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お城に行ってみました

1紋章官:2014/02/15(土) 14:09:32
大雪です。出かける用がないのはありがたい。ただし、午前中は団地の雪かきで
腰が痛い・・・月曜日は会社の雪かきをしたくないなあ〜溶けて〜

さて新規ネタ、お城を見てきました!と打ち上げてみましたが、案外、行っていない。
学生時代、何やっていたんでしょうね。そんなささやかな、ありふれた観光地のお城
見物話。
まずは大阪城へ行ってみました!15年前の旅行でのお話。石垣の話はいろいろ紹介
されているので、おしゃべりするなら堀の深さを感じましょう!案外、気が付きにくい
のですが、大坂城は上町台地の突端部にあります。
そのため、通常、見学コースとなる南や西側から行くと、平城の感覚を受けますが、
淀川べりからみると、平山城的な高さを感じることができます。
水上バスで見上げるとちょうどいいのかもしれません。ただし、今はどうでしょうか?
建築物で見えにくくなっているかもしれませんが・・・
それゆえ実際、城を一周してみると城の場所が築城適地だったことがわかってきます。
それになぜこれほど堀が深い事も、台地の上という立地ゆえと理解できます。
もちろん、石山御坊、豊臣期大坂城と土台に2段階あり、その上に盛土したとはいえ、
これほどの高さにするのは容易ではありません。
どうなのでしょう?地形的に上町台地の突端であり、一番比高地が高い場所でも
あったのかもしれません。この地形的トリックはしばしば城郭を歩いていると見られ
ます。有名な上田城も河岸段丘を活用しており、南からは平城でも別方向からは山城、
また戦国最大の争奪戦の対象となった沼田城も街道から見ると段丘上の山城、しかし
一度、台地に上ると平城となります。
このあたり城郭の地取り(選地)のひとつの技法だったのかもしれません。
どうでしょう?行かれることがあれば、そんな視点で見てみませんか?それでは

2紋章官:2014/02/21(金) 22:29:22
ソチ・オリンピックもまもなく終わりですね〜そして、やっと土曜日が晴れ
るみたいで、一安心。今日は山梨県にある工場まで物を届にいってきま
したが、まだまだ雪景色。20年近く山梨へ毎月のように通ってきましたが
こんな光景初めて!河口湖の親戚も4日間、家から出れなかったそうです。いやはや

さて大河ドラマも進み、黒田官兵衛は荒木村重の所へちょくちょく
出かけております。そこで村重の奥方「だし」が登場しましたが、この名前、
記録にもある実在の人物。それも「信長公記」「織田軍記」など日本側だけ
でなく、ポルトガル宣教師の報告書にも「DAXIS」(つづりはよかったか?)
とのっている女性。ただし、これは後の織田信長による荒木村重一族処刑時
の記録で、その時、年齢が「21」とか「24」という若さ。そのため、現時点で
でてくると年齢が〜また年齢から正室かどうかは不明。
ついでにこの「だし」を母とする幼子が辛うじて乳母の手で連れ出されて、
本願寺に逃げ込み生き残り、成人しては絵師になる。
その長じて名前を岩佐又兵衛。桃山から江戸前期の絵師として知られます。
マンガ「ひょうげもの」では青年になってから出てきている、あの人です!
又兵衛はそんな事情から、母などを見捨てた父の荒木姓ではなく、母方の
姓を名乗ったと考えられており、それゆえ「だし」も岩佐という姓と考え
られていますが、それ以上は不明です。
その「だし」ですが、実名ではなく、住まいの場所からきた呼び名と考えられて
います。有名なのは豊臣秀吉の側室茶々は「淀の御方」、他に「松の丸」、
長浜時代の「南殿」等々。それゆえこの「だし」も城郭用語の「出丸」「出城」を
いみする「出し」に由来すると考えられています。思わぬところで城郭用語!

また荒木村重の有岡城は戦国有数の堅城。なにしろ2年近い攻防戦を耐えた
もので、総構えや石垣を備えていたことが絵図や発掘から判明している
大城郭。ただし、市街地化して痕跡は地上ではほとんど見えない状態。
いささか残念なところです。

それで不思議なのは茶を楽しんだ数寄者で、城郭史に足跡を残す人物
はみな織田信長に反旗を翻す。最初が多聞山城、信貴山城の松永久秀、
次が有岡城の荒木村重、とどめが福知山城、坂本城の明智光秀。
豊臣秀吉が茶を本格化させるのは大坂以後といえるので、この時点では
まだ範囲外。じつに不思議なところです。それではまた!

3紋章官:2014/03/01(土) 01:35:07
また雪が降るかも、天気予報が気になります。オリンピックも終わり、テレビも
通常番組が戻ってきました。

さて「お城をみに行ってきました!」話。城を見に行くのは何も遠くでなくても
いいのです。横浜北部に住んでいますが、地元には戦国時代の城跡、それ
も良好な状態の城跡が散在しています。
この手の城跡、残りがいいところは交通が不便なおかげで破壊から免れる
か、交通の便がいいがために住宅地や学校建設で破壊されるかという運命。
そんな中、駅から徒歩10分以内、駅から眺められる場所に城跡がある、と
いうのが横浜市市営地下鉄センター南駅から行く「茅ヶ崎城跡」。
土塁、空堀、郭が良好に残存。公園に整備され、見物が容易です。この城、
古い本では関東の丘城の典型として紹介される城跡です。
何しろ駅から見えますからね〜交通の便はいいですよ。バスを乗りつぐ
必要がないのですから。
ここは川を隔てて対岸には国指定弥生環濠集落「大塚遺跡」が目の前に
見えます。この「大塚遺跡」は環濠集落といっても、丘陵の頂上部にあり、
いわゆる高地性集落的な要素を持っています。
ちなみに中国自動車道など高速道路の工事でしばしば中世城郭と弥生の
高地性集落が重なっているのが発掘調査で知られています。
防御性や見晴らし、水の条件でいくと同じような立地になる、ということが
わかります。それだけに、川を隔てて環濠集落と中世城跡が見れることでも
便利なところです。
ここから歩いていくか、次の仲町台駅を降りて丘陵を下がっていくと谷間に
張り付くように堂々たる屋敷門が見えてきます。
これは国指定重要文化財「関家住宅」。門、主屋などが指定されています。
現在も居住されていますので見学できませんが、ここは戦国末期から
江戸初期の豪農というより小田原北条氏に属した地侍の居館住宅。
10年ほど前に解体修復工事が行われ、その結果、古い部分は戦国
末期、北条家滅亡前後までは遡れそう、との見解になっています。
関家は戦国期までは武士、江戸時代は帰農して農家として500年、この住居を
守り続けてきたものです。横浜の文化財というと、どうしても文明開化のミナト
ヨコハマのものに目が行きますが、こんなものもあるのです。
城好きの友人によると、周囲の林の中に土塁や空堀の跡が残っているそうです。
地侍の館ということで、防御性を考えたものとなっているわけで、茅ヶ崎
城跡にも戦国期にはこのような建物があったかも知れない、と想像する
助けになります。案外、地元にもこんなものがあるもので、遠出しなくても城跡
見物ができるものです。
先の城好きの友人いわく、府中の方でも方形居館跡の郭が空堀を残して現在
も住宅としてあるそうです。
案外、地元で穴場を探してみるのもいいかもしれませんよ。それでは

4紋章官:2014/03/08(土) 01:00:58
なにやらまた雪がまった都心ですが、この寒さいつまで続くのでしょうか?
さて昨日の新聞には機織りの埴輪の復元が紹介されていましたが、こう
いうのを見てしまうと、古墳の方にまたひかれ始めるものです。

さてお城に行ってみました!話。彦根城へ行った時、ここで何が面白いと
言って、転用材の宝庫、その柱や板が面白くてしょうがない!
城は新設と言いつつも、建物、石垣などを周辺の城や寺院などから運び
こみ、建設するのは常識。石垣の墓石、石棺、石仏などは良く紹介されて
おり、目にすることは比較的容易。
一方、上物である建物は火事で失われるので、築城時の初期建築が残
っていないことや、明治の廃城のさい、取り壊されたりして失われる。
そのため、そもそも城の建物自体が少ない中で、さらに築城時の初期
建築を残しているものでないと、なかなかこの転用材はないもの。
ただし二条城二ノ丸御殿などは新築のため、転用材観察はできません。
なにしろ、築城時間の短縮のため使えるもの、転用できるものはみな使う。
これでいくと墨俣一夜城伝説の築城方法もその延長上と発想すれば、
それほど突飛な方法ではないのです。
さて彦根城。ここは近江の戦国・桃山期城郭を寄せ集めた城。伝承から
して小谷、長浜、大津、佐和山などの城から移築したと伝えられる櫓、
門などがぞろぞろで、それが今も残る。
柱や梁をみれば、古いほぞ穴がいくつも見られ、柱もちょうな仕上げが
のこるものも多い。天守は元大津城天守からの転用で、解体修理の際
柱の調査から、旧大津城天守が五層だった復元案が作られています。
なかでも古風なのは太鼓門。伝承からして寺院の楼門だったというよう
に、他の建築に比べても古式で板などは城のものにしては細い感じ。
このあたり、長浜の大通寺に残る山内一豊時代の長浜城台所門が、
分厚い板材であるのに比べて、線が細い感じがします。
そんなわけで、彦根城へ行ってみたら、転用材を楽しんでみましょう。
それでは


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