは論点としておもしろいのかなあと、考えた次第であります。
↑
かなぁと思うのですが。。
復興G閣下
お気を静めて、無知な我々3歳児や5歳児に、根気良く愛深く、御教授いただけないでしょうか。。
失礼極まりないお願いと存知あげておりますが、
閣下の御指導がなければ、この失われた20年の信徒さんも、新規の信徒さんも、
なにも分からない状態になってしまうのです。
何卒、宜しくお願い申し上げます。
平伏合掌
1411
:
「訊け」管理人
:2012/04/24(火) 23:06:15 ID:???
>1409復興Gさま
ご指摘を賜りまして、ありがとうございます。貴殿ご投稿文に於きまして、「ただ上っ面をなでるだけの読み方しかしていない。」その様なご指摘がございました。そこで以下駄文に於いて、「なぜあのような論点を提出したのか」、この真意について触れて参ろうと思っております。なお「あのような論点」とは、「第二義の神(創造神ではない)である点、云々」の箇所になります。以下よろしくお願い致します。
さて、貴殿ご投稿文につきましては、三度読ませて頂きました。無論、ご真意を完全了解したとは申せませんがただ、「住吉大神の意義」(象徴的物語としての説明のされ方)は了解できたつもりであります。・・・「三度も読んだにもかかわらず、なぜあのような話(論点)を掲載したのか」おそらく貴殿お持ちの疑問は、このようなものではなかろかと考えております。
ご真意の曲解あらば愚生、謝らなければなりませんが、おそらく貴殿が現時点、「ただ上っ面をなでるだけの理解である」と思われた点は、「私(復興G様)は住吉大神を〝始源神〟(創造神、根源神)として説明したではないか。それをなぜこの青年は、応化神(第二義の神)と解釈したんだ!」という趣旨のものではないでありましょうか。(この解釈、間違っていたならば謝ります。)
さらに説明をつづけます。以下は、「復興Gさまのご不満は上記の如しである」という前提で、話を進めさせて頂きます。そしてなぜ私は、あんな論点を提示したのか?その理由を説明致します。住吉大神を「第二義の神としての面もあるのでは?」・・・なぜこのような問いかけをしたかと申しますとこれ、「司会者の役割上の問いかけ」なのでございます。
私、司会者としては参加各位に、活発なやり取りを喚起せねばなりません。活発なやり取りの喚起に於いては(ご説明賜った)「始源神として大神」の他に、「応化神としての大神」そんな論点も提示してみたかったのであります。「そのような目的からの提案でした」という一文を以て貴殿よりの誤解、これを晴らすことが出来れば幸いなのでありますが・・・。重要ですので繰り返させて頂きます。
新しい論点を提示し活発な議論を喚起する、あの論点提示には、このような目的があった次第です。このような説明でご理解頂けましたら幸いであります。「司会者として参加各位に、議論を喚起したかった」これ以外の意図はございません。そして愚生に於きまして「貴殿ご投稿の労を水泡に帰せしめるような」曲解及び理解の不足、畏れながら申し開き致しますが、「ない」ものと断言させて頂きたく思います。
なお種々ご無礼の点、何卒ご海容くださいませ。
拝
追伸
以下の点は、お詫び致します。書き方が拙くあたかも愚が、(貴殿ご投稿の労をぶち壊しにし)「住吉大神は応化神なり」と云ってしまったかのような点、そして「その方向のみの議論を喚起したかのような」印象を与えた点――これらに関しては余り、言葉を考慮することなく軽口をたたいてしまっていることを認めます。(参入障壁を低くし、誰でも参加し易くする・・・そのため文体も気をつけてはいるのですが「くだけ過ぎの感アリ」、これを認める次第であります。)
1412
:
復興G
:2012/04/25(水) 00:08:06 ID:ojEbkDH2
>>1410
:春らんまん(旅の空から)様
>>1411
:「訊け」管理人様
合掌 ありがとうございます。
たいへん失礼いたしました。
「訊け」管理人様のご発言は、前から“軽口”のように苦々しく感じていたことがあり、今日は10時頃からついさっきまで出かけて忙しくしていて帰ってきてパソコンを開いたらまたまた……と感じたので、そのままの気持ちをぶっつけてしまいました。ごめんなさい。
>> 安東ガマタ(※)さん風に云えば「そのとおりです」(笑)ユタカ氏の疑問への回答ですが、復興Gさまご投稿文で間違いないと考えます。いかがでしょうか。<<
というような言葉も、“軽口”と私には感じられました。選択試験問題で○×をつけるみたいに、言葉の上っ面しか見ていないようだ、と。
私の感じ方の方が間違っていたら、ごめんなさい。
ところで、
「住吉大神は第二義の神で、創造神ではない」というのは語弊があり、ちょっと違うと思います。
『実相研鑽』第一集p.246以下にも、谷口雅春先生は次のようにおっしゃっています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<“絶対”の中に一切のものがあるわけですから、……宇宙の大神、創造の大神、そのまま、塩椎大神、住吉大神と、いうことになっているわけです。……住吉大神は、その現われの面から言えば、応化神ということになって、「第二義の神様」と分類できるのですけれども、第二義というものは、第一義とはなれて、第二義があるんじゃなくって、第一義の中に第二義が包まれていて具体的な救済をのべるためにあらわれて来られるのであって、第一義の神だけで、じっとそれが無相にして、法身で、宇宙に充ち満ちていて、動かないだけでは、何の役にも立たんのでありますから、そこに具体的に救済の手をのべる働きとして人格神としてあらわれられたのが「観世音菩薩であり、キリストであり住吉大神であります。――こういう意味で生長の家の神様の出現ということは、この絶体絶命の瞬刻限に於いて、この時、この日本という場所に於いて、またこの日本人という民族に於いて、現われなければならないという、そういう時と場所と人との三相応に於いて、出現して来たというのが、生長の家の人類光明化運動である。そして住吉大神となり、あるいは塩椎大神として出現せられる場合に、それは「全てを生み出す」「生みの底」(海の底)の大神という働きになっている。これを神話は住吉大神を竜宮の大神としているのです。「海の底」とは創造の根底世界のことであります。天地創造というのも結局「生み出す」こと、創造である。すなわち塩椎というのは水と火と土という陰陽ムスピの御働きによって一切を生みだすところの御働きを指すわけで、いよいよ第二の天之岩戸開きで天照大御神を現実世界に生み出して、地上に永久平和の世界を打ち建てるために、その産み出しの出口を浄化する働きをなきるのが「住吉大神」で、これは天照大御神御誕生の直前に出現し給うよう『古事記』に書かれているわけです。……皆さんはある意味では、すべて住吉大神であるのです。これは聖書の「ヨハネ伝」にあるところの、キリストが言われた言葉の「我ゆきて汝らに来るなり」というのに当るわけであって、すべての人間にはキリスト教的に言えば、内在のキリストが宿っているのである。また内在の「住吉大神」が宿っているのであるといえるわけであります。……我れ出でてこの世の中を救わずんば、救う人はないんだ」という、そういう強烈な自覚をもって各自の聖使命を遂行せられんことを希望し、皆さんに、非常に嘱望するわけであります。ありがとうございます。>
と。
<つづく>
1413
:
復興G
:2012/04/25(水) 00:09:01 ID:ojEbkDH2
<つづき>
ですから、
> なお住吉大神に関して余談、ツラツラと述べます。同大神でおもしろいと思う点はこれ、「現象に悪を見た神」になりますよね。少なくとも個人的にはその点、外せない要素だと考えます。
新羅が攻めてきて、日本が滅びるか、潰れるかというような国家の一大危機に当たっていた当時、神功皇后様がお祀りするわけです。そしてその際、日本の戦勝の祈願をなさったのが住吉大神でありました。<
これも、ちょっと違うと思います。前記『実相研鑽』第一集p.246以下をよく読んでいただけばそのことはおわかりでしょうが、また、神功皇后が三韓征伐のとき住吉大神にお祈りなさった際、塩椎神(しほつちのかみ)から賜った潮干珠(しおひるのたま)と潮満珠(しおみつのたま)を出して祈られる。三韓征伐の三韓とは三奸で、罪と病いと死を意味する。潮干珠とは、そういう悪はない、敵はないと現象を否定する言葉(魂)であり、潮満珠とは、「善のみ実在」と実相を肯定する言葉(魂)であると教えられていますから、前記、
>(住吉大神は)「現象に悪を見た神」になりますよね。<
というのは、現象に「悪はない」と否定して浄める神、というのが正しいのではないでしょうか。
1415
:
山本富士子
:2012/04/25(水) 00:50:18 ID:vYsrynO.
管理人様
1414取り消してください。ご迷惑をかけました。聞きたいことがずれています。
1416
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/25(水) 01:04:04 ID:LoT9Y8ik
ありがとうございます、山本様、削除希望ですが、こういう時は
先生にお聞きした方が良いと思いこの質問をユタカに引き継ぎさせてください。
私には意味がよく分かりませんが、先生ならよく分かります。しかし、数年前の講師試験は雅宣氏が問題を作っているから国際平和信仰についてが80パーセントを占めていました。
このような問題も出たのですか? 残り20パーセントは本来の真理と聖経の内容でしたが。
すみません先生、この質問をよろしくお願いします。 山本富士子様分
復興G様
このような場所にて発言すべきような者でないことは、十分わきまえているつもり
ですが・・・、だからこそと、勇気をしぼってお願いする次第です。
復興G先生のご見解を私どものようなレベルの一群のためにも、教えていただけたら
ありがたいです。
なぜなら、数年前講師試験の設問に、生長の家の神は第一義の神か?、第二義の神か
というのがあったそうです。そして受験者の方から質問されたのです。
「正解は第二義の神」でしたが・・・。
ごめんなさい。稚拙な文章で すみません。私は生長の家信者として祈りの行を
する時「おおいなるものにつつまれ、おおいなる響きになって、宇宙に舞う」
感覚でしたので・・・。参考意見を求めた方たちも回答は二つにわかれました。
ご本の中では、ある時は一義、ある時は二義のように受け取られる時のように
書かれてある・・・だからこそ祈って人・事・処に応じた答えを読み出す読み方を
せねば・・・と思っていたので、「正解は一つ」は???でした。
{正解はたくさんありますよ} ということが「讃歌」なのでしょうか?
長い文章なれていませんのでやめますが、意をどうかお汲み取りいただいて
よろしく
ご指導お願い します。
1417
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/25(水) 01:30:51 ID:oI7BXt.6
復興G様、聖書の事をありがとうございました。
あと、ここを読んでさらにスッキリしてきました。
神話は真理の象徴物語であり、この古事記神話は、黙示録に書かれた白髪の老翁のなる永遠のキリストが、「我は最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、活ける者なり、我れ曾(かつ)て死にたりしが、視よ、世々限りなく生く。」と言っている真理と同じ真理を、別の形で表現されているものと言えるのでありまして、それ故に谷口雅春先生は、この「『ヨハネ黙示録』にあらわれた老翁のキリストが、住吉大神と一体である」とおっしゃっているのであります
「本當のキリスト」は「真理」そのものであり、始めなく終わりなく宇宙にみちているところの真理そのものだから、
生長の家の神様と同じであるから、そういうように表現しているということでよろしいでしょうか??
1418
:
ユタカ(なせば成る我ハ神の子)
:2012/04/25(水) 05:43:18 ID:FnpOLjNk
チョット又分からなくなりました、
いっぽうで、眞と偽を分ける (キリスト教)と悪はない と浄化する神様と
違うような気がします。少しこちらに来るのを休んで、本を読み、勉強して又来ます。
1419
:
「訊け」管理人
:2012/04/25(水) 07:41:16 ID:???
>復興Gさま
ご丁寧な返信御文章に接し、篤く御礼申し上げます。さて今現在、「司会者としての自分」そして「一学習者としての自分」――この棲み分けに苦慮している最中であります。簡単に申し上げますと、あるテーマに関しまして、たとえば「個人的には○○だと思うが」と思ったとします。それでもいっぽうで、「でもいきなりこんなこと書くと、他の参加者が発言機会なくなるなあ」といった思いもあり投稿文も、かなり考えて行っている最中です(取り越し苦労であるのは認めます)。
住吉大神「応化神」説に関しても投稿意図を開陳すれば、この論点を提示すれば「おもしろい方が発言されて来るのではないか」そんな意味がありました。具体的には私が最初に「住吉大神は現象に〝悪の存在を認めた〟神では?」そんな話を振ることで「現総裁は悪である」と主張される方々もこの誌友会、参加をし易くなると考えたのです。ただでさえこの掲示板は、教団運営であるというウワサが流れております。参入障壁を下げることでこれ、「現総裁は悪である。ゆえに我々は〝住吉大神の全身全霊〟としてこの悪、除去すべきなのである」――こんな方々の参入を喚起した次第なのであります。敢えて論点を提示することでやりとりの活発、これを図りたかった次第でありました。一言で申せば「議論喚起の仕掛け」ということになりましょうか。
しかし今回、貴殿が先手を打ってくださいました。『実相研鑽』第一集246項よりのご謹写部分でございますが、これで語り尽くされていると思います。個人的にも同書はあまり目にかからない本でありますので、興味を覚えているところでもあります。これから精読させて頂きたく思っております。このようなご文章の転写の労、重ねて感謝申し上げます。
拝
追伸
安東ガマタさんの件・・・言い訳を致します。
この種の軽口は本当に、申し訳なく思っております。ただし議論が一見、「非常に高尚に感じられる」という段階に入っておりました(少なくとも個人的にはそう感じてしまいました)こうなりますと司会者としましては、心配にはなるのであります。ですので、どんな方でも議論の参入が「可能ですよ」、そのことをさり気無くデモンストレートする必要を感じた次第だったのであります。オフザケ気味に話を振ることで、どんな方でも話に入って来易くしたかった、それが真意であります。(ただ、「失敗した」ことも認めます。本当に難しいものであります。勉強になりますね)
また○×をつけるような語り口になったのは、お詫び致します。雅春先生に「そのとおり」と返答された安東氏ですが、彼の役割を演じた次第。弟子が師に対して○×をつけることで安東氏、「オマエはアホか(笑)」といった和んだ雰囲気を醸成しておられました。敢えてやった今回の仕儀、貴殿に於かれての不快感に対しましてはお詫びせねばならぬと思っております。誠に申し訳ございませんでした。
1420
:
「訊け」管理人
:2012/04/25(水) 07:50:53 ID:???
<補足>
とは申せ「苦労自慢」、これは個人の流儀に反します。「司会者もけっこう、苦労してんのよ」「もう、解ってよ」・・・こんなことを自慢するために上駄文、掲載したわけではございません。
ですので参加各位に於かれましてはこの種のお話、もうガンガンに掲載をお願い致します。たとえば「こら、訊け!オマエ、ふざけすぎだあ」といった文章をぜひ、ご投稿くださいませ。掲載されぬことには私、非常に偏った方向へ爆走する恐れがあります(笑)復興Gさまのようなかたちでの苦情、これからもどしどしお寄せくださいませ。よろしくお願い致します。
拝
追伸
業務連絡的なお話は「部室2」板、こちらで募集中でございます。重ねてではございますが、よろしくお願い致します。
1421
:
金木犀
:2012/04/25(水) 08:02:25 ID:gUphdZ4w
訊け管理人様
>「現総裁は悪である。ゆえに我々は〝住吉大神の全身全霊〟としてこの悪、除去すべきなのである」――こんな方々の参入を喚起した次第なのであります。>
なんか、総裁批判をする人間を、ものすごく馬鹿にした言い方に思えますが。
ところで具体論として、ただただ神想観して、実相だけ見るというのが訊け管理人様の主張と考えればいいのでしょうか。
1422
:
「訊け」管理人
:2012/04/25(水) 08:10:15 ID:???
バカにしたわけではありません。
読み方によっては住吉大神でありますがこの御存在――そのように解釈可能と
思います。いかがでございましょうか。
そしてそのような方向をいったん考慮することは、非常に有意義だと思います。
>ところで具体論として、ただただ神想観して、実相だけ見るというのが訊け管理人様の主張と考えればいいのでしょうか。
簡潔に申し上げますと「そのとおり」でございます。神想觀を超える大行なし、これは愚生主張であります。実生活の体験
からもこれ、この主張は真理であるとの確信が、あるためであります。
これからもどうぞ、よろしくお願い致します。なお、重要ですので繰返しますが、議論の喚起が意図であります。バカにして
いるような意図を背景にもって提示した、そんな論点ではございません。喚起された議論を拝読しこれ、結論が変わることも有り
得ることも可能性としてあると感じたためであります。他意はございません。
拜
1423
:
志恩
:2012/04/25(水) 08:23:01 ID:.QY5jUA6
訊け君
バカにした訳じゃないと言われますが
>「現総裁は悪である。ゆえに我々は住吉大神の全身全霊としての悪、除去すべきである」ーー
こんな方々の参入を喚起した次第なのであります。>
これは、バカにした言い方以外のなにものでも、ありません。
心ある信徒さんが、読まれたら、どなたでも、バカにした言い方をされたと受け取ります。
私でも、これを読んで、カチンと来ましたから。
訊け君は、以前より、心の中で、本流を含めて、おかしいことをおかしいという人達を、卑下されているので、
言葉を発すると、うっかり、本音が出てしまうのです。
1424
:
「訊け」管理人
:2012/04/25(水) 08:31:06 ID:???
>志恩さま
バカにした、していない・・・・・そのような話にしてしまうのは非常にもったいないと考えます。住吉大神の話はもっと、深化して話すべきテーマだと考えます。
始源神と応化神としての住吉大神であります。私は応化神としての大神に着目することをお勧めしている次第です。なぜならばこれ、その私がバカにした(ことにされた)方々は、雅宣総裁の悪を「浄化せしめん」とする役割があるはずなのであります。住吉大神の応化神部分に着目することは、有意義だと思います。いかがでありましょうか。
この種の議論促進をあたかも、「この司会者はバカにしてるのか、していないのか」このような方向に議論を誘導されるのは、非常にもったいないと思います。志恩さまに於かれましてはこれ、一度「住吉大神の応化神」の側面に着目され、議論参加されんことを願う次第であります。
以上、よろしくお願い致します。
拜
1425
:
金木犀
:2012/04/25(水) 09:08:24 ID:gUphdZ4w
神想観は基本でしょう。神想観が絶対なのは当たり前のことですが、
その次の話です。
例えば、社会事業団だって、神想観をして裁判を決めたのかもしれないじゃないですか。
しかし裁判を起こすという時点で、すでに悪ありとみとめたことになるから、
駄目だということでしょう。
総裁のここがいけないと思うと発言した時点で、総裁の悪を認めたことになるからいけないと言うのでしょう。
白鳩姉さんが、隠れキリシタンになると言った時点で、総裁の悪を認めたことになるでしょう。
神想観して、次の行動を起こした途端に、悪を認めたことになるから、善一元の世界を見てないじゃないか
ということになるでしょう。
訊け管理人様は、そういう行動を一切やらずに、ひたすら神想観だけするという主張と考えていいわけですよね。
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