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永井均×入不二基義 「現実性について―私・今・現実―」

1メビウス@管理者:2012/08/19(日) 21:54:35
2012年8月18日に朝日カルチャーセンター(中之島) で行われた
永井均と入不二基義の講義と対談の要約です。

テーマ「現実性について―私・今・現実―」

講義前に司会の女性が話し。永井、入不二がそれぞれ20分ずつ自身の
「現実性」についての問題を提起し、その後30分間二人のディベート、
残る20分を受講者との質疑応答に当てるという予定。

受講者40名ほど。内女性7名ほど。平均年齢40歳ぐらい。

講義に先立って受講者に両講師の講義内容を略記したテクストが配られる。
入不二のは抽象的な文や記号が記された一枚の紙。
永井は2008年の『精神科学』第46号に発表した論文の一部で、8枚ほど。

2メビウス@管理者:2012/08/19(日) 21:56:02
講義の大まかな流れは以下のようなものだった。

予定通り16時から永井の話で始まる。
永井は論文を読むだけ。
(正直手抜きだと思った)
永井は延々と読み続けて予定時間を10分以上オーバー。

次に入不二の話。現実性について語りながら、意味不明だった一枚のテクストの
記述の意味を解説していく。
(入不二の講義のやり方はセンスがあると思った)
20分ちょっとで終わり。

次に永井と入不二のディベート。
これも20分ちょっとで終わり。あっという間の印象。
入不二は物足りなそう。でも永井はそうでもないような。

残る15分ちょっとが受講者との質疑応答。
で、お仕舞い。

著名な哲学者が二人では90分の講義時間は短すぎだった。
永井・入不二のディベートなら2時間ぐらい欲しい。

4メビウス@管理者:2012/08/19(日) 21:59:20

・永井の講義の内容要約。
以下、()内は私の解説。

まず「今」については、「この今」と「〜の時点での今」の2種類の「今」があるとして、
もし2種類なければ言語は機能しなくなるという。たとえば今日記をつけているという
ことは未来の「今」において読まれることを既に知っていることになる。
(これは、マクタガートのいうB系列の時間とA系列の時間に対する理解が同時に成り立
たっているということ)
また「私」という語も二つの意味があるという。
(これは永井がかつてから主張してる一般化できる「私」と一般化されてはいけない〈私〉。
で、その2種類の「私」を2種類の「今」と類比して、2種類の「私」がなければ言語は
機能しなくなるということを想定する。
ただし「今」の場合、「私」が固定的に誰かである人物と違って、固定的な性質を欠いて
いるとする。

「現実」という言葉も「現実の現実」と「現実の虚構世界」というように言い分けられ
るが、現実に現実である特権的世界がないなら全てがないのと同じことである。
(この点の考え方は入不二と同じ)

5メビウス@管理者:2012/08/19(日) 22:00:48
・入不二の講義の要約

まず、現実性は様相ではないと主張。「この時点」という場合の「この」という言葉の
意味は言語に含まれず、規定できない特権的なもの(永井も同意)。

そして下のような「様相ネットワーク」を想定する。

   可能性――――――――不可能性
    |
    |
必然性――偶然性


上の可能性は不可能性と相互否定関係にあり、必然性は偶然性と相互否定関係にある。
しかし、現実性は上の図の様相ネットワークからは導けない。現実性はそれが全てであり
それしかないというあり方(全一性)ゆえに、否定が機能しない。現実性は現実性から
しか導けない。様相ネットワークから孤立している。

現実性は孤島であり、様相の中に現実性があるのでなく、現実性の中に様相が位置づけ
られる。

※ちなみに以上の主張は、入不二基義公式サイトの公開論文の内容と同じ趣旨。
http://image02.wiki.livedoor.jp/i/i/irifuji/4bab196685540397.pdf

6メビウス@管理者:2012/08/19(日) 22:02:28
・永井と入不二のディベート要約

入不二は、永井が「私」「今」「現実」をパラレルなものとみなしたことに
対し、「私」や「今」は「自己」や「この時点」など、他の言葉や概念で置き換え
可能だが、「現実」だけは置き換え不可能であり、「私」や「今」は「現実性」に
取り込まれると主張。
「私」といった自我の概念や今が推移するといった時間の流れは、全て現実性の
中で生じていて、現実性だけは不変だという。

(永井の「私」に対してこのような突っ込み方をした人はいなかったので、
この入不二の指摘は新鮮だった)

それに対し永井は「私」「今」「現在」、それぞれの違いを語り、
やはり「私」の特権性を主張。このあたりは永井の著作を読んだことの
ある者なら誰でも知ってる内容。

7メビウス@管理者:2012/08/19(日) 22:03:54
・受講者との質疑応答要約。

現実性を様相外に特権的に位置づける入不二に対し、
「私が死んだ後の『現実性』というものは、どんな意味を持ちうるのか?」
というような質問があった。

入不二の解答は曖昧。(私が意訳すると、要するに「語りえない」ということ)
だが、私の死によって現実性が消失する事態は想定しうるという。

次に永井・入不二両氏に、私・今・現実と言語の関係について質問があった。
入不二は現実性は言語の問題ではなく、言語から独立していると語る。
永井は、私・今・現実はそれぞれ当のもの以外の概念によってしか語れない、
そして語られたものは当のものではない(要するにハイデガーの存在論的差異)という。
入不二は、私にとって「現実性」がまさにそれ(存在論的差異)だという。

次に永井に対し、かつて著作で「神を信じている」と書いたことの真意について質問があった。
永井ははっきり肯定も否定もしないような解答。
要するにその本(著作名は失念)で書いた「神」とは、どの宗教の定義とも違う神だということ。
(私の心証では永井は自分なりの「神」を信じているのだと思った。これはある意味当
然で、かつて永井は〈私〉は魂を意味するものでなく、魂の本質が〈私〉でなければならない
というようなことを書いていた。これは信仰と紙一重)

8メビウス@管理者:2012/08/19(日) 22:05:22
以上、記憶とメモを頼りに書いたので、もし講義に出席された人がこの掲示板見ましたら、
加筆して頂ければと思います。

9メビウス@管理者:2012/08/22(水) 20:53:48
>>5-6の内容はわかり辛いかも知れないので補足。

入不二の形而上学は『時間は実在するか』のp252〜255あたりがわかりやすい。
要約すると、「今」でありうる時点は無数にあるが、現実化している「今」は
「この今」だけだけである。
(これを言い換えれば、無数の時点に「私」はいたが現実化している「私」は
「この私」だけだとなる)
従って入不二の形而上学においては「現実性」が特権化される。


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