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【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

225煌月の鎮魂歌10 16/43:2017/08/12(土) 22:52:14
 喘ぎ、すすり泣きながらユリウスはそれでも立とうとした。とたん、目にもとまらぬ一
撃で脚を払われ、背中をうたれた。手のひらで叩かれたようにその場に押しつぶされ、這
いつくばってもがいた。
 全身が重く、冷たい。きしむ骨の一本一本が音を立てて砕けていくのがわかる。指を離
れた鞭をさぐろうとして指を動かすと、苦痛の花が全身にひらいた。喉の奥から糸を引く
苦鳴がもれる。
 ゆっくりと相手が近づいてくる。必死に反撃の方法をさぐろうとするが、身体はまった
く言うことをきかない。痛みの巣となった脚も腕もだらりと垂れたまま動かず、燃えるよ
うな苦痛だけが存在している。
 男がすぐそばに立った。静謐な存在感と、圧倒的な力の気配だけが感じられる。
 そしてあの目。
 夏空の色をした、あの男の青い目が。
「お──まえ──だけは」
 もがき、ユリウスは呻いた。ざらついた声がやすりとなって喉をこすった。苦い血が舌
をこがし、頬が濡れた。
「お前だけは──許さない……」
 鋭い一撃が肩胛骨の真ん中を打ち、起きあがろうとしたユリウスをふたたび地面に釘付
けにした。
「お前だけだ。あいつはお前しか見ない。お前のことしか考えていない、それなのに、お
まえは──あんたは、あいつを独りにした……」
 しゃべると血が筋をひいてしたたった。落ちた滴は赤く、ぼんやりとにじんでいた。頬
を伝う熱いものを、ユリウスはぬぐわなかった。身も世もなく、彼は泣いていた。マンハ
ッタンの毒蛇が、幼い子供の涙を流して、人目もはばからず泣き崩れていた。

226煌月の鎮魂歌10 17/43:2017/08/12(土) 22:52:50
「あんたしかあいつを温めてやれるものはいない。なのに、なんでそばにいてやらなかっ
た。なんであいつを独りにした。あいつは五百年間ずっと独りだった。あんたのことしか
見ていないのに、あんたはどこにもいない。血の継承なんかくそくらえ。ここにいるべき
なのは、本当は俺じゃなくてあんただったのに。あいつを守ってやれるのは、あんただけ
だったのに、なのに、なんで死んだ」
 かざした拳は床にうちつけられた。「なんでなんだよ」
 また打ち据えられるのかと一瞬思ったが、苦痛はやってこなかった。そのことにユリウ
スはいっそう傷ついた。
 子供じみた理屈で、道理に合わない難詰をならべているのは十分知っている。ユリウス
が求めるのは、罰されることだった。あの銀色の月を、救うことも守ることもできず、そ
の心の空虚を埋めるすべさえもたないまま見つめるしかない自分。あまりに遠いその心に
ふれることすらできず、苛立ちのままに蹂躙することしか知らなかった。
 いつか見た光景が脳裏にまたたく。寝台で眠る男と、そのかたわらに膝をついて身じろ
ぎもしない白い影。わかっていた──この男もまた、ユリウスと同じく、月を抱いて過ご
す永遠を望んだのだと。
 しかし、陽光と夏に属する彼を、闇と冷気の世界へ引き込むことを月は肯んじなかっ
た。離れたのは月のほうだ。魂を捧げた恋人に、身を縛る呪いの円環をきせまいと、ひと
しずくの血を残しただけで姿を消した、敷布に残った薔薇の花弁、赤い涙のあと……
 だが男はあきらめなかった。人が唯一永遠を得られる方法で、いつか目覚めるもののた
めに寄り添うべきものを遺した。自分の血を引き継ぐ子孫。血の中に受け継がれた生命が
必ずまた愛する者を迎えると信じて、力と意志を後の世に送り出した。
 だが彼が考えなかったのは、血の器として生まれたものたちにも心があり、魂があった
ことだ。引き継がれた血はどうしようもなく愛を求め、喪われたものの代わりに自分がな
ることを欲する。どうあがいてもかなえられることのない願い。月が求めているのは遠い
昔に別れた相手だけだというのに。器でしかない自分は本物にはけっしてなれないと知り
つつ、だが、愛することはやめられない。

227煌月の鎮魂歌10 18/43:2017/08/12(土) 22:53:24
 血の呪いというなら、これこそがまさにそうだ。けっして自分を見ない相手を、狂うほ
どに愛しつづける運命を刻まれている。魂を焦がす苦悩は、同時にあまりにも甘美だ。ど
れほど憎もうとしても、かぐわしい月の光にふれればたちまち幸福が全身を満たす。
 だが月を癒すことはだれにもできない。喪われた本当の伴侶以外には。絶望と愛に引き
裂かれながら見つめるものの前で、月は手も届かない高みで輝く。その光で万物を照らし
ながら、自らは、孤独のうちにただ刻々と凍りついていくというのに──
 頭上で相手がゆらりと動いた。
 もはや口もきけず、うなだれたまま涙で頬をぬらしていたユリウスは、今度こそ審判が
下るものと感じ、戦慄にも似た期待に身をこわばらせた。相手は一歩前に進み出、ゆるや
かに身を屈めてきた。濃い茶色のかたい髪が頬をかすめた。
(──、)
 耳に吹き込まれた一言に、ユリウスはまばたいた。
 予想もしない言葉だった。思わず相手を振りあおごうとしたとたん、身体が傾いた。反
射的にもがいて掴まるところを探したが、触れたところから白い床は霧となって虚空にと
け、ミルク色の粒子が渦を巻いた。
 再びユリウスは落ちた。無音の虚無をどこまでも落下していく。自分の赤毛が上方に向
かって吹きなびき、握った鞭もまた何かを求めるかのように遠い空へとのびている。
 小さくなる視界の中心に、あの男がいた。同じ鞭をもち、夏空の青の目をして、読みと
れない表情を血を継ぐものに向けている。
 そのひらいた胸元に、小さく光るものをユリウスは見た。無骨な指先が、いつくしむよ
うに触れている。鎖を通して首から下げられた、きゃしゃな銀色の指輪。まるで月光で─
─彼のあのひやりとする髪をとって編んだかのような、細く美しい指輪。

228煌月の鎮魂歌10 19/43:2017/08/12(土) 22:54:05
「ユリウス?」
 急速に音が戻ってきた。
 ユリウスは目を開き、真っ白な床と、そこに立つ自分のブーツのつま先を見つめた。驚
くほど頭が澄み渡っていた。つい今まで感じていた苦痛は夢の一片として記憶にあるばか
りだった。
 腕は眼前の函の中に伸び、そこに置かれた古びた革鞭の握りをつかんでいる。函のかた
わらには崇光が立ち、油断のない姿勢で手をなかば持ち上げている。強烈な視線がこちら
にむけられているのを感じる。
「ユリウス? どうしました?」
 ユリウスは長い息をついた。
 そしてゆっくりと腕をひき、鞭を函からとった。
 ひどく軽かった。これまで持ったどの鞭よりも軽く、それでいて弱々しいところはまっ
たくない。なめし革で巻かれた握りは手にしっくりと吸いつく。生まれてこの方、この鞭
を手放したことなどないように感じた。はじめから身体の一部だったという気さえする。
編んだ革の先にまで神経が通い、鞭がこすった繻子の布のなめらかさまでも指に触れる。
 それでいて、新たな力が身のうちを駆けめぐっている。先ほどまでは圧迫感としてあっ
た強烈な力と霊気が、血管に流れる血と同様に心臓を出入りし、神経の火花として動いて
いる。
 両手に持って鞭を張ると、小気味いい音がした。軽くしごいて力をくわえる。鞭はしな
って大きな弧を描き、幾重もの円を繰り出して、一瞬にしてまたユリウスのもとにもどっ
た。受け止めたユリウスの手で、鞭は機嫌のいい猫のように温かく身を丸めた。
「鞭は彼を使い手として認めた」
 低い声がした。崇光は振り返った。アルカードが壁際から歩いてきて、ユリウスの前に
立った。あとからイリーナが小走りにやってきて少し離れたところで立ち止まり、鞭を手
にしたユリウスを丸い目をして見た。

229煌月の鎮魂歌10 20/43:2017/08/12(土) 22:54:46
「……そのようですね」
 からになった函と、輪にした鞭を手に黙って立ちつくしているユリウスを崇光はしばら
く見比べていたが、やがて小さく息をついて蓋をとじた。うつむいた顔は表情を消してお
り、そこからは、ユリウスが死ぬことも狂うこともなく、試練に合格したことを喜んでい
るのか苦々しく思っているのかは、見分けられなかった。
 ユリウスはぼんやりと鞭を腰のベルトにつけた。すでにそれは呼吸するのと同様に、ご
く自然な日常のものとなっていた。アルカードは鞭を見つめ、またユリウスを見つめた。
氷青の瞳の奥に金色の光がちらつき、ユリウスはめまいを覚えた。
「よかったわ、ユリウス」
 イリーナがやってきてユリウスの手をとった。
「新しいヴァンパイア・キラーの使い手の誕生ね。どうなるのかと思って気が気じゃなか
ったけど、あなたが無事生き残ったのはうれしいわ。鞭の使い手がいなければ、ドラキュ
ラの打倒は不可能なんですもの」
「……俺はどのくらい眠っていたんだ」
 無意識に指を曲げ延ばししながらユリウスは尋ねた。「眠っていた?」イリーナはけげ
んそうに眉をひそめ、
「眠ってなんかいないわ。あなた、鞭にさわってほんの一瞬固まっただけよ。一秒もなか
ったんじゃないかしら。スーコゥが声をかけたら、すぐ動き出したわ」
 ああ、とユリウスは呻いた。
 あのどこともしれない虚空で相対した男の顔が目の奥にある。鞭に宿る英霊──数多く
のベルモンドの魂がこの鞭にはこもっているはずだが、その中であの男が姿を現したの
は、はたして鞭の意志なのか、それとも──
 ユリウスはアルカードの目を真正面から見た。アルカードはまばたき、それから顔をそ
むけた。珍しいことだった。いつもは、目をそらすのはユリウスの方だというのに。

230煌月の鎮魂歌10 21/43:2017/08/12(土) 22:55:20
 俺はあいつに会った、という言葉が喉まであがってきた。だが唇を開いたとき、声にな
ったのは別のことだった。
「俺は聖鞭の所持者になった」ユリウスは言った。「満足か?」
 アルカードの肩がふるえた。視線をそらしたまま彼は手をあげ、胸元をさぐるような仕
草をした。そこに何もないことに気づき、はっとしてやめる。ユリウスはふたたびめまい
を感じた。あの男が触れていた銀色の細い指輪が浮かんだ。月の色の金属、まるで目の前
の者の髪をとって編んだかのような。
 わけのわからない苛立ちが押し寄せ、ユリウスはブーツを鳴らして背を向けた。崇光は
音をたてずに函をしまい、儀式の道具をもとに戻している。イリーナはなにかしゃべりな
がら後についてきた。ほとんど注意を払わず、ユリウスは扉があったと記憶しているあた
りに歩み寄り、手を伸ばした。記憶と感情が再び平静をとりもどすまで、誰にも会わず、
夢も見ずに眠ってしまいたかった。
 ほとんど継ぎ目の見えない壁面にユリウスが触れようとしたとき、壁の向こうがわか
ら、あわただしい気配が伝わってきた。一歩下がって、すでに肉体の一部となった聖鞭の
柄に手を触れる。イリーナが急に頭をあげ、鼻をつきだして空気をかいだ。魔女の瞳が緑
色に爛々と燃えだした。
『非常事態……大変です……害──……様が』
「なにがあった」
 ユリウスの手の甲を一本の指が押さえた。いつの間にかアルカードがそばにいて、ユリ
ウスが鞭においた手を人差し指で抑えている。彼は頭をかたむけ、扉のむこうに耳を寄せ
た。
「どうしたんです」
 崇光もやってきて、三人をかばうように扉との間に立ちふさがった。
「ここにはだれも近づいてはならないはずです。いったいなんの騒ぎですか? 闇の者の
襲撃ですか?」

231煌月の鎮魂歌10 22/43:2017/08/12(土) 22:55:54
「ラファエル」
 突然、イリーナが言った。三人の青年はぎょっとしたように少女を振り返った。
「何か見えるのですか、イリーナ」
「大きな闇。強力な暗黒の力。どんどん大きくなってる」
 そう呟くと、イリーナは震えはじめた。見開いた両目にみるみる涙がふくれあがる。両
手で口をおおって、震えながら少女はしゃくりあげた。
「ああ、駄目、駄目よ、ラファエル、その手をとっては駄目。でももうあの子に声は届か
ない。誰の声も聞こえない。あの子は行ってしまったわ、闇の奥へ、魂の深淵に潜む夜の
領域へ。誰かあの子を止めて、あの子は、もっとも忌まわしいものとして、自ら生んだ暗
黒の淵に沈もうとしている。彼を救ってあげて」
 崇光が鋭く息を吸った。飛びつかんばかりに壁に手を伸ばした彼を、「待て」とアル
カードが制止した。
「開けるな。聞け」
 崇光はまばたき、頭をもたげて耳をすませるしぐさをした。イリーナは震えてしゃくり
あげている。ユリウスはわれ知らず少女の肩に手を回し、そばに引き寄せていた。自然に
鞭に手が伸びる。ヴァンパイア・キラー。吸血鬼殺しの鞭、闇のものを払う聖なる武器
は、まるで狩猟の予感にわななく猟犬のように感じられた。
「近くにいる。接近している」自然に言葉が漏れた。アルカードがちらりとこちらに視線
を投げた。
「なんということだ」崇光が吐息のように呟いた。
 壁のむこうで重いものの倒れる音が連続した。古くなった果物の潰れる音、あるいは水
を詰めた袋が破裂する音。そうした胸の悪くなる音のあいまに、さらさらという衣擦れの
ような音が混じる。舌なめずりと小さな足音、忍び笑い、そして風を切るなにか細いもの
のたてる音──

232煌月の鎮魂歌10 23/43:2017/08/12(土) 22:56:30
「皆、離れなさい!」
 崇光が叫ぶと同時に、アルカードが彼をかかえて数メートル近く後ろに飛びすさった。
ユリウスも、ほとんど考えることなくイリーナを抱いて同様にしていた。床におり、本能
の訴えるままに少女を腕にかばって身をかがめる。ほとんど時をおかず、壁面にひびが入
った。一瞬、黒い爪のようなものが見えたが、すぐに縦横無尽に飛び交うなにかが、傷一
つない壁をずたずたに引き裂いた。
 破片が崩れ落ちる。イリーナをかばいながら、ユリウスは頭を上げた。破壊された壁の
むこうに、小柄な影が立っている。背後は暗い。濃い血臭と、なまぐさい腐臭が流れ込ん
できた。蒼白い鬼火が明かりの代わりに、点々と闇を照らしている。
「アルカード、見てよ、僕、立てるようになったんだよ」
 無邪気な声がした。彼はゆっくりとがれきを踏み越え、破壊された室内に入ってきた。
 金髪の巻き毛を輝かせ、満面に誇らしげな笑みをたたえた、すらりとした少年。萎えて
骨と皮ばかりだった彼の下肢はまっすぐで強く、こともなげに段差を踏み越えてそのてっ
ぺんに立っている。
 靴先が血しぶきで赤く染まっていた。少年は呆然と見上げるひとびとを見回し、主人然
とほほえんだ。手には宝石で飾られた豪奢な鞭がある。鞭は油を塗られて黒く、無機物に
擬態した爬虫類めいていて、少年の手のうちで悪意のこもったとぐろを巻いていた。
 一目見た瞬間、強烈な嫌悪と反発がユリウスを襲った。それはいま彼が手にしている鞭
の、完全な陰画として作られたものだった。光に対する闇、肯定に対する否定、真実に対
する欺瞞。存在すること自体が聖鞭ヴァンパイア・キラーに対する侮辱であり、使い手に
対する嘲笑だった。
 アルカードの唇がうすく引き締まった。蒼氷色の瞳が色を淡くし、揺らめいて、黄金色
の炎に変わって燃え上がった。
「……ラファエル」
「ラファエル」くいしばった歯から、ユリウスは声を絞りだした。
「なんで、おまえが──」

233煌月の鎮魂歌10 24/43:2017/08/12(土) 22:57:04
 ラファエルの顔がひきつった。
「僕の名を口にするんじゃない、野良犬!」
 絶叫とともに鞭の一撃がとんだ。ユリウスはヴァンパイア・キラーをあげて応えた。二
つの鞭はぶつかり合い、火花を散らして絡み合ったのち、弾けるように双方の所持者のも
とへ戻った。ユリウスはしびれた指をもみ、イリーナをさらに後ろへ押しやった。
「お前なんか、生まれてきたのが間違いだったんだ」
 ゆらゆらと上半身を揺らしながら、ラファエルはまた笑った。彼の萎えていた足はまっ
すぐに立ち、なんでもないことのようにがれきを踏みこえて、凍りつくユリウスたちに近
づこうとしていた。砕けたがれきがこまかい塵になり、煙となって立ちのぼった。血の臭
いがさらに強くなった。崩れたがれきのむこうに、潰れた肉体がいくつも散らばり、血の
池を作っているのがちらりと見えた。
「間違いは正さなきゃいけない、そうだよね、アルカード? あなたのそばに立つのは、
僕のはずなんだから。でも、そんな野良犬の手で汚された鞭なんて、もういらない。僕は
僕のための鞭を手に入れたよ。だからこっちに来て、アルカード。僕、歩けるし、走れる
よ。あなたの隣で戦える。こっちに来て、僕といっしょに遊ぼうよ、アルカード」
「目を覚まして、ラファエル!」
 イリーナが前へ出ようとして、崇光とユリウスに押し戻される。小女王の威厳をたもつ
余裕もなく、少女は身を揉んで泣きじゃくった。
「あなたはベルモンドの長なのよ。どうしてこんなことを──」
「うるさいなあ」
 うんざりしたようにラファエルは片目を細めた。

234煌月の鎮魂歌10 25/43:2017/08/12(土) 22:57:38
 とたん、流れ込んできていた黒いもやが凝集し、蝙蝠の羽を持つ芋虫のかたまりがイ
リーナに飛びかかった。イリーナは悲鳴をあげて顔をおおった。ユリウスの手と、瞬時に
姿を表したバーディーの吐く炎が宙を走った。ユリウスの拳につぶされ、炎に焼かれて魔
物はあっという間に灰になった。ラファエルの澄んだ笑い声が響いた。
「ベルモンドなんてもうどうでもいいんだ」
 くすくす笑いながらラファエルは楽しげに言った。
「父上は裏切り者だ。そんな汚い野良犬を作っておいて、よくベルモンドの当主だなんて
言えたよね。さっさと放り出して、生まれにふさわしいどこかのどぶで死なせるべきだっ
たのに。なのに、そいつを家に入れて、僕の代わりにしようだなんて、許せないよ。死ぬ
べきなんだ、みんな」
 ほがらかにラファエルは言い切った。
「薄汚い雑種がみんなを汚してしまったんだから、汚いやつらは、みんな消してしまわな
くちゃ。必要なのはあなただけだよ、アルカード」
 息すらしていないかに見えるアルカードに、ラファエルは手をさしのべた。哀願するよ
うに、
「あなたは、どんなことがあっても汚れたりしないもの。馬鹿なやつらが邪魔したりさえ
しなきゃ、あなたは僕のものなんだ。それがいちばん正しいんだ、アルカード、なのにど
うしてまだそんな奴のそばにいるのさ?」
「だめよ、みんな、落ち着いて、静かにして」女主人に加えられた危害に反応して猛り立
つ四聖獣を、必死にイリーナはなだめている。
「あれはラファエルなのよ、何かにとりつかれて、あやつられているだけなの、彼を傷つ
けることはできないわ。お願いだからおとなしくして、みんな、あたしは大丈夫だから─
─」

235煌月の鎮魂歌10 26/43:2017/08/12(土) 22:58:15
 ラファエルはうんざりしたように首を振った。「邪魔しないでったら」
 崇光がうめき声を上げた。
 懐に忍ばせた呪符を取りだそうとしていた手がずたずたに裂け、鮮血が滴っていた。両
手のひらと甲が骨に届くほど深々と裂かれて、はじけた生爪が指先にぶら下がっている。
「みんないらない」
 手に陰の聖鞭をもてあそびながら、ラファエルは奇妙にしなやかな足取りでがれきを乗
り越えてきた。
「おいでよ、アルカード」
 少年は愛らしく小首をかしげて呼びかけた。
「ベルモンドなんてもうない。魔王封印なんて知らない。僕にはあなたさえいればいいん
だ。ねえアルカード、僕のこと、好きじゃないの? 好きでしょう? 僕、あなたがいれ
ばとても強くていい子になれるよ。世界なんてどうでもいい、人間なんて、僕にも、あな
たにも、ひどいことしかしてこなかった。みんな滅んでしまえばいい。僕と、あなたと、
たった二人きりで、いつまでも楽しく遊んでいようよ、アルカード」
 さしのべた両手に点々と血が飛び散っていた。アルカードは爛々と燃える目をすえてそ
れを見つめていたが、ややあって顔を伏せた。かと思うと、はじかれたように頭を上げ、
目にも留まらぬ動作で何かを投げた。細い銀のナイフが宙を飛んで、ラファエルの背後の
虚空に突きたった。
「ベスティス女侯爵。──お前か」
 低く、アルカードは呟いた。
「ムタルマ女伯爵はおまえの姉妹だったな。彼女が先に侵入したのもお前の差し金か。ラ
ファエルをとらえてどうするつもりだ」
『今さらそれをお訊ねになりますの? 尊き君』
 ねっとりと絡みつくような女の声がした。

236煌月の鎮魂歌10 27/43:2017/08/12(土) 22:59:05
 ラファエルの背後から白い腕が伸び、少年の体を抱き込むように巻きついた。微笑した
ままのラファエルの顔のそばに白い影がにじみ出て、黒い髪を奔放に乱した美女の顔にな
った。
 以前に表れた妖女ムタルマ女伯爵の顔に似ていたが、こちらのほうがはるかに美しく、
さらに邪悪で、虹色のオパールに似た目は緑色にきらめく鱗で縁取られていた。頭と両手
以外は空中にとけ込んだ霧となっていて定かではない。女はふっくらした唇を開いて婉然
とほほえみ、少年の頬に耳をすり寄せた。空中にとどまった銀の投げナイフがぱらぱらと
落ちる。一本をつまんでみだらなしぐさでその刀身に唇をよせ、舐めあげた。
『わたくしども姉妹がどれほどあなたさまをお慕い申し上げているか、子存じないはずが
ありませんわ。妹はいささか性急にすぎてあなたさまのお手討ちにあいましたけれど、き
っとすばらしい最期を迎えたことでございましょうね。いずれ魔王ドラキュラ様ご復活の
折には妹もあらたな姿でよみがえるのでしょうから、そのとき話を聞くのを楽しみにして
おりますの。この少年はとても気に入りましたわ、若君、とても闇が濃くて、狂うほどあ
なた様を愛していて、まるで、わたくしたちのよう』
 微動だにしない笑みをうかべているラファエルの頬に口づけ、額をさすり、耳朶を赤い
舌でたどる。見ているだけで、こちらの魂までも直接舐めずられているようなおぞましさ
がこみあげてくる。
「あんたが殺したのね、闇の者」アルカードのマントの後ろに押しやられたイリーナが、
なんとか前に出ようともがく。
「ラファエルのそばについていた人たちはどこ? ボウルガード夫人も、まさか、あんた
が」
『ああ、彼女? 彼女なら、ここにおりますわ』
 むっちりと脂の乗った肩が表れた。見る間に、白い肉は粘土のように盛り上がり、うね
うねと蠢いて、ひとつの年老いた女の肉面を作り上げた。手のひらほどの大きさに縮小さ
れていたが、それは確かにボウルガード夫人のしぼんだ顔だった。イリーナはかすれた悲
鳴を上げた。

237煌月の鎮魂歌10 28/43:2017/08/12(土) 22:59:44
 ──許すものか。
 ボウルガード夫人の面は小さな口を開いて呟いた。唇がめくれて歯が見え、小さな瞼の
下で悪意に満ちた目が白くきらめいた。
 ──許すものか。ベルモンドの長はミカエル様の正統でなければ。どこの馬の骨ともし
れぬ雑種が。許さない。許さない。わたしではない誰かの子が、ミカエル様のあとを継ぐ
など。許さない。許すものか……
『この女は先代のベルモンドにたいそう恋着していたそうな』
 猫撫で声で妖女は言った。
『正式に結ばれた妻ならまだあきらめもつく。だが、そうではない女の息子など、許さな
い。自分ではない女が、妻でもないのに、愛しい男の情を受けたなどと、認めない。自分
こそがそうなるべきだった地位を、横から奪い去った女の子供など、けっして、けっして
許しはしない……』
 妖女は白い手を口にあてて狂笑を放った。ユリウスはただ茫然として、声もなく口を動
かしているボウルガード夫人の、憎悪と嫉妬にゆがんだ肉の面を見つめていた。
『哀れな女。恋しい男を思いきるために結婚して外国に渡ったというのに、夫は戦災で死
に、出てきた家に再び舞い戻ることになってしまった』
 いつくしむように妖女は老女の顔の輪郭をたどった。
『けれども男の息子の養育をゆだねられ、妻ではなくとも子を育てることはできると、そ
れだけは心をこめて養育してきた。なのに、その子は体の自由を失い、いてはならない私
生児が呼び寄せられて、その子の場所に座ろうとする。自分があきらめた男の愛を手に入
れて、子まで生むことを許された女。自分が育てた子の権利を奪い取ってのさばろうとす
る雑種。どうして許せるものか。許せるはずがない。みな死んでしまうがいい。わたしで
はなくほかの女を、ほかの愛を選んだ男の息子も。みなことごとく闇に沈め。世界も、人
も、砕けて消えてしまうがいい』

238煌月の鎮魂歌10 29/43:2017/08/12(土) 23:00:31
 途中から声はしわがれたボウルガード夫人のものになっていた。腫物じみた老女の顔が
ぶつぶつと口を動かすのに合わせて、毒のしたたるいまわしい呪詛が低く紡がれていく。
「いつから夫人に憑いていた。どうやって彼女をたぶらかしたのだ」
『たぶらかしてなどおりません。この女は自ら私を呼んだのですわ。その魂に育てた闇と
憎しみとで。お気づきにならなかったのは、若君、あなた様でいらっしゃいます』
 またなめらかな声に戻って、妖女ベスティア女侯爵はいとおしげにボウルガード夫人の
顔をさすった。それからからふいに爪をのばし、老女の顔の白い目玉に深々と突き刺し、
えぐった。か細い悲鳴があがり、ユリウスはぎょっとして鞭を取り直した。
「やめろ、化け物!」
『おや、いっぱしの口をきくのだね。ベルモンドとは名ばかりの雑種風情が』
 女侯爵は冷然たる目をユリウスに向けた。あげた爪から古い油のようなどす黒い血と漿
液がしたたった。
『お前こそがこの悲劇を招いたのに、よくもまあそんなことが言えたこと。お前と、お前
の母の存在が、この子とこの女を狂わせたというのに。この子の呪いを聞かなかったのか
え? わが宿りとなった哀れな女の叫びは? いまいましい聖鞭を手にしたからといっ
て、思い上がらぬがいい。お前の存在は、血を分けた弟の魂を踏みにじった上に成り立っ
ているのだよ』
「耳を貸すな、ユリウス」
 アルカードがささやいた。ユリウスは頷き、一歩前に出た。鞭を持つ腕が熱湯に浸けた
ようにちりちりと熱い。ラファエルはほがらかな笑みを顔に貼りつけたまま、妖女の腕の
中に身を預けている。
「ボウルガード夫人、どうしてアルカードはこっちに来ないの?」がんぜない幼児のよう
な舌足らずの口調でラファエルは尋ねた。

239煌月の鎮魂歌10 30/43:2017/08/12(土) 23:01:05
「あいつが邪魔しているせい? あいつ、まだ、僕のことを邪魔するの?」
「──俺はラファエルの相手をする」
 ユリウスは言った。
「おまえはあの女魔物をやれ、アルカード」
 アルカードは瞬いてなにか言おうとしたが、ユリウスは重ねて強く、
「これはヴァンパイア・キラーの所持者が対処することだ。鞭は鞭でしか砕くことができ
ない。崇光」
 背後でイリーナを抱えている崇光に呼びかける。
「あんたはそのチビを守れ。いまのあんたじゃ戦力にはならない。チビとけだものどもも
だ。自分とそいつの身を守ることに専念しろ。俺とアルカードが片付ける」
「──承知しました」
 一瞬の間を置いて崇光は応えた。抵抗するイリーナヲ腕にしっかり抱き込み、裂けた手
を振って血の滴で自らの周囲に円を描く。金色の光炎がぱっと立ち、崇光とイリーナを光
の網でくるみこんだ。
(アルカード! ユリウス! ……)中でもがいているイリーナの姿がぼんやり見える。(ユリウス!)
 泣き声混じりのイリーナの声を後ろに聞きながら、ユリウスはあらためて、両手にぴん
と鞭を張った。鞭の発する力と精気が全身に脈打った。自分自身の陰画である暗黒の鞭を
目前にして、鞭が嫌悪に身震いするのを感じた。
「僕に逆らう気なの? 雑種のくせに」
 ラファエルはそりかえって笑った。手首を返すと、紅玉と琥珀で飾られた闇の鞭が寒気
のするような音をたてて風を切った。
「ああ、でも、そのほうがいいね。そうすれば、僕の方が強いってアルカードもわかって
くれるもの。ねえ、見ててね、アルカード。あなたにひどいことをした野良犬を、僕、ち
ゃんとこらしめてあげるから」

240煌月の鎮魂歌10 31/43:2017/08/12(土) 23:01:53
『よろしいのですか? あの二人を争わせておいて』
 妖女は白い霧となってゆらりと漂い離れた。女の顔をした霧の塊が宙を移動し、凝固し
て、豊満な肉体に純白のドレスをまとった、黒髪の女が立ち上がる。
「ヴァンパイア・キラーは闇の存在を許さない。自らの影の鏡ならばなおさら」
 アルカードはすでに剣の鞘を払っていた。相対するユリウスとラファエルからじりじり
と離れ、砂でざらつく円形の広間の端へと移動していく。
「そして私もお前の存在を許さない。闇に還るがいい、ベスティア女侯爵」
『ええ、でも、その時はあなた様もご一緒に、尊きお方』
 妖女は両手を高々とかかげた。白い腕が伸び、また伸び、さらに伸びた。めきめきと関
節が音を立て、数を増やし、凝乳のようななめらかな肌が、黒々と渦巻く剛毛に覆われ
た。地の底からの笑い声がすさまじく轟いた。女の顔が裂けて牙をむきだした鰐めいた野
獣の顔となり、硫黄の息を吐いて咆哮した。
 ユリウスは床を蹴り、ほほえむ腹違いの弟にむかってまっすぐに襲いかかった。

               3

 二つの鞭の争いはまさに鏡の闘争だった。どちらもベルモンドの鞭術を身につけてお
り、血によって伝えられた技倆も同等だった。ラファエルが父によって訓練され、ユリウ
スがアルカードに訓練されたという違いはあったが、両者の身体を流れるベルモンドの血
脈は、それぞれの駆使するどんな攻撃も技も事前に察知して跳ね返し、さらなる逆襲に変
えて繰り出してきた。
 ユリウスはほとんどなにも思考しなかった。なにかを考える前に身体は反応しており、
呼吸するように鞭が動いて、攻撃し、防御し、貫き、打ち、払っていた。ユリウス自身の
精神はどこかにあって、奇妙に冷静な視線で戦闘を眺めていたが、その一方で、鞭と同一
化した一部が穢れた鞭の陰画にむかって怒りの声をあげ、戦いの昂奮に心臓を轟かせてい
ることも感じていた。

241煌月の鎮魂歌10 32/43:2017/08/12(土) 23:02:28
 鞭の試練で英霊の化身と戦ったときとは違った。あの時は、ユリウスと鞭とはあくまで
別の存在であり、それをあやつるのはユリウスの手であり意識で、鞭はユリウスの意志の
延長だった。
 しかし、真の所持者となった今、ユリウスにとって鞭は完全な肉体の一部だった。それ
以上であったかもしれない。肉体は鞭を操るための道具にすぎず、奇妙に冴えた意識はあ
らゆる空気の動き、気配の揺らめきをとらえた。ぶつかり合って離れる互いの鞭の衝撃は
そのままユリウスの肌に与えられる痛みで、相手の暗黒に染められた鞭の瘴気は、古くな
った酢のようないやな後味となって舌を刺した。
 攻撃しているのはユリウスではなかった。むしろ、主体となっているのは鞭の意志その
ものにほかならない。感じる憤怒と闘争心は、ただ冒涜された吸血鬼殺しの鞭の霊が発す
るものであって、ユリウスが感じているのは、ぼんやりとした苦痛と、静かに胸を浸して
いく悲しみの念だった。
 はじめて彼は、自分を憎む異腹の弟の顔をしげしげと眺めた。本当に子供だ、と思っ
た。ほんのガキだ。俺がブロンクスでネズミを食っていたときよりもっと──何も知らな
いガキだ。母親には放置され、父親には裏切られ、ただアルカードしか愛する相手を知ら
なかった、寂しい子供の顔だ。
 ユリウスは母の顔をほとんど知らない。だが、ナイフを振りかざした麻薬中毒者の前か
ら、息子を突き飛ばした両手は覚えている。幼い息子を壁際に押し倒し、背中を血まみれ
にしながら母は息絶えた。狂ったように踊り続けるジャンキーの靴に踏みにじられていた
母が、どんな顔をしていたのかもうわからない。苦痛の表情か、それとも──
 だが、ユリウスには、あのとき、目の前いっぱいに広がった母の手と、勢いよく突き飛
ばされた肩の痛みが、鮮明に残っている。激しい戦闘の中で、ふと、その手の感触を思っ
た。子供を抱えた若い女の生活が楽だったはずはない。その手は苦労の果てに荒れ、ひび
割れていたはずだったが、思い浮かぶ母の手は不思議にきれいでなめらかだった。その手
が髪をなでる感触さえ、今ははっきりと思い出せる気がした。

242煌月の鎮魂歌10 33/43:2017/08/12(土) 23:03:03
 おそらくラファエルは、そんなことも知らずに育ったのだろう。ベルモンドの末裔とし
て、聖鞭の所持者としての人生しか用意されず、またその人生しか自分にはないのだと教
え込まれて育った。愛情と言えるようなものはほとんどアルカードに対するものしか知ら
ず、すべてを失ったあと、そのアルカードすら見も知らぬ粗暴な異母兄に奪われたと感じ
た少年の絶望とは、いったいどれほど深いものだったのだろう。
 敵であるはずの闇のささやきに心を奪われるほどの苦悩を、彼にもたらしたのは確かに
ユリウス自身だった。ラファエルがもっと強靱であるべきだったということはできる。だ
が一度は孤独の中で、抱いてくれるものもなく泣いたことのあるものが、泣き方すら教わ
らず育ったものにむけてそのようなことを言えはしない。強靱であることを求められつづ
けたあげくに、弱さを自分自身にすら認めることができなくなってしまったのだ。
 かつて、ユリウスは弱い自分を嫌悪し、生きるために戦った。ラファエルは強者として
生き続け、それ以外の生を想像することがついにできなかった。哀れな子供とは、いった
いどちらのことなのだろう。
「なぜそんな顔をする?」
 ラファエルが叫んで、空中から強烈な一撃を繰り出した。ヴァンパイア・キラーは下か
ら跳ね上がり、暗黒の鞭に交差して、ユリウスの頭を割ろうとしたその軌道を変えた。
「そんな目で僕を見るな! 雑種のくせに! 雑種! 野良犬め! 父上にも見捨てられ
た、汚い捨て子のくせに!」
 そうだな、と声に出さずにユリウスは応えた。俺は捨て子で、私生児だ。お前からすり
ゃ雑種だし、街角で、ごみをあさって育ってきた、人殺しの犬だ。
 だけど俺は雑種の俺を知ってる。自分がごみあさりの野良犬で、どうしようもないごろ
つきだってこともわかってる。それが俺で、俺はこれまでそうやって生きてきて、ここに
いる。強さと純粋さしか知らないおまえが見たことのない、弱さと汚辱の底の底を、俺は
歩いてここへ来た。

243煌月の鎮魂歌10 34/43:2017/08/12(土) 23:03:38
「雑種! 私生児! ベルモンドの名前に値しない屑め、お前なんかが聖鞭を手に入れる
なんてあるはずがない! 消えろ、薄汚い犬! ただの人殺しの捨て子め!」
 ののしられようとも、もはやユリウスの心に怒りはわかなかった。ベルモンドの名も、
聖鞭の所持者の資格も、ユリウスにとっては自分とはほとんどかかわりのないなにかであ
って、たまたま運命がその気まぐれで与えたにはた迷惑な代物でしかない。それによって
自分を支えてきたラファエルにとって、それらを失うことは天地が砕け散るのと同じ災厄
かもしれない。だが、もともとブロンクスの〈赤い毒蛇〉として立ち、ベルモンドの名に
背を向けて成長したユリウスにとって、投げつけられる言葉はたんなる自己確認の意味し
かもたず、かえって、必死に言いつのる異腹の弟に、あわれみめいたものを抱かせた。
「なんとか言えよ、──ちくしょう!」
 白い歯をむいて、ラファエルは叫んだ。取り戻した足を踏みならし、ユリウスののど元
めがけて闇の鞭を飛ばす。皮膚のすぐそばへ迫る革でできた毒蛇の牙をユリウスは感知し
た。肌にとまる塵を払うのと同じだった。空中で屈曲したヴァンパイア・キラーはおよそ
物理法則を無視した動きを見せ、自らの暗黒の影を叩いて、その先を真っ二つに裂いた。
生きた暗黒の鞭は金切り声を上げてきしみ、よじれた。ラファエルもまたのけぞって腕を
押さえた。裂かれた鞭と同様、腕には肉のはぜた傷口が口を開いて湯気を立てていた。地
は一滴も流れなかった。
「なぜ? なんでだよ!」ラファエルは泣き叫んだ。
「僕は強くなったのに。偽ベルモンドの贋の鞭なんて、僕の敵じゃないはずなのに!」
「ベルモンドであろうがなかろうが、俺は俺だ」
 ユリウスは呟いた。ラファエルの耳には届いていないようだった。金髪を振り乱して叫
びつづける腹違いの弟に、これまで感じたこともないほど胸が痛んだ。できねことなら手
を伸ばして抱きしめてやりたかったが、それがもっとも、相手にとって残酷な侮辱となる
こともわかっていた。
「そして俺は、俺のやるべきことをやるだけだ、ラファエル。俺は──」

244煌月の鎮魂歌10 35/43:2017/08/12(土) 23:04:17
 言葉を切って、ユリウスは、生涯にたった一度の言葉を自分に許した。
「──お前のために、俺は、生まれてこなきゃよかったよな。弟」
 聖鞭は稲妻の弧を描いてとび、後退した闇の鞭を追撃した。裂かれた暗黒の鞭は身もだ
えして逃げ惑ったが、自らを冒涜する存在を聖鞭は許さなかった。黄金が剥げ、宝石が墜
ちた。ひび割れた革はこぼれて腐汁となって流れた。使い手もまた縦横無尽の傷を刻ま
れ、悲鳴をあげて倒れ伏した。投げ出された鞭が断末魔の咆哮をあげ、黒い塵となって四
散した。


 離れたところでもうひと組の戦いの舞踏が繰り広げられていた。ベスティア女侯爵を相
手取って、アルカードは複雑な剣閃のステップに足を踏み入れていた。妖女の長い髪は逆
立って千ものかぎ爪に変わり、銀髪の公子をあらゆる方向から取り囲んで引き裂こうとす
る。それを正確無比な攻撃で払い落としながら、アルカードの顔は小揺るぎもしなかっ
た。彼はどこか遠い視線で冷静に戦いの帰趨を見つめ、光と闇の鞭を戦わせているユリウ
スとラファエルの異母兄弟に目をやっていた。
『昔を思いだしますわ、若君』ベスティア女侯爵はささやいた。
『妹とともに参りました宮廷で、ごいっしょにこうしてダンスをいたしましたわね。覚え
ていらっしゃいますかしら。あなた様はとても幼くていらして、父君の膝の上からよちよ
ち降りてきて、わたくしどもの輪にお入りになりましたわ』
「あの時お前は美しかった。ムタルマ女伯爵も。父も。母も。すべてのものが」
 腹に食らいつこうとした巨大な鰐の首がパクッと音をたてて空を咬む。突き出た口吻は
一瞬にして輪切りになり、ばらばらと墜ちた千と見るに、それらはたちまちいやらしい針
を逆立てたやまあらしめいた生き物に変わり、いっせいにアルカードにとりつこうとす
る。軽くマントを払うと、ぱっと散った火花が小怪物どもを焼き尽くした。

245煌月の鎮魂歌10 36/43:2017/08/12(土) 23:05:19
『でしたらなぜ、わたくしどもと父君のもとにお戻りになりませんの? 人間の世など汚
く醜いことばかりだと、とうにご存じでいらっしゃいましょう。あなた様が見つけていら
したベルモンドの私生児は、鞭の代償にあなた様の御身を穢すことを望みましたわ。その
ような相手に、どんな義理があるとおっしゃるの』
「私の身などなんの意味もない。世界から魔王と闇の血を払い、これ以上の父の愚行を食
い止める、そのためだけに私は在る」
『魔界の至尊の血を受け継ぐお方が、どうしてそのようなことを』
「それがかつて母が願い、私が望んだことだからだ」
『そうして、ご自身ですら騙していらっしゃるのね。おかわいそうに』
 転がるがれきが身じろぎし、石でできた魔狼の群れとなってむくむくと起き上がった。
妖女の繊手が降られるが早いか、口と爪のついた毛皮の壁のような一団が、大津波となっ
てアルカードに迫った。腕を伸ばしてなぎ払うと、先頭の数頭が勢いのままに顎を裂か
れ、そのまま真っ二つになって転がった。血の霧は途中で崩れた壁の塵になり、もうもう
と立ちのぼった。
『どれほど人間に奉仕しようと、しょせんあれらは卑しい獣。高貴なるあなた様を受け入
れることはできません。わたくしはこの女の中でずっと見てまいりましたのよ』
 ざわざわと蠢く獣毛と爪と口、濡れた牙とぎらつく目と舌とおぞましいさまざまの中に
立って、ベスティア女侯爵は胸をはだけた。ゆたかな乳房の真ん中に、ボウルガード夫人
のひからびた顔が口を動かしている。そんな状態になっても、まだは彼女は生きている
のだった。うつろな白い目を開いて、報われなかった恋と、先代ミカエル、そしてミカエ
ルの愛を受けて息子を産んだ女に対する、尽きることのない呪詛を呟いている。

246煌月の鎮魂歌10 37/43:2017/08/12(土) 23:05:59
『ご覧くださいまし、この哀れな女を。自らに与えられなかった愛の幻ひとつのために、
わたくしに魂を食い破られても気づきもしなかった。いいえ、気づいていて、歓迎さえし
た。すでに死んだ女への嫉妬の炎がこの女の身も心も焼き尽くし、わたくしのために絶好
の扉を開いてくれた。この女にとって、みずからの嫉妬のためには、愛した男の息子もな
にもかも、絶好の道具でしかなかった。人間の、なんという悪辣さでございましょうね、
若君、わたくしども闇の者でさえ、愛にはもうすこし忠実ですわ』
「お前が私を殺して闇に連れ帰ろうとするように?」
『ああ、わかってくださるのね──』
 嬉しいわ、と女侯爵は歓喜に震え、かっと牙をむいた。美しい女の顔がばりばりと音を
立てて裂け、とげのような歯をおびただしくそなえたひとつの真っ赤な口になった。果物
の皮をむくように顔だったものがめくれあがり、首が伸びた。アルカードは剣をあげて応
じた。妖女の石榴めいた頭部が刃に当たって音をたてた。酸のしずくがシュウシュウと滴
り、踏みとどまるアルカードのブーツのそばを黒く焦がした。
『闇の者は一度愛した相手をけっして裏切りはいたしません』
 そのような状態でもどこでしゃべっているのか、女侯爵の声は嫋々と続いた。
『そして愛する者を愛という美名で縛りあげて自由を奪うことも。ベルモンド家の人間が
してきたことは、結局それではございませんでしたか? 人間にはあなた様を理解でき
ず、あなた様の力と長命と美は、結局は人とあなた様をへだてる壁でしかなかったので
は? いったい何人の人間を、あなた様は見送られました? まばたきの年月で燃え尽き
ていく人間など、あなた様には塵でしかない。なのにその塵が、塵なりのちっぽけで偏狭
なそれぞれの独善と執着心から、愛という名の鎖でよってたかってあなた様を縛る。あな
た様の苦痛など考えることもせずに』
「私が選んだことだ」
 短く答えて、アルカードは剣を振り払った。

247煌月の鎮魂歌10 38/43:2017/08/12(土) 23:06:33
『そうですかしら』
 押し返された妖女の頭がぐるりと円を描き、ごつんと音をたてて肩にもどる。くるくる
と巻き上がった革がまた、すましかえった女の妖艶な笑みを形作った。
『あそこにいる二人がいい例ですわ。彼らが、愛の名のもとにあなた様に何をしました?
 かわいそうな少年!』鈴の声で妖女は笑った。
『あの子はあなた様を愛していると思っているのですよ、こっけいだこと! 愛というも
のがどれほど危険か知りもせず! かわいいけれど愚かなあの子は、愛しさえすればあな
た様が愛してくれると無邪気に信じているのです。あの私生児もまた、同じく愚かしい愛
の迷妄にとらわれて、あなた様の幸福などみじんも考えない』
「お前は考えているとでもいうのか?」
『ああ、どうかお帰りくださいませ、闇へ、あなた様の継がれるべき世界へ!』
 女侯爵の声が熱を帯びた。
『あなた様は誰よりも、何よりも美しくまれな尊き血の君、人間などという不完全な生物
には不釣り合いな、完璧なる生命。狭量なこの人界はあなた様を傷つけ、苦しめるばか
り。どうして苦しみしかないとわかっている場にとどまり、あなた様を決して理解せぬ生
き物のために働かれるのです。苦悩と悲しみにさいなまれながら、人の身勝手な愛に切り
裂かれるあなた様を、どうして放っておけましょう』
 頭上に林のように垂れた鉤爪のある手が垂れ下がり、何十本ものしなやかな女の腕とな
ってアルカードに絡みついた。白い頬を撫で、肩をさすり、腰をたどってみだらな仕草で
哀願する。
「だから私の人の部分を殺し、純粋な闇の者とすると?」
『必要なことですわ!』女侯爵は叫んだ。若い処女のように、彼女は泣いていた。美しい
目から透明な滴がいくつも転がり、何十本もの白い腕にからみつかれたアルカードに向か
って、彼女はすすり泣きながら細い両手をさしのべた。

248煌月の鎮魂歌10 39/43:2017/08/12(土) 23:07:08
『あなた様の人の血が御心をまどわせているのであれば、まどいの元を取り除いてさし上
げるのがわたくしどもの務めです。ああ、愛しきお方、わたくしどもがどれほど愛し申し
上げているか、お見せできたら! でもきっと、人の血のまじった今のままでは、わかっ
てはいただけないのでしょうね』悩ましげに女妖は胸を抱いて悶えた。
『お願いですわ、剣をおろして、わたくしに身をお委ねになって。そのあとであれば、わ
たくしはお手ずから五体を引き裂かれて血の霧となってかまいません、いいえ、きっとそ
れは、この上ない愛の贈り物となりますわ。闇の愛の深さを歌いながら、あなた様の手で
死ぬのです。闇に還られたあなた様の前では、わたくしなどほんの蚊とんぼの一匹、わた
くしの愛など砂粒のひとつにも満たない。それでもわたくしは心から満たされて灰とな
り、あなた様が領される新しい闇の宮廷で咲く一輪の花となりましょう。永劫ののちにあ
なた様はわたくしをもう一度見いだし、踊っていただけることでしょう。妹のムタルマと
二人、わたくしどもは、果てなき闇の領主たるあなた様のもとで、人にはかなわぬ暗黒の
愛のとりことなるのですわ──』
 情熱をこめて語っていた女侯爵の言葉がふいに途切れた。
 妖女は両手をかかげ、胸の真ん中を突き通したアルカードの剣をつかんだ。ゆがんだ口
からどっと血があふれ、乳房と胸をまだらに染めた。
「愛なら知っている。人の愛も。暗黒の愛も」
 アルカードは呟いた。
 身を絡め取っていた妖女の触手めいた腕はまばたきの間に切り払われ、わずかな砂とな
ってこぼれた。両手で構えた長剣がまっすぐ突き出され、妖女の胸の真ん中の老女の顔を
貫いていた。
「私はかつて愛し、裏切った。そしてまた裏切ろうとしている。暗黒の愛が裏切ることの
ないものなら、愛を裏切る私は、おそらく闇のものではないのだろうな」

249煌月の鎮魂歌10 40/43:2017/08/12(土) 23:07:52
『お、お、若君──』ベスティア女侯爵はもがいた。胸を貫かれたとき、魔物としてのな
にか致命的な部分も砕かれたようだった。アルカードの長剣の切っ先は背中まで突き通
り、脂のような血を垂らしていた。心臓めいたどす黒い肉界が身体の外に飛び出して、狂
ったように拍動していた。彼女は答申を握りしめてあえいだ。両手が切れて、薔薇を思わ
せる鮮やかな赤の血がちらちらとこぼれ落ちた。
『なぜ拒まれるのです──どうして、そこまで──人の子などくだらぬと、だれよりご存
じのはずのあなた様が──ああ』
 必死に首をねじ向けて、妖女はかっと目をむいた。唇がめくれ上がり、美女の偽装がは
がれ落ちた顔は、銅色の毛に覆われたおぞましい獣の顔貌をむきだしにした。
『そんな! なぜ、あの男が? ベルモンドの私生児! いまいましいあの男! わたく
しの与えたあの鞭が、打倒されることなどありえない──』
「彼はユリウス・ベルモンド。ベルモンドの裔にして、聖鞭の所持者」
 アルカードはささやき、剣の柄をひねった。
「──闇を払う〈吸血鬼殺し〉の、使い手だ」
 一息に引き抜く。
 空気の抜けるような音がして、妖女は身を折った。かぼそい悲鳴がひびき、彼女はそれ
でも、なお愛する公子に両腕をさしのべようとしたが、かなわなかった。銅色の毛があせ
てゆき、硫黄のにおいがたちこめた。急速にしぼんでいくベスティア女侯爵の身体は、数
瞬のうちに腐った藁屑めいたものになり、虚空に溶けて見えなくなった。

250煌月の鎮魂歌10 41/43:2017/08/12(土) 23:08:28


「ユリウス」
 背後から近づいてきたアルカードに、ユリウスは意識を引き戻された。
 視界の端で金色の結界の光が消え、腕にイリーナを抱えた崇光が姿を現した。イリーナ
はぐったりとして意識がない。あまりの心理的負担が限界を超えたのか、それとも、これ
から起こることを少女には見せたくなかった崇光が眠らせたのかはわからない。
 ユリウスはちらりとアルカードを振り返り、また視線を落とした。戦いの高揚は消え失
せ、重い倦怠と悲哀が全身に覆いかぶさっていた。
 高揚も俺のものではない、とユリウスは苦く思った。この戦いに喜びはなく、ユリウス
の使い手としての初陣は、血を分けた兄弟を敵手とするものだった。鞭は自らの闇の鏡像
を打ち破ったが、ユリウスがいま眼前にしているのは、一度もわかり合う機会がなく、い
までは永遠にその可能性も失われようとしている、幼い異腹の弟だった。
「……アルカード?」
 ラファエルがぼんやりと目を開いた。瞳は白く濁り、もはや何も見えてはいないようだ
った。だらりと投げ出された手はまだなにかを握りしめるように曲げられている。ラファ
エルは頭を動かし、手探りするように指をひくつかせた。
「アルカード。どこにいるの」呟いて、ラファエルは左右にわずかに首を動かした。
「よく見えないや。僕、どうしたの? なにがあったの? せっかく動けるようになった
のに、どうしてだか、あなたが見えないや──」
 横たわる上半身に傷はなかったが、闇の力に浸された下半身は、ベスティア女侯爵が消
滅するのと同時に、黒い液体になって流れ去っていた。あとには萎えて骨と皮にしぼんだ
下肢が遺された。
 あおむいたラファエルの顔に、苦痛はなかった。少年は幼げな顔で、見えない目をふし
ぎそうに瞬き、しきりにあたりを見回してアルカードを探した。

251煌月の鎮魂歌10 42/43:2017/08/12(土) 23:09:07
「ねえ、アルカード、どこ……? 僕、強くなったでしょう? 立派なベルモンドの男で
しょう? これで、あなたのそばに立てるよね? 僕、あなたといっしょに、魔王を封印
する戦いに出るんだ、そうだよね?」
 かすかな鞘鳴りがした。アルカードが剣を抜いていた。
「俺がやる」
 剣を手にしたアルカードが前に進もうとするのを見て、ユリウスは語気荒く言った。
「こいつは俺の弟だ。始末をつけるのは、兄貴である俺の役目だ」
「さがれ」
「アルカード──」
「さがれと言っている」
「アルカード!」
「血族同士が殺し合うのはもうたくさんだ!」
 絞り出すようにアルカードは叫んだ。
 それからはっとしたように口を覆い、うつむいた。衝撃のあまり、ユリウスは動けなか
った。アルカードがここまで感情を迸らせるのもはじめてだったが、その時彼の顔を走っ
た、狂気に近い絶望の色がユリウスの胸を深くえぐった。
「ユリウス。こちらへ」
 崇光が腕に手をそえてユリウスを下がらせた。彼の顔も青白くこわばり、せねばならぬ
ことへの嫌悪と悲しみに凍りついていたが、口調に揺らぎはなかった。
 ユリウスは声もなくあとずさった。入れ替わるようにアルカードが前に出る。彼は剣を
構えて、ラファエルのそばに跪いた。白く光る切っ先が少年ののど元にさしつけられる。
「アルカード?」夢見るように少年は呟いた。
「アルカード、僕、鞭を使えるようになったよ。僕きっと強くなる、アルカード。あなた
に似合うくらい強くなるよ。父上よりも、先祖のだれよりも強くなるよ。僕を見て、笑っ
てよ、ねえ、アルカード。アルカード」

252煌月の鎮魂歌10 43/43:2017/08/12(土) 23:09:56
 切っ先が震えた。アルカードは長い息をつき、肩をふるわせて頭を垂れた。長い銀髪が
垂れ下がって顔を隠した。ユリウスは彼が泣いているのではないかと思った。だが、ふた
たび顔を上げたアルカードの目は乾いていた。
 その唇が小さく動いた。なんと言ったのか、ついにユリウスにはわからなかった。その
まま一息に刃が降りた。少年の声が断ち切られたように消えた。黒い塵がさらりと舞い、
そして、何も残らなくなった。
 なにもなくなった地面に、アルカードは膝をついた姿勢でしばらく動かなかった。剣は
切っ先を地面に突き立てたまま、白く輝いている。
「アルカード」
 呼吸すらしていないかに見えるアルカードに、崇光がそっと声をかけた。丸めた背に触
れようとした手から逃れるように、アルカードはすらりと立ち上がった。
「アルカード、彼は──」
「大丈夫だ」
 アルカードは言った。まるで機械に言わされてでもいるかのような、感情の窺えない声
だった。彼はマントを払い、平静な仕草で剣を鞘に収めた。唇がかすかに震えていたが、
ユリウスがそれを目にするより早く、強くかみしめられて見えなくなった。
「私は、大丈夫だ」
 アルカードは言った。崇光を避け、ユリウスをそっと押しのけて、廊下へ出ていく。
「大丈夫だ……」
 その動きのあまりのなめらかさに、ユリウスはほとんど狂い出しそうになった。駆け寄
って胸ぐらをつかむか、殴りつけるかなにか、どんなことでもいいから、彼が泣くような
ことをしてやりたかった。だが、血まみれの廊下に立つ彼の背中は、月よりも、星よりも
遠く、小さく、近づきがたかった。
 ──遠くの方から今さらのように、人の騒ぐ声と、あわただしい足音が入り乱れて近づ
いてきた。


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