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【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

1煌月の鎮魂歌 prologue 1/2:2015/02/25(水) 09:03:07
PROLOGUE 一九九九年 七月


 白い部屋だった。
 彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
 ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、
それらはみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、
遠ざかり、近づいてはまた離れていった。
 自分は誰なのか、あるいは、何なのか。
 生きているのか、死んでいるのか。
 ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわから
なかった。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらは
すべて彼の知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど
変わりのない単なる事実でしかなかった。
 ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
 そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、
暗黒の中を駆け抜けていった。
 そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり
哀しげな蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
 夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、
小さなひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのか
どうかあやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
 何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。

132煌月の鎮魂歌7 15/17:2015/11/12(木) 20:51:50
 イリーナはびっくりしているというよりは、この少女にふさわしく機嫌を悪くして
いるように見えた。白い虎猫のティガーをぎゅっと抱きしめ、まるい頬をむっと
膨らませている。頭の上では小鳥のバーディーがにらみを利かせ、手首からは青い
小蛇のニニーが鎌首をもたげ、ポシェットからは亀のトトが頭を出している。臨戦態勢
である。
「うるさくする人は嫌いよ」むっつりとイリーナは言った。「そこのケーキをもう
ひとつちょうだい、ボウルガード夫人」
 夫人は一礼してそれに従った。粛々と。なめらかな両手の動きには少しの乱れもなく、
さっきの激情のかけらも感じられなかった。ユリウスは苦々しい思いで舌打ちし、茶を
押しやって、もはや居心地がいいとはいえなくなった茶席を立とうとした。
「アルカード」
 崇光の驚いた声がユリウスの動きを止めた。
 席を立とうとするユリウスを止めようと手をあげかけていた彼は、そのままの姿勢で
サンルームの扉に目を向け、眼鏡の奥の目をまたたいた。
「どうしたんです? 今夜は新月ですよ。あなたは部屋から出てくることはないと
思っていましたよ」
「……闇が接近している」
 アルカードは普段着ではなく、中世の絵画に出てくるような豪華な貴公子の衣装を
まとっていた。たっぷりと襞をとったシャツに絹のウェストコート、金刺繍の縁取りと
真珠のカフスのついた長い上着。襟元には燃える血色のルビー。なびくマントの裏地は
鮮血の紅で、鈍い金色の籠手のついた長剣が腰に見えている。青ざめた顔はいつもより
もっと血の気がなく、いささか死人めいて見えた。
「これまでになく近い。新月に乗じて結界を破るつもりかもしれない。その前に始末
する。崇光、イリーナ、援護を頼みたい。そしてユリウス」

133煌月の鎮魂歌7 16/17:2015/11/12(木) 20:52:33
 氷の蒼の視線がまっすぐにユリウスの心臓に射込まれた。
「お前には訓練の一環として同行してもらう。実地訓練だ。まだ聖鞭に触れさせること
はできないが、鞭を使った闇の者との戦闘がどんなものか、その身で味わってみるのが
いいだろう。ただし気を抜けば死ぬ。そのことを忘れるな」
「お待ちなさい、アルカード。危険です」
 焦ったように崇光が立ち上がり、一瞬ユリウスに目を走らせて口を結ぶと、思い切った
ように、
「今夜はあなたの力が弱められる夜だ。あなたが出向かずとも、僕とイリーナがなんとか
します。それにユリウスはまだ実戦に出すべきではない。彼が──その、死にはしない
までも傷ついて、最終決戦の時に動けなくなっていたらどうします。もう彼の代わりは
いないのですよ」
「だからこそ、私が行く」
 黒い微風のように歩み寄ってきて、アルカードはマントの中から一巻きの鞭を取り出
した。ユリウスがブロンクスで使っていたものではないが、ずっと細身で、それでいて、
身を休めている怜悧な猟犬のような、抑制された獰猛さを感じさせる品だった。
「彼の不足は私が補う。初めての実戦が最終決戦というのでは本末転倒だ。訓練にも座学
にも限界はある。実戦が彼にとってはもっと有効な授業となるだろう。ついてくるか?」
「……なめんじゃねえぞ、おい」
 氷蒼の瞳の奥にきらめく金色の光をユリウスは見た。一瞬頭に霞がかかったように
くらりとしたが、歯を食いしばり、差し出された鞭をむしりとった。なめした革が
慣れた蛇のように指に吸いついた。
「他人に守られるような俺じゃねえよ。上等だ。退屈なお勉強よりゃ、確かに俺にゃ
こっちがお似合いだ。あんたは後ろでだまって見てりゃいい。闇の者だかなんだか知ら
ねえが、ブロンクスの毒蛇にどんなことができるか、しっかり見届けるがいいや」
「つまり、さっき感じたいやな臭いは本物だったってことね」

134煌月の鎮魂歌7 17/17:2015/11/12(木) 20:53:24
 イリーナは椅子から飛び降り、スカートをなおして髪を撫でつけた。四匹の霊獣たち
はどことなく落ち着かない様子で唸り、はばたき、シューと舌を鳴らし、ポシェットの
中でもぞもぞ動いている。
「そこのがさつな坊やは論外だけど、でもアルカード、本当に大丈夫? なんならあたし
たちがこの子の面倒も見るわよ。ティガーたちは気に入らないみたいだけど、でもあたし
が頼めば、絶対にちゃんと傷をつけないようにしてくれるわ」
「気遣いはありがたいが、イリーナ、私は心配ない」
 いつもより色が薄く感じられる唇をかすかに笑みの形にし、アルカードは小さな女王
に軽く一礼した。絵の中の貴公子のような衣装の彼がすると、それはいっそうみごと
だった。
「これまでにも新月に戦わなければならないことなど何度もあった。忘れないでほしい、
私は五百年もの間、彼らと戦い続けているのだ。相手は新月であろうと満月であろうと
加減などしない。それでもこうして私は存在している。あまり過保護にされても困る」
「どうかしら。だってあなた、いつだって無理ばかりするんだもの。他人に隠して」
 イリーナは口をとがらせ、まあいいわ、とため息をついた。
「あたしとスーコゥががんばって、この坊やを怪我させないようにすればすむことです
ものね。みんな、聞こえた? 今回はお遊びはなしよ。初心者さんを連れていくん
だから、ちゃんと守ってあげて、痛い目にあわないようにしてあげてね」
 バーディーが高い声で鳴いてはばたき、ティガーが低く唸った。ニニーとトトも
それぞれのやりかたで(不承不承ながら)応じたらしく、四組の視線が自分に突き刺さる
のをユリウスは感じた。小さな女主人に迷惑をかけたら許さない、と雄弁に語るまなざし
に、ユリウスは身震いし、そのことに腹を立てて唾を吐いた。

135煌月の鎮魂歌8 1/29:2016/01/16(土) 18:31:42
 自動車はずいぶん長い間森の中を走り続けるように思えた。
「おい、いったいどこまで行くつもりなんだ? この森はどこまで広がっているんだ」
 しだいに焦れてきたユリウスがとうとう苛々と膝をゆすった。
 ベルモンド家へ連れてこられたときよりいくぶん小さく簡素だが、それでもかなり
高級な大型のロールス・ロイスは、木々の中をぬって走るアスファルトの灰色の上を
灰色の幽霊のように音もなくすべっていく。
「この森自体が結界の一部なのですよ」
 ハンドルを握っている崇光がいった。危なげのない手つきでギアチェンジし、大きく
曲がったヘアピンカーブを抜ける。
「特定の場所へ向かうには、一定の経路を通らないと永久にたどり着けません。たとえ
ほんの一メートル先にあるだけのように見える場所でも、正しい順路を辿らなければ
永遠の迷路に迷い込むだけです。この道路も地脈にそって築かれた結界の描線です。
僕たちはとても危うい蜘蛛の糸のような道を進んでいるんです」
「蜘蛛でもなんでもいい。ちゃんと相手のいるところへつくんならな」
 フロントシートに座らされ、生まれてこのかた着けたことのないシートベルトなどと
いうもので押さえつけられたユリウスは組んだ足をいらいらと揺すった。シートベルト
など当然のように無視して乗り込んだとたん、イリーナがいつもの小女王ぶりを発揮
してむりやり着けさせたのである。
 彼の長い足でもじゅうぶん余裕のある広いシートに、また妙にいらつく。これも
きちんとシートベルトを着けている崇光はちらりと目をやり、肩をすくめて同情する
ような仕草をしてみせた。ユリウスはあからさまに舌打ちして顔をそむけた。
 腰のベルトの下にそっと手をすべらせる。屋敷へ来てから与えられた黒い革のロング
コートの下に、新しいホルダー付きの革ベルトが増え、そこに、使い慣らされてしな
やかになった長鞭が、眠る蛇のように渦を巻いて束ねられていた。
 ブロンクスで使っていたものとは違うが、この数ヶ月、訓練で使用しつづけたおかげ
で手にはすっかり馴染んでいる。以前使っていたものよりも、むしろ使いやすいくらい
だ。油を擦り込まれ、激しい訓練で早くも擦り切れた握りを何度か取り替えたにも
関わらず、艶々と鈍く光る鞭の身を指でたどると、女の身体をなぞるような愉悦が指を
疼かせる。

136煌月の鎮魂歌8 2/29:2016/01/16(土) 18:32:30
「むずかるのやめなさい、ユリウス」
 リアシートからイリーナが偉そうに言った。がう、とティガーが声をそろえる。
「この森を本当に正しく移動できるのはスーコゥだけよ。あたしやアルカードでも抜け
られないことはないだろうけど、ずいぶん手間がかかるでしょうね。ましてや、あなた
みたいな素人じゃ、一生迷い続けても外へ出るどころか、もといた場所から半歩と進め
やしないわ。黙ってスーコゥにまかせてなさい。到着してからが、あなたの出番よ」
「素人呼ばわりかよ。くそガキが」
「その通りでしょうに」
 女主人に憎まれ口を叩かれて、四匹のペットがざわりと波立つ。手真似で彼らを抑え
て、イリーナは小さくため息をついた。幾重ものフリルとレースの重なるパニエが波の
ようにシートに広がる。
「忘れてるといけないから念を押しておくけど、あなたはまだテスト中の身なんですか
らね。聖鞭ヴァンパイア・キラーの正当な使い手になるには鞭に認められなければなら
ない、これはそのための試験のひとつなの。あなたはまだ正式に認められた戦士じゃ
ない」
「だが、そうなってもらわねば困る」
 アルカードが呟いた。黄金の柄の剣を穿き、中世風の豪奢な貴公子の装いのアルカー
ドは、レースやリボンに飾られたドレス姿のイリーナと並んでリアシートに座っている
と、そこだけが別の時代、別の世界に切り取られているようで、妙な非現実感があった。
 この黒ずくめの、ある意味時代錯誤な衣装も一種の魔法的な力を持ち、新月で力の減退
しているアルカードを守るものだと聴かされた。闇の力、闇の衣服。彼がこの世に表れ、
はじめて魔王ドラキュラを打倒したときにも、この衣装をまとっていたという。闇から
織られ、闇からとりだされた衣装は、夜そのもののように煌びやかに、月の貴公子を
包んでいる。

137煌月の鎮魂歌8 3/29:2016/01/16(土) 18:33:08
「何度も言ったが、魔王の真なる封印には聖鞭ヴァンパイア・キラーとその使い手の
存在が不可欠だ。われわれにとって、おまえは欠けさせることのできないピースなのだ。
おまえには試練を乗り越え、必ず聖鞭の正式な使い手として覚醒してもらわねばなら
ない。世界の安寧と、人類の存続のために」
「ピース、か」
 苦々しく呟き、ユリウスは暮れはじめた窓外に目をやった。魔王の封印という一枚の
絵図、それを組み上げるための一片。それ以上のものではない自分。腹の底が熱く煮え
立ち、指が鉤爪のように丸まって鞭をつかみしめた。一瞬、ここでその鞭を抜き放ち、
澄ましかえったアルカードの白い頬に背に力いっぱい振り下ろしてやりたい欲望にふる
えた。
 崇光が低く口笛を吹いた。
 ロールスロイスはほとんど衝撃を感じさせることなく停止した。
 あたりはいつのまにか夕暮れの薄闇に沈み、崇光はライトをつけていた。路肩によせて
停車した崇光はエンジンをかけたまま車を降り、ヘッドライトの照らし出す茂みの中を
数歩進んだ。
 つられるように、ユリウスは目をこらした。
 崇光は低い灌木のあいだを分けて歩いていく。かきわける手間もなく、彼の前で道は
勝手に開いていくようだった。車から数メートル離れた木立の中に、人間の幼児ほどの
高さの自然石が石碑のように立っている。ごつごつした表面に、黒と朱でなにごとかを
書きつけた札が一枚、貼られていた。崇光はそれに手をかけるといったん息を吐き、
鋭い気合いとともに一息に剥がしとった。
 どこか、ひどく遠くもすぐそばのようにも思える場所で、ごおっと地鳴りがした。
空気が震え、肌に触れる夜気の冷たさが微妙に変化したのをユリウスは感じ取った。
夜闇が濃くなり、また薄くなった。青みを帯びた霧がどこからともなく流れてきた。
「降りてください」
 いささか疲れたように崇光が言って、数歩石碑からさがった。

138煌月の鎮魂歌8 4/29:2016/01/16(土) 18:33:42
「ここからは歩きです。結界の外への道を開きました。僕たちが出たあとはすぐに閉じ
ます。急いで。一秒ごとに危険が倍加すると思ってください。早く」
 彼らしくもない、せっぱ詰まった口調だった。イリーナがドアを開けてぴょんと飛び
出し、アルカードが流れるようにあとに従った。ドアを蹴飛ばしてやりたかったが、
ユリウスも渋々と二人に続いた。
 三人が車を降り、道の先に集合すると、崇光はいま剥がした札をかかげ、手を離した。
札は見えない腕に奪い取られるように宙に舞い上がり、再びまた石碑の上に貼りついて、
瞬きのあいだ青い光を放って燃えた。石碑全体に青い稲妻が走り、またどこかで地響きが
低く腹をゆすった。
「ここからは敵地だ」
 アルカードが静かに言った。静まりかえった闇の奥に、その声はどこまでも深く反響
していくようだった。
「いつどこから闇の者が襲ってくるかわからない。用意をしておけ、ユリウス。崇光が
先に立つ。そのあとにおまえ、そしてイリーナ、しんがりは、私だ」

             3

 確かに空気が違っていた。冷たく心地よかった夜風はなにか腥いものを秘め、薄気味
悪く肌をなでていく。
 進むほどに、いよいよ闇は濃くなっていった。単なる夜ではない、月のない夜である
ことはわかっていたが、星さえ見えないとはどういうことだ。新月ならばあふだん月に
消されて見えないはずのもっと暗い星々もそらにきらめくはずだ、なのに、どこまでも
濃くねっとりとした糖蜜めいた暗黒が、周囲をどろりと取り巻いている。
 足首を擦っていく芝草の葉がいやに冷たく、まるで死んだ女の指にそっとさすられて
いるようで、ユリウスは思わず顔をしかめた。
 とたんに地面に顔を出していた石につまづき、悪態をついた。

139煌月の鎮魂歌8 5/29:2016/01/16(土) 18:34:17
「屋敷に帰ったら、石鹸で口を洗ってあげるわ」
 後ろから厳しい姉めいてイリーナが脅した。
「そういうことを言うのは、レディの前ではマナー違反よ」
「やかましい、くそチビが」少しでもぐらついたことが無様に感じられてたまらず、
ユリウスは乱暴に言い返した。「こんな真っ暗な中で、どうやって歩けっていうんだよ」
「闇の中を歩くのは狩人の基本能力よ。あなた、まだそんなこともできないの?」
「あまりいじめるのはおやめなさい、イリーナ。ほら、これを」
 先導の崇光が苦笑混じりに言い、手探りで何かを渡してきた。
 反射的に受け取ると、冷たいガラスのようななめらかな表面が心地よかった。指先
ほどの大きさの透明な玉、おそらくは水晶製で、しずく型の細い端を軽く横に曲げた
ような、奇妙な形をしている。一見頭のようにも見える太い部分に目のようにも思える
穴があり、赤と白の紐が複雑な結び方で結びつけられていた。
「夜明珠です。持っていれば、いくらかは闇も見通せるはずですよ」
 ユリウスは口をとがらせて押し戻そうとしたが、結局ひとつ舌打ちして、レザー
パンツのポケットに滑りこませた。
 確かに、それを指先に感じた瞬間から、一気に感覚が冴えた。どろりとした泥のよう
にしか感じられなかった濃い闇がわずかに色を薄くし、濃すぎるサングラスをかけた
ように曇ってはいるが、ものの形は見て取れるようになった。輪郭すらわからなかった
周囲の木々や地面の凹凸もある程度見えるし、前後を進む崇光やイリーナ、そしてアル
カードのなめらかな歩みも感じ取れる。
 視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚、それらほかの五感も冴えわたった。遠くで不吉に
ざわめく木々の音が聞こえ、何者かがきしらせる歯の音が肌に振動として感じる。
イリーナの言っていた「けものの臭い」をはっきりと感じる。病んだ犬の群を檻に閉じ
こめたまま腐らせておいたような強烈な獣臭と腐臭を煮詰めたような、なにか。
 崇光は迷いのない足取りで先へ歩いていく。

140煌月の鎮魂歌86/29:2016/01/16(土) 18:35:00
 進めば進むほど、ユリウスは肌に迫る異質な何かが、すぐそばで熱い息を吐いている
のを感じることができた。耳の後ろで腐肉の臭いを漂わせる何者かが、脅すように口を
開いて息を吹きかけ、またどこかへ漂っていく、だが、振り向いてもどこにもいない。
ただ血腥い気配と、毒に満ちた呼気が漂っているだけだ。
 ユリウスは意地のように視線を前に固定し、崇光の背中だけを追った。それ以外の
ものに目を向ければ、相手の思うつぼなのだということが本能的にわかっていた。
「まあ、素質はあるわね」イリーナが考え深げに呟いた。「それとも、本能的に生き延
びる方法を知ってるってだけかしら」
「うるせえぞ、ガキ」ユリウスは唸ったが、あまり注意は払っていなかった。彼の注意
は、刻々と周囲に集ってくる悪意と殺意の集積物のほうに集中していた。
 ブロンクスでのしあがった数年間、敵に取り囲まれたことは幾度となくあった。だが、
これほどひしひしと巨大で危険な何かに包囲されていると感じたことはなかった。しょ
せん相手は武装した人間程度であり、どれだけ凶暴で悪辣であろうと、それは人間の
尺度で測れる程度でしかない。
 いま周りを囲んでいるのは確かに地獄から這い出てきた何か、人間の意図を超越する
悪意と狂気、〈毒蛇〉、〈悪魔〉とみずから呼ばれたユリウスでさえ、確かにこいつら
は闇からやってきた怪物なのだと、有無をいわさず信じさせるなにかがあった。
「──来た」
 それまで口をつぐんでいたアルカードがふいに言った。
「崇光、結界を。イリーナ、ユリウス、構えろ」


 いきなりほとばしった閃光はまばゆく、ユリウスは目を突き刺されたように感じて
思わず目を覆った。
「バカ、しっかり見なさい! 目の前よ!」
 イリーナの高い声が頭上を越えていく。

141煌月の鎮魂歌8 7/29:2016/01/16(土) 18:35:35
 まばたきをし、くらんだ目を無理に開くと、光は地面に手のひらを叩きつけた姿勢の
まま動かない崇光を中心に、波紋を描いてあたり一帯に広がり、木立の一角を完全に
包み込んでいた。
 ぐにゃぐにゃと木の枝が変形し、幹がきしんでいっせいにこちらに身を傾けてきた。
木肌に裂け目が走り、鮮血のような赤い樹液があふれ出して、油の焼けるような音を
立てて地面を焼いた。節目や樹皮の影に見えていたものが凝集し、逆三日月型につりあが
った巨大な口と、それと向かい合うようにいやらしい笑いを浮かべた両眼に変わった。
「バーディー──スザク!」
 イリーナが叫んだ。
 高く掲げた手から赤い小鳥が飛び立ち、みるみるうちに翼を広げて、燃え輝く炎の
巨鳥の姿を現した。長い尾羽根も翼も胴体も優美な首も飾り羽根のある頭部も、みな
ゆらめく炎で形作られ、その中に黄金の神獣の双眸がひときわ鮮烈に燃えている。
 スザクは金の鐘のような声で高く一声あげると、どっと炎を噴出した。嘴から、など
というかわいらしいものではない、渦巻く全身の炎をそのまま豪炎の滝と変えて周囲の
怪植物どもにぶつけたのだ。
 怪樹どもが断末魔の声をあげて炎に飲み込まれていく。身悶えしながら焼かれていく
その姿からは、木ではなく、確かに肉の焦げる臭いがした。
「ユリウス!」
 まだようやく鞭を手にしたばかりだったユリウスは、魅せられたように見つめていた
怪樹の焼ける姿からはっと意識を引き戻した。眼前に、髑髏の模様を浮かばせた巨大な
翅がばたついた。なにも考えずに鞭を横なぎにすると、一閃でそいつは切り裂かれ、
赤ん坊の泣くような声をあげて落ちた。地面に落ちて暴れ回っているのは、両手を
広げたほどよりもなお大きい、翅に人間の髑髏の文様をはっきりと浮かばせた
妖蛾だった。
「触れるな!」
 嫌悪のあまり足をあげて踏みつぶそうとしたユリウスを、アルカードが鋭い声で
止める。

142煌月の鎮魂歌8 8/29:2016/01/16(土) 18:36:09
「触れてはいけない。そいつの毒は強烈だ。靴ごしに触れただけでも、今のおまえでは
身体の自由を奪われる」
 言いざま、目にもとまらぬ剣さばきで蛾を切り裂く。巨蛾はあっという間に塵と化し、
地面と同化して見えなくなった。
「アルカード──」
「毒消しを」
 断る間もなく、コートの内側にいくつものアンプルが押し込まれた。
「聖別された水が入っている。もし少しでも違和感を感じたらそれを飲め。おまえはまだ
魔界の毒に対する耐性が育ちきっていない。即死しないのはさすがにベルモンドの血
だが、動きが鈍れば奴らはその隙を逃さない。群が来る」
 声をかける間もなく、アルカードはマントを翻して崇光のほうへ駆け去っていった。
光の輪の中心でじっと動かない崇光の上に覆いかぶさろうとする妖蛾どもを右へ左へと
切り払い、次々と塵に変えていく。
 見ほれている暇はなかった。粉っぽい蛾の毒の鱗粉が霧のようにあたりに立ちこめ、
いまわしい翅のさらさら鳴る音が波のように押し寄せてきた。闇の中でも燐光を放つ
髑髏模様が歯をむき出して嘲笑している。
「クソッタレ!」
 声を限りにユリウスはわめくと、なにも考えずに渡されたアンプルの一本を口で
ちぎって吐きとばし、中身を口に放り込んだ。塩の味と、それとは別に強烈なウォッカ
を水銀で味つけしたような、強烈な刺激がのどを下っていった。そのとたんに、一気に
世界がクリアになった。
 すでに自分が毒の影響を受けかけていたことにその瞬間気づいた。周囲の音のボリュ
ームが最大限に高まり、焼ける怪樹のわめき声が鼓膜を突き刺し、蛾の腥い体液と鼻を
刺す鱗粉の刺激と炭になった肉が蠢きのたうちながらじゅうじゅう焦げていくその痙攣
が見える。

143煌月の鎮魂歌8 9/29:2016/01/16(土) 18:36:45
 もう一度大声で冒涜的な言葉をわめき、ユリウスは腕をふるった。鞭はまっしぐらに
蛾の群れをつらぬいていき、そこから大きく円を描いてぐるりと全体を包み込むと、
手首のひとひねりでぎゅっと収縮した。輪の中に囲い込まれた怪虫どもは一匹残らず
鞭の輪に締め上げられ、赤ん坊の泣くような声を上げて消失した。わずかな灰がはら
はらと草の上に散った。
「次がくるわよ」
 いつのまにかイリーナがそばにきていた。豪華なドレスの少女は爛々と目を輝かせ、
優美だがきわめて冷徹な殺戮者の顔を見せている。彼女もまた兵器として育てられた
少女なのだとユリウスはふいに気づいた──注意深く混ぜ合わせられた血の果てに、
戦いというたったひとつの目的のために生み出され、育てられてきた娘。真珠のような
白い歯をむきだした金髪の魔女に、ユリウスは突然自分でも思っていなかったほどの
親近感を覚え、あわてて打ち消した。
「トト──ゲンブ!」
 イリーナのポシェットからのっそり首を伸ばした黒い亀は、重さなど持っていないか
のようにふわりと浮き出ると、みるみるうちに空へ上り、巨大に、もっと巨大になった。
 またたきのうちに、森の上に、アメリカ軍が隠していたUFOの母艦と言われれば
信じるようなどでかい楕円形のものが浮かんでいた。
 どこかで見たような気がしてユリウスは首をひねったが、気づいて笑い出しそうに
なった。ジャパンで作られた古い映画だ。暇な午後にバカ笑いしながら見た。亀が巨大
な怪獣になって、襲ってきた別の不細工な怪獣と大戦闘をやらかす。まるでマンガだ、
そうじゃないか?
 だが目の前で起こっているのは映画でもなければマンガでもない。巨大な黒い聖獣は
空中で重々しく四肢を動かすと、象の何百倍あるかわからない脚を四本いっしょに振り
下ろした。ばきばきと地面が隆起し、焼き払われたあとに生えてきた新しい怪樹の腕が
押し寄せてきた岩と土に飲み込まれるように消えた。さらに上空を飛び回っている炎の
聖獣がまんべんなく炎を吐き散らし、まだぴくついているものを容赦なく灰に変えて
いく。

144煌月の鎮魂歌8 10/29:2016/01/16(土) 18:37:23
 耳の後ろに痛みにも似た本能の警告を感じた。とっさにユリウスはイリーナを抱き
抱え、横っ飛びに飛びすさりざま横ざまに鞭をふるった。
 たった今、少女とユリウスが立っていた場所を、紫色がかった肉の鞭が猛烈な勢いで
すぎていった。狙いをはずしたそいつは大きく弧を描いて向きを変え、真っ正面から
ユリウスに向かってきた。血走った眼球がひとつ、肉の先端にぎょろりと開いてまとも
にユリウスを見た。
 自分が何か叫んでいるのはわかったが、かまっている暇はなかった。逆方向に飛んだ
鞭を引き戻し、迎え撃つにはほんのコンマ秒の隙しかない。
 後ろにはイリーナがいる。喉も裂けんばかりに叫びながら、ユリウスはほとんどなに
も考えずに鞭の柄を引き、柄の反対側の先端を、ほとんど鼻のくっつきそうな距離の
相手の目玉につきたてた。
 顎の数ミリ先でガチンという鋼鉄の罠のかみ合うような音がした。目玉のすぐ下に、
ビラニアの歯を最悪に凶暴にしたような巨大な口が開いていた。目玉の真ん中に鞭の柄
を突き立てられながら、そいつはなおもユリウスの喉を食い破ろうとガチガチと開閉を
繰り返した。
 破れた目玉が酸のような臭いの漿液を垂れ流している。紫色の肉の胴体がうねり、
こちらに向かってくるのに先手を打って、ユリウスは指先で鞭にひねりをくれた。はね
戻ってきた鞭はきりきりと肉の筒のような胴体に巻きつき、次の瞬間、スライスされた
ソーセージのようにばらばらに寸断された。ばらばらと落ちた肉塊はシュウシュウと
湯気を上げ、周囲の草を毒で枯らしながらしぼんでいった。
「おい、くそガキ、無事か」
「それがレディに対して言う言葉?」
 間髪入れずイリーナは言い返してきたが、息が切れている。いかに天才児といえど、
少女の体力で四聖獣のうち二匹までもフルパワーで解放するのはさすがに負担が重い
らしい。ふっくらした頬が青ざめ、きっと噛んだ唇に血の気がない。細い肩が小さく
上下している。

145煌月の鎮魂歌8 11/29:2016/01/16(土) 18:38:45
「それより、あれはただの一部よ。本体がやってくる。用意はいい?」
「ああ、いくらでも俺がぶっとばしてやるからガキはすっこんでろ」
 イリーナは射殺すような目つきでユリウスをにらんだが、憎まれ口を返す余裕はない
と判断したらしく、前を向いた。「バーディー! トト!」と声を上げ、上空にいる
聖獣二匹を呼び戻す。真紅の小鳥と黒い小さな亀がふっと表れ、少女の肩とポシェット
に収まって、それぞれの言葉でうるさくさえずった。おそらく無理をするなというよう
な意味らしかったが、イリーナはそちらを見もしなかった。
「ニニー──セイリュウ! ティガー──ビャッコ!」
 手首からするりとサファイア色のブレスレットがほどけ、宙に舞った。脚もとで獰猛
な威嚇の声を放っていた白い虎猫が宙をひと跳びし、くるりと一転したかと思うと、
地響きをたてて着地した。
 焼き払われて開いた空き地いっぱいになるほどの白い虎の巨体が、地面に脚の形の
四つの深い亀裂を作った。ユリウスの腕より太い尾がうねり、白銀の体毛が逆立つ。
輝く体毛の下の筋肉は鋼鉄のようだった。聖獣ビャッコは女主人のほうを振り返り、
たいていの人間ならその場で心停止してもおかしくない形相で、すさまじく咆吼した。
 遠くのほうでメリメリと樹が折れる音がする。何者かが森の木を雑草でも分ける
ように踏み分け、こちらへ向かいつつあるのだ。
 ふたたび目がかすみ始めているのに気づいてまた聖水を口にする。魔界の瘴気を吸う
だけでも普通の人間にとっては致命的らしい。この中でそれをまだ必要としているのは
自分だけらしい事実に苛立った。ほんの少女のイリーナさえなんの補助もなくこの場に
立っているのに、自分だけがまだ脆弱な人間の弱みから脱しきれないままなのだ。四聖
獣の護り、ヴァンパイアの血、封術師としての腕──彼らはすでに戦士として完成されて
いる。自分はどうなのだ?
(聖鞭──〈ヴァンパイア・キラー〉があれば、俺も彼らと同じ地点に立てるのか?)
 暗い空が白くなるほどの稲妻が走った。暗黒の空に、自ら放つ冴えた青い光に包まれた
長大な身体がゆったりと舞っている。

146煌月の鎮魂歌8 12/29:2016/01/16(土) 18:39:25
 東洋の竜──西洋のドラゴンとは違う、それ自体が神である一族だ。長い髭と鹿のそれ
に似た角、黄金と青にきらめく鱗、短い前脚には真珠のように光る宝珠をつかみ、慈愛と
も諦観ともつかぬ金色の目で下界を見下ろしている。
「セイリュウ!」
 イリーナの声とともに、あたりが目もくらむほどの光と轟音に包まれた。
 しばらくはなにも見えず、聞こえなかった。くらんだ目がもどってみると、ゲンブと
スザクに焼き払われた残骸がすべて取り払われ、開いた空間のむこうに、白い人影のよう
なものがぼんやり浮かんでいるのが見えた。
『生意気なお嬢ちゃんだこと』
 毒のきいた蜜のような声が風にのって運ばれてきた。
『目上の者を出迎えるときは、それなりの礼儀を払うものよ』
「あんたなんかに払う礼儀なんてないわ、闇の者」
 イリーナの消耗が激しい。なんとか自分で立とうとしているが、脚を震わせて大きく
肩で息をしている。どうやら今の一撃は相手そのものを狙ったらしいが、すべてそら
されたというわけか。
「どうやってここに入ってきたわけ? 誰もあんたなんか招待してやしないわよ。いずれ
魔王といっしょに滅ぼされるのに、ずいぶんお急ぎね」
『あら、人間と遊ぶのはいつでも大好きよ』
 女は──少なくともその姿をした部分は──毒々しい色に塗られた長い爪を唇にあてて
妖艶に笑った。
『そちらが新しいベルモンドの男? そう。いくら潰しても次から次へと湧いてくる
のね。虫けらだけのことはある』
 ユリウスはイリーナを強引にコートの内側に押し込み、後ろに下がって鞭を握り
しめた。なぎ倒された樹木の中をゆっくりと進んでくるのは、まさに悪夢の生き物
だった。

147煌月の鎮魂歌8 13/29:2016/01/16(土) 18:39:58
 本体は腐った沼の緑色をしたカメレオンと、ヤモリのあいのこのような生き物だった。
ぬめぬめした粘液を垂らす皮膚と堅い緑色の鱗がでたらめに入り交じり、見ていると目
が回るような極彩色の巨大な目玉が左右別々にきょろきょろと動く。吸盤のある脚は
全部で六本あり、先細りの長い尾は先のほうになって黒光りする甲殻に代わり、鋭く
曲がった毒針がついていた。不吉なタールのような液体が、すでに滴を作っている。
弓なりになったとげだらけの背中には、あの毒蛾どものものをそのまま人間代に拡大
したかのような、蛾の翅が一対突っ立っている。いまわしい髑髏の模様が青い妖光を
放って、せせら笑いを浮かべていた。
 だがさらにおぞましいのは、その舌だった。いや舌、と呼ぶべきなのだろうか。
カメレオンの長い舌の先端は、中ほどで立ち上がって、肉感的な半裸の女の姿になって
いた。女は睫をそよがせ、指をのばしてユリウスにむかってちょっちょっと舌を鳴らして
みせた。これまで感じたこともないほど強烈な嫌悪に襲われて、ユリウスは顔を
そむけた。どんなに唾棄すべき最低の娼婦でも、ここまでユリウスの吐き気を催させた
者はなかった。
 女は美しかったが、それは地獄の美だった。汚らわしい快楽と魂をもてあそぶ堕地獄
のためのものだった。豊かにもりあがった白い乳房に海草のような濡れた黒い髪が
ぬめぬめとまとわりつき、秘密めいた下腹に、裸よりももっと扇情的な透ける黄金の
飾りを巻いているだけのほとんど裸体。そして豊かなふくらはぎから下は化け物
カメレオンの紫色がかったべとべとの肉にとけ込み、見えなくなっている。
『陛下のご復活は近い』
 女──の形をしたもの──は言って、唇をなめた。唇もまた濡れて、たった今血を
舐めたばかりのように毒々しく赤い。
『われらはその露払いとしておまえたちのような虫けらを排除する義務を負っているの。
闇の王国の臣民にして魔王の眷属として。でもそれ以前におまえたちは目障りだわ。人間
などというものはもともと家畜として地上を這い回る猿のくせに増えすぎた。おまえたち
は増長しすぎたのよ。誰かがそれを思い知らせるべきときだわ』

148煌月の鎮魂歌8 14/29:2016/01/16(土) 18:40:37
「その声は、ムタルマ女伯爵か」
 低い声がして、身構えるユリウスのそばをゆらりと黒いマントが揺れて過ぎた。
なびく銀髪をあとにひいて、剣の柄に手を置いたアルカードがゆっくりと前に進み出る。
瞳はいまだにさえざえとした蒼色を保ち、ユリウスにはそれがまだアルカードが戦う意志
を表に出していないせいか、それとも新月のために魔力を解放するのを邪魔されているた
めか、判断できなかった。
『ああ、公子様、いと貴なる闇のお世継ぎ様』
 ムタルマ女伯爵と呼ばれた魔物はあえぐように言い、懇願のしぐさで白い両腕を前に
差しだした。黒い瞳が情欲めいたものでぬれぬれと光っている。ユリウスはぎょっとして
アルカードの優美な後ろ姿を見つめた。
 公子? 魔王の世継ぎ?
 ドラキュラの、魔王の息子ということか──こいつが?
『なぜそんなところにいらっしゃるのです? なぜ人間などといっしょに? あなた様
こそわたくしどもの先頭に立って、お父君の復活に力を尽くすべきお方ではありません
か。どうぞ剣などお納めになって、父君のもとにお戻りください。いまわたくしが、
あなた様にたかるこの不快な虫けらどもを駆除してごらんにいれますから、どうぞ、
あるべき地位にお戻りになって。闇の臣民たちはみな、この数百年のあいだずっと、
あなた様のお帰りをお待ち申し上げているのでございますよ』
「私に帰るところなどない」
 短く言い切って、アルカードはすらりと剣を引き抜いた。細い刀身が闇の中でそれ自体
白い光を放つように輝線を描く。
「私の望みは魔王ドラキュラの完全なる覆滅、それだけだ。あの男は地上にあっては
ならぬ者だ。私はただそれだけのために存在し、ここに立つ。闇の呼び声に耳など
貸さぬ」
『やはり応じてはいただけぬのですね、高貴なるお方』

149煌月の鎮魂歌8 15/29:2016/01/16(土) 18:41:30
 求愛をすげなく退けられた乙女のように、ムタルマ女伯爵は悲しげにうつむいた。
細い両手がゆたかな乳房の上で重ねられて震えている。意を決したようにさっと上げた
顔で、蛾の複眼と化した両眼がカットされた巨大なダイヤモンドのようなきらめきを
放った。
『それでは、やはり──そのお命から卑しい人間の血を抜き取り、本来の闇の生命に
目覚めていただくしかなさそうですわね!』
 ユリウスはほとんど本能に突き動かされるように鞭をとばした。鋼鉄を打ったような
手応えがあり、一瞬のうちに頭上数センチのところに迫っていた黒光りするサソリの
尾が、からめとられてはね飛ばされた。鉛色の毒液があらぬ方向へとび、どこかで
じゅっと焼ける音がした。生臭い悪臭に、苦い酸の突き刺すような臭いが入り込んで
きた。
 巨大な六本脚の爬虫類の舌先で、昆虫の目をした女がのけぞって狂笑を放っている。
頭を低くして身構えていたビャッコが、咆吼とともにつっこんでいった。かっと開いた
顎が爬虫類の垂れ下がった喉袋に食らいつき、噛みちぎろうと頭を振る。肉がちぎれ、
ぼたぼたと緑色の血液めいたものが草地を汚して、女と爬虫類の口から同時に、聴くに
耐えない苦悶と怒りの声があがった。
 口をあけた傷口めがけて、ユリウスの鞭が槍のようにつきささる。扱う者が使えば
刃物よりも強力な武器になる鞭は、鼻をさす煙をあげながら緑の血を垂らす傷口を
さらに大きく裂き、そのまま下から打ちあげるように、六本の前脚の一本をなかばから
切りとばした。
 女の口からなにか理解できない叫び声がもれ、両腕がさっと開いた。爬虫類の背中の
翅が大きく広がり、燃える髑髏紋が生き物のようにかっと骨ばかりの顎を開いたかと
思うと、そこからあの巨大な毒蛾の群れが風に跳ばされる吹雪のように吐き出された。
 アルカードの剣が一閃する。ユリウスとイリーナにかぶさろうとした蛾の一団が、
瞬時に塵となって散った。
 青白い稲妻が入り乱れ、青銅の鐘を鳴らすにも似た声が上空から響く。ユリウスは
全身に電光をからみつかせながら、目を怒らせ威嚇するように地上を見据えるセイリュウ
を見た。

150煌月の鎮魂歌8 16/29:2016/01/16(土) 18:42:04
『美しきお方、尊きお世継ぎ様、これほどまでにお慕い申し上げておりますのに』
 重なり合ってざわつく毒蛾の向こうから、女の怨ずるような声が聞こえる。
『あなた様ほど麗しく高貴なるお方は、魔王そのお方を除いて誰ひとりいはしない──
それなのになぜ、闇の愛をしりぞけ、あなた様を慕う民をお打ち据えになるのです?』
 アルカードはもう応えなかった。蛾を切り払った剣をそのまま舞わせ、あたりに塵と
なった蛾の死骸を散らして突進すると、裸形の女の前に立ち、目にも留まらぬ手さばき
でその乳房の真ん中を貫き、首をはねた。黒髪を散らした頭部はごとりと重い音をたてて
転がり落ち、わずかな緑色の血が糸を引いた。
『ああ、愛しいお方』
 地面に落ちた頭が哀れな声で嘆いた。
『これがあなた様をお慕いする女にお与えになる口づけですの?』
「アルカード、離れて!」
 イリーナの悲鳴のような警告より早く、アルカードは大きく飛び離れて剣をたてて
身を守った。打ち下ろしたユリウスの鞭が鉄枷のようにアルカードをとらえようとした
首なしの女の両腕を寸断し、胴体を大きく切り裂いた。ざらついた、錆びたおびただしい
釘を一斉にこすりあわせるような苦鳴とも怨唆ともつかぬ声が、地の底から響いてきた。
『無礼な虫けらども』
 すでに女のものではないその声は地獄の憤怒を煮えたぎらせていた。
『高貴なお方に与えられる傷ならばまだしも、このわたくし、闇の宮廷にて讃えられる
女伯爵ムタルマに、卑しい猿の分際で刃向かうか。この傷の礼、どれほどにして与えて
くれるか見るがいい』
 ユリウスの目の前で寸断された女体はぐにゃぐにゃと輪郭を崩し、紫色の肉となって
爬虫類の舌と一体化した。目まぐるしく色を変えるカメレオンの巨大な目は狂ったように
蠢き、ひび割れた喇叭のような声をとどろかせた。うねうねとのたくる舌の先がぶくりと
膨れ、人間に似た頭の形を作りだした。まるい頭に蛾の触覚と複眼、ずらりと牙の並んだ
巨大な口をもつ、女とも昆虫ともつかぬ頭部。

151煌月の鎮魂歌8 17/29:2016/01/16(土) 18:42:37
『この姿を見せたからには、貴様たち、生かしては返さぬ』
 火を吐くように言い捨てると、メキメキと樹木がきしんだ。
 中途で断たれていた前脚から緑の粘液がしたたり、すみやかに新しい脚を作り上げた。
ずしんと地面を踏みならした怪物は、その巨体から考えれば驚異的な早さで木々の間を
すべり抜け、ユリウスたちに這い寄った。押し分けられた樹木が葦のように左右に倒れ、
根こぎにされた株が土をまき散らして次々とはね飛ぶ。鼓膜に釘をつきたてるような狂笑
を放ちながら、昆虫の目をした女の頭がぐるりと回転した。爬虫類の背で髑髏蛾の翅が
逆立ち、震え、文様の髑髏が歯を鳴らして地獄の門を開こうとする。
「禁!」
 澄み渡った声がして、二条の光が翅めがけてとんだ。
 今にも開こうとしていた髑髏のあぎとは白い光を放つ二枚の長方形の符によって閉じ
られ、それ自体苦しみもがくかのように悶えたかと思うと、吐き出してきた毒蛾どもと
同じく塵になって四散した。
「遅れて申し訳ありません。結界を安定させるのに手間取りました」
 白馬崇光が青白い顔をして立っていた。髪は乱れ、血の気のない唇を強く引き締めて
いるが、胸の前にトランプのカードのように何枚も広げた呪符は小揺るぎもしない。
「まさかこれほどの大物が侵入しているとはね。屋敷に帰ったら、それこそ結界班を
総動員して全結界の再チェックと強化をしなければ」
 翅を失った爬虫類が咆吼し、女の頭部が異界の言語であろう耳障りな言葉で狂ったよう
に叫んだ。両方の鼓膜に錆びた釘をつっこまれたようだ。ユリウスは目の前に黒い点が
飛び交うのをこらえて、聖水のアンプルを口に含んで飲み下した。これで三本。
 あと四本。
 地獄のトカゲが身をうねらせて突進する。ユリウスは身をひねり、頭部をねらうと
見せかけて皮のたるんだ腹部を狙って鞭をとばした。剃刀のような鞭先が正確に急所を
直撃し、怪物はその場で立ち止まって頭を振り立てて足踏みした。地面が揺れる。まるで
地震のような揺れにふらついたとたん、「トト!」と叫ぶイリーナの声がした。

152煌月の鎮魂歌8 18/29:2016/01/16(土) 18:43:11
 たちまち地震は静まり、代わりに獣の眼前に轟音をたてて岩と土の衝立がせり上がる。
ポシェットから首を出している黒い亀を片手で押さえて、イリーナは肩で息をしていた。
「イリーナ、無理をしてはいけません。あなたは体力が──」
「ここでこいつを止められなかったら体力なんて意味ないわ。バーディー! ニニー! 
ティガー!」
 肩をつかもうとした崇光を乱暴に振り払い、かすれた声をイリーナは振り絞った。岩を
踏み砕き、土を突き崩して怪物の醜怪な頭が迫ってくる。
 無我夢中でユリウスは動いた。頭上で竜がとどろく雷鳴とともに稲妻を降らせ、白い
巨虎が爪と牙をむき出しにして隣を走る。
 闇を裂いて烈しい炎が筋を引き、目まぐるしく色を変えるカメレオンの片目を
焦がした。電光のまといついたユリウスの鞭がその傷をえぐり、虎の牙と爪が生き物で
あれば脳髄に達するほどに深々と突き刺さる。
 黒いマントが翻り、月光の髪が頭上をこえていった。片目を潰されてもがく怪物の鱗
におおわれた首に剣がひらめき、直線を描いた。前進しようとする怪物の身体が一瞬
ずるりとずれ、醜怪な頭部とのたうつ紫の舌が地面に転がり落ちた。
『お恨みいたしますわ、公子様──』
 ひくつく舌の先で女の頭が嘲笑のようにささやいたかと思うと、いきなり舌だけが蛇
のように伸び上がった。
 溶けて消えていくトカゲの頭をあとに残して襲いかかる。ゆく先はアルカードだった。
蛾の女の頭は多面体のガラスめいた複眼に情欲の緋色を走らせ、牙だらけの口を悪夢の
ような微笑にゆがめていた。
 アルカードは真っ向からひと太刀で真二つに切り払ったが、切られて左右に分かれた
怪物は、そのまま二つのまったく同じ頭になり、あっという間にアルカードの全身を
からめとった。
「アルカード!」イリーナが悲鳴をあげ、崇光が低い罵りめいた言葉を呟く。アルカード
はもがいたが紫色の肉の蛇はゆるまず、剣をにぎった腕は身体の横に縛りつけられて
動かせない。じりじりと脚が地面を離れ、アルカードの身体は宙に浮いた。

153煌月の鎮魂歌8 19/29:2016/01/16(土) 18:43:44
 ユリウスはがむしゃらに鞭を打ち振るったが、魔界の生命力を結集した肉の蛇はびく
ともしなかった。女怪の頭は二つの驕笑をあわせて、アルカードの頬にすり寄る。
『これほどお慕いしておりますのに、なんとつれないお方でしょう』
『ああでも、やはりお愛しい。美しいお方、尊い魔王のお世継ぎ』
『憎いのはその人間の血、汚らわしくも温かい、甘美な血』
『さあ、その血を流し出し、わたくしと愛の抱擁を』
『麗しき、闇の若君よ──』
 女の口が開き、さらに開いた。おぞましい大アナコンダの口のように顎骨がはずれ、
膜が広がってずらりと並んだ牙が見えた。
 そこから濃い血色をした蛭のようなものがのたくり出てきた。懸命に顔をそむけ、
身をもぎはなそうとするアルカードの白い首筋にいやらしい蛭が迫っていく。蛭の先端
には円形の口が開き、口しかなかった。ある朱の吸血鰻のように円形にずらりと並んだ
棘が蠢き、獲物の肌を裂いて流れ出る血を吸い尽くそうとしている。
「アルカード!」
 イリーナが笛のような悲鳴をあげている。それとも怒号なのだろうか。目のはしに
ちらりと見えた少女の顔は涙にぬれて蒼白だった。天上からひらめく青い稲妻が幾条も
地面を打ち、炎の筋が乱れ飛ぶ。巨虎が牙をむきだして飛びかかり、のたくりながら
這いずってきた頭のない爬虫類の身体にはじき返される。首をなくしても身体は身体
のみの生命を保っているかのように動き続け、盛り上がる岩を踏みつぶし、稲妻に
巻かれても耐え、炎に鱗を焦がされても止まろうとしない。
「禁! 正! 抑! 停! ……」
 崇光が続けざまに札を放つが、やはり封術師である彼の術では怪物の進行を止める
ことしかできない。ユリウスはちぎれるように痛む筋肉にかまわず打撃をとばしたが、
それもまた、爬虫類の身体にはばまれてアルカードには届かない。
 おぞましい蛭の口がアルカードの喉に触れる。
 ユリウスは自分が何か叫んだと思った。

154煌月の鎮魂歌8 20/29:2016/01/16(土) 18:44:36
 思っただけで、声にはなっていなかったかもしれない。一瞬あたりの音が消え、稲光
や炎のすさまじい乱舞も消え、手の中にある鞭の感触だけが鋭利な剃刀のように感じ
られた。
 そしてアルカード。
 けがらわしい女妖に抱きすくめられてがっくりと仰のいた、アルカードの白い横顔。
 懐に固いものがある。聖水の入ったアンプル。
 ほとんどなにも考えず、ユリウスは残った四本のアンプルをまとめてつかみ出し、
力をこめた。ガラスのアンプルは拳の中で砕け、破片が深々と手のひらに食い込む。
血と聖水の混じったうす赤い液体が流れ、たらたらと鞭の柄に、身に滴った。
 急速に世界に音が戻ってきた。ようやくユリウスは自分の発している咆吼を聴くこと
ができた。嵐のように打つ心臓も、ぎりぎりときしむ骨も筋肉も、すべてが限界まで
引き絞られる。
 聖水とベルモンドの血に濡れた鞭が、聖者の大剣のようにまっすぐに振りおろされた。
 首のないカメレオンの身体はあっさりと二つに裂けた。蠍の尾がひきつり、割れた切断
面にぞっとするような内臓と漿液のつまった袋が見えたが、それもたちまち塵となり、
あっけなく崩れて形をなくしていく。
 妖女の顔が引きつった。アルカードの喉にへばりつきかけていた蛭めいた舌は垂れ下
がり、死んだ蚯蚓のように垂れ下がった。おぞましい抱擁がとけ、アルカードは地面に
転がって倒れた。
『おのれ……ベルモンドの男……またしても──』
 しゃべった妖女の口から、ちぎれて落ちた蛭の舌が灰になって散った。
『呪わしきはベルモンド……だが魔王様のご復活は必ず……必ず──』
 ひとつの頭が内破するように潰れ、もう一つもあとを追った。腐った肉の悪臭が瞬間
あたりに漂い、夜風に吹き散らされた。わずかに紫色の塵が執念のようにアルカードに
まつわりつこうとしたが、すぐにそれも崇光の鋭い気合いひとつに吹き払われた。
 ユリウスは凝固したように立ちつくしていた。たった今、全身を駆け抜けた蒼白い炎、
これまで経験したどのようなエクスタシーよりも強烈なパワーの渦に文字通り金縛りに
なっていた。

155煌月の鎮魂歌8 21/29:2016/01/16(土) 18:45:17
 それはユリウスの精神と肉体を内面から焼き尽くし、何かまったく新しいものに生まれ
変わらせたかのようだった。まったく新しくなった視覚で、ユリウスは周囲を見回した。
 闇が透明なガラスのようだった。それまで沼の底も同じだった闇は清澄に澄みわたり、
あらゆるものがはっきりと感じられた。視覚のみならず聴覚、嗅覚、触覚が、これまでの
レベルではなく強烈に冴え返っていた。傷ついた手から血がこぼれ、熱湯に漬けたような
痛みが肘のあたりまで上ってきていたが、夜という言葉、闇というものに抱いていたもの
が一気に塗り替えられた衝撃に、海を初めて見た少年のようにユリウスは新たな闇の世界
に吸い込まれるように見入った。
「アルカード!」
 イリーナがわっと泣き出した。ユリウスは殴られたようにふらついて我に返り、
アルカードを振り向いた。
 金の籠柄の細剣が草の上に転がっている。うつ伏せになったアルカードはぴくりとも
せず、こちらになかば向いた顔はぞっとするほど色がなかった。
 年相応の、身も世もない泣き方で泣きじゃくりながら、イリーナが動かないアルカード
に駆け寄る。竜も白い虎も消え、サファイア色の光がまっしぐらに降りてきて、少女の
手首に巻きついた。白い虎猫と赤い小鳥が、あわてたように鳴き騒ぎながら少女の周囲を
飛び回っている。
「アルカード、しっかりして、アルカード!」
 銀髪の青年にすがりついているのはいつもの女王然とした態度などかなぐり捨てた、
幼いひとりの少女だった。青ざめた顔をのけぞらせているアルカードのマントを握り
しめて、懸命に息を計ろうとしている。
 ユリウスはよろめくように近づいた。急ぎ足に寄ってきた崇光がかたわらに膝を
ついて、傷の様子を調べている。抱き起こすと、むきだしになった喉に、円形に針を
刺したようにぷつぷつと穴があいて血がにじみ出していた。あの妖女に吸いつかれ
かけたあとだろう。
「泣かないで、イリーナ、心配ありませんから」

156煌月の鎮魂歌8 22/29:2016/01/16(土) 18:45:58
 しゃくりあげる少女の背中をさすりながら、なだめるように崇光が言い聞かせていた。
「毒は残っていないようですし、ただ気を失っているだけです。やはり新月にアルカード
を戦わせるべきではありませんでしたね。どうやら相手は、魔王復活の前にあわよくば
彼を我々から奪い取るつもりだったらしい。確かにそれをやられれば致命的だ」
「なにやってるの、ユリウス、早くこっちへ来て!」
 泣いていたイリーナがきっと顔を上げ、ユリウスのコートの袖を乱暴につかんで
ひっぱった。たたらを踏んでユリウスは膝をついた。まだ先ほどの力の噴出にくらくら
して頭がうまく働かない。
 地面に寝かされたアルカードの顔はいつもにも増して白い。妖女のいまわしい口づけ
の痕から細く血が流れている。
「アルカードに血をあげて、早く! 新月で彼は弱ってる、でもベルモンドの血なら、
誰よりも強力なベルモンドの血なら──」
「待ちなさい、イリーナ!」
 かがみ込んでいた崇光がはっとしたように手を伸ばした。
 だがすでにユリウスは、涙声のイリーナに引っぱられる形でアルカードの唇の上に
手を差しだしていた。
 アンプルの破片がいくつも食い込んだ手のひらから、血が筋をひいて流れ落ちる。
 濃い真紅の血がひとすじ、色を失ったアルカードの唇に流れこんだ。
 アルカードは意識のないままかすかに唇を動かし、血を含んだ。流れる鮮血が、
アルカードと自分を真紅の糸のようにつないだ。
 唇がわずかに動いた。
 アルカードはばね仕掛けのように跳ね上がった。
 突き出された腕が避ける間もなくまともにユリウスの胸にぶつかった。ユリウスは
たわいなく後ろに倒れた。尻をついたまま、ユリウスはくらむ視界にアルカードを
とらえた。
 こわばった頬が震えていた。かすかに血の残った唇がわななき、たった一つの言葉
を呟いた。

157煌月の鎮魂歌8 23/29:2016/01/16(土) 18:46:57
「嫌だ」
 見開いたままの瞳からつっと涙がこぼれた。赤い涙、血の涙だった。
 ユリウスはそれを、たった今自分が口に垂らし入れた血そのものと感じた。ユリウスの
血を体内にとどめておくことが耐えられないとでもいうように、涙は白い頬を伝って
地面に滴った。
「嫌だ」
 もう一度呟くと、アルカードは力なく目を閉じ、かたわらの崇光の腕にぐったりと寄り
かかった。
「ど、どうしたの、アルカード」
 予想外の反応に、イリーナが泣きやんでおろおろとスカートを揉み絞っている。
「あたし、あたし何か悪いことしたの、何かいけないこと──」
「いえ、大丈夫ですよ、イリーナ。あなたは悪くない」
 ため息まじりに崇光は言い、意識のないアルカードの目尻をぬぐって赤い涙を拭くと、
唇を開かせて、その上に指を持っていった。
 親指と人差し指を絞るようにあわせると、その間から一滴の血が絞り出され、アルカー
ドの唇に消えた。アルカードは苦しげに眉根をよせて頭を振ったが、やがて、小さく喉を
鳴らして血を飲み込んだ。
「これでしばらくは大丈夫でしょう」
 アルカードを人形のように抱え上げて崇光は立ち上がった。
「本家に式を飛ばしました。まもなく迎えが来るはずです。戻ったらすぐに、本格的な
処置をしなければ。あなたもですよ、ユリウス」
 見返った目にはどんな表情も読みとれなかった。
「その手はかなりひどい。瘴気の毒がまだ残っているかもしれません。浄化と治癒の処置
を、できるだけ早く。僕たちは、あなたまでも失うわけにはいかないのですから」
「──あいつは誰だ」
 まだ呆然としたまま、ユリウスは呟いた。
 真紅の血の糸がアルカードと彼をつないだ瞬間、心にひらめいた映像があった。

158煌月の鎮魂歌8 24/29:2016/01/16(土) 18:47:31
 一本の蝋燭に照らされた、石造りの部屋。昔風のベッド。乱れたシーツと、その上に
横たわって目を閉じる、日に灼けた肌のたくましい男。
 男らしく整った顔は静かで、誰かをたって今まで抱いていたかのように右腕を広げ、
濃い褐色の髪は奔放に乱れている。閉じた左目の上には縦に長く傷跡が走っている。何か
楽しい夢でも見ているのか、厚めの唇が幸福そうに微笑んでいる。筋肉の張った首筋に
二つの小さな針で刺したような傷があり、うっすらと血がにじんでいる。
 そしてそのかたわらに、アルカードがいる。
 黒衣のマントを後ろに引いて、何かに祈るようにひざまずき、シーツの上に両手を
組んで、食い入るように男を見つめている。きつく組み合わされた手の中に、何か光る
ものがある。金鎖のついた、ごつい印章指輪。明らかに、彼の細い指には大きすぎる、
金の指輪。
 赤い涙がすべり落ちてシーツに染みを作る。散ったばかりの赤い薔薇の花びらのように。
 声もたてずにアルカードは泣いている。眠る男を起こすことを恐れるように、ひっそり
と、音もなく。内心に荒れ狂う苦痛も悲嘆も孤独も、その身を千にも引き裂かれるほうが
はるかにましであろう、悲しみのすべてを飲み込んで。
 ほんの瞬きの半分ほどの幻視だったにもかかわらず、ユリウスにはそれが過去に現実に
あったことだとわかっていた。誰だ、と口にはしたものの、その男が誰なのかもすでに
理解していた。
「あいつは──俺、は……」
「あなたには関わりのないことです」
 崇光の声は変わらず平坦だった。
「さあ、早く。イリーナももう限界に近い。早く屋敷に戻らなければ、ここで第二陣に
でも襲われたら、抵抗もできないまま潰されますよ」

159煌月の鎮魂歌8 25/29:2016/01/16(土) 18:48:07
              4

 十分とたたずに迎えがきた。車を先導していた金色に光る紙人形をとらえてふところに
しまうと、崇光はユリウスたちをせきたてて車に乗せた。来るときあれだけ走ったのに
迎えが来るのは十分とはわけがわからなかったが、おそらくこれも崇光の言う『経路』
のひとつなのだろう。
 座席に収まるとイリーナはすぐに眠ってしまった。人事不省の深い眠りで、四匹の
おともも少女に身をすり寄せて眠り込んでいる。さすがにこの戦いは幼い少女には酷
だったようだ。
 ユリウスの手足も鉛を詰めたように重い。ともすれば降りてこようとする瞼と必死に
戦いながら、それでもユリウスはリアシートに寝かされて崇光の処置を受けている
アルカードから目を離さなかった。
 崇光もまた疲労の色が濃く、目の下にくっきりと隈を浮かせていたが、アルカードの
上を動く手は遅滞なかった。小さく呪を呟きながら指をそろえて印を切り、人型に切った
紙で魔物に受けた傷をたどる。いつもなら目に留まるほどの時間もあけずにふさがって
しまう程度の傷はいつまでもじくじくと血をにじませていたが、やがて人形が黒ずんだ
血の色に変わり、車がベルモンド家の車止めに停車するころには、ようやく小さな赤い
痕が残るばかりになっていた。夜はすでに開けかけており、わずかな暁光が屋敷の石造り
の屋根にさしそめていた。
「治療者と、念のために祓魔術の処置を」
 まだ意識のないアルカードを座席から抱き下ろし、運転手に命じてイリーナもつづけて
降ろさせながら、崇光はそれだけ言った。
「アルカードは僕がこのまま診ます。イリーナは部屋へ運んで、眠らせてやって
ください。ユリウス、君はその手の治療を。かなり深く切っているはずだ。瘴気の
毒の対策も受けておきなさい」
 言い争うにはユリウスは疲れすぎていた。アルカードは透き通りそうに白い顔のまま、
どこか苦しげに眉をよせて崇光の胸に頭をもたせている。手がふいに、思い出したように
うずき始めた。

160煌月の鎮魂歌8 26/29:2016/01/16(土) 18:48:43
 無表情な医師と、続いてやってきた顔も知らない能力者の処置を受ける間、ユリウスは
彼にしてはありえないほど静かだった。だが心の中では嵐が吹き荒れていた。処置が
終わって解放され、自室のベッドに身を投げ出したとたん、脳裏にあの蝋燭に照らされた
部屋の光景がぐるぐるとめぐり始めた。
 自分が眠っているのか起きているのかわからなかった。悪夢のような迷宮を、ユリウス
はどこまでもさまよった。何度もあの光景が、古風なベッドに眠る男とそのそばに身を
寄せるアルカードが、その目から流れ落ちる血の涙が、あらわれてユリウスを苦しめた。
 どれほどそこに近づこうとしても、いくらあがいても、小さなその光はますます遠く、
いつまでも手の届かない場所にあって、ユリウスの侵入を拒否していた。
 いや、拒否ならばまだよかった。最初から彼らにとって、ユリウスなど存在しても
いなかった。彼らはただ彼らだけの小さな世界に住んでおり、それ以外の人間など
はじめから居はしないのだ。
 そこはあまりにも完璧で、完璧すぎたが故に壊されたのだ。エデンの園がいつまでも
楽園ではいられなかったように、最高位の天使と讃えられたルシフェルが天から墜ちて
悪魔と呼ばれたように、完璧にすぎるものはいつか崩れ去ることによってその完璧さを
完成させるのだ。
 自分がアルカードにした仕打ちも現れたが、それは影よりも薄く、すぐに雪の一片の
ように溶けて消え去っていった。どんなに惨い仕打ちも、淫らな言葉も、屈辱も苦痛も、
すべてあの美しい月にとっては別世界の出来事にすぎなかった。彼が住んでいた、そして
今も住んでいるのはあの男と二人だけの世界、蝋燭に照らされた小さな箱庭の中。
 たとえユリウスがあの胸を裂き、ナイフで心臓をえぐり出したとしても、淡々と彼は
それを受け入れただろう。彼の心臓はそこにはないのだから。アルカードの心臓はいま
もあの男のそばにあって、終わりのない苦痛と悲傷に血の涙を流しつづけているのだ。
 ラルフ・C・ベルモンド。
 最初にアルカードと出会い、その身と魂に深い絆と消えない傷を刻み込んだ男。

161煌月の鎮魂歌8 27/29:2016/01/16(土) 18:49:18
 なかば夢見、なかば目覚めながら、ユリウスはベッドの上でのたうち、呪いの言葉を
吐いた。目覚めたばかりのベルモンド家の力が体の中で言うことをきかない獣のように
暴れ回っていた。あの男の中にも宿り、血を通じて連綿とユリウスまで受け継がれて
きた、退魔の力が。
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
 幾度かそんな言葉を吐いた。どんな時だったかもう覚えていない。裸体に剥かれた
アルカードを、かんしゃくを起こした子供のようにもみくちゃにして犯しながら叫んだ
気がする。
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に
流れてるベルモンドの血だけなんだ、この雌犬が』
 その通りであることを、まざまざと目の前につきつけられた思いだった。アルカード
が取り乱したのはたった一度だけ、あの指輪を、あの男の形見であるあの印章指輪を
奪われた時だけだった。今となってはその理由もわかる。彼にとってはあれは、心臓
の一部をむしりとられるに等しい行為だったのだ。なぜ彼が黙って指輪を手放したのか
信じられない。取り戻そうとすらしないことも。ちぎりとられた傷口は、見えない血の
涙を流していまこの時も泣き続けているのだろうに。
 ──汗まみれになり、胸を大きく上下させながらユリウスは天井を見上げて横たわって
いた。
 いつのまにかまた日が暮れていた。窓の鎧戸はおろされて、ベッドサイドのランプだけ
がぼんやりと灯っていた。
 シーツは汗で冷たく、力に煽られた身体は炙るように熱い。ランプの橙色の光があの
静かな小さい世界を照らす蝋燭を思い起こさせ、目を腕で覆って顔をそむけた。
 手に巻いた包帯が自然にほどけて落ちた。傷はきれいに癒え、何のあとも残っていない。
 喉がひりついた。枕もとに用意されていた水差しの中身をひと息に飲み干し、溺れる
もののようにあえいだ。一日以上なにも口にしていないはずだったが、空腹は感じ
なかった。体内を荒れ狂うベルモンドの血、あの男から受け継いだ呪わしい力が、飢え
を感じなくさせていた。

162煌月の鎮魂歌8 28/29:2016/01/16(土) 18:49:54
 くしゃくしゃになったシーツを押しやり、身を起こす。サイドテーブルの引き出しを
あけて、中をさぐった。鎖のついた重い金属に指が触れる。つまんで、引き出した。
すり減って傷だらけの古びた金の指輪が、なにかの死骸のように重く手の上に転がった。
 橙色のランプの光がその表面に揺れた。一瞬、頭の奥でこぼれる赤い涙と眠る男の姿
がフラッシュした。衝動的に立ち上がり、窓を開けると、外の真っ暗な夜に向かって、
指輪を投げつけようとした。
 だが、できなかった。片手を振りあげた姿勢のままユリウスはしばらく硬直し、身を
震わせていたが、やがて疲れ果ててベッドに崩れるように腰を落とした。開いた窓から
夜の風と気配が流れ込んでくる。
「……嫌だ」
 ユリウスは呟いた。それはアルカードが彼に向かって呟いたものと同じだった。嫌だ。
嫌。絶対的な拒否の言葉。いまだかつてアルカードが口にしたことのなかった言葉。
「嫌だ。放してなんてやるもんか。絶対に放しゃしない。あいつは俺のものだ。俺の
ものなんだ。何百年も前に死んだ男のものなんかじゃない。あいつは俺のだ。俺の、
ものなんだ……」
 握りしめた拳に力をこめる。赤い髪が垂れ、血の出るほどに唇をかみしめるユリウス
の若い顔を隠した。わななく手の中で、金の古い指輪が人肌に温められ、ゆっくりと
ぬくもっていった。

163煌月の鎮魂歌8 29/29:2016/01/16(土) 18:50:52



 ──森の奥で、小さく蠢くものがあった。
 芝草の影から、それはほとんど闇にとけ込む昏い色の翅で舞い上がった。小指の爪を
あわせたほどの、小さな小さな黒い蝶。
 蝶はよろめくように木々のあいだを抜け、ときおり地面に落ちそうになりながらも、
まっしぐらにある場所をめがけた。
 ベルモンド家の屋敷は、静かな夜の中に堅固な城として建っている。蝶は風にまぎれる
ようにその中へと吸い込まれていった。
 人目に止まらぬ影をくぐり、闇を抜け、明かりの届かぬ片隅を抜けて、蝶はついに
ひとりの婦人にたどりついた。旧式な形に結い上げた白髪の髷の中に吸い込まれる
ように潜り込む。
「……そう」
 やがて、婦人は独り言のように言った。
「あの男はベルモンドの力に目覚めたの。なんとおぞましい。計画を進めなくては
ならないわ。ラファエル様のために。ラファエル様のために」
 彼女は立ち上がり、軽く髪を直すと、黒いドレスの裾を鳴らしながら茶器を片づけ
始めた。そばのベッドに眠る金髪の少年をちらりと見やる。車椅子は隅に片づけられ、
大きな枕の上には眠りに落ちる直前まで読んでいた、騎士物語の書物が開いたままになっていた。
 茶色く灼けたページには、薔薇の絡む塔に閉じこめられた乙女と、そこへ向かって
馬を走らせる、凛々しい騎士の木版画があった。
 ボウルガード夫人は書物を取り上げ、書棚の所定の位置にきちんと片づけた。
 少年の寝息を確かめ、肩にかかった毛布をかけ直す。灰色の目は常と変わらず、沈着に
澄み切り、ほぼなんの感情も浮かべてはいなかった。

164煌月の鎮魂歌9 1/22:2016/06/18(土) 06:00:09
 Ⅳ  1999年 五月

            1

 ユリウスはゆっくりと階段を下りていった。
 先に立っている崇光のひょろりとした背中が一定のリズムで左右に傾く。地下へと
下ってゆく螺旋階段は際限もなく感じられ、足の下に長年の行き来によって踏みけず
られた段はわずかに中央部がくぼんでいる。壁のところどころには弱々しいライトが
灯っていたが、おそらくは、それらは以前は古めかしい松明にすぎなかったのだろう。
湿った冷たい石壁にはいまも積み重ねられた月日の垢のように黒く煤がこびりつき、
文明などというよわよわしい代物が投げるうすっぺらな光を嘲笑するかに思える。
 ベルモンド家の最奥、多くの守護者と使用人たち、そして誰よりも、家長である
ラファエル少年に守られた聖所。
 自らをベルモンド家の人間とは考えたくないユリウスではあったが、そこへ足を踏み
入れるための資格、ヴァンパイア・ハンターとしてのベルモンド家の血をその身に継い
でいることは、どれほどラファエルが怒ろうと否定しようのない事実だった。
「だめだ」
 少年は言い張った。興奮するあまり血の気のない頬はほてり、車椅子にかけられた膝
掛けがずり落ちそうになっている。
「アルカードがあんなに傷ついたのはお前のせいなんだ。お前みたいな素人を連れて
いったから、あんなに彼が傷つかなければならなかった。彼に会う資格なんてお前には
ない。僕はお前をベルモンドだなんて認めない。聖所の扉はお前のためになんか開か
ないぞ、ならず者め。とっとと出て行って、自分に似合ったネズミ穴に帰ってしまえ」

165煌月の鎮魂歌9 2/22:2016/06/18(土) 06:01:26
 地下へと続く両開きの大扉の前に、異母兄弟はまるで不倶戴天の敵のように向かい
合っていた。少なくとも、ラファエルの方はそうだった。少年はいま、半吸血鬼の公子
が地下のもっとも魔力の強い場所で眠りについていることについての全責任を、ユリウス
にかぶせるつもりでいるようだった。この少年にとってかの銀髪の麗人以上に大切な人間
などこの世に存在しないのであり、それに対して、突然現れた異腹の兄──兄とは断固と
して認める気がなくとも──は、あくまで自分から聖鞭と、何よりも公子を奪い、蹂躙
した許すべからざる敵にほかならなかった。
「帰ってもいいが、それじゃあんたたちが困るんじゃないのかい」
 自分でも思っていなかったほどおだやかな声が出た。ラファエルは言葉につまり、のど
の奥で唸ってますます頬に血の色を上らせた。そばに控えたボウルガード夫人が身を屈め
て膝掛けをとりあげ、丁寧な手つきで幼い主人の膝にかけなおした。
「俺だってここに喜んで連れてこられたわけじゃないのを忘れるなよ。俺がいなくなった
ら例の鞭を使う人間がいなくなる、そうだろう? だったらあんたがいくら吠えたところ
で俺の要求は通さざるを得ないわけさ。それに俺はなにも悪いことをしようとしてるん
じゃない。あんたが言うように、アルカードが傷ついたのが俺の責任だっていうのなら、
見舞いのひとつもしに行くのが筋ってもんだろう。これでも心配してるんだぜ、なんたっ
て、あいつは俺の可愛い雌犬だからな」
 最後の一言は残酷な意図を持ってつけ加えられた。その意図は当たった。少年は真っ赤
になり、それから紙のように蒼白になった。
「お前が」
 怒りのあまり、少年の両手は車椅子の肘掛けの上で筋張った骨の形をくっきり浮かせて
震えていた。
「お前が、お前なんかが、そんな口を、彼に──」
「ラファエル」
 落ち着いた声が割って入ったのはその時だった。白馬崇光が、誰にも気づかれないうち
に影のように滑り込んできていたのだった。
「彼を聖所へ連れて行きます」

166煌月の鎮魂歌9 3/22:2016/06/18(土) 06:02:03
「崇光!」
 ラファエルは叫んだ。
「僕は許さないぞ、そんなことは断じて」
「彼がこの扉をくぐる資格を有していることは確かです」
 周囲でどちらの味方にもつけず、おろおろしていた使用人たちの腕をするりとくぐり抜
けて、崇光はユリウスの隣に立った。
「彼に、ベルモンド家にとってアルカードがどのような存在であるか、知らせておくのも
この際必要なことでしょう。累代のベルモンドたちが彼をどのような思いで見守ってきた
のか、彼に負わされた運命がどれほど重いものか、ベルモンド家の者として、彼とともに
魔王を封印し、すべての運命から彼を解放することがどれほど大切なことか」
 ユリウスはじろりと頭一つ低い日本人青年を見下ろした。
 長髪を後ろでひとつにまとめ、丸い眼鏡をかけた青年神官の表情は、いつも通り読みづ
らかった。暗い照明がレンズに反射し、その奥の目の色をさらに読みづらくしていた。
「それに、忘れないでください、ラファエル。彼が言ったとおり、彼以外に〈ヴァンパイ
ア・キラー〉の使い手たる人間はいないのです。あなたにとってはどうしようもなく辛い
事実でしょうが、認めるほかありません。そして今のところ彼は、それなりの実力をもっ
ていることを証している」
 眼鏡がわずかに傾き、切れ長の目が一瞬するどい一瞥をユリウスに投げた。ユリウスが
負けずににらみ返すと、青年は何事もなかったようにまたラファエルの方をむいた。
「先日の敵の侵入は、僕にも予想外でした。あれほどの高位の妖魔が襲撃してくること
も。素質の足りないものであれば、あの夜に一瞬にして死んでいておかしくないのです。
しかし彼は生き延び、怪我もなく、この場に自分の足で立っている」
「アルカードを犠牲にしてだ」
 叫ぶようにラファエルは言った。
「そいつをかばったために、アルカードはまだ眠り続けて目覚めないんじゃないか。もう
あそこに入ってから十日近くたつのに、そいつが無能だから、だから」

167煌月の鎮魂歌9 4/22:2016/06/18(土) 06:02:37
「あなたがそう思いたいのと、現実とは同じではないのですよ、ラファエル」
 なだめるように崇光は言った。
「現実の彼は無能にはほど遠い。僕はこの目でそれを確認しました。アルカードもそうと
認めたからこそ、彼を鞭の保持者候補として選定しているのです。彼を見つけ、使い手と
して連れてきたのは他ならぬアルカードであることを忘れないでください。彼は単に
ベルモンドの血が入っているからというだけの理由で、余所で好き勝手に生きていた
ギャングのボスをここに引っ張り込んでくるような考えなしではありません」
 あるいは崇光はユリウスをも怒らせるつもりだったのかもしれないが、そのような
言われ方はこの屋敷に連れてこられてから、ユリウスにとっては聞き飽きすぎてそよ風
ほどの効果ももたらさなかった。
「それで、結局どうなんだ?」
 わざとらしくあくびをかみ殺して、ユリウスは腕を組んで退屈そうなポーズをとって
みせた。
「いつまでもここのドアマットの上でキャンキャン吠えあってなけりゃいけないのか? 
面会謝絶ってならそう看板を出しといてもらいたいもんだ。それだって、まともな病院
なら身内の人間くらいは入れてくれそうなもんだが。ま、あんたたちとしちゃ俺のこと
なんぞ身内と認めたかないのは承知してるがね、こっちはこっちで、権利ってやつがある
なら最大限使わしてもらう主義なんだよ。ひょっとして、ここで鞭の腕前を披露して、
その大仰な扉をぶち破ってみせなきゃいけないのかね?」
「そんなことをしてみろ、僕がこの手で──」
「もうおやめなさい、ラファエル」
 静かな、だが有無をいわさぬ口調で崇光がさえぎった。

168煌月の鎮魂歌9 5/22:2016/06/18(土) 06:03:10
「彼は資格を有しています。であれば、いかにあなたがベルモンド家の当主であろうと、
この場では鞭の使い手の──鞭に認められるまではあくまで候補であるとはいえ──彼の
意向が優先されます。ボウルガード夫人」
 ボウルガード夫人は黙って一礼し、抗議するラファエルの車椅子を押して、扉の脇へと
退かせた。使用人一同も、ざわざわと押し合いながらいっしょになって後ろへ下がる。
「やめろ! 行かせないぞ、僕は──」
 車椅子から落ちそうなほど身悶えし、ままにならない体を必死によじりながら、ラファ
エルは悲鳴のような声をあげて金髪を振り立てた。
「貴様、アルカードにこの上何かしてみろ、僕は、僕がきっと」
「彼はアルカードになにもしませんよ、ラファエル。そうですね? ユリウス」
 またちらりと向けられた一瞥には、底知れない冷たい光と力が宿っていた。ユリウスは
ただ肩をすくめるだけにとどめた。
「また僕が同行するかぎり、そんなことは誰にもできませんし、させはしません。聞き
わけなさい、ラファエル。あなたはそんな愚かな人ではなかったはずですよ」
 ラファエルは頭が膝につくほど身を折り曲げ、低い呻き声を漏らした。
 かすかにきらめいたのはこぼれ落ちた涙の粒のようだった。ボウルガード夫人は脇の
使用人から受け取った上着をラファエルの背中に着せかけ、少年の震える細い身体が
すっかり覆われるようにきちんと整えた。
 もうそれ以上頓着することはせず、崇光はユリウスの先に立って、鉄と青銅で護られた
大扉の前に進んだ。
「ではユリウス、これからあなたをベルモンド家のもっとも聖なる場所に案内します。
ここはベルモンドの血を継ぐ者、及び、彼らによって特別に許可された人間しか出入り
を許されない至聖所です。僕でさえ、先代当主によって許可されていなければ、ここには
一歩も足を踏み入れることができなかった。この扉をくぐるというのがどういうことか、
よく考えて前に進みなさい、いいですね」

169煌月の鎮魂歌9 6/22:2016/06/18(土) 06:03:46
「ごちゃごちゃ言わずにとっとと開けろ」
 それだけ、ユリウスは答えた。
 崇光はしばらく扉に手をかけたまま、量るように赤毛の青年の横顔を眺めていたが、
やがて扉に向き直り、巨大な取っ手に手をかけて、引いた。
 非力そうなひょろりとした青年の手にもかかわらず、扉は動いた。地面の底からわき
あがってくるような軋みが、何者か地中深くに封じ込められたものの苦悶の声のように
とどろいた。緑青をふいた青銅の縁取りのむこうに、かすかな橙色の光に明るんだ、
うす闇が覗いた。
 声を殺してラファエルがすすり泣いていた。人ひとり通れるだけ開かれた扉の隙間を
崇光がくぐり抜け、続いてユリウスも歩を進めた。
 しめって冷たい地下の空気が頬をなでた。背後で扉がかすかな地響きと共に閉ざされ
た。ユリウスが立っているのは、どこまでも続くかに思われる、地下への螺旋階段の
頂点の小さな踊り場、その縁だった。

            2

 階段がついに尽きた。
 降りてゆく間、崇光は一言も口をきかず、振り返ろうともしなかった。ユリウスも
あえて話しかける必要は感じなかった。二人分の足音が気の遠くなるほどの長い縦穴に
反響しては消えていった。しんしんと二人はそれぞれ頭の中に唯一のものを思い描きつつ
進んだ。
 最底部はまた小さな踊り場になり、構えが上ほど仰々しくはない、両開きの質素な扉が
あった。見たところ、扉は扉だけでその場に自立しており、背後には壁もなければ部屋が
あるようにも見受けられない。ユリウスは答えを急かすように崇光を睨んだ。崇光は
あわてずさわがず、手をあげて扉の表面に手をあて、なんらかの言葉を二つ三つ呟いた。
 扉は開いた。というよりも、その場で霧のように薄れ、かわりに、扉に刻み込まれて
いた蔓模様がふいに生気を取り戻し、ほどけて、一気に空間全体に広がったように思えた。

170煌月の鎮魂歌97/22:2016/06/18(土) 06:04:20
 崇光は猫のようにそっと中に踏み入っていった。
 ユリウスも黙ってあとにつづいた。自然に足音をひそめる形になった。
 それを必要とさせる厳粛な静謐さがそこには満ちていた。これまで降りてきた長い長い
螺旋階段とは違い、ここには電気のライトなどという無粋なものは置かれていない。
かわりに輝いているのは、花だった。
 いちめんの薔薇の花。床を覆い、壁に交差し、天井からカーテンのように垂れている
エメラルドのような緑の枝とみずみずしい葉の間に、まばゆいほどに純白の大小さま
ざまな薔薇の花が咲き誇っている。
 ふっくらした花びらは露をたたえ、葉もしっとりとした霧にぬれていた。日光もなけ
れば通風も十分でないはずのこの深い地下の一室で、どうやってこのようなおびたたし
い薔薇が生気をたもっているのか、ユリウスには見当もつかなかった。
 足の下は石や人工の床ではなく、青々とした若草と、細い茎をからみあわせた小さな
野薔薇の茂みだった。
 そこここに、季節にはまだ少し早いクローバーの小さなまるい花が内気な乙女のよう
に揺れている。全体は月光めいた青い光に満ち、胸が痛むほどの静けさだった。
 その中央に、アルカードがいた。
 眠っていた。大きな天蓋つきの寝台に寝かされていたが、この寝台もまた、周囲の薔薇
にまつわりつかれ、まるで薔薇そのものでできているかのように輝いていた。
 天蓋からは細い薔薇の花綱が垂れ、あらゆるところから伸び上がった大輪の白薔薇が、
主人を気遣う子猫のように寝台の主のまわりを取り囲んでいる。露をおびた蔓と葉が
シーツの代わりに身体をそっと包み、眠る彼の組み合わせた手の上に、重なるように
かぶさっていた。

171煌月の鎮魂歌98/22:2016/06/18(土) 06:04:52
 白い顔はぴくりとも動かず、大理石でできた彫像のように完璧で冷たく、なめらかな
肌は死人よりもさらに蒼白だった。
 銀髪は滝のように流れて寝台の縁を越え、薔薇の蔓に支えられるようにして床へと
広がっている。長いまつげが疵ひとつない頬に透明な青い影を落とし、薄い唇は軽く
結ばれて蒼白の固さにのまれている。人間であるにはあまりに美しい顔は、超自然の
眠りにのまれることでさらに人間らしさを消し、遠い異教の神が魔法の眠りの中にいる
かのような近づきがたさを感じさせる。
 閉ざされたまぶたややわらかい巻き毛に宿るのは、薔薇の花びらよりもまだ繊細な、
あわく透き通る影だった。大小さまざまな薔薇の萼が眠れる主人を気遣う侍女のように
あたりに集い、侵入者たちを非難するかのように、いっせいに音のないさざめきを発した。
「おい……大丈夫なのか?」
 ようやく、ユリウスは言った。声を出すのにはそうとうに思い切る必要があった。それ
ほどこの静寂は聖なる威厳と緊張感に満ちていた。
 崇光は厳しい顔をしたまま返事をしなかった。ユリウスが同じ質問をもう一度繰り返し
てようやく、彼のほうをむいた。
「問題はありませんよ。一応はね」
 ひっかかる言い方をしやがって、とユリウスは思ったが、口には出さなかった。
「ここはベルモンド家の地所でももっとも強力な大地の力の集まる場所です。過去のベル
モンドたちはここに彼の故郷──ヴァラキアの土を埋め込み、その上で、さらに力の流れ
がこの一点に集約するように、何代もかけてここを築き上げたのです。彼がひどく傷つい
たとき、それに見合った治療の力を受けられるように。何百年もの戦いのうちには、アル
カードとて深く傷つくことがなかったとはいえない。彼の超人的な能力とはいえ、限界は
やはりあるのです。とはいえ」

172煌月の鎮魂歌9 9/22:2016/06/18(土) 06:05:27
 崇光はふと言葉を切って、ユリウスをじっと見つめた。
「今回のニュイ女伯爵とかいう妖魔相手でしたが──正直、アルカードがこれほど疲弊す
るような相手ではなかったと、僕は見ています。幼いイリーナが体力を消耗するのは必然
ですが、歴戦の戦士であるアルカードが、ここに入らなければならないほど力を弱められ
るのは、異常事態と言わねばなりません」
「だから、俺のせいなんだろ」
 不機嫌にユリウスは吐き捨てた。聞くところによるとイリーナは日課のお茶会をまだ休
んではいるが、ここ数日でベッドに起きあがって、あの女王めいた物腰で尊大にスコーン
とジャムにダージリンのポットを命じる程度には回復しているそうだ。また茶会への呼び
出しがかかるのも遠いことではなかろうと考えると憂鬱になる。
「ド素人の俺がついてったおかげで足を引っ張られて、こいつが重傷を負った。もう聞き
飽きてるよ。だからって、俺にどうしろっていうんだ」
「ラファエルはそう思いたがっているようですが、僕は賛成しません」
 そっけなく崇光は言い返し、眠るアルカードにゆっくりと歩み寄った。薔薇たちは不服
そうにざわめいたが、主治医としての彼が近寄ることは了解しているらしく、左右にわか
れて道をあけた。崇光は手を伸ばし、アルカードの動かない頬に慎重に指をふれた。
「あなたどころか、まったく戦力にならない一般人を抱えて戦う経験も、彼はいくつも
している。彼が五百年生き、その間ずっと闇の勢力と戦い続けていたことを忘れないで
ください。魔王その人とでさえ、二回までも相対して、一時の封印には成功している
のですよ」
 ユリウスは唇をかんだ。崇光は続けて、

173煌月の鎮魂歌9 10/22:2016/06/18(土) 06:05:58
「彼はもっとひどい傷やダメージからも回復してきましたし、これほど長い間ここで
眠り続けるほどの重傷ではないはずです。少なくとも記録に従えばそのはずだし、僕の
看立てでもそうだ。彼はとうに目覚めていておかしくはないし、そもそも、ここに入って
眠らねばならないような重大なダメージをうけたのは、これまでの歴史でも片手で足りる
ほどしかない。それもほんの一、二時間から半日というところで、こんなに長く眠り続け
ているというのは、明らかに異常です」
「じゃあ、いったいなんだっていうんだ」
「あなたは彼に血を与えましたね」
 断定するように崇光は言った。
 ユリウスは身がこわばるのを感じた。
 いくつもの言葉が喉に押し寄せたが、すべては舌の上で氷に変わった。
 あの一瞬の記憶が脳裏にまたたいた。泣き叫ぶイリーナと、指先から流れ落ちる血。
アルカードの唇に流れ込む真紅の滴。記憶の中で、粘る飴のように、落ちていく血は
とても遅く見えた。
 そしてその後に閃いた、遠い過去の光景──
「何をしたかが理解できているようでよかったですよ」
 ユリウスの沈黙を正確に読みとり、冷然と崇光は言った。
「ベルモンドの血は力に満ちている。アルカードとベルモンド家の関係を本当の意味では
知らないイリーナが、弱った彼にもっとも力あふれる血を与えようと判断したのは間違っ
てはいない。まああなたも、知らなかったのだから無理はありませんがね。見たのでしょ
う?」
 何を指しているかは言われるまでもなかった。ユリウスは声も出ないまま、わずかに頭
を動かした。

174煌月の鎮魂歌9 11/22:2016/06/18(土) 06:06:35
「これまでベルモンドの者が彼に血を与えたことがなかったとは言いません」
 と崇光は続けた。
「しかし、その場合、彼は何重にも用心し、けっして直接血を飲むことはなかったし、前
もってしっかりと精神を鎧って、記憶が呼び起こされることのないよう封じていました。
彼にとってあれはもっとも触れたくない、誰にも触れてもらいたくない秘密なのです。僕
がそれを知っているのは、ある事情から彼が話してくれたからにすぎない。その時で
さえ、彼の苦悩と悲しみは言葉につくせないほどのものでした。それを、ひどく弱って
いる時に直接あなたの血を口にしたことで、あまりにも生々しく、突然に呼び起こされて
しまったのです。彼の受けたショックがどれほどのものだったか、あなたに想像できますか」
 黙ってユリウスは唇をかんだ。しばらく返事を待つように口を閉ざしていてから、崇光
はまた続けた。
「ベルモンドの者は生涯に一度は彼に恋をする──そう言われています」
 ユリウスはびくりと目を上げた。とたんにこちらを見据える崇光の鋭い眼光に射抜かれ、
反射的に目をそらした。青年神官の眼鏡の奥の瞳は、いつもの穏やかさを脱ぎ捨てて、刃
のような悽愴な光をたたえていた。
「でも、彼がここに身を置くようになって四百年近く、だれ一人としてそれをかなえた者
はいない。なぜかわかりますか」
 問われているのではなかった。その答えはすでにユリウスの中にあった。ただ言葉に
されるのを拒んでいるだけだった。言葉にされ、口にされてしまえば、それは認めざる
を得ない真実となってしまう。ユリウスは力なく頭を振り、聞くまいと顔をそむけた。
「彼はただ一人のベルモンドを愛している。今も。そしてこれからも。
 ──そしてそれは、あなたではない」

175煌月の鎮魂歌9 12/22:2016/06/18(土) 06:07:41
 むなしく声は耳につきささった。
 自然に顎に力がこもり、口の中に血の味が広がった。鉄錆の味はいつもと違ってひどく
苦く、酸のように舌を灼いた。
「彼と最初に出会い、愛し合ったただ一人のベルモンド。ラルフ・C・ベルモンド。彼
だけが、アルカードにとって唯一であり絶対なのです。
 ほかのすべてのベルモンドはただ、彼の血を継ぐ者というだけにすぎない。もちろん
ひとりひとりを愛していなかったわけではないでしょう。しかし、最初の一人のように
彼を愛し、愛された人間はいない。誰も」
 かたくなにユリウスは顔をそむけていた。噛み破った唇から血が流れているのをわずか
に意識した。血の味がめまいを引き起こす。血。指先から流れてアルカードの唇に落ちた
血。
 その血を含んだとたん、彼は跳ね起きて呪うようにユリウスを見た。いや、ユリウスを
ではない、今も彼を苦しめてやまない、運命と離別の夜を見た。そしてただ一言、拒否の
言葉を口にした。『いやだ』。血の涙だけがあの夜と同じく、赤い筋をひいて頬に流れた
……
「あなたは彼から指輪を奪いましたね。金の、古い指輪を」
 冷然と崇光は言った。
「あなたが彼をどのように扱っているかは知っています。彼が選んだことですから、僕は
それに関してどうこう言うつもりはありません。
 しかし、あなたがその指輪を奪ったことが彼にとってどんな意味を持つかは知っておき
なさい。あれは彼にとっては生命と同じ、彼を愛し、愛された相手が遺したただ一つの
形見です。あれだけが、彼にとって唯一、自らの生を認めてくれるよすがなのです。
それを、あなたは奪った」

176煌月の鎮魂歌9 13/22:2016/06/18(土) 06:08:23
「あいつは俺のものだ」
 ようやく、ユリウスは言った。自分の耳にもその声は聞こえづらく軋み、かすれて苦し
げだった。
「あいつが俺に言ったんだ、俺のものになると。俺の言うことはなんでもきくと。俺のも
のに、俺の……」
「あなたがベルモンドの血を継ぐ者でなければ、彼はあなたなど見もしなかったでしょうね」
 容赦なく崇光は言った。
 ユリウスの全身がむち打たれたように震えた。
「そしてあなたが唯一残った聖鞭の使い手でなければ、彼は、けっしてあなたに屈服する
ことなどしなかった」
「俺は──」
「これだけは理解しておくことです、ユリウス・ベルモンド」
 畳みかけるように崇光は続けた。
「アルカードが見ているのはあなたではない。彼が見つめ、愛するのは今も昔もただ一人、
ラルフ・C・ベルモンドと、彼の遺した血のみです。あなたが彼にしているような仕打ち
が許されるのはひとえに、あなたの体内に流れる血と、聖鞭の使い手の資格によってであ
ることを知りなさい。
 あなたはけっしてあなたとして彼の目に映ることはないし、本当の意味で愛されること
もない。彼が愛しているのは過去も現在もただ一人、それ以外の人間は、彼にとって一瞬
で過ぎ去る夢のようなものにすぎない。それがいかに愛すべき夢であっても、──憎むべ
き夢であっても」

177煌月の鎮魂歌9 14/22:2016/06/18(土) 06:09:00
 崇光ははじめて視線をそらし、眠るアルカードの顔に目を落とした。すでに死せる者を
見るかのように痛ましげな、悲傷に満ちた色が頬のあたりをよぎった。手を伸ばしてそっ
とシーツにあふれる銀髪をさする。白い薔薇たちが見下ろすように揺れる。
「彼にとってはすべてが夢なのです。闇の公子として生まれ、父殺しの宿命を負って五百
年。彼はずっと、醒めない悪夢の中で生きてきた。その中で、ただ一つの愛の記憶だけが、
彼にとっての生命なのです。あなたが奪った指輪は、その生命そのものにほかならない」
「あれは返さない」
 からからの舌を動かして、ユリウスはやっと言った。
「俺は……あれは、俺のものだ。俺のものだ。俺の……ものなんだ」
「なら、そう思っていなさい。どちらにせよ、事実は変わらない」
 ふいに崇光はすべてに興味をなくしたようだった。どうでもよさそうにそう吐き捨て、
ユリウスに背を向けてアルカードにかがみ込んだ。薔薇の侍女たちが音もなくさざめき、
白いボンネットのような頭を傾けて主治医のまわりに輪を作った。
「彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド」
 眠るアルカードに医師の慣れた手つきで触れながら、そっけなく彼は告げた。
「僕が言っておきたかったのはそれだけです。あなたが理解しようとしまいと、どうでも
いいことだ。あなたの中の血、その血が与えている鞭の保持者としての資格。アルカード
が見ているのはそれだけです。あなたではない。けっして」
 それ以上口を開かず、崇光はアルカードの上にかがみ込んだまま、何か複雑な図形を宙
に指で描きはじめた。指の動きにつれて、淡く輝く線が空中に魔法陣のような立体図形を
組み上げていく。

178煌月の鎮魂歌9 15/22:2016/06/18(土) 06:09:37
 アルカードは薔薇に覆われたベッドの上で、死病におかされた子供のように身じろぎも
せず、あふれる銀髪と薔薇の花弁に埋もれて目を閉じていた。うす青い瞼にまたたく図形
の光がちらちらと揺れる。
 ユリウスは踵を返し、その場を逃げ出した。



 何者かに追われるように足をもつらせ、数度は躓き、何度かは膝が崩れて倒れそうにな
った。
 気がつくと自室にいてベッドに腰を下ろし、呆然と壁を見つめていた。
 夜半で、なかば開いた窓からは初夏の涼しい夜気が流れ込み、カーテンにじゃれる月光
が床にも、足首にもまつわりついている。どれほど激しい鍛錬をしても堪えたこともなか
ったのに、まだ膝が震え、足に力が入らなかった。押しつけられるように胸が痛む。喉が
締めつけられ、息がつまる。無理に呼吸をしようとすると、空気が大きな固まりになって
肺につかえた。なんとか息を吸おうとあがいても、身体が石になったように重く、がくが
く震えて言うことをきかない。
 組み合わせた両手で何か堅いものをきつく包み込んでいることにようやく気づいた。意
のままにならない手を苦労してほどいてみると、古い、すり減った金の指輪が、鈍い光沢
をおびてそこにあった。
 シャツは丸めて投げ捨てられ、ブーツは横倒しになって壁の近くに転がっていた。意識
しないうちに背中が丸まり、両足をきつく胸に引き寄せていた。ベッドから腰が滑り落ち、
床についた。ユリウスは床にうずくまり、両膝をかかえてかたく身体を丸めた。赤い髪が
裸の肩にこぼれて、顔をかくした。

179煌月の鎮魂歌9 16/22:2016/06/18(土) 06:20:12
「俺のものだ」
 誰にともなくユリウスは呟いた。
「俺のものだ──俺のものだ──俺の、ものだ──俺の」
 だがその声はひどくかすれ、自分のの耳にすらうつろに響いた。
 今背を預けている同じベッドで、あの白い肢体を何度蹂躙したことか。抵抗一つしない
身体を思うがままに痛めつけ、恥知らずな姿勢をとらせて、最下級の娼婦に等しい扱いを
した。命じるままに鎖につながれ、雌犬の姿勢で自分を受け入れる彼に嘲弄の言葉を投げ
つけもした。
 だがその心を折ったと感じたことは一度もなかった。いつでも次の朝になれば、何事も
なかった顔をしてアルカードは白い月のように現れた。どんなに手を伸ばしても届かない
天上の月。いっときこの手につかんでも、たちまち指のあいだから滑りおちていってしま
う。
 ゆれるカーテンのむこうから欠けた月が覗いている。新月からしだいに満ちていく月は、
いまだ過程の途中にあって細っている。弱く頼りない光だが、訓練によって慣らした目に
は、そのわずかな光も明るく感じる。

 足首にまつわっていた微かな月光が肩に触れ、髪にまつわる。その冷たい感触を、ユリ
ウスは知っていた。あの細い指先。絹よりまだ柔らかくなめらかな、透き通るあの肌。
すくい上げれば滝のように流れる、銀色の髪。強引なくちづけにもあらがわず、わななき
ながら開かれる仄赤い唇。

180煌月の鎮魂歌9 17/22:2016/06/18(土) 06:21:23
 また、その内部に秘められた熱さを知ってもいる。大理石の彫像を思わせる肉体は、
その内部に熱せられた蜜を含んでいた。毒のある蜜蜂が集めたかのような、人を狂わせる
魔性の蜜。
 触れればたちまち理性を奪われ、狂ったように行為に沈み込むのはいつもユリウスの方
だった。微かな苦鳴も苦しげな呼吸も、渇望をあおり立てる種だった。触れれば触れる
ほど、口にすればするほど飢えをそそられ、渇きはいや増す。どれほどむさぼり尽くして
も飽き足りない、いっそこの身体をばらばらに引き裂いて心臓を引きずり出してやりたい
欲望にすらかられる。
 血まみれの胸から引きずり出した心臓を、自分の胸を引き裂き、その傷口に押し込めば
この渇きは癒えるだろうか。自分の心臓を引きちぎり、そのかわりに冷たい胸の奥で拍っ
ている心臓を置くことができれば。二つの心臓を溶け合わせて、ひとつにする方法が
わかれば。冷たく白いこの月の精霊に、本当の意味で手を触れることさえできれば。
(彼はあなたを見ない、ユリウス・ベルモンド)
 わかっていた、とユリウスは思った。
 わかっていながら知ろうとしなかった。あの女妖と戦った夜に、体内に荒れ狂うベルモ
ンドの退魔の力に翻弄されながら、それは何度も幻に現れたはずだ。あの箱庭の天国、
二人だけのエデン。誰の侵入も許されない国、あまりに完璧すぎた故に破壊された幸福。
アルカードとあの男以外には存在しない、絶対の王国。
 明らかな事実から目をそむけて、意味のない行為に惑溺することで自分をごまかして
いた。そしてその見ようとしない事実と自分自身に苛立ち、怒り、そのすべてを目の前に
捧げられた肉の身体にぶつけていた。何の意味もないことを、心の奥では知っていたと
いうのに。

181煌月の鎮魂歌9 18/22:2016/06/18(土) 06:22:08
 アルカードは自分を見ない。
 誰のことも見てなどいない。彼が見ているのはずっとあの一瞬、あの永遠の夜、アル
カードの心が今もとどまり続けている、数百年も前の現在なのだ。
 戦いのあとの混乱した記憶がふたたび脳裏を支配した。イリーナの小さい手が手首を
つかみ、有無を言わさず引き寄せる。傷ついた手のひらからしたたる血が筋をひいて
アルカードの唇に落ちていく。真紅の濃い生命の一滴がその唇を通り、のどをかすかに
動かし──
 そして彼は跳ね起きた。灼けた鉄板に乗せられたかのようにその場で跳ね上がり、
ユリウスを見た。致命的な毒を盛られたことを悟ったかのような、絶望と悲嘆にあふれた
まなざしで。
(違う。そうじゃない)
 あれは彼を見ていたのではなかった。アルカードが見ていたのは、遠い過去だった。
ユリウスの血によって呼び起こされた遙かな記憶、彼がはじめて地上に生き、ベルモンド
の血を継ぐ人間と愛し合った時の出来事。流れ落ちる血の涙と、白いシーツに落ちた薔薇
の花びらのような染み。白ではなく赤い薔薇、赤い血の涙の一滴、引き裂かれた心から
流れ出した灼けつく記憶のかけら。
 そして彼は口にした、ただひとこと──『いやだ』。
 あれは何に対する拒否だったのだろう。自分にではないことをユリウスはとうに悟って
いた。あの時のアルカードの知覚に、彼は映っていなかった。崇光も、イリーナも入って
はいなかった。
 アルカードはベルモンドの血によって呼び覚まされた過去にいたのであり、おそらくは、
もはや起こってしまった変えようのない悲劇に、運命に、甲斐のない抗議をしていたのだ

182煌月の鎮魂歌9 19/22:2016/06/18(土) 06:22:46
 どれほど酷い行為かを知りつつ、それをせねばならなかった自分、にもかかわらずまだ
生きて地上にいなければならない自分、人でも魔でもない黄昏の者として永遠に、死ぬ
ことも忘れることも許されず生き続けなければならない自分、いずれは三度目の父殺しを
行わねばならない自分、そういった自分自身すべてに対して、無力な拒否をつきつけてい
たのだ。
 そしてそれが無力であり、意味などないことも彼は知っている。文字通り、骨の髄まで。
遠い記憶のあの男の血を継ぐ人間たちとともに、魔王と化した父と戦い、最終封印を
施して完全に滅すること、ただそれだけが現在の彼の使命であり、生き甲斐であり、
存在価値なのだ。
 ベルモンドの至宝とたたえられ、どれほど多くの者から慕われ愛されようと、本当の
意味でアルカードが満たされることはけっしてないだろう。彼の愛は遠い昔にあるベルモ
ンドの男とともに埋葬されたのであり、その男の血と誓いとを守るために、三度目の封印、
光と闇の最終戦争に立ち向かおうとしている彼は、実質、あの頃の彼の抜け殻でしかない。
どれほど強くまたやさしく、果敢に闇に立ちふさがろうと、彼の心は数百年を閲してまだ
生々しい──忘れることができないからこそいっそう生々しく、いつまでも血を流し続け
る、あの夜に縛られつづけている。
 それでも彼は立つのだ、他の誰のためでもなく、ただ、あの男との約束のために。遠い
過去に置き去りにした恋人、心と身体、魂のすべてをかけて愛した、ただ一人のベルモン
ドのために。
 手の中の指輪が灼けつく。いや、これこそが心臓だ。あのなめらかな胸の中から取り出
されて、血を流しながら脈打っている。

183煌月の鎮魂歌9 20/22:2016/06/18(土) 06:23:24
 熱く燃えているはずなのに、その熱はけっしてユリウスには触れてはこない。握りつぶ
すほどに強く握りしめても、それはユリウスにとってはいつまでも固く冷たい金属の塊で
しかない。それが命をとりもどすのはおそらく、アルカードの手の中にある時、彼の魂と
記憶のすぐそばに寄りそう一瞬だけなのだ。
 それでも、離すことはできなかった。溺れる者が命がけでつかむ命綱のように、ユリウ
スの指は指輪をつかんで肉に食い込むほどにかたく、より強く握りしめていた。
「俺のものだ」
 むなしい言葉をまた繰り返す。声は口からこぼれたそばから砕け、どこへ届くこともな
く薄れて消えた。
 すべてのベルモンドは一度は彼に恋をするとあの日本人は言った。ではこの心も血に促
されてのものにすぎないのか。そんなわけがない、それならばこれほど苦しいはずはない。
ベルモンドの名などいらない、血筋などもともと望んで受け継いではいない、鞭もどのよ
うな特権もいらない、望むのは、ただ、あの月だけ。
 あの月がほしい、あの瞳に自分を映してほしい、他の誰かにではなく自分に、自分にだ
け、あのまなざしを向けてほほえんでほしい。見苦しく地面に這ってすがってでも、そう
望んでいることをユリウスは知った。
 最初の夜からそうだった。どれほど酷く扱ってもこちらを見ない彼に苛立ち、なんとか
して自分を見させようと子供じみた真似を繰り返した。軽蔑でも嫌悪でも、憎悪ですら
かまわなかった。それが自分に向けられたものであるなら。他の誰でもなく、この自分
自身に

184煌月の鎮魂歌9 21/22:2016/06/18(土) 06:24:11
『俺じゃなくてもかまわないんだろう』
『ただ鞭の使い手が欲しいだけなんだろう。おまえが欲しいのは俺じゃなくて、俺に流れてるベルモンドの血だけなんだ……』
 そうではない、と言ってほしかった。否定の言葉が聞きたかった。
 もちろん言わせれば諾々とアルカードは命ぜられた通りの言葉を繰り返した。だがそれ
はユリウスの心をますます引き裂くばかりだった。そこに本当の心はなく、教えられた
通りの言葉を真似る鳥と同等の行為だった。ユリウスはますます逆上し、さらに加虐の
行為に手を染め、せめて肉体に所有のしるしを刻みこもうと躍起になった。
 すべてに降り注ぐ月の光だけではなく、その本当の心ごと抱き取ってしまいたかった。
だがそれが不可能なことを、ユリウスはもう見てしまった。遠い過去のあの一瞬に、ユリ
ウスの手は届かない。絶対に。あそこにいるのはただ二人、月とその魂を捧げた恋人だけ、
そして、あの記憶の中に月の心と愛は永遠にしまいこまれている。
 ふいに手首を引き裂き、喉を切り裂いて全身の血を流し出してしまいたい衝動にかられ
た。だがそれはできない。それをしてしまえば、今度こそユリウスはアルカードにとって
一片の価値すらない、ただの塵になる。
 どれほど呪おうと、この血、体内に受け継ぐベルモンドの血脈、あの夜に置き去りにし
た恋人の遠いこだまが、かろうじてユリウスをあの月につなぎとめている糸だ。彼が見て
いるのが血のみ、血と鞭の資格者という自分であって自分でない影でも、手放すことなど
できなかった。考えただけで気が狂いそうだった。

185煌月の鎮魂歌9 22/22:2016/06/18(土) 06:24:51
 ぬけがらの身体をどれだけ痛めつけても、反対にどれだけ甘く愛撫し崇めても、けっし
て彼に届くことはない。アルカードは自分を見ない。誰のことも見てはいない。ただ美し
い光だけを地上にあふれさせながら、遠い天上に冷たく凍りついている。
 頬に熱いものが流れた。喉がつまり、全身がこわばってきつく丸まった。
 もはやいつだったかも正確には思い出せないあの日、母の死体が狂人の足の下で踏みに
じられていた時にさえ出なかったものが、顎をつたって滴った。
 ベッドの上できつく膝をかかえ、無力な少年のように、ユリウスは声を立てずにむせび
泣いた。

186煌月の鎮魂歌9後半 1/24:2016/07/31(日) 20:15:19
            3

 ボウルガード夫人に車椅子を押され、自室へ戻る最中、ラファエルは一言も口をきか
なかった。
 少年の青い瞳は嵐の色に染まり、心臓では炎が荒れ狂っていた。地獄にひとしい炎
だった。彼は父親を呪い、義兄──とも呼びたくはないが、汚らわしいとはいえ血の
つながりは否定できない──を呪い、何よりも、ぴくりともしない自分の足を心底
呪った。なめらかに動く車椅子の感触さえ、怒りをかき立てた。こんながらくたでさえ
すらすらと床の上を動くことができるのに、どうして自分の足は指先ひとつ上げること
が許されないのだろう?
 ようやく自室へたどり着き、ボウルガード夫人に支えられてベッドに身を投げて、
出て行けと身振りをする。枕に頭を埋め、今にも噴出しようとする叫び声を押さえ
つけた。今はただ、ただひとりで怒りをかみしめ、その苦さと熱さに存分に身を焼き
たい。他人に苦悩を覗かせるのは誇りあるベルモンドの者のすることではない。ベル
モンドの者はひとり、ただひとり、常に人間と世界の守護者として立つことを要求
される。誇り高いベルモンドの男として、ベルモンドの……
 食いしばった歯から、耐えきれずにすすり泣きが漏れた。もう自分にはそんな資格は
ないのだ。鞭の使い手としての地位はあの野良犬に奪われてしまった。ベルモンドの
当主としての地位はあるにせよ、それがどうしたというのだろう。
 聖鞭を使い、きたるべき最終闘争において〈彼〉の隣に立つこと、それこそが、
累代のベルモンドの悲願であり、夢だった。
 自分がその代にあたることを知ったときの喜びを思う。自分ではなく、息子がアル
カードの隣に立つことを知った父の、複雑な思いをこめた視線を心地よく感じたことを。
『ベルモンドの者は誰もが一度は彼に恋をする』。だが、その恋がかなえられないこと
はみな知っている。それにもっとも近いのが唯一、彼とともに戦うこと、聖鞭ヴァンパ
イア・ハンターの使い手として認められることなのだ。

187煌月の鎮魂歌9後半 2/24:2016/07/31(日) 20:16:09
 ひょっとして父は、かなえられなかった自らの想いをとげる息子を邪魔するために、
あの野蛮な野良犬を生みだし送り込んできたのではないかという疑念すらわいた。
そんなことはありえないのがわかっていたが、思わずにはいられなかった。
 なぜ? なぜ、ようやく彼の隣で戦えると約束されたのに、それをあんな汚らしい
混血に奪われなければならないのだ? それも、尊敬できるような相手ならまだしも、
こともあろうにアルカードを公然と雌犬呼ばわりし、蹂躙してやまない輩に? ベル
モンドの至宝を泥にまみれさせ、娼婦扱いして恥じもしない屑が、なぜ聖鞭の使い手に
なれるというのだ?
 アルカードは間違っている、とラファエルは思った。
 あいつがベルモンドのはずがない。たとえその血をひいていたとしても、聖鞭が
あんな男を認めるはずがない。アルカードはあの男を連れてきたりすべきではなかった。
いくら最終闘争の時がせまっていようと、あんな男に身を任せてまで、聖鞭の使い手を
用意する意味などあるのだろうか。
 魔王が降臨すれば世界は闇に包まれる。わかっている。だがいま、ラファエルの頭に
あるのは、しいたげられ逍然とうなだれるアルカードと、その上に仁王立ちになって
悪魔の笑いを浮かべるあの男だった。滅ぼされるべきは魔王ではなく、あいつだ、と
ラファエルは思った。
「死んでしまえ」
 ラファエルは呟いた。小さく、ごく小さく、枕に顔を埋めて呟いた言葉だったが、
そこに込められた憎しみと殺意はナイフのように鋭かった。
「死んでしまえ。あいつなんか死んでしまえばいい。あいつに世界なんて救えるもんか。
聖鞭なんて、あいつにはふさわしくない。世界なんて知るもんか。アルカードが不幸に
なる世界なら、みんな滅びてしまえばいい……」

188煌月の鎮魂歌9後半 3/24:2016/07/31(日) 20:16:54
「お苦しいのですね。ラファエル様」
 低い声がした。
 ラファエルはぎょっとして、身体が動くかぎり身をそらし、部屋の隅を振り向いた。
 そこに、ボウルガード夫人がいた。いつものように黒いドレスで、白髪をかたくひっ
つめにし、棒のようにまっすぐに身体を立てている。とうの昔に出て行ったものと思っ
ていたラファエルは、いまの姿を彼女に見られたと知り、猛烈な怒りと恥ずかしさに襲
われた。
「なぜここにいる」
 にじんだ涙を急いでぬぐい、ラファエルは当主としての口調ではげしく言った。
「僕は出て行けと命じたはずだぞ。なぜまだここにいる? 用があればベルで呼ぶ。
さっさと行け」
「わたくしにはよくわかります。ラファエル様の怒りが。お苦しみが」
 ボウルガード夫人はすべるように近づいてきた。ベッドサイドのライトに皺深い顔と、
奇妙な熱を帯びて燃えるような両目が照らし出された。うすく口紅を塗った唇はほとんど
見えないほどかたく引き締められ、表情はなかった。すべての感情と動きは、ただ熱に
浮かされたようにぎらつく両の目にしか存在していなかった。
「あのような男をベルモンド家に引き入れるべきではございませんでした。ミカエル様は
あやまちをおかされました。ラファエル様という立派な跡継ぎがおありなのに、どこの
誰とも知らぬ相手と、あのような汚らしいものを」
「父上は立派なお方だ」
 反射的にラファエルは言ったが、ボウルガード夫人の紙のこすれるようなささやき声は
影のように彼の心にすべりこんできた。そうだ、父は、あんな子供を作るべきでは
なかった。ベルモンドの血は常に、誇り高く育てられた正統の血でのみ受け継がれて
きた。それを、あのような雑種が受け継ぐなど、あってはならないことだ……

189煌月の鎮魂歌9後半 4/24:2016/07/31(日) 20:17:32
「あのような男がベルモンドとして認められるなど、あってはならないことです」
 いつのまにかボウルガード夫人はベッドの縁に腰掛け、骨ばった手でそっとラファエル
を抱いて髪を撫でていた。めったに個人的な感情を表さない彼女としては異常と言って
いい態度だったが、自分の苦悩と痛みに沈み込んでいたラファエルは気づかなかった。
ただ、髪を撫でる手をここちよく感じ、自らの秘めた思いを形にしてくれる低いささやき
声に、夢見るように耳をかたむけていた。
「間違いは正されなくてはなりません。ベルモンドの正統はラファエル様であり、あの
ような雑種ではありえません。汚らわしい血は、排除しなくてはならないのです」
「排除……」
 なかば夢うつつでラファエルは繰り返した。何を口にしているかはほとんど意識して
いなかった。やさしく髪を撫でる手は、そのまま彼の傷ついた心を愛撫する手だった。
「排除する……あいつを……でも、聖鞭の使い手は──」
「聖鞭の使い手はあなたです、ラファエル様」
 きっぱりとボウルガード夫人は言った。ラファエルの髪をすく手はどこまでも優しく、
子供を眠りにいざなう母の手を思わせた。
「ほかに、誰がいるというのでしょう。ラファエル様はミカエル様の正統のお子、あの
ような雑種と比べものになどなりはしません。アルカード様をお救いし、そのお心を手に
入れるのは、ラファエル様、あなた様しかおられません。アルカード様をあのような男の
手に預けておいて、ラファエル様、あなたは平気でいらっしゃるのですか」
「そんなわけがないだろう!」
 一瞬猛烈な怒りにかられてラファエルは叫び、起き直りかけたが、ボウルガード夫人の
あくまでもおだやかな愛撫に導かれて、ふたたびうっとりと身を横たえた。今ではボウル
ガード夫人は黒いショールですっぽりとラファエルを包み込み、赤ん坊でも抱くように両
手を回して、やさしく揺さぶっていた。

190煌月の鎮魂歌9後半 5/24:2016/07/31(日) 20:18:04
「あの男を排除しなければならないのですよ、ラファエル様」
「排除……あいつを……」
 ぼんやりとラファエルは繰り返した。
「そして取り戻すのです、あなたの当然の権利を。聖鞭とアルカード様を。あなたが世界
のすべてと引き替えても手に入れたいあの方を、雑種の汚らしい手からお救いするの
です。あなたならそれがおできになります、ラファエル様」
「でも、足が」
 わずかに苦痛の記憶を思い出して、ラファエルは身じろぎした。羽毛布団の上に力なく
投げ出されたままの萎えた両足。
「僕の足は動かない。この足では、アルカードの役には……」
「動きます。あなた様さえ、その気になられれば」
 ぐずる子供をあやすように、頬をくっつけてボウルガード夫人はささやいた。筋肉が
落ちて細くなった足を、いとおしむようにそっとさする。
「お信じなさいませ。あなた様こそベルモンドの正統の当主にして、聖鞭の主。アルカ
ード様の隣に立つ者。それを、あのような下賤の雑種になど、奪われてよいはずがあり
ません」
「正統の……当主」
 ラファエルは呟いた。傷ついた心に、その言葉は恵みの雨のように染み込んでいった。
 むろん、これまでずっとラファエルはベルモンドの男として丁重な扱いを受けてきた。
父が死に、当主の座を受け継いでからは特にそうだった。
 だが、半身不随の身となり、聖鞭の使い手としてはもはや使い物にならないと判定され
たとき、周囲の、そして誰よりもラファエルの中で、さまざまなことが微妙に変化した。
 もはやラファエルは絶対の自信をもってベルモンドの当主であると言えない自分を発見
した。周囲は変わらずラファエルをベルモンドの当主とし、そのように扱うが、そこに哀
れみと、腫れ物にさわるようなおずおずとした遠慮を、鋭敏な少年の感性は感じ取らずに
はいなかった。

191煌月の鎮魂歌9後半 6/24:2016/07/31(日) 20:18:46
 年端もいかない少年が半身の自由を失う。それは確かに悲劇であったろう。だが、もし
彼がベルモンドの人間でなく、聖鞭の使い手として定められておらず、アルカードととも
に戦う運命を将来に見据えていなければ、彼の痛手はこれほどまでに深く食い入ることは
なかった。
 累代のベルモンドの当主たちが使った聖鞭ヴァンパイア・ハンターを取り上げられ、
それを存在すら知らなかった異腹の兄──唾棄すべき路傍の野良犬──に奪われた衝撃
は、ただでさえ身体の自由を失った少年の心を、さらに深くえぐった。
 ユリウスがストリート・ギャングの育ちではなく、もっと普通の育ち方をした人間で
あれば違っただろうか。いや、そうではない。ユリウスの傍若無人ぶりはよりいっそう
彼に対する怒りと憎悪をあおり立てはしたが、たとえユリウスが今のような相手でなく
とも、ラファエルは彼を憎んだろう。
 なによりも欲するアルカードの隣に立つ権利、聖鞭ヴァンパイア・キラーの使い手と
いう資格こそ、ラファエルの求めるものだった。ベルモンドの当主という肩書きは、
その前ではほとんど意味を持たない。
 アルカードを手に入れる、誰よりも彼に近いものとなる、それこそがラファエルの、
そしてこれまでのベルモンドたちが願い続け、かなえられなかった夢だった。その夢が
すぐ手の届くところまできていたというのに、奪われた。卑しい雑種、戦士の誇りも
矜持もかけらも持たない、あの至高の存在を雌犬呼ばわりして得々としている下劣な
男によって。
「……許さない」
 ラファエルが発したのか、それともボウルガード夫人が呟いたのか、判然としない
呟きが漏れた。
「許さない……許さない。あの男を許さない。ヴァンパイア・キラーは渡さない……
アルカードには触れさせない。あいつなんか死ねばいい。死んでしまえ。死んでしまえ。
死んでしまえ」
『死ね』

192煌月の鎮魂歌9後半 7/24:2016/07/31(日) 20:19:26
 もはやどちらとも判別しがたい声がそろって言った。
 そのまま、部屋は沈黙にひたされた。ベッドサイドのランプが不安げに踊り、抱き
合ったまま動かない老女と少年の影を、異様に大きく拡大して壁に投げた。 


「まったく、ボウルガード夫人はどうしちゃったのかしら」
 不機嫌にイリーナが指を鳴らした。そばで白い虎猫が、同意するように桃色の口を
あけて小さく鳴いた。
「彼女がこんなに長いこと姿を見せないなんて。せっかく彼女のお茶がまた飲めると
思ってたのに、これじゃ起きたかいがないわ」
「きっとラファエルの世話で忙しいんですよ。それとも、あの女妖魔のことの後始末で
走り回っているか」
 穏やかに崇光は応じ、ポットを手に小さくなっているメイドに励ますようにうなずき
かけた。彼女はおずおずと微笑み、丁寧な手つきでカップに澄んだ茶を注いだ。
「ありがとう。ほら、飲んでごらんなさい、イリーナ、ボウルガード夫人のお茶とくら
べてもなかなかのものですよ。あとで、僕が日本から持ってきた緑茶を淹れてあげます
から、ご機嫌をなおしてください、お姫様」
 イリーナは運ばれてきたソーサーをむくれた顔で受け取り、ひとくちすすって、まあ
そう悪くはないわね、と不承不承呟き、縮みあがっていたメイドの胸をなでおろさせた。
 ニュイ女伯爵と名乗る女妖の襲来から、はじめての午後のお茶会だった。ようやく
ベッドを離れられるようになるが早いか、イリーナはさっそく一同に招集をかけ、待ち
望んだいつものサンルームでのお茶の集いを再会したのだ。
 とはいえ、まだ長い間座っていられるほど体力は戻っておらず、イリーナはいつもの
女王然とした大きな肘掛け椅子ではなく、いつもはユリウスが占めていたゴブラン織を
張った猫足の長椅子に横たわっている。しかし小さくとも女王はあくまでも女王であり、
泡のようなレースとリボンと幾重ものドレープとオーバースカートに飾られた彼女は、
人型をした豪華な花束を横たえたように堂々としていた。

193煌月の鎮魂歌9後半 8/24:2016/07/31(日) 20:20:04
「あんな大物を送り込んできたっていうことは、相手もかなりせっぱつまっていると見て
いいのよね」
 イリーナはソーサーを支えたまま器用に姿勢を変え、寝転がった長椅子をさらに優雅に
かつ装飾的に占領した。肘掛けのところに腹這いになっていた虎猫が位置を変えて
背もたれの上に移動し、バーディが赤い羽毛を散らして女主人の肩にとまる。サファイア
色の小蛇はいつものように少女の細い手首でうつらうつらしており、口の開いたポシェ
ットから、小さな亀のとがった口が、お茶菓子のかけらを待って辛抱強く覗いている。
「いまは五月。あとほとんど一ヶ月しかないわ、ユリウスがヴァンパイア・キラーの使い
手として仕上がるまで。大丈夫なの、スーコゥ? 彼、ちゃんとできる?」
 まるで幼稚園の子供のことでも言っているような言いぐさだ。
 いつもの場所を奪われ、かといって女王のお気に入りであるところの肘掛け椅子に座る
ことも許されず、じゅうぶん快適ではあるがいささか見劣りのする一人がけのソファに
追いやられていたユリウスは、仏頂面でただ黙っていた。
 以前の彼ならば憎まれ口のひとつも叩いただろう。だが、あの地下の至聖所で眠るアル
カードを見、自らの真の心をつきつけられて以来、胸の奥にどうやっても解けない冷たい
塊が居座り、動かすことができなかった。
 アルカードの姿はない。もともと、この昼の光あふれるサンルームには姿を現すことが
あまりないのだが、あの地の底で眠る姿を見て以来、ユリウスはまだ彼を一度も見ていな
かった。
 主治医である崇光がリラックスした様子で茶碗を傾けているということは、もう側に
ついていなければならないほどの状態は脱したと考えていいのだろうが、それでも苛立
たしいような、それでいて恐ろしいような、不快な感じが腹の底に横たわる。
 今すぐ会いたい。会って無事を確かめたい。しかしいざ会ったとしても、何を言い、
どんな態度をとっていいのか、それがわからない。

194煌月の鎮魂歌9後半 9/24:2016/07/31(日) 20:20:44
 少し前までは怒りと焦燥とともにあって簡単明瞭だったことが、あの一夜以来、焦げる
ような感情と苦痛は倍加したのに、まるで暗い霧の底に沈んでしまったように思える。
覗きこめば覗きこむほど混迷に引きずり込まれ、とるべき道もわからず立ちすくむしか
なくなるのだ。
 それをつきつけた当人である崇光はいつもの穏和な仮面をまたかぶりなおし──今では
ユリウスも、その柔和な微笑が本来の鋭利で冷徹な知性を覆い隠すためのものだと知って
いる──少し困ったような顔で、イリーナにサンドイッチとスコーンを盛った皿を回して
いる。
「まあ、技術的にはそこそこちゃんとしていますね。アルカードもそれは認めています
し」
 こちらも、反対側の隅でふてくされているユリウスなどいないかのような調子で答えた。
「ニュイ女伯爵の件は、被害もありましたが、使い手としての彼の資質を試す試金石と
しては充分すぎるほどでしたよ。尋常の能力では、あの妖女との戦いで生き残ることは
できませんでした。ただ問題は、鞭に宿る英霊が彼を認めるかどうかですがね」
「英霊ってのはなんだ」
 無視されつづけていることについに我慢できなくなり、ユリウスはかみつくように口
をはさんだ。二人はいっせいにユリウスを見た。まるで、なんだおまえそこにいたのか
とでも言いたげな目つきだった。
「英霊というのは、これまで聖鞭を握ってきたベルモンドの歴代使い手の魂ですよ。
その記憶、というべきでしょうかね」
 崇光が説明した。
「ヴァンパイア・キラーの使い手は、単に技量に優れているだけでなれるというものでは
ありません。最終段階として、実際にヴァンパイア・キラーそのものを手にし、そこに
宿った歴代の使い手たちに認められる必要があるのです」

195煌月の鎮魂歌9後半 10/24:2016/07/31(日) 20:21:20
「それじゃ、俺はたぶん不合格だな」
 そっけなくユリウスは吐き捨て、足を投げ出して腕を組んだ。
「どうせ、野良犬育ちの小汚い雑種だからな、俺は。お高くとまったベルモンドの英雄
様方が、そこらへんの雑種なんぞを認めるはずがない。残念だったな、当てが外れて」
「血統の純粋さは問題ではありません。問われるのは、心の有りようです」
 静かに崇光は言った。
「聖鞭を振るうのにふさわしい魂の持ち主かどうかは、鞭と、英霊たちが決めることです。
僕たちには推測することさえ許されていません。あなたもですよ、ユリウス」
 見据えた眼鏡の奥の瞳に、彼本来の鋼のような光がうすく宿った。
「アルカードでさえ、鞭の決定に関与することはできないのです。あなたはアルカード
によって鍛えられ、鞭の保持者としてまずは合格と言える力量を身につけた。言えるの
はそこまでです。あとは、鞭の与える試練を乗り越えたあと、あなたがまだ正気でいる
かどうかでわかります」
「正気?」
 いささかぎょっとしてユリウスは問い返した。
「それはどういう意味だ。鞭の試練だって?」
「言葉の通り、試練ですよ。それ以上でも以下でもない」
 崇光は視線をそらし、さめたお茶を飲んで眉をひそめ、自分で新しいのをもう一杯
そそいだ。
「それについて語ることは別に禁じられてはいませんが、それがどんなものかは、受け
たもの以外知ることができません。試練をくぐって鞭の所持者となった者は試練につい
ては口を開かず、なれなかったものは永久に言葉を失うからです。まあ、廃人になった
ところで、生活はきちんとベルモンド家と〈組織〉が保証しますから心配することは
ありませんがね」

196煌月の鎮魂歌9後半 11/24:2016/07/31(日) 20:21:58
「廃人?」
「何人かはいたのよ。ベルモンド家でも、それ以外の血統でも。聖鞭を奪って自分が頂点
に立ち、〈組織〉と権力を手に入れようとする人間が」
 返事ができずにいるユリウスに、退屈そうにイリーナは言った。
「でも、例外なしにそういう輩は鞭に拒否され、手厳しいしっぺ返しを受けたわ。運が
よくて即死、悪ければ心神喪失、発狂、廃人」
 頭をこすりつけてくる虎猫に目を細め、サンドイッチのピクルスを亀の口に放り込んで
やりながら、なんでもないことのように続ける。さっそくぱくりとのみこんだ亀はすっぱ
さに驚いたようににゅっと首を伸ばし、しゅっとハンドバッグにひっこんだ。
「ベルモンド家の家長が代々聖鞭の使い手をつとめてきたのは単に血統だけの問題じゃな
いのよ。ベルモンド家の者として厳しい教育と訓練に耐え抜いた者だけが、試練を通過で
きる強靱な精神を持ちうる確率が高いから。それだって、単に確率が高いというだけ。百
パーセントじゃないの。
 過去には、ベルモンドの正統の長子であっても、試練に耐えられなくて死んだり狂った
りした人間の記録がいくつも残ってる。あなたがどちらになるかはあなた次第ね、ユリウス」
 一瞬、ユリウスは二人の言葉の中に悪意や中傷、脅しの響きをさぐろうとした。だが、
そんなものはどこにもなかった。二人はたんに事実を述べているだけであり、ユリウスが
これから直面しなければならないことに対して、多少の情報を与えているだけなのだ。
「まあ、あなたが合格することを期待していますよ」
 崇光は言った。

197煌月の鎮魂歌9後半 12/24:2016/07/31(日) 20:22:35
「むしろ、祈っているといってもいいですね。あなたが倒れれば、もうほかに鞭の使い手
になれる者はいない。今からまた探し直して訓練する時間もない。あなたが廃人になって
戻ってくれば、それでこの世は終わり。魔王の侵攻は止められず、世界は闇のものとなる
でしょう。なにしろあと一ヶ月、それだけしか時間はないのですから」
 明日の天気のことでも話すような淡々とした口調だった。多少哀れんでいるような響き
すらあった。ユリウスは両膝に手をつき、渡されたまま手をつけていない茶碗の底に目を
落とした。さめた紅茶の表面に、自分のやせた厳しい顔が見えた。まるで他人のもののよ
うだった。


「アルカード?」
 がむしゃらな鍛錬をひとりで終えて自室に戻ってきたユリウスは、予想もしなかった
人物の影を扉の前に見つけて動揺した。
 アルカードは静かに顔をあげた。
 いつもの大きすぎる白いシャツに、細身のスパッツと古風な革靴を身につけている。
輝く銀髪は廊下の薄明かりの中でも自ら光を放つように見え、光輪にふちどられた白い
顔は以前と変わらず平静で、なんの感情もうかべていなかった。
「ようやく崇光に出歩く許可をもらった」
 低くやわらかい声がユリウスの耳朶を擽った。背筋に快い震えが走り、ユリウスは
なぜかその場で背を向けてあとも見ず逃げ出したくなった。
「鍛錬の相手ができなくてすまなかった。だが、見たところ確実に腕は上がっている
ようだ。おそらくニュイ女伯爵と戦ったときよりもはるかに強くなっている。私が
教えるべきことも、もうさしてないようだな」

198煌月の鎮魂歌9後半 13/24:2016/07/31(日) 20:23:13
「何をしにきた」
 恐ろしく間の抜けた質問をした、と気づいたのは言葉が口から出てしまってからあと
のことだった。アルカードはけげんそうに目を細め、首をかしげた。細い眉のあいだに
わずかにしわが寄った。
「私はお前の雌犬なのだろう?」
 その単語がアルカードの口から出ることがひどく奇妙だった。なんの怒りも嫌悪も
なく、ただの一単語として発されるのはなおさら。何度も自分で口にし、嵐のような
情事の最中にも強いて叫ばせたにもかかわらず、ユリウスはひどく動揺した。 
「ユリウス?」
 アルカードは扉の前で待っている。
 ユリウスは白く輝く影から無理やり視線をひきはがし、大股に歩いて扉の前まで行く
と、乱暴にアルカードをおしのけた。触れた腰の細さがはっきりと手のひらに感じられ、
指がひきつるように思った。いったいこれほど脆そうな美しいものに、なぜあんな扱い
ができたのだろう。
「ユリウス」
 扉をあけて自分だけが入り、そのまま閉めようとするユリウスに、アルカードは
あわてたようにしがみついてきた。
「何を怒っている? 来られなかったのはすまなかった。崇光がなかなか地下から出る
許可をくれなかったのだ。一昨日にはもう起きられていたのに、崇光があくまでもう
しばらく休養しろと言い張って。けれどもお前との約束があるから、あまりに長く閉じ
こもっていることはできないと思ったのだ。だから」
「もういい」
 振り返りたくなるのをこらえるのには相当な意志力が必要だった。アルカードの指が、
迷子の子供のように袖をつかんで離れない。振り払って突き放し、扉をしめてしまえば
それですむ話だと考えながら、どうしてもそれができない。

199煌月の鎮魂歌9後半 14/24:2016/07/31(日) 20:24:10
「……ユリウス?」
「もういいと言ったんだ」
 歯ぎしりのようにユリウスはようやく言葉を絞り出した。
「もうここには来なくていい。勝手に自分の部屋へ行って寝ろ。俺は一人で寝る。訓練
で疲れてるんだ。ほっといてくれ」
「ユリウス」
 袖をつかむ手にぎゅっと力がこもった。
「どうして怒っているのだ? 約束を守れなくて悪かった。それは何度でも謝る。あそこ
まで消耗するとは、自分でも予想できなかった。だがもう大丈夫だ。私は耐えられるし、
お前との約束だ。いらないというのなら、理由を教えてくれ。ユリウス」
「飽きたんだよ」
 言葉は苦い薬をなめたように舌を刺した。自分の一言一言が自らの胸をえぐっていくの
を感じながら、ユリウスは懸命に部屋の奥に目を据えつづけた。振り返ってしまえばたち
まち意志は崩れて、無我夢中ですがりついてしまうことがわかりきっていた。
「あんたに飽きた、それだけだ。理由なんかほかに要るのか? あんたには山ほど大事に
してくれる相手かいるんだろう、そっちへ行って世話をしてもらえ。もうたくさんだ。俺
は一人になりたいんだ。もうあんたなんかうんざりだ、さっさとどこへでも行ってしまえ」
 袖をつかんでいた手がゆるみ、力なくすべり落ちた。
 そのまま扉をくぐれ、とユリウスは自分に命じた。すがりつく手を振り払って力まかせ
に扉を閉め、まぼろしの月と自分を、永遠にへだててしまうのだ。
 けれども、できなかった。手が離れるのに引かれるようにして、ユリウスは振り返って
しまった。
 アルカードは両手をだらりと垂らし、なすすべのない子供のようにただ立っていた。
ほとんど表情を表さない彼が、いまは行き場をなくしてとほうに暮れた少年の顔をしていた。

200煌月の鎮魂歌9後半 15/24:2016/07/31(日) 20:24:58
「ユリウス」
 アルカードは言った。
「私は人が本心からその言葉を言っているかどうかくらい判別できる。お前はなにかに怒
っている。愛想をつかしてもいる。けれどもそれは私にではない。では、いったい何なの
だ? 私にはそれがわからない。私に飽きたのでないなら、どうして帰れなどという? 
本当にここにいてもらいたくないというのなら帰る。だが、お前の心はそれを望んでいな
い。いったい、私はどうしたらいい?」
 進退窮まってユリウスは戸口に立ちつくした。            
 アルカードは青く冴える瞳をまっすぐに向けて、ユリウスの返事を待っている。この
月の前では偽りも虚勢も通用しないのだ、とユリウスは思った。青と黄金に映える彼の
瞳は、望むと望まないにかかわらず、真の心と思いを読みとってしまう。
 ユリウスは唇をかみしめ、ぐいとアルカードの手首をつかんだ。自分がためらって
しまわないうちに一気に部屋にひきずりこみ、扉を閉める。引っ張り込んだ勢いのまま、
ベッドの上に放り投げるように投げ出した。手もなく倒れたアルカードが身を起こし、
命令を待つように乱れた髪の頭をあげる。
 ユリウスはそのまま、どっかとアルカードの隣に腰をおろした。
 いつものように奉仕を強制されるものと思っていたらしいアルカードは、またけげん
そうに首をかしげ、動きを止めた。
 ユリウスは言った。
「鞭の試練の話を崇光から聞いた」
 かすかにアルカードの頬がひきつった。ユリウスは続けた。
「死か廃人の危険があると、言われた」
 アルカードは口を結んで視線をそらしている。こわばった肩がそれとわからないほど
震えていた。
「俺は、どっちになると思う。死人か、よだれを垂らした生きた屍か」
 アルカードはかなり長い間黙っていた。ユリウスは彼の性にこれまでなかったことだが、
返事が来るまで辛抱強く待ち続けた。

201煌月の鎮魂歌9後半 16/24:2016/07/31(日) 20:25:42
「……どちらにも、ならない」
 息の詰まるような沈黙を、アルカードがようやく破った。
「お前は試練を乗り越える。お前は生きて戻り、聖鞭の所持者として戦う。私とともに」
「なぜわかる?」
 あざけるような口調になるのを抑えられなかった。崇光の冷ややかな目と声、お前は
けっしてアルカードの目に本当に映ることはないと告げられたあの言葉が脳裏で皮肉に
唸った。
「俺があんたにどういう扱いをしてるかはわかってるよな。これまで、どんな生き方を
してきたかも」
 アルカードはうつむいて答えなかった。
「おきれいな英雄様とはほど遠い、ごみ溜め暮らしの野良犬だ。罪のある人間も、ない
人間も、山ほど殺して踏みにじってきた。それでもなんとも思っちゃいなかった。ほしい
ものはなんでも手に入れてきた」
 お前以外は、と心の中でつぶやく。この、人の姿をした月以外は。
「そんな人間でも、鞭とやらは使い手として認めるのか? 俺はベルモンドの血を引い
てるのかもしれないが、私生児で、しかもとんでもない悪党だ。悪魔だって顔をしかめ
るくらいだ。俺は赤い毒蛇と呼ばれてた。覚えてるか。あの街で、あの地下室で」
 横に置かれたアルカードの手を、ユリウスはきつく握りしめた。アルカードが小さく
眉を寄せたほどの強さだった。
「俺があんたにしたことを。まさか忘れちゃいないよな?」
 手の中で白い指がぴくりとする。
 そのまま、この作り物のような手を握りつぶしてしまいたい衝動に駆られる。半吸血鬼
に対してただの人間の力がむろんかなうわけはないのだが。あの暗い地下室でも、アル
カードはいつでもユリウスの首をへし折り、そのまま平然と出てこられたはずだ。四つん
這いになって獣のように犯されなどせずとも、すぐに。
「……私は、知っているからだ」

202煌月の鎮魂歌9後半 17/24:2016/07/31(日) 20:26:27
 また長い沈黙があった。ぽつりと、アルカードが呟いた。
「何をだ?」
「お前の魂」
 アルカードはふいにまともにユリウスを見つめた。
 澄みきった蒼氷の双眸に自分が映るのを見て、ユリウスは自分でも思っていなかった
ほど、はげしく動揺した。
「お前の、真の精神の姿」
 アルカードは言った。
「私は長く生きてきた。人の知らないもの、けっして知ることのないものも、多く見て
きた。お前は鞭にふさわしいものだ、ユリウス。聖鞭はお前を受け入れる」
「ずいぶん自信がありそうだな」
 動揺を抑えてユリウスは吐き捨てた。
「そいつは事実じゃなく、願望ってやつじゃないのかい。俺がダメになればもう鞭の
後継者はいなくなる。あの日本人は言ってたぜ、そうなりゃ世界は終わりだってな。
まあその時には俺は死んでるか狂ってるかだから関係もないだろうが、あんたたちにと
っちゃ、俺が試練とやらに合格して暮れなきゃ困るってわけだ。はたしてそううまく
いくもんかね」
「私はお前を訓練し、お前を読み、お前を知った」
 アルカードは動じなかった。
「私は願望と事実の違いを理解している。私はお前が鞭にふさわしい者だと確信した
からこそこの場に迎え入れたのだ。ベルモンドの血は資格のひとつに過ぎない。聖鞭は
資格者の魂を読む。私は理解する、お前を──」
「──あんたに何がわかる!」
 ついに耐えきれなくなって、ユリウスは叫んだ。
 アルカードがそれとわかるほどぴくりと身をすくませる。
 ユリウスは彼の顔に目を据えた。美しい、美しい、遠い遠い月の顔。

203煌月の鎮魂歌9後半 18/24:2016/07/31(日) 20:27:12
 魂の底まで読みとる力を持ちながら、その実、なにひとつ理解しようとしない。理解
することができないのだ。その視線はつねにあまりにも遠く、はるかな昔しか映すこと
はない。
「……何がわかる」
 力なくユリウスは繰り返し、アルカードの手を離した。
 こわばった指をはがすのには非常な努力を要した。一本一本をはがすごとに、生皮を
はがされるような痛みが胸を突き刺した。
 アルカードは大きく目を見開いたままじっとしている。呆然とした様子で、つかまれ
た腕を無意識にさすっていた。手首に浮いた指の形のあざは急速に薄れてゆき、ユリウ
スが完全に手を離しておろすと同時に、もとどおりの白いしみ一つない肌にもどった。
 酷いやるせなさがユリウスの腹を重くした。
「話をしろ」
 気まずい雰囲気を払うように、ぶっきらぼうにユリウスは言い、長靴を蹴って脱いで
部屋の隅へ放り投げ、ごろりと寝転がった。
「話……」
「このくそいまいましい屋敷ときたらテレビもラジオもありゃしない。なんでもいいから
話でもしろ。ラジオの代わりにゃなるだろう。こっちは疲れてるんだ。どたんばたんやら
かすよりはくだらん話でも聞いてる方が楽だ。好きなことをなんでも話せ。くだらなかろ
うがばかばかしかろうが、多少の退屈まぎらしにはなる」
「……好きな、こと」
 アルカードはよけいとまどったようだった。寝転がったユリウスの隣に自分も寝たほう
がいいのか、それともそのまま座っていたほうがいいのかわからないようで、中途半端な
姿勢で動きを止めている。
「……そう言われても、何を話していいのかわからない」
「あんたは長く生きてるんだろう。四百年だか、五百年だか。そんだけ生きてりゃなにか
話題くらいあるだろうが。まさかずっとここの屋敷にとじこもって生きてきたわけでもあ
るまいに」

204煌月の鎮魂歌9後半 19/24:2016/07/31(日) 20:27:57
 アルカードはうつむき、かすかに頬をこわばらせた。ユリウスはひそかに自分をのの
しった。おそらく、ここで生きてきた間、それ以前に彼が生きていた場所、それらの中で、
語れるような楽しい思い出など数えるほどしかないのだろう。触れて痛みを与えないよう
な記憶は。
「あのなんとかいう女妖魔、あんたを知っていたみたいだったな」
 ほとんど手探りで、ユリウスは話の接ぎ穂を求めて言った。これがアルカードの心を
痛める記憶でないことを祈った。もっとも訊きたいこと──壁にかけられた、あの顔に
傷のある肖像の男──に関することは、けっして触れてはならないのだとわかっていた。
あの金の指輪はまだ、机の引き出しの奥に、厳重に布にくるんでしまわれている。
「ニュイ女伯爵……」
 アルカードは呟き、首を振った。
「……彼女も、……彼女も、昔はあれほどの異形でも、邪悪でもなかった。父の狂気に
巻き込まれて、本来の魂を失ったのだ」
 ユリウスは頭の後ろで手を組み、続けろ、と顎で命じた。アルカードはときおりつっ
かえながら、遠い過去から言葉をすくい上げるように、ゆっくりと話しつづけた。
「私はかつて、父の宮廷で彼女と踊ったことがある。まだ、ほんの少年のころだった。
私を嫌う貴族たちも多かったが、彼女は私にやさしくしてくれた。小さい私を軽々と
振り回し、くるくると広間じゅうを踊り回った。曲が終わって、目を回しかけながら
礼をしようとする私を支えて、すてきなひとときに感謝いたしますわ、小さな公子様、
と微笑んだ。
 ああ、あのとき彼女は綺麗だった。人間の貴婦人の姿をとって、髪に青い鋼玉と緑柱
石の髪飾りをつけていた。広間には精霊たちが明かりのかわりに飛び回っていて、雨の
ようにきらめく髪飾りにまつわりついて遊んでいた。集まった皆は笑いさざめき、上座
に座った父と母は、手を取り合って寄り添っていた。

205煌月の鎮魂歌9後半 20/24:2016/07/31(日) 20:28:37
 母は父の肩に頭をあずけ、父は母の肩を抱いていた。魔王と呼ばれてはいたが、父は
寛大であり、王侯としてふるまうことを心得ていた。宮廷の皆が楽しむことを喜んでいた。
何よりも、それによって母が楽しむことを喜んでいた。父にとって母は唯一であり、母
にとっての父も唯一だった。人間と吸血鬼、ささげられた人間と魔王という関係では
あっても、二人が愛し合っていることは子供の私がいちばんよくわかっていた。私は、
二人の愛が形をとったものだったのだから。
 私は母の膝に座り、父の手に頭を撫でられた。冷たい手だったが、私は幸せだった。父
は私を愛し、母も私を愛してくれているのがわかったからだ。私は父の顔を見上げ、
彼が微笑しているのを見た。今でも覚えている。めったに笑うことのない父だったが、
母がそばにいる時だけは、彼は笑うことができた……」
 はじめのうち、ためらい、途絶えがちだった言葉は、したたり落ちる滴からしだいに
小石のあいだをぬって流れる細流れになり、やがて、とぎれることなく流れる川になり、
夢のように歌いながら記憶の河をたどる大河となった。
 そこではすべての伝説とおとぎ話が現実であり、小さな妖精や魔法の生き物、醜い
小鬼や皮肉っぽい人外の貴族たち、影のように床の上をすべっていく亡霊、霞のような
裳裾をひいて歩き回る妖精の侍女たちが、魔王の影の城の中で優雅に輪舞を踊っていた。
その中心には常に魔王ドラキュラと、その妃、誰からも愛され、誰をも愛した美しい女性
がいた。
 長い年月にうみ果てた魔王の物憂げなまなざしは妻子に目を向けるときだけ生気を
帯び、かつて人間だったころの光をとりもどした。銀色の髪の公子は父の膝によりかかり、
人類は知らず、この先もけっして知ることのないであろう数々の秘密を聞いた。そばには
兄弟のように育った二人の少年がいた。彼らは人間ではあったが、強力な魔力をその身に
宿していた。三人は闇の深奥の秘儀を学んだあと、歓声をあげて城の庭に走り出た。

206煌月の鎮魂歌9後半 21/24:2016/07/31(日) 20:29:17
 そこでは王妃そのひとが、笑顔と、お菓子のたっぷりのった食卓を準備して待っていて
くれた。少年の片方の妹も、ふっくらした頬を上気させて心から崇める貴夫人につき
従っていた。蝶やとんぼの薄い羽根をふるわせる小妖精たちに囲まれて、子供たちは
本当のきょうだいのように食卓を囲んだ。小さな公子は母の胸にもたれ、やさしい笑い
声を聞きながら、蛍のように飛び回る妖精たちの羽根がひく光の筋を見上げた……
 アルカードの声は低く、しだいに、その意識の中からユリウスの存在も、現代という
時代も消えていくようだった。空中に向けられた彼の瞳はほのかな金色を帯びていたが、
戦いの時の燃えるようなそれではなく、夕映えの空を映したようなおだやかな光だった。
 遠い昔に失われ、永遠に破壊されてしまった幸福な時代を、いまひとたびかつての公子
は生きていた。ユリウスは顔を天井に向け、目を閉じた。心地よい清水のように、アル
カードの声が胸に染み渡る。引き込まれるように、いくつかの場面が脳裏によみがえって
きた……
 母が死んでしばらく、頼るもののない自分を世話してくれたのは元どこかの教師だった
とかいうアルコール中毒の老人だった。彼がねぐらにしていた立ち上がれば頭をぶつけそ
うな屋根裏部屋は、床から天井まで古本とごみ屑で埋まっていた。ほとんどは酔って正体
を失っていたが、たまに比較的しらふな時には、教師だったことを思い出すのか、どこか
で雑誌や捨てられた広告を拾ってきて、ユリウスに読み方を教えてくれた。
 彼が泥酔してごみためのような寝床でいびきをかいている深夜、空腹で眠れずにいると
き、たったひとつの逃げ道は読むことだった。積み重なった古本や茶色くなった雑誌や写
真の束から手当たりしだいに引っ張り出し、読める単語を拾い読みした。わからない単語
は読み飛ばすか、前後の意味からだいたいあてはめて読んだ。
 しゃれたドレスを着てポーズをとった美貌のモデルに、うっすらと昔、こんな人がそば
にいたことを思った。しかしすぐにそれは踊る男と血まみれの肉塊の記憶に覆い隠され、
あわててその写真は棚の奥につっこんだ。

207煌月の鎮魂歌9後半 22/24:2016/07/31(日) 20:29:56
 いちばん安全なのは文字だった。古い本の古い文字、いま自分がいるここからは遠く離
れた場所や、別の世界のことを書いた文字がいい。そこにはナイフを持った恐ろしい狂人
はいない。手足をへし折られ、顔もわからないほど踏みつぶされる女の死体もない。
 かろうじて天井に開いた天窓はほこりまみれで、煤煙とやにですりガラスのように
なっていた。それでも月の光は入ってくる。冷たく冴えた満月は、黄色い電球の濁った
光よりずっと清浄でやさしい。
 昼間の熱気は夜になってもさめず、むっとした空気の中にアルコールと吐瀉物と垢の
すっぱい臭いが入り交じる中で、小さい赤毛の子供は無心に本の中の別世界にもぐり
こんだ。雄々しい英雄たちが人喰いの怪物を退治する世界。美しい人々が行き来し、
神話の動物たちが駆け回り、正義が行われ、悪は罰され、よい人間が幸福を得る世界。
外の世界とはあまりにも違う、あまりにも、正しい世界。
 その正義と理想の物語など、たかが夢だと笑い飛ばすことを、いつから覚えてしまった
のだろう。
 ふと目を開くと、アルカードはまだ静かに語りつづけていた。ただ、上体がわずかに
ゆらぎ、ゆっくり前後にふらついている。やはりまだ、体力が戻りきっていないらしい。
長時間座って話し続けて、疲れたのだろう。
 ユリウスは肘をついて身を起こし、アルカードの腕をとった。
 驚いてアルカードは話しやめ、問いかけるような視線を向けた。かまわず、ぐいと引く。
細い身体はかんたんに倒れて、ベッドの上に転がった。
「余計なことは考えるなよ」
 いらぬ気を回される前に、ユリウスは釘を差した。
「俺はあいにく、しゃべりながら居眠りしかかるような奴を抱くような趣味は持ってない
んでね。そのまま黙って寝ろ。じゃなきゃ、自分の部屋へ行って寝ろ。俺はどっちでも
いい」

208煌月の鎮魂歌9後半 23/24:2016/07/31(日) 20:30:36
 アルカードはしばらくベッドに頬を埋めたまま目を丸くしていたが、やがて睫を伏せて、
小さく、ここでいい、と呟いた。
「ここで寝る。ひとりは、……好きではない」
 ユリウスは無言で腕をのばし、アルカードを引き寄せた。
 腕に収まる身体は、驚くほど華奢だった。何度もわしづかみにした肉体がこれほど
か細いことに本当には気づいていなかった自分を、ユリウスはいぶかった。あれほど
夢中でむさぼったのと確かに同じ身体なのに、なんと壊れやすく、小さく感じられる
のだろう。
 柔らかな銀髪が顎の下に触れる。髪は夜と、月の匂いがした。冷たくかすかに苦く、
ハッカのように涼しい。
 ユリウスの胸に頭を寄せたとき、もうアルカードの目は閉じかけていた。長い睫が
頬におり、吐息が首筋をくすぐった時、かすかな記憶の一片が心をかすめ過ぎていくの
をユリウスは感じた。
 疲れと、昔の記憶で呼び起こされた、かつての思い出のかけら。わずかとはいえアル
カードに血を与えたつながりが、アルカードの夢のひときれを運んだのだろう。
 アルカードは誰かの腕に抱かれて眠っていた。太い腕が頭の下に置かれ、たくましい
胸に髪をよせかけている。あたりは暗い森、焚き火が揺れ、馬が蹄を踏み換える音が
する。強く確かな鼓動が聞こえ、熱い体温としみついた革の匂いが、たとえようもない
安心感を運んでくる。

209煌月の鎮魂歌9後半 24/24:2016/07/31(日) 20:31:38
 ユリウスは歯を食いしばり、もう寝息を立てているアルカードをきつく抱きしめた。
 いまお前のそばにいるのは俺だと叫びたかった。遠い昔に死んで埋められた男ではなく、
俺が、お前を抱いているのだと、ゆさぶり起こしてでも知らせたかった。
 しかし、できなかった。ユリウスはかたく目を閉じ、安らかに寝息をたてるアルカード
の髪に頬を当てて、流れ込んできた記憶を塗り消そうと努力した。眠りにつくアルカード
を見下ろすその顔、濃い色の髪、ベルモンド家の特徴をそなえた精悍な顔立ち、深く青い
瞳に、左目をたてにかすめるような傷痕をもった、その男の、愛のこもった微笑を。

210煌月の鎮魂歌10 1/43:2017/08/12(土) 22:43:08
 Ⅴ  1999年 六月

             1

 石畳の上にブーツが音をたてた。
「試練の通過は本人の帰還によってのみなされ、かつ証立てられる」
 この場を取り仕切るのは背筋をまっすぐに立て、青白い刃を目に宿した白馬崇光だった。
円形の競技場を思わせる大広間は寒く、壁際に立って両手を組んでいるイリーナの頬
は青ざめていた。白い息が少女の朱い唇のまわりに靄のように漂っている。
「この試練を無事通過することによって、鞭の所持者の資格は決定され、完全なものとな
る。聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉の主として、ユリウス・ベルモンド、汝は闇と魔から
人の世を守る守護者として立つことを認められる」
 ユリウスは小さく顎をひいてそれに応じた。


 早朝から聖堂に参じて祈祷を受け、聖水と聖餅による浄めを受けた。衣服はいったんす
べて奪われた上で、裸の身体を乳香と没薬で現れ、あらたに十字架の縫い取りのあるマン
トで覆われて御堂を出る。
 ベルモンド家の広大な敷地の中で、この御堂と白い円形競技場は格別の意味を持ってい
た。アルカードが眠る地下の聖堂を陰の心臓とするなら、こちらは陽の心臓だ。めんめん
と伝えられてきた吸血鬼殺しの聖鞭の所持者のしての資格は、この至聖所の中で行われる
試練によってのみ、ためされる。

211煌月の鎮魂歌10 2/43:2017/08/12(土) 22:43:53
 ユリウスは身にぴたりと添うレザーのジャケットとパンツを身につけ、使い慣れたライ
ダーズブーツを履いていた。どこもかしこも白く、神聖な印と古風な荘厳さに飾られた古
来の聖堂では、現代風のその衣装はいかにも場違いだったが、アルカードはなにも言わな
かった。イリーナの隣に立ち、美貌を永遠の輝きの中にかすませて、黙然とユリウスを見
守っている。目にしみるこの大広間の白さの中で、二つの黒い影がユリウスとアルカード
だった。ふたごの影のようにじっと立つアルカードを、ユリウスは見ないようにした。
 先月、ベッドでアルカードに寄り添って眠って以来、会うのはこの場がはじめてだっ
た。あの日以降、ユリウスは部屋に戻らず、夜は外に出てひとり鍛錬に汗を流すか、木立
や青草の上にまるくなって寝んだ。朝になると黙って屋敷に戻り、用意された食事を取っ
て、また黙々と身体を動かす日課に戻った。ベッドはからのまま何日も放置され、もし誰
かが尋ねてきていたとしても、それはユリウスの知るところではなかった。
 アルカードの心は読めない。いつもと同じように。もはや教えることはないと言ったの
は本当なのか、彼は昼間の鍛錬にはもう姿を見せなかったし、ときおり顔を出していたサ
ンルームのお茶会にも現れなくなった。できればユリウスも遠慮したいところだったのだ
が、イリーナがうるさいせいでこれにだけは列席しなくてはならない。
「このごろおとなしいのね、ユリウス」
 小さな女王はお茶のカップを前に、胸元のリボンをひねくりながら上目遣いでユリウス
を見た。
「あなたらしくないと言うべきかしら、それとも、あなたもやっと少しは分別が身につい
たと思うべきなのかしら」
「どっちでもいいさ」
 ユリウスは呟き、食いかけのサンドイッチから抜いたベーコンを白い虎猫に投げた。虎
猫はひょいと空中でつかまえ、旺盛な食欲でかみ砕いた。

212煌月の鎮魂歌10 3/43:2017/08/12(土) 22:44:28
 記憶と夢のあの一夜が、自分にどのような影響を与えたのかはよくわからない。ただ、
あの日の翌朝めざめて、胸を食い荒らしていた怒りと焦燥、心臓を引きちぎる痛みが、嘘
のように消えていたのは事実だった。
 いつ眠り込んだのかもはっきりしない。腕の中で寝息をたてるアルカードのぬくもりと
重みを感じ、あふれ流れる銀色の髪に踊る月光をぼんやり眺めているうちに時間がたって
しまった気もする。気がつくとすでにアルカードはおらず、ユリウスは広いベッドに一人
で横たわっていた。
 身を起こすと、かすかな薔薇の香り、そして清水に似た夜の冷気がにおった。奇妙なほ
ど平静な気持ちでユリウスは腕を持ち上げ、そこにひと筋の銀髪が残っているのを見た。
ほとんどなにも考えず、自然にそこに唇を押し当てていた。唇の上で髪は泡雪めいて冷た
く、薫り高かった。
 脳裏であの男の顔、深く濃い青の瞳と左目をかすめる傷跡をもつ男の面影がまたたいた
が、それは苦痛ではなく、淡い哀しみと郷愁に似た念を呼び起こすにとどまった。それは
おそらくユリウス自身のものではなく、昨晩腕の中で眠った者の、心のこだまが痕を残し
たものだと思われた。
 ユリウス自身はといえば、自分でもおどろくほどに平静だった。あるいはあまりに揺さ
ぶられすぎた心が、ついに無感覚に陥っただけなのか。どちらともわからない。いずれに
せよ、生まれてこのかたユリウスを灼いてきた強酸のような憤怒は、月を抱いて眠った一
夜のあいだに、あっけなく解けて流れてうせていた。
 奇妙な寂寥感があった。自分がからっぽになった気がしないでもなかったが、それはい
まだかつてユリウスが慣れたことのない、平安というものによって身体を満たされていた
せいかもしれなかった。

213煌月の鎮魂歌10 3/43:2017/08/12(土) 22:45:09
 むろん、馴染みの怒りが戻ってきて、とがった指ではらわたをつつくこともあった。だ
がその時には、いつでも指に残った銀髪と、そのひやりとした感触がよみがえり、燃えか
けた火はすみやかに凪いだ水面の静謐さに変わった。ユリウスは黙々と身体を動かし、こ
れまでにはなかった静穏さのなかで鞭をふるい、修練用の魔道機を次々と落とした。
 やってみると、これまでいかに怒りと憎悪が感覚を曇らせていたかがわかった。気づい
ていなかった目覆いがふとすべり落ちたかのようだった。派手な身振りは影をひそめ、必
要最低限の動きで鞭を操ることに、ユリウスは慣れた。立ちつくしたまま、わずかな手首
と指のひねりだけで、数十に及ぶ目標を落とすこともわけなくできた。
 ユリウスの目は澄み、赤くぎらついていた毒蛇の目はしだいに、深く青いベルモンド家
の瞳に似通ってきた。血を浴びたような赤毛はそのままだったが、挙動には急速に落ちつ
きと一種の優雅さがそなわり、粗野のかわりに沈黙と思慮がとってかわった。
 崇光でさえ、彼が変わったことを認めずにはいられなかった。神官の視線はあいかわら
ず厳しかったが、それでも日ごとにユリウスを見る視線には考え深い色が宿り、思案げに
指を唇にあてることが増えた。
 ユリウスは気にしなかった。以前──あの月の夜以前──なら、そんな風にうかがわ
れ、力量を取りざたされることにははげしく反発しただろうが、彼にはもう、眠る月と彼
のこぼした記憶のかけらがあった。涼しい薄荷の一片のように、それはいつでも匂やか
に、香り高く彼の胸をなだめた。あるいは薔薇。露を含んだ、清らかな純白の薔薇の花び
ら。
「決戦が近づいています」
 そしてついに、崇光は決断を下した。
「ユリウス・ベルモンドに、聖鞭の所持者の試練を。彼に準備ができていようと、いまい
と、あとのことは鞭自身が決定するでしょう」

214煌月の鎮魂歌10 5/43:2017/08/12(土) 22:45:52
 儀式の場に臨むのは崇光、対象者であるユリウス、イリーナ、そして、闇の公子アル
カード。余人はここに加わることを許されない。本来ならばベルモンドの当主、もしくは
それに準ずる血筋のものが司る儀礼とされていたが、崇光による再三の要請にもかかわら
ず、当主であるラファエルは姿を現さなかった。
 ──ラファエル様はご不調でいらっしゃいます、と代理として出てきたボウルガード夫
人が慇懃に答えた。
 ──お医者様からも無理はおさせしないようにと厳重に申し渡されております。鞭の授
受に関しては、白馬様にご一任せよとの仰せです。
 そうきっぱりと申し渡されてしまうと、崇光にもそれ以上無理強いすることはできなか
った。少年がこの半年間の出来事にいかに傷ついているか、知らぬ崇光ではない。ラファ
エルが同席せずともユリウスの鞭の試練を行うことはでき、また同席したところで、いた
ずらに少年の苦悩を増すことにしかならないのを考えれば、いたしかたのないことではあ
る。列席したところで、ラファエルにできることはなにもないのだ。
 円形の広間はほのかな微光に充たされていた。どこにも光源らしきものはなく、ただ磨
いた壁面や床面から、霧のような光の粒がただよって、空気そのものを輝かせているかに
思える。
 ユリウス、そして列席者一同が入ってきた扉は閉ざされ、内側からはどこにあるかもわ
からない。正面には高い祭壇と、その上にささやかな十字架、そして、鉄の枠のはまった
古びた函があった。函の蓋はひらいていた。ユリウスは黙って立ち、その内部からさす、
他の人間には知覚できない光と霊気を感じた。
「ユリウス・ベルモンド。こちらへ」
 手をあげて崇光が招いた。ユリウスは静かに前に出た。純白の床石がふわりと光る霧を
舞わせた。

215煌月の鎮魂歌10 6/43:2017/08/12(土) 22:46:27
「飲みなさい」
 大ぶりの酒杯が差し出された。重厚な装飾が施された銀製の高坏の中に、濃い紅の液体
が揺れていた。ユリウスは取って飲んだ。渋くてきつい酒精が舌を灼き、喉をしびれさせ
て胃の腑へ下っていった。
「とりなさい」
 酒杯を返して口をぬぐうユリウスから目を離さず、崇光は蓋の開いた函を示した。ここ
まで近づくと、その宝物の放つ力が肌に針で刺すように感じられた。
 凍りついた鋼鉄の塊に近づいたような、あるいは不機嫌にうずくまる猛獣の檻にいれら
れたような。背筋が粟立つ。首筋の毛がひとりでにひきつる。脳をそっと、だがさほど優
しくはなく、指でさぐられた思いがして、ユリウスはふらついた。
 崇光がじっと見つめている。
「……なんでもない」
 ユリウスは顔をぬぐった。知らないうちに汗をかいていた。指先にぬるりとした感触を
覚えて驚き、見てみて、それが脂汗の一滴でしかないのにまた驚いた。むしろ血の一滴で
あったほうが納得したのに。
 喉の奥に酒の渋さがまだ残っている。紅い葡萄酒。キリストの血。
 だが神はここにいない。真の聖性と神の名は別物だと知っている者しかここに入ること
はできない。かかげられた十字架は神のしるしではなく、この象徴のもとに集って闇にあ
らがってきた多くの人々の精神の精髄であり、あがめられているのは強靱な意志と不屈の
生命のみである。
 キリストの司祭ではない崇光が祭司として儀式を進めるのは、宗教的に見るなら奇妙な
ことかもしれないが、闇の最前線に立つものとしては当然だろう。ともに戦い、意志と力
を暗黒にささげる剣となす者が、儀式をとりおこなうのになんの不思議があろうか。
 ユリウスは血に擬した酒を口にし、それが身体で燃えるのを感じた。

216煌月の鎮魂歌10 7/43:2017/08/12(土) 22:47:04
 彼にとって、血とその味に結びつけられる人物は一人しかいない。それはどこともしれ
ない天国に座す神の子ではなく、たった今、この同じ部屋にひっそりと佇んでいる、月の
顔をした闇の公子だ……
「鞭をとりなさい、ユリウス・ベルモンド」
 崇光の声が強さを増した。
「鞭をとり、そして、出会いなさい。あなたの宿命に」
 ユリウスはもう一度大きく息を吸った。
 そして手を伸ばした。すぐ目の前にある祭壇がひどく遠く思えた。空気が粘りけをま
し、自分の腕が伸びていくのがひどく遅く見えた。自分のものではないような手が、函に
ふれ、その内部に眠るものをつかむ。
 それは手の中で一瞬もがくように思えた。触れた瞬間は冷たくてざらついていると感じ
たが、一瞬のち、それは熱くなり、なめらかな絹の手触りになった。手のひらを温かな繻
子の表面がこすると感じて、ユリウスはさらに手を入れ、その、古びた皮の鞭の握りを、
しっかりと掴んだ。
 なにも起こらない──そう思った。
 だが、口を開こうとした次の瞬間、足もとの床が割れた。
 口を開いた暗黒がユリウスを飲み込んだ。白い石が音もなく舞い、立ち上がって周囲か
ら折り重なってきた。崇光とイリーナ、そして、アルカードの姿が上昇し、小さくなっ
て、視界の果てに消え失せた。墜落と失墜の恐ろしい感覚がユリウスを捕らえた。
 ユリウスは叫んだ。だが、声にはならず、なったところで誰も聞いてはいなかった。
 底もなく続く暗黒の陥穽の底へ、ユリウスは墜ちた。

217煌月の鎮魂歌10 8/43:2017/08/12(土) 22:47:39
 儀式が開始されたちょうどそのころ、屋敷の奥で、ボウルガード夫人はそっと寝室の扉
を後ろ手に閉じた。
 衣擦れの音をさせながら進む。窓は閉ざされ、室内には異様な熱気がこもっていた。卵
の腐ったような臭気──硫黄の臭いだ。夫人はしとやかに口を押さえ、ベッドのカーテン
を押しのけて、かがみ込んだ。病の子供を思いやる母のしぐさだった。
「ラファエル様」そっと彼女はささやいた。
「あの野良犬が鞭の試練に挑んでおりますよ」
 低い呻り声が応じた。
「ええ、ええ、さようでございますとも──そのようなこと、許してはおけませんとも。
そうです、ラファエル様をおいて、あの鞭を手にすべき方などおられません。聖鞭を手に
し、アルカード様の隣に立たれるのは、ほかならぬラファエル様であるべきです。でなけ
れば、すべては間違っています」
 またしばらく口をつぐんで、
「そうですね、白馬様はそう思っていらっしゃるようです。最終決戦における鞭の使い手
たる資格があの男にはあると。なんという勘違いでしょう。あのような賤しい私生児に、
鞭が自らを手にすることなど許すはずがございません。アルカード様もお気の毒に。ご自
身のお父君の復活を、本来ならば子として喜び迎えるべきところを、人の操り人形となら
れ、本来ご自身のものたるべき闇の王冠を砕く手伝いをなさるとは」
 細い指が弱々しくシーツを掻いた。ボウルガード夫人は頭を傾けて何かに聞き入るしぐ
さをした。きっちりと結い上げた白髪は微動だにせず、しわの寄った顔にはなにか超越的
な微笑が漂っていた。彼女は布団に手を入れ、そっと少年の指を包んで胸に抱いた。そし
て赤ん坊を抱いて揺するようにかるく揺すった。

218煌月の鎮魂歌10 9/43:2017/08/12(土) 22:48:10
「そうです──なにもかもが間違っているのです、ラファエル様。あなた様こそが聖鞭の
使い手として、アルカード様のおそばに立ち、あの方の心を手にすべきでした。何百年も
前に死んだものではなく。あなた様こそベルモンドの誉れであり、父上ミカエル様でさえ
とげられなかった偉業をなすよう定められたお方でしたのに。
 あの男の手に触れられたことで鞭はあなたを裏切り、ベルモンドの血もあなたを裏切っ
たのです。あのような男、試練どころかベルモンドの名さえ名乗る資格も持たない。あの
者を受け入れることを決めたとき、ベルモンドはあなた様の故郷であることを自ら放棄し
たのです。その資格なきものを、こともあろうにあなた様に替えようとした罪で」
 低かった呼吸が耳障りになった。ざらついた吐息が何事かを叫び、やせ細った腕が引き
つれた。ボウルガード夫人は骨と皮ばかりになった少年の手を頬にあて、口づけ、恋人の
仕草で乳房に押しつけた。
「おお、そう、そう、そう」
 老女はうめいた。濡れた舌がくねり出て、ねっとりと唇をなめた。異様に長く、とがっ
た赤い舌だった。ほとんど顎までも届きそうな舌が唇にひっこむ。白髪が解け、肩から腰
へとなだれ落ちた。ベッドの端に腰をおろした夫人は、身震いして髪の重さを払いのけ
た。
 頭を持ち上げ、満足げに指をなめるその横顔から、しだいにしわが消えていく。まつげ
は濃く黒く、髪もまたつややかに黒く。肌は深海の真珠に似て冷たく青白く、唇はあくま
で赤い。禁欲的な繻子のドレスの下から、肉感的な肩と腰、なまめかしい白い首、脂のの
った太股とゆたかな乳房が、夜の花のように開きだす。
「さようでごさいます。間違ったことは正さねばなりません。あの野良犬が触れた品な
ど、もはや聖なる品でもなんでもない。ラファエル様がおとりになるのは、もっと良いも
のでなければなりません。正しきあなた様の武器を、こちらに」

219煌月の鎮魂歌10 11/43:2017/08/12(土) 22:48:44
 いまや妖艶な女の姿となったかつてのボウルガード夫人は、性の極みにあるかのように
唇を半開きにし、身をくねらせて手をのばした。
 そこに、鞭があった。黒く、沈んだ色の黄金と宝石で飾られており、赤い光がちらちら
とまつわるさまは、その場にありながら地底の炎をまつわらせているかのようだった。握
りに填められた黄色い琥珀が魔物の目のようにまたたいている。
 ラファエルは獣のようにうめいて手をのばした。その手の触れる寸前、女はつと鞭を後
ろへ引いた。
「ああ、いけません、いけません」
 唸り、叫び、首を左右にふってもがく少年に、女は唇を突き出して指を振った。
「これは正しき鞭。あやまった聖鞭を砕くべく作られたあなた様の鞭、ね、でも、これを
おとりになるには、今のままではいけません。いえ、これはあなた様の鞭です、資格だな
んだ、うるさいことは申しませんわ、でもね、ラファエル様、これをお持ちになるには、
たった一つ、せねばならないことがありますわ──」
 開いた唇がみだらに喘ぐ。硫黄の臭いが強まった。少年は叫び、身もだえ、鞭を求めて
悲鳴を上げた。ほとんど言葉になっていないその声にこもった意味を、妖女は正確に理解
した。
「ああ、わかってくださるのね、ラファエル様」
 唇が開き、その肌よりももっと白い、長大な牙がこぼれ出た。
 墓場の臭いが一気に強くなった。
「嬉しいわ」
 女の影がベッドに倒れこんだ。かすかにすすり泣く悲鳴が上がり、ばたばたと手がベッ
ドを打って、やがて力なく垂れさがった。あふれる長い黒髪が夜の滝となってベッドを覆
う。猫が舌を鳴らすのに似たぬれた音。
 そして静寂。

220煌月の鎮魂歌10 11/43:2017/08/12(土) 22:49:21

            2

 はためく時間と記憶のただ中を、まっしぐらにユリウスは落ちていった。
 頭を下にしているのかそれとも足を下にしているのか定かではなかった。そもそも肉体
があるのかどうかさえ判然としない。ユリウスの存在は膨大な記憶と積み重ねられた過去
のなかに解けさり、存在のしるしとしては、ただ観察者としての位置、はためき過ぎてい
く累代の鞭の所持者たちの顔や手や動きを、ちらと認識するだけの無力な通過者でしかな
かった。
 見たことのない男たち……時には女もいる……その誰もがきびしい青い目をし、同じ聖
なる、または呪われた、革の鞭を手にしている……しなる胴体は蛇のようにかれらの運命
に巻きつき、締めつける……たくましい肩や胸、踏みしめた足……はためくコートと切り
裂かれる肌、その上に咲く血の赤い花、目の端をよぎる怪物のおそろしく歪んだ顔貌、よ
じれた手、むきだした牙……血が油のようにゆっくりと滴り、何者かの命数がつきたこと
を告げる……黙然と立ちつくす長身の影……手にはだらりと下がった鞭がある……一瞬、
どこかで記憶を刺激する顔立ちが、同じく遠い記憶の中にあるような、ほっそりした背中
の女と寄り添っているのが見えたが、それもまたすぐに、重なり合う時間の翼のむこうに
はばたいて去ってしまう……
 くるりと場面はまわり、銀髪をなびかせた男が鞭とともに古い呪文を口にし、あたりを
払っている……銀髪……銀髪……胸が苦しいのはなぜだろう……また視界がまわる……
 現れた男はどこか記憶を切りつける痛みをもたらす……声を上げようとするが喉も唇も
存在しない……ちがった、これは〈あの男〉ではない……彼よりも若く、いくぶん穏やか
な目をしている……戸惑ったような……悲しげな? いや……金髪の幼い少女がいる……
四匹の獣たちをつれて……少女はいつのまにか成長して若い娘になる……銀髪……黒衣の
……また舞台がかわる……

221煌月の鎮魂歌10 12/43:2017/08/12(土) 22:49:56
 涙と夜の底で鞭が生まれる瞬間を目にする。若き騎士は夜の王たる吸血鬼に汚されたわ
が身を恋人にささげて武器と化す。喜びと幸福しか知らなかった青年は恋人の生命と魂の
変じた呪わしくも愛おしい武器を抱いて号泣する……
 知覚と、そして手の中の熱だけが存在のすべてだった。回転する過去のまわり舞台の中
心にユリウスはいて、そして果てしなく落ちつづけていた。まわりで過去がはばたき、か
すかな衣擦れとため息に似た音をさせて頭上へと飛び去った。灼けた鉄のように握りが手
のひらに焦げつく。
 自分の名前すらほとんど思い出さなかった。身体と精神のなかを突きぬけていく歴代の
記憶、鞭に眠る累代の使い手たちの意識の前に、ちっぽけな個人の意識などは激流にのま
れる小石のようなものだった。じわじわと熱が広がり、残った意識をも呑み込んでいく。
それは奇妙にもここちよかった。混乱した意識を、あらがいがたい時間が広くなめらかに
撫でていき、個人の意識という突堤をならして、永遠の意識の中に織り込もうとする。
 落下のただ中で、もはや意識されてもいない顔が、微笑を浮かべた──のかもしれな
い。ほとんど唯一となろうとする手の中の灼熱にすべてを明け渡し、感覚をとざそうとし
たその時、ちらりと深く鋭い青の瞳が、意識の中に焼き付いた。
 ユリウスはかっと目を開いた。
 ぐるりと身体が回り、平らな場所に勢いよく放り出された。
 あやうく受け身を取って立ち上がる。どこともしれない広い場所だった。足の下は平ら
だが床の存在は感じられず、ただ足を支える空間だけが、身を置いたその場にのみ出現す
る白い虚空だ。上も周囲も限りなく、ただ無。
 白熱する針がこめかみに燃えている。目も頭もずきずきと痛み、背中はこわばって堅
い。手足はうまく動かず、ともすればひきつって自分では意図しない動きをとろうとす
る。皮膚が針でさされたように感じる。空間に電気がみなぎっているかに思える。
 何かがいる──この奥に。
 ユリウスは鞭を引きつけ、待った。

222煌月の鎮魂歌10 13/43:2017/08/12(土) 22:50:29
 長い一呼吸ののち、白い虚無の奥に、何かが動いた。
 ユリウスは唇をあけ、あえいだ。その相手は大型の獣のように静かに、優雅とさえ言え
る動作でこちらに向かって進んできた。
 古風な長いコートの裾が動きにつれてゆっくりとなびく。肩を少し越えるほどのかたい
茶色の髪、精悍な顔立ちはまさに狼。彫りの深い男性的な顔立ちに、夏空の深みを思わせ
る鮮やかな青のベルモンドの目が光り、その左目をたてに裂くように、灰色を帯びた傷跡
が走っている。そして広くあけた上衣の胸にも、大きな傷跡が。
 男は鞭を手にしていた。ユリウスが手にしているのと寸分たがわぬ、聖鞭〈ヴァンパイ
ア・キラー〉を。
 ユリウスは男の名を知っていた。
 いまだ会ったことはなく、この瞬間までは会うこともなかったが、この世でもっとも憎
む男の名を。


 忘れたと思っていた憤怒がなにもかもを押し流すいきおいで噴出した。
 ちぎらんばかりに鞭をつかみ、雄叫びをほとばしらせて、ユリウスは黙然と立ちつくす
相手に向かって飛びかかっていった。
 化鳥の叫びとともにうち下ろされた鞭はあっさりと片手で跳ね返された。まったく同一
の鞭を手にした男は右の前腕をわずかに振っただけでユリウスの攻撃をしりぞけ、同じ一
動作でユリウス自身へと攻撃を跳ね返らせた。ユリウスは歯をむき出して鞭をひき、大き
く肩を開いて真横から鞭をしなわせた。
 攻撃がかすめた場所には、もはや男はいなかった。空を切った一撃に気づいてユリウス
が身をひるがえす前に、男は彼の背後に移動していた。ほとばしる無音の気合にユリウス
が身をひねった瞬間、とがったブーツの先があばら骨を砕かんばかりに蹴り込まれた。

223煌月の鎮魂歌10 14/43:2017/08/12(土) 22:51:04
 たまらずユリウスは膝を折った。痛打された腎臓が破裂するような激痛を生み、酸い胃
液が勝手にこみあげてきて喉を灼く。傾きかかる身体をののしって頭を振り、つきかけた
腕をよじって肘をつきあげる。
 肘はがっしりした胸をかすめ、相手がわずかに息を吐くのを感じた。勢いをかってわざ
と倒れ込み、転がって敵の下から逃れる。痛みは煮えたぎる感情のあらしにさらされてど
こかへ飛び去った。
 迫る風の音を耳というより肌で感じる。一瞬早く体をさばいたが、攻撃はなおも追いす
がった。胴体に衝撃。息が絞り出され、あばらが軋む。腰から胸に巻きついた鞭が大蛇の
ように締め上げ、肉と骨とを食いちぎろうとしている。勢いに逆らわず、鞭の方向に従っ
て転がった。相手がさらに締め上げるより早く回転して束縛を脱する。鞭の先端がカミソ
リのように肌を傷つけ、血が流れた。白い空間に鮮血が点々と散る。
 両腕をついて跳ねあがる。大きく空中に鞭を舞わせた相手の姿がさかさに見えた。その
濃い青の双眸が胸をつらぬく。左目をかすめる傷跡、彫りの深い厳しい顔立ち。その顔が
どれほど柔らかくなごむか、ユリウスは知っている。
 筋肉の限界まで身をよじって、高く脚を蹴り上げた。同時に手の鞭がうねる。操り手の
錯綜する感情をそのまま映したかのような、絡み合う軌跡が描かれた。一目ではとても見
てとれない複数の打撃が相手の頭上に広がる。姿のない蜘蛛がいっせいに糸を吐いたかの
ような、それぞれが必殺の気をこめた鞭が唸りをあげる。
 打たれようが刺されようがどうでもいい。たとえ心臓をえぐり出されたとしても。
 俺は。 
 お前にだけは。

224煌月の鎮魂歌10 15/43:2017/08/12(土) 22:51:37
 蹴り上げた脚が交差する。
 男は体躯に似合わない軽い動作でつま先を弾き、ひらりと回転して地に降りた。複雑に
交差した鞭の軌道はたちまちほどけ、弾けてユリウスのもとに跳ね返ってきた。自らの放
った攻撃をことごとくそっくりそのまま戻され、ユリウスは声高に呪った。自分自身の技
をさばくのに気を取られたすきに、敵の鋭い攻撃が絡むように這い寄ってくる。
 ユリウスは罵声とともに身を低くし、相手のブーツの足首めがけて這うような蹴りと鞭
の触手をとばした。はためいた相手のコートの裾が下に降りないうちに跳ね起き、血の駆
り立てるままにまた技を繰り出す。赤い髪は逆立ち、まさに毒蛇にふさわしい鎌首をもた
げて乱れ飛んだ。足首を絡まれて、男はわずかに動きを止めた。とたん、一瞬にして百に
もおよぶかと思われる鞭打の波が、身を低くした彼に襲いかかる。
 伏せられていた男の目が光った。──青く。
 何が起こったのか、見て取れるものはいなかったろう。なにか形のない、しかしすさま
じい質量を持つ突風に、ユリウスは吹き飛ばされた。骨がきしみ、砕ける音がした。声を
もらした唇から血のしずくがこぼれ、虚空に赤い筋をひいた。
 手の中の燃える鞭の感触が薄らぎ、遠ざかった。ユリウスの繰り出した攻撃はことごと
く打ち砕かれ、塵となって失せた。男の腕のまわりで聖鞭ヴァンパイア・キラーは生き物
のようにうねり、宙をないだ。鞭のうなりがかすかな残響となって漂った。
 男はまた静かに立ちつくした。すべては一瞬のことであった。
 ユリウスは打ち倒され、鞭も砕かれて、その場に横たわっていた。なすすべもなく。短
い交戦によって骨の髄まで打ちのめされ、敗北を刻みこまれていた。
 敵手はこの空間そのもののように強力で抜かりがなく、情けもなく、ただ冷徹な知性と
戦闘の意志に満ちていた。人間のかなうはずもない相手なのだった。ましてや感情に突き
動かされ、泣き叫ぶ幼児のように飛びかかっていったユリウスでは、とても。

225煌月の鎮魂歌10 16/43:2017/08/12(土) 22:52:14
 喘ぎ、すすり泣きながらユリウスはそれでも立とうとした。とたん、目にもとまらぬ一
撃で脚を払われ、背中をうたれた。手のひらで叩かれたようにその場に押しつぶされ、這
いつくばってもがいた。
 全身が重く、冷たい。きしむ骨の一本一本が音を立てて砕けていくのがわかる。指を離
れた鞭をさぐろうとして指を動かすと、苦痛の花が全身にひらいた。喉の奥から糸を引く
苦鳴がもれる。
 ゆっくりと相手が近づいてくる。必死に反撃の方法をさぐろうとするが、身体はまった
く言うことをきかない。痛みの巣となった脚も腕もだらりと垂れたまま動かず、燃えるよ
うな苦痛だけが存在している。
 男がすぐそばに立った。静謐な存在感と、圧倒的な力の気配だけが感じられる。
 そしてあの目。
 夏空の色をした、あの男の青い目が。
「お──まえ──だけは」
 もがき、ユリウスは呻いた。ざらついた声がやすりとなって喉をこすった。苦い血が舌
をこがし、頬が濡れた。
「お前だけは──許さない……」
 鋭い一撃が肩胛骨の真ん中を打ち、起きあがろうとしたユリウスをふたたび地面に釘付
けにした。
「お前だけだ。あいつはお前しか見ない。お前のことしか考えていない、それなのに、お
まえは──あんたは、あいつを独りにした……」
 しゃべると血が筋をひいてしたたった。落ちた滴は赤く、ぼんやりとにじんでいた。頬
を伝う熱いものを、ユリウスはぬぐわなかった。身も世もなく、彼は泣いていた。マンハ
ッタンの毒蛇が、幼い子供の涙を流して、人目もはばからず泣き崩れていた。

226煌月の鎮魂歌10 17/43:2017/08/12(土) 22:52:50
「あんたしかあいつを温めてやれるものはいない。なのに、なんでそばにいてやらなかっ
た。なんであいつを独りにした。あいつは五百年間ずっと独りだった。あんたのことしか
見ていないのに、あんたはどこにもいない。血の継承なんかくそくらえ。ここにいるべき
なのは、本当は俺じゃなくてあんただったのに。あいつを守ってやれるのは、あんただけ
だったのに、なのに、なんで死んだ」
 かざした拳は床にうちつけられた。「なんでなんだよ」
 また打ち据えられるのかと一瞬思ったが、苦痛はやってこなかった。そのことにユリウ
スはいっそう傷ついた。
 子供じみた理屈で、道理に合わない難詰をならべているのは十分知っている。ユリウス
が求めるのは、罰されることだった。あの銀色の月を、救うことも守ることもできず、そ
の心の空虚を埋めるすべさえもたないまま見つめるしかない自分。あまりに遠いその心に
ふれることすらできず、苛立ちのままに蹂躙することしか知らなかった。
 いつか見た光景が脳裏にまたたく。寝台で眠る男と、そのかたわらに膝をついて身じろ
ぎもしない白い影。わかっていた──この男もまた、ユリウスと同じく、月を抱いて過ご
す永遠を望んだのだと。
 しかし、陽光と夏に属する彼を、闇と冷気の世界へ引き込むことを月は肯んじなかっ
た。離れたのは月のほうだ。魂を捧げた恋人に、身を縛る呪いの円環をきせまいと、ひと
しずくの血を残しただけで姿を消した、敷布に残った薔薇の花弁、赤い涙のあと……
 だが男はあきらめなかった。人が唯一永遠を得られる方法で、いつか目覚めるもののた
めに寄り添うべきものを遺した。自分の血を引き継ぐ子孫。血の中に受け継がれた生命が
必ずまた愛する者を迎えると信じて、力と意志を後の世に送り出した。
 だが彼が考えなかったのは、血の器として生まれたものたちにも心があり、魂があった
ことだ。引き継がれた血はどうしようもなく愛を求め、喪われたものの代わりに自分がな
ることを欲する。どうあがいてもかなえられることのない願い。月が求めているのは遠い
昔に別れた相手だけだというのに。器でしかない自分は本物にはけっしてなれないと知り
つつ、だが、愛することはやめられない。

227煌月の鎮魂歌10 18/43:2017/08/12(土) 22:53:24
 血の呪いというなら、これこそがまさにそうだ。けっして自分を見ない相手を、狂うほ
どに愛しつづける運命を刻まれている。魂を焦がす苦悩は、同時にあまりにも甘美だ。ど
れほど憎もうとしても、かぐわしい月の光にふれればたちまち幸福が全身を満たす。
 だが月を癒すことはだれにもできない。喪われた本当の伴侶以外には。絶望と愛に引き
裂かれながら見つめるものの前で、月は手も届かない高みで輝く。その光で万物を照らし
ながら、自らは、孤独のうちにただ刻々と凍りついていくというのに──
 頭上で相手がゆらりと動いた。
 もはや口もきけず、うなだれたまま涙で頬をぬらしていたユリウスは、今度こそ審判が
下るものと感じ、戦慄にも似た期待に身をこわばらせた。相手は一歩前に進み出、ゆるや
かに身を屈めてきた。濃い茶色のかたい髪が頬をかすめた。
(──、)
 耳に吹き込まれた一言に、ユリウスはまばたいた。
 予想もしない言葉だった。思わず相手を振りあおごうとしたとたん、身体が傾いた。反
射的にもがいて掴まるところを探したが、触れたところから白い床は霧となって虚空にと
け、ミルク色の粒子が渦を巻いた。
 再びユリウスは落ちた。無音の虚無をどこまでも落下していく。自分の赤毛が上方に向
かって吹きなびき、握った鞭もまた何かを求めるかのように遠い空へとのびている。
 小さくなる視界の中心に、あの男がいた。同じ鞭をもち、夏空の青の目をして、読みと
れない表情を血を継ぐものに向けている。
 そのひらいた胸元に、小さく光るものをユリウスは見た。無骨な指先が、いつくしむよ
うに触れている。鎖を通して首から下げられた、きゃしゃな銀色の指輪。まるで月光で─
─彼のあのひやりとする髪をとって編んだかのような、細く美しい指輪。

228煌月の鎮魂歌10 19/43:2017/08/12(土) 22:54:05
「ユリウス?」
 急速に音が戻ってきた。
 ユリウスは目を開き、真っ白な床と、そこに立つ自分のブーツのつま先を見つめた。驚
くほど頭が澄み渡っていた。つい今まで感じていた苦痛は夢の一片として記憶にあるばか
りだった。
 腕は眼前の函の中に伸び、そこに置かれた古びた革鞭の握りをつかんでいる。函のかた
わらには崇光が立ち、油断のない姿勢で手をなかば持ち上げている。強烈な視線がこちら
にむけられているのを感じる。
「ユリウス? どうしました?」
 ユリウスは長い息をついた。
 そしてゆっくりと腕をひき、鞭を函からとった。
 ひどく軽かった。これまで持ったどの鞭よりも軽く、それでいて弱々しいところはまっ
たくない。なめし革で巻かれた握りは手にしっくりと吸いつく。生まれてこの方、この鞭
を手放したことなどないように感じた。はじめから身体の一部だったという気さえする。
編んだ革の先にまで神経が通い、鞭がこすった繻子の布のなめらかさまでも指に触れる。
 それでいて、新たな力が身のうちを駆けめぐっている。先ほどまでは圧迫感としてあっ
た強烈な力と霊気が、血管に流れる血と同様に心臓を出入りし、神経の火花として動いて
いる。
 両手に持って鞭を張ると、小気味いい音がした。軽くしごいて力をくわえる。鞭はしな
って大きな弧を描き、幾重もの円を繰り出して、一瞬にしてまたユリウスのもとにもどっ
た。受け止めたユリウスの手で、鞭は機嫌のいい猫のように温かく身を丸めた。
「鞭は彼を使い手として認めた」
 低い声がした。崇光は振り返った。アルカードが壁際から歩いてきて、ユリウスの前に
立った。あとからイリーナが小走りにやってきて少し離れたところで立ち止まり、鞭を手
にしたユリウスを丸い目をして見た。

229煌月の鎮魂歌10 20/43:2017/08/12(土) 22:54:46
「……そのようですね」
 からになった函と、輪にした鞭を手に黙って立ちつくしているユリウスを崇光はしばら
く見比べていたが、やがて小さく息をついて蓋をとじた。うつむいた顔は表情を消してお
り、そこからは、ユリウスが死ぬことも狂うこともなく、試練に合格したことを喜んでい
るのか苦々しく思っているのかは、見分けられなかった。
 ユリウスはぼんやりと鞭を腰のベルトにつけた。すでにそれは呼吸するのと同様に、ご
く自然な日常のものとなっていた。アルカードは鞭を見つめ、またユリウスを見つめた。
氷青の瞳の奥に金色の光がちらつき、ユリウスはめまいを覚えた。
「よかったわ、ユリウス」
 イリーナがやってきてユリウスの手をとった。
「新しいヴァンパイア・キラーの使い手の誕生ね。どうなるのかと思って気が気じゃなか
ったけど、あなたが無事生き残ったのはうれしいわ。鞭の使い手がいなければ、ドラキュ
ラの打倒は不可能なんですもの」
「……俺はどのくらい眠っていたんだ」
 無意識に指を曲げ延ばししながらユリウスは尋ねた。「眠っていた?」イリーナはけげ
んそうに眉をひそめ、
「眠ってなんかいないわ。あなた、鞭にさわってほんの一瞬固まっただけよ。一秒もなか
ったんじゃないかしら。スーコゥが声をかけたら、すぐ動き出したわ」
 ああ、とユリウスは呻いた。
 あのどこともしれない虚空で相対した男の顔が目の奥にある。鞭に宿る英霊──数多く
のベルモンドの魂がこの鞭にはこもっているはずだが、その中であの男が姿を現したの
は、はたして鞭の意志なのか、それとも──
 ユリウスはアルカードの目を真正面から見た。アルカードはまばたき、それから顔をそ
むけた。珍しいことだった。いつもは、目をそらすのはユリウスの方だというのに。

230煌月の鎮魂歌10 21/43:2017/08/12(土) 22:55:20
 俺はあいつに会った、という言葉が喉まであがってきた。だが唇を開いたとき、声にな
ったのは別のことだった。
「俺は聖鞭の所持者になった」ユリウスは言った。「満足か?」
 アルカードの肩がふるえた。視線をそらしたまま彼は手をあげ、胸元をさぐるような仕
草をした。そこに何もないことに気づき、はっとしてやめる。ユリウスはふたたびめまい
を感じた。あの男が触れていた銀色の細い指輪が浮かんだ。月の色の金属、まるで目の前
の者の髪をとって編んだかのような。
 わけのわからない苛立ちが押し寄せ、ユリウスはブーツを鳴らして背を向けた。崇光は
音をたてずに函をしまい、儀式の道具をもとに戻している。イリーナはなにかしゃべりな
がら後についてきた。ほとんど注意を払わず、ユリウスは扉があったと記憶しているあた
りに歩み寄り、手を伸ばした。記憶と感情が再び平静をとりもどすまで、誰にも会わず、
夢も見ずに眠ってしまいたかった。
 ほとんど継ぎ目の見えない壁面にユリウスが触れようとしたとき、壁の向こうがわか
ら、あわただしい気配が伝わってきた。一歩下がって、すでに肉体の一部となった聖鞭の
柄に手を触れる。イリーナが急に頭をあげ、鼻をつきだして空気をかいだ。魔女の瞳が緑
色に爛々と燃えだした。
『非常事態……大変です……害──……様が』
「なにがあった」
 ユリウスの手の甲を一本の指が押さえた。いつの間にかアルカードがそばにいて、ユリ
ウスが鞭においた手を人差し指で抑えている。彼は頭をかたむけ、扉のむこうに耳を寄せ
た。
「どうしたんです」
 崇光もやってきて、三人をかばうように扉との間に立ちふさがった。
「ここにはだれも近づいてはならないはずです。いったいなんの騒ぎですか? 闇の者の
襲撃ですか?」

231煌月の鎮魂歌10 22/43:2017/08/12(土) 22:55:54
「ラファエル」
 突然、イリーナが言った。三人の青年はぎょっとしたように少女を振り返った。
「何か見えるのですか、イリーナ」
「大きな闇。強力な暗黒の力。どんどん大きくなってる」
 そう呟くと、イリーナは震えはじめた。見開いた両目にみるみる涙がふくれあがる。両
手で口をおおって、震えながら少女はしゃくりあげた。
「ああ、駄目、駄目よ、ラファエル、その手をとっては駄目。でももうあの子に声は届か
ない。誰の声も聞こえない。あの子は行ってしまったわ、闇の奥へ、魂の深淵に潜む夜の
領域へ。誰かあの子を止めて、あの子は、もっとも忌まわしいものとして、自ら生んだ暗
黒の淵に沈もうとしている。彼を救ってあげて」
 崇光が鋭く息を吸った。飛びつかんばかりに壁に手を伸ばした彼を、「待て」とアル
カードが制止した。
「開けるな。聞け」
 崇光はまばたき、頭をもたげて耳をすませるしぐさをした。イリーナは震えてしゃくり
あげている。ユリウスはわれ知らず少女の肩に手を回し、そばに引き寄せていた。自然に
鞭に手が伸びる。ヴァンパイア・キラー。吸血鬼殺しの鞭、闇のものを払う聖なる武器
は、まるで狩猟の予感にわななく猟犬のように感じられた。
「近くにいる。接近している」自然に言葉が漏れた。アルカードがちらりとこちらに視線
を投げた。
「なんということだ」崇光が吐息のように呟いた。
 壁のむこうで重いものの倒れる音が連続した。古くなった果物の潰れる音、あるいは水
を詰めた袋が破裂する音。そうした胸の悪くなる音のあいまに、さらさらという衣擦れの
ような音が混じる。舌なめずりと小さな足音、忍び笑い、そして風を切るなにか細いもの
のたてる音──


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