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元明天皇について
1
:
小麦
:2010/01/03(日) 01:25:41
2010年元旦
津名道代さん年賀状より
和銅三年[西暦710ねん]春三月、新都・奈良の平城京の最初の主となられた元明天皇。譲位ののち、養老5年[721年]の歳末に世をさられるとき、彼女は、こう言い遺されました。
「すべて生きものには、みな死ということがあると聞いています。してみれば、これは天地の理で、悲しむべき事ではないでしょう。私が崩じたら,蔵宝山(さほやま)の雍良岑(よらがみね)の裾で茨草(いらくさ)を刈り火葬にしてください。墓は造らず。常緑の樹を植え、目印に石標を立てれば足ります。」
白村江の敗戦から59年、東アジヤのむずかしい国際関係のなか、独立法治国家としての体制と内実を整えるため、国民に多くの苦労をかけた。新都の造営にもせめてわが終わりは・・・と、61歳の国母・太政天皇はお考えだったのでしょう。
役人たちは遺詔に従い、葬儀はせず、墳丘を造らず、公務は休まず、ただ、火葬の跡へ、高三尺の石に「大倭国添上郡平城宮馭宇八州(やまとのくに・そうのかみごうり・ならのみやに・おおやしましろしめしし)太政天皇之陵(みあさぎ)是其所也 養老5年12月13日葬」と刻んで立てました。野良の人々も山間に立つ一筋の煙を遥かに拝んだのでした。
何百年か経って、碑は崖から落ち、もう字も読めずなっていて、人々はこれを「佐保姫の影向石[用語う意志]」と呼んで尊び、近くの神社に祀りました。
春を呼ぶ女神・佐保姫が姿を現された標の石だろうと考えたのです。さらに後世、江戸時代後期になって字が解読され、そこが、元明天皇の葬処で、石は墓碑だと初めて判明したのでした。
今・雍良岑の南裾は整備されて、元明天皇奈保山東陵とよばれ、県道を隔てて西陵の元正天皇(元明天皇の娘)の陵と並んでいます。
今年2010年は平城京が都となって1300年に当たります。
2
:
小麦
:2010/01/04(月) 00:28:59
影向石[用語う意志]→影向石(ようごういし)です。影向(ようごう)とは神が一時姿を現すこと。神仏の来臨。
元明天皇は天智天皇の皇女。文武の母。古事記を編纂させた。…自分のための頭の整理デス。なかなか覚えられなくて。
3
:
合
:2010/01/08(金) 22:21:20
佐保姫の影向石が祀られている神社、奈良の豆比古神社。行ってみたいですね。
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