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日本大陸を考察・ネタスレ その152

715透過の人:2019/07/21(日) 17:45:34 HOST:softbank126077075064.bbtec.net
日墨ルート
1924年3月5日、オスマン帝国に激震が走った。原因は当時アラビア半島で進行中だった、
ワッハーブ派掃討作戦の最中にメッカ太守フサイン・イブン・アリーが自らを真なるハリーファ(カリフ)として宣言、
オスマン帝国に対するジハードを呼びかけたことである。
この事件の背景には第一次世界大戦以前から続く問題、帝国内の格差問題とオスマン帝国のカリフの正当性への疑問があった。 
アラビア半島は日墨英仏の支援で、オスマンの近代化が進むにつれて未開で困窮した土地へと変わりつつあった、
そこにはかつて、香辛料や乳香の交易で栄えた商人の地の面影は無かった。
そして、起こった第一次世界大戦においてアラビアに住む人々はカリフたるメフメト5世のためにと出陣したが、それは何の利益をもたらすものでは無かった。
こうして帝国中央に対する不満が渦巻くと忘れ去られていた1つの問題に火をつけた。
オスマン帝国のカリフ位の正当性問題だった。カリフは本来預言者ムハンマドと同じクライシュ族出身でなければならなかったが、
オスマン帝国はアッバース朝のカリフから禅譲を受けたことを根拠に強引にカリフ位を主張していた。
やがて、欧州列強の進出による危機感と続く戦争によりイスラーム世界(スンニ派)の統一が求められるようになり、その地位は益々安泰化していた。
蜂起したアラブ人たちはその矛盾をついたのだ。更に彼らはロシアの動乱期において赤軍に与して戦った革命家ミールサイト・スルタンガリエフの主張をも取り込み(注1)、
社会主義的な色彩の強い再分配を重視した社会建設を訴え、それこそが正しきウンマであると喧伝した。
このことから、フサインを赤いハリーファと呼ぶ歴史学者もいるほどだ。
結局、この3月5日蜂起と呼ばれた反乱は10月にはオスマン軍によって鎮圧された(注2)、皮肉にもこの事によりオスマン帝国の権威は高まった。
しかし、同時にこの反乱によりオスマン帝国の持つ問題が明らかになったのも確かであり、
翌年の1925年8月30日、オスマン帝国はドナウ連邦等を参考にしたテュルクアラブ連邦への移行を宣言したのだった。

注1 彼は社会主義におけるイスラームの重要性を提起したが、彼自身はパンテュルク主義者でもあった。
注2 ただし、フサイン等の思想はイスラーム社会主義という形で穏健化したものが生き残っていくことになる。




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