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那覇高校26期同期会掲示板

297宮里 賢:2015/06/21(日) 01:13:27
三条木屋町界隈・・・徒然なるままに
M君、有難う。「岬めぐり」や美濃部亮吉都知事の物まね入りの「走れコータロー」は好きな歌です。来年の同期会では「数十年」ぶりにお会いしたいものです(山里君、期待しています)。

さて、大河ドラマ「花燃ゆ」は明21日で「池田屋騒動」シーンもあり、いよいよ幕末の激動期
が描かれるようです。そこで、皆さんの中で散策された方も多いと思われる、三条木屋町界隈と関係事件・人物について記します。半径300メートル程、那覇なら、モノレール県庁前駅を中心にして、県庁前交差点から日銀(商業高校)前交差点くらいの範囲をイメージして下さい。

江戸時代の東海道。「お江戸日本橋、七つ発ち、初上り・・」の大名行列や旅人の、上りの終点であり、東下りの起点が、鴨川に架かる三条大橋。その三条大橋を西へ。先斗(ポント)町を過ぎ50メートル余で、南北に流れる幅4メートル程の小川があります。森鴎外の「高瀬舟」の舞台、高瀬川です。江戸初期に、角倉了以によって開削された運河で、洛中と伏見の中書島(大坂方面への玄関港)とを結んでいました。この高瀬川が流れ、両側に居酒屋などが連なる幅10メートル前後の風情のある通りが木屋町通りです。

東西の三条通りと南北の木屋町通りが交わった地点が三条木屋町。高瀬川に架かる橋が三条小橋。現在、観光客と共に大学生など若者が多く行き交うこの界隈。志途中で倒れた者、明治の元勲となった者。幕末も多くの若者がこの地に足跡を残しています。

先ず、池田屋。三条小橋から、西へ50メートル弱の場所。現在、「旅籠居酒屋」となっています。1864年6月(旧暦、以下同様)、宮部鼎三ら長州系の志士らが新選組に襲われ、10人以上が死亡。このとき、松下村塾四天王の一人、吉田稔麿は長州藩邸まで助けを求めた後、死亡したとされています。池田屋から西へ100メートル程で河原町通り(那覇なら国際通りに相当)。そこを北に曲がると、当時は加賀藩邸。そのまま200メートル弱走ると長州藩邸でした。
ちなみに、「逃げの小五郎」と呼ばれた桂小五郎は、池田屋が襲撃された時、運良く、近くの対馬藩邸に寄っていたそうです。その後、禁門の変(蛤御門の変)で敗れた後、鴨川の河原で乞食を装って、幕府の追及を逃れたそうです。その際、三条木屋町の北側の置き屋の芸妓・幾松が身の危険を冒し握り飯を運んだそうです。後の木戸孝允夫人・松子です。
長州関係でもう一人。村医者出身ながら西洋兵学を修め、第二次長州征伐や上野彰義隊討伐で功績を挙げた大村益次郎。明治初期、徴兵制による近代陸軍創設に着手し、三条木屋町近くの宿で不平士族に襲われ、大阪で死亡しています。

また、同じく西洋兵学を修め、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬の師であった佐久間象山。三条木屋町近くの路上で、尊王攘夷の志士に殺害されました。
そして、象山にも学んだ坂本龍馬。その龍馬が率いた海援隊の拠点が置かれた「酢屋」。実は、池田屋の真南、50メートル程の場所にあります。三条通りの一筋南の通り(現龍馬通り)に面しています。 龍馬の先輩で、土佐勤皇党の頭領・武市半平太の京での住まいも三条木屋町を少し南下したところにありました。龍馬や半平太が三条木屋町近くに住んだのには理由があります。木屋町通りの三条と四条のほぼ中間に土佐藩邸があったのです。
そして、薩長同盟に貢献した坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された「近江屋」は、土佐藩邸のほぼ真西100メートル強の河原町通り沿いにありました。

ところで、坂本龍馬が殺害された宿を「寺田屋」と誤解している人もいらっしゃると思います。
寺田屋は、高瀬川の終点、伏見の中書島にある舟宿です。薩摩の伏見藩邸に近く、薩摩藩士や、龍馬のような薩摩系浪士がよく投宿していました。たしかに龍馬は寺田屋投宿中に伏見奉行所の役人に襲われ負傷したものの、薩摩藩邸に匿われ助かっています。
実は、寺田屋は沖縄とも少し関係があるのです(やや、強引ですが)。池田屋騒動の2年前。歴史的には、池田屋騒動以上に大きな影響を及ぼした寺田屋騒動があったのです。薩摩藩の西郷・大久保等の誠忠組内の尊王攘夷急進派を、島津久光の命を受け、同じ誠忠組藩士が鎮撫した事件です。この時、10人程が同志打ちで死亡していますが、鎮撫士側の中心である大山格之助(綱良)奈良原喜八郎の捨て身の説得で、西郷従道、大山巌等が帰順しています。その奈良原喜八郎が後に1892年から1908年まで沖縄県知事を務め、戦後日本のマッカーサーのような存在だった奈良原繁です。

幕末、明治維新直後以外に三人。池田屋から100メートル程、西へ行くと河原町通りと述べました。そこから西側歩道を北に50メートル程行くと小さな通用門があり、「本能寺」と書かれています。そうです。その通用門の20メートル程西側からは本能寺の境内なのです。もっとも、織田信長が明智光秀に討たれた時は別の場所にあり、秀吉の時代に現在地に移したものですが。
三条木屋町から北へ500メートル程の二条木屋町。鴨川から水を引揚げた高瀬川の起点近く。角倉了以邸がありました。志半ばに倒れた志士と異なり、幕末・明治維新を生延び、元勲となった山県有朋が買取り、「無鄰菴」と名付けました。ちなみに、四月に名前だけ記した岡崎にも「無鄰菴」があり、1903年、そこで、もう一人の元勲・伊藤博文と桂太郎首相とで「無鄰菴会議」を行い、対ロシアの基本方針を決定しました。

つい見過ごしてしまう、繁華街のここかしこ、ごく普通の住宅街に、歴史の跡が残っている。京都はそういう街です。
他府県の人には、沖縄の良いところ、知られていないことを話したくなります。それと共に皆さんには、十代から過ごしている京都のことを話したくなります。
「花燃ゆ」ご覧のついで等、徒然なるままに読んでいただければ幸いです。


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