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永井均×入不二基義 「現実性について―私・今・現実―」

7メビウス@管理者:2012/08/19(日) 22:03:54
・受講者との質疑応答要約。

現実性を様相外に特権的に位置づける入不二に対し、
「私が死んだ後の『現実性』というものは、どんな意味を持ちうるのか?」
というような質問があった。

入不二の解答は曖昧。(私が意訳すると、要するに「語りえない」ということ)
だが、私の死によって現実性が消失する事態は想定しうるという。

次に永井・入不二両氏に、私・今・現実と言語の関係について質問があった。
入不二は現実性は言語の問題ではなく、言語から独立していると語る。
永井は、私・今・現実はそれぞれ当のもの以外の概念によってしか語れない、
そして語られたものは当のものではない(要するにハイデガーの存在論的差異)という。
入不二は、私にとって「現実性」がまさにそれ(存在論的差異)だという。

次に永井に対し、かつて著作で「神を信じている」と書いたことの真意について質問があった。
永井ははっきり肯定も否定もしないような解答。
要するにその本(著作名は失念)で書いた「神」とは、どの宗教の定義とも違う神だということ。
(私の心証では永井は自分なりの「神」を信じているのだと思った。これはある意味当
然で、かつて永井は〈私〉は魂を意味するものでなく、魂の本質が〈私〉でなければならない
というようなことを書いていた。これは信仰と紙一重)

8メビウス@管理者:2012/08/19(日) 22:05:22
以上、記憶とメモを頼りに書いたので、もし講義に出席された人がこの掲示板見ましたら、
加筆して頂ければと思います。

9メビウス@管理者:2012/08/22(水) 20:53:48
>>5-6の内容はわかり辛いかも知れないので補足。

入不二の形而上学は『時間は実在するか』のp252〜255あたりがわかりやすい。
要約すると、「今」でありうる時点は無数にあるが、現実化している「今」は
「この今」だけだけである。
(これを言い換えれば、無数の時点に「私」はいたが現実化している「私」は
「この私」だけだとなる)
従って入不二の形而上学においては「現実性」が特権化される。

10メビウス@管理者:2012/08/24(金) 21:54:42
>>6の両氏のやりとりの一部が入不二基義公式サイトに載っていた。
こっちの方が正確なので引用転載します。

http://wiki.livedoor.jp/irifuji/
>「今」ということばに対して「現在」ということばがあり、「私」ということばに対して「自己(自我)」という
>ことばがあるのに対して、「現実」ということばに対してはそれに相当するものがないのでは?
>という私の問いに対して、永井さんの応答は、「現実性」がそれに当たるのでは?
>だから、ほんとうは「今」に対しては「今性」、「私」に対しては「私性」という方が正確だろうというものだった。

>さらに私のコメントは、「現在」は「今性」よりもさらに、「自己(自我)」は「私性」よりもさらに、
>客観化(実体化)したものを表していると思うので、その意味では、「今―今性―現在」「私―私性―自己(自我)」
>「現実― 現実性― φ」という具合に、やっぱり対応するものがないのでは?というものだった。

11was a bee:2012/08/30(木) 05:43:43
メビウスさん、こんにちは。
二人の講演を見に行かれたんですね。講演記録 とても勉強になります。
(こちらに書き込んで良いのか迷いましたが、不適切であればすいませんが移動してください。)

「現実性はそれが全てでありそれしかないというあり方(全一性)ゆえに、否定が機能しない。
現実性は現実性からしか導けない。様相ネットワークから孤立している。」
「現実性は孤島」
対立概念がないから、何かとの対比を通じて理解できない。これ納得です。
ここはハイデガーの「存在は類ではない」という話とも似てる気がします。

「現実― 現実性― φ」
これは「存在」とか「創造」とかいう言葉が入るでしょうか。もしくは、ここが空っぽであること、それが現実性の特徴なのかも。
(永井氏が言う「開闢」という言葉はここに入りそうな気もします)

12メビウス@管理者:2012/08/31(金) 22:39:54
was a beeさん、こんばんは。
入不二氏の現実性概念は実存主義的な存在論であるような気がします。

>>5でリンクした公式サイトの公開論文にも、
>ニュートラルな(現実世界に対して外在的で無関与な)視点など、取りようがない。
と、現実性が一人称的な概念であることを伺わせています。
だから>>7で書いた受講者の質問に対して解答に困ったのだと思います。

でも「私の死によって現実性が消失する事態は想定しうる」というのは矛盾であるような気もします。
それなら「世界」の中に、それぞれ個別の現実性を有した人物たちがいるという、
様相ネットワークをイメージできますからね。

あと「現実― 現実性― φ」については、確かに永井氏の「開闢」概念に近いですね。
「φ」の意味については『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』のp90-91あたりが
わかりやすいです。そこではウィトゲンシュタイン独我論の「私」について書かれてるのですが、
シュリックやストローソンの無主体論とは対極的に、ウィトゲンシュタイン独我論の「私」は
決して対象化されないけれど無ではない、という主旨の解説の後、その「私」を表現するために、
>「φ」とは、「私」の類比運動の仮想の極点であり、まったくの「無主体」である。
と述べられています。
この考え方は永井氏が〈私〉の語りえなさを論じるときの「累進構造」と近いですね。
入不二氏からすると、累進構造の仮想の極点に「無」としての〈私〉があるという所でしょうか。


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