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倉工ファン Part 5
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☆ 同上
屋外での開催だったのは、沖縄に体育館がなかったから。
米軍基地内には立派な体育館があったが、日本人が使える体育館は琉球大学の体育館だけ。高校には体育館すらなかった。
この沖縄決戦を取材した東スポの記者は、現在評論家の門馬忠雄さん。54年前のことを覚えているだろうか?
「返還前の沖縄? プロレスのことはほとんど記憶にないなぁ…」と前置きして、当時のことを語ってくれた。
「空港に到着する直前、窓のブラインドを閉めるようアナウンスがあったね。俺はB―52(爆撃機)を見たかったんだけど…。
隙間から少し見えた機体は、黒光りして不気味だったな。
イミグレーションで…これは言いにくい話だけど、入国審査で星野(勘太郎)がかわいそうだった。長時間、足止め食ってね。
彼は在日だったから…。あの元気者が寂しそうに背中を震わせていたな。差別というのを実感した瞬間だったね」そう明かし、さらに続けた。
「今でも強烈な印象として記憶に残っているのは…お土産屋か飲み屋かは忘れたけど、おばちゃんに『内地の人かい?
基地をお土産に持って帰ってね』と言われたんだよ。
沖縄の人たちの願いを聞いた想いがしたね。返還から50年経っても変わってないのが辛いね」
体育館のなかった沖縄には、返還された翌73年、立派な体育館が建てられた。
プロレスファンにはお馴染みの奥武山体育館(現在は沖縄県立武道館)だ。
74年には早くも新日本プロレスが2日間興行を開催し、猪木が〝アラビアの怪人〟ザ・シークとシングル2連戦を行った。
体育館の名を全国に知らしめたのは、88年4月22日、藤波辰巳(現・辰爾)が起こした「飛龍革命」。
猪木にビッグバン・ベイダー戦を直訴して、自分の前髪を切るパフォーマンスは語り草にもなった。
この時、奥武山を「おうのやま」と読むと認識したファンも多かったようだ。
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