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倉工ファン Part 6

114名無しさん:2022/09/27(火) 16:13:01
☆ 同上


マウンド上で捕手のサインをのぞき込む池永は、ギョロッとした丸い目を見せた。全身をバネのように柔らかく使うフォームは独特だった。
捕手のサインにうなずくと大きく振りかぶり、左足を上げると軸になる右足のヒザが伸び、カカトがちょっとだけ浮く。

そこから下半身を低く沈め、リストを利かしたスリークオーターハンドから投げ込んでくる。
初めて池永と対戦した時その速球は「グン、グン、グン」と、3段階に加速するように見えたものだ。


相手が誰であろうと物おじしない度胸も、すぐにプロで通用した要因だと思う。
ベテランの榎本さんやパリスといったオリオンズの中軸打者を迎えても、厳しい内角攻めのボールをどんどん投げてくる。

打者がのけぞると、覚えたばかりのスライダーやシュートをコースギリギリに投げて、あっさり料理する。
その投球術は新人離れしていて、どのチームの選手も「すでに完成された投手だな」と絶賛していた。


この年池永はいきなり20勝(10敗)をマークして新人王に選ばれた。防御率は2.27とすばらしい成績だった。
シーズン途中、濃人コーチが「とんでもないヤツが西鉄に入ったな」と語っていたが、その通りだった。

池永は翌年も15勝し、3年目の昭和42年には23勝で最多勝のタイトルを取った。西鉄は池永の活躍で40年から3年連続してAクラスを確保した。
3年目にして、西鉄投手陣のエースにのし上がった池永のプロ生活は、順風満帆だった。


しかし、この天才投手の選手寿命はあまりに短かった。10年で200勝、いや、250勝はできるといわれていた逸材が、プロ6年目の45年、
突如球界を去ることになる。世間を震撼させた、あの「黒い霧事件」に巻き込まれたからだ。(池永氏は2005年に永久失格処分解除)




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