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名言・格言 、その他備忘録 スレ
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メモが掲示板にあったっていいじゃないか 人間だもの
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https://www.youtube.com/watch?v=B1DGRJeUHwU
だけどいまでも信じてる
こころのすべてを奪い去るようなほんとうの愛
どんなに遠くてたどり着いてみせる
石のような孤独を道連れに
空とこの道出会う場所へ
どんなに遠くてもたどり着いてみせる
時のはざまにいつの日か
魂を解き放って
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https://www.youtube.com/watch?v=cvFNEGD2-fY
終わらない歌を歌おう
くそったれの世界のために
終わらない歌を歌おう
すべてのクズどものために
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https://www.youtube.com/watch?v=GpIEysyAuO4
生まれたからには生きてやる!
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貼り付けた曲で犬さんの年齢が
想像つくね43から50かな
ちっと煮詰まってるね
https://youtu.be/hrBR7PCsqbE
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https://youtu.be/dJ9ve_EGYmw
ただ単に貼り付けただけ
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今回の荒らしは斎藤イコールるりかクンだね〜
老人臭と死臭の匂いがする〜
から
直ぐわかる〜
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ははは。曲で年齢ってバレちゃうよね〜w
深夜、お酒を飲んで、酔っぱらってブルーハーツを聴いていたら、
テンション上がっちゃって、
知らない間に、第二のほうまで書き込んでいたんだねw
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ついに、900超えて、
ここもそろそろ終わりが近づいてきている感じだね。
でも、
りんごさんは、ほんと、
ぼくが言っていることには、ほとんど興味がないみたいだねw
責めてるわけじゃないですよ。
ただ、ここまで真理に近付いているのに、
もったいないなあ、って思ってるだけ。
自分も、森田療法によって、仏教を知ったんだけど、
鈴木先生のところに入院してから、もう20年くらいになるけど、
仏教やスピ系を学びだしたのは、ここ6年くらいのこと。
で、斎藤さんのHPを知ったのが、7,8年くらい前かな。
残りの12年くらいは、森田療法の本もそんなに読まず、
ただ、たまに、自己啓発的なビジネス書を読むくらいだった。
それで問題なく、生活できてたから。
ネットで神経症の治し方を検索することもなかった。
ただ、振り返って考えてみると、
問題なく生活しているようで、
神経症の魔の手は、じわじわと近付いてきていたんだと思うw
それで8年前に耐え切れなくって、
2ちゃんで強迫性障害のスレッドを見るようになって、
そこで、斎藤さんのサイトが紹介されてて、知ったの。
当時は、ほんと毎日が地獄のようだった。
いまは、仏教やスピ系の理解が進んだことで、
当時に比べたら、ずいぶん、らくになったけどね。
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森田療法で言うところの、
「心に良し悪しなし」とか、「心には手を出さない」ということの、
本当の目的は、神経症を治すためなんかじゃなくて、
この世界に対する執着をなくすために、必要なことなんだよ。
神経症を治すだけだと、
いわゆる健常者と同じ状態で、
まだこの世界への執着は存分に残ってるでしょ。
森田療法の枠内で神経症が治ったり、良くなったという人は、
りんごさんに限らず、夢さんも、斎藤さんも、HNさんも、
みんな、この世界に対する執着が全然、捨てきれていないでしょ。
でも、この世界の享楽を、それなりに楽しむことができているから、
もうそれ以上、学ぼうとすることをやめちゃった。
これが、本当にもったいないなあ、って思ってるんだ。
自分も、森田療法の枠内でしか宗教を知らなかったときは、
どうして、この世界には楽しみがいっぱいあるのに、
わざわざ苦しい修行をするんだろうって、思ってた。
でも、宗教を理解できるようになって、その理由が分かったんだ。
どうして、中国の三蔵法師が、
恵まれた環境にいたにも関わらず、仏教の研究には、原典の研究が必要だと言って、
1,400年も前に、命の危険も顧みず、歩いてインドまでいった理由も、
分かったような気がした。
それだけの魅力が、仏教にはあるんだよ。
だから、仏教を本当に理解していないのに、仏教を語っている人を見ると、
ひとこと言いたくなっちゃうw
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あ、いま書いているのは、
独り言みたいなものだから、興味が無かったら、無視しちゃってね。
もう、ここに書いていることは第二のほうに書くことはないだろうし、
ここが終われば、ネット上に、同じようなことは書くことはなくなると思う。
ネットを完全に卒業することはないけど、
神経症サイトや、宗教やスピ系のサイトを見ることも、格段に少なくなってくると思う。
でもさ、
りんごさんは、
どうしてこの世界には楽しいことや気持ち良いことがいっぱいあるのに、
それに背を向けて、仏教の修行なんかする人たちがたくさんいるんだと思う?
それも、お釈迦様の時代から2,500年の間、
そういう人たちが途切れることはなかった。
もし、美味しいものを食べたり、セックスしたりすることが一番の幸せだったとしたら、
彼らは、一番の幸せに背を向けている愚か者ということになっちゃうよね。
もちろん、親鸞や道元、白隠、鈴木大拙が愚か者なんてことはないよね。
お釈迦様が提示してくれたことは、
美味しいものを食べたり、セックスしたりする以上の幸福を約束してくれていて、
それを実際に体現した人たちが、いつの時代にもいたからだよ。
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以下は一遍の言葉ね。
「念仏をとなえる人間には、上中下の3つのレベルがある。
まず、上等な人間は妻子を持ち、家を構えていても、なんにも執着せず浄土にいける。
つぎに、中等な人間は妻子を捨ててはいても、衣食住を構えている。
それでもなんにも執着せずに、浄土へいけるのだ。
最後に、下等な人間はすべてを捨てなければ、浄土にはゆけない。
われわれは、下等だから、なにもかも捨てて、念仏に徹しない限り、
臨終のときにいろんなことに執着してしまって、往生することができないだ。
このことをしっかりと心にとどめておくように」
執着を捨てるとはいっても、
この身体には、外界に対する執着がこびりついているから、
自力で執着を捨てることは、絶対的に不可能なんだよね。
夢さんも言ってたけどね、そんなの不可能だからって。
(分かってるっちゅうの!)
この世界に対する執着を捨てるには、
ひとりではできないから、仏の力を借りないといけない。
だからこそ、
身も心も仏にお任せるために、
「南無阿弥陀仏(あみだぶつにすべてお任せします)」
と、念仏をとなえないといけない。
もちろん、これは、浄土教系の話だけど。
夢さんは、「求めても執着しない。それが仏教の無なの」って、いつも言ってるけど、
夢さんが言っていることも決して間違ってはいないとは思うけど、
求めるこころ自体が執着だからね。
それに、執着しないって、簡単に言うけど、
それは、ほんとうに並み大抵のことじゃない。
だから、海さんが、
「友達を手放す気がないなら、神経症なんて手放せないよ」
とまで言うのが、
ぼくには、よくわかるんだ。
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りんごさんや夢さんと、
仏教などについて話しているときに感じるのは、
「あんたなんかより、オレのほうが分かってるから」
というような競争意識。
もちろん、自分にもそういうところあるんだけど、
それを自覚しているから、気を付けてて、
できるだけ、先入観や偏見なく、すべての人のコメントを読むように心がけてる。
みんなそれぞれ、
一生懸命に学んできたわけだから、すべての人のコメントが、勉強になる。
仏教やスピ系の真意を本気でつかもうと思ったら、
あらゆる先入観や偏見を捨て去らないとダメだと思ってる。
先入観や偏見(色眼鏡)は、学びに制限をかけてしまうんだよね。
海さんがしょっちゅう、自分の中をゼロ化するって言っているでしょ、
それと同じ。
海さんは、一見、頑固そうで、融通がきかない人みたく思えたりするけど、
でも、実際には、いつも学んでいる。
だから、神経症サイトの中で、出会った人の中で、
海さんが、一番、柔軟性があるって、ぼくは言ったんだ。
-
でも、
りんごさんや夢さんのほうが、
ぼくよりも正しいのかなって、思うことはあるんだ。
仏教の理解じゃなくてね。
仏教の理解は、ぼくのほうが上ねw
自分はいま、どっちつかずの状態にある。
海さんが目指している方向へと行くのか、
それとも、
りんごさんや夢さんのように、
享楽を楽しみつつも、それに執着しないというようにするのか。
いまの自分は、
言っていることは海さんよりなんだけど、
実際の生活は、りんごさんや夢さんより。
というより、
偉そうに言っておきながら、
享楽への執着などは、りんごさんや夢さんよりも、ぼくのほうがあるような気がするw
ただ、どちらにしても、
仏教やスピ系の学びは、一生涯続けると思う。
ぼくにとっては、
りんごさんにとってのセックスのようなもので、快楽のひとつでもあるからねw
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そういえば、最近は、
大事なことを忘れてた。
それは、
神経症者は神経症のままで幸せだということ。
でも、夢さんが言っているような幸せじゃない。
いつも仏に守られているという幸せ。
この幸せは、
享楽を楽しんでいるときよりも、
神経症の苦しみがあるときのほうが実感できる。
第二に久しぶりに書き込んだときは、
覚えていたんだけど、
議論を繰り返していくうちに、忘れてしまっていた。
神経症者は神経症のままで幸せなのだ。
何も変える必要もなければ、変わる必要もない。
いつも仏の愛とともにある。
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いま、第二を見たら、
夢さんも、負荷の軽い筋トレを習慣化してるみたいだね。シンクロだ。
思えば、神経症になってからというもの、
こういう、ちょっとしたシンクロから、びっくりするようなシンクロが、
度々起こって、それがずっと不思議だった。
スピ系を学んだことで、シンクロの謎が解明されたんだけど。
シンクロがたびたび起こったことで、
神経症後の人生は、スムーズに展開していった。
でも、神経症者の中には、
神経症の苦しみに耐え切れず、自殺してしまう人もいる。
ぼくと自殺してしまった人の差はなんなんだろうか、ってたまに考える。
ぼくは、どんなに困っても、
そのたびに、不思議な縁によって助けられてきたんだけど、
自殺してしまった人は、そういう助けを得られなかったのだろうか。
たぶん、永遠に答えのでない謎。
でも、HNさんのところや、斎藤さんのところに書き込んでいる人は、
神経症者の中でも、基本的に、恵まれている人のような気がする。
本人がそれに気づいているかどうかは別にして。
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犬さん
海さんの書き込みは偏見なくぼちぼち読んでよ
少しでもいい方向に行けばいいと思ってます。わかりにくいけどね。
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犬さん
〉森田療法で言うところの、
〉「心に良し悪しなし」とか、「心には手を出さない」ということの、
〉本当の目的は、神経症を治すためなんかじゃなくて、
〉この世界に対する執着をなくすために、必要なことなんだよ。
心の不安を取り払おうとする執着を捨てるためですね。
-
犬さん
〉森田療法で言うところの、
〉「心に良し悪しなし」とか、「心には手を出さない」ということの、
〉本当の目的は、神経症を治すためなんかじゃなくて、
〉この世界に対する執着をなくすために、必要なことなんだよ。
心の不安を取り払おうとする執着を捨てるためですね。
-
犬さん
りんごさんは、
どうしてこの世界には楽しいことや気持ち良いことがいっぱいあるのに、
それに背を向けて、仏教の修行なんかする人たちがたくさんいるんだと思う?
そうですか?この世界はままならない事がほとんど苦しみの世界ですよ、今の日本はまだ平和で衣食住が謳歌出来るけど、それでも、年間3万人も自死します、ましてや、大昔、親鸞、法然、道元、日蓮など出てきた時代は、飢饉、自然災害で地獄の世界ですよ、宗教盛んになる時代は不安、苦しみが多い時代だと僕は認識してます
-
りんごさん、やっぱり、いまは興味ないよね。
でも、それでいいんだと思う。
りんごさんは、神経症論議をしたくないの分かってるから、
ぼくも、あんまり、引っ張るつもりはないし、
面倒だったら、無視してくれて、全然、構わない。
でも、いまは興味がなくても、
もしかしたら、今後何かのきっかけで、また興味が湧いてきて、
仏教や、それに準ずる教えをまた学びたいと思う日がくるかもしれない。
こんなこと言って、
もし上から目線に感じたら、ごめんなさいね。
りんごさんに興味を持ってもらえたら良いなという思いはもちろんあるんだけど、
ぼく自身のためというのも、すごくある。
書くことによって、たくさんの発見があるんだよね。
りんごさんに限らず、
たくさんの人とやり取りしたことで、
ほんと、多くのことを学ぶことができた。
だから、ぼくが言っていることの背景には、
本の作者も含めて、無数の人たちの存在がある。
偉そうに聞こえるかもしれないけど、
自分も、まだまだ理解してないことは、たくさんあると思ってる。
だからこそ、こういう場に書いているんだと思う。
-
〉以下は一遍の言葉ね
念仏或いは宗教はこの世の人を救うもので
浄土は念仏は方便、つまり、生きてる人を救う為の嘘。親鸞の時代、踊り念仏時代も飢饉、飢餓で計り知れない人が亡くなっている、そんな時代に念仏を唱えれば救われる、生きている間は大変、苦しんだけ、浄土へ行けると言わないと人々は救われない。
-
〉あんたなんかより、オレのほうが分かってるから」
というような競争意識。
……ないと言ったら嘘になるけど
だけど、競争意識は全くないですね
-
犬さん
スピ系は眉唾物で見てますね
-
>心の不安を取り払おうとする執着を捨てるためですね。
うん。りんごさんが言っている通りだけど、
でも、不安が立ち上がってくるのは、この世界に対する執着があってこそだよね。
例えば、分かりやすく、対人恐怖を例に取ると、
人からよく見られたいという欲求があるからこそ、
対人関係において、恐れが立ち上がってくるよね。
人からの評価を求めていなかったら、
対人関係において、恐れが立ち上がるのは不可能。
つまり、欲求があってこそ、不安というものがでてくる。
欲求が原因で、不安が結果。
「覆水盆に返らず」で、
不安という結果を心のやりくりで無くそうとしても、なくならない。
だからこそ、りんごさんが言っているように、
不安を取り払おうとする執着を取り払うことも大事なんだけど、
でも、「欲求」という原因がある限り、不安は日常生活において、たびたび立ち上がって来てしまう。
だから、根本的に治すためには、
人から評価されたいという欲求、つまり、承認欲求を無くしていかないといけない。
と、言葉で簡単に言っているけど、
これは、並み大抵のことじゃない。
だからこそ、欲求を断ち切ることができた人は、聖人、上人と呼ばれ、
崇め奉られることになる。
こういう理解じゃないと、
仏教の本を読んでも、自分に都合の良いように解釈してしまったり、
さほど面白さは感じられなくなってしまったり、
感動することも少なくなると思う。
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>この世界はままならない事がほとんど苦しみの世界ですよ
りんごさんの言う通りだよね。
りんごさんは、
美味しいもの食べたり、コンサート行ったり、彼女とよろしくやったりで、
人生を楽しんでいるという面ばかりだったから、ちょっと意外w
そう、浮世はままならぬ苦の世界。だからこそ、こんな世界から脱却しなきゃいけない。
でも、だからといって、ことはそう簡単じゃなく、
ぼくらの体には煩悩が骨の髄まで染みついてるから、苦の世界だというのに、それに執着してしまう。
-
>念仏或いは宗教はこの世の人を救うもので
>浄土は念仏は方便、つまり、生きてる人を救う為の嘘。
>親鸞の時代、踊り念仏時代も飢饉、飢餓で計り知れない人が亡くなっている、
>そんな時代に念仏を唱えれば救われる、生きている間は大変、苦しんだけ、浄土へ行けると言わないと人々は救われない。
これを読んで、
りんごさんは、やっぱり、仏教を誤解されてるなって思った。
浄土(天国)は、死んでから行くところじゃなくて、
いまここに、存在しているもので、生きているうちに(肉体があるうちに)、行かなきゃいけないもの。
煩悩を滅却して、涅槃の境地に至って、
この場所が、そのまま浄土になる。
白隠禅師の座禅和讃から、引用するね。
「煩悩を離れた清らかなお月さまが輝いています。
このような時、ほかに何を求めるというのでしょう。
心が静まり、究極のやすらぎが得られた今、
この世がそのまま極楽であり
この身がそのまま仏なのです」
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>競争意識は全くないですね
もし、りんごさんの心の中に、競争意識がなかったとしたら、
それは、たぶん、悟りの境地に達したと言っていいと思う。
心の中から、他者との比較が消えたら、つまり、自他の区別がなくなったら、
それは、相当深い境地だから。
そこまでいったら、
仏教の経典なんて、捨ててしまって構わないと思う。
>スピ系は眉唾物で見てますね
確かに、スピ系の中には、間違っているものも多いからね。
でも、必ずしも、全部が間違っているわけではないし、
仏教を理解するうえで、役に立つものも、多いよ。
自分はよく思うんだけど、
自分が間違っているのを指摘されることって、イヤなのかな。
斎藤さんなんか、ほんと典型的な例で、
あの人は、絶対に自分の間違いを認めないよね。
だから、いまは、ほとんどの人が、斎藤さんに何も言わなくなっちゃった。
斎藤さんがいま感じているものよりも、
もっと大きな幸せが待っているというのに、
もったいないなって、ぼくは思っちゃう。
もう言わないけどね。
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森田療法の枠内でだけ仏教を学んだら、
仏教の本当の面白さやすごさは感じられないということ、
分かってもらえたかなあ。
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何度も言うようだけど、
もし、上から目線に感じたら、ごめんなさいね。
りんごさんとのやり取りも、
もう、ここで最後になるような気がするから。
斎藤さんや、夢さんは、
頭がかちかちだから、もう無理と思って、
第二のほうに書くことはないと思うけど、
りんごさんは、二人に比べたら、頭が柔らかいと思ってるから。
でも、ぼくの言葉で、
りんごさんを救えるなんてことは、もちろん、まったく思ってないよ。
ただ、興味を持ってもらえたら良いなって思ってるだけ。
興味を持つことができて、
また、仏教などの教えを学ぶようになったら、
りんごさんは、いまよりも、もっと幸せになることは確実、
ぼくはそう思ってる。
そんな、おせっかいなところ、
りんごさんとぼくは、非常に似てるw
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みんな変化してる。
みんなの変化はリンクしてる。
りんごさんも、斎藤さんの変化にリンクしてる。
斎藤さんが柔らかくなったんだから、これ以上口出す必要もなくなるよね。
自分にとっての気がかり(執着)がなくなれば、人は、口出ししなくなる。
あの掲示板で変化出来ないのは夢さんだけ。
わたしが柔軟性あるのなら、夢さんはその対極に生きてる人間。
人によっては、これがサカサマに見える人もいるけど。
わたしに対して柔軟性を見る事が出来る人は、夢さんに対しては頑固さしか見えないよ。
だから、わたし寄りの人は、夢さんみたい人は嫌いなはず。
もう、あんなのに足引っ張られんなよ!
自分の寂しさ埋める為だけに人間関係持とうとする人しか、あの人を相手にしたりはしない。
これが因果。
賢い人間は、あいつには近寄らんよ。
りんごさんは、犬さんやわたし寄り。
だから、いまに、夢さん相手にする事に、物足りなさ感じてくるよ、きっと。
ネット、わたしは完全に終わり。
他に、わたしにとっての本当の幸せがあるから。
それに、犬さんとりんごさんとのやりとりの光景に対しても、違和感感じるようにもなってきた。
だから終わり。
さようなら。
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拘らないという事への拘り。
これこそ手に負えない。
正義感とやらは、一番手に負えない。
自分を見直さないから。
ではね。
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犬さんが、この前言っていた、医者に、余命宣告されたなら、自分はホッとする気がすると言っていたのが、今のわたしにはよくわかる気がする。
逆転現象起こって進んだね。
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最終的にたどり着く生き方。
心も身体も、意識しないで生きる。
フィットビット届いて使って思った。
活動量計を意識する生き方は、身体への拘り。
つまり、だから、これを付けて生活するという事は、身体を意識して生きているという事。
今はこれ、大変役に立っており、楽しいものではあるけれど、最終的には、心へも身体へも、拘りをなくして生きる。
心も身体も、意識しない、というよりも、意識しようにも意識出来なくなるという事。
つまり、心や身体への拘りが持てる間は、まだまだ向上の余地があるという事。
神経症者はこれを生きているだけ。
だから不幸ではありません。
最終的に、向上の余地(優越感や劣等感)がなくなれば、意識しようにも意識出来なくなる。
だから、ここには、意図が働かない。
これが、比較の世界を超えるという事。
我が消えるとは、意識しようにも出来なくなるという事。
だから、意図でどうこう出来るものではない。
わたしは、最終的には、さよならは言わずに自然に消えます。
未来は、自分が決めつけられるものではありません。
自分は、自分との縁しか、永遠は約束出来ない。
これを他人として投影したものが、いわゆるツインソウル。
人は、本来なら、ツインソウルとの縁さえあれば生きていける。
これはつまり、自分の中の神と和解するのと同じ事。
犬さん、いい加減に、どっちつかずの生き方はやめましょう。
神経症を終わらせたいなら。
真に現実が見えてくれば、選択の余地はなくなる。
神以外に、自分を魅せられる相手はいなくなるから。
これが、わたしからの、最後の言葉。
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お。斎藤さん、ようやく変化したか〜。
みんなに相手にされなくなったからだねw
もちろん、もう口出しはしないよ。
これからは自分のことに専念していきたい。
>最終的には、心へも身体へも、拘りをなくして生きる。
ぼくも同じこと思ってる。
ダイエットは最終的には、無意識に行われるべきものだと。
自然体の生活そのものが、自分にとって適正な体重を維持する生活になるということね。
体に悪いところがあったり、コンプレックスがあったりすると、
どうしても、体に意識がいっちゃうからね。
改善できるところは、改善したほうが良いよね。
>犬さんが、この前言っていた、医者に、余命宣告されたなら、自分はホッとする気がすると言っていたのが、今のわたしにはよくわかる気がする。
大丈夫。海さんもまたすぐ、生きたくなるよ。
お互い、結構、良いところまで来てるような気がする。
でも、もう努力や頑張りはいらないよね。
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身体も心も、自分にとっての異常値、現実、エゴを知るところから始まる。
フィットビットは、今のわたしにとって、その役割果たしてくれてる。
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自分の体のことを、数値から客観的に見れるのは良さそうだね。
ぼくも買おうかな。
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わたしの見て、妹も、旦那さんや自分に、検討中^ ^
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最初はね、妹は旦那さんに良いかも、とか言ってたんだけど、わたしと妹の旦那がお揃い持っててもしょうがないでしょ、って事で、妹にも勧めた(^^;;
同じメーカーにするのかどうかは知らないけど。
妹の旦那、一回りくらい年齢違うし、健康気にしてんのよ。
あはは。
-
疲れてたり、ストレスを感じているときは、
心拍数も高くなるみたい。
心拍数が通常よりも高くなったら、
深呼吸したり、ストレッチしたり、軽めのジョギングしたりとか、
ちょっとした対策が取れそうだよね。
軽めのジョギングなどの有酸素運動が習慣になると、
体内のエネルギー効率が変わり、
一回、一回の心臓の動きによる血液の放出量が増えるのか、
徐々に、平均の心拍数は低くなってくる。
あと、眠っていた毛細血管が目覚めて、体の隅々まで、酸素が運ばれるようになるみたいだよ。
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わたし、思ったより心拍数低くて、評価良かった。
あとね、睡眠の計測が、かなり興味深いよ。
-
昔はね、心電図とると、心拍数高くて、頻脈で引っかかってたんだけど、変われば変わるものだよね。
-
海さん、寝たきり生活が長かったみたいだけど、
じつは、すごく丈夫なのかもしれないねw
-
数年間、寝てばかりいた時期があったというのが、良かった気がする。
怠ける自分に対して葛藤持つのやめたんだよ。
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上のコメント、犬さんのコメント見る前に書いた。
またシンクロしたね。
-
寝てばかりいた時期に、生理不順も治っちゃった。
かなり酷かったんだけど。
通常の常識とは正反対。
規則正しい生活してないから。
本当の意味での規則正しい生活というのは、自分の心に心底から素直に生きるという事なんだよ。
だから、自分の外の世界や、他人の基準で生きてもしょうがないんだよ。
人にそれぞれのペースというのがあるから。
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そういえばね、以前から、ダイエットもね、ダイエットしてるという意識がある時は体重落ちず、体重落ちる時は、いつ体重落ちたのかわからない、みたいな、ダイエットのことを意識しなくなってる状態の時。
だから、後から考えると、努力してないから、体重落ちた意味もよくわからないし、体調悪くして体重落ちたのかな、とか考えたりもした事あるけど、そうじゃないという事が最近わかってきたんだよね。
つまり、今の自分というのは、どんな自分であっても、ある意味の役割があって今の自分を生きる事になってるわけなので、学びや役割が変われば、自分自身にも自然に変化が起きるだけ、みたいな。
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これこそ、真の他力。
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>>937
ほんとだw
葛藤ということだけど、
こころの中に葛藤がある状態が、
一番、健康に悪いんだと思う。
以前、何かで読んだんだけど、
2匹のネズミに、電気ショックを与える実験で、
1匹のネズミには、突然、電気ショックを与えて、
もう1匹のネズミは、餌を取りに行くときに、電気ショックを与えるのね。
電気ショックという受けたストレスの回数や大きさは変わらないのに、
前者のネズミには異常がなかったのに、後者のネズミには、腫瘍ができてたとのこと。
後者のネズミの場合は、
餌を食べたい、けど、そのためには電気ショックを受けないといけない、
どうしたものかという葛藤があった。
たまに、80歳くらいのおばあちゃんが、
美味しそうにタバコをふかしていて、
健康にはまったく問題ないという話を聞くけど、
葛藤がないからなのかもって思うよね。
神経症も葛藤の病と言えるよね。
以前、話したけど、
ぼくが中学時代に、赤面症になったけど、
赤面症が赤面するのは当たり前じゃないかと思ったとたん、消滅してしまった。
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マツコも太っている自分にまったく葛藤がないから、
健康なのかもね。
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つまり、心をやりくりする自分に全身全霊尽くしている間は、神経症者の自分を自分は意識出来ない。
身体も同じ事、みたいな。
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つまりは、先入観が良くないのね。
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以前、水木しげるの幸福の7か条を紹介したけど、
https://grapee.jp/26544
この中に、努力は人を裏切るとある。
ダイエットの場合、痩せようと努力してしまうから、失敗してしまうんだろうと思う。
それに努力して手に入れたものには、執着が生じて、
今度はそれを維持するために、努力が必要になってしまう。努力の連鎖。
これは、苦しいよね。
-
> それに努力して手に入れたものには、執着が生じて、
今度はそれを維持するために、努力が必要になってしまう。努力の連鎖。
これは、苦しいよね。
そうそう。
だから、人間関係や縁なんかは、努力して手に入れるものじゃない。
ありのままの自分で、ただ単にシンクロするだけでいい。
神経症を手放すのも同じ事。
これがわたしの生き方。
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人は、ありのままの自分が愛されなきゃ意味がない。
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努力しないことって、簡単に思えるけど、
じつはこれが一番難しいことなんだよね。
他力に任せている状態は、
究極の努力しない状態だけど、
常に意識していないと、ついつい努力してしまっていたりする。
無為療法の「なにもしない」が有効なのは、努力しないということだしね。
それなのに、
斎藤さんは、動きだ雑用だと、努力させる方向へと間違っていってしまった。
意識した無計画、意識して努力しないこと、
これからは、そんな生き方にしたいと思う。
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自分には自分がいればそれでいい。
全ての他人から嫌われても生きていく。
自分には自分がいるのだから。
こう思えるように進めれば、努力手放せるよ。
努力というのは、他人への承認欲求だから。
努力しないと愛してくれないなら、それまでの縁だという事。
自分は自分には無条件であり永遠。
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承認欲求というのはエゴの事。
だから努力が必要になる。
身体には、無意識のエゴの動きというのが染み付いており、これが無意識の身体の条件反射の動きになっているので、これらが浄化されるまでは、意識的にそれらを手放していく必要があり、それには、自身の意識改革が欠かせない。
自分の現実は自分で創造しているから、これを知る過程も大事になる。
これを真に知ると、この世のカラクリも知る事になる。
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最近、
一遍上人のことを書いた「死してなお踊れ」という本を読んだんだけど、
その中に、「逆向きの時間を生きろ」ということが書いてあってね。
一遍上人は、念仏しながら踊る、踊り念仏をやった人なんだけど、
反時計回りで踊るのね。
それまでに身につけた知識や経験を捨てていくという意味が含まれてるみたいで、
ちょっと感動した。
この本、すごく面白いから、ほんとおススメ。
読みながら、海さんに言われたこととシンクロする部分もたくさんあったよ。
良かったら読んでみて。
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ネットで見てみたけど、この本、りんごさんも読んでみたら良いかもね。
読みやすそう。
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めちゃめちゃ、読みやすくて、そのうえ、笑いどころも満載だよ。
惚れた。作者にも一遍にも。
ブルーハーツの曲のリンクを貼ったのも、
自分の中で、一遍とブルーハーツの甲本ヒロトが、すごくかぶったの。
海さんの感想ぜひ聞きたい。
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あ、海さん、興味なかったらいいからね。
お金ももったいないしね。
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わかってるよ。
いちいち気にしなくて大丈夫よ。
自分の行動は自分で選択するから。
約束は出来ないけど、気が向いたら読んでみる♪
犬さんこの前書いてた、念仏唱える人間には上中下のレベルがある、みたいのも気になったし。
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押しつけがましかったかなあって、反省しちゃってね。
しょっちゅう、そのことで、自己嫌悪に陥るw
押しつけがましさというのも、神経症の症状のひとつだよね。
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「死してなお踊れ」より
他力にすがって往生しましょうと、そこまではいいのだが、
さらにこまかいことをいって、まわりと競い合っていたら、
かならず自力我執がうまれてしまう。
たとえば、法然のいっている他力にはまだ自力の要素がのこっているんじゃないかとか、
親鸞にもそういえるところがあるんじゃないかとか、ひとの文章をあげつらって、
そんなことをとやかくいっていたら、けっきょく、自分の理論が正しいんだとかいって、
それに執着してしまうのだ。自力である。
だから大事なのは、そんなこだわりさえも捨ててしまって、ひたすら念仏をとなえることだ。
死ぬ、死ぬ、死ぬと思いながらナムナムいって、頭を空っぽにしてゼロからはじめる。
なんにもなくなる、なんにでもなれる、なんでもやれる、仏にもなれる。
これをやるのは理論を学んでいるひとほど難しいことなのだろう。一遍からのアドバイスだ。
こまかい違いは気にするな。死力を尽くしてバカになれ。
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だと思った。
わたしもそうだから。
だから、そういう事をしないように、自己嫌悪に陥るたびに、次はやめようと一回づつ決意し直す。
これが永遠に続いてて、そうやっていくうちに、いつか、自分の在り方が自然に変化する。
けど、わたしには気つかわなくて大丈夫だよ。
相手次第だよね。
わたしは今はね、自分のお勧めとかは、他人には、極力、勧めない事にしてる。
極力、自分の影響力を相手に残したくない、みたいな感じ。
感謝され過ぎて相手の中に自分が残るのも困るし、逆も困るから。
自分なんかいなくても、世の中は回ってる、という意識があるくらいがちょうどいい。
人の役に立つ為に、無理な努力しなくてすむから。
無理しなくても、自分の居場所というのは、消えたりしないよ。
あとね、押し付けがましさが神経症の症状とか言うのを聞くとね、神経症者だけが押し付けがましいわけじゃないと、返したくなる。
神経症者の自分への特別性、手放していこうね。
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> 死力を尽くしてバカになれ。
これ良いね^ ^
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「死してなお踊れ」より
カネがほしいとか、名誉が欲しいとか、異性が欲しいとか、うまいものが食いたいとか、
そういう五欲をひとの生きる尺度にしてしまったら、そうしなきゃいけないと思ってしまったら、とんでもないことになる。
みんな欲をむさぼり、みたされなければいかりくるって、おろかなことをしてしまうのだ。
それが、「貪瞋痴」の三毒である。むろん、そんなことをしていたら、だれだって、「地獄、餓鬼、畜生」の三悪道に落ちてしまう。
地獄におちてもだえ苦しみ、あがいてもあがいてもぬけだせず、
あげくのはてに、それがあたりまえのことなんだ、しかたのないことなんだとおもうようになってしまうのだ。
だから、お前がほんとうに救われたいとおもうなら、まずは五欲と三毒をたちきることだ。
念仏をとなえろ。自分を捨てろ。人間を捨てろ。捨てろ、捨てろ、捨てろ。
一遍はそれしかねえよといっているのである。
人間の脳天をかちわって、その本性をひきずりだせ。衆生はそのままで仏である。
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りんごさんへ
りんごさんの、過去の、強迫神経症の恋人の話ね、わたしと似たところがある。
全然違う事もあるけど。
でもだから、りんごさんは、わたしに対して好意的に向き合えてたんだと思う。
わたしの場合はね、お風呂は、ひどい時は、月に一度か二度。
隣の部屋に移動しようと決意し、隣の部屋にたどり着くのが、数時間後。
発狂しそうな頭を、自分自身でなんとかしようと、ずっとしてた。
で、ここからは、あなたの恋人とは、決定的に違うのだけど、わたしは、神経症の苦しさに対しては、誰かに救いを求めた事はなく、ずっと一人でやってきた。
そもそも、お風呂にもろくに入っていない汚い自分を、他人には見せられない。
このようなプライドも常にあり、わたしの本当の苦しさは、誰にも知られてない。
だから、いくら周りから、役立たずや怠け者と言われようが、こっちは限界までやってきてるので、そう思われるのなら仕方ないと思ってきた。
結局ね、自分を、真にわかって、愛してあげられるのは自分だけ。
こう思うから、ありのままを愛してもらえないなら、こっちから願い下げ、みたいな生き方になった。
承認欲求、手放す道が、神経症を手放す道。
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>わたしは今はね、自分のお勧めとかは、他人には、極力、勧めない事にしてる。
極力、自分の影響力を相手に残したくない、みたいな感じ。
感謝され過ぎて相手の中に自分が残るのも困るし、逆も困るから。
自分なんかいなくても、世の中は回ってる、という意識があるくらいがちょうどいい。
人の役に立つ為に、無理な努力しなくてすむから。
無理しなくても、自分の居場所というのは、消えたりしないよ。
なるほど!
ケースバイケースだとは思うけど、
日常生活では、海さんと同じように、心がけたいと思った。
他人に影響を与えたいというのも、
神経症の症状のひとつだよね。
この場合の、神経症とは、人間の持っているエゴという意味ね。
いわゆる神経症者とは、
誰もが持っているエゴの分かりやすい見本だと思ってる。
誰ひとりとして、対人恐怖を抱えていない人はいないのに、
いわゆる対人恐怖者だけが、対人恐怖ということになってしまうのは、ちょっとおかしいかなと。
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上に書いた通りなので、わたしは、ネットで買い物したりした時のレビューなんかも書かないようにしてる。
レビュー投稿に対しておまけが付いてくる場合は、ケースバイケースで書いたりはするけど、おまけ貰ったら、レビューは削除してる。
影響力って、波のように繋がっていくから。
出来るだけ、今に今、完結しながら生きたいからね。
自分の知らないとこで、自分の影響力が発揮するのは、ある意味、恐ろしいと思う。
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神経症(わたし)や、いわゆる心の病と言われるものに、医者は必要ないと悟った時。
わたしは、昔、自分が変な事を言ったりやったりしていないかを、常に自分で監視しながら生きていたんだけど、これ、先生の前に言っても変わらなかったのね。
つまり、先生に対して向き合う事も、ただ単に他人に向き合っているに過ぎないだけで、医者であろうがなんであろうが、わたしが他人に向き合う在り方には変化なんかないという事に、自分自身が気づいたんだよね。
結局、自分に対して、正常か異常かを判断してるのは、自分自身。
だから、基本的に、神経症というのは、他人から、あなたはおかしくないと言われても、自分は自分を変だと思って自信が持てないんだよね。
自分は自分が受け入れてあげるしか、真の自信なんか持てないという事が、自分でわかってるという事。
結局ね、人の、地位や名誉なんか、わたしにはなんの意味もないものであり、先生の前で、無防備な自分になれないのに、先生がわたしを治せるはずないんだよ。
これを悟れば、救いなんか、他人に求めなくなる。
あと、病院、行くとこ行くとこ、その病院には変な噂がある事があとからわかったり、警察が入ったりするところだったりと、病院やめない限り、こういった縁が続いていたんだなあと、あとから気づいた。
で、心に対しては、病院は、完全に意味がないと悟った。
いわゆる心の病も、ある意味、病気でもなんでもないものだから。
世の中、病気などは、ある意味では、存在しない。
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自殺する人としない人の違い。
この答えは簡単。
自殺する人というのは、ただ単に、頑張り方が、自分勝手だったから。
自分しか見えていなかったから。
周りの人との相互作用で創造された現実でもある為、自殺によって受ける周りの人の苦しみも、お互い様。
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結局ね、自殺も他殺も、ある意味では、同じ事。
どちらも、この世が自分の思い通りにならない事に対しての、逃げの行為。
思い通りにならないのは、本来、当たり前な事。
この世には、他人というものもいるんだから。
つまり、これらを受け入れられなかったという事。
色んな場合いるけど、自殺になれば、人は相手を哀れみ、他殺になれば、人は相手を恨む。
これ、情に流されるという事であり、執着になるという事であり、人の上に立つか下に立つかの違いであり、同じ事。
傷つけられるのも、傷つけるのも、同じ事。
だから、この世には、正邪はないんだね。
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> でも、HNさんのところや、斎藤さんのところに書き込んでいる人は、
神経症者の中でも、基本的に、恵まれている人のような気がする。
そりゃそうだよ。
わたしが、ある意味では、信頼が置けるような相手だから。
斎藤さんもHNさんも。
現実というのは、お互いの相互作用によるもの。
つまり、斎藤さんもHNさんも、他の神経症サイトをやってる人達よりも、幸せな人間だから、目の前に投影される他人も、恵まれた人が多いんだよ。
あと、あのサイトから、人がいなくなってくるというのも、そういう事かな。
だから、あの人達の自覚意識が何を思おうが、無為療法信者は、最終的にはいなくなる。
自覚意識なんてものは、本当の自分を勘違いしてる事もあるからね。
自分の本性というのは、自分の目の前に投影される現実が示している。
だから、夢さんみたいな、一見良い人であったり、一見幸せそうな人であっても、人との縁に恵まれるとは限らない。
一見ワガママ放題な人の方が、愛があるという場合もあるしね。
一見というものも、あてにならない。
人は、心の目も大事。
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自殺について。
自殺というのは、周りの人の心を殺すのと同じようなもの。
だから、周りが見えているのなら、いくら孤独な生活していようと、自殺なんかしない。
心と身体を同等のものとして見る事が出来れば、自殺と他殺は同じ事だとわかる。
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犬さんへ
上から目線、、、
そういう捉え方してないよ
浄土ね、死んだら浄土があるなんて
思ってないよ
)一遍
いっぺん、呼んでみるr_(^^;)ゞ
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海さんへ
〉だから、りんごさんは、わたしに対して好意的に向き合えてたんだと思う
そうだね、元カノが強迫だから理解あるよ
海さんもお風呂ね、、そうやったんやね
〉隣の部屋まで数時間、、
前にも書き込みんでたね
トイレに数時間かかるっていう人も知ってるから
その人が、なごやクリニックで凄く改善したって
言ってたから3年ほど前に海さんに紹介したけど
スルーだったね、、海さんが決めることだから
海さん体調悪いと言うことだけど
お大事に。
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りんごさんの、誤字って、最近はなんだか愛らしく見えるw
多すぎるよ^ ^
こんなに多い人も珍しいw
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りんごさん
さっき書いたのは、かなり昔の話。
りんごさんと知り合う前の話。
今はね、パートで働いたりもしてて、何の問題もないよ。
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犬さんへ
図書館にあったからまた呼んでみるよ
https://drive.google.com/file/d/1JdOSGiIfKeX7ZKPx137xbrywAravKurx/view?usp=drivesdk
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海さんへ
〉りんごさんの、誤字って、最近はなんだか愛らしく見えるw
りんごに惚れるなよww
パートね調子いいんだねよかったよかった
元カノは調子し悪いね、、
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> 死ぬ、死ぬ、死ぬと思いながらナムナムいって、頭を空っぽにしてゼロからはじめる。
これ、わたしが、身体の動きを止めて苦しい状態に在る時の状況に似てる。
頭をカラにしてから、目の前の事に手を出して動き出す、という繰り返しに生きてきたのが、わたしの神経症。
だから、動き出す前に、ある意味、一旦死ぬんだよ。
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お。りんごさんに興味を持っていただけたか〜。うれしや、うれしや。
あと、
魚川祐司の「だから仏教は面白い!」と「仏教思想のゼロポイント」もおすすめ。
ぼくは、お釈迦様のオリジナルの教え、原始仏教を知ってから、
俄然、仏教の面白さが分かるようになった。
原始仏教を知らずに、
道元、親鸞とかを学んでも、
ほとんどの人は、間違った解釈をしてしまうと思う。
間違ったというのが語弊があれば、浅い解釈。
ここもそろそろお開きが近づいてきたみたいだけど、
最後、りんごさんに興味を持ってもらえて、うれしいよ。
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心臓も、負荷が極まると、丈夫になるのかも?
ストレスも、極まると、良いのかも?
長い間、生きた心地した事なく生きてきたから。
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> 魚川祐司の「だから仏教は面白い!」
これは、わたしは面白くて、スラスラ読めた。
キリストの、なんとか講座?の分厚い本は、わたしはいらないと思って、捨てちゃったけど(^_^;)
本の処分した時期があったものだから。
心が整理されるたびに、断捨離みたいのやってる。
周りの状況と心をシンクロさせながら生きるのが、断捨離。
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偉そうに言ってるかもしれないけど、
自分にもまだまだ理解していないことは、たくさんあると思ってる。
「涅槃の境地に至るまでは、自分が理解したと思ってはいけない」
そんな言葉もある。
仏教の真理なんて、
自分ひとりだけで学べるたぐいのものなんかじゃないから、
お互い対等な立場で、学び合うことが大事だと思ってる。
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海さん、奇跡講座捨てちゃったかあ。なんか高い本買わせちゃったね。
自分も、
最近は、奇跡講座自体は全然読んでない。難しすぎてw
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その時の自分は、必要だと思ったから買ったんだから、なんの問題もないよ。
昔を後悔しても始まらない。
過去というのは、失敗を感じたなら、次からは同じ事をしないようにという教訓の為にあるだけ。
過去の自分を受け入れられないというのは、他人を受け入れられないのと同じ事。
だから、自分の過去を受け入れられない人は、他人を受け入れられなくなる。
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塵も積もれば山となる。何事も。
これがわたしの生き方。
だから、極端な努力などは、最初から出来ない。
筋トレも同じ事。
今の自分が出来る範囲でボチボチ生きよう!
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あと、継続は力なり。
苦しみを忌み嫌わず、現実逃避しなければ、必ず道は開ける。
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神経症だけに限らないが、
神経症とは、、
今までの自分(生き方、在り方)に対しての不信感が積もりに積もって発症するもの。
だから、今までの自分の在り方を見直す必要があり、だからこそ、立ち止まって考える時間を持たされる事になる。
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> 「涅槃の境地に至るまでは、自分が理解したと思ってはいけない」
この境地に生きる自分を自覚出来る自分がいる間は、涅槃とは言わない。
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だから、名が残っている人の中には、最終的な答えなどない。
最終的な、見本という指針などは、どこにも存在しない。
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いまは、「死してなお踊れ」を書いた栗原康の、別の本、
「何ものにも縛られないための政治学」を読んでるけど、これまた面白い。
ワクワクする。
この本も、最後まで読めそう。
読書恐怖のぼくが最初から最後まで読める本って、
10冊買って、1冊あるかないかなんだよね。
栗原康のほかの本も、
「はたらかないで、たらふく食べたい」、「村に火をつけ、白痴になれ」も買ったけど、
この2冊は、最後までは無理そうかな。
栗原康と海さんって、
とても通じるものを感じる。
海さんって、アナキストなんだよ。たぶん。
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本を読む人の中には、
最初から最後まで読まないと気が済まない人がいるけど、
ぼくの場合、本の中に面白さを感じないと、頭の中にまったく入ってこなくなるから、
そういう読み方はできない。
人間関係も、同じ。
面白さや心地良さを感じない人とは、ぼくは長く付き合えない。
こんなワガママで未熟な自分に、
以前は劣等感を感じていたけど、最近はあまり気にならなくなってきた。
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> 海さんって、アナキストなんだよ。
これ、カテゴリーだよね。
今はまだ、ある意味では過程なので、カテゴリーの中に、自分が投影されちゃうのかもね。
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先日、ひさびさにHNさんのところ覗いたんだけど、
一時、掲示板が動いていた時期があったんだね。
もう完全に止まったのかと思ってたw
りんごさんの、この詩すごくいいね。
http://nomura.sub.jp/contents3.html
あと、「心も身体も仏の借り物」という言葉も。
りんごさんの真骨頂は、
相互間会話をしているときも、
インスピレーションで、一人語りをしているときの言葉かも。
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アナキストという言葉は確かに、カテゴリーだけど、
アナキストとは、ある意味、カテゴリーをぶっ壊す存在というカテゴリーって感じ。
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> ぼくの場合、本の中に面白さを感じないと、頭の中にまったく入ってこなくなるから、
自分が受け入れを許可したものしか頭には入らない。
わたし、昔、ほとんど形だけだけど、宗教団体に入信していたという話したでしょ。
あの頃に聞かされていた話、あの頃、頭に全く入ってこなかった。
つまり、自分が他人に振り回されない状態になるまでは、神経症によって、他人から洗脳されないように自分で自分を守ってるという事になるかな。
だから、他人から洗脳されるのもされないのも、全ては自己責任。
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自分に対して、過大評価しなくなってくれば、劣等感、消えるよね。
優越感は、これと逆かな。
だから、優越感は、弱さの現れ。
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