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【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

1煌月の鎮魂歌 prologue 1/2:2015/02/25(水) 09:03:07
PROLOGUE 一九九九年 七月


 白い部屋だった。
 彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
 ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、
それらはみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、
遠ざかり、近づいてはまた離れていった。
 自分は誰なのか、あるいは、何なのか。
 生きているのか、死んでいるのか。
 ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわから
なかった。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらは
すべて彼の知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど
変わりのない単なる事実でしかなかった。
 ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
 そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、
暗黒の中を駆け抜けていった。
 そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり
哀しげな蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
 夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、
小さなひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのか
どうかあやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
 何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。

169煌月の鎮魂歌9 6/22:2016/06/18(土) 06:03:46
「ごちゃごちゃ言わずにとっとと開けろ」
 それだけ、ユリウスは答えた。
 崇光はしばらく扉に手をかけたまま、量るように赤毛の青年の横顔を眺めていたが、
やがて扉に向き直り、巨大な取っ手に手をかけて、引いた。
 非力そうなひょろりとした青年の手にもかかわらず、扉は動いた。地面の底からわき
あがってくるような軋みが、何者か地中深くに封じ込められたものの苦悶の声のように
とどろいた。緑青をふいた青銅の縁取りのむこうに、かすかな橙色の光に明るんだ、
うす闇が覗いた。
 声を殺してラファエルがすすり泣いていた。人ひとり通れるだけ開かれた扉の隙間を
崇光がくぐり抜け、続いてユリウスも歩を進めた。
 しめって冷たい地下の空気が頬をなでた。背後で扉がかすかな地響きと共に閉ざされ
た。ユリウスが立っているのは、どこまでも続くかに思われる、地下への螺旋階段の
頂点の小さな踊り場、その縁だった。

            2

 階段がついに尽きた。
 降りてゆく間、崇光は一言も口をきかず、振り返ろうともしなかった。ユリウスも
あえて話しかける必要は感じなかった。二人分の足音が気の遠くなるほどの長い縦穴に
反響しては消えていった。しんしんと二人はそれぞれ頭の中に唯一のものを思い描きつつ
進んだ。
 最底部はまた小さな踊り場になり、構えが上ほど仰々しくはない、両開きの質素な扉が
あった。見たところ、扉は扉だけでその場に自立しており、背後には壁もなければ部屋が
あるようにも見受けられない。ユリウスは答えを急かすように崇光を睨んだ。崇光は
あわてずさわがず、手をあげて扉の表面に手をあて、なんらかの言葉を二つ三つ呟いた。
 扉は開いた。というよりも、その場で霧のように薄れ、かわりに、扉に刻み込まれて
いた蔓模様がふいに生気を取り戻し、ほどけて、一気に空間全体に広がったように思えた。

170煌月の鎮魂歌97/22:2016/06/18(土) 06:04:20
 崇光は猫のようにそっと中に踏み入っていった。
 ユリウスも黙ってあとにつづいた。自然に足音をひそめる形になった。
 それを必要とさせる厳粛な静謐さがそこには満ちていた。これまで降りてきた長い長い
螺旋階段とは違い、ここには電気のライトなどという無粋なものは置かれていない。
かわりに輝いているのは、花だった。
 いちめんの薔薇の花。床を覆い、壁に交差し、天井からカーテンのように垂れている
エメラルドのような緑の枝とみずみずしい葉の間に、まばゆいほどに純白の大小さま
ざまな薔薇の花が咲き誇っている。
 ふっくらした花びらは露をたたえ、葉もしっとりとした霧にぬれていた。日光もなけ
れば通風も十分でないはずのこの深い地下の一室で、どうやってこのようなおびたたし
い薔薇が生気をたもっているのか、ユリウスには見当もつかなかった。
 足の下は石や人工の床ではなく、青々とした若草と、細い茎をからみあわせた小さな
野薔薇の茂みだった。
 そこここに、季節にはまだ少し早いクローバーの小さなまるい花が内気な乙女のよう
に揺れている。全体は月光めいた青い光に満ち、胸が痛むほどの静けさだった。
 その中央に、アルカードがいた。
 眠っていた。大きな天蓋つきの寝台に寝かされていたが、この寝台もまた、周囲の薔薇
にまつわりつかれ、まるで薔薇そのものでできているかのように輝いていた。
 天蓋からは細い薔薇の花綱が垂れ、あらゆるところから伸び上がった大輪の白薔薇が、
主人を気遣う子猫のように寝台の主のまわりを取り囲んでいる。露をおびた蔓と葉が
シーツの代わりに身体をそっと包み、眠る彼の組み合わせた手の上に、重なるように
かぶさっていた。

171煌月の鎮魂歌98/22:2016/06/18(土) 06:04:52
 白い顔はぴくりとも動かず、大理石でできた彫像のように完璧で冷たく、なめらかな
肌は死人よりもさらに蒼白だった。
 銀髪は滝のように流れて寝台の縁を越え、薔薇の蔓に支えられるようにして床へと
広がっている。長いまつげが疵ひとつない頬に透明な青い影を落とし、薄い唇は軽く
結ばれて蒼白の固さにのまれている。人間であるにはあまりに美しい顔は、超自然の
眠りにのまれることでさらに人間らしさを消し、遠い異教の神が魔法の眠りの中にいる
かのような近づきがたさを感じさせる。
 閉ざされたまぶたややわらかい巻き毛に宿るのは、薔薇の花びらよりもまだ繊細な、
あわく透き通る影だった。大小さまざまな薔薇の萼が眠れる主人を気遣う侍女のように
あたりに集い、侵入者たちを非難するかのように、いっせいに音のないさざめきを発した。
「おい……大丈夫なのか?」
 ようやく、ユリウスは言った。声を出すのにはそうとうに思い切る必要があった。それ
ほどこの静寂は聖なる威厳と緊張感に満ちていた。
 崇光は厳しい顔をしたまま返事をしなかった。ユリウスが同じ質問をもう一度繰り返し
てようやく、彼のほうをむいた。
「問題はありませんよ。一応はね」
 ひっかかる言い方をしやがって、とユリウスは思ったが、口には出さなかった。
「ここはベルモンド家の地所でももっとも強力な大地の力の集まる場所です。過去のベル
モンドたちはここに彼の故郷──ヴァラキアの土を埋め込み、その上で、さらに力の流れ
がこの一点に集約するように、何代もかけてここを築き上げたのです。彼がひどく傷つい
たとき、それに見合った治療の力を受けられるように。何百年もの戦いのうちには、アル
カードとて深く傷つくことがなかったとはいえない。彼の超人的な能力とはいえ、限界は
やはりあるのです。とはいえ」

172煌月の鎮魂歌9 9/22:2016/06/18(土) 06:05:27
 崇光はふと言葉を切って、ユリウスをじっと見つめた。
「今回のニュイ女伯爵とかいう妖魔相手でしたが──正直、アルカードがこれほど疲弊す
るような相手ではなかったと、僕は見ています。幼いイリーナが体力を消耗するのは必然
ですが、歴戦の戦士であるアルカードが、ここに入らなければならないほど力を弱められ
るのは、異常事態と言わねばなりません」
「だから、俺のせいなんだろ」
 不機嫌にユリウスは吐き捨てた。聞くところによるとイリーナは日課のお茶会をまだ休
んではいるが、ここ数日でベッドに起きあがって、あの女王めいた物腰で尊大にスコーン
とジャムにダージリンのポットを命じる程度には回復しているそうだ。また茶会への呼び
出しがかかるのも遠いことではなかろうと考えると憂鬱になる。
「ド素人の俺がついてったおかげで足を引っ張られて、こいつが重傷を負った。もう聞き
飽きてるよ。だからって、俺にどうしろっていうんだ」
「ラファエルはそう思いたがっているようですが、僕は賛成しません」
 そっけなく崇光は言い返し、眠るアルカードにゆっくりと歩み寄った。薔薇たちは不服
そうにざわめいたが、主治医としての彼が近寄ることは了解しているらしく、左右にわか
れて道をあけた。崇光は手を伸ばし、アルカードの動かない頬に慎重に指をふれた。
「あなたどころか、まったく戦力にならない一般人を抱えて戦う経験も、彼はいくつも
している。彼が五百年生き、その間ずっと闇の勢力と戦い続けていたことを忘れないで
ください。魔王その人とでさえ、二回までも相対して、一時の封印には成功している
のですよ」
 ユリウスは唇をかんだ。崇光は続けて、

173煌月の鎮魂歌9 10/22:2016/06/18(土) 06:05:58
「彼はもっとひどい傷やダメージからも回復してきましたし、これほど長い間ここで
眠り続けるほどの重傷ではないはずです。少なくとも記録に従えばそのはずだし、僕の
看立てでもそうだ。彼はとうに目覚めていておかしくはないし、そもそも、ここに入って
眠らねばならないような重大なダメージをうけたのは、これまでの歴史でも片手で足りる
ほどしかない。それもほんの一、二時間から半日というところで、こんなに長く眠り続け
ているというのは、明らかに異常です」
「じゃあ、いったいなんだっていうんだ」
「あなたは彼に血を与えましたね」
 断定するように崇光は言った。
 ユリウスは身がこわばるのを感じた。
 いくつもの言葉が喉に押し寄せたが、すべては舌の上で氷に変わった。
 あの一瞬の記憶が脳裏にまたたいた。泣き叫ぶイリーナと、指先から流れ落ちる血。
アルカードの唇に流れ込む真紅の滴。記憶の中で、粘る飴のように、落ちていく血は
とても遅く見えた。
 そしてその後に閃いた、遠い過去の光景──
「何をしたかが理解できているようでよかったですよ」
 ユリウスの沈黙を正確に読みとり、冷然と崇光は言った。
「ベルモンドの血は力に満ちている。アルカードとベルモンド家の関係を本当の意味では
知らないイリーナが、弱った彼にもっとも力あふれる血を与えようと判断したのは間違っ
てはいない。まああなたも、知らなかったのだから無理はありませんがね。見たのでしょ
う?」
 何を指しているかは言われるまでもなかった。ユリウスは声も出ないまま、わずかに頭
を動かした。

174煌月の鎮魂歌9 11/22:2016/06/18(土) 06:06:35
「これまでベルモンドの者が彼に血を与えたことがなかったとは言いません」
 と崇光は続けた。
「しかし、その場合、彼は何重にも用心し、けっして直接血を飲むことはなかったし、前
もってしっかりと精神を鎧って、記憶が呼び起こされることのないよう封じていました。
彼にとってあれはもっとも触れたくない、誰にも触れてもらいたくない秘密なのです。僕
がそれを知っているのは、ある事情から彼が話してくれたからにすぎない。その時で
さえ、彼の苦悩と悲しみは言葉につくせないほどのものでした。それを、ひどく弱って
いる時に直接あなたの血を口にしたことで、あまりにも生々しく、突然に呼び起こされて
しまったのです。彼の受けたショックがどれほどのものだったか、あなたに想像できますか」
 黙ってユリウスは唇をかんだ。しばらく返事を待つように口を閉ざしていてから、崇光
はまた続けた。
「ベルモンドの者は生涯に一度は彼に恋をする──そう言われています」
 ユリウスはびくりと目を上げた。とたんにこちらを見据える崇光の鋭い眼光に射抜かれ、
反射的に目をそらした。青年神官の眼鏡の奥の瞳は、いつもの穏やかさを脱ぎ捨てて、刃
のような悽愴な光をたたえていた。
「でも、彼がここに身を置くようになって四百年近く、だれ一人としてそれをかなえた者
はいない。なぜかわかりますか」
 問われているのではなかった。その答えはすでにユリウスの中にあった。ただ言葉に
されるのを拒んでいるだけだった。言葉にされ、口にされてしまえば、それは認めざる
を得ない真実となってしまう。ユリウスは力なく頭を振り、聞くまいと顔をそむけた。
「彼はただ一人のベルモンドを愛している。今も。そしてこれからも。
 ──そしてそれは、あなたではない」

175煌月の鎮魂歌9 12/22:2016/06/18(土) 06:07:41
 むなしく声は耳につきささった。
 自然に顎に力がこもり、口の中に血の味が広がった。鉄錆の味はいつもと違ってひどく
苦く、酸のように舌を灼いた。
「彼と最初に出会い、愛し合ったただ一人のベルモンド。ラルフ・C・ベルモンド。彼
だけが、アルカードにとって唯一であり絶対なのです。
 ほかのすべてのベルモンドはただ、彼の血を継ぐ者というだけにすぎない。もちろん
ひとりひとりを愛していなかったわけではないでしょう。しかし、最初の一人のように
彼を愛し、愛された人間はいない。誰も」
 かたくなにユリウスは顔をそむけていた。噛み破った唇から血が流れているのをわずか
に意識した。血の味がめまいを引き起こす。血。指先から流れてアルカードの唇に落ちた
血。
 その血を含んだとたん、彼は跳ね起きて呪うようにユリウスを見た。いや、ユリウスを
ではない、今も彼を苦しめてやまない、運命と離別の夜を見た。そしてただ一言、拒否の
言葉を口にした。『いやだ』。血の涙だけがあの夜と同じく、赤い筋をひいて頬に流れた
……
「あなたは彼から指輪を奪いましたね。金の、古い指輪を」
 冷然と崇光は言った。
「あなたが彼をどのように扱っているかは知っています。彼が選んだことですから、僕は
それに関してどうこう言うつもりはありません。
 しかし、あなたがその指輪を奪ったことが彼にとってどんな意味を持つかは知っておき
なさい。あれは彼にとっては生命と同じ、彼を愛し、愛された相手が遺したただ一つの
形見です。あれだけが、彼にとって唯一、自らの生を認めてくれるよすがなのです。
それを、あなたは奪った」

176煌月の鎮魂歌9 13/22:2016/06/18(土) 06:08:23
「あいつは俺のものだ」
 ようやく、ユリウスは言った。自分の耳にもその声は聞こえづらく軋み、かすれて苦し
げだった。
「あいつが俺に言ったんだ、俺のものになると。俺の言うことはなんでもきくと。俺のも
のに、俺の……」
「あなたがベルモンドの血を継ぐ者でなければ、彼はあなたなど見もしなかったでしょうね」
 容赦なく崇光は言った。
 ユリウスの全身がむち打たれたように震えた。
「そしてあなたが唯一残った聖鞭の使い手でなければ、彼は、けっしてあなたに屈服する
ことなどしなかった」
「俺は──」
「これだけは理解しておくことです、ユリウス・ベルモンド」
 畳みかけるように崇光は続けた。
「アルカードが見ているのはあなたではない。彼が見つめ、愛するのは今も昔もただ一人、
ラルフ・C・ベルモンドと、彼の遺した血のみです。あなたが彼にしているような仕打ち
が許されるのはひとえに、あなたの体内に流れる血と、聖鞭の使い手の資格によってであ
ることを知りなさい。
 あなたはけっしてあなたとして彼の目に映ることはないし、本当の意味で愛されること
もない。彼が愛しているのは過去も現在もただ一人、それ以外の人間は、彼にとって一瞬
で過ぎ去る夢のようなものにすぎない。それがいかに愛すべき夢であっても、──憎むべ
き夢であっても」

177煌月の鎮魂歌9 14/22:2016/06/18(土) 06:09:00
 崇光ははじめて視線をそらし、眠るアルカードの顔に目を落とした。すでに死せる者を
見るかのように痛ましげな、悲傷に満ちた色が頬のあたりをよぎった。手を伸ばしてそっ
とシーツにあふれる銀髪をさする。白い薔薇たちが見下ろすように揺れる。
「彼にとってはすべてが夢なのです。闇の公子として生まれ、父殺しの宿命を負って五百
年。彼はずっと、醒めない悪夢の中で生きてきた。その中で、ただ一つの愛の記憶だけが、
彼にとっての生命なのです。あなたが奪った指輪は、その生命そのものにほかならない」
「あれは返さない」
 からからの舌を動かして、ユリウスはやっと言った。
「俺は……あれは、俺のものだ。俺のものだ。俺の……ものなんだ」
「なら、そう思っていなさい。どちらにせよ、事実は変わらない」
 ふいに崇光はすべてに興味をなくしたようだった。どうでもよさそうにそう吐き捨て、
ユリウスに背を向けてアルカードにかがみ込んだ。薔薇の侍女たちが音もなくさざめき、
白いボンネットのような頭を傾けて主治医のまわりに輪を作った。
「彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド」
 眠るアルカードに医師の慣れた手つきで触れながら、そっけなく彼は告げた。
「僕が言っておきたかったのはそれだけです。あなたが理解しようとしまいと、どうでも
いいことだ。あなたの中の血、その血が与えている鞭の保持者としての資格。アルカード
が見ているのはそれだけです。あなたではない。けっして」
 それ以上口を開かず、崇光はアルカードの上にかがみ込んだまま、何か複雑な図形を宙
に指で描きはじめた。指の動きにつれて、淡く輝く線が空中に魔法陣のような立体図形を
組み上げていく。

178煌月の鎮魂歌9 15/22:2016/06/18(土) 06:09:37
 アルカードは薔薇に覆われたベッドの上で、死病におかされた子供のように身じろぎも
せず、あふれる銀髪と薔薇の花弁に埋もれて目を閉じていた。うす青い瞼にまたたく図形
の光がちらちらと揺れる。
 ユリウスは踵を返し、その場を逃げ出した。



 何者かに追われるように足をもつらせ、数度は躓き、何度かは膝が崩れて倒れそうにな
った。
 気がつくと自室にいてベッドに腰を下ろし、呆然と壁を見つめていた。
 夜半で、なかば開いた窓からは初夏の涼しい夜気が流れ込み、カーテンにじゃれる月光
が床にも、足首にもまつわりついている。どれほど激しい鍛錬をしても堪えたこともなか
ったのに、まだ膝が震え、足に力が入らなかった。押しつけられるように胸が痛む。喉が
締めつけられ、息がつまる。無理に呼吸をしようとすると、空気が大きな固まりになって
肺につかえた。なんとか息を吸おうとあがいても、身体が石になったように重く、がくが
く震えて言うことをきかない。
 組み合わせた両手で何か堅いものをきつく包み込んでいることにようやく気づいた。意
のままにならない手を苦労してほどいてみると、古い、すり減った金の指輪が、鈍い光沢
をおびてそこにあった。
 シャツは丸めて投げ捨てられ、ブーツは横倒しになって壁の近くに転がっていた。意識
しないうちに背中が丸まり、両足をきつく胸に引き寄せていた。ベッドから腰が滑り落ち、
床についた。ユリウスは床にうずくまり、両膝をかかえてかたく身体を丸めた。赤い髪が
裸の肩にこぼれて、顔をかくした。

179煌月の鎮魂歌9 16/22:2016/06/18(土) 06:20:12
「俺のものだ」
 誰にともなくユリウスは呟いた。
「俺のものだ──俺のものだ──俺の、ものだ──俺の」
 だがその声はひどくかすれ、自分のの耳にすらうつろに響いた。
 今背を預けている同じベッドで、あの白い肢体を何度蹂躙したことか。抵抗一つしない
身体を思うがままに痛めつけ、恥知らずな姿勢をとらせて、最下級の娼婦に等しい扱いを
した。命じるままに鎖につながれ、雌犬の姿勢で自分を受け入れる彼に嘲弄の言葉を投げ
つけもした。
 だがその心を折ったと感じたことは一度もなかった。いつでも次の朝になれば、何事も
なかった顔をしてアルカードは白い月のように現れた。どんなに手を伸ばしても届かない
天上の月。いっときこの手につかんでも、たちまち指のあいだから滑りおちていってしま
う。
 ゆれるカーテンのむこうから欠けた月が覗いている。新月からしだいに満ちていく月は、
いまだ過程の途中にあって細っている。弱く頼りない光だが、訓練によって慣らした目に
は、そのわずかな光も明るく感じる。

 足首にまつわっていた微かな月光が肩に触れ、髪にまつわる。その冷たい感触を、ユリ
ウスは知っていた。あの細い指先。絹よりまだ柔らかくなめらかな、透き通るあの肌。
すくい上げれば滝のように流れる、銀色の髪。強引なくちづけにもあらがわず、わななき
ながら開かれる仄赤い唇。

180煌月の鎮魂歌9 17/22:2016/06/18(土) 06:21:23
 また、その内部に秘められた熱さを知ってもいる。大理石の彫像を思わせる肉体は、
その内部に熱せられた蜜を含んでいた。毒のある蜜蜂が集めたかのような、人を狂わせる
魔性の蜜。
 触れればたちまち理性を奪われ、狂ったように行為に沈み込むのはいつもユリウスの方
だった。微かな苦鳴も苦しげな呼吸も、渇望をあおり立てる種だった。触れれば触れる
ほど、口にすればするほど飢えをそそられ、渇きはいや増す。どれほどむさぼり尽くして
も飽き足りない、いっそこの身体をばらばらに引き裂いて心臓を引きずり出してやりたい
欲望にすらかられる。
 血まみれの胸から引きずり出した心臓を、自分の胸を引き裂き、その傷口に押し込めば
この渇きは癒えるだろうか。自分の心臓を引きちぎり、そのかわりに冷たい胸の奥で拍っ
ている心臓を置くことができれば。二つの心臓を溶け合わせて、ひとつにする方法が
わかれば。冷たく白いこの月の精霊に、本当の意味で手を触れることさえできれば。
(彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド)
 わかっていた、とユリウスは思った。
 わかっていながら知ろうとしなかった。あの女妖と戦った夜に、体内に荒れ狂うベルモ
ンドの退魔の力に翻弄されながら、それは何度も幻に現れたはずだ。あの箱庭の天国、
二人だけのエデン。誰の侵入も許されない国、あまりに完璧すぎた故に破壊された幸福。
アルカードとあの男以外には存在しない、絶対の王国。
 明らかな事実から目をそむけて、意味のない行為に惑溺することで自分をごまかして
いた。そしてその見ようとしない事実と自分自身に苛立ち、怒り、そのすべてを目の前に
捧げられた肉の身体にぶつけていた。何の意味もないことを、心の奥では知っていたと
いうのに。

181煌月の鎮魂歌9 18/22:2016/06/18(土) 06:22:08
 アルカードは自分を見ない。
 誰のことも見てなどいない。彼が見ているのはずっとあの一瞬、あの永遠の夜、アル
カードの心が今もとどまり続けている、数百年も前の現在なのだ。
 戦いのあとの混乱した記憶がふたたび脳裏を支配した。イリーナの小さい手が手首を
つかみ、有無を言わさず引き寄せる。傷ついた手のひらからしたたる血が筋をひいて
アルカードの唇に落ちていく。真紅の濃い生命の一滴がその唇を通り、のどをかすかに
動かし──
 そして彼は跳ね起きた。灼けた鉄板に乗せられたかのようにその場で跳ね上がり、
ユリウスを見た。致命的な毒を盛られたことを悟ったかのような、絶望と悲嘆にあふれた
まなざしで。
(違う。そうじゃない)
 あれは彼を見ていたのではなかった。アルカードが見ていたのは、遠い過去だった。
ユリウスの血によって呼び起こされた遙かな記憶、彼がはじめて地上に生き、ベルモンド
の血を継ぐ人間と愛し合った時の出来事。流れ落ちる血の涙と、白いシーツに落ちた薔薇
の花びらのような染み。白ではなく赤い薔薇、赤い血の涙の一滴、引き裂かれた心から
流れ出した灼けつく記憶のかけら。
 そして彼は口にした、ただひとこと──『いやだ』。
 あれは何に対する拒否だったのだろう。自分にではないことをユリウスはとうに悟って
いた。あの時のアルカードの知覚に、彼は映っていなかった。崇光も、イリーナも入って
はいなかった。
 アルカードはベルモンドの血によって呼び覚まされた過去にいたのであり、おそらくは、
もはや起こってしまった変えようのない悲劇に、運命に、甲斐のない抗議をしていたのだ

182煌月の鎮魂歌9 19/22:2016/06/18(土) 06:22:46
 どれほど酷い行為かを知りつつ、それをせねばならなかった自分、にもかかわらずまだ
生きて地上にいなければならない自分、人でも魔でもない黄昏の者として永遠に、死ぬ
ことも忘れることも許されず生き続けなければならない自分、いずれは三度目の父殺しを
行わねばならない自分、そういった自分自身すべてに対して、無力な拒否をつきつけてい
たのだ。
 そしてそれが無力であり、意味などないことも彼は知っている。文字通り、骨の髄まで。
遠い記憶のあの男の血を継ぐ人間たちとともに、魔王と化した父と戦い、最終封印を
施して完全に滅すること、ただそれだけが現在の彼の使命であり、生き甲斐であり、
存在価値なのだ。
 ベルモンドの至宝とたたえられ、どれほど多くの者から慕われ愛されようと、本当の
意味でアルカードが満たされることはけっしてないだろう。彼の愛は遠い昔にあるベルモ
ンドの男とともに埋葬されたのであり、その男の血と誓いとを守るために、三度目の封印、
光と闇の最終戦争に立ち向かおうとしている彼は、実質、あの頃の彼の抜け殻でしかない。
どれほど強くまたやさしく、果敢に闇に立ちふさがろうと、彼の心は数百年を閲してまだ
生々しい──忘れることができないからこそいっそう生々しく、いつまでも血を流し続け
る、あの夜に縛られつづけている。
 それでも彼は立つのだ、他の誰のためでもなく、ただ、あの男との約束のために。遠い
過去に置き去りにした恋人、心と身体、魂のすべてをかけて愛した、ただ一人のベルモン
ドのために。
 手の中の指輪が灼けつく。いや、これこそが心臓だ。あのなめらかな胸の中から取り出
されて、血を流しながら脈打っている。

183煌月の鎮魂歌9 20/22:2016/06/18(土) 06:23:24
 熱く燃えているはずなのに、その熱はけっしてユリウスには触れてはこない。握りつぶ
すほどに強く握りしめても、それはユリウスにとってはいつまでも固く冷たい金属の塊で
しかない。それが命をとりもどすのはおそらく、アルカードの手の中にある時、彼の魂と
記憶のすぐそばに寄りそう一瞬だけなのだ。
 それでも、離すことはできなかった。溺れる者が命がけでつかむ命綱のように、ユリウ
スの指は指輪をつかんで肉に食い込むほどにかたく、より強く握りしめていた。
「俺のものだ」
 むなしい言葉をまた繰り返す。声は口からこぼれたそばから砕け、どこへ届くこともな
く薄れて消えた。
 すべてのベルモンドは一度は彼に恋をするとあの日本人は言った。ではこの心も血に促
されてのものにすぎないのか。そんなわけがない、それならばこれほど苦しいはずはない。
ベルモンドの名などいらない、血筋などもともと望んで受け継いではいない、鞭もどのよ
うな特権もいらない、望むのは、ただ、あの月だけ。
 あの月がほしい、あの瞳に自分を映してほしい、他の誰かにではなく自分に、自分にだ
け、あのまなざしを向けてほほえんでほしい。見苦しく地面に這ってすがってでも、そう
望んでいることをユリウスは知った。
 最初の夜からそうだった。どれほど酷く扱ってもこちらを見ない彼に苛立ち、なんとか
して自分を見させようと子供じみた真似を繰り返した。軽蔑でも嫌悪でも、憎悪ですら
かまわなかった。それが自分に向けられたものであるなら。他の誰でもなく、この自分
自身に

184煌月の鎮魂歌9 21/22:2016/06/18(土) 06:24:11
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に流れてるベルモンドの血だけなんだ……』
 そうではない、と言ってほしかった。否定の言葉が聞きたかった。
 もちろん言わせれば諾々とアルカードは命ぜられた通りの言葉を繰り返した。だがそれ
はユリウスの心をますます引き裂くばかりだった。そこに本当の心はなく、教えられた
通りの言葉を真似る鳥と同等の行為だった。ユリウスはますます逆上し、さらに加虐の
行為に手を染め、せめて肉体に所有のしるしを刻みこもうと躍起になった。
 すべてに降り注ぐ月の光だけではなく、その本当の心ごと抱き取ってしまいたかった。
だがそれが不可能なことを、ユリウスはもう見てしまった。遠い過去のあの一瞬に、ユリ
ウスの手は届かない。絶対に。あそこにいるのはただ二人、月とその魂を捧げた恋人だけ、
そして、あの記憶の中に月の心と愛は永遠にしまいこまれている。
 ふいに手首を引き裂き、喉を切り裂いて全身の血を流し出してしまいたい衝動にかられ
た。だがそれはできない。それをしてしまえば、今度こそユリウスはアルカードにとって
一片の価値すらない、ただの塵になる。
 どれほど呪おうと、この血、体内に受け継ぐベルモンドの血脈、あの夜に置き去りにし
た恋人の遠いこだまが、かろうじてユリウスをあの月につなぎとめている糸だ。彼が見て
いるのが血のみ、血と鞭の資格者という自分であって自分でない影でも、手放すことなど
できなかった。考えただけで気が狂いそうだった。

185煌月の鎮魂歌9 22/22:2016/06/18(土) 06:24:51
 ぬけがらの身体をどれだけ痛めつけても、反対にどれだけ甘く愛撫し崇めても、けっし
て彼に届くことはない。アルカードは自分を見ない。誰のことも見てはいない。ただ美し
い光だけを地上にあふれさせながら、遠い天上に冷たく凍りついている。
 頬に熱いものが流れた。喉がつまり、全身がこわばってきつく丸まった。
 もはやいつだったかも正確には思い出せないあの日、母の死体が狂人の足の下で踏みに
じられていた時にさえ出なかったものが、顎をつたって滴った。
 ベッドの上できつく膝をかかえ、無力な少年のように、ユリウスは声を立てずにむせび
泣いた。

186煌月の鎮魂歌9後半 1/24:2016/07/31(日) 20:15:19
            3

 ボウルガード夫人に車椅子を押され、自室へ戻る最中、ラファエルは一言も口をきか
なかった。
 少年の青い瞳は嵐の色に染まり、心臓では炎が荒れ狂っていた。地獄にひとしい炎
だった。彼は父親を呪い、義兄──とも呼びたくはないが、汚らわしいとはいえ血の
つながりは否定できない──を呪い、何よりも、ぴくりともしない自分の足を心底
呪った。なめらかに動く車椅子の感触さえ、怒りをかき立てた。こんながらくたでさえ
すらすらと床の上を動くことができるのに、どうして自分の足は指先ひとつ上げること
が許されないのだろう?
 ようやく自室へたどり着き、ボウルガード夫人に支えられてベッドに身を投げて、
出て行けと身振りをする。枕に頭を埋め、今にも噴出しようとする叫び声を押さえ
つけた。今はただ、ただひとりで怒りをかみしめ、その苦さと熱さに存分に身を焼き
たい。他人に苦悩を覗かせるのは誇りあるベルモンドの者のすることではない。ベル
モンドの者はひとり、ただひとり、常に人間と世界の守護者として立つことを要求
される。誇り高いベルモンドの男として、ベルモンドの……
 食いしばった歯から、耐えきれずにすすり泣きが漏れた。もう自分にはそんな資格は
ないのだ。鞭の使い手としての地位はあの野良犬に奪われてしまった。ベルモンドの
当主としての地位はあるにせよ、それがどうしたというのだろう。
 聖鞭を使い、きたるべき最終闘争において〈彼〉の隣に立つこと、それこそが、
累代のベルモンドの悲願であり、夢だった。
 自分がその代にあたることを知ったときの喜びを思う。自分ではなく、息子がアル
カードの隣に立つことを知った父の、複雑な思いをこめた視線を心地よく感じたことを。
『ベルモンドの者は誰もが一度は彼に恋をする』。だが、その恋がかなえられないこと
はみな知っている。それにもっとも近いのが唯一、彼とともに戦うこと、聖鞭ヴァンパ
イア・ハンターの使い手として認められることなのだ。

187煌月の鎮魂歌9後半 2/24:2016/07/31(日) 20:16:09
 ひょっとして父は、かなえられなかった自らの想いをとげる息子を邪魔するために、
あの野蛮な野良犬を生みだし送り込んできたのではないかという疑念すらわいた。
そんなことはありえないのがわかっていたが、思わずにはいられなかった。
 なぜ? なぜ、ようやく彼の隣で戦えると約束されたのに、それをあんな汚らしい
混血に奪われなければならないのだ? それも、尊敬できるような相手ならまだしも、
こともあろうにアルカードを公然と雌犬呼ばわりし、蹂躙してやまない輩に? ベル
モンドの至宝を泥にまみれさせ、娼婦扱いして恥じもしない屑が、なぜ聖鞭の使い手に
なれるというのだ?
 アルカードは間違っている、とラファエルは思った。
 あいつがベルモンドのはずがない。たとえその血をひいていたとしても、聖鞭が
あんな男を認めるはずがない。アルカードはあの男を連れてきたりすべきではなかった。
いくら最終闘争の時がせまっていようと、あんな男に身を任せてまで、聖鞭の使い手を
用意する意味などあるのだろうか。
 魔王が降臨すれば世界は闇に包まれる。わかっている。だがいま、ラファエルの頭に
あるのは、しいたげられ逍然とうなだれるアルカードと、その上に仁王立ちになって
悪魔の笑いを浮かべるあの男だった。滅ぼされるべきは魔王ではなく、あいつだ、と
ラファエルは思った。
「死んでしまえ」
 ラファエルは呟いた。小さく、ごく小さく、枕に顔を埋めて呟いた言葉だったが、
そこに込められた憎しみと殺意はナイフのように鋭かった。
「死んでしまえ。あいつなんか死んでしまえばいい。あいつに世界なんて救えるもんか。
聖鞭なんて、あいつにはふさわしくない。世界なんて知るもんか。アルカードが不幸に
なる世界なら、みんな滅びてしまえばいい……」

188煌月の鎮魂歌9後半 3/24:2016/07/31(日) 20:16:54
「お苦しいのですね。ラファエル様」
 低い声がした。
 ラファエルはぎょっとして、身体が動くかぎり身をそらし、部屋の隅を振り向いた。
 そこに、ボウルガード夫人がいた。いつものように黒いドレスで、白髪をかたくひっ
つめにし、棒のようにまっすぐに身体を立てている。とうの昔に出て行ったものと思っ
ていたラファエルは、いまの姿を彼女に見られたと知り、猛烈な怒りと恥ずかしさに襲
われた。
「なぜここにいる」
 にじんだ涙を急いでぬぐい、ラファエルは当主としての口調ではげしく言った。
「僕は出て行けと命じたはずだぞ。なぜまだここにいる? 用があればベルで呼ぶ。
さっさと行け」
「わたくしにはよくわかります。ラファエル様の怒りが。お苦しみが」
 ボウルガード夫人はすべるように近づいてきた。ベッドサイドのライトに皺深い顔と、
奇妙な熱を帯びて燃えるような両目が照らし出された。うすく口紅を塗った唇はほとんど
見えないほどかたく引き締められ、表情はなかった。すべての感情と動きは、ただ熱に
浮かされたようにぎらつく両の目にしか存在していなかった。
「あのような男をベルモンド家に引き入れるべきではございませんでした。ミカエル様は
あやまちをおかされました。ラファエル様という立派な跡継ぎがおありなのに、どこの
誰とも知らぬ相手と、あのような汚らしいものを」
「父上は立派なお方だ」
 反射的にラファエルは言ったが、ボウルガード夫人の紙のこすれるようなささやき声は
影のように彼の心にすべりこんできた。そうだ、父は、あんな子供を作るべきでは
なかった。ベルモンドの血は常に、誇り高く育てられた正統の血でのみ受け継がれて
きた。それを、あのような雑種が受け継ぐなど、あってはならないことだ……

189煌月の鎮魂歌9後半 4/24:2016/07/31(日) 20:17:32
「あのような男がベルモンドとして認められるなど、あってはならないことです」
 いつのまにかボウルガード夫人はベッドの縁に腰掛け、骨ばった手でそっとラファエル
を抱いて髪を撫でていた。めったに個人的な感情を表さない彼女としては異常と言って
いい態度だったが、自分の苦悩と痛みに沈み込んでいたラファエルは気づかなかった。
ただ、髪を撫でる手をここちよく感じ、自らの秘めた思いを形にしてくれる低いささやき
声に、夢見るように耳をかたむけていた。
「間違いは正されなくてはなりません。ベルモンドの正統はラファエル様であり、あの
ような雑種ではありえません。汚らわしい血は、排除しなくてはならないのです」
「排除……」
 なかば夢うつつでラファエルは繰り返した。何を口にしているかはほとんど意識して
いなかった。やさしく髪を撫でる手は、そのまま彼の傷ついた心を愛撫する手だった。
「排除する……あいつを……でも、聖鞭の使い手は──」
「聖鞭の使い手はあなたです、ラファエル様」
 きっぱりとボウルガード夫人は言った。ラファエルの髪をすく手はどこまでも優しく、
子供を眠りにいざなう母の手を思わせた。
「ほかに、誰がいるというのでしょう。ラファエル様はミカエル様の正統のお子、あの
ような雑種と比べものになどなりはしません。アルカード様をお救いし、そのお心を手に
入れるのは、ラファエル様、あなた様しかおられません。アルカード様をあのような男の
手に預けておいて、ラファエル様、あなたは平気でいらっしゃるのですか」
「そんなわけがないだろう!」
 一瞬猛烈な怒りにかられてラファエルは叫び、起き直りかけたが、ボウルガード夫人の
あくまでもおだやかな愛撫に導かれて、ふたたびうっとりと身を横たえた。今ではボウル
ガード夫人は黒いショールですっぽりとラファエルを包み込み、赤ん坊でも抱くように両
手を回して、やさしく揺さぶっていた。

190煌月の鎮魂歌9後半 5/24:2016/07/31(日) 20:18:04
「あの男を排除しなければならないのですよ、ラファエル様」
「排除……あいつを……」
 ぼんやりとラファエルは繰り返した。
「そして取り戻すのです、あなたの当然の権利を。聖鞭とアルカード様を。あなたが世界
のすべてと引き替えても手に入れたいあの方を、雑種の汚らしい手からお救いするの
です。あなたならそれがおできになります、ラファエル様」
「でも、足が」
 わずかに苦痛の記憶を思い出して、ラファエルは身じろぎした。羽毛布団の上に力なく
投げ出されたままの萎えた両足。
「僕の足は動かない。この足では、アルカードの役には……」
「動きます。あなた様さえ、その気になられれば」
 ぐずる子供をあやすように、頬をくっつけてボウルガード夫人はささやいた。筋肉が
落ちて細くなった足を、いとおしむようにそっとさする。
「お信じなさいませ。あなた様こそベルモンドの正統の当主にして、聖鞭の主。アルカ
ード様の隣に立つ者。それを、あのような下賤の雑種になど、奪われてよいはずがあり
ません」
「正統の……当主」
 ラファエルは呟いた。傷ついた心に、その言葉は恵みの雨のように染み込んでいった。
 むろん、これまでずっとラファエルはベルモンドの男として丁重な扱いを受けてきた。
父が死に、当主の座を受け継いでからは特にそうだった。
 だが、半身不随の身となり、聖鞭の使い手としてはもはや使い物にならないと判定され
たとき、周囲の、そして誰よりもラファエルの中で、さまざまなことが微妙に変化した。
 もはやラファエルは絶対の自信をもってベルモンドの当主であると言えない自分を発見
した。周囲は変わらずラファエルをベルモンドの当主とし、そのように扱うが、そこに哀
れみと、腫れ物にさわるようなおずおずとした遠慮を、鋭敏な少年の感性は感じ取らずに
はいなかった。

191煌月の鎮魂歌9後半 6/24:2016/07/31(日) 20:18:46
 年端もいかない少年が半身の自由を失う。それは確かに悲劇であったろう。だが、もし
彼がベルモンドの人間でなく、聖鞭の使い手として定められておらず、アルカードととも
に戦う運命を将来に見据えていなければ、彼の痛手はこれほどまでに深く食い入ることは
なかった。
 累代のベルモンドの当主たちが使った聖鞭ヴァンパイア・ハンターを取り上げられ、
それを存在すら知らなかった異腹の兄──唾棄すべき路傍の野良犬──に奪われた衝撃
は、ただでさえ身体の自由を失った少年の心を、さらに深くえぐった。
 ユリウスがストリート・ギャングの育ちではなく、もっと普通の育ち方をした人間で
あれば違っただろうか。いや、そうではない。ユリウスの傍若無人ぶりはよりいっそう
彼に対する怒りと憎悪をあおり立てはしたが、たとえユリウスが今のような相手でなく
とも、ラファエルは彼を憎んだろう。
 なによりも欲するアルカードの隣に立つ権利、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
いう資格こそ、ラファエルの求めるものだった。ベルモンドの当主という肩書きは、
その前ではほとんど意味を持たない。
 アルカードを手に入れる、誰よりも彼に近いものとなる、それこそがラファエルの、
そしてこれまでのベルモンドたちが願い続け、かなえられなかった夢だった。その夢が
すぐ手の届くところまできていたというのに、奪われた。卑しい雑種、戦士の誇りも
矜持もかけらも持たない、あの至高の存在を雌犬呼ばわりして得々としている下劣な
男によって。
「……許さない」
 ラファエルが発したのか、それともボウルガード夫人が呟いたのか、判然としない
呟きが漏れた。
「許さない……許さない。あの男を許さない。ヴァンパイア・キラーは渡さない……
アルカードには触れさせない。あいつなんか死ねばいい。死んでしまえ。死んでしまえ。
死んでしまえ」
『死ね』

192煌月の鎮魂歌9後半 7/24:2016/07/31(日) 20:19:26
 もはやどちらとも判別しがたい声がそろって言った。
 そのまま、部屋は沈黙にひたされた。ベッドサイドのランプが不安げに踊り、抱き
合ったまま動かない老女と少年の影を、異様に大きく拡大して壁に投げた。 


「まったく、ボウルガード夫人はどうしちゃったのかしら」
 不機嫌にイリーナが指を鳴らした。そばで白い虎猫が、同意するように桃色の口を
あけて小さく鳴いた。
「彼女がこんなに長いこと姿を見せないなんて。せっかく彼女のお茶がまた飲めると
思ってたのに、これじゃ起きたかいがないわ」
「きっとラファエルの世話で忙しいんですよ。それとも、あの女妖魔のことの後始末で
走り回っているか」
 穏やかに崇光は応じ、ポットを手に小さくなっているメイドに励ますようにうなずき
かけた。彼女はおずおずと微笑み、丁寧な手つきでカップに澄んだ茶を注いだ。
「ありがとう。ほら、飲んでごらんなさい、イリーナ、ボウルガード夫人のお茶とくら
べてもなかなかのものですよ。あとで、僕が日本から持ってきた緑茶を淹れてあげます
から、ご機嫌をなおしてください、お姫様」
 イリーナは運ばれてきたソーサーをむくれた顔で受け取り、ひとくちすすって、まあ
そう悪くはないわね、と不承不承呟き、縮みあがっていたメイドの胸をなでおろさせた。
 ニュイ女伯爵と名乗る女妖の襲来から、はじめての午後のお茶会だった。ようやく
ベッドを離れられるようになるが早いか、イリーナはさっそく一同に招集をかけ、待ち
望んだいつものサンルームでのお茶の集いを再会したのだ。
 とはいえ、まだ長い間座っていられるほど体力は戻っておらず、イリーナはいつもの
女王然とした大きな肘掛け椅子ではなく、いつもはユリウスが占めていたゴブラン織を
張った猫足の長椅子に横たわっている。しかし小さくとも女王はあくまでも女王であり、
泡のようなレースとリボンと幾重ものドレープとオーバースカートに飾られた彼女は、
人型をした豪華な花束を横たえたように堂々としていた。

193煌月の鎮魂歌9後半 8/24:2016/07/31(日) 20:20:04
「あんな大物を送り込んできたっていうことは、相手もかなりせっぱつまっていると見て
いいのよね」
 イリーナはソーサーを支えたまま器用に姿勢を変え、寝転がった長椅子をさらに優雅に
かつ装飾的に占領した。肘掛けのところに腹這いになっていた虎猫が位置を変えて
背もたれの上に移動し、バーディが赤い羽毛を散らして女主人の肩にとまる。サファイア
色の小蛇はいつものように少女の細い手首でうつらうつらしており、口の開いたポシェ
ットから、小さな亀のとがった口が、お茶菓子のかけらを待って辛抱強く覗いている。
「いまは五月。あとほとんど一ヶ月しかないわ、ユリウスがヴァンパイア・キラーの使い
手として仕上がるまで。大丈夫なの、スーコゥ? 彼、ちゃんとできる?」
 まるで幼稚園の子供のことでも言っているような言いぐさだ。
 いつもの場所を奪われ、かといって女王のお気に入りであるところの肘掛け椅子に座る
ことも許されず、じゅうぶん快適ではあるがいささか見劣りのする一人がけのソファに
追いやられていたユリウスは、仏頂面でただ黙っていた。
 以前の彼ならば憎まれ口のひとつも叩いただろう。だが、あの地下の至聖所で眠るアル
カードを見、自らの真の心をつきつけられて以来、胸の奥にどうやっても解けない冷たい
塊が居座り、動かすことができなかった。
 アルカードの姿はない。もともと、この昼の光あふれるサンルームには姿を現すことが
あまりないのだが、あの地の底で眠る姿を見て以来、ユリウスはまだ彼を一度も見ていな
かった。
 主治医である崇光がリラックスした様子で茶碗を傾けているということは、もう側に
ついていなければならないほどの状態は脱したと考えていいのだろうが、それでも苛立
たしいような、それでいて恐ろしいような、不快な感じが腹の底に横たわる。
 今すぐ会いたい。会って無事を確かめたい。しかしいざ会ったとしても、何を言い、
どんな態度をとっていいのか、それがわからない。

194煌月の鎮魂歌9後半 9/24:2016/07/31(日) 20:20:44
 少し前までは怒りと焦燥とともにあって簡単明瞭だったことが、あの一夜以来、焦げる
ような感情と苦痛は倍加したのに、まるで暗い霧の底に沈んでしまったように思える。
覗きこめば覗きこむほど混迷に引きずり込まれ、とるべき道もわからず立ちすくむしか
なくなるのだ。
 それをつきつけた当人である崇光はいつもの穏和な仮面をまたかぶりなおし──今では
ユリウスも、その柔和な微笑が本来の鋭利で冷徹な知性を覆い隠すためのものだと知って
いる──少し困ったような顔で、イリーナにサンドイッチとスコーンを盛った皿を回して
いる。
「まあ、技術的にはそこそこちゃんとしていますね。アルカードもそれは認めています
し」
 こちらも、反対側の隅でふてくされているユリウスなどいないかのような調子で答えた。
「ニュイ女伯爵の件は、被害もありましたが、使い手としての彼の資質を試す試金石と
しては充分すぎるほどでしたよ。尋常の能力では、あの妖女との戦いで生き残ることは
できませんでした。ただ問題は、鞭に宿る英霊が彼を認めるかどうかですがね」
「英霊ってのはなんだ」
 無視されつづけていることについに我慢できなくなり、ユリウスはかみつくように口
をはさんだ。二人はいっせいにユリウスを見た。まるで、なんだおまえそこにいたのか
とでも言いたげな目つきだった。
「英霊というのは、これまで聖鞭を握ってきたベルモンドの歴代使い手の魂ですよ。
その記憶、というべきでしょうかね」
 崇光が説明した。
「ヴァンパイア・キラーの使い手は、単に技量に優れているだけでなれるというものでは
ありません。最終段階として、実際にヴァンパイア・キラーそのものを手にし、そこに
宿った歴代の使い手たちに認められる必要があるのです」

195煌月の鎮魂歌9後半 10/24:2016/07/31(日) 20:21:20
「それじゃ、俺はたぶん不合格だな」
 そっけなくユリウスは吐き捨て、足を投げ出して腕を組んだ。
「どうせ、野良犬育ちの小汚い雑種だからな、俺は。お高くとまったベルモンドの英雄
様方が、そこらへんの雑種なんぞを認めるはずがない。残念だったな、当てが外れて」
「血統の純粋さは問題ではありません。問われるのは、心の有りようです」
 静かに崇光は言った。
「聖鞭を振るうのにふさわしい魂の持ち主かどうかは、鞭と、英霊たちが決めることです。
僕たちには推測することさえ許されていません。あなたもですよ、ユリウス」
 見据えた眼鏡の奥の瞳に、彼本来の鋼のような光がうすく宿った。
「アルカードでさえ、鞭の決定に関与することはできないのです。あなたはアルカード
によって鍛えられ、鞭の保持者としてまずは合格と言える力量を身につけた。言えるの
はそこまでです。あとは、鞭の与える試練を乗り越えたあと、あなたがまだ正気でいる
かどうかでわかります」
「正気?」
 いささかぎょっとしてユリウスは問い返した。
「それはどういう意味だ。鞭の試練だって?」
「言葉の通り、試練ですよ。それ以上でも以下でもない」
 崇光は視線をそらし、さめたお茶を飲んで眉をひそめ、自分で新しいのをもう一杯
そそいだ。
「それについて語ることは別に禁じられてはいませんが、それがどんなものかは、受け
たもの以外知ることができません。試練をくぐって鞭の所持者となった者は試練につい
ては口を開かず、なれなかったものは永久に言葉を失うからです。まあ、廃人になった
ところで、生活はきちんとベルモンド家と〈組織〉が保証しますから心配することは
ありませんがね」

196煌月の鎮魂歌9後半 11/24:2016/07/31(日) 20:21:58
「廃人?」
「何人かはいたのよ。ベルモンド家でも、それ以外の血統でも。聖鞭を奪って自分が頂点
に立ち、〈組織〉と権力を手に入れようとする人間が」
 返事ができずにいるユリウスに、退屈そうにイリーナは言った。
「でも、例外なしにそういう輩は鞭に拒否され、手厳しいしっぺ返しを受けたわ。運が
よくて即死、悪ければ心神喪失、発狂、廃人」
 頭をこすりつけてくる虎猫に目を細め、サンドイッチのピクルスを亀の口に放り込んで
やりながら、なんでもないことのように続ける。さっそくぱくりとのみこんだ亀はすっぱ
さに驚いたようににゅっと首を伸ばし、しゅっとハンドバッグにひっこんだ。
「ベルモンド家の家長が代々聖鞭の使い手をつとめてきたのは単に血統だけの問題じゃな
いのよ。ベルモンド家の者として厳しい教育と訓練に耐え抜いた者だけが、試練を通過で
きる強靱な精神を持ちうる確率が高いから。それだって、単に確率が高いというだけ。百
パーセントじゃないの。
 過去には、ベルモンドの正統の長子であっても、試練に耐えられなくて死んだり狂った
りした人間の記録がいくつも残ってる。あなたがどちらになるかはあなた次第ね、ユリウス」
 一瞬、ユリウスは二人の言葉の中に悪意や中傷、脅しの響きをさぐろうとした。だが、
そんなものはどこにもなかった。二人はたんに事実を述べているだけであり、ユリウスが
これから直面しなければならないことに対して、多少の情報を与えているだけなのだ。
「まあ、あなたが合格することを期待していますよ」
 崇光は言った。

197煌月の鎮魂歌9後半 12/24:2016/07/31(日) 20:22:35
「むしろ、祈っているといってもいいですね。あなたが倒れれば、もうほかに鞭の使い手
になれる者はいない。今からまた探し直して訓練する時間もない。あなたが廃人になって
戻ってくれば、それでこの世は終わり。魔王の侵攻は止められず、世界は闇のものとなる
でしょう。なにしろあと一ヶ月、それだけしか時間はないのですから」
 明日の天気のことでも話すような淡々とした口調だった。多少哀れんでいるような響き
すらあった。ユリウスは両膝に手をつき、渡されたまま手をつけていない茶碗の底に目を
落とした。さめた紅茶の表面に、自分のやせた厳しい顔が見えた。まるで他人のもののよ
うだった。


「アルカード?」
 がむしゃらな鍛錬をひとりで終えて自室に戻ってきたユリウスは、予想もしなかった
人物の影を扉の前に見つけて動揺した。
 アルカードは静かに顔をあげた。
 いつもの大きすぎる白いシャツに、細身のスパッツと古風な革靴を身につけている。
輝く銀髪は廊下の薄明かりの中でも自ら光を放つように見え、光輪にふちどられた白い
顔は以前と変わらず平静で、なんの感情もうかべていなかった。
「ようやく崇光に出歩く許可をもらった」
 低くやわらかい声がユリウスの耳朶を擽った。背筋に快い震えが走り、ユリウスは
なぜかその場で背を向けてあとも見ず逃げ出したくなった。
「鍛錬の相手ができなくてすまなかった。だが、見たところ確実に腕は上がっている
ようだ。おそらくニュイ女伯爵と戦ったときよりもはるかに強くなっている。私が
教えるべきことも、もうさしてないようだな」

198煌月の鎮魂歌9後半 13/24:2016/07/31(日) 20:23:13
「何をしにきた」
 恐ろしく間の抜けた質問をした、と気づいたのは言葉が口から出てしまってからあと
のことだった。アルカードはけげんそうに目を細め、首をかしげた。細い眉のあいだに
わずかにしわが寄った。
「私はお前の雌犬なのだろう?」
 その単語がアルカードの口から出ることがひどく奇妙だった。なんの怒りも嫌悪も
なく、ただの一単語として発されるのはなおさら。何度も自分で口にし、嵐のような
情事の最中にも強いて叫ばせたにもかかわらず、ユリウスはひどく動揺した。 
「ユリウス?」
 アルカードは扉の前で待っている。
 ユリウスは白く輝く影から無理やり視線をひきはがし、大股に歩いて扉の前まで行く
と、乱暴にアルカードをおしのけた。触れた腰の細さがはっきりと手のひらに感じられ、
指がひきつるように思った。いったいこれほど脆そうな美しいものに、なぜあんな扱い
ができたのだろう。
「ユリウス」
 扉をあけて自分だけが入り、そのまま閉めようとするユリウスに、アルカードは
あわてたようにしがみついてきた。
「何を怒っている? 来られなかったのはすまなかった。崇光がなかなか地下から出る
許可をくれなかったのだ。一昨日にはもう起きられていたのに、崇光があくまでもう
しばらく休養しろと言い張って。けれどもお前との約束があるから、あまりに長く閉じ
こもっていることはできないと思ったのだ。だから」
「もういい」
 振り返りたくなるのをこらえるのには相当な意志力が必要だった。アルカードの指が、
迷子の子供のように袖をつかんで離れない。振り払って突き放し、扉をしめてしまえば
それですむ話だと考えながら、どうしてもそれができない。

199煌月の鎮魂歌9後半 14/24:2016/07/31(日) 20:24:10
「……ユリウス?」
「もういいと言ったんだ」
 歯ぎしりのようにユリウスはようやく言葉を絞り出した。
「もうここには来なくていい。勝手に自分の部屋へ行って寝ろ。俺は一人で寝る。訓練
で疲れてるんだ。ほっといてくれ」
「ユリウス」
 袖をつかむ手にぎゅっと力がこもった。
「どうして怒っているのだ? 約束を守れなくて悪かった。それは何度でも謝る。あそこ
まで消耗するとは、自分でも予想できなかった。だがもう大丈夫だ。私は耐えられるし、
お前との約束だ。いらないというのなら、理由を教えてくれ。ユリウス」
「飽きたんだよ」
 言葉は苦い薬をなめたように舌を刺した。自分の一言一言が自らの胸をえぐっていくの
を感じながら、ユリウスは懸命に部屋の奥に目を据えつづけた。振り返ってしまえばたち
まち意志は崩れて、無我夢中ですがりついてしまうことがわかりきっていた。
「あんたに飽きた、それだけだ。理由なんかほかに要るのか? あんたには山ほど大事に
してくれる相手かいるんだろう、そっちへ行って世話をしてもらえ。もうたくさんだ。俺
は一人になりたいんだ。もうあんたなんかうんざりだ、さっさとどこへでも行ってしまえ」
 袖をつかんでいた手がゆるみ、力なくすべり落ちた。
 そのまま扉をくぐれ、とユリウスは自分に命じた。すがりつく手を振り払って力まかせ
に扉を閉め、まぼろしの月と自分を、永遠にへだててしまうのだ。
 けれども、できなかった。手が離れるのに引かれるようにして、ユリウスは振り返って
しまった。
 アルカードは両手をだらりと垂らし、なすすべのない子供のようにただ立っていた。
ほとんど表情を表さない彼が、いまは行き場をなくしてとほうに暮れた少年の顔をしていた。

200煌月の鎮魂歌9後半 15/24:2016/07/31(日) 20:24:58
「ユリウス」
 アルカードは言った。
「私は人が本心からその言葉を言っているかどうかくらい判別できる。お前はなにかに怒
っている。愛想をつかしてもいる。けれどもそれは私にではない。では、いったい何なの
だ? 私にはそれがわからない。私に飽きたのでないなら、どうして帰れなどという? 
本当にここにいてもらいたくないというのなら帰る。だが、お前の心はそれを望んでいな
い。いったい、私はどうしたらいい?」
 進退窮まってユリウスは戸口に立ちつくした。            
 アルカードは青く冴える瞳をまっすぐに向けて、ユリウスの返事を待っている。この
月の前では偽りも虚勢も通用しないのだ、とユリウスは思った。青と黄金に映える彼の
瞳は、望むと望まないにかかわらず、真の心と思いを読みとってしまう。
 ユリウスは唇をかみしめ、ぐいとアルカードの手首をつかんだ。自分がためらって
しまわないうちに一気に部屋にひきずりこみ、扉を閉める。引っ張り込んだ勢いのまま、
ベッドの上に放り投げるように投げ出した。手もなく倒れたアルカードが身を起こし、
命令を待つように乱れた髪の頭をあげる。
 ユリウスはそのまま、どっかとアルカードの隣に腰をおろした。
 いつものように奉仕を強制されるものと思っていたらしいアルカードは、またけげん
そうに首をかしげ、動きを止めた。
 ユリウスは言った。
「鞭の試練の話を崇光から聞いた」
 かすかにアルカードの頬がひきつった。ユリウスは続けた。
「死か廃人の危険があると、言われた」
 アルカードは口を結んで視線をそらしている。こわばった肩がそれとわからないほど
震えていた。
「俺は、どっちになると思う。死人か、よだれを垂らした生きた屍か」
 アルカードはかなり長い間黙っていた。ユリウスは彼の性にこれまでなかったことだが、
返事が来るまで辛抱強く待ち続けた。

201煌月の鎮魂歌9後半 16/24:2016/07/31(日) 20:25:42
「……どちらにも、ならない」
 息の詰まるような沈黙を、アルカードがようやく破った。
「お前は試練を乗り越える。お前は生きて戻り、聖鞭の所持者として戦う。私とともに」
「なぜわかる?」
 あざけるような口調になるのを抑えられなかった。崇光の冷ややかな目と声、お前は
けっしてアルカードの目に本当に映ることはないと告げられたあの言葉が脳裏で皮肉に
唸った。
「俺があんたにどういう扱いをしてるかはわかってるよな。これまで、どんな生き方を
してきたかも」
 アルカードはうつむいて答えなかった。
「おきれいな英雄様とはほど遠い、ごみ溜め暮らしの野良犬だ。罪のある人間も、ない
人間も、山ほど殺して踏みにじってきた。それでもなんとも思っちゃいなかった。ほしい
ものはなんでも手に入れてきた」
 お前以外は、と心の中でつぶやく。この、人の姿をした月以外は。
「そんな人間でも、鞭とやらは使い手として認めるのか? 俺はベルモンドの血を引い
てるのかもしれないが、私生児で、しかもとんでもない悪党だ。悪魔だって顔をしかめ
るくらいだ。俺は赤い毒蛇と呼ばれてた。覚えてるか。あの街で、あの地下室で」
 横に置かれたアルカードの手を、ユリウスはきつく握りしめた。アルカードが小さく
眉を寄せたほどの強さだった。
「俺があんたにしたことを。まさか忘れちゃいないよな?」
 手の中で白い指がぴくりとする。
 そのまま、この作り物のような手を握りつぶしてしまいたい衝動に駆られる。半吸血鬼
に対してただの人間の力がむろんかなうわけはないのだが。あの暗い地下室でも、アル
カードはいつでもユリウスの首をへし折り、そのまま平然と出てこられたはずだ。四つん
這いになって獣のように犯されなどせずとも、すぐに。
「……私は、知っているからだ」

202煌月の鎮魂歌9後半 17/24:2016/07/31(日) 20:26:27
 また長い沈黙があった。ぽつりと、アルカードが呟いた。
「何をだ?」
「お前の魂」
 アルカードはふいにまともにユリウスを見つめた。
 澄みきった蒼氷の双眸に自分が映るのを見て、ユリウスは自分でも思っていなかった
ほど、はげしく動揺した。
「お前の、真の精神の姿」
 アルカードは言った。
「私は長く生きてきた。人の知らないもの、けっして知ることのないものも、多く見て
きた。お前は鞭にふさわしいものだ、ユリウス。聖鞭はお前を受け入れる」
「ずいぶん自信がありそうだな」
 動揺を抑えてユリウスは吐き捨てた。
「そいつは事実じゃなく、願望ってやつじゃないのかい。俺がダメになればもう鞭の
後継者はいなくなる。あの日本人は言ってたぜ、そうなりゃ世界は終わりだってな。
まあその時には俺は死んでるか狂ってるかだから関係もないだろうが、あんたたちにと
っちゃ、俺が試練とやらに合格して暮れなきゃ困るってわけだ。はたしてそううまく
いくもんかね」
「私はお前を訓練し、お前を読み、お前を知った」
 アルカードは動じなかった。
「私は願望と事実の違いを理解している。私はお前が鞭にふさわしい者だと確信した
からこそこの場に迎え入れたのだ。ベルモンドの血は資格のひとつに過ぎない。聖鞭は
資格者の魂を読む。私は理解する、お前を──」
「──あんたに何がわかる!」
 ついに耐えきれなくなって、ユリウスは叫んだ。
 アルカードがそれとわかるほどぴくりと身をすくませる。
 ユリウスは彼の顔に目を据えた。美しい、美しい、遠い遠い月の顔。

203煌月の鎮魂歌9後半 18/24:2016/07/31(日) 20:27:12
 魂の底まで読みとる力を持ちながら、その実、なにひとつ理解しようとしない。理解
することができないのだ。その視線はつねにあまりにも遠く、はるかな昔しか映すこと
はない。
「……何がわかる」
 力なくユリウスは繰り返し、アルカードの手を離した。
 こわばった指をはがすのには非常な努力を要した。一本一本をはがすごとに、生皮を
はがされるような痛みが胸を突き刺した。
 アルカードは大きく目を見開いたままじっとしている。呆然とした様子で、つかまれ
た腕を無意識にさすっていた。手首に浮いた指の形のあざは急速に薄れてゆき、ユリウ
スが完全に手を離しておろすと同時に、もとどおりの白いしみ一つない肌にもどった。
 酷いやるせなさがユリウスの腹を重くした。
「話をしろ」
 気まずい雰囲気を払うように、ぶっきらぼうにユリウスは言い、長靴を蹴って脱いで
部屋の隅へ放り投げ、ごろりと寝転がった。
「話……」
「このくそいまいましい屋敷ときたらテレビもラジオもありゃしない。なんでもいいから
話でもしろ。ラジオの代わりにゃなるだろう。こっちは疲れてるんだ。どたんばたんやら
かすよりはくだらん話でも聞いてる方が楽だ。好きなことをなんでも話せ。くだらなかろ
うがばかばかしかろうが、多少の退屈まぎらしにはなる」
「……好きな、こと」
 アルカードはよけいとまどったようだった。寝転がったユリウスの隣に自分も寝たほう
がいいのか、それともそのまま座っていたほうがいいのかわからないようで、中途半端な
姿勢で動きを止めている。
「……そう言われても、何を話していいのかわからない」
「あんたは長く生きてるんだろう。四百年だか、五百年だか。そんだけ生きてりゃなにか
話題くらいあるだろうが。まさかずっとここの屋敷にとじこもって生きてきたわけでもあ
るまいに」

204煌月の鎮魂歌9後半 19/24:2016/07/31(日) 20:27:57
 アルカードはうつむき、かすかに頬をこわばらせた。ユリウスはひそかに自分をのの
しった。おそらく、ここで生きてきた間、それ以前に彼が生きていた場所、それらの中で、
語れるような楽しい思い出など数えるほどしかないのだろう。触れて痛みを与えないよう
な記憶は。
「あのなんとかいう女妖魔、あんたを知っていたみたいだったな」
 ほとんど手探りで、ユリウスは話の接ぎ穂を求めて言った。これがアルカードの心を
痛める記憶でないことを祈った。もっとも訊きたいこと──壁にかけられた、あの顔に
傷のある肖像の男──に関することは、けっして触れてはならないのだとわかっていた。
あの金の指輪はまだ、机の引き出しの奥に、厳重に布にくるんでしまわれている。
「ニュイ女伯爵……」
 アルカードは呟き、首を振った。
「……彼女も、……彼女も、昔はあれほどの異形でも、邪悪でもなかった。父の狂気に
巻き込まれて、本来の魂を失ったのだ」
 ユリウスは頭の後ろで手を組み、続けろ、と顎で命じた。アルカードはときおりつっ
かえながら、遠い過去から言葉をすくい上げるように、ゆっくりと話しつづけた。
「私はかつて、父の宮廷で彼女と踊ったことがある。まだ、ほんの少年のころだった。
私を嫌う貴族たちも多かったが、彼女は私にやさしくしてくれた。小さい私を軽々と
振り回し、くるくると広間じゅうを踊り回った。曲が終わって、目を回しかけながら
礼をしようとする私を支えて、すてきなひとときに感謝いたしますわ、小さな公子様、
と微笑んだ。
 ああ、あのとき彼女は綺麗だった。人間の貴婦人の姿をとって、髪に青い鋼玉と緑柱
石の髪飾りをつけていた。広間には精霊たちが明かりのかわりに飛び回っていて、雨の
ようにきらめく髪飾りにまつわりついて遊んでいた。集まった皆は笑いさざめき、上座
に座った父と母は、手を取り合って寄り添っていた。

205煌月の鎮魂歌9後半 20/24:2016/07/31(日) 20:28:37
 母は父の肩に頭をあずけ、父は母の肩を抱いていた。魔王と呼ばれてはいたが、父は
寛大であり、王侯としてふるまうことを心得ていた。宮廷の皆が楽しむことを喜んでいた。
何よりも、それによって母が楽しむことを喜んでいた。父にとって母は唯一であり、母
にとっての父も唯一だった。人間と吸血鬼、ささげられた人間と魔王という関係では
あっても、二人が愛し合っていることは子供の私がいちばんよくわかっていた。私は、
二人の愛が形をとったものだったのだから。
 私は母の膝に座り、父の手に頭を撫でられた。冷たい手だったが、私は幸せだった。父
は私を愛し、母も私を愛してくれているのがわかったからだ。私は父の顔を見上げ、
彼が微笑しているのを見た。今でも覚えている。めったに笑うことのない父だったが、
母がそばにいる時だけは、彼は笑うことができた……」
 はじめのうち、ためらい、途絶えがちだった言葉は、したたり落ちる滴からしだいに
小石のあいだをぬって流れる細流れになり、やがて、とぎれることなく流れる川になり、
夢のように歌いながら記憶の河をたどる大河となった。
 そこではすべての伝説とおとぎ話が現実であり、小さな妖精や魔法の生き物、醜い
小鬼や皮肉っぽい人外の貴族たち、影のように床の上をすべっていく亡霊、霞のような
裳裾をひいて歩き回る妖精の侍女たちが、魔王の影の城の中で優雅に輪舞を踊っていた。
その中心には常に魔王ドラキュラと、その妃、誰からも愛され、誰をも愛した美しい女性
がいた。
 長い年月にうみ果てた魔王の物憂げなまなざしは妻子に目を向けるときだけ生気を
帯び、かつて人間だったころの光をとりもどした。銀色の髪の公子は父の膝によりかかり、
人類は知らず、この先もけっして知ることのないであろう数々の秘密を聞いた。そばには
兄弟のように育った二人の少年がいた。彼らは人間ではあったが、強力な魔力をその身に
宿していた。三人は闇の深奥の秘儀を学んだあと、歓声をあげて城の庭に走り出た。

206煌月の鎮魂歌9後半 21/24:2016/07/31(日) 20:29:17
 そこでは王妃そのひとが、笑顔と、お菓子のたっぷりのった食卓を準備して待っていて
くれた。少年の片方の妹も、ふっくらした頬を上気させて心から崇める貴夫人につき
従っていた。蝶やとんぼの薄い羽根をふるわせる小妖精たちに囲まれて、子供たちは
本当のきょうだいのように食卓を囲んだ。小さな公子は母の胸にもたれ、やさしい笑い
声を聞きながら、蛍のように飛び回る妖精たちの羽根がひく光の筋を見上げた……
 アルカードの声は低く、しだいに、その意識の中からユリウスの存在も、現代という
時代も消えていくようだった。空中に向けられた彼の瞳はほのかな金色を帯びていたが、
戦いの時の燃えるようなそれではなく、夕映えの空を映したようなおだやかな光だった。
 遠い昔に失われ、永遠に破壊されてしまった幸福な時代を、いまひとたびかつての公子
は生きていた。ユリウスは顔を天井に向け、目を閉じた。心地よい清水のように、アル
カードの声が胸に染み渡る。引き込まれるように、いくつかの場面が脳裏によみがえって
きた……
 母が死んでしばらく、頼るもののない自分を世話してくれたのは元どこかの教師だった
とかいうアルコール中毒の老人だった。彼がねぐらにしていた立ち上がれば頭をぶつけそ
うな屋根裏部屋は、床から天井まで古本とごみ屑で埋まっていた。ほとんどは酔って正体
を失っていたが、たまに比較的しらふな時には、教師だったことを思い出すのか、どこか
で雑誌や捨てられた広告を拾ってきて、ユリウスに読み方を教えてくれた。
 彼が泥酔してごみためのような寝床でいびきをかいている深夜、空腹で眠れずにいると
き、たったひとつの逃げ道は読むことだった。積み重なった古本や茶色くなった雑誌や写
真の束から手当たりしだいに引っ張り出し、読める単語を拾い読みした。わからない単語
は読み飛ばすか、前後の意味からだいたいあてはめて読んだ。
 しゃれたドレスを着てポーズをとった美貌のモデルに、うっすらと昔、こんな人がそば
にいたことを思った。しかしすぐにそれは踊る男と血まみれの肉塊の記憶に覆い隠され、
あわててその写真は棚の奥につっこんだ。

207煌月の鎮魂歌9後半 22/24:2016/07/31(日) 20:29:56
 いちばん安全なのは文字だった。古い本の古い文字、いま自分がいるここからは遠く離
れた場所や、別の世界のことを書いた文字がいい。そこにはナイフを持った恐ろしい狂人
はいない。手足をへし折られ、顔もわからないほど踏みつぶされる女の死体もない。
 かろうじて天井に開いた天窓はほこりまみれで、煤煙とやにですりガラスのように
なっていた。それでも月の光は入ってくる。冷たく冴えた満月は、黄色い電球の濁った
光よりずっと清浄でやさしい。
 昼間の熱気は夜になってもさめず、むっとした空気の中にアルコールと吐瀉物と垢の
すっぱい臭いが入り交じる中で、小さい赤毛の子供は無心に本の中の別世界にもぐり
こんだ。雄々しい英雄たちが人喰いの怪物を退治する世界。美しい人々が行き来し、
神話の動物たちが駆け回り、正義が行われ、悪は罰され、よい人間が幸福を得る世界。
外の世界とはあまりにも違う、あまりにも、正しい世界。
 その正義と理想の物語など、たかが夢だと笑い飛ばすことを、いつから覚えてしまった
のだろう。
 ふと目を開くと、アルカードはまだ静かに語りつづけていた。ただ、上体がわずかに
ゆらぎ、ゆっくり前後にふらついている。やはりまだ、体力が戻りきっていないらしい。
長時間座って話し続けて、疲れたのだろう。
 ユリウスは肘をついて身を起こし、アルカードの腕をとった。
 驚いてアルカードは話しやめ、問いかけるような視線を向けた。かまわず、ぐいと引く。
細い身体はかんたんに倒れて、ベッドの上に転がった。
「余計なことは考えるなよ」
 いらぬ気を回される前に、ユリウスは釘を差した。
「俺はあいにく、しゃべりながら居眠りしかかるような奴を抱くような趣味は持ってない
んでね。そのまま黙って寝ろ。じゃなきゃ、自分の部屋へ行って寝ろ。俺はどっちでも
いい」

208煌月の鎮魂歌9後半 23/24:2016/07/31(日) 20:30:36
 アルカードはしばらくベッドに頬を埋めたまま目を丸くしていたが、やがて睫を伏せて、
小さく、ここでいい、と呟いた。
「ここで寝る。ひとりは、……好きではない」
 ユリウスは無言で腕をのばし、アルカードを引き寄せた。
 腕に収まる身体は、驚くほど華奢だった。何度もわしづかみにした肉体がこれほど
か細いことに本当には気づいていなかった自分を、ユリウスはいぶかった。あれほど
夢中でむさぼったのと確かに同じ身体なのに、なんと壊れやすく、小さく感じられる
のだろう。
 柔らかな銀髪が顎の下に触れる。髪は夜と、月の匂いがした。冷たくかすかに苦く、
ハッカのように涼しい。
 ユリウスの胸に頭を寄せたとき、もうアルカードの目は閉じかけていた。長い睫が
頬におり、吐息が首筋をくすぐった時、かすかな記憶の一片が心をかすめ過ぎていくの
をユリウスは感じた。
 疲れと、昔の記憶で呼び起こされた、かつての思い出のかけら。わずかとはいえアル
カードに血を与えたつながりが、アルカードの夢のひときれを運んだのだろう。
 アルカードは誰かの腕に抱かれて眠っていた。太い腕が頭の下に置かれ、たくましい
胸に髪をよせかけている。あたりは暗い森、焚き火が揺れ、馬が蹄を踏み換える音が
する。強く確かな鼓動が聞こえ、熱い体温としみついた革の匂いが、たとえようもない
安心感を運んでくる。

209煌月の鎮魂歌9後半 24/24:2016/07/31(日) 20:31:38
 ユリウスは歯を食いしばり、もう寝息を立てているアルカードをきつく抱きしめた。
 いまお前のそばにいるのは俺だと叫びたかった。遠い昔に死んで埋められた男ではなく、
俺が、お前を抱いているのだと、ゆさぶり起こしてでも知らせたかった。
 しかし、できなかった。ユリウスはかたく目を閉じ、安らかに寝息をたてるアルカード
の髪に頬を当てて、流れ込んできた記憶を塗り消そうと努力した。眠りにつくアルカード
を見下ろすその顔、濃い色の髪、ベルモンド家の特徴をそなえた精悍な顔立ち、深く青い
瞳に、左目をたてにかすめるような傷痕をもった、その男の、愛のこもった微笑を。

210煌月の鎮魂歌10 1/43:2017/08/12(土) 22:43:08
 Ⅴ  1999年 六月

             1

 石畳の上にブーツが音をたてた。
「試練の通過は本人の帰還によってのみなされ、かつ証立てられる」
 この場を取り仕切るのは背筋をまっすぐに立て、青白い刃を目に宿した白馬崇光だった。
円形の競技場を思わせる大広間は寒く、壁際に立って両手を組んでいるイリーナの頬
は青ざめていた。白い息が少女の朱い唇のまわりに靄のように漂っている。
「この試練を無事通過することによって、鞭の所持者の資格は決定され、完全なものとな
る。聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉の主として、ユリウス・ベルモンド、汝は闇と魔から
人の世を守る守護者として立つことを認められる」
 ユリウスは小さく顎をひいてそれに応じた。


 早朝から聖堂に参じて祈祷を受け、聖水と聖餅による浄めを受けた。衣服はいったんす
べて奪われた上で、裸の身体を乳香と没薬で現れ、あらたに十字架の縫い取りのあるマン
トで覆われて御堂を出る。
 ベルモンド家の広大な敷地の中で、この御堂と白い円形競技場は格別の意味を持ってい
た。アルカードが眠る地下の聖堂を陰の心臓とするなら、こちらは陽の心臓だ。めんめん
と伝えられてきた吸血鬼殺しの聖鞭の所持者のしての資格は、この至聖所の中で行われる
試練によってのみ、ためされる。

211煌月の鎮魂歌10 2/43:2017/08/12(土) 22:43:53
 ユリウスは身にぴたりと添うレザーのジャケットとパンツを身につけ、使い慣れたライ
ダーズブーツを履いていた。どこもかしこも白く、神聖な印と古風な荘厳さに飾られた古
来の聖堂では、現代風のその衣装はいかにも場違いだったが、アルカードはなにも言わな
かった。イリーナの隣に立ち、美貌を永遠の輝きの中にかすませて、黙然とユリウスを見
守っている。目にしみるこの大広間の白さの中で、二つの黒い影がユリウスとアルカード
だった。ふたごの影のようにじっと立つアルカードを、ユリウスは見ないようにした。
 先月、ベッドでアルカードに寄り添って眠って以来、会うのはこの場がはじめてだっ
た。あの日以降、ユリウスは部屋に戻らず、夜は外に出てひとり鍛錬に汗を流すか、木立
や青草の上にまるくなって寝んだ。朝になると黙って屋敷に戻り、用意された食事を取っ
て、また黙々と身体を動かす日課に戻った。ベッドはからのまま何日も放置され、もし誰
かが尋ねてきていたとしても、それはユリウスの知るところではなかった。
 アルカードの心は読めない。いつもと同じように。もはや教えることはないと言ったの
は本当なのか、彼は昼間の鍛錬にはもう姿を見せなかったし、ときおり顔を出していたサ
ンルームのお茶会にも現れなくなった。できればユリウスも遠慮したいところだったのだ
が、イリーナがうるさいせいでこれにだけは列席しなくてはならない。
「このごろおとなしいのね、ユリウス」
 小さな女王はお茶のカップを前に、胸元のリボンをひねくりながら上目遣いでユリウス
を見た。
「あなたらしくないと言うべきかしら、それとも、あなたもやっと少しは分別が身につい
たと思うべきなのかしら」
「どっちでもいいさ」
 ユリウスは呟き、食いかけのサンドイッチから抜いたベーコンを白い虎猫に投げた。虎
猫はひょいと空中でつかまえ、旺盛な食欲でかみ砕いた。

212煌月の鎮魂歌10 3/43:2017/08/12(土) 22:44:28
 記憶と夢のあの一夜が、自分にどのような影響を与えたのかはよくわからない。ただ、
あの日の翌朝めざめて、胸を食い荒らしていた怒りと焦燥、心臓を引きちぎる痛みが、嘘
のように消えていたのは事実だった。
 いつ眠り込んだのかもはっきりしない。腕の中で寝息をたてるアルカードのぬくもりと
重みを感じ、あふれ流れる銀色の髪に踊る月光をぼんやり眺めているうちに時間がたって
しまった気もする。気がつくとすでにアルカードはおらず、ユリウスは広いベッドに一人
で横たわっていた。
 身を起こすと、かすかな薔薇の香り、そして清水に似た夜の冷気がにおった。奇妙なほ
ど平静な気持ちでユリウスは腕を持ち上げ、そこにひと筋の銀髪が残っているのを見た。
ほとんどなにも考えず、自然にそこに唇を押し当てていた。唇の上で髪は泡雪めいて冷た
く、薫り高かった。
 脳裏であの男の顔、深く濃い青の瞳と左目をかすめる傷跡をもつ男の面影がまたたいた
が、それは苦痛ではなく、淡い哀しみと郷愁に似た念を呼び起こすにとどまった。それは
おそらくユリウス自身のものではなく、昨晩腕の中で眠った者の、心のこだまが痕を残し
たものだと思われた。
 ユリウス自身はといえば、自分でもおどろくほどに平静だった。あるいはあまりに揺さ
ぶられすぎた心が、ついに無感覚に陥っただけなのか。どちらともわからない。いずれに
せよ、生まれてこのかたユリウスを灼いてきた強酸のような憤怒は、月を抱いて眠った一
夜のあいだに、あっけなく解けて流れてうせていた。
 奇妙な寂寥感があった。自分がからっぽになった気がしないでもなかったが、それはい
まだかつてユリウスが慣れたことのない、平安というものによって身体を満たされていた
せいかもしれなかった。

213煌月の鎮魂歌10 3/43:2017/08/12(土) 22:45:09
 むろん、馴染みの怒りが戻ってきて、とがった指ではらわたをつつくこともあった。だ
がその時には、いつでも指に残った銀髪と、そのひやりとした感触がよみがえり、燃えか
けた火はすみやかに凪いだ水面の静謐さに変わった。ユリウスは黙々と身体を動かし、こ
れまでにはなかった静穏さのなかで鞭をふるい、修練用の魔道機を次々と落とした。
 やってみると、これまでいかに怒りと憎悪が感覚を曇らせていたかがわかった。気づい
ていなかった目覆いがふとすべり落ちたかのようだった。派手な身振りは影をひそめ、必
要最低限の動きで鞭を操ることに、ユリウスは慣れた。立ちつくしたまま、わずかな手首
と指のひねりだけで、数十に及ぶ目標を落とすこともわけなくできた。
 ユリウスの目は澄み、赤くぎらついていた毒蛇の目はしだいに、深く青いベルモンド家
の瞳に似通ってきた。血を浴びたような赤毛はそのままだったが、挙動には急速に落ちつ
きと一種の優雅さがそなわり、粗野のかわりに沈黙と思慮がとってかわった。
 崇光でさえ、彼が変わったことを認めずにはいられなかった。神官の視線はあいかわら
ず厳しかったが、それでも日ごとにユリウスを見る視線には考え深い色が宿り、思案げに
指を唇にあてることが増えた。
 ユリウスは気にしなかった。以前──あの月の夜以前──なら、そんな風にうかがわ
れ、力量を取りざたされることにははげしく反発しただろうが、彼にはもう、眠る月と彼
のこぼした記憶のかけらがあった。涼しい薄荷の一片のように、それはいつでも匂やか
に、香り高く彼の胸をなだめた。あるいは薔薇。露を含んだ、清らかな純白の薔薇の花び
ら。
「決戦が近づいています」
 そしてついに、崇光は決断を下した。
「ユリウス・ベルモンドに、聖鞭の所持者の試練を。彼に準備ができていようと、いまい
と、あとのことは鞭自身が決定するでしょう」

214煌月の鎮魂歌10 5/43:2017/08/12(土) 22:45:52
 儀式の場に臨むのは崇光、対象者であるユリウス、イリーナ、そして、闇の公子アル
カード。余人はここに加わることを許されない。本来ならばベルモンドの当主、もしくは
それに準ずる血筋のものが司る儀礼とされていたが、崇光による再三の要請にもかかわら
ず、当主であるラファエルは姿を現さなかった。
 ──ラファエル様はご不調でいらっしゃいます、と代理として出てきたボウルガード夫
人が慇懃に答えた。
 ──お医者様からも無理はおさせしないようにと厳重に申し渡されております。鞭の授
受に関しては、白馬様にご一任せよとの仰せです。
 そうきっぱりと申し渡されてしまうと、崇光にもそれ以上無理強いすることはできなか
った。少年がこの半年間の出来事にいかに傷ついているか、知らぬ崇光ではない。ラファ
エルが同席せずともユリウスの鞭の試練を行うことはでき、また同席したところで、いた
ずらに少年の苦悩を増すことにしかならないのを考えれば、いたしかたのないことではあ
る。列席したところで、ラファエルにできることはなにもないのだ。
 円形の広間はほのかな微光に充たされていた。どこにも光源らしきものはなく、ただ磨
いた壁面や床面から、霧のような光の粒がただよって、空気そのものを輝かせているかに
思える。
 ユリウス、そして列席者一同が入ってきた扉は閉ざされ、内側からはどこにあるかもわ
からない。正面には高い祭壇と、その上にささやかな十字架、そして、鉄の枠のはまった
古びた函があった。函の蓋はひらいていた。ユリウスは黙って立ち、その内部からさす、
他の人間には知覚できない光と霊気を感じた。
「ユリウス・ベルモンド。こちらへ」
 手をあげて崇光が招いた。ユリウスは静かに前に出た。純白の床石がふわりと光る霧を
舞わせた。

215煌月の鎮魂歌10 6/43:2017/08/12(土) 22:46:27
「飲みなさい」
 大ぶりの酒杯が差し出された。重厚な装飾が施された銀製の高坏の中に、濃い紅の液体
が揺れていた。ユリウスは取って飲んだ。渋くてきつい酒精が舌を灼き、喉をしびれさせ
て胃の腑へ下っていった。
「とりなさい」
 酒杯を返して口をぬぐうユリウスから目を離さず、崇光は蓋の開いた函を示した。ここ
まで近づくと、その宝物の放つ力が肌に針で刺すように感じられた。
 凍りついた鋼鉄の塊に近づいたような、あるいは不機嫌にうずくまる猛獣の檻にいれら
れたような。背筋が粟立つ。首筋の毛がひとりでにひきつる。脳をそっと、だがさほど優
しくはなく、指でさぐられた思いがして、ユリウスはふらついた。
 崇光がじっと見つめている。
「……なんでもない」
 ユリウスは顔をぬぐった。知らないうちに汗をかいていた。指先にぬるりとした感触を
覚えて驚き、見てみて、それが脂汗の一滴でしかないのにまた驚いた。むしろ血の一滴で
あったほうが納得したのに。
 喉の奥に酒の渋さがまだ残っている。紅い葡萄酒。キリストの血。
 だが神はここにいない。真の聖性と神の名は別物だと知っている者しかここに入ること
はできない。かかげられた十字架は神のしるしではなく、この象徴のもとに集って闇にあ
らがってきた多くの人々の精神の精髄であり、あがめられているのは強靱な意志と不屈の
生命のみである。
 キリストの司祭ではない崇光が祭司として儀式を進めるのは、宗教的に見るなら奇妙な
ことかもしれないが、闇の最前線に立つものとしては当然だろう。ともに戦い、意志と力
を暗黒にささげる剣となす者が、儀式をとりおこなうのになんの不思議があろうか。
 ユリウスは血に擬した酒を口にし、それが身体で燃えるのを感じた。

216煌月の鎮魂歌10 7/43:2017/08/12(土) 22:47:04
 彼にとって、血とその味に結びつけられる人物は一人しかいない。それはどこともしれ
ない天国に座す神の子ではなく、たった今、この同じ部屋にひっそりと佇んでいる、月の
顔をした闇の公子だ……
「鞭をとりなさい、ユリウス・ベルモンド」
 崇光の声が強さを増した。
「鞭をとり、そして、出会いなさい。あなたの宿命に」
 ユリウスはもう一度大きく息を吸った。
 そして手を伸ばした。すぐ目の前にある祭壇がひどく遠く思えた。空気が粘りけをま
し、自分の腕が伸びていくのがひどく遅く見えた。自分のものではないような手が、函に
ふれ、その内部に眠るものをつかむ。
 それは手の中で一瞬もがくように思えた。触れた瞬間は冷たくてざらついていると感じ
たが、一瞬のち、それは熱くなり、なめらかな絹の手触りになった。手のひらを温かな繻
子の表面がこすると感じて、ユリウスはさらに手を入れ、その、古びた皮の鞭の握りを、
しっかりと掴んだ。
 なにも起こらない──そう思った。
 だが、口を開こうとした次の瞬間、足もとの床が割れた。
 口を開いた暗黒がユリウスを飲み込んだ。白い石が音もなく舞い、立ち上がって周囲か
ら折り重なってきた。崇光とイリーナ、そして、アルカードの姿が上昇し、小さくなっ
て、視界の果てに消え失せた。墜落と失墜の恐ろしい感覚がユリウスを捕らえた。
 ユリウスは叫んだ。だが、声にはならず、なったところで誰も聞いてはいなかった。
 底もなく続く暗黒の陥穽の底へ、ユリウスは墜ちた。

217煌月の鎮魂歌10 8/43:2017/08/12(土) 22:47:39
 儀式が開始されたちょうどそのころ、屋敷の奥で、ボウルガード夫人はそっと寝室の扉
を後ろ手に閉じた。
 衣擦れの音をさせながら進む。窓は閉ざされ、室内には異様な熱気がこもっていた。卵
の腐ったような臭気──硫黄の臭いだ。夫人はしとやかに口を押さえ、ベッドのカーテン
を押しのけて、かがみ込んだ。病の子供を思いやる母のしぐさだった。
「ラファエル様」そっと彼女はささやいた。
「あの野良犬が鞭の試練に挑んでおりますよ」
 低い呻り声が応じた。
「ええ、ええ、さようでございますとも──そのようなこと、許してはおけませんとも。
そうです、ラファエル様をおいて、あの鞭を手にすべき方などおられません。聖鞭を手に
し、アルカード様の隣に立たれるのは、ほかならぬラファエル様であるべきです。でなけ
れば、すべては間違っています」
 またしばらく口をつぐんで、
「そうですね、白馬様はそう思っていらっしゃるようです。最終決戦における鞭の使い手
たる資格があの男にはあると。なんという勘違いでしょう。あのような賤しい私生児に、
鞭が自らを手にすることなど許すはずがございません。アルカード様もお気の毒に。ご自
身のお父君の復活を、本来ならば子として喜び迎えるべきところを、人の操り人形となら
れ、本来ご自身のものたるべき闇の王冠を砕く手伝いをなさるとは」
 細い指が弱々しくシーツを掻いた。ボウルガード夫人は頭を傾けて何かに聞き入るしぐ
さをした。きっちりと結い上げた白髪は微動だにせず、しわの寄った顔にはなにか超越的
な微笑が漂っていた。彼女は布団に手を入れ、そっと少年の指を包んで胸に抱いた。そし
て赤ん坊を抱いて揺するようにかるく揺すった。

218煌月の鎮魂歌10 9/43:2017/08/12(土) 22:48:10
「そうです──なにもかもが間違っているのです、ラファエル様。あなた様こそが聖鞭の
使い手として、アルカード様のおそばに立ち、あの方の心を手にすべきでした。何百年も
前に死んだものではなく。あなた様こそベルモンドの誉れであり、父上ミカエル様でさえ
とげられなかった偉業をなすよう定められたお方でしたのに。
 あの男の手に触れられたことで鞭はあなたを裏切り、ベルモンドの血もあなたを裏切っ
たのです。あのような男、試練どころかベルモンドの名さえ名乗る資格も持たない。あの
者を受け入れることを決めたとき、ベルモンドはあなた様の故郷であることを自ら放棄し
たのです。その資格なきものを、こともあろうにあなた様に替えようとした罪で」
 低かった呼吸が耳障りになった。ざらついた吐息が何事かを叫び、やせ細った腕が引き
つれた。ボウルガード夫人は骨と皮ばかりになった少年の手を頬にあて、口づけ、恋人の
仕草で乳房に押しつけた。
「おお、そう、そう、そう」
 老女はうめいた。濡れた舌がくねり出て、ねっとりと唇をなめた。異様に長く、とがっ
た赤い舌だった。ほとんど顎までも届きそうな舌が唇にひっこむ。白髪が解け、肩から腰
へとなだれ落ちた。ベッドの端に腰をおろした夫人は、身震いして髪の重さを払いのけ
た。
 頭を持ち上げ、満足げに指をなめるその横顔から、しだいにしわが消えていく。まつげ
は濃く黒く、髪もまたつややかに黒く。肌は深海の真珠に似て冷たく青白く、唇はあくま
で赤い。禁欲的な繻子のドレスの下から、肉感的な肩と腰、なまめかしい白い首、脂のの
った太股とゆたかな乳房が、夜の花のように開きだす。
「さようでごさいます。間違ったことは正さねばなりません。あの野良犬が触れた品な
ど、もはや聖なる品でもなんでもない。ラファエル様がおとりになるのは、もっと良いも
のでなければなりません。正しきあなた様の武器を、こちらに」

219煌月の鎮魂歌10 11/43:2017/08/12(土) 22:48:44
 いまや妖艶な女の姿となったかつてのボウルガード夫人は、性の極みにあるかのように
唇を半開きにし、身をくねらせて手をのばした。
 そこに、鞭があった。黒く、沈んだ色の黄金と宝石で飾られており、赤い光がちらちら
とまつわるさまは、その場にありながら地底の炎をまつわらせているかのようだった。握
りに填められた黄色い琥珀が魔物の目のようにまたたいている。
 ラファエルは獣のようにうめいて手をのばした。その手の触れる寸前、女はつと鞭を後
ろへ引いた。
「ああ、いけません、いけません」
 唸り、叫び、首を左右にふってもがく少年に、女は唇を突き出して指を振った。
「これは正しき鞭。あやまった聖鞭を砕くべく作られたあなた様の鞭、ね、でも、これを
おとりになるには、今のままではいけません。いえ、これはあなた様の鞭です、資格だな
んだ、うるさいことは申しませんわ、でもね、ラファエル様、これをお持ちになるには、
たった一つ、せねばならないことがありますわ──」
 開いた唇がみだらに喘ぐ。硫黄の臭いが強まった。少年は叫び、身もだえ、鞭を求めて
悲鳴を上げた。ほとんど言葉になっていないその声にこもった意味を、妖女は正確に理解
した。
「ああ、わかってくださるのね、ラファエル様」
 唇が開き、その肌よりももっと白い、長大な牙がこぼれ出た。
 墓場の臭いが一気に強くなった。
「嬉しいわ」
 女の影がベッドに倒れこんだ。かすかにすすり泣く悲鳴が上がり、ばたばたと手がベッ
ドを打って、やがて力なく垂れさがった。あふれる長い黒髪が夜の滝となってベッドを覆
う。猫が舌を鳴らすのに似たぬれた音。
 そして静寂。

220煌月の鎮魂歌10 11/43:2017/08/12(土) 22:49:21

            2

 はためく時間と記憶のただ中を、まっしぐらにユリウスは落ちていった。
 頭を下にしているのかそれとも足を下にしているのか定かではなかった。そもそも肉体
があるのかどうかさえ判然としない。ユリウスの存在は膨大な記憶と積み重ねられた過去
のなかに解けさり、存在のしるしとしては、ただ観察者としての位置、はためき過ぎてい
く累代の鞭の所持者たちの顔や手や動きを、ちらと認識するだけの無力な通過者でしかな
かった。
 見たことのない男たち……時には女もいる……その誰もがきびしい青い目をし、同じ聖
なる、または呪われた、革の鞭を手にしている……しなる胴体は蛇のようにかれらの運命
に巻きつき、締めつける……たくましい肩や胸、踏みしめた足……はためくコートと切り
裂かれる肌、その上に咲く血の赤い花、目の端をよぎる怪物のおそろしく歪んだ顔貌、よ
じれた手、むきだした牙……血が油のようにゆっくりと滴り、何者かの命数がつきたこと
を告げる……黙然と立ちつくす長身の影……手にはだらりと下がった鞭がある……一瞬、
どこかで記憶を刺激する顔立ちが、同じく遠い記憶の中にあるような、ほっそりした背中
の女と寄り添っているのが見えたが、それもまたすぐに、重なり合う時間の翼のむこうに
はばたいて去ってしまう……
 くるりと場面はまわり、銀髪をなびかせた男が鞭とともに古い呪文を口にし、あたりを
払っている……銀髪……銀髪……胸が苦しいのはなぜだろう……また視界がまわる……
 現れた男はどこか記憶を切りつける痛みをもたらす……声を上げようとするが喉も唇も
存在しない……ちがった、これは〈あの男〉ではない……彼よりも若く、いくぶん穏やか
な目をしている……戸惑ったような……悲しげな? いや……金髪の幼い少女がいる……
四匹の獣たちをつれて……少女はいつのまにか成長して若い娘になる……銀髪……黒衣の
……また舞台がかわる……

221煌月の鎮魂歌10 12/43:2017/08/12(土) 22:49:56
 涙と夜の底で鞭が生まれる瞬間を目にする。若き騎士は夜の王たる吸血鬼に汚されたわ
が身を恋人にささげて武器と化す。喜びと幸福しか知らなかった青年は恋人の生命と魂の
変じた呪わしくも愛おしい武器を抱いて号泣する……
 知覚と、そして手の中の熱だけが存在のすべてだった。回転する過去のまわり舞台の中
心にユリウスはいて、そして果てしなく落ちつづけていた。まわりで過去がはばたき、か
すかな衣擦れとため息に似た音をさせて頭上へと飛び去った。灼けた鉄のように握りが手
のひらに焦げつく。
 自分の名前すらほとんど思い出さなかった。身体と精神のなかを突きぬけていく歴代の
記憶、鞭に眠る累代の使い手たちの意識の前に、ちっぽけな個人の意識などは激流にのま
れる小石のようなものだった。じわじわと熱が広がり、残った意識をも呑み込んでいく。
それは奇妙にもここちよかった。混乱した意識を、あらがいがたい時間が広くなめらかに
撫でていき、個人の意識という突堤をならして、永遠の意識の中に織り込もうとする。
 落下のただ中で、もはや意識されてもいない顔が、微笑を浮かべた──のかもしれな
い。ほとんど唯一となろうとする手の中の灼熱にすべてを明け渡し、感覚をとざそうとし
たその時、ちらりと深く鋭い青の瞳が、意識の中に焼き付いた。
 ユリウスはかっと目を開いた。
 ぐるりと身体が回り、平らな場所に勢いよく放り出された。
 あやうく受け身を取って立ち上がる。どこともしれない広い場所だった。足の下は平ら
だが床の存在は感じられず、ただ足を支える空間だけが、身を置いたその場にのみ出現す
る白い虚空だ。上も周囲も限りなく、ただ無。
 白熱する針がこめかみに燃えている。目も頭もずきずきと痛み、背中はこわばって堅
い。手足はうまく動かず、ともすればひきつって自分では意図しない動きをとろうとす
る。皮膚が針でさされたように感じる。空間に電気がみなぎっているかに思える。
 何かがいる──この奥に。
 ユリウスは鞭を引きつけ、待った。

222煌月の鎮魂歌10 13/43:2017/08/12(土) 22:50:29
 長い一呼吸ののち、白い虚無の奥に、何かが動いた。
 ユリウスは唇をあけ、あえいだ。その相手は大型の獣のように静かに、優雅とさえ言え
る動作でこちらに向かって進んできた。
 古風な長いコートの裾が動きにつれてゆっくりとなびく。肩を少し越えるほどのかたい
茶色の髪、精悍な顔立ちはまさに狼。彫りの深い男性的な顔立ちに、夏空の深みを思わせ
る鮮やかな青のベルモンドの目が光り、その左目をたてに裂くように、灰色を帯びた傷跡
が走っている。そして広くあけた上衣の胸にも、大きな傷跡が。
 男は鞭を手にしていた。ユリウスが手にしているのと寸分たがわぬ、聖鞭〈ヴァンパイ
ア・キラー〉を。
 ユリウスは男の名を知っていた。
 いまだ会ったことはなく、この瞬間までは会うこともなかったが、この世でもっとも憎
む男の名を。


 忘れたと思っていた憤怒がなにもかもを押し流すいきおいで噴出した。
 ちぎらんばかりに鞭をつかみ、雄叫びをほとばしらせて、ユリウスは黙然と立ちつくす
相手に向かって飛びかかっていった。
 化鳥の叫びとともにうち下ろされた鞭はあっさりと片手で跳ね返された。まったく同一
の鞭を手にした男は右の前腕をわずかに振っただけでユリウスの攻撃をしりぞけ、同じ一
動作でユリウス自身へと攻撃を跳ね返らせた。ユリウスは歯をむき出して鞭をひき、大き
く肩を開いて真横から鞭をしなわせた。
 攻撃がかすめた場所には、もはや男はいなかった。空を切った一撃に気づいてユリウス
が身をひるがえす前に、男は彼の背後に移動していた。ほとばしる無音の気合にユリウス
が身をひねった瞬間、とがったブーツの先があばら骨を砕かんばかりに蹴り込まれた。

223煌月の鎮魂歌10 14/43:2017/08/12(土) 22:51:04
 たまらずユリウスは膝を折った。痛打された腎臓が破裂するような激痛を生み、酸い胃
液が勝手にこみあげてきて喉を灼く。傾きかかる身体をののしって頭を振り、つきかけた
腕をよじって肘をつきあげる。
 肘はがっしりした胸をかすめ、相手がわずかに息を吐くのを感じた。勢いをかってわざ
と倒れ込み、転がって敵の下から逃れる。痛みは煮えたぎる感情のあらしにさらされてど
こかへ飛び去った。
 迫る風の音を耳というより肌で感じる。一瞬早く体をさばいたが、攻撃はなおも追いす
がった。胴体に衝撃。息が絞り出され、あばらが軋む。腰から胸に巻きついた鞭が大蛇の
ように締め上げ、肉と骨とを食いちぎろうとしている。勢いに逆らわず、鞭の方向に従っ
て転がった。相手がさらに締め上げるより早く回転して束縛を脱する。鞭の先端がカミソ
リのように肌を傷つけ、血が流れた。白い空間に鮮血が点々と散る。
 両腕をついて跳ねあがる。大きく空中に鞭を舞わせた相手の姿がさかさに見えた。その
濃い青の双眸が胸をつらぬく。左目をかすめる傷跡、彫りの深い厳しい顔立ち。その顔が
どれほど柔らかくなごむか、ユリウスは知っている。
 筋肉の限界まで身をよじって、高く脚を蹴り上げた。同時に手の鞭がうねる。操り手の
錯綜する感情をそのまま映したかのような、絡み合う軌跡が描かれた。一目ではとても見
てとれない複数の打撃が相手の頭上に広がる。姿のない蜘蛛がいっせいに糸を吐いたかの
ような、それぞれが必殺の気をこめた鞭が唸りをあげる。
 打たれようが刺されようがどうでもいい。たとえ心臓をえぐり出されたとしても。
 俺は。 
 お前にだけは。

224煌月の鎮魂歌10 15/43:2017/08/12(土) 22:51:37
 蹴り上げた脚が交差する。
 男は体躯に似合わない軽い動作でつま先を弾き、ひらりと回転して地に降りた。複雑に
交差した鞭の軌道はたちまちほどけ、弾けてユリウスのもとに跳ね返ってきた。自らの放
った攻撃をことごとくそっくりそのまま戻され、ユリウスは声高に呪った。自分自身の技
をさばくのに気を取られたすきに、敵の鋭い攻撃が絡むように這い寄ってくる。
 ユリウスは罵声とともに身を低くし、相手のブーツの足首めがけて這うような蹴りと鞭
の触手をとばした。はためいた相手のコートの裾が下に降りないうちに跳ね起き、血の駆
り立てるままにまた技を繰り出す。赤い髪は逆立ち、まさに毒蛇にふさわしい鎌首をもた
げて乱れ飛んだ。足首を絡まれて、男はわずかに動きを止めた。とたん、一瞬にして百に
もおよぶかと思われる鞭打の波が、身を低くした彼に襲いかかる。
 伏せられていた男の目が光った。──青く。
 何が起こったのか、見て取れるものはいなかったろう。なにか形のない、しかしすさま
じい質量を持つ突風に、ユリウスは吹き飛ばされた。骨がきしみ、砕ける音がした。声を
もらした唇から血のしずくがこぼれ、虚空に赤い筋をひいた。
 手の中の燃える鞭の感触が薄らぎ、遠ざかった。ユリウスの繰り出した攻撃はことごと
く打ち砕かれ、塵となって失せた。男の腕のまわりで聖鞭ヴァンパイア・キラーは生き物
のようにうねり、宙をないだ。鞭のうなりがかすかな残響となって漂った。
 男はまた静かに立ちつくした。すべては一瞬のことであった。
 ユリウスは打ち倒され、鞭も砕かれて、その場に横たわっていた。なすすべもなく。短
い交戦によって骨の髄まで打ちのめされ、敗北を刻みこまれていた。
 敵手はこの空間そのもののように強力で抜かりがなく、情けもなく、ただ冷徹な知性と
戦闘の意志に満ちていた。人間のかなうはずもない相手なのだった。ましてや感情に突き
動かされ、泣き叫ぶ幼児のように飛びかかっていったユリウスでは、とても。

225煌月の鎮魂歌10 16/43:2017/08/12(土) 22:52:14
 喘ぎ、すすり泣きながらユリウスはそれでも立とうとした。とたん、目にもとまらぬ一
撃で脚を払われ、背中をうたれた。手のひらで叩かれたようにその場に押しつぶされ、這
いつくばってもがいた。
 全身が重く、冷たい。きしむ骨の一本一本が音を立てて砕けていくのがわかる。指を離
れた鞭をさぐろうとして指を動かすと、苦痛の花が全身にひらいた。喉の奥から糸を引く
苦鳴がもれる。
 ゆっくりと相手が近づいてくる。必死に反撃の方法をさぐろうとするが、身体はまった
く言うことをきかない。痛みの巣となった脚も腕もだらりと垂れたまま動かず、燃えるよ
うな苦痛だけが存在している。
 男がすぐそばに立った。静謐な存在感と、圧倒的な力の気配だけが感じられる。
 そしてあの目。
 夏空の色をした、あの男の青い目が。
「お──まえ──だけは」
 もがき、ユリウスは呻いた。ざらついた声がやすりとなって喉をこすった。苦い血が舌
をこがし、頬が濡れた。
「お前だけは──許さない……」
 鋭い一撃が肩胛骨の真ん中を打ち、起きあがろうとしたユリウスをふたたび地面に釘付
けにした。
「お前だけだ。あいつはお前しか見ない。お前のことしか考えていない、それなのに、お
まえは──あんたは、あいつを独りにした……」
 しゃべると血が筋をひいてしたたった。落ちた滴は赤く、ぼんやりとにじんでいた。頬
を伝う熱いものを、ユリウスはぬぐわなかった。身も世もなく、彼は泣いていた。マンハ
ッタンの毒蛇が、幼い子供の涙を流して、人目もはばからず泣き崩れていた。

226煌月の鎮魂歌10 17/43:2017/08/12(土) 22:52:50
「あんたしかあいつを温めてやれるものはいない。なのに、なんでそばにいてやらなかっ
た。なんであいつを独りにした。あいつは五百年間ずっと独りだった。あんたのことしか
見ていないのに、あんたはどこにもいない。血の継承なんかくそくらえ。ここにいるべき
なのは、本当は俺じゃなくてあんただったのに。あいつを守ってやれるのは、あんただけ
だったのに、なのに、なんで死んだ」
 かざした拳は床にうちつけられた。「なんでなんだよ」
 また打ち据えられるのかと一瞬思ったが、苦痛はやってこなかった。そのことにユリウ
スはいっそう傷ついた。
 子供じみた理屈で、道理に合わない難詰をならべているのは十分知っている。ユリウス
が求めるのは、罰されることだった。あの銀色の月を、救うことも守ることもできず、そ
の心の空虚を埋めるすべさえもたないまま見つめるしかない自分。あまりに遠いその心に
ふれることすらできず、苛立ちのままに蹂躙することしか知らなかった。
 いつか見た光景が脳裏にまたたく。寝台で眠る男と、そのかたわらに膝をついて身じろ
ぎもしない白い影。わかっていた──この男もまた、ユリウスと同じく、月を抱いて過ご
す永遠を望んだのだと。
 しかし、陽光と夏に属する彼を、闇と冷気の世界へ引き込むことを月は肯んじなかっ
た。離れたのは月のほうだ。魂を捧げた恋人に、身を縛る呪いの円環をきせまいと、ひと
しずくの血を残しただけで姿を消した、敷布に残った薔薇の花弁、赤い涙のあと……
 だが男はあきらめなかった。人が唯一永遠を得られる方法で、いつか目覚めるもののた
めに寄り添うべきものを遺した。自分の血を引き継ぐ子孫。血の中に受け継がれた生命が
必ずまた愛する者を迎えると信じて、力と意志を後の世に送り出した。
 だが彼が考えなかったのは、血の器として生まれたものたちにも心があり、魂があった
ことだ。引き継がれた血はどうしようもなく愛を求め、喪われたものの代わりに自分がな
ることを欲する。どうあがいてもかなえられることのない願い。月が求めているのは遠い
昔に別れた相手だけだというのに。器でしかない自分は本物にはけっしてなれないと知り
つつ、だが、愛することはやめられない。

227煌月の鎮魂歌10 18/43:2017/08/12(土) 22:53:24
 血の呪いというなら、これこそがまさにそうだ。けっして自分を見ない相手を、狂うほ
どに愛しつづける運命を刻まれている。魂を焦がす苦悩は、同時にあまりにも甘美だ。ど
れほど憎もうとしても、かぐわしい月の光にふれればたちまち幸福が全身を満たす。
 だが月を癒すことはだれにもできない。喪われた本当の伴侶以外には。絶望と愛に引き
裂かれながら見つめるものの前で、月は手も届かない高みで輝く。その光で万物を照らし
ながら、自らは、孤独のうちにただ刻々と凍りついていくというのに──
 頭上で相手がゆらりと動いた。
 もはや口もきけず、うなだれたまま涙で頬をぬらしていたユリウスは、今度こそ審判が
下るものと感じ、戦慄にも似た期待に身をこわばらせた。相手は一歩前に進み出、ゆるや
かに身を屈めてきた。濃い茶色のかたい髪が頬をかすめた。
(──、)
 耳に吹き込まれた一言に、ユリウスはまばたいた。
 予想もしない言葉だった。思わず相手を振りあおごうとしたとたん、身体が傾いた。反
射的にもがいて掴まるところを探したが、触れたところから白い床は霧となって虚空にと
け、ミルク色の粒子が渦を巻いた。
 再びユリウスは落ちた。無音の虚無をどこまでも落下していく。自分の赤毛が上方に向
かって吹きなびき、握った鞭もまた何かを求めるかのように遠い空へとのびている。
 小さくなる視界の中心に、あの男がいた。同じ鞭をもち、夏空の青の目をして、読みと
れない表情を血を継ぐものに向けている。
 そのひらいた胸元に、小さく光るものをユリウスは見た。無骨な指先が、いつくしむよ
うに触れている。鎖を通して首から下げられた、きゃしゃな銀色の指輪。まるで月光で─
─彼のあのひやりとする髪をとって編んだかのような、細く美しい指輪。

228煌月の鎮魂歌10 19/43:2017/08/12(土) 22:54:05
「ユリウス?」
 急速に音が戻ってきた。
 ユリウスは目を開き、真っ白な床と、そこに立つ自分のブーツのつま先を見つめた。驚
くほど頭が澄み渡っていた。つい今まで感じていた苦痛は夢の一片として記憶にあるばか
りだった。
 腕は眼前の函の中に伸び、そこに置かれた古びた革鞭の握りをつかんでいる。函のかた
わらには崇光が立ち、油断のない姿勢で手をなかば持ち上げている。強烈な視線がこちら
にむけられているのを感じる。
「ユリウス? どうしました?」
 ユリウスは長い息をついた。
 そしてゆっくりと腕をひき、鞭を函からとった。
 ひどく軽かった。これまで持ったどの鞭よりも軽く、それでいて弱々しいところはまっ
たくない。なめし革で巻かれた握りは手にしっくりと吸いつく。生まれてこの方、この鞭
を手放したことなどないように感じた。はじめから身体の一部だったという気さえする。
編んだ革の先にまで神経が通い、鞭がこすった繻子の布のなめらかさまでも指に触れる。
 それでいて、新たな力が身のうちを駆けめぐっている。先ほどまでは圧迫感としてあっ
た強烈な力と霊気が、血管に流れる血と同様に心臓を出入りし、神経の火花として動いて
いる。
 両手に持って鞭を張ると、小気味いい音がした。軽くしごいて力をくわえる。鞭はしな
って大きな弧を描き、幾重もの円を繰り出して、一瞬にしてまたユリウスのもとにもどっ
た。受け止めたユリウスの手で、鞭は機嫌のいい猫のように温かく身を丸めた。
「鞭は彼を使い手として認めた」
 低い声がした。崇光は振り返った。アルカードが壁際から歩いてきて、ユリウスの前に
立った。あとからイリーナが小走りにやってきて少し離れたところで立ち止まり、鞭を手
にしたユリウスを丸い目をして見た。

229煌月の鎮魂歌10 20/43:2017/08/12(土) 22:54:46
「……そのようですね」
 からになった函と、輪にした鞭を手に黙って立ちつくしているユリウスを崇光はしばら
く見比べていたが、やがて小さく息をついて蓋をとじた。うつむいた顔は表情を消してお
り、そこからは、ユリウスが死ぬことも狂うこともなく、試練に合格したことを喜んでい
るのか苦々しく思っているのかは、見分けられなかった。
 ユリウスはぼんやりと鞭を腰のベルトにつけた。すでにそれは呼吸するのと同様に、ご
く自然な日常のものとなっていた。アルカードは鞭を見つめ、またユリウスを見つめた。
氷青の瞳の奥に金色の光がちらつき、ユリウスはめまいを覚えた。
「よかったわ、ユリウス」
 イリーナがやってきてユリウスの手をとった。
「新しいヴァンパイア・キラーの使い手の誕生ね。どうなるのかと思って気が気じゃなか
ったけど、あなたが無事生き残ったのはうれしいわ。鞭の使い手がいなければ、ドラキュ
ラの打倒は不可能なんですもの」
「……俺はどのくらい眠っていたんだ」
 無意識に指を曲げ延ばししながらユリウスは尋ねた。「眠っていた?」イリーナはけげ
んそうに眉をひそめ、
「眠ってなんかいないわ。あなた、鞭にさわってほんの一瞬固まっただけよ。一秒もなか
ったんじゃないかしら。スーコゥが声をかけたら、すぐ動き出したわ」
 ああ、とユリウスは呻いた。
 あのどこともしれない虚空で相対した男の顔が目の奥にある。鞭に宿る英霊──数多く
のベルモンドの魂がこの鞭にはこもっているはずだが、その中であの男が姿を現したの
は、はたして鞭の意志なのか、それとも──
 ユリウスはアルカードの目を真正面から見た。アルカードはまばたき、それから顔をそ
むけた。珍しいことだった。いつもは、目をそらすのはユリウスの方だというのに。

230煌月の鎮魂歌10 21/43:2017/08/12(土) 22:55:20
 俺はあいつに会った、という言葉が喉まであがってきた。だが唇を開いたとき、声にな
ったのは別のことだった。
「俺は聖鞭の所持者になった」ユリウスは言った。「満足か?」
 アルカードの肩がふるえた。視線をそらしたまま彼は手をあげ、胸元をさぐるような仕
草をした。そこに何もないことに気づき、はっとしてやめる。ユリウスはふたたびめまい
を感じた。あの男が触れていた銀色の細い指輪が浮かんだ。月の色の金属、まるで目の前
の者の髪をとって編んだかのような。
 わけのわからない苛立ちが押し寄せ、ユリウスはブーツを鳴らして背を向けた。崇光は
音をたてずに函をしまい、儀式の道具をもとに戻している。イリーナはなにかしゃべりな
がら後についてきた。ほとんど注意を払わず、ユリウスは扉があったと記憶しているあた
りに歩み寄り、手を伸ばした。記憶と感情が再び平静をとりもどすまで、誰にも会わず、
夢も見ずに眠ってしまいたかった。
 ほとんど継ぎ目の見えない壁面にユリウスが触れようとしたとき、壁の向こうがわか
ら、あわただしい気配が伝わってきた。一歩下がって、すでに肉体の一部となった聖鞭の
柄に手を触れる。イリーナが急に頭をあげ、鼻をつきだして空気をかいだ。魔女の瞳が緑
色に爛々と燃えだした。
『非常事態……大変です……害──……様が』
「なにがあった」
 ユリウスの手の甲を一本の指が押さえた。いつの間にかアルカードがそばにいて、ユリ
ウスが鞭においた手を人差し指で抑えている。彼は頭をかたむけ、扉のむこうに耳を寄せ
た。
「どうしたんです」
 崇光もやってきて、三人をかばうように扉との間に立ちふさがった。
「ここにはだれも近づいてはならないはずです。いったいなんの騒ぎですか? 闇の者の
襲撃ですか?」

231煌月の鎮魂歌10 22/43:2017/08/12(土) 22:55:54
「ラファエル」
 突然、イリーナが言った。三人の青年はぎょっとしたように少女を振り返った。
「何か見えるのですか、イリーナ」
「大きな闇。強力な暗黒の力。どんどん大きくなってる」
 そう呟くと、イリーナは震えはじめた。見開いた両目にみるみる涙がふくれあがる。両
手で口をおおって、震えながら少女はしゃくりあげた。
「ああ、駄目、駄目よ、ラファエル、その手をとっては駄目。でももうあの子に声は届か
ない。誰の声も聞こえない。あの子は行ってしまったわ、闇の奥へ、魂の深淵に潜む夜の
領域へ。誰かあの子を止めて、あの子は、もっとも忌まわしいものとして、自ら生んだ暗
黒の淵に沈もうとしている。彼を救ってあげて」
 崇光が鋭く息を吸った。飛びつかんばかりに壁に手を伸ばした彼を、「待て」とアル
カードが制止した。
「開けるな。聞け」
 崇光はまばたき、頭をもたげて耳をすませるしぐさをした。イリーナは震えてしゃくり
あげている。ユリウスはわれ知らず少女の肩に手を回し、そばに引き寄せていた。自然に
鞭に手が伸びる。ヴァンパイア・キラー。吸血鬼殺しの鞭、闇のものを払う聖なる武器
は、まるで狩猟の予感にわななく猟犬のように感じられた。
「近くにいる。接近している」自然に言葉が漏れた。アルカードがちらりとこちらに視線
を投げた。
「なんということだ」崇光が吐息のように呟いた。
 壁のむこうで重いものの倒れる音が連続した。古くなった果物の潰れる音、あるいは水
を詰めた袋が破裂する音。そうした胸の悪くなる音のあいまに、さらさらという衣擦れの
ような音が混じる。舌なめずりと小さな足音、忍び笑い、そして風を切るなにか細いもの
のたてる音──

232煌月の鎮魂歌10 23/43:2017/08/12(土) 22:56:30
「皆、離れなさい!」
 崇光が叫ぶと同時に、アルカードが彼をかかえて数メートル近く後ろに飛びすさった。
ユリウスも、ほとんど考えることなくイリーナを抱いて同様にしていた。床におり、本能
の訴えるままに少女を腕にかばって身をかがめる。ほとんど時をおかず、壁面にひびが入
った。一瞬、黒い爪のようなものが見えたが、すぐに縦横無尽に飛び交うなにかが、傷一
つない壁をずたずたに引き裂いた。
 破片が崩れ落ちる。イリーナをかばいながら、ユリウスは頭を上げた。破壊された壁の
むこうに、小柄な影が立っている。背後は暗い。濃い血臭と、なまぐさい腐臭が流れ込ん
できた。蒼白い鬼火が明かりの代わりに、点々と闇を照らしている。
「アルカード、見てよ、僕、立てるようになったんだよ」
 無邪気な声がした。彼はゆっくりとがれきを踏み越え、破壊された室内に入ってきた。
 金髪の巻き毛を輝かせ、満面に誇らしげな笑みをたたえた、すらりとした少年。萎えて
骨と皮ばかりだった彼の下肢はまっすぐで強く、こともなげに段差を踏み越えてそのてっ
ぺんに立っている。
 靴先が血しぶきで赤く染まっていた。少年は呆然と見上げるひとびとを見回し、主人然
とほほえんだ。手には宝石で飾られた豪奢な鞭がある。鞭は油を塗られて黒く、無機物に
擬態した爬虫類めいていて、少年の手のうちで悪意のこもったとぐろを巻いていた。
 一目見た瞬間、強烈な嫌悪と反発がユリウスを襲った。それはいま彼が手にしている鞭
の、完全な陰画として作られたものだった。光に対する闇、肯定に対する否定、真実に対
する欺瞞。存在すること自体が聖鞭ヴァンパイア・キラーに対する侮辱であり、使い手に
対する嘲笑だった。
 アルカードの唇がうすく引き締まった。蒼氷色の瞳が色を淡くし、揺らめいて、黄金色
の炎に変わって燃え上がった。
「……ラファエル」
「ラファエル」くいしばった歯から、ユリウスは声を絞りだした。
「なんで、おまえが──」

233煌月の鎮魂歌10 24/43:2017/08/12(土) 22:57:04
 ラファエルの顔がひきつった。
「僕の名を口にするんじゃない、野良犬!」
 絶叫とともに鞭の一撃がとんだ。ユリウスはヴァンパイア・キラーをあげて応えた。二
つの鞭はぶつかり合い、火花を散らして絡み合ったのち、弾けるように双方の所持者のも
とへ戻った。ユリウスはしびれた指をもみ、イリーナをさらに後ろへ押しやった。
「お前なんか、生まれてきたのが間違いだったんだ」
 ゆらゆらと上半身を揺らしながら、ラファエルはまた笑った。彼の萎えていた足はまっ
すぐに立ち、なんでもないことのようにがれきを踏みこえて、凍りつくユリウスたちに近
づこうとしていた。砕けたがれきがこまかい塵になり、煙となって立ちのぼった。血の臭
いがさらに強くなった。崩れたがれきのむこうに、潰れた肉体がいくつも散らばり、血の
池を作っているのがちらりと見えた。
「間違いは正さなきゃいけない、そうだよね、アルカード? あなたのそばに立つのは、
僕のはずなんだから。でも、そんな野良犬の手で汚された鞭なんて、もういらない。僕は
僕のための鞭を手に入れたよ。だからこっちに来て、アルカード。僕、歩けるし、走れる
よ。あなたの隣で戦える。こっちに来て、僕といっしょに遊ぼうよ、アルカード」
「目を覚まして、ラファエル!」
 イリーナが前へ出ようとして、崇光とユリウスに押し戻される。小女王の威厳をたもつ
余裕もなく、少女は身を揉んで泣きじゃくった。
「あなたはベルモンドの長なのよ。どうしてこんなことを──」
「うるさいなあ」
 うんざりしたようにラファエルは片目を細めた。

234煌月の鎮魂歌10 25/43:2017/08/12(土) 22:57:38
 とたん、流れ込んできていた黒いもやが凝集し、蝙蝠の羽を持つ芋虫のかたまりがイ
リーナに飛びかかった。イリーナは悲鳴をあげて顔をおおった。ユリウスの手と、瞬時に
姿を表したバーディーの吐く炎が宙を走った。ユリウスの拳につぶされ、炎に焼かれて魔
物はあっという間に灰になった。ラファエルの澄んだ笑い声が響いた。
「ベルモンドなんてもうどうでもいいんだ」
 くすくす笑いながらラファエルは楽しげに言った。
「父上は裏切り者だ。そんな汚い野良犬を作っておいて、よくベルモンドの当主だなんて
言えたよね。さっさと放り出して、生まれにふさわしいどこかのどぶで死なせるべきだっ
たのに。なのに、そいつを家に入れて、僕の代わりにしようだなんて、許せないよ。死ぬ
べきなんだ、みんな」
 ほがらかにラファエルは言い切った。
「薄汚い雑種がみんなを汚してしまったんだから、汚いやつらは、みんな消してしまわな
くちゃ。必要なのはあなただけだよ、アルカード」
 息すらしていないかに見えるアルカードに、ラファエルは手をさしのべた。哀願するよ
うに、
「あなたは、どんなことがあっても汚れたりしないもの。馬鹿なやつらが邪魔したりさえ
しなきゃ、あなたは僕のものなんだ。それがいちばん正しいんだ、アルカード、なのにど
うしてまだそんな奴のそばにいるのさ?」
「だめよ、みんな、落ち着いて、静かにして」女主人に加えられた危害に反応して猛り立
つ四聖獣を、必死にイリーナはなだめている。
「あれはラファエルなのよ、何かにとりつかれて、あやつられているだけなの、彼を傷つ
けることはできないわ。お願いだからおとなしくして、みんな、あたしは大丈夫だから─
─」

235煌月の鎮魂歌10 26/43:2017/08/12(土) 22:58:15
 ラファエルはうんざりしたように首を振った。「邪魔しないでったら」
 崇光がうめき声を上げた。
 懐に忍ばせた呪符を取りだそうとしていた手がずたずたに裂け、鮮血が滴っていた。両
手のひらと甲が骨に届くほど深々と裂かれて、はじけた生爪が指先にぶら下がっている。
「みんないらない」
 手に陰の聖鞭をもてあそびながら、ラファエルは奇妙にしなやかな足取りでがれきを乗
り越えてきた。
「おいでよ、アルカード」
 少年は愛らしく小首をかしげて呼びかけた。
「ベルモンドなんてもうない。魔王封印なんて知らない。僕にはあなたさえいればいいん
だ。ねえアルカード、僕のこと、好きじゃないの? 好きでしょう? 僕、あなたがいれ
ばとても強くていい子になれるよ。世界なんてどうでもいい、人間なんて、僕にも、あな
たにも、ひどいことしかしてこなかった。みんな滅んでしまえばいい。僕と、あなたと、
たった二人きりで、いつまでも楽しく遊んでいようよ、アルカード」
 さしのべた両手に点々と血が飛び散っていた。アルカードは爛々と燃える目をすえてそ
れを見つめていたが、ややあって顔を伏せた。かと思うと、はじかれたように頭を上げ、
目にも留まらぬ動作で何かを投げた。細い銀のナイフが宙を飛んで、ラファエルの背後の
虚空に突きたった。
「ベスティス女侯爵。──お前か」
 低く、アルカードは呟いた。
「ムタルマ女伯爵はおまえの姉妹だったな。彼女が先に侵入したのもお前の差し金か。ラ
ファエルをとらえてどうするつもりだ」
『今さらそれをお訊ねになりますの? 尊き君』
 ねっとりと絡みつくような女の声がした。

236煌月の鎮魂歌10 27/43:2017/08/12(土) 22:59:05
 ラファエルの背後から白い腕が伸び、少年の体を抱き込むように巻きついた。微笑した
ままのラファエルの顔のそばに白い影がにじみ出て、黒い髪を奔放に乱した美女の顔にな
った。
 以前に表れた妖女ムタルマ女伯爵の顔に似ていたが、こちらのほうがはるかに美しく、
さらに邪悪で、虹色のオパールに似た目は緑色にきらめく鱗で縁取られていた。頭と両手
以外は空中にとけ込んだ霧となっていて定かではない。女はふっくらした唇を開いて婉然
とほほえみ、少年の頬に耳をすり寄せた。空中にとどまった銀の投げナイフがぱらぱらと
落ちる。一本をつまんでみだらなしぐさでその刀身に唇をよせ、舐めあげた。
『わたくしども姉妹がどれほどあなたさまをお慕い申し上げているか、子存じないはずが
ありませんわ。妹はいささか性急にすぎてあなたさまのお手討ちにあいましたけれど、き
っとすばらしい最期を迎えたことでございましょうね。いずれ魔王ドラキュラ様ご復活の
折には妹もあらたな姿でよみがえるのでしょうから、そのとき話を聞くのを楽しみにして
おりますの。この少年はとても気に入りましたわ、若君、とても闇が濃くて、狂うほどあ
なた様を愛していて、まるで、わたくしたちのよう』
 微動だにしない笑みをうかべているラファエルの頬に口づけ、額をさすり、耳朶を赤い
舌でたどる。見ているだけで、こちらの魂までも直接舐めずられているようなおぞましさ
がこみあげてくる。
「あんたが殺したのね、闇の者」アルカードのマントの後ろに押しやられたイリーナが、
なんとか前に出ようともがく。
「ラファエルのそばについていた人たちはどこ? ボウルガード夫人も、まさか、あんた
が」
『ああ、彼女? 彼女なら、ここにおりますわ』
 むっちりと脂の乗った肩が表れた。見る間に、白い肉は粘土のように盛り上がり、うね
うねと蠢いて、ひとつの年老いた女の肉面を作り上げた。手のひらほどの大きさに縮小さ
れていたが、それは確かにボウルガード夫人のしぼんだ顔だった。イリーナはかすれた悲
鳴を上げた。

237煌月の鎮魂歌10 28/43:2017/08/12(土) 22:59:44
 ──許すものか。
 ボウルガード夫人の面は小さな口を開いて呟いた。唇がめくれて歯が見え、小さな瞼の
下で悪意に満ちた目が白くきらめいた。
 ──許すものか。ベルモンドの長はミカエル様の正統でなければ。どこの馬の骨ともし
れぬ雑種が。許さない。許さない。わたしではない誰かの子が、ミカエル様のあとを継ぐ
など。許さない。許すものか……
『この女は先代のベルモンドにたいそう恋着していたそうな』
 猫撫で声で妖女は言った。
『正式に結ばれた妻ならまだあきらめもつく。だが、そうではない女の息子など、許さな
い。自分ではない女が、妻でもないのに、愛しい男の情を受けたなどと、認めない。自分
こそがそうなるべきだった地位を、横から奪い去った女の子供など、けっして、けっして
許しはしない……』
 妖女は白い手を口にあてて狂笑を放った。ユリウスはただ茫然として、声もなく口を動
かしているボウルガード夫人の、憎悪と嫉妬にゆがんだ肉の面を見つめていた。
『哀れな女。恋しい男を思いきるために結婚して外国に渡ったというのに、夫は戦災で死
に、出てきた家に再び舞い戻ることになってしまった』
 いつくしむように妖女は老女の顔の輪郭をたどった。
『けれども男の息子の養育をゆだねられ、妻ではなくとも子を育てることはできると、そ
れだけは心をこめて養育してきた。なのに、その子は体の自由を失い、いてはならない私
生児が呼び寄せられて、その子の場所に座ろうとする。自分があきらめた男の愛を手に入
れて、子まで生むことを許された女。自分が育てた子の権利を奪い取ってのさばろうとす
る雑種。どうして許せるものか。許せるはずがない。みな死んでしまうがいい。わたしで
はなくほかの女を、ほかの愛を選んだ男の息子も。みなことごとく闇に沈め。世界も、人
も、砕けて消えてしまうがいい』

238煌月の鎮魂歌10 29/43:2017/08/12(土) 23:00:31
 途中から声はしわがれたボウルガード夫人のものになっていた。腫物じみた老女の顔が
ぶつぶつと口を動かすのに合わせて、毒のしたたるいまわしい呪詛が低く紡がれていく。
「いつから夫人に憑いていた。どうやって彼女をたぶらかしたのだ」
『たぶらかしてなどおりません。この女は自ら私を呼んだのですわ。その魂に育てた闇と
憎しみとで。お気づきにならなかったのは、若君、あなた様でいらっしゃいます』
 またなめらかな声に戻って、妖女ベスティア女侯爵はいとおしげにボウルガード夫人の
顔をさすった。それからからふいに爪をのばし、老女の顔の白い目玉に深々と突き刺し、
えぐった。か細い悲鳴があがり、ユリウスはぎょっとして鞭を取り直した。
「やめろ、化け物!」
『おや、いっぱしの口をきくのだね。ベルモンドとは名ばかりの雑種風情が』
 女侯爵は冷然たる目をユリウスに向けた。あげた爪から古い油のようなどす黒い血と漿
液がしたたった。
『お前こそがこの悲劇を招いたのに、よくもまあそんなことが言えたこと。お前と、お前
の母の存在が、この子とこの女を狂わせたというのに。この子の呪いを聞かなかったのか
え? わが宿りとなった哀れな女の叫びは? いまいましい聖鞭を手にしたからといっ
て、思い上がらぬがいい。お前の存在は、血を分けた弟の魂を踏みにじった上に成り立っ
ているのだよ』
「耳を貸すな、ユリウス」
 アルカードがささやいた。ユリウスは頷き、一歩前に出た。鞭を持つ腕が熱湯に浸けた
ようにちりちりと熱い。ラファエルはほがらかな笑みを顔に貼りつけたまま、妖女の腕の
中に身を預けている。
「ボウルガード夫人、どうしてアルカードはこっちに来ないの?」がんぜない幼児のよう
な舌足らずの口調でラファエルは尋ねた。

239煌月の鎮魂歌10 30/43:2017/08/12(土) 23:01:05
「あいつが邪魔しているせい? あいつ、まだ、僕のことを邪魔するの?」
「──俺はラファエルの相手をする」
 ユリウスは言った。
「おまえはあの女魔物をやれ、アルカード」
 アルカードは瞬いてなにか言おうとしたが、ユリウスは重ねて強く、
「これはヴァンパイア・キラーの所持者が対処することだ。鞭は鞭でしか砕くことができ
ない。崇光」
 背後でイリーナを抱えている崇光に呼びかける。
「あんたはそのチビを守れ。いまのあんたじゃ戦力にはならない。チビとけだものどもも
だ。自分とそいつの身を守ることに専念しろ。俺とアルカードが片付ける」
「──承知しました」
 一瞬の間を置いて崇光は応えた。抵抗するイリーナヲ腕にしっかり抱き込み、裂けた手
を振って血の滴で自らの周囲に円を描く。金色の光炎がぱっと立ち、崇光とイリーナを光
の網でくるみこんだ。
(アルカード! ユリウス! ……)中でもがいているイリーナの姿がぼんやり見える。(ユリウス!)
 泣き声混じりのイリーナの声を後ろに聞きながら、ユリウスはあらためて、両手にぴん
と鞭を張った。鞭の発する力と精気が全身に脈打った。自分自身の陰画である暗黒の鞭を
目前にして、鞭が嫌悪に身震いするのを感じた。
「僕に逆らう気なの? 雑種のくせに」
 ラファエルはそりかえって笑った。手首を返すと、紅玉と琥珀で飾られた闇の鞭が寒気
のするような音をたてて風を切った。
「ああ、でも、そのほうがいいね。そうすれば、僕の方が強いってアルカードもわかって
くれるもの。ねえ、見ててね、アルカード。あなたにひどいことをした野良犬を、僕、ち
ゃんとこらしめてあげるから」

240煌月の鎮魂歌10 31/43:2017/08/12(土) 23:01:53
『よろしいのですか? あの二人を争わせておいて』
 妖女は白い霧となってゆらりと漂い離れた。女の顔をした霧の塊が宙を移動し、凝固し
て、豊満な肉体に純白のドレスをまとった、黒髪の女が立ち上がる。
「ヴァンパイア・キラーは闇の存在を許さない。自らの影の鏡ならばなおさら」
 アルカードはすでに剣の鞘を払っていた。相対するユリウスとラファエルからじりじり
と離れ、砂でざらつく円形の広間の端へと移動していく。
「そして私もお前の存在を許さない。闇に還るがいい、ベスティア女侯爵」
『ええ、でも、その時はあなた様もご一緒に、尊きお方』
 妖女は両手を高々とかかげた。白い腕が伸び、また伸び、さらに伸びた。めきめきと関
節が音を立て、数を増やし、凝乳のようななめらかな肌が、黒々と渦巻く剛毛に覆われ
た。地の底からの笑い声がすさまじく轟いた。女の顔が裂けて牙をむきだした鰐めいた野
獣の顔となり、硫黄の息を吐いて咆哮した。
 ユリウスは床を蹴り、ほほえむ腹違いの弟にむかってまっすぐに襲いかかった。

               3

 二つの鞭の争いはまさに鏡の闘争だった。どちらもベルモンドの鞭術を身につけてお
り、血によって伝えられた技倆も同等だった。ラファエルが父によって訓練され、ユリウ
スがアルカードに訓練されたという違いはあったが、両者の身体を流れるベルモンドの血
脈は、それぞれの駆使するどんな攻撃も技も事前に察知して跳ね返し、さらなる逆襲に変
えて繰り出してきた。
 ユリウスはほとんどなにも思考しなかった。なにかを考える前に身体は反応しており、
呼吸するように鞭が動いて、攻撃し、防御し、貫き、打ち、払っていた。ユリウス自身の
精神はどこかにあって、奇妙に冷静な視線で戦闘を眺めていたが、その一方で、鞭と同一
化した一部が穢れた鞭の陰画にむかって怒りの声をあげ、戦いの昂奮に心臓を轟かせてい
ることも感じていた。

241煌月の鎮魂歌10 32/43:2017/08/12(土) 23:02:28
 鞭の試練で英霊の化身と戦ったときとは違った。あの時は、ユリウスと鞭とはあくまで
別の存在であり、それをあやつるのはユリウスの手であり意識で、鞭はユリウスの意志の
延長だった。
 しかし、真の所持者となった今、ユリウスにとって鞭は完全な肉体の一部だった。それ
以上であったかもしれない。肉体は鞭を操るための道具にすぎず、奇妙に冴えた意識はあ
らゆる空気の動き、気配の揺らめきをとらえた。ぶつかり合って離れる互いの鞭の衝撃は
そのままユリウスの肌に与えられる痛みで、相手の暗黒に染められた鞭の瘴気は、古くな
った酢のようないやな後味となって舌を刺した。
 攻撃しているのはユリウスではなかった。むしろ、主体となっているのは鞭の意志その
ものにほかならない。感じる憤怒と闘争心は、ただ冒涜された吸血鬼殺しの鞭の霊が発す
るものであって、ユリウスが感じているのは、ぼんやりとした苦痛と、静かに胸を浸して
いく悲しみの念だった。
 はじめて彼は、自分を憎む異腹の弟の顔をしげしげと眺めた。本当に子供だ、と思っ
た。ほんのガキだ。俺がブロンクスでネズミを食っていたときよりもっと──何も知らな
いガキだ。母親には放置され、父親には裏切られ、ただアルカードしか愛する相手を知ら
なかった、寂しい子供の顔だ。
 ユリウスは母の顔をほとんど知らない。だが、ナイフを振りかざした麻薬中毒者の前か
ら、息子を突き飛ばした両手は覚えている。幼い息子を壁際に押し倒し、背中を血まみれ
にしながら母は息絶えた。狂ったように踊り続けるジャンキーの靴に踏みにじられていた
母が、どんな顔をしていたのかもうわからない。苦痛の表情か、それとも──
 だが、ユリウスには、あのとき、目の前いっぱいに広がった母の手と、勢いよく突き飛
ばされた肩の痛みが、鮮明に残っている。激しい戦闘の中で、ふと、その手の感触を思っ
た。子供を抱えた若い女の生活が楽だったはずはない。その手は苦労の果てに荒れ、ひび
割れていたはずだったが、思い浮かぶ母の手は不思議にきれいでなめらかだった。その手
が髪をなでる感触さえ、今ははっきりと思い出せる気がした。

242煌月の鎮魂歌10 33/43:2017/08/12(土) 23:03:03
 おそらくラファエルは、そんなことも知らずに育ったのだろう。ベルモンドの末裔とし
て、聖鞭の所持者としての人生しか用意されず、またその人生しか自分にはないのだと教
え込まれて育った。愛情と言えるようなものはほとんどアルカードに対するものしか知ら
ず、すべてを失ったあと、そのアルカードすら見も知らぬ粗暴な異母兄に奪われたと感じ
た少年の絶望とは、いったいどれほど深いものだったのだろう。
 敵であるはずの闇のささやきに心を奪われるほどの苦悩を、彼にもたらしたのは確かに
ユリウス自身だった。ラファエルがもっと強靱であるべきだったということはできる。だ
が一度は孤独の中で、抱いてくれるものもなく泣いたことのあるものが、泣き方すら教わ
らず育ったものにむけてそのようなことを言えはしない。強靱であることを求められつづ
けたあげくに、弱さを自分自身にすら認めることができなくなってしまったのだ。
 かつて、ユリウスは弱い自分を嫌悪し、生きるために戦った。ラファエルは強者として
生き続け、それ以外の生を想像することがついにできなかった。哀れな子供とは、いった
いどちらのことなのだろう。
「なぜそんな顔をする?」
 ラファエルが叫んで、空中から強烈な一撃を繰り出した。ヴァンパイア・キラーは下か
ら跳ね上がり、暗黒の鞭に交差して、ユリウスの頭を割ろうとしたその軌道を変えた。
「そんな目で僕を見るな! 雑種のくせに! 雑種! 野良犬め! 父上にも見捨てられ
た、汚い捨て子のくせに!」
 そうだな、と声に出さずにユリウスは応えた。俺は捨て子で、私生児だ。お前からすり
ゃ雑種だし、街角で、ごみをあさって育ってきた、人殺しの犬だ。
 だけど俺は雑種の俺を知ってる。自分がごみあさりの野良犬で、どうしようもないごろ
つきだってこともわかってる。それが俺で、俺はこれまでそうやって生きてきて、ここに
いる。強さと純粋さしか知らないおまえが見たことのない、弱さと汚辱の底の底を、俺は
歩いてここへ来た。

243煌月の鎮魂歌10 34/43:2017/08/12(土) 23:03:38
「雑種! 私生児! ベルモンドの名前に値しない屑め、お前なんかが聖鞭を手に入れる
なんてあるはずがない! 消えろ、薄汚い犬! ただの人殺しの捨て子め!」
 ののしられようとも、もはやユリウスの心に怒りはわかなかった。ベルモンドの名も、
聖鞭の所持者の資格も、ユリウスにとっては自分とはほとんどかかわりのないなにかであ
って、たまたま運命がその気まぐれで与えたにはた迷惑な代物でしかない。それによって
自分を支えてきたラファエルにとって、それらを失うことは天地が砕け散るのと同じ災厄
かもしれない。だが、もともとブロンクスの〈赤い毒蛇〉として立ち、ベルモンドの名に
背を向けて成長したユリウスにとって、投げつけられる言葉はたんなる自己確認の意味し
かもたず、かえって、必死に言いつのる異腹の弟に、あわれみめいたものを抱かせた。
「なんとか言えよ、──ちくしょう!」
 白い歯をむいて、ラファエルは叫んだ。取り戻した足を踏みならし、ユリウスののど元
めがけて闇の鞭を飛ばす。皮膚のすぐそばへ迫る革でできた毒蛇の牙をユリウスは感知し
た。肌にとまる塵を払うのと同じだった。空中で屈曲したヴァンパイア・キラーはおよそ
物理法則を無視した動きを見せ、自らの暗黒の影を叩いて、その先を真っ二つに裂いた。
生きた暗黒の鞭は金切り声を上げてきしみ、よじれた。ラファエルもまたのけぞって腕を
押さえた。裂かれた鞭と同様、腕には肉のはぜた傷口が口を開いて湯気を立てていた。地
は一滴も流れなかった。
「なぜ? なんでだよ!」ラファエルは泣き叫んだ。
「僕は強くなったのに。偽ベルモンドの贋の鞭なんて、僕の敵じゃないはずなのに!」
「ベルモンドであろうがなかろうが、俺は俺だ」
 ユリウスは呟いた。ラファエルの耳には届いていないようだった。金髪を振り乱して叫
びつづける腹違いの弟に、これまで感じたこともないほど胸が痛んだ。できねことなら手
を伸ばして抱きしめてやりたかったが、それがもっとも、相手にとって残酷な侮辱となる
こともわかっていた。
「そして俺は、俺のやるべきことをやるだけだ、ラファエル。俺は──」

244煌月の鎮魂歌10 35/43:2017/08/12(土) 23:04:17
 言葉を切って、ユリウスは、生涯にたった一度の言葉を自分に許した。
「──お前のために、俺は、生まれてこなきゃよかったよな。弟」
 聖鞭は稲妻の弧を描いてとび、後退した闇の鞭を追撃した。裂かれた暗黒の鞭は身もだ
えして逃げ惑ったが、自らを冒涜する存在を聖鞭は許さなかった。黄金が剥げ、宝石が墜
ちた。ひび割れた革はこぼれて腐汁となって流れた。使い手もまた縦横無尽の傷を刻ま
れ、悲鳴をあげて倒れ伏した。投げ出された鞭が断末魔の咆哮をあげ、黒い塵となって四
散した。


 離れたところでもうひと組の戦いの舞踏が繰り広げられていた。ベスティア女侯爵を相
手取って、アルカードは複雑な剣閃のステップに足を踏み入れていた。妖女の長い髪は逆
立って千ものかぎ爪に変わり、銀髪の公子をあらゆる方向から取り囲んで引き裂こうとす
る。それを正確無比な攻撃で払い落としながら、アルカードの顔は小揺るぎもしなかっ
た。彼はどこか遠い視線で冷静に戦いの帰趨を見つめ、光と闇の鞭を戦わせているユリウ
スとラファエルの異母兄弟に目をやっていた。
『昔を思いだしますわ、若君』ベスティア女侯爵はささやいた。
『妹とともに参りました宮廷で、ごいっしょにこうしてダンスをいたしましたわね。覚え
ていらっしゃいますかしら。あなた様はとても幼くていらして、父君の膝の上からよちよ
ち降りてきて、わたくしどもの輪にお入りになりましたわ』
「あの時お前は美しかった。ムタルマ女伯爵も。父も。母も。すべてのものが」
 腹に食らいつこうとした巨大な鰐の首がパクッと音をたてて空を咬む。突き出た口吻は
一瞬にして輪切りになり、ばらばらと墜ちた千と見るに、それらはたちまちいやらしい針
を逆立てたやまあらしめいた生き物に変わり、いっせいにアルカードにとりつこうとす
る。軽くマントを払うと、ぱっと散った火花が小怪物どもを焼き尽くした。

245煌月の鎮魂歌10 36/43:2017/08/12(土) 23:05:19
『でしたらなぜ、わたくしどもと父君のもとにお戻りになりませんの? 人間の世など汚
く醜いことばかりだと、とうにご存じでいらっしゃいましょう。あなた様が見つけていら
したベルモンドの私生児は、鞭の代償にあなた様の御身を穢すことを望みましたわ。その
ような相手に、どんな義理があるとおっしゃるの』
「私の身などなんの意味もない。世界から魔王と闇の血を払い、これ以上の父の愚行を食
い止める、そのためだけに私は在る」
『魔界の至尊の血を受け継ぐお方が、どうしてそのようなことを』
「それがかつて母が願い、私が望んだことだからだ」
『そうして、ご自身ですら騙していらっしゃるのね。おかわいそうに』
 転がるがれきが身じろぎし、石でできた魔狼の群れとなってむくむくと起き上がった。
妖女の繊手が降られるが早いか、口と爪のついた毛皮の壁のような一団が、大津波となっ
てアルカードに迫った。腕を伸ばしてなぎ払うと、先頭の数頭が勢いのままに顎を裂か
れ、そのまま真っ二つになって転がった。血の霧は途中で崩れた壁の塵になり、もうもう
と立ちのぼった。
『どれほど人間に奉仕しようと、しょせんあれらは卑しい獣。高貴なるあなた様を受け入
れることはできません。わたくしはこの女の中でずっと見てまいりましたのよ』
 ざわざわと蠢く獣毛と爪と口、濡れた牙とぎらつく目と舌とおぞましいさまざまの中に
立って、ベスティア女侯爵は胸をはだけた。ゆたかな乳房の真ん中に、ボウルガード夫人
のひからびた顔が口を動かしている。そんな状態になっても、まだは彼女は生きている
のだった。うつろな白い目を開いて、報われなかった恋と、先代ミカエル、そしてミカエ
ルの愛を受けて息子を産んだ女に対する、尽きることのない呪詛を呟いている。

246煌月の鎮魂歌10 37/43:2017/08/12(土) 23:05:59
『ご覧くださいまし、この哀れな女を。自らに与えられなかった愛の幻ひとつのために、
わたくしに魂を食い破られても気づきもしなかった。いいえ、気づいていて、歓迎さえし
た。すでに死んだ女への嫉妬の炎がこの女の身も心も焼き尽くし、わたくしのために絶好
の扉を開いてくれた。この女にとって、みずからの嫉妬のためには、愛した男の息子もな
にもかも、絶好の道具でしかなかった。人間の、なんという悪辣さでございましょうね、
若君、わたくしども闇の者でさえ、愛にはもうすこし忠実ですわ』
「お前が私を殺して闇に連れ帰ろうとするように?」
『ああ、わかってくださるのね──』
 嬉しいわ、と女侯爵は歓喜に震え、かっと牙をむいた。美しい女の顔がばりばりと音を
立てて裂け、とげのような歯をおびただしくそなえたひとつの真っ赤な口になった。果物
の皮をむくように顔だったものがめくれあがり、首が伸びた。アルカードは剣をあげて応
じた。妖女の石榴めいた頭部が刃に当たって音をたてた。酸のしずくがシュウシュウと滴
り、踏みとどまるアルカードのブーツのそばを黒く焦がした。
『闇の者は一度愛した相手をけっして裏切りはいたしません』
 そのような状態でもどこでしゃべっているのか、女侯爵の声は嫋々と続いた。
『そして愛する者を愛という美名で縛りあげて自由を奪うことも。ベルモンド家の人間が
してきたことは、結局それではございませんでしたか? 人間にはあなた様を理解でき
ず、あなた様の力と長命と美は、結局は人とあなた様をへだてる壁でしかなかったので
は? いったい何人の人間を、あなた様は見送られました? まばたきの年月で燃え尽き
ていく人間など、あなた様には塵でしかない。なのにその塵が、塵なりのちっぽけで偏狭
なそれぞれの独善と執着心から、愛という名の鎖でよってたかってあなた様を縛る。あな
た様の苦痛など考えることもせずに』
「私が選んだことだ」
 短く答えて、アルカードは剣を振り払った。

247煌月の鎮魂歌10 38/43:2017/08/12(土) 23:06:33
『そうですかしら』
 押し返された妖女の頭がぐるりと円を描き、ごつんと音をたてて肩にもどる。くるくる
と巻き上がった革がまた、すましかえった女の妖艶な笑みを形作った。
『あそこにいる二人がいい例ですわ。彼らが、愛の名のもとにあなた様に何をしました?
 かわいそうな少年!』鈴の声で妖女は笑った。
『あの子はあなた様を愛していると思っているのですよ、こっけいだこと! 愛というも
のがどれほど危険か知りもせず! かわいいけれど愚かなあの子は、愛しさえすればあな
た様が愛してくれると無邪気に信じているのです。あの私生児もまた、同じく愚かしい愛
の迷妄にとらわれて、あなた様の幸福などみじんも考えない』
「お前は考えているとでもいうのか?」
『ああ、どうかお帰りくださいませ、闇へ、あなた様の継がれるべき世界へ!』
 女侯爵の声が熱を帯びた。
『あなた様は誰よりも、何よりも美しくまれな尊き血の君、人間などという不完全な生物
には不釣り合いな、完璧なる生命。狭量なこの人界はあなた様を傷つけ、苦しめるばか
り。どうして苦しみしかないとわかっている場にとどまり、あなた様を決して理解せぬ生
き物のために働かれるのです。苦悩と悲しみにさいなまれながら、人の身勝手な愛に切り
裂かれるあなた様を、どうして放っておけましょう』
 頭上に林のように垂れた鉤爪のある手が垂れ下がり、何十本ものしなやかな女の腕とな
ってアルカードに絡みついた。白い頬を撫で、肩をさすり、腰をたどってみだらな仕草で
哀願する。
「だから私の人の部分を殺し、純粋な闇の者とすると?」
『必要なことですわ!』女侯爵は叫んだ。若い処女のように、彼女は泣いていた。美しい
目から透明な滴がいくつも転がり、何十本もの白い腕にからみつかれたアルカードに向か
って、彼女はすすり泣きながら細い両手をさしのべた。

248煌月の鎮魂歌10 39/43:2017/08/12(土) 23:07:08
『あなた様の人の血が御心をまどわせているのであれば、まどいの元を取り除いてさし上
げるのがわたくしどもの務めです。ああ、愛しきお方、わたくしどもがどれほど愛し申し
上げているか、お見せできたら! でもきっと、人の血のまじった今のままでは、わかっ
てはいただけないのでしょうね』悩ましげに女妖は胸を抱いて悶えた。
『お願いですわ、剣をおろして、わたくしに身をお委ねになって。そのあとであれば、わ
たくしはお手ずから五体を引き裂かれて血の霧となってかまいません、いいえ、きっとそ
れは、この上ない愛の贈り物となりますわ。闇の愛の深さを歌いながら、あなた様の手で
死ぬのです。闇に還られたあなた様の前では、わたくしなどほんの蚊とんぼの一匹、わた
くしの愛など砂粒のひとつにも満たない。それでもわたくしは心から満たされて灰とな
り、あなた様が領される新しい闇の宮廷で咲く一輪の花となりましょう。永劫ののちにあ
なた様はわたくしをもう一度見いだし、踊っていただけることでしょう。妹のムタルマと
二人、わたくしどもは、果てなき闇の領主たるあなた様のもとで、人にはかなわぬ暗黒の
愛のとりことなるのですわ──』
 情熱をこめて語っていた女侯爵の言葉がふいに途切れた。
 妖女は両手をかかげ、胸の真ん中を突き通したアルカードの剣をつかんだ。ゆがんだ口
からどっと血があふれ、乳房と胸をまだらに染めた。
「愛なら知っている。人の愛も。暗黒の愛も」
 アルカードは呟いた。
 身を絡め取っていた妖女の触手めいた腕はまばたきの間に切り払われ、わずかな砂とな
ってこぼれた。両手で構えた長剣がまっすぐ突き出され、妖女の胸の真ん中の老女の顔を
貫いていた。
「私はかつて愛し、裏切った。そしてまた裏切ろうとしている。暗黒の愛が裏切ることの
ないものなら、愛を裏切る私は、おそらく闇のものではないのだろうな」

249煌月の鎮魂歌10 40/43:2017/08/12(土) 23:07:52
『お、お、若君──』ベスティア女侯爵はもがいた。胸を貫かれたとき、魔物としてのな
にか致命的な部分も砕かれたようだった。アルカードの長剣の切っ先は背中まで突き通
り、脂のような血を垂らしていた。心臓めいたどす黒い肉界が身体の外に飛び出して、狂
ったように拍動していた。彼女は答申を握りしめてあえいだ。両手が切れて、薔薇を思わ
せる鮮やかな赤の血がちらちらとこぼれ落ちた。
『なぜ拒まれるのです──どうして、そこまで──人の子などくだらぬと、だれよりご存
じのはずのあなた様が──ああ』
 必死に首をねじ向けて、妖女はかっと目をむいた。唇がめくれ上がり、美女の偽装がは
がれ落ちた顔は、銅色の毛に覆われたおぞましい獣の顔貌をむきだしにした。
『そんな! なぜ、あの男が? ベルモンドの私生児! いまいましいあの男! わたく
しの与えたあの鞭が、打倒されることなどありえない──』
「彼はユリウス・ベルモンド。ベルモンドの裔にして、聖鞭の所持者」
 アルカードはささやき、剣の柄をひねった。
「──闇を払う〈吸血鬼殺し〉の、使い手だ」
 一息に引き抜く。
 空気の抜けるような音がして、妖女は身を折った。かぼそい悲鳴がひびき、彼女はそれ
でも、なお愛する公子に両腕をさしのべようとしたが、かなわなかった。銅色の毛があせ
てゆき、硫黄のにおいがたちこめた。急速にしぼんでいくベスティア女侯爵の身体は、数
瞬のうちに腐った藁屑めいたものになり、虚空に溶けて見えなくなった。

250煌月の鎮魂歌10 41/43:2017/08/12(土) 23:08:28


「ユリウス」
 背後から近づいてきたアルカードに、ユリウスは意識を引き戻された。
 視界の端で金色の結界の光が消え、腕にイリーナを抱えた崇光が姿を現した。イリーナ
はぐったりとして意識がない。あまりの心理的負担が限界を超えたのか、それとも、これ
から起こることを少女には見せたくなかった崇光が眠らせたのかはわからない。
 ユリウスはちらりとアルカードを振り返り、また視線を落とした。戦いの高揚は消え失
せ、重い倦怠と悲哀が全身に覆いかぶさっていた。
 高揚も俺のものではない、とユリウスは苦く思った。この戦いに喜びはなく、ユリウス
の使い手としての初陣は、血を分けた兄弟を敵手とするものだった。鞭は自らの闇の鏡像
を打ち破ったが、ユリウスがいま眼前にしているのは、一度もわかり合う機会がなく、い
までは永遠にその可能性も失われようとしている、幼い異腹の弟だった。
「……アルカード?」
 ラファエルがぼんやりと目を開いた。瞳は白く濁り、もはや何も見えてはいないようだ
った。だらりと投げ出された手はまだなにかを握りしめるように曲げられている。ラファ
エルは頭を動かし、手探りするように指をひくつかせた。
「アルカード。どこにいるの」呟いて、ラファエルは左右にわずかに首を動かした。
「よく見えないや。僕、どうしたの? なにがあったの? せっかく動けるようになった
のに、どうしてだか、あなたが見えないや──」
 横たわる上半身に傷はなかったが、闇の力に浸された下半身は、ベスティア女侯爵が消
滅するのと同時に、黒い液体になって流れ去っていた。あとには萎えて骨と皮にしぼんだ
下肢が遺された。
 あおむいたラファエルの顔に、苦痛はなかった。少年は幼げな顔で、見えない目をふし
ぎそうに瞬き、しきりにあたりを見回してアルカードを探した。

251煌月の鎮魂歌10 42/43:2017/08/12(土) 23:09:07
「ねえ、アルカード、どこ……? 僕、強くなったでしょう? 立派なベルモンドの男で
しょう? これで、あなたのそばに立てるよね? 僕、あなたといっしょに、魔王を封印
する戦いに出るんだ、そうだよね?」
 かすかな鞘鳴りがした。アルカードが剣を抜いていた。
「俺がやる」
 剣を手にしたアルカードが前に進もうとするのを見て、ユリウスは語気荒く言った。
「こいつは俺の弟だ。始末をつけるのは、兄貴である俺の役目だ」
「さがれ」
「アルカード──」
「さがれと言っている」
「アルカード!」
「血族同士が殺し合うのはもうたくさんだ!」
 絞り出すようにアルカードは叫んだ。
 それからはっとしたように口を覆い、うつむいた。衝撃のあまり、ユリウスは動けなか
った。アルカードがここまで感情を迸らせるのもはじめてだったが、その時彼の顔を走っ
た、狂気に近い絶望の色がユリウスの胸を深くえぐった。
「ユリウス。こちらへ」
 崇光が腕に手をそえてユリウスを下がらせた。彼の顔も青白くこわばり、せねばならぬ
ことへの嫌悪と悲しみに凍りついていたが、口調に揺らぎはなかった。
 ユリウスは声もなくあとずさった。入れ替わるようにアルカードが前に出る。彼は剣を
構えて、ラファエルのそばに跪いた。白く光る切っ先が少年ののど元にさしつけられる。
「アルカード?」夢見るように少年は呟いた。
「アルカード、僕、鞭を使えるようになったよ。僕きっと強くなる、アルカード。あなた
に似合うくらい強くなるよ。父上よりも、先祖のだれよりも強くなるよ。僕を見て、笑っ
てよ、ねえ、アルカード。アルカード」

252煌月の鎮魂歌10 43/43:2017/08/12(土) 23:09:56
 切っ先が震えた。アルカードは長い息をつき、肩をふるわせて頭を垂れた。長い銀髪が
垂れ下がって顔を隠した。ユリウスは彼が泣いているのではないかと思った。だが、ふた
たび顔を上げたアルカードの目は乾いていた。
 その唇が小さく動いた。なんと言ったのか、ついにユリウスにはわからなかった。その
まま一息に刃が降りた。少年の声が断ち切られたように消えた。黒い塵がさらりと舞い、
そして、何も残らなくなった。
 なにもなくなった地面に、アルカードは膝をついた姿勢でしばらく動かなかった。剣は
切っ先を地面に突き立てたまま、白く輝いている。
「アルカード」
 呼吸すらしていないかに見えるアルカードに、崇光がそっと声をかけた。丸めた背に触
れようとした手から逃れるように、アルカードはすらりと立ち上がった。
「アルカード、彼は──」
「大丈夫だ」
 アルカードは言った。まるで機械に言わされてでもいるかのような、感情の窺えない声
だった。彼はマントを払い、平静な仕草で剣を鞘に収めた。唇がかすかに震えていたが、
ユリウスがそれを目にするより早く、強くかみしめられて見えなくなった。
「私は、大丈夫だ」
 アルカードは言った。崇光を避け、ユリウスをそっと押しのけて、廊下へ出ていく。
「大丈夫だ……」
 その動きのあまりのなめらかさに、ユリウスはほとんど狂い出しそうになった。駆け寄
って胸ぐらをつかむか、殴りつけるかなにか、どんなことでもいいから、彼が泣くような
ことをしてやりたかった。だが、血まみれの廊下に立つ彼の背中は、月よりも、星よりも
遠く、小さく、近づきがたかった。
 ──遠くの方から今さらのように、人の騒ぐ声と、あわただしい足音が入り乱れて近づ
いてきた。


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