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Awake

40Awake 3話(10/24):2013/09/20(金) 05:34:31
「……それに逆上されてまた首でも絞められたら堪らんからな」
 輔祭は師匠に対して口角を引き攣らせた苦々しい表情で睨み付けて、わざと首の辺りを
擦りながら憎々しげに答えた。
「それから」
「まだ何かあるのか?」

「この二人をあの城跡に連れて行く許可も欲しい」

「ほう、そこまで物分りが良い人間だったのか。ならば先程の所作は何だったのだ。貴様」
「……!」
「な……何で!? 酷いよ父さん! ネイサン……こいつにグレーブスおじさん達を辱める所を
見せるってのか!? 俺だって見たくない!」
 俺は残酷な展開に言葉を詰まらせ、信頼していた者に裏切られたような心持になったの
だろうか、ヒューは一瞬驚いた表情をして師匠に食って掛かった。
「このまま見せないで遺体と対面させるのが普通の親や、大人の心情であろうし俺もその
一人だ。だけど俺はただの親ではなくハンターだ、そして目の前のお前をハンターとして
育て、両親を一晩にして失った……ネイサン、お前にもハンターの血が流れている」
 師匠はより強く温かい腕で俺達を抱きすくめたが、血と埃被った汗の匂いがする濡れた
衣服を通して判るくらい全身が震えていた。
 ハンターになる事は犠牲者の血も屠った者の血も、誰の血とも分からず浴び続ければな
らない賎業である事に変わりはない。だけど誰かが、人外の力に対抗し得る術を持った人
間がその責を負わなければ人の生活や生命は力のままに貪られるだろう。
「俺とてそのような惨い真似を許したくは無い。この言葉を吐いている事自体忌まわしい。
だがヒューよ、俺達ハンターは何のために戦っている? 名誉か? 金か?」

41Awake 3話(11/24):2013/09/20(金) 05:35:28
「力を持たない人のためだ……父さんはそう教えてくれた」
「お前自身はどうだ?」
「……俺は、まだ判らない。皆の後を付いて行っているだけだから」
 ヒューは師匠の問いかけに目を伏せてから上目遣いに師匠の方を向いて最善の答えを探すよ
うに答えたが、師匠はその答えに主体性がないように思えたのだろう。
 継承の際に師匠からカルパチアの惨劇を俺達二人に見せ、職業の選択を与えたと聞いた。
「そうか……ならば後始末を見てから答えを探すがいい。だが、ヒュー。ネイサン。俺はグレーブス
達の死をだしにしてお前達に道を指し示している訳ではないという事を解ってくれ」
 
「ハンターとして生きる事は傍目から見れば、恐れられながらも今では名誉と賞賛を受け
られる職業だろう。しかし、その生と死は平等ではない。道中、匪賊や野生の生物に命を
獲られ、仕事で人々のために斃れたとしてもグレーブス達のように、異郷の地で罪人に等しい
弔い方をされる者の方が多い。俺はお前達に利の側面だけを見せてハンターの道を選ばせ
たくは無い」
 師匠は静かに俺達の頭を撫で、そのままの恰好で輔祭に問いかけた。
「しかし輔祭。貴方は何故法を犯してまで村人を焚き付けるか?」
「この地域は昔から規模を問わず吸血鬼の被害が後を絶たなくてな、一週間もしないうち
に死者がよみがえってきた事だってある……私の妹はその犠牲になった。見習いだった私
はその妹を押さえ付け心臓に白木の杭を深く……深く……」
 輔祭はこれ以上の凄惨な酷い過去を思い出すのが辛いようで、その様子は幼かった俺に
もそう聞こえるくらい悲痛な声で最後のほうは消え入るような声で呟いていたが、肩を震
わせ輔祭は涙を見せたくないのか俺達から体を背けて静かに陳謝した。
「残された者が肉親さえも己が手にかける悲劇を私は、いや私だけでなくこの村の者は皆、
二度と生きている内に目にしたくは無いのだ……助けてもらったのに一時の感情だけで侮
辱して……済まなかった」

42Awake 3話(12/24):2013/09/20(金) 05:36:09
「輔祭……貴方は……」
 師匠は言葉を詰まらせて何と声を掛けようか逡巡していたようだったが、輔祭は同情さ
れたくなかったのだろう、消え入りそうな声から硬い声をだして頑として撥ね付けた。
「忘れろ。力を求めて得られなかった者の言葉など。しかしこれだけは言っておく。後始
末を怠ったが故に二次災害が起きるのは貴様等にとっては関係なくとも、逃げる土地を持
たない人間にとっては遁れられない事態になるのを忘れんでくれ」
 二次災害――死者の復活は伝染病などで死者が大量に発生した時に処理がまずい場合に
起こる事が多い。
 疫病などで死んだ遺体を早急に処理するために棺に入れないまま浅く土葬し、死後硬直
した遺体が土中から腰を曲げたL字型の状態で跳ね起きる現象が挙げられるけど、まずそれ
は死体であってそこから動かない。
 だけどこの場合は稀ではあるが死亡確認せずに仮死状態で埋められた生体が、長時間の
真空に近い圧迫と暗闇の中に放置された事で錯乱状態に陥り、通常の数倍の力を発揮して
酸素と光を求めその空間、急ごしらえの棺を有らん限りの力を持って破壊し、その後は浅
く盛られたばかりの軟らかい土を天上へ、天上へと爪が剥げ血だらけの指先で掻き分けて
這い出てきた生者などだ。
 這い上がって村人を見つけたときに生者の心は喜びに満ち、顔には満面の笑みがこぼれ
ただろう。
 しかし、集団ヒステリーに陥った人々がその生者の血塗れの姿を見て正常な物と判断す
るのは難しく、助けるどころか埋めた自分達を餌とするために煉獄から蘇って来たと思い、
自衛の為に襲い掛かって命を奪ってしまう。
 ただしそれは長くても一週間以内の出来事で、二週間以上も経って這い出てくる事は人
間の体力と状況からして不可能だ。
 完全に土が酸素を吸収してしまい真空になるから。

43Awake 3話(13/24):2013/09/20(金) 05:38:16
だから今ヨーロッパ全土で起こっている死者復活の後に聖水を掛け、朽ち果てた生体は
正確には冥府の住人に生を与えられた死体だ。
 ともあれそれは迷信が混在する土地につき物のよくある惨劇である。
 輔祭は礼拝堂の身廊側の扉を開けながら低く消沈した声で俺達に話しかけた。
「一時間後、カルパチア山脈の稜線から朝日が昇りきる前に崩壊した城跡へ向かう。私は
村の男たちを集めるから、お前たちは万が一のためにすぐに逃げられるよう荷物をまとめ
て置け」
 そして、最後に扉を閉めながら斜に構え横目で俺達を見つめた。その様は傷ついた者を
どう救う事も出来ない人間の弱さが垣間見えるような、言い換えれば救った者の傷を哀れ
み、蔑む視線で見下げると言った聖職者であるにも拘らず放置する人間の卑怯な姿だった。
「馬車と逃走ルートは後で紙に書いたものを渡しておこう。私は三位一体の成句をお前達
に言う事は出来ないが『貴殿等の途に祝福在らん事を願わん』とだけ告げておこう」
 師匠は眉をひそめ渋い顔をし、ヒューは輔祭を始終睨み付け、俺は怯えながら二人に掴まっ
てその言葉を聴き扉越しに響く足音とともに彼を見送った。
 一時間後、白木の杭、火葬するための薪、そして剣やマスケット銃などの武器はおろか、
斧や鋸、柄の長い鍬すらも持って殺気立つ正教徒の男達の物々しい出で立ちを目の前に見
ながら、隊列の最後で行軍している俺達三人は、カルパチア山脈の麓にあったドラキュラの古
城跡へと向かった。
 もし両親の遺体に対して損壊の裁定を下されなければ、そのままカトリック教区へ埋葬
する手筈を整える前に状態によっては、輔祭だけではなく正式な葬儀を履行できる司祭や、
医学的な見地から判断するために村の医者も同行した。

44Awake 3話(14/24):2013/09/20(金) 05:43:12
「うぇっ……ひっく」
 俺は道中ずっと小声で泣き続けて唯でさえ周りの行進についていくのがやっとの俺の小
さい足は、これから行なわれることの恐怖で何度も後れを取り、そのたびにヒューは俺の手を
握って遅れないよう引っ張っていた。
 やがて無数の瓦礫が散乱している城跡が見えてくると、村人達の恐怖と忌避の入り混じ
ったどよめきが次第に伝播するように広がる。
「何てこった……瓦礫だらけじゃねぇか」
「死体なんてあるのか?」
「あっても穢れた死体だべ、見つからない方が幸せだ」
 村人達の無慈悲な言葉は逆に見つからない方が残虐な方法で辱められない事を意味して
いたのだろうが、それでも両親が悪事を働いたみたいな言い方をしているように聞こえて
声のした方を向いて俺は睨み付けた。
 しばらくして瓦礫の小山が見え輔祭は師匠を呼び、静かな声で両親の遺体を安置した場
所を教えるように言うと師匠は疲労と情けなさで涙が溢れて来そうになっている澱んだ目
を拭い、怯えと狂気の眼差しで師匠を見つめている村人の間を峻厳な態度で進み出て列の
先頭に立った。
 それから少し離れた場所だったので小声でしか会話が聞こえなかったが師匠が医者に両
親の遺体の状況を説明したようで、まもなく医者は検死を始めた。
「どうだ、先生?」
「……あなたが報告した通り、男性の方は胸部骨折による失血死で女性の方も裂傷による
失血死だ。いや……これは酷い、膝の下から欠損している。はっきり言って私とてあなた
と同じで、ここまで損壊されている遺体でなくとも……」

45Awake 3話(15/24):2013/09/20(金) 05:43:55
「父さん! 母さん!」
 遠くで見た限りだったけどフードに覆われた母の綺麗なままの顔や、口角から血が流れ
ていたとは言え安らかに息絶えていた父の遺体に取り縋ろうと俺は脇目も振らず駆け出し
ていた。
 どんな姿になっていようと最後の温もりを心に、肌に留めておきたかったから。
「止めろ、その子等を遺体に近づけさせるな。遠くで見せるだけだ」
「行け! 邪魔する奴は俺が止めてやる」
 直ぐにヒューは両手を拡げて俺の進路を確保してくれようとしたけど輔祭の命令にひときわ
屈強な二人の村人が俺の背後、ヒューの正面を羽交い絞めにした。もちろん子供だから大人の
力に勝てるはずもなく、ただただ輔祭を睨み付けながら叫び続けるしかなかった。
「放してよ! おれの父さんと母さんなんだ!」
「くっ……」
「私とて神の僕であると同時に人の子だ、人並みの感情は持ち合わせている。両親が死し
ただけでも酷であろうに、無残にも屠られた体を見せて思い出を壊す事は人の道に反する」
「父さん……母さん……起きてよ、ねぇ起きて……お願いだから!」
 しかし泣き叫ぶ俺を同情しながら見つめる村人達の中に悪魔の言葉を吐く者が現れた。
恐怖に慄いた人の心が魔女狩りなどの非道な真似を起こす事は多々ある。それが己の身に
降りかかるとは誰が予想出来るであろうか。
 まして幼い俺の目の前で両親が煉獄へ落される様など。
「輔祭様よぉ、あんたの妹もちゃんと埋葬していなかったから、あんた自身で杭を打たな
いといけなくなったんだよな?」
「そうだ、おら達はもちろん、あんただって二度とそんな事したくねぇよな!?」
「皆さん止めてください! 医者である私が必要無いと裁定を下したのです。未だにこの
村は野蛮と迷信を引きずっている。私が村を出たときから何ら文明が進歩していない」

46Awake 3話(16/24):2013/09/20(金) 05:44:43
補祭は生きている人間を屠った己の罪を村人に犯させたくなかったのだろうか? 確か
に医者や俺達が狂気の渦に巻き込まれたまま言葉を繰り出しても収まらないだろう。それ
どころか今度は自分達の命が奪われてしまう。だけど……
「腱を切り火葬する以上、機密……お前達は秘蹟と呼んでいたな。秘蹟は与えられん。始
めろ」
「……貴様」
「私はお前たちに永劫憎まれてもいい。だが……弱い、人々の心や感情は許してやってく
れ」
 輔祭は眼光を鋭くして村人達に命令しながら申し訳なさそうに俺達を一瞥し、止めるは
ずの司祭は狂気と興奮と怒号を上げる村人達に「止めろ」と言ったところで逆に自分の身
が危なくなると思ったのだろう、青ざめた顔でその場から動けないように見えた。
 もちろん今ではその感情も理解できるし、彼らとて神の名を口にする前に人間であるの
は解っているが、光に隠れながら真に救済するべき者を虐げた感情を許すことは出来なか
った。
 力を持たなくても人の感情を踏み躙り侵す事を許しては魔物と同義の存在に堕している。
 今でもその考えは変えることは無い。師匠のような冷徹さとヒューのような力が無くても
俺が戦う立脚点だ。
「輔祭、ここまでの状態であれば立ち上がることも無いでしょう! 司祭、あなたも何か
言ったらどうですか! 埋葬式を! 宗派は違えど異教人のパニヒダ(非正教徒に対する
葬儀)で対応できるでしょう。お願いします!」
「畜生! 秘蹟すらしてもらえないだと!? お前らどこまで非道なんだ! 動けず止め
られないならせめて……ネイサン見るな、見るんじゃない!」

47Awake 3話(17/24):2013/09/20(金) 05:45:25
「こ、この餓鬼……なんて力だ」
「生憎だが俺はただのガキとは違うんでね。離せよおっさん!」
「お前は補祭様の言葉を聞いていなかったのか?」
「馬鹿野郎! どんな姿になっていても親は親なんだ。生温い擁護は逆に過去を貪る材料
にしかならない……っ。だけど他人が弄ぶのだけは受け止めることはないんだ!」
 有らん限りの力を振り絞ってヒューは羽交い絞めにしている村人を引きずりながら俺の眼前
に立ち、必死の形相を俺に向けて村人と自分の体を盾に立ちはだかったが、
「ネイサンの前から体をどけろ」
 両親の遺体を離れて静かに歩み出てきた師匠は唇を噛み、悲しみを表した貌で息巻くヒュー
の行動を制止するため拳で頬を殴った。
 一瞬、その行動に驚き村人はヒューを放し、同時に状況が飲み込めずに呆然と倒れ込んだヒュー
は師匠を見上げていたが、我に帰るや否や大声で凄まじい形相で噛み付いた。
「何で! 見せる方がどうかしている! それに何で殴るんだ! 親父!」
「あなたも残酷な方だ……この場に年端も行かない子供を……それもその子の両親が死し
て陵辱される様を見せようとは。やはり下賎な職業についている者は感覚が狂っている」
 今思えば医者は教区に犯罪者が発生する事を恐れたのではなく、無論俺達を同情した人
道的な感情を持ち得てでもなく、己の見地の正確さを否定されたなどと言う利己的な愚慮を
持っての発言であったのだ。
――己の立場と存在意義を無視された時、人はどう動くかにその価値を問われ得るか……
だめだ、この思考の流れではヒューの最近の言動を貶め、己の浴している立場を喜んで甘受し
ている卑劣さが際立ってしまう。
それに俺より実力がある故に始末の悪い状況になってしまっている。
ただの無力で無能な人間の誇大妄想が為しえる言動であれば歯牙に掛ける事も無く、俺自身
も継承にここまで心を削り何度も時間を割いて苦悩することも無かっただろう。
いや、道に外れた恋情で苦悩する状況にも陥らないだろうに。

48Awake 3話(18/24):2013/09/20(金) 05:46:36
 そして、状況は自分の想いと反して進んでゆく。両親の遺体は村人たちが両手足首を掴
まんだ状態で切断されるのを待っていた。
「やめてよ! どうして? 皆のために父さんたちは戦ったのに……モーリスおじさん! ど
うしてとめてくれないの!?」
 肉が、骨が、鈍く緩やかに流れる血が見える。人として構成されている肉体の要素を見
せ青白く横たわる両親の遺体を、護られた人間達が人として存在する事さえ許されない姿
になるまで鋸で切り刻み、首を切断した瞬間、遺体は人ではなくなった。
「――やめてぇえぇぇぇっ――……!」
 辺り一面に痛みを感じる事の無い両親の肉体から体内にいまだ残っていた血が流れ出て
大地を、人を染める。しかし村人達は「不浄の肉体」と呼んだ筈なのにその血を浴びる事
を厭わなかった。
 その姿は護られた者が護った者の肉体を損壊する事の贖罪を行うかのように。
 俺は叫びながら頭が真っ白になると、羽交い絞めしていた村人の体から崩れ落ちるように
座り込み大地に伏して泣き続けた。
 それから俺達は彼らが薪を台のように組み、遺体をその上に安置するさまを呆然となす
術もなく見つめ続けるしかなかった。
「こんな事なら……何のためにお前らを助けたんだ――! お前らのために力を尽くして
も、助けても、誰も、誰も」
 腱を無残なまでに切られ燃やされる両親の遺体を見つめ、ヒューは誰に言う訳でもなくただ
憎悪を帯びた科白を呟き、
「力だ……力さえあればこんな風に辱められる事も、それを許す事も無かっただろうに……
それに、残された者の悲しむ姿なんて見たくなかった……」
 そう言って俺に近づき抱きしめるとずっと……ずっとそのままでいてくれた。それから
カルパチア山脈の麓に翳った影が徐々に太陽の光が侵入して消えて行くとともに、朝焼け
の橙色をした光が俺達に降り注いだ。

49Awake 3話(19/24):2013/09/20(金) 05:47:15
 その時に見た朝陽の清浄で柔らかな光に照らされ包まれたヒューの流す一筋の涙、なのに
不謹慎にも微笑んだように見えた護り輝く綺麗さに、止める事は出来なかったけれど必死
に村人の行動を最後まで押し留めようとした勇気に絶対的な信頼を俺に植え付けた。
 それから2ヶ月かけて帰途に着くも師匠達以外の人間に対する恐怖と両親を失った孤独
は俺の心を支配したまま消える事無く、一日中おびえて師匠の家から出ることすら出来な
くなった。
 そんなある日の夜、
「――うあぁぁぁぁーっ」
「今日も眠れないのか?」
「ごめん、夜中なのに大声出して、ごめん……」
「気にするなって言いたいとこだけど、俺が朝早いのは知っているだろ?」
「……うん」
「俺だって、あんなの見たら怖くて眠れないのはわかる。それに……」
 ヒューは悔しそうに歯を食いしばり俺の肩を掴んでまっすぐに見続けたけれど、やがて直視
する事無く俺を抱きしめた。その体温に毎日目を瞑れば見てしまう魔族の夢を泣きながら
吐露することにした。
「……父さん……母さん。何で死んじゃったんだよ、人のために命を落として……なのに
あんな仕打ちは無いよ」
「お前、その夢を見て起きたときに誰もいないのが怖いんじゃないのか?」
「うん。その夢もね、この世にたった一人で取り残されて周りに見えるのは魔物ばかりで、
そいつらに追い回されて最後には食べられてしまうんだ」
「厭な……夢だな」
「もう、2ヶ月以上もこんなのばっかりで眠れないんだ。くるしいよ」
「本当は同性で同じ床に入るのはだめだけど、今日は俺のベッドで一緒に眠るか? お前
の母さんの代わりにはなれないけど」
「前に神父様が聖書の一節になぞらえて言ってたね。でも、いいの? モーリスおじさんに見
つかったら怒られるよ?」

50Awake 3話(20/24):2013/09/20(金) 05:47:51
――(皆さんよろしいですか? ソドムとゴモラの行ったような悪徳の極みを連想させる行
為もまた彼らと同じ存在に堕してしまう事なのです。主は皆さんを見つめ導くと共に悪徳
をも看取する存在なのです。主を欺く悲しい行為は避けなければなりません。)
「いい。俺はお前を護るって決めたんだから、父さ……親父が何を言ったって逃げない」
「ありがとう、本当にありがとう」
「泣くなよ。こっちまで泣きたくなってくるじゃないか」
――何かこう、抗い難い仄かな痛みが俺の全身を貫いた。
 おれと同じ想いをする人がいなくなってしまえばいい。それにはどうしたらいいんだろ
う? と。
 それに両親が居なくなって普通だったら捨てられる所を師匠は面倒見てくれているし、
何よりヒューは自分の修行を精一杯こなして疲れているにも拘らず俺の事を何時も気遣って声
を掛けてくれる。
 毎日泣いて暮らした所で両親は帰ってこない。それなのに……これだけ恩や情けを掛け
られているのに一体俺は何をしている? 目の前のヒューが悲しそうな眼を俺に向ける。違う、
お前にそんな貌をさせたい訳じゃない。
 だけどこの時は抱きしめられたのが気持ちよくウトウトし始め、やがて心地良い感覚に
呂律が回らなくなって眠りに落ちようとしていた。
「明日から元気出すから泣かないで……お願いだから」
「だ、誰が泣くもんかっ!」
 ともかくその日ほど今まで生きてきた中で安心して眠れたのはなかったと思う。今度は
自分が勇気を出す番だと考えながら。
――明日はモーリスおじさんに自分が進むべき道を伝えるために。
「おれは決めたよ、モーリスおじさん。いや、決めました……師匠。おれは誰にも甘えたくな
い、だから今からおじさんと呼ばずに師匠とお呼びします」
「いいのか? 俺達の途は人のために命を落とすような過酷な物だぞ」
「どこまでやれるか判らない、だけど自分が背負った宿命を無視するような事はしたくあ
りません」
――そしてヒュー……お前と一緒に力なき人々を助けるために。

51Awake 3話(21/24):2013/09/20(金) 05:48:26
もちろんそう宣言しても一朝一夕で自分の望む姿になるはずは無く、日々、鍛錬してい
けば行くほど肉体の軋みが毎日毎日俺を責め立て、師匠やヒューの足手纏いになっている自分
の力の無さに焦りが現れた。
「今日も生き残れたな、俺もお前も」
 ある日の討伐の時だった。俺はいつも戦闘の後にさえ余裕を見せているヒューの姿が見られ
る事で自分が生きているのを実感できていた。もっとも、俺は怪我をして倒れ込んだのを
助けられているような情けない格好でいる事が多かったけど。
「余裕だな。俺は生きた心地がしなかったよ」
「見れば判る。ほら手を出せ、引き上げてやるよ」
「いつもごめん」
「大丈夫か?」
「うん。痛くな……うっ」
「無理をするな。どうしてあんな無茶をしたんだ?」
「あの時のお前と同じ歳になったのに、ちっともお前に追いつけないんだ。お前は遠くへ
行ってしまう。あの時のままの姿で強くなって……だから焦って実力以上の行動を取って
しまった」
「お前は俺じゃない。俺だってお前じゃないんだ、気にすることは無い」
「……」
「それにお前が一歩引いて状況を座視して、やるべき所で俺を援けてくれるから気持ちよ
く戦う事が出来る。お前が俺と同じ力を持っていたら互いに牽制しながら力を誇示しあう
無様な戦いしか出来ないだろうな。つまりだ、柄にも無い事を考えるなって事だ」
「こいつ!」
 悩んだ事を軽く流されたのには憤ったが、力が無い事に自身が恥じる必要は無いし、あ
あ言ってくれた事で俺がヒューや師匠の力の支えになっている事に誇りを持てるようになった。
 だけど俺だって一度ぐらいお前に勝ちたいし、同僚としては対等の存在と認めて欲しい
んだ。

52Awake 3話(22/24):2013/09/20(金) 05:49:01
 それなのに戦う姿や修行している時に見せる冷厳な切れのある、同性から見てもハッと
するような端麗さに心が、体が見るたびに疼いてカルパチアの麓で見た哀しくも温かい表
情とは反対の様態のはずなのに、尊敬と憧憬だけではなく誰にも触れられたくないと言う
気持ちが日に日に募って行った。
 とうとう俺は兄弟として育ったが故に感じた嫉妬心だったのか、それとも一人の人間と
して手に入れたいのか俺自身の気持ちと感情を確かめるために堅信式の朝、臆病で卑怯な
考えと行動だと思ったけれどソドムの罪を犯して弁明する覚悟が無かったから、寝ている
あいつの唇に軽く自分の唇を重ねた。
 ただの憧れなら吐き気を催し、二度とそのような事を考えないと思っていたが……
 それどころか想像していたよりも心地良く、もう一度、違う。ずっとその唇に触れてい
たかった。
 重ねた後に嘆息する音と甘い擬音とともに漏れる息遣いに、俺はその姿をものにし誰に
も触れさせずそれを守るため力は及ばないまでも、ずっと一緒に生きて行きたいと切望し
た。
 だけどそう感じたと共に俺はこの考えに到る事は、ヒューや師匠をも巻き込んでしまう罪を
犯したと気づいてしまったけど一人のキリスト者としてその日、罪の意識を自覚したまま
立志した。
 しかし、満たされない感情をおざなりにして過ごすほど俺は強くは無く、堅信式の次の
日もまた次の日も毎日同じ事をしているはずなのに、ある日は寝惚けて誰かと勘違いした
のか俺の頭を抱き寄せ求めたり、普段のあいつなら絶対に漏らさないような微かな嬌声を
あげ、日々違う反応や様子に飽きる事など無く日を追う毎に愛おしく思うようになって寝
ているあいつの唇を掠め取った。
 もっとも物語で交されるように、互いに貪り合う様な真似は決して出来なかったが。

53Awake 3話(23/24):2013/09/20(金) 05:49:39
だけど、その安定した日々は俺が聖鞭を継承した日から崩れてしまった。
 家人に告知する数日前に俺は師匠に呼び出されて継承するように要請され、そう言われ
る事に納得行かず「一度もヒューに勝ったことの無い俺に何故そのような話をするのです?」
と何日も何度も確認して断り続けたが恩義の前に拒絶することは出来なかった。
 そして継承を承諾したその日ほど朝が、ヒューが目覚めるのを怖いと思った事は無かった。
 唇を重ねる事に後ろめたさを感じただけじゃない、自分自身の力で捥ぎ取った名誉じゃ
ないのに俺は恥知らずにも「これで対等になったのでは」と考えてしまった。
 寝ているあいつを見るたびに事に及ぼうとする感情が一気に溢れ出そうになって、そう
思うと口付けをする事さえとまどい結局、陽光が部屋の窓から差し込みその光でヒューが起き
るまで窓の桟に腰掛けながらその寝顔を見て感情を抑えていたが、継承を承諾した事を家
人に師匠が告知した後のヒューの顔を俺はまともに見られなかった。
 目を逸らした俺の目の前に進み出て差し出した手の先の表情が寂しく、そして「おめで
とう」と静かに発したその声が、俺とあいつが繋いでいた関係を断ち切った音に思えて仕
方がなかったから。
 それから俺はその黒檀の瞳を翳らせた苦悩の表情をしたヒューの表情が毎日ちらつき、後悔
と羞恥が混ぜ合わさった何とも言い難い始末の悪い感情に苛まれながら、今日までよく眠
れないまま朝を迎え、目覚めた時にはすでにヒューは部屋にいなかった。
「人の世界では万死に値する罪でも、ここではどうだろうか? いや、何を考えている。
他者に自分の意思と決定を委ねることは自分の想いを未来永劫、自分の望む方法で達成で
きない事を意味している」

54Awake 3話(24/24):2013/09/20(金) 05:50:14
 暗い、その上気味の悪い虫や魔物が常にその壁と天井を這い回って獲物を求めている、
先の見えない朽ちたレンガの回廊を突き進む事に今更あらためて気持ち悪さも恐怖も感じ
る事は無かったが、扉を開けるたびに戦いながら疲弊しても希望が見えてくる心持から取
り留めの無い事を一人ごちた。
「さて、過去を振り返る時間は終わりだ。救いなのは少なくとも状態も思想も混迷するこ
の城の中では、俺の想いなど小さい上に恥ずべき感情じゃないって事だ。後の事を迷うの
は人の世界に帰ってからすればいい」
 逡巡している内に攻撃が強くなってきた。確かに一区切りを置いて先を見据え眼前の敵
を屠りながら、余計な事に囚われず対処して行かなければ気を取られた瞬間に死んでしまう
――己の力のみに頼る生き方をした事など今まで無かったのだから。

55Awake 4話(1/9):2013/09/20(金) 05:52:45
「ちぃっ!」
 スケルトンが骨を投げ大動物の頭蓋骨であろうか、床や壁に張り付いて口腔から冷たい
炎を発している骨が間を待たずにネイサンに向かって攻撃してきた。少々当たっても致命傷に
なる事はほとんど無いが、無意味なダメージは出来るだけ避けたほうがいい。
 攻撃を避けながらそれらを屠っていくうちに一枚のカードが消失したスケルトンと頭蓋
骨の体内から炎を帯びながら出現した。
 ネイサンは消失した物質の中から物体が出現するなど自然界ではありえない現象だとは思っ
たが、何かの足しになるだろうとマーキュリーとサラマンダーの描かれたカードを拾った。
 それから面白半分に片手でカード同士を十字にするタロットカードの配列方法の一つで
あるケルティッククロスを模した所、彼の手から眩しいくらいの光が発現して体を包むヴ
ェールとなり全身を覆った。
「何なんだ一体! 俺はどうなってしまうんだ!?」
 その光が体を通り抜けるごとに自分の身に起こった事象に激しい不安と戸惑いを隠せな
かったが、徐々にそこから力が漲ってきたのには恐怖を少し取り除く作用をもたらし、神
かそれとも悪魔の与えた力だろうかと考えながら天井を仰いだ。
 暗い天井であったのでその時は良く見えなかったが、毒を含む蛇の塊が蠢くのを見た瞬
間に一匹ずつ彼に向かって落ちてきたため咄嗟に鞭を振るうと、範囲の広い炎が鞭となっ
て断末魔を上げさせながら一瞬にして焼き殺した。
「……馬鹿な。ローマ・カトリックの連中が見たら間違いなく査問審議に掛ける事象だよな、
これは」
 ネイサンは毒蛇が消失する様を見つめながら自分の身に起こった事象を処理できないなりに、
前に進むための方策を模索し始め少しの間だが全身の動きを止めた。
「一体どこから這い上がればいいんだ? 階段なんて無かったし、それに凱旋回廊の階段
さえ出来かけのようだったが……?」
――残る扉はここだけか。
 異様に青白く光る扉が禍々しい様相を呈しているとは思ったが道が無い以上、進むしか
方法は無いと悟った彼は勢いよく扉に手を触れた。
「!?」
 そこにはネイサンの体躯の数倍くらいの嵩はあるだろうか、生命体として異様なまでの大き
さを持った双頭のケルベロスが唸り声を立てながら、乱ぐい歯から雨のような涎を垂らし
て待ち構えていた。
 彼はその異形の姿に人の住まわない世界に踏み込んでしまった事を改めて自覚した。

56Awake 4話(2/9):2013/09/20(金) 05:53:25
 ネイサンに捨て台詞を吐いたまま走り去ったヒューは、そのままの速度で地下墓地を探索して
いた。
 そしてある程度己の足で踏破出来る所まで駆け抜けながら、その間に余裕が出てきたの
か己の心を整理し始めた。
――俺は何と口走った? 見苦しい。身近な者にあのような捨て台詞を吐くなど。ヴァチ
カンでもそうだった。親父に詰られたからか? それともネイサンの罪を知っての葛藤からか? 
あいつは俺が気付いていないと思っているだろうが、俺に対して友誼以上の感情を持って
いる事は知っている。男が男を心身共に愛しむ、ソドムの罪を。
何年もの間あいつは俺よりも早く起きて、最初は寝ている俺の頬に唇で触れ「ごめん」と
悲しげに呟いては軽く唇を重ねた。
それに対して俺もまた寝た振りをしてあいつに行動の理由を聞きだせずにいる。
十年前から弟子同士という立場で同じ部屋で寝起きしているのだ、気付かない筈が有ろう
ものか。
寝た振りをしているからその表情は薄目でしか窺えないが、多分如何とも為らない懊悩を
秘めた寂寥の漂う貌なのだろう。
俺からすればその表情をすることは自分の信念を自分で勝手に諦めて己の考えを卑下して
いる癖に、俺が与えるほんの些細な仕草を心のよすがにして己の想いを安定させている身
勝手ささえ感じる。
嫌悪感を覚えてはいるが襲い掛かるような野蛮な真似はしないから、ある程度の稜線は保
っているのだろう。だから我慢は出来ている。
身内が自分に対してソドムの罪を犯しているなどと他人に言っても「拒否すれば済む事だ
ろう」と一蹴されるのは目に見えているし、俺自身が口にしたくない。
俺が矜持と自尊心のためにあいつを叩き売るような卑怯さを感じるから。
それに何故だか分からないが多分、一時の気の迷いだと思うから言わないだけだ。
それなのにあいつが俺に対して好敵手として見ておらず俺自身が勝手にそう考えているの
を知った上で、普段と変わらずに接してくれている事に何故か安堵を感じている。

57Awake 4話(3/9):2013/09/20(金) 05:54:08
――自分でも矛盾する感情が存在している事は信じられんが、そこは触れないで置こう。
これは俺の心の研鑽とは別の分野にあるから、そこまで考えるのは無駄だ。
しかし、あの「ごめん」という言葉を聞く度に、あいつは単に俺を求めているのではなく、
卑怯にも息子である俺に親父の姿を重ねているのではないかと思っている。

だからと言って己が育てられた恩を穢すのを懼れ、想いを遂げられないからと人の心身を
依代にするその姿勢に腹が立つ! あの臆病者! そんなに親父が欲しければ、死刑を覚
悟してでもぶつかればいい!!
頼むから人をだしにしてくれるな……俺は道化では無い。
その証拠に聖鞭を継承した数日前の朝から俺に唇を重ねる事は無かった。
それはその日から親父の愛情と信頼を一挙に手に入れたからだとしたら……?

馬鹿げている! だが、その考えが頭を過る度に否定していたが奴が継承して半年経って
も指揮系統を誤り、ほうほうの体で戦闘を終わらせる事が多くなって何度死にかけたか!
それに先程ゾンビに囲まれて死にそうな顔で怯えていた奴の顔を見たら、奴が実力で代々
ボールドウィン家に伝わる聖鞭を継承した訳ではないと思い知らされた。
だから俺はあまりの理不尽さに奴を詰った。
む? 奴だと? 俺はいつの間にネイサンに対して奴などと憎々しげな言葉で名指ししている?
憎い訳でも何でも無いのに? 何故? 

 ヒューはそこまで考え己が下種な考えを膨らませている事に嫌悪を感じ、咄嗟に佩いている
聖剣を素早く抜刀し力任せにレンガの漆喰に突き刺した。
 だが、そのような一時の衝動を形にしても感情のわだかまりは消える筈も無く、無作為
に突き立てた剣からの衝撃で両腕が痺れて我に返った。

58Awake 4話(4/9):2013/09/20(金) 05:54:49
「くっ……俺は何を考えている?」
 ヒューがふと剣身を鏡のように己の顔に向けると、そこには苛立ち眼窩が少々窪んだ魔性の
ような己の姿が映っていた。
 そのざまに先程自分が陥った下品な想像をしたことを思い出してしまい、途端に顔面を
歪ませてあまりの惨めさに聖剣を取り落としその場に額づいた。


「俺はどうかしている! 奴の事は好敵手だと。それ以上の感情で接するつもりは無いと
思っているのに! 接触が無くなったと思った途端に奴の事を求めているのか?」
――嫌だ! 穢れている。肉欲を生ずる穢れは悪魔に付け入る隙を与えるというのに!
何の為に聖鞭を継承する時まで貞潔を守っていると思っている? しかもソドムの罪を犯
す気など更々ない!
「だが、そんな事もその考えも俺が奴より早く親父を救出する事で消え失せる。それに親
父が何と言おうと俺に継承者の称号と、ハンターのムチを与えない事は周りが納得しない
だろう……。 クク……ハハハハ……」
 己の昏き想いの詰まった文句を、その内容に似つかわしく咽喉から乾いた声と共に虚ろ
に暗く呟き、軽く閉じた色濃い睫を縁取った光彩の無い黒檀の瞳を見開くと、回廊の先に
向けてノロノロと立ち上がった。
 駆けずり回った先に階段が無いと踏んだヒューは、己の見上げた先にある中空に浮いた一
対のレンガの坂を見つけた。
 向かって勢いよく助走をつけ、そのまま駆け上がると天高くレンガが上方に敷き詰めら
れた空間にでた。
 ここからどう登っていこうかと思案したが、ところどころに足場があるのを見てそれを
利用してに縄を両手で持つと床を蹴り、あたかもモーリスの救出が己の手によって成し遂げら
れる事を実感するように、一握と進めながら天井に向かって登っていった。
 さながら己の心を鼓舞する心持で、そう、誰かは判らないが自分に対して比類なき賞賛
を与える声を心の中で繰り返しながら。
 だが本人は気付いてはいない。といってもこの時点のヒューがそうと言われても頑なに拒否
するだろうが、それは己の価値を他人に委ねる積極性のない受動的な思考によって、突き
動かされた行動だったことを。
 そして誰かに何かを委ねる行為が魔に対して、共依存を誘発する格好の撒餌になるとい
う事を。

59Awake 4話(5/9):2013/09/20(金) 05:56:27
「こんな馬鹿でかい生き物がこの世にいるとは……」
 ネイサンは双頭のケルベロスを目の当たりにして一瞬、巨大さに驚いたが有無をも言わさず
その怪物は獲物を屠るため、その巨体を躍らせて彼に目掛けて飛びついてきた。
「ウアァアアアアァ――!」
 反応の遅れた彼は前足を胸に受け、自分が開いた扉に背中から激しい勢いで叩き付けら
れたが、扉はびくともしなかった。
 それにネイサンは違和感を覚え、すぐさま脱出するため扉をこじ開けようとしたが背後に熱
を感じ振り向いた。
「こんな物を相手にしている暇は無い。早くここから脱出して……何!?」
「グルァァアァアアァァッ!」
 咆哮とともに身を焼き尽くすほどの熱量をもった光線が、怪物の口腔の闇から発現しネイ
サンに向けて一直線に発射された。
 一瞬でも逃げ遅れたら命を落とす所であったが幸運にも光線を放つケルベロスの頭部が
天井近くに向いたため、その隙にその体躯の胴体部分近くまで滑り込んだ後すかさず背後
に回りこんだ。
 その先に扉が見えるとそこからの脱出を試みるため、真っ先にケルベロスの体躯を駆け
抜け扉へ向かった。しかし、
「何だこれは……? 扉が開かない? 一旦入ったら駒を倒さない限り出られない仕組み
になっているのか……? クソッ! こんな所で死んでたまるか!」
 ネイサンは扉に施された封印を解呪しようと押したり引いたり、こじ開けながら考えられる
限りの言語で試みたが、扉は頑として押すことも引くこともかなわなかった。
――前方に開かずの扉、後方に埒外の獣。戦って血路を開くしか道は無いのか。たった一
人で。

60Awake 4話(6/9):2013/09/20(金) 05:58:03
「お前たちの思い通りにさせるものか! いくぞ!」
「グルァァァアァァアァッ!」
――まずさっきから攻撃を食らっているように、正面から奴の攻撃を躱しながら打撃を与
えられないのは、俺と奴の攻撃の範囲や等身の差を見れば明らかだ。
だったら常に奴の後方へ回り、自分の身を安全な場所に置きながら少しずつでもいいから
確実に力と体力を削っていく。
戦いは正面でのみ行うだけじゃない、人間同士の戦闘でも後方から攻撃する手段が戦術と
認められているんだ。ましてや強大な力を持った非科学的な物に戦闘のルールを求める必
要は無い。


 自分で怯惰、ヒューからすれば臆病だと思われているネイサンの強みは、余計なルールを己に課
さず相手の様態に応じて主義を変えることの出来る柔軟性である。
 ともすれば変節漢だと言われる行動にも取られがちだが、生き延びるためには必要な戦
術の一つでもある。力が無いからこそ職業として全うするために考え付いた方法だ。

――ヒューならこんなとき力で突破するんだろうか? 違う、態勢を立て直して肝心なところ
で打撃を与える。俺はどうだろうか、スケルトン程度の敵であれば屠れるけど、効率的に
こちらの損害を抑えて討伐するほどの敵を一人で考えて壊滅させたことはない。
という事は個人の膂力も必要になって来る状況で完全に敵を屠れるだろうか?
生きて早く合流しないと。それだけが俺の希望だ。
もし自分達が全滅したとして、その報が届いてから討伐隊が編成されるまで幾日もかかる。
だが、その間に完全に力を得るだろう。そうなっては困るんだ。

61Awake 4話(7/9):2013/09/20(金) 05:58:38
 ネイサンは、先ほどスケルトンとボーンヘッドを消失させた時に発現したカードの効果を思
い出した。
 埒外の獣に対抗する術は手持ちの聖水を用いて体躯の進行方向に常に攻撃しながら、自
分が持っている攻撃範囲の広い炎の鞭をケルベロスに叩き付け、振り返るアクションを取
ったと同時に接触を避けるため足場を使用し、その際にまた聖水をケルベロスの体躯の前
後に投げつけ足止めしながら後方に回り込む一連の作業をとることに決めた。
――だが、実際にやって見なければ判らない賭けだ。賭ける物は己自身の生命。
 
 彼は考察したと同時にケルベロスに対して実行しにかかった。ただ、考えていただけで
はもちろん失敗するもので、その作戦がある程度のパターンを持ってケルベロスを嵌める
事に成功したのは、攻撃の種類が体の色の変化によって異なると気づくまで何度か突撃し
て攻撃を喰らいながら見極めての事だったが、連続してダメージを与える事が出来るよう
になるとケルベロスの動きはみるみる鈍化し咆哮も力無い唸り声へと変わって行った。
 やがてケルベロスの体躯から炎が出現し始め、その姿が実体よりも陽炎に包まれる比率
が高くなった瞬間に――跡形も無く消えた。

「倒した……のか?」
 ネイサンは体をその場で四方に向けながら辺りを確認してもケルベロスの気配も、姿も見え
ないことを確信すると自分が開いた扉と対面側になっている扉に向かって走り出した。
 最初に予想した通り、その扉は駒を倒して解呪され開く仕組みになっており、扉に触れ
たとたん宝飾品や金貨、銀貨が散乱している部屋が現れた。
 さながら宝物庫と言ったところだろうか、部屋の宝玉台に鎮座している本当の宝は、ト
ルコの金細工のような精緻な模様の金鎖がワインのような深い赤みを持つ宝玉を銜えた首
飾りであった。

62Awake 4話(8/9):2013/09/20(金) 05:59:48
「何て暖かい光を放っているんだろう……」
 彼は余り宝飾品に対して特別な感情も所有欲など持ち合わせてなかったが、度重なる気
味の悪い現象や魔物の存在に辟易していたため、変化の無い美しい物質に心を落ち着かせ
るかのように護符として身に着けたいと思い首飾りを手に取り宝玉を指で抓むと、飾蝋の
方に向けその光に翳し透けて太陽のような輝きを生きて見る事が出来る喜びを噛みしめた。
 それから自分のポケットに突っ込んだと同時に駆けだし、中途に空中に浮かぶコフィン
とミイラの群れをタイミングを見計らって振り切りながら、届くかどうか判らないが壁に
向かって駆け上がろうとした時、
「な……壁に」
 足を挫いて立位を保てなくなりそのまま壁に激突しながらずり下がると思ったが、体が
白く光り自分の足元に白い魔方陣が浮かび上がると少しの間だが中空に足場が出現し、壁
を登りきると同時に狼狽した。
「……嘘だろう? もしかしてこいつのせいか?」
 ポケットから首飾りを取り出し紅玉を見つめ顔を顰めつつ、ここには人間の世界および
自然界の摂理や法則すらも通じないのに改めて悄然としたが、人の世界でない場所に踏み
込んだ以上その状況に従おうと腹を括り事象を利用する事にした。

――師匠。あなたを助けるための手段を得る事が出来ました。これで謁見の間いや、あな
たが捕らえられている儀式の間まで急ぐ事が出来ます。待っていてください。生きていて
ください――
「だけど、ヒュー……お前は今どこにいるんだ? お前がいないと師匠を助ける事なんて出来
ないのに」

63Awake 4話(9/9):2013/09/20(金) 06:00:24
 寂しそうに呟いていたが気を取り直し、ネイサンは湧き上がる喜びから自分の体力を省みず
全速力で魔物を屠りながら儀式の間へと向かった。
 儀式の間の直前の部屋にある自分達が落とされた穴は、大きく吹き抜けの奈落のままぽ
っかりと口を広げていたが飛び越えられない距離でもなかったので、儀式の間に通じる木
製の古めかしい朱色の扉を蹴破るためがむしゃらに助走をつけ飛び越えた。
「うわぁああぁぁ――!! あ、危なかった……」
 扉に向かって飛び越えたはいいが足を滑らせて後ろの奈落へ落ちかける寸前で尻餅をつ
き慌てて立ち上がって扉へと向かったが、
「…鍵がかかっている。」
――ここまで来て……扉の先にはあなたが居るかもしれないのに、どうしたら良いのです
か。どうしたら……鍵を手に入れるためにまた、戦わないといけないのか。
「でも、木の扉なら炎を使えば焼け落ちるんじゃないのか?」
 炎の鞭を扉に向かって何度も振るったが扉は存在しているのに焼け落ちるどころか、攻
撃を透過して逆に自分のほうへと帰ってきた。
「ここまで来て……仕方が無い。死なない程度に探索しながらあいつと合流して鍵を見つ
けよう」
――断続しているけど、あそこは上へと繋がる階段がいくつも存在していた。そこから手
掛かりを探そう。
 ネイサンは連絡通路の多い凱旋回廊の方へ向かい、不完全な階段を登るために駆け出してい
った。

64Awake 5話(1/8):2013/09/20(金) 06:02:08
 その頃、儀式の間を目指して上へ行くため、奈落階段を駆けあがり足場に張り付いてい
るボーンヘッドの冷たい炎を避けつつ、ヒューは足場の先に見える扉を確認しながら探索して
いた。
 階段の半ばにある扉を開けると明らかに侵入者が立ち入る事を拒むかのように、天井と
床に動かせないよう密着させ配置してある一体の血塗れのアイアンメイデンが立ちはだか
っていた。
「アイアンメイデンとはまた悪趣味な物を」
 血が滴る処刑道具を前にヒューは苦笑したが進路を妨害しているのは変わりないので、とり
あえず蹴り飛ばす事にした。
 だが、
「――!?」
 鉄靴とアイアンメイデンが接触する鈍い音を響かせただけで、後はヒューが鉄靴からの衝撃
で仰け反り背中から倒れ込んで悶絶するのみだった。
「畜生っ! これならどうだ」
 さすがに聖剣その物を道具として使うわけにはいかないので、その剣身を包む鉄の鞘を
使って天井と床の石を削り隙間を作ろうと思ったが、チマチマと愚直に周りの状況を見ず
にするのはどうかと考えなおし、他に移動できる場所を改めて探すことにした。

65Awake 5話(2/8):2013/09/20(金) 06:02:50
 やがて儀式の間がある凱旋回廊に到達したヒューはネイサンと同様、一心に目指し扉を壊そうと
したがやはり剣が透過するばかりで押しても引いても進む事ができず、扉の形状や魔法陣
や魔力が付いていないかどうか確かめた。
――鍵穴があるから物理的な方法で解除できるだろうが、微かに魔力が感じられる。鍵自
体を生成して施錠したのか。
なら、鍵を探すのが先決だが……この広い城内を無闇に駆けずり回るのは無謀だ。 


「仕方が無い、ここは後回しだ。それにしてもあいつは生きているのだろうか?」
 ふと、不安そうに自分を見つめる表情をしたネイサンの顔が浮かんできた。
 やがて己が突き放し先ほどまで嫌悪を持って悪態をついていた相手の身を心配できるほ
ど落ち着きを取り戻した。
――そうだ、我を張った所で状況が一変する事は無いが、いくら腹が立ったとはいえ討伐
をしているのにも関わらず、何故共闘する意思を俺は持たなかったのだろうか? 止そう。
今更考えた所でどうしようもない。とりあえずネイサンを探して行動するとしよう。
 
 気を取り直し、ヒューは障壁となる敵を倒しながら進んでいくことにした。
 敵が攻撃しようとする前に進行に邪魔であれば一撃で屠り、それ以外は通過して無視す
るなど殆ど無駄な時間を取らずに探索していった。

66Awake 5話(3/8):2013/09/20(金) 06:04:53
 じきに破壊できない岩が通路を防いでいるエリアが目立つようになってきた。
「打破しなければならない敵が近いのか?」
 とうとうネイサンは自分が踏破出来る通路の全てを駆けずり回り袋小路に追い込まれた。
眼前にはケルベロスが居た部屋と同じ青白く光る扉が見えている。
「またか」
――死にたくない。今まで戦う時も誰かが一緒に居た。師匠、この期に及んで状況を受け
入れられない自分の怯惰に吐き気さえ覚えます。
一人で死ぬのは嫌だと心が、体が扉を開けるのを拒もうとしています。
「だけど、何もしないまま手を拱いて悔恨を残したまま死ぬのはもっと嫌です!」
 解らないままに戦った時は今ほど恐怖を感じなかったのだが、やはり時間が経つと体に
受けていた痛みが蘇りこの世の存在でない物と戦う恐怖が身を竦ませた。
 だが、その恐怖と怯惰は自分の身を守るために培われた手段だと言う事も彼は自覚して
いる。それを理解した上で固唾を飲み前進した。
 扉を開けた先には中空に浮かぶ濃紺の布が浮遊していた。否、実体のない人型に膨らん
だネクロマンサーの姿である。
 その異様な姿にネイサンは息を呑み凝視していたが、やがて肉体を持たない魂魄だけの存在
が白く炯々とした不気味な双眸を点滅させ、嘲った口調で洞穴から響くような声を発し始
めた。
「あの奈落に落とされて生きていたとは。悪運の強い奴…。」
「邪魔をするな!」
 微かに笑ったように見えた風情にネイサンは緊迫した場にそぐわないと違和感を覚えたと同
時に、何も見えない魔性より見える魔性は恐怖の対象とならない安堵を感じて徐々に慣れ
てきたと思った。

67Awake 5話(4/8):2013/09/20(金) 06:05:38
 だが微かに残っていた恐怖心を掻き消すかのように大声で恫喝した。
「小僧、冥土の土産に教えてやる。貴様の大事な師匠は既に我らの手中にある。」
「!!」
「…あの老いぼれは、我が主の血肉となる運命だ。儀式の支度が整い、月が満ち次第な。」
「何だと!」
――嘘だ! そんな事があってたまるか。魔性は嘘を並べる。人の表情と感情を糧にし
て言葉を次々と繰り出し人の心に入り込む。
 会話が途切れた刹那、ネクロマンサーは彼に向って両手を翳し光の輪を解き放った。
――チャクラム? 何が出てくるかと思えばただの投擲じゃないか。何っ
「うわあぁぁあぁっ!」
 相手がただの人間であれば投擲されても躱せば済むだけだが、死者の魂を弄ぶ悪魔にそ
の常識は通用しない。
 投げられた光の輪は存在が対象物に接触するまで追尾し続け、ネイサンは断続と連続を繰り
返して投擲された光の輪を躱しながら攻撃の機会を待ちつつ駆けていたためバランスを崩
してよろけてしまった。
 それを察知した輪が彼を狙って接触してきた。
さながら旋風を受けた鋭利な刃物の如く高速で回転しながらネイサンの身を切り裂き、肉を抉
る所であったが間一髪で薄皮一枚に止めた。
 それでも鮮血が床に迸り、彼は一瞬何が起こったか解らずその場に尻もちをついて硬直
していたが、
「怖気づいたか? 無理もない。生物というものは魂の消失を恐れる限り痛みを与えれば
弱くなる上に闘争の気概さえ削られていくものだ」

68Awake 5話(5/8):2013/09/20(金) 06:06:24
「……!」
 見透かされたかと想像しネイサンは青ざめた。しかし、その様子をあざ笑うかのようにネクロマ
ンサーは彼の大切な者達を、あたかも己の操る死者を扱うようになぞらえ始めた。
「だが、ただそれを甘受するのは愚かなことよのう? この世界はあらゆる事象に対応で
きる可能性が無数に存在すると言うのに、人は禁忌だと言うだけで魂のない器を創造する
のを拒絶する。貴様も強情な奴よ何故抗う? 血肉と化しても器さえあれば何度でも蘇り、
魂を強化して補填出来るのだ。一時の消失で狼狽する物でもあるまいて」
「許されるか。そんな方法で生きたとしても師匠は苦悩されるだけだ!」
 彼は憤りこれ以上人の体と魂を弄ぶ文言を聞きたくないとばかりに突っぱねた。
「……心弱き者。頑なに我ら魔族との会話を終わらせる為に敢えて語気を強めるは愚かな
り」
 ネイサンは迎撃するため身構え瞬時にナイフを投げたが、横に躱わされ揚句に接近を許して
しまった。
 だが、それに気づき直接鞭で打撃を与えようとした瞬間、無数の風を纏いネクロマンサーは再び
中空へ舞い上がった。
「当たらんぞ小僧。脆弱な攻撃など我には通じない」
――しまった。ナイフでは斜め上に投げたとしても手や体の向きで軌道を読まれてしまう。
かと言って鞭ではどう考えても数回に一回接近した時にしか当たらないし、確実な方法で
はない。浮遊する敵は攻撃を避けつつ投擲できる武器で打撃を与えるのが上策だったが……
同じ読まれるなら少々機動性は劣るが威力はある斧で魔性の者が真の姿を発現させるくら
いまで体力を少しずつ削り取って行くか。
 見下ろすネクロマンサーを下から睨みつけ鞭と斧を握りしめて、床から無限に湧き出てくるグー
ルを屠り攻撃の機会を待ちつつ中空からネイサン目がけて追尾してくるチャクラムを躱してい
った。

69Awake 5話(6/8):2013/09/20(金) 06:07:17
「分を弁えよ小僧。次で貴様の気力を挫いてやる」
「ほざくな! 実体のない者に弄ばれるほど俺は弱くない! 喰らえ!」
 ネクロマンサーが己の身体の前面に青白い防護と思われる魔方陣を展開している間に動きが停止
したと見たネイサンは連続で斧を投擲すると、詠唱に時間を取られていたのか数発命中した。
「やるな。しかしこれ以上時間をかけるのは愚策というもの。我が真の力を喰らいてこの
強さと己の脆弱さを煉獄まで引きずるがいい!」
 ネクロマンサーの姿が炎を纏い法衣が焼け落ちると、骨だけになったガーゴイルの姿が現れた。
――炎が発現した。浄化され剥き身になったか。勝機は見えた!
「キシャアァァアァア――」
 突然の不快な咆哮に身を竦め、何が繰り出されるかと身構えたと同時にネイサンの身の丈の
数倍はあろうかという弾力のある緑の球を放たれた。
 彼は警戒したものの目測を見誤り無様に吹き飛ばされ、跳ね返ってきた球体にまたもや
接触し今度は押しつぶされると内臓が出るくらいの圧迫を感じた。
 しかも周りには次々にグールより攻撃力の高いスケルトンが床下から現れ、行動しよう
とするたびに骨を投げて攻撃してきた。
 飛ぼうとしても投擲した骨に当たりタイミングがずれてしまうから厄介である。
 ただクロスなどで潰してしまえばある程度の時間は確保できるが、延々と床下から蘇っ
てくる不完全な生者をいちいち相手にしてクロスの無駄遣いをする余裕は彼には無い。
 使うのであればネクロマンサーがスケルトンを召還している滞空時間を利用しクロス一つを断続
的に利用するほうがましだろう。あとは攻撃のタイミングを計りながら回避する。

70Awake 5話(7/8):2013/09/20(金) 06:08:39
――クロスでの攻撃は受けた敵が動かない限り、ずっと攻撃し続ける特性があったな。
体を押しつぶされた圧迫で咳込みながら口角に滲み出た血を拭い、広間の中央にある足場
を利用しネクロマンサーが詠唱している間を見計らってクロスを投げつつ、動いたと同時に攻撃せ
ず回避する事に集中した。
 攻撃の強さは変化が無いものの徐々に球体の動きを読めるようになると、殆ど言って良
いほど相手の攻撃を回避できるようになったが、やがてクロスの数が尽きてしまった。
 だが、ネクロマンサーは依然として自分に対して攻撃を続けている。
――攻撃の手段が尽きてしまった……聖鞭はリーチが短すぎて有効打になるかどうかさえ
判らないのはさっきので解ったが、カード……そうだ炎の鞭は範囲もリーチも通常より大
きい。
 いつ倒せるか判らないが少なくともダメージを最小限に抑え攻撃するため、回避しなが
らスケルトンの放つ骨を鞭で焼きつつ足場にネクロマンサーを誘導して近接攻撃の形を取った。
 そして、ついに聖鞭の与える聖なる力によって魂魄の維持が出来なくなったネクロマンサーは、
断末魔を上げ聖なる炎に浄化され、消滅した。
 それから当然、術者を失った不完全な生者がその肉体を自ら維持できるはずも無く、消
滅した瞬間、大量の灰を撒き散らして焼失した。

71Awake 5話(8/8):2013/09/20(金) 06:09:22
 一人残されたネイサンは敵が居ない状態に安堵し急に震えが襲ってきたが、
「師匠はまだ生きている!待っていてください、師匠。」
 戦闘に勝利した後に自分の存在を再度確認して人心地ついたのか、様々な事を考えられ
るようになった。
「…しかし、ヒューは一体どこへ?」
――ここにもいなかった。広い城の中をお前はどんな様子で、どんな貌で、どんな想いで
駆けて戦っているんだ? お前の姿が見えない事がこれほどにも辛いなんて。
 お前の息遣い、立ち居振る舞い。どれもが愛おしくいつも傍にあった。
どんな言葉を掛けられてもいい、ただそこにいるだけで俺はどんな障壁にも困難にも立ち
向かえそうな気がする。
「ヒュー……」
 名前を呟くと自然に涙が溢れてきた。次第に何度も何度も切なく名前を呼び、求め、あ
がく様に吐息を洩らし呟きながら探索を再開した。

72Awake 6話(1/13):2013/09/20(金) 06:10:18
目の粗い岩のレンガに覆われ、水が轟音を上げている空間があった。
 ネクロマンサーが発していた魔力が消えた時、カーミラはその空間をさらに隔てた小部屋でその音を
扉越しに聞きながら配下のサキュバスに己の体を許し、一時の情交に身を委ねていた。
「……気配が消えた」
「如何なさいました? カーミラ様」
 カーミラの身体に絡みつくようにサキュバスが気だるい嬌態を晒し、甘えるような仕草で彼女の
腰回りに顔を埋めながら問うた。
「お前が気にする事は無い。しかし、今度の人間は中々にしぶとい」
「もう、終りになさいますか」
 名残惜しいが「今度の人間」と言った事で主人が敵に目を向け、享楽の時間が終わった
事を悟ると気を回して得意げに言葉を出したが、カーミラはまなじりに不快を表わしつつ下僕
の唇に人差し指で触れ、口を噤ませた。
「黙りなさい。お前が私に対して意見するのを許した覚えはなくってよ」
「……申し訳ございません」
「よい。それより、もっと体を近づけなさい」
 許された事にサキュバスの顔面には喜色が現れ、主人の命に従いじゃれる様にカーミラの胸元に
口づけをし、彼女はその態を愛しく思ったのか胸元にある頭を撫で、また体を重ねた。

「ふ……私の快楽を邪魔したのは苛立つ事だ。私の掌で踊ってもらおうか……人間」
――人間風情がどこまで我らに対抗できるか。楽しみだ……
 カーミラはサキュバスを抱きながら城内の様子と敵の位置を探り、弄ぶ算段を講じた。 
 人である以上どこかで何がしかの罪を犯しているであろうとカーミラは踏んでいた。

73Awake 6話(2/13):2013/09/20(金) 06:11:15
――清廉の志や行動を伴っていたら、自分より劣っている人間に対して途を正そうとする
人間がほとんどだろう。
しかしそれこそが罪。
己を恃み、頼まれもしない他者に対する不遜を振りかざす事はどんなに正しくとも「隣人
に対する傲慢」と言う罪を犯している。
しかもこの手合いは己の罪を自覚しない信仰の無知者である、だからこそ穢して堕とし哀
れな姿を見るのは私にとって最高の快楽。

「見えてきた……何と、追い詰められた貌をしているのかしら?」
 そこには必死の形相で敵を撃破し、城内を探索しているネイサンの姿があった。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                
 ネクロマンサーを撃破したネイサンは、ショルダーアーマーで今まで壊せなかった岩をタックルで打
ち砕くと、道に迷った時間を取り戻すかのように城内を駆けていた。
「壊れた。これで先に進める」
――だけど、人の力では壊れなかったものを簡単に壊せるなんて、自分の力で無いにせよ
当り前の様にあるのが恐い。

 青ざめた顔を見せながらも得心した面持ちで静かに肯くネイサンの様子を見て、カーミラは嫌悪
を催した。
 二律背反の意識ほど純粋に欲望を求める彼女にとって唾棄すべき感情だからだ。
「自らの肉体に取り込んでいない力を見て慄いたか。弱い。こんな人間にネクロマンサー様は消滅
させられたと言うのか」
――いや、力に対して明らかな恐れが見える。と言う事は逆に厄介かもしれない。己の領
分を知り誘惑に対してそれなりの準備が出来ているとも予想できる。こ奴は後回しだ、そ
う言えばもう一人、険の強い男がいたな。

74Awake 6話(3/13):2013/09/20(金) 06:12:26
そう考えながらヒューの所在を探り当てた時、カーミラはサキュバスをより強く抱きしめ体を仰け反
らせるくらいに高らかな声を上げて喜んだ。
 岩を破壊する事が出来ず、その近場にとどまって道を探していたヒューは、自分を屠ろうと
飛び掛かってくる魔物に笑みを湛え一撃にして薙ぎ払い、その血を浴びる事の穢れを厭わ
ず駆け進んでいた。
 彼はなかなかネイサンと合流する事が出来ず、と言ってモーリスを救出するのに寸暇を持て余せ
るほどの時間は無いと考えながら顔にかかった血を拭い、軽く前方を見据えると当てもな
く突き進む事に少し苛立ちを感じ始めていた。
 その血塗れの凄惨な様態にカーミラは、攻撃する事に何ら躊躇を持たない人間に肩入れした
いと思った。
「攻撃に対し恐怖を覚えるどころか、他者を捻じ伏せる事に快楽を覚えているようだ。何
と美しい姿か」
「カーミラ様……?」
 抱いている己から興味が移り、ただの人間に対して賛美したカーミラの心境に不安な面持ち
で彼女を見上げたが、カーミラは意に介さず、
「先ほどは差して興味もなかったが、元々あの方から下賜された物。ここまでやってきた
ら暇つぶしに私が力を試してやりましょう。もしかしたら面白い展開になるかもしれない」
 カーミラは閉ざされた空間の中で嬉しそうに呟いた。

75Awake 6話(4/13):2013/09/20(金) 06:13:21
「ここまでふんだんに鉄を使った建造物は今まで見たことはない」
 ショルダーアーマーで破壊する岩の数が多くなるにつれ、新たに進む事の出来るエリア
が近付いているのに気づいた。すると今まで踏破してきたレンガや石に覆われた所とは打
って変わり金属と金属が犇めきあう広大な空間が現れた。
 ネイサンは半ば敵の根城であることを忘れ感嘆の眼差しで周りを見渡した。
 上を見ると何重にも起動する鉄の歯車が潤滑油を垂らして人力に依らず永遠に稼働し、
至る所にガラスで保護していない剥き出しの状態で電気が走っていた。
 もちろん触れば無傷では済まないだろう、だが、どういう原理で稼働しているのだろう
かと恐怖心よりも好奇心が勝った。
「――上へ、上へ昇り踏破するか」
 よくよく見ると空間の中途に他の部屋へ続く足場や、部屋の最上には鉄の扉が見える。
 上下に起動する剥き出しの昇降機を伝い、その中途に存在する互い違いの滑車が運ぶ台
車を経由して空間の階上へ出ようと試みる事にした。
「クソッ、こんな状態じゃ敵に打ち落されもおかしくはない」
 機械だらけのこの空間でも悪魔城である。至る所に魔物は蠢いていた。
 そして、その不安が加速するかのように、怪物ゴルゴンかメデゥサの様な頭部が浮遊し
てこちらめがけて纏わりついてきた。

 動く足場に気を取られてメデゥサに接触し、叫びながら落下するとともに体が徐々に石
化した。
――また、下から昇り直しか。とりあえず石化した体を元に戻さないと

76Awake 6話(5/13):2013/09/20(金) 06:14:01
「痛たっ。いつもより痛みがひどい」
 石化した体に容赦なくメデゥサが体当たりしてくる。それを避けようと必死になって体
を揺さぶったが、体を覆っている石が壊れ体に突き刺さる。
「……何とか動けるようになったけど、こんな調子じゃいつ斃れるか判らない。それに出
血が酷い」
 露出している腕についた無数の擦過傷から筋肉をなぞるように血が滴り落ち、その様に
死の恐怖を感じて背筋が凍りつくような感覚に陥ると膝が震えてきた。
――得体の知れない事象。在るがまま受け入れようとしても更なる事象が襲ってくる。
だけど師匠、師匠も一人で囚われているんだ、助ける者が怖気づいてどうする。確かに一
人よりも二人の方が断然いい。
俺が待っていても状況は無情にも進む。なら、一人でいる事を当たり前の様にして振舞お
う。
そして、ヒューに出会ったら僥倖と感じよう。
 彼は剋目し、打倒必至の敵を屠るために眼前の敵を出来るだけ回避するよう神経を研ぎ
澄ませた。
 ある程度探索した所で馴染みの青白い扉が見えた。打倒必至の敵と対峙し勝利する事で
この城を踏破するためのアイテムを手に入れる事が出来る。
 いつしかネイサンは己の見知っている事象以外には、宗教上の足枷などから来る拒絶が恐怖
として影響しているものの、独りの力で敵を屠る事に躊躇する事はなくなりつつあった。
 ヒューの心境に近付いたのかと本人は思ったが、徐々に己自身が持っている力で踏破できた
という自信を己の心に持てるようになったからだ。
 とは言うものの頼るのは自分自身であるのは変わりない。扉に触れると、どのようなモ
ノが待ち構えているのかと思っただけで鳥肌が立っていた。

77Awake 6話(6/13):2013/09/20(金) 06:14:57
 扉を開けると最初は薄暗かったものの一気に燭蝋の光が燈り、空間の奥には鉄の塊が徐
々に姿を現した。
 それは佇むように静止しているただの物体だったが、ネイサンが確認のために近付くと急に
地鳴りを上げながら起動した。
 人の様な体の構造だが鉄に覆われ、起動する音に金属が擦れる音が聞こえた事から人で
は無いと彼は判断した。
「鉄のような体を持った生物だと?」
――いや、生物ではなくまるで人工物だ。ユダヤ伝承の土塊人形ゴーレムの様な人であり
人にあらざる奇怪な“モノ”か。
「作られた目的はどうあれ、こいつを倒さない事には先には進めない」
 身構えて攻撃の種類を見極めようと思ったが、ゴーレムが腕から地面に体を叩きつけた
と同時に、天井から人の大きさほどある無数の歯車が的確にネイサン目がけて落ちてきた。
 よもや眼前の敵から攻撃されずに、頭上から圧死するくらいの落下物が降ってくるとは
思いもよらず咄嗟に後方へ飛び退いたが、動きは遅いものの確実に前進する重鈍な躯体に
似合わず攻撃を繰り出す速さは予測がつかないものだった。
 確実に攻撃できるようになるのにさほど時間は掛からなかったが、しばらく経つと、攻
撃によって皮膚の様に剥離し損壊した鉄板は見る見るうちに塞がるのを確認した。
「なっ……自己修復するとは……!?」
――今まで与えたダメージが全て無駄になったと言うのか? 
「所詮、補佐に徹していた人間は膂力で勝ちうることは出来ないか……」
 青白い扉の入り口で唇を噛みしめ、悔しそうに静かに微かな呟きを発する男の姿があっ
た。
 自分が先に進めない苛立ちで逡巡していた頃、ネイサンが自分に壊せなかった岩を軽々と壊
し、先に進んでいったのを目視できるくらいの距離で見て、合流するために後を追う事に
したヒューだった。

78Awake 6話(7/13):2013/09/20(金) 06:15:31
 後から機械塔に侵入したもののマジックアイテムを駆使し、人間では短縮できない場所
を踏破して来たネイサンとは違い、身一つで切り抜けたヒューはやっと追い付いた先で初め、ネイサ
ンの邪魔にならないよう、そして彼が戦闘不能になるのを待たずに助けようかと様子をうか
がっていたが、逡巡しているうちに彼の耳に女の声色で軽やかに囁く声が心地良く聞こえ
てきた。
――「お前の矜持を彼に見せつけなさい。さすれば彼はお前の存在に心酔しすべてを投げ
出してお前に委ねるだろう」
 その言葉と声色は少し考えれば魔性が発した声だと気づくはずだが、体力を消耗し目的
と思考を狭めたヒューには、己の心情を復唱した耳触りのよい内容で心の中にくまなく響き渡
った。
――奴が俺に対して性愛を向けていようが知った事ではない。命が危機に晒されてから俺
の姿を仰ぎ見るがいい。貴様が下種な想いを二度と抱かせないくらいの優位を見せつけて
やる。
 己の尊大な感情にぞっとして無意識に口元に指を触れると、軽い情交に浴した事が蘇り
俄かに心が痛みだしたが、もう一度唇に指をやると今度は羞恥が込み上げて指をきつく噛
んだ。
「……思い違いも甚だしい。その相手は俺では無いのに。馬鹿な事を考えるな。それに、
何だ? この声は?」
 聞き覚えのない声を記憶から手繰り寄せたが、その声が儀式の間の手前で鋭い声を発し
た女の声と違い、ゆっくりと誘う声色だったので一致しなかった。
 そのため誰だか判別できなかったが、己の心根と共鳴したと勘違いしてやり過ごした。
 だが、影響されたのは事実で、複雑な心境で彼に対する嫉妬と情を受けた記憶が絡まり、
動くべき所を何度も見誤っていた。

79Awake 6話(8/13):2013/09/20(金) 06:17:04
「くくく、馬鹿な男だ。己の心を認め思うようにすれば良いものを。力だけならお前が憎
み、なおかつ庇護しようとしている相手を倒せるのに」
――だが、私はお前の様な者は嫌いではない。その軟弱な男よりよっぽど清々しい。それ
に彼奴のように脆弱な考えであれば途中で誰かに斃されるだろう。気にする事は無い、先
ずはお前の望む道を指し示してやろうではないか。
「力を持たざるが故にそれを補助する力を知らぬうちに手に入れし者、対し、力を持つが
故に己に固執し得うるべき力を拒絶する者――美しく正しいものしか知らないその心は孤
独に苛まれた脆い孤高。お前の名はヒューと言ったな、古い言葉で心と言う意味……人と認識
する限り身分も関わりなく力を持つ名」
 カーミラは手駒を見つめつつ侵入者の行動を常に感知できるよう、城内すべてに透過の目を
構築した。城内の壁と言う壁に微かだが一瞬にして光が駆け巡った。
「そして――完全に把握した! 聖鞭を持ちし後継者よ、そなたは正道のためにダビデ王
に諫言した膂力を持たぬ預言者、ナタンの名を冠している……忌まわしき偽善者!」
――互いに補えば脅威となる。だから、人としての意思を持ったままお互いに助勢する事
もさせる事も許さない。
「……留まれ。そこで彼奴が倒される姿を見届けよ」
「……動かない! 畜生、怖気づいたと言うのか? この俺が!」
 カーミラはヒューの足に拘束をかけた。状況を把握しただけで行動全てを無効化することはでき
ない。その上、真祖でさえ致命傷を与えれば灰燼に帰す聖鞭に対抗できるほどの力を有し
ている訳ではないが、教会で聖別されている程度の剣を持っている者を完全とはいかない
までも、心に楔を打ち込み操る事は彼女にとって容易なものであった。
「術にかかった事に気づかないとは……未だ敵陣に侵入した不利を認識できていない傲慢
さがもたらす無知よ。己が人である事に何ら疑問を持たない癖に、魔性の声を受け入れた
が故に心に私の意識が入り込んだ事すら微塵も感じていない」

80Awake 6話(9/13):2013/09/20(金) 06:18:02
目の前に邂逅すべき仲間と打倒すべき魔性がいる。近寄ればいいだけなのに動けない。
その状況にヒューは焦りが湧いてきた。
「動け!……あれくらいの敵なぞ怖いはずがないのに! 指を咥えて見ている場合ではな
いと言うのに!」
――「あの聖鞭さえあれば、こんな呪縛すぐにでも解けるのに。うふふ……」
「誰だ!」
 俄かに女の声が聞こえたが幻聴だと納得させ、また、もがく様に足を動かそうとしたが、
足首に蔦が絡まったように身動きが取れなかった。
「これはこの城の主の声か。真祖では無い、術者のあの女か」
 ようやく術にかかった事を理解したヒューは、色々な言語を駆使して解呪しようと試みたが、
全て徒労に終わった。
「……はぁ、はぁ、戦いが終わるまで待つしかないのか。精神に楔を打たれたから解呪出
来なくなったのだろう。油断した! 一刻も早く術者を倒さなければ、俺の精神は蝕まれ
てしまう」
 もちろん、「助けてくれ」と戦闘中に声をかける事など出来る訳もなく、ヒューは唇を噛み
しめ、地団太を踏む心持でネイサンとゴーレムの戦いを見守るしかなかった。
 
――ダメージが回復するのなら回復量より多く、早い時間でダメージを与えればいい。
 ネイサンは活路を見出した。力はないものの回復する隙を作らなければいい。そう結論を出
し行動に出た。
――力は強いけど行動が遅く、攻撃も注意すれば躱わせるくらいの速度なら……倒せる!
さっき、ネクロマンサーに立て続けでクロスをぶつけ続ける事が出来たんだ、動きが速いのならと
もかく、遅ければその場で硬直する事も考えられる。
 考えるが先か、彼はクロスをゴーレムの動きが停止したと同時に投げつけると、予想通
り、投擲した速度のままある一定の威力を以ってゴーレムに対し回復する隙を与えなかっ
た。

81Awake 6話(10/13):2013/09/20(金) 06:18:45
近接攻撃の隙が出来たのならとネイサンは炎の鞭で打撃を与え続けた。
「何だ……あの攻撃は? あんな力、奴にあったのか?」
 攻撃の手段を見てヒューは唖然とした。同時に魔城であるが故に聖鞭の力が発動したと予想
した。
――聖鞭にあんな力があるとは聞いたことが無いぞ。いや、俺が知らないだけかもしれな
いが、何にせよ、人が持ちえる力では無い。しかも、奴はその力を躊躇なく使いこなして
いる。そうか、確かに力が劣るならあれを使わないと魔物の攻撃が防御できないと言う事
か。
「それでも納得がいかない。聖鞭を渡すと言う事は後継者であると言う証左だ」
――「もし、聖鞭の力でどうこうなるのなら、どうしてすぐに助けに行かないのかしら?
名声のために、今まで己が踏破出来なかったほどの敵を倒し、力を誇示するために聖鞭を
振っているかのよう……」
「……確かにそうだ。くっ、俺に話しかけるな!」
――「あははは! 声を掻き消したければ、急いで私のもとへ来る事ね。もっとも、今、
貴方は動けないでしょうけど、しばらくあの力を見つめ続けていなさい……!」
「魔性に心を許しかけるとは……やはり、ネイサン、お前とは共闘できないようだ。今、お前
と話したら心が折れそうになるから、それに、操られ、お前を攻撃しようものなら共倒れ
もいいところだ」
 ネイサンが戦っている姿にヒューは半ば嫉妬と羨望も一緒に、より深く心に突き刺さった想いで
一杯になった。

82Awake 6話(11/13):2013/09/20(金) 06:20:10
――力はあっても動きが単調だから、ネクロマンサーなどに比べたら脅威と感じない。これはクロ
スが尽きない限り簡単に倒せるだろう。
 敵の特徴を捉えたら、後はネイサンの独断場だった。
 聖鞭を振り下ろし、相手が消滅する兆候を見せるまで、淡々と攻撃を行えばいいだけだ
った。
 しばらくすると徐々に体内から炎を内包したように外殻が赤く膨張を始め、やがて風船
の様に破裂し、ゴーレムを形成していた土塊と金属が部屋中に飛散した。
「……粗製のゴーレムとはいえ、ただの人間に力で倒されるとは。だが、力を見せつけら
れたお前がどう動くのか見物だ」
「……終わったか」
 そうヒューが呟いたと同時にカーミラは蔦の様に絡まっていた彼の足元の呪縛が解き、動けるよ
うにした。
 その事象に少々驚いたが、それよりも身勝手だと思いつつもネイサンが自分の手を借りず、
敵を簡単に消滅させた事に少し苛立ちを覚えると、魔性が送り込んだ負の感情も作用して
後ろ向きに考えてしまった。
 もちろん、今の自分と共闘した場合、そのような感情で対応したら戦闘時に乱れが生じ
るため、あえて一緒に行動しないよう言うつもりでネイサンのもとに近づいた。だが、
「ヒュー!無事だったのか!」
 戦いの後、生きてまた出会えた事に喜びを隠せなかったネイサンは、抱き付かんとばかりに
駆け寄ろうとしたが、その姿を目の当たりにした瞬間、ヒューは自分に向けられた想いを垣間
見る心持となって嫌悪を生じた。
 そう思うと冷やかな視線で一瞥し、勝利を讃えなかったばかりか彼を労う事なく辛辣な
言葉を浴びせてしまった。

83Awake 6話(12/13):2013/09/20(金) 06:20:49
「こんな所で何をしている?手柄を横取りしに来たのか?」
 ネイサンはようやく合流できたと喜び心が高鳴っていたところに、冷水を浴びせたような言
葉と表情を受けて、なぜそのような科白を吐かれるのか分からなくなった。
――手柄だと? 本来、共闘しなければならない状況なのに、それに功を競っても何の意
味も持たない戦いなのに、何を訳の分からない事を言っているんだ……?
「…こんな時に何を?俺も師匠を助けたいんだ。」
「邪魔だ。俺は一人でドラキュラを倒す。そして…。」
「ヒュー…。」
 彼の苦渋に満ちた顔を見て、これ以上言葉をかけられず追いかける事も出来なかった。
 先程「どんな言葉をかけられてもいい」と思っていた自分が気圧されるほどの拒絶を実
際に顕されると身も心も凍てついた。
――追いかけた先であんな冷たい表情を向けられたら、俺は身を竦めてしまう。そうした
ら心が折れてしまって、体が満足に動かないような気がする。敵が犇めいている城内でそ
んな状況に陥るのは殺してくれと言っているようなものだ。

 しばらく心を痛めて無言でいたが、また室内に青白い扉が佇んでいた。
 時間がないのに心無い言葉に動じている場合ではないと、気を取り直して扉を開けてみ
た先には台座の上に乗った青い靴があった。

84Awake 6話(13/13):2013/09/20(金) 06:22:10
 その靴は踝のところに羽根飾りが付いており、童話の妖精が履くような何とも微笑まし
いデザインをしていた。
「まいったな、これを履けってか……」
 一瞬ためらったが、マジックアイテムを駆使しなければ城内を踏破出来ないのは解かっ
ているので、敵が進入していないのを確認すると、その場で鉄靴を脱ぎ装着してみた。
 他のマジックアイテムの様に装着したところ、すぐ身体に吸収された。
「魔性の道具と分かっているけど、使わないとどうしようもないな」
 力を当てにしている。それはネイサンとて解かっていたが、この城の魔性は非力を自覚して
いる自分が戦闘後に得られる道具の持つ、人にあらざる力を自らの肉体に刻んでいく事で
呪縛の様に力に溺れ、心に隙を作ろうとしているのではないかと考えを巡らせた。
――力がないのを自覚しているからこそ、かりそめの力を与える事で、更なる力を渇望さ
せて思慮を持たせないよう仕向けられているかもしれない。
だけど、自らの本来の力を把握していれば、かりそめの力がもたらす効果なんて取るに足
らないものだと自重できる。
 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている――力と他人を侮る事なかれ。己の
身を守るための臆病さに、これほどまで救われた事が無かった。

85Awake 7話(1/13):2013/09/22(日) 12:47:52
ゴーレムを倒し小休憩をとった後、ネイサンはモーリスの救出はおろか、共闘すべき仲間に邂逅
するも去られた事で自棄にはならないものの、何も考えないように城内を疾走していた。  
だが、時間が経つにつれ、ヒューの自分に対する動向の意味が判らず、いくつかの疑念が頭
の中でもたげ始めた。
――何故、己の優位と俺の状況を後ろ向きに捉えるような見苦しい科白を吐いたんだ?
「もう、歪んだ姿のお前しか見えない。師匠。どうしてあいつを連れて来たんですか?
 今まで師匠が教え体得して来た概念や、思想を根底から否定する考えで攻略しようとし
ている」
 だが、考えても仕方がないと思考を振り切るために上を見上げると、城内の所々に足場
の様なものが見えるのに気づいた。まさか部屋があるとは思ってもみなかったが、怪しい
所はくまなく探索しないとどこに儀式の間の鍵があるか判らないので、新たなマジックア
イテムを使い駆けあがる事にした。
「他に踏破出来ないなら上に登るのみか。うん?」
 壁を蹴り斜めに跳び上がった時、対面の壁に吸着するように靴底が貼りついた。
「すごいな、鉄靴を履いているのに滑り落ちる事なく駆けあがれる。だけどこの力は自分
の物じゃない。急に能力が消えても慌てる事が無いよう注意しないと」
 駆けあがった先には頑丈な鉄の扉が目の前に現れた。

86Awake 7話(2/13):2013/09/22(日) 12:48:56
「……なんで階段がないのに扉があったりするんだろう? 古城を再構築しているからこ
んな奇妙な造りになっているのだろうけど……」
 とにかく移動できる手段を手に入れた事に安堵し、そのままの勢いで扉を開いた。
 開くと同時に見たのは、牛と無数のエクトプラズムが犇めきあって侵入してきた獲物の
血肉と精力を啜ろうと待ち構えている光景だった。
「牛?……え、砂!? えっ……あぁっ!」
 状況を確認する前にゴルゴンの口から放たれた砂塵に接触し、一瞬でネイサンの全身は石化
してしまった。
――出だしからこれか。先が思いやられるな。
 幸いにもメデゥサと同様に体を揺らすと皮膚に張り付いた石は剥がれた。
それから今度は砂塵に触れないようゴルゴンの砂が届かない足場まで後退し、周りと状況
を確認しながら接触してくる敵を鞭とクロスで掃討しつつ回避した。
 その場所は長い廊下だった。敵を排除して鉄の扉を開けても、また開けても廊下が続い
ていた。 
 そのエリアは前の部屋と同じく下になだらかな坂があり、その一角にはワープゲートが
あった。今度はどこに行けるのだろうかと光の水面に体を預けたが、自分が踏破した事の
あるエリアしか行けない事が分かり、その場所の探索を諦めて先へ進むことにした。

87Awake 7話(3/13):2013/09/22(日) 12:53:52
 丁度そのすぐ後にヒューがそのワープゲートから出てきた。外に出て自分が進んだことの
ないエリアだとすぐに分かったが、ここに来られると言う事は自分の前にネイサンが通過した
事の証左だと予測し、そのまま近場を探索した。
 ネイサンの方は、色取り取りのステンドグラスが填った窓が壁一面に広がっている空間に進
んだ。
 その空間にはバラ窓や、聖書の一節を題材にした色彩豊かなステンドグラスが鏤められ
ていたため、この城内における礼拝堂だと判った。
 だが、この場所においても荘厳に輝く室内に見とれている暇は無かった。
 城内に侵入する前に対峙した炎を纏った鎧兵と、先ほどの廊下で当たらない曲刀を振り
下ろしてくるスケルトンが同時に攻撃して来たものだから堪らず上方へ逃げたが、今度は
間髪置かず、意思を持つ無数のナイフがネイサンめがけて襲ってきた。
しかも、性質の悪い事に攻撃を捌こうとしても動きが素早く、追ってこられないよう中途
の遮蔽物に隠れながら、上へ逃げるだけで精いっぱいだった。
 その上、中途の部屋で空中移動をしながらこちらに向かってくるマリオネットに接触し、
攻撃しようとしたら一定時間、聖鞭を握ろうとしても手が弾かれたため、攻撃できず逃
げ回るかのように移動するしかなかった。
 聖鞭を握れなかったことから呪いにかかったと予測できたが、同時に清浄な場所に何故
そのような効果を持つ魔性が存在できるのかと疑念に思った。

88Awake 7話(4/13):2013/09/22(日) 12:55:03
 その答えをネイサンはマリオネットに追いかけられながら、このエリアで見つける事が出来
た。
 流石に聖なるものを模しているとはいえ、ここは悪魔城である。中途に十字架など見当
たらないばかりか、東方三賢者の一人がステンドグラスから欠けているのを確認すると納
得がいった。
――わざと欠けさせる事でキリストを否定し、聖域を毀したのか。そう言えば謁見の間に
行く途中の廊下にあったルーベンスの『キリスト降架』は模写で見た構図じゃなく反転し
ていたな。つまり、この城に元々あった宗教的なものをすべて否定するつもりでいるのか?
 そうと判ればこの城に完全な安息地は存在しないと結論付け、死の恐怖が深まると暗澹
たる思いで移動に邪魔な敵を排除しながら逃げ回るように進んでいった。
 程なくして、鐘楼がある廊下から上方へ駆けると、眼前に駒がいる青白い扉を見つけた。
 だが、駆けだしたと同時にありえない事が起こった。
 扉に近づこうとした途端、扉からヒューが無残な姿でこちらに向かって弾き飛ばされて来
たからである。
 ネイサンの後を追いかけていたヒューだったが、ネイサンが必死で逃げ回り遮蔽物に隠れていた頃、
彼は敵の追尾を無視して進んでいたため、ネイサンと邂逅する事なく先に駒と対峙できたので
ある。

89Awake 7話(5/13):2013/09/22(日) 12:55:59
とにかく自分より先に目的地に辿り着いて、いつの間にか血だらけで弾き飛ばされて来
たのに驚愕を以って一瞬、体と思考が硬直した。
「ヒュー!大丈夫か?」
「貴様!引っ込んでいろ。俺の獲物に手を出すな!」
 ネイサンはあまりの無残さに駆け寄ろうとヒューに声をかけたが、ただでさえ精神に楔を打ち込
まれ思うように行動出来ない上に、異形の敵に軽くあしらわれて無様にも吹き飛ばされた
姿を一番見られたくない相手に晒した事でヒューは一気に逆上した。
 ヒューもまた儀式の間の前に行き、鍵となるアイテムを手に入れるためには駒を倒さなけれ
ばならないと知った。それは、ネイサンが確実に各部屋の駒を倒しアイテムを手に入れ、踏破
しているのを先の戦いで確信したからだ。
 だが共闘していなかった事で現在のネイサンの力を知ることが出来ず、自分が倒せなかった
魔物にネイサンが太刀打ちできるはずかないと考えたため、その感情も手伝ってか強い口調で
彼の行動を制止した。
 強く言われたのでネイサンは少し怯んだが、よもやヒューの精神の手綱が他者に握られた状態に
なっているなどとは想像できず、血まみれの姿で吼えている状況にヒューに聖鞭さえあればこ
んな苦しい貌をさせずに済んだだろうと一瞬思ったものの、それでは何の解決も見られな
い現実に心が痛んだ。

90Awake 7話(6/13):2013/09/22(日) 12:56:45
「何だ……この異様で禍々しい羊は?」
 そこには壁一面を占めるほどの巨大な羊のような生き物の頭部が剥製のように首から顔
を出していた。
 それだけでも異様だが、その顔面を目の周りを中心に黒い革のバンドで雁字搦めに拘束
されていた。
 よく見ると、頭は羊だが壁から人の両手が突き出ていた。しかし、壁に手首から先しか
出ておらず、それも拘束されていた。
「何奴だ? さっきの人間は吹き飛ばされたお陰で運良く助かったみたいだが、お前はそ
の身を喰わせてくれるのか?」
「……」
「その怒りに満ちた目。お前はさっきの人間の仲間か?」
 壁から突き出た両の手先と口以外、黒い革で縛られ、ネイサンの姿は見えていないはずなの
に彼のほうへ頭を向け怪物は言葉を発した。
「我が名はアドラメレク。かつて異郷の地で太陽と等しい神であった。だが屠った生贄の多さ
に人は我を煉獄の宰相などと嘲り悪魔の化身になった訳だ。しかし嘲った人間を屠り喰ら
い尽くすのはいいものだ。数世紀振りに溜飲が下がった思いだ」
「よく喋る羊だ。羊なら羊らしく肉を喰らわず、牧草でも食んでいればいいものを」
 軽口を叩き、無遠慮に言葉を発する畜生にヒューが嬲られたかと思うと、ネイサンは腹立たし
さのあまり、震えながら呪詛を吐いた。

91Awake 7話(7/13):2013/09/22(日) 12:57:58
 無論、吐かれた畜生は怒りに震えた言葉ごときでは意に介すことはなく、侮った口調で
彼をからかった。
「言葉数は少ないくせに中々に口が悪い。人間、それほどまでにあの人間を大切に想って
いるのか……面白い。その身を喰らってやる」
「――!?」
 アドラメレクの口元が微かに歪み瞬時に殺気立つと、間髪置かず無数の青白い炎がネイサン目掛け
て降り注いできた。ある程度異形の敵に慣れてきたため素早く躱せたが、最後に追尾して
きた炎の塊に直撃し出鼻を挫かれた。
「どうした人間! 我の攻撃はこれだけでは終わらぬぞ!」
「うっ、これでは近づけない」
 炎の塊に吹き飛ばされて背中から叩きつけられた痛みで蹲った隙に、アドラメレクは自分の肉
体の範囲に毒の球を展開しネイサンに頭蓋骨の群れを放った。
 運悪く頭蓋骨に衝突しまたもや吹き飛ばされて仰向けに倒れた後、すぐ体を起こし跪く
体勢を取ったが、間髪措かずアドラメレクから炎を放たれ、動きが取れない彼の肉体は劫火の如
き熱量を以って焼かれた。
――攻撃が早い! ヒューでさえ倒せなかった敵に、独りで立ち向かわなきゃならないなんて!
怖い、膝が震える、歯の根が合わない。死にたくない。
「だけど今は、俺が戦ってこいつを倒さないと誰も助からない!」
 吼えてもネイサン自身、相手に対して余裕を以って屠る力を持ち合わせていないのは理解し
ている。だが、青白の扉は進入した以上、駒を倒さなければどんなにあがいても開く事は
出来ない。

92Awake 7話(8/13):2013/09/22(日) 12:58:55
そうこうするうちに頭蓋骨の群れがネイサン目がけて急襲してきた。しかし、攻撃のタイミ
ングを見るために下手に動く事が出来ない状況においては、逃げ続ける方法しか取れなか
った。
――とにかく落ち着いて攻撃の種類を見極めよう。体は動かず、頭部だけが可動領域内で
動く程度だから、遠隔攻撃が中心だろう。今まで壁から体を出す気配はなかったから、直
接攻撃の可能性は低い。
 そう思案を巡らせ骸骨の群れを観察すると、展開範囲は広いものの地面に接触せず、あ
る一定の位置まで来たら自ら発火し、消滅している。この場合はスライディングで回避し、
反対側に回って炎の鞭などリーチが長く、攻撃力が高いカードの効果を使って攻撃できる
と踏んだ。
――あの羊は俺がいる方向に頭を向けた後に遠隔攻撃を繰り出してくるようだ。炎は追尾
してくるから移動しながら弾数を消費させるために逃げる事に専念する。毒の弾は当たっ
た瞬間に消えていたからクロスで掃討しながら本体を直接攻撃できる。
 気づけば何の事は無かったが、それでも本来の自分の技量では到底、倒せるような魔性
ではないし、むしろ自分より先に身一つでここまで辿りついたヒューの力に感嘆した。
 ともあれ、回避と攻撃を続けていくうちにアドラメレクの方に焦りが出てきたのか、軽口どこ
ろか言葉さえも発さなくなり、ダメージが強いのだろう、次第に唸りながら涎を撒き散ら
し始めた。

93Awake 7話(9/13):2013/09/22(日) 12:59:33
 やがて、頭部が炎のように赤く染まると、皮膚から業火が溢れだし燃えながら首から分
かたれ床に落ちた瞬間に燃え尽きた。
 その様を見て既に敵を屠った事に躊躇すら覚える事はなくなった。ただ、勝利を確信す
るために青白い扉を開ける事だけがネイサンの脳裏にあった。
 傷つき今でも扉の外で蹲っているであろうヒューの姿を確かめるため、急いで彼のもとへ駆
けつけるために。
 
「くっ!誰が助けてくれといった?」
「ほっとけるわけ無いだろう?」
 ヒューの元に辿りつくと、依然として満身創痍で血や埃が白地の衣服にこびり付いている薄
汚れた姿のまま痛む体を抱えて床に蹲っていたが、決まり悪そうに表情をネイサンに向けた後、
本当に迷惑な様子で悪態を吐いた。
――こんなに傷ついているのに、まだ虚勢を張るつもりか? そんな状態で戦力を分散さ
せる事がどんなにも愚かか、いつものお前だったらこんな思慮のない蛮勇を振るう事はし
なかっただろうに! 目を覚ましてくれ!
 ネイサンは火傷した体を庇いながらヒューの様子を見ようとしたが、彼が己の矜持と自尊心から
発した嚇怒に対して流石に腹を立て、少々強く言葉を発した。
 だが、その態度に反駁するかのようにネイサンの功績を踏みにじる言動に出られた。
「貴様、勘違いするなよ!そのムチの力で勝っただけだ!」
「ヒュー…?」
「…修行中、一度も俺に勝った事がないお前を、親父は後継者に選び、ハンターのムチを
与えた。」

94Awake 7話(10/13):2013/09/22(日) 13:00:30
 確かにネイサンが持っている実際の力では、今までの敵は一人で倒す事は出来なかっただろ
う。
 だが、どんな形であれ打倒しない事にはどの道、ヒューも彼も助かる道は無かった。それな
のにこの期に及んで現在に至った過程を問うのはあまりにも幼く、浅墓にも程があった。
「貴様の両親が、俺の親父と共にドラキュラを封印したと言う事で、目を掛けられているに過
ぎん!それを忘れるな!」
 
 ヒューはネイサンが持っているモーリスに対する恩義を逆手にとり徹底的に詰った。
 それは負の感情にのまれかけている彼の状態で共闘すれば、近いうちに操られてしまい
ネイサンの足手まといになるのは自分でもよく判っていたからだ。
 それならばいっそ彼を傷つけ怯ませてでも追って来ないようにして別行動をとり、自分
の状態を正常に戻す。
 この場合は術者であるカーミラを倒す事だが、説明してもネイサンが自分との共闘を望むのは目
に見えていた。
 現に作戦行動に関してネイサンは何ら間違った行動は取っていない。それなのに己の矜持が
許さず、戦場の真っただ中で妬心さえ曝け出す見っとも無い感情が燻っている。
 ともかく悲愁を帯びた表情を向け、己の根底にある承認欲求に抗う事が出来ないまま激
高した口調でネイサンを詰り、邂逅するも共闘の道をまた自ら放棄したヒューは逃げるように彼の
もとから走り去った。
「上手く諌められない自分の後ろめたい感情が、恩義ある人の血族を守る盾となり損ねた。
 お前の心身を想う事さえ許してくれないのか? もしかして」
 引き留めようと手を翳そうとしたが躊躇して動けず、悔しさのあまり歯を食いしばると、
悲しそうに悔恨の情を醸した顔の双眸には涙が溢れていた。

95Awake 7話(11/13):2013/09/22(日) 13:01:55
「何と言う狂気。何と言う傲慢。人も魔物もこうあるべきだ! 純粋に己の事しか考えて
いない、己の父親の救出すら己の矜持を証明するための道具にしかしていない」
 己の操作による誘導があったにせよヒューの矜持から来る振る舞いを見て、カーミラは喜色を全
面に出し魔性の如きその性根を心から賞賛し、自ら社会悪を標榜して行動している者より
も、己の未熟な承認欲求を満たすためだけに他者を攻撃する純粋な剥き身の感情に好感を
もった。
 反面、ネイサンに対しては後にも先にも不快感しか覚えなかった。
 カーミラはネイサンの怯えた顔を思い出すと、蟖たけた美しい容姿に似合わず悪鬼のごとく歪ん
だ表情で彼に毒づいた。
「私は力や欲望に怖れを抱いて、聖人君子のような振る舞いをする偽善者を見ていると反
吐が出る思いになる!」
――倒されたネクロマンサー様、デス様、そして私が中心となって伯爵を復活させたまではいいが、
彼奴が……聖鞭の力を借りていたとしても、こうも易々と駒を毀してくれるとは思っても
みなかった。
 この一ヶ月半、私が復活後の力の増幅に関して直接指揮をとっているとはいえ、術者の
一人であるネクロマンサー様に先鋒を任せ、この城に向かってくるハンター達の相手をし続けた事
で我々二人より疲弊なさっておられたとすれば……分からん話でもない。
いや、力なく倒された者の事を憐れみ、考えるのは止そう。これから先の事を考える方が
有益だ。
術者としての主導権は私が握っている。たとえデス様が斃されようと、伯爵に与える力の流
れが滞るだけでほとんど影響は無い。
だが、あの軟弱者が私のところまで城内の駒を倒し、踏破した場合、こちらの身の振り方
を考えねばなるまい。

96Awake 7話(12/13):2013/09/22(日) 13:03:02
「だが、気になる。あの君子然とした偽善者があの男に向けた貌と、切なげに何度も彼の
名前を呼んでいたのは……まさか……」
 カーミラは想像したものの、いくら幻覚を見せる術者とはいえ、確証が持てない事象を相手
に突きつけるような愚を犯すつもりはなかったが、その貌はどう考えても相手に対して恋
情を抱いている様相を呈していた。
「ソドムの恋か。それならば人間らしい感情ではないか。そう思うと少し、不快感が和ら
ぐ」
 カーミラはその予測が本当なら面白い事になりそうだと喜び、徐々に表情が柔和になった。

 死闘の後に二度も詰られ、しばらく意気消沈していたネイサンは気を取り直し、部屋の先に
ある扉を開いた。
 鍵があるかと期待したが、凱旋通路前のワープゲートにあったスイッチがあるだけだっ
た。
 躊躇なく台座に乗ると、部屋の中にあった血まみれのアイアンメイデンが潰れたと同時
に、その破片が四方に散らばり体がよろめくぐらいの地鳴りが空間に轟いた。
 崩壊した先に部屋が現れたが、四方を見渡してもマジックアイテムは見当たらなかった。
――とにかくアイアンメイデンが壊れて新たな空間が広がった。城全体に地鳴りが轟いた
から他の場所にあったのも同じようになったのでは……?
 そう考えを巡らし、礼拝堂に入る前のエリアにアイアンメイデンがあった事を思い出す
と、そこだけではなく他にも封鎖されていた所が通過できるだろうと予想した。
 先は長いかもしれないが、着実に自分はモーリスの救出に向かって歩みを進めている。そう
思い、先ほどアイアンメイデンが道を塞いでいた場所が開けていることを確信し、そこを
目指して駆けて行った。

97Awake 7話(13/13):2013/09/22(日) 13:03:39
 同じころ、己の状況と放言した内容のアンバランスさを自らの意思で露呈した事に、ヒュー
は再び嫌悪を抱いて赤面しながら、奈落階段を無我夢中で駆けていた。
 
 ちょうどアイアンメイデンのあった場所にたどり着き、敵の侵入しない場所で少し体を
休めて冷静になろうと扉を開けた時、城内に轟音が鳴り響いた。
 その威力は彼を取り巻く空間自体が縦に大きく揺れるくらい強いものだった。
「アイアンメイデンが砲撃を喰らったように壊れている」
 ヒューは今まで通れなかった所を探索できるかと思うと心が高鳴った。
 その上、偶然にも己の心に楔を打ち込んだ術者の魔力が微かに感知できるほど、その場
所の周辺から魔力が放たれていた。
 だが、それはわざと相手に魔力を感じさせ、ヒューを誘き寄せるために撒いたカーミラの罠で
あった。
 そのため、ヒューは難なく魔力を感知でき、汚染した精神を取り除くために行動しようと
息巻いたが、心の楔のせいでカーミラの操作に気付かないまま、冷静になれるどころか正体を
失ってしまった。
「行ける。行けるぞ! ははは! 一刻も早くあの魔性を斃し、精神のくびきを断ってか
ら奴より、ネイサンより早く親父の元に辿りついてやる!」
 相手を躊躇なく詰り、身勝手な承認欲求を他者に認めさせるような未熟な行動を恥と思
わないくらい、その思考は徐々に歪んでヒューの心を蝕んでいった。

98Awake 8話(1/9):2013/09/24(火) 09:30:54
「行ける。行けるぞ! ははは!」
 大量の水の音が濁流の如くどうどうと響き渡る空間を掻き乱すかのように、地下水路の
深遠部をガシャガシャと金具が軋み合う音を立てながら、荒い息遣いで駆けているヒューの姿
があった。
 体力を削る毒の水が流れるその場所はひどい悪臭を放っていたが、己が倒せなかった魔
物をネイサンが打ち倒した事で冷静さは完全に消え去り、本格的に自信を見失った彼の心は怒
り感情のみで突き進んでいた。
 いつもの彼ならいったん退避して己に有利な方法を探すのだが、カーミラが感情を増幅させ
てしまったせいで今まで感じた事のなかった、他者が見せた力に対する焦りといった感情
を上手くコントロール出来ず、その感情の先には術者のカーミラを倒す事しか考えられなかっ
た。
――何故だ。何故だ!何故だ! どこでどう奴との力の差が生まれたんだ!? 親父が前
に話した通り「人の住まう場所でない城は通常の概念が通用しない」と言うことか。
だが、精神に楔を打たれたとはいえ、数刻の間で力関係が変化する事がこの世にあってい
いのか? そんな莫迦な!
ならば、俺は……俺は如何したらいい!? 俺はネイサンより膂力も剣技も知識も持ち合わせ
ている。先ほどの鞭捌きを見ていてもそれは確かだ。
俺はこの城の中では役立たずなのか? それだけは認めない。いや、認めるわけにはいか
ない! 俺の研鑽の日々を無駄な時間だと思いたくない。

「そんな不条理が在って堪るかああぁぁあ!」 

 ヒューは錯乱したような叫びを上げながら、中途にあった階段のギミックを利用し、体力の
消耗を抑えるために無駄なルートを通らないよう、目測で判断しながら進んでいった。

99Awake 8話(2/9):2013/09/24(火) 09:35:23
 やがて、駒となる魔物が待機している部屋を示す青白い扉を見つけた。彼はグッと歯を
食いしばると、苦痛に歪ませた顔を目指すべき最深部の扉に向け、その表情のまま扉を乱
暴に蹴り飛ばし、ずかずかと奥の部屋へ入って行った。
そこは、外の水路とは対照的で壁一面に伝うように清浄な水が流れ、清々しい空気が辺り
に満ちていた。
 広さは他の部屋と同じくらいだが、足場ほどの大きさがある突起物を備えている簡素な
石柱が一定の間隔で配置されている。その奥にはもう一つ扉があった。

 そこには新たなる通路があるのだろうか? とヒューは考えたがその前に、その部屋は石畳
の落窪になっており降りるために着地地点を見下ろすと、謁見の間にいた女が涼やかな顔
でこちらを見て微笑んだ。
「案外、早かったのね」
 女は赤い唇を花が咲くように緩やかに開き、自分を見下ろしている不遜な表情をした青
年を見て、程よく肉付きの良い均整の取れた左足を誘惑するかのように桃色のペチコート
の裂け目から太腿が見える寸前まで右足へゆっくりと動かした。
――その声は、俺の心に響いていた声そのものだ。
 彼は斎戒していたせいもあってか少し、艶麗な態をなした女の色香に気を向けたが、そ
の女の役割を思い出すと――つまり、死者復活の直接的な指揮を執った術者を打ち倒せば
死者もろとも崩壊させる事の出来るネクロマンシーの法則により「塵に還すべき相手」と
認識した。
 その上、自分の心に楔を打ち、力を奪ったかと思うと何が何でも倒さなければならない
相手であった。
「淫魔が」 
 そう考えたら一層その女の表情と仕草を穢らわしい物を見るかのように、侮蔑をこめた
眼差しで見つめた。

100Awake 8話(3/9):2013/09/24(火) 09:36:06
 それから、打ち倒した瞬間の湧き上がる征服感と、それに付随するハンターとしての名
誉と父親からの賞賛、そしてネイサンに対する変わり無き優越感と立場。
 それらを想像しただけで胸が高鳴り、快楽に酔い痴れる心持になって「ククク……」と
喜びを隠せずに野卑た低い声を満面の笑みで漏らした。
「貴様を消滅させれば俺は、この苦しみから解き放たれる。貴様は俺の生贄になるのだ」
 ヒューは先ほどの表情と格好を崩さずに対峙している女に指を指し、キリスト者にあるまじ
き言動(他者を自分だけの生贄と認識すること)を悪びれも無く言い放った。
 それに対して彼女は「傲岸だが実力を測れないほど狂ってしまったのか……」と内心、
己の術がここまで効いていた事に満足を覚えながらも、玩具の気分を損ねては元も子もな
いと思い、あえて礼節を重んじて対応する事にした。
「私の名はカーミラ。貴方の名は?」
「貴様に名乗る名など無い! 名乗れば貴様の術に利用されるのが落ちだからな!」
 案の定ヒューは頑なに魔と対話する事を拒否した。

――そう、その目と顔付き。やはりそうでなくては、面白味が無い。
カーミラは炎のように赤い舌で薔薇色をした己の唇を舐り上げた。
「……無礼な男。でも私は貴方の名を知っていてよ、ヒュー・ボールドウィン」
――やはりな……さすがに上級の吸血鬼は知恵が回る。名を持つ本人に言霊を語らせ感情
を盗んで利用するつもりだったか。だが、そこまで精神が浸食されていたとは思わなかっ
た。
 彼は腹立たしさからカーミラを射抜くような冷たい目で見た。しかし、彼女はその視線を無
視して軽やかな口調で更に続けた。
「貴方は今、何故自分の名を会話もしたことの無い私が知っているのか、疑問に思ってい
るのではないかしら?」

101Awake 8話(4/9):2013/09/24(火) 09:36:39
 彼女は含み笑いをして舐るような眼差しを無表情で冷ややかな眼光を自分に向けている
彼に対し「ふふふ……」と妖艶な声色で漏らし、
「それは、謁見の間で貴方の父親が真っ先に貴方の名を呼んだからよ」
 と言を弄した。
「知らんな。そうだとしても俺はもう一つの名前のほうかも知れんぞ」
「嘘をつかなくても判っていてよ。何故なら、この城自体が私の物だから。それに、貴方
と一緒にいた髪の短い彼が貴方の名前を切なげに何度も、何度も愛しそうな貌と声色で呟
いていたのを、この城の目は見逃さなかったから」
――俺は城内の透視機能を警戒して出来るだけ名を呼ばないようにしていたが、思い返す
とネイサンは何度も俺の名前を叫んでいたな……
「如何したのかしら? 怖い顔。もしかして私との問答で操られるとでも思っているの?」
 ヒューはカーミラに対して無表情で問答しているつもりだが、そこは年の功というべきか一世紀
以上の長きに渡る不死の生命を持ちし吸血鬼の経験には勝てるはずも無かった。
 無論、眉根を軽く顰めているさまを見逃すはずも無く、カーミラは己に向かってくる玩具を
いかに弄ぶか考えていた。
「ふふ……アドラメレクに吹き飛ばされた程度の力で私と戦おうとしている貴方の愚かしさを拝
見しましょうか」
 そう言うとカーミラは巨大な頭蓋骨に乗った赤黒い女怪の姿に変化した。

「無駄な口上をこれ以上吐かせられない様に貴様の身体を切り刻んでやる!」
 言うか言わざるかのうちにヒューは抜刀し、その勢いでカーミラを直接攻撃しにかかった。

102Awake 8話(5/9):2013/09/24(火) 09:37:44
 それに対してカーミラは紫煙の珠で彼を弄び、彼はその玉を避けるのに必死だった。何度も
避けながら石柱に駆け上がり本体とは言わず頭蓋骨をも攻撃していたが、いかに聖剣とい
えどもリーチが足りなければ無用の長物でしかなかった。
 その上怒りに身を任せて精神力が散漫としているため、遠隔攻撃、聖水、斧、十字架、
ナイフを駆使しても彼女の体力を奪うことも出来ず、徐々に落窪の壁に追い詰められて身
動きが取れなくなった。
やがてその小競り合いも、防戦一方で嬲られ放題の状態でいたヒューの左腕の関節が脱臼し
た音によって終止符が打たれた。
 それでも彼は剣を取り、関節が外れた左腕を添えて両手でカーミラの身体まで接近したが、
頭蓋骨から発した光線により彼の体は紙のように吹き飛ばされた。
「愚かな……まだ立ち向かおうというの? その意気だけは高く買ってあげてもよくって
よ」
 そして強かに背中を石柱の突起物に打ち付けられ、抉られて大量の血が石柱と床に流れ
た。
 ヒューは痛みのあまり気絶しようとしたが、女に負ける事を是としたくない一心で今にも息
が絶え絶えにもかかわらず虚空に手をかざし立ち上がろうとした。
 だが頭も同時に打ちつけていたため脳震盪を起して場が暗転し、渦のような石畳の水場、
カーミラの赤黒い肉体と征服しようとしている充足感あふれる表情。それらが重なって言いよ
うの無い吐き気と、魔を捻じ伏せる事の出来なかった屈辱が彼の心の中で綯い交ぜになっ
て、絶望から無意識に涙が溢れ出たままその場に崩れ落ち、少しの間意識を失った。

103Awake 8話(6/9):2013/09/24(火) 09:38:57
 次にヒューが気付いたときは、ズボンの留め具を引き裂き下半身を剥き出しにされた上、座
ったまま股を開かせて後ろ手を交差させ,石柱に術で創造された呪縄でがんじがらめに縛ら
れている状態だった。
 カーミラは女怪の姿ではなく初めて出会った時の姿に戻っていた。
 依然、意識は朦朧としていて未だ吐き気と、今度は体中の震えが止まらなくなって来た。
 カーミラが大量の出血で仮死状態になり体温が低下して気絶した彼に、術を終えたと同時に
平手打ちを食らわせて無理やり起したために急激な血液の流動が始まり、それに体が対応
できなかったからだ。
「目覚めたわね」
 そして、カーミラは術を唱え朱色の魔法陣を虚空に出現させた。ヒューはそれを召喚の黒魔術だ
と認識した。
 自分が気絶していた間に上級悪魔を出現させる準備を行っていたのかと、身構えれば現
れたのは何の事は無い、燃えるような紅い長髪を湛え、魔物らしく灰色の肌をしたサキュバス
一体だった。
「ふん……何をするかと思えば淫魔一体だけか? 俺は幾ら弱っているとは言え聖句でそ
んなものは地に還すのは簡単だ」
 ヒューは眉根をひそめ、カーミラに向かって嘲笑した。
――自分は死ぬのだ。ここで何を言ってもどうともならない。しかし、ハンターとしてネイ
サンに聖鞭を預けたまま死ぬのは心残りだが、仕方が無いだろう。
 さすがに、自分の死ぬ姿は見る気にもならないから目を強く瞑り、歯を食いしばって攻
撃を待った。

104Awake 8話(7/9):2013/09/24(火) 09:40:26
 だが、数秒間待っても身体の痛みは感じない。如何するつもりかと一気に目を見開いた。
すると、目の前には在り得ない者が立っていた。
――ネイサン!?
何故、奴が? さっきいたサキュバスは何処へ行った? ――まさか……? 唖然とした彼が
目を白黒させていると、
「ヒューか……?」
 ネイサンと思しき姿形をした者が、いつも自分に見せている何かを窺うような表情をして、
声も同じ人物の声色でこちらを立ったままの姿で見ていた。
「貴様……何をしている? ここにいる女を倒せ。今回は貴様に聖鞭を預けたのだからな、
それだけの働きをしてもらおうか」
 彼は唇を捻じ曲げ目を据えてから目の前の青年を睨み付けると、彼に対して矜持を保つ
ため強い口調で言葉を発した。如何に自分が無様な姿になっていようとも、偽者と解って
いても彼の姿形をしている者にだけは弱っている姿を見せたくなかったから。
「“彼”は私の言う事しか聞かないわ。その上、何人たりとも彼には私以外の者の声は聞
えなくってよ。残念だったわね」
 カーミラはほくそ笑み何事かを傍にいる青年に語り掛けると、グレーブルーの眸を朱色に染
めた青年がヒューの面前に近づいて跪き拘束している縄を解き始めた。解いたと同時に上半身
の動きが戻った事を知覚したヒューは、サキュバスに気付かれないよう後ろ手でウェストポーチの
中身を探り、十字架と聖水がまだ存在していることを確認した。
――しめた!
「Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum, benedicta tu in mulieribus, 
et benedictus fructus ventris tui Jesus. Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis
peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae  Amen!(めでたし聖寵充満てるマリ
ア、主 御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せ
られ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終の時も祈り給え)!

105Awake 8話(8/9):2013/09/24(火) 09:41:03
ラテン語の退魔聖句である天使祝詞を早口で必死に大声で言い始めるや否や、彼はネイサン
に扮したサキュバスに聖水を振りかけ、十字架を顔面に押し付けた。だが、
「何をしているんだ……? 気でも違ったか?」
 サキュバスは悲しそうな微笑をヒューに向けると、緩やかな口調で彼に問いかけた。
――効かない……? 何故?
――カーミラ様ノ意思ヲ、ワタシハ実行シテイルダケ。カーミラサマノ言ウトオリ、聖ナル物ヲ中
テラレテモ、ナントモナカッタ。
 そして、聖水で濡れた髪をかき上げると、自分とネイサンしか知らない過去を再現し始めた。
「昔、両親が死んだ時に、体の震えが止まらない俺を抱き締めてくれたよな。だから今度
は俺と『傍にいて、ずっと一緒に生きて行こう』それから俺を頼ってくれ」
 そう言いながら人とは思えない膂力でヒューを抱き締め押し倒した。
――何なのだ!? 此奴は? 俺にはカーミラに打ち倒されてから反撃する体力も残っていな
い。ならば呪力で補おうと思ったが……その頼みの力さえも消え失せたと言うのか。
しかし聖水と十字架は本物だった。それは自分の扱っている得物を何十回も何百回も手に
しているのだから間違える事はない……何故?
 彼は自分の体が冷えていくのを感じた。それは死よりも苦しく、彼が人に対して力を誇
示するために繋いでいた自信――ハンターとしての力が消失したことを意味する。
「自分の力をやっと自覚したようね。ヒュー・ボールドウィン。信仰心が無ければ、どんなに言葉を
尽くし、紡ぎ出しても私達は斃せなくてよ」
 カーミラは押し倒された彼を凍るような表情で見下し、サキュバスにおぞましい命令を下した。

「その男を――知識と膂力のみで信仰心の欠片も無い恥知らずな無知者を、男の体で犯せ」

106Awake 8話(9/9):2013/09/24(火) 09:41:36
貴様……っ! グウッ……!?」
 ヒューはけたたましく嗤っているカーミラに首筋を向けて、思う限りの罵詈雑言を捲くし立てよ
うとしたが、ネイサンの容貌をしたそれが力任せに彼の頤を利き手で押し上げると、露になっ
た首筋に唇をきつくあてた。
――吸血される! 吸血されたら俺はもう、人ではなくなる。希望は本物のネイサン一人の双
肩に掛かる事になる。果たして奴に出来るのだろうか……?
「……生憎、私が本当に愛せるのは美しい少女だけ。男同士の交合いなど気持悪くて興味
なぞ無い。サキュバス、この男の精神を毀すまであらゆる手段で責立てよ。頼むわ」
 カーミラは最早、ヒューに対して興味を失った玩具を投げ捨てるかのように褪めた視線でしか見
ることは無かった。
「快楽に堕ち、汚らわしい体液と恥辱に塗れた身体と心を呪いながら、膝を抱えて自分自
身を慰めていると良いわ……うふふふ……」
 言い終わるや否や、カーミラは紫煙の霧となって完全に消え失せた。
 残された人間は己の体に圧し掛かっている魔性の者の行為を、体をくねらせる事で回避
し続けていたが、その様子に魔性の者は朱色の目を見開き嗜虐心を覚えて、組み敷いてい
る人間と同じ体に変化させた。

107Awake 9話(1/10):2013/09/27(金) 02:23:48
「人間の癖に他人を愛する事を知らないお前には相応しい趣向だろう?」

 己と同じ声色が放った科白に、ヒューは生理的な嫌悪を憶えて一瞬にして冷たい汗を体全体
に吹き出させた。
「貴様ぁっ! よくも! よくも! 俺には……! 自分と交合う趣味は無い!」
 彼は完全に怒りに任せて面前の己を退かそうとしたが、圧し掛かっているそれは両腕に
より一層力を入れて抱きすくめると、あろうことか同じ顔をしたターゲットに深く唇を重
ねた。
――不覚!
 ヒューはサキュバスの唇を噛み切ろうと前歯を力強く合わせたが、紙一重の差でかわされ逆に己
の下唇に傷を創ってしまった。
 そして己の反応の遅さに腸が煮え返り、血が口角、顎から滴り落ち首筋に流れてもなお
咬み続けた。
 眉間に無数の皺を寄せて漆黒の瞳を怒りに滾らせたまま、快楽に酔うように目を蕩かせ
ている同じ顔を見つめて体を強張らせたが、その表情を尻目にサキュバスはヒューの首筋に舌を這
わせ血を舐めると、ほう! と感嘆の声を上げ急に首筋から顔を離した。

「お前……同性どころか女と交わった事すらなかったのか。道理であのカーミラ様が男にも拘
らず殺さなかった訳だ」
「黙れ。このソドミア。く……っ、これ以上俺を愚弄すると……」
「愚弄すると……何だ? その先を言え。まさか組み敷かれているのに俺に克とうとでも?
 生殺与奪はこっちが握っているのに? ククク……現に」

108Awake 9話(2/10):2013/09/27(金) 02:25:24
――会話が成立していると言う事は? 聞えている? いや読唇術か……? 
「!? グオアァアアアァアアア!」

 サキュバスはヒューの背中に指先を這わせ下からシャツの中に滑り込ませると、直接傷口を指で
グチョッと音が聞えるほど強く抉り押し拡げた。
 そして背中から暖かい血がサキュバスの指から手から流れ出て、石畳に夥しいとは行かない
までもある程度の量の血溜まりが出来上がった。
――背中に傷を受けたと言うだけでも俺にとっては屈辱なのに、それ以上に好き勝手に俺
の体を弄びやがって! 
 
今まで味わったことの無いほどの痛みではなかったが、それは敵に立ち向かった向こう
傷とは違い彼にとって背中の傷は、己の技量不足を示す証と常に捉えているので余計痛苦
を感じていた。
 しかし、カーミラと戦った後に無様にも気絶して現在に至ることを考えたら、そうおいそれ
と意識を失うわけにはいかないと苦痛に顔を歪ませ、双眸に涙を溜めながら奥歯を食いし
ばり、どうにか痛みに耐えた。
 だが、身を引き裂かれた痛みで体全体が一瞬、抵抗するために力を入れていた気力が失
せ、それに気付いたサキュバスは力強く抱き締めていた両腕の力を緩めた。
それから股を開き両膝と脛だけを床に付けて体を浮かせ、ヒューの体を仰向けの状態から手
早く乱暴に引っくり返してうつ伏せの体勢にし、素早くサキュバスは彼の背後に体重をかけて
圧し掛かった。

109Awake 9話(3/10):2013/09/27(金) 02:26:07
ヒューは引っくり返された衝撃で、強かに顎を含む正面全体を冷たく表面の粗い石畳に叩き
付けられた。その上、己の流した血の匂いに直接触れてしまい気分が悪くなり、吐き気を
催した。
「この気違いがっ! 俺が聖鞭を持っていたら貴様なぞ一瞬にして塵に還してやる!」
「憎め。この状況に陥った己の無力を憎め。だが俺は傷みだけを与えるわけではない、そ
して安心しろ。カーミラ様は吸血の指示までは与えてはいない」
「何故に!?」
 ヒューはサキュバスの科白に疑念を持ったが、そう言えばカーミラは一度も牙を立てる行為をしてい
ない。術で動けなくしていたのにも関わらずだ。確かに何度もチャンスはあったのに、と
思った。
「つまり、俺をドラキュラの生贄にするために敢えて眷属にしないつもりか?」
 彼はうつ伏せになっても背後の己に不羈の意思を見せようと、首筋を後ろに捻り横目で
グッと睨みつけた。
「そんなことは俺も知らん。それよりお前と同じ顔の俺と一緒に快楽に喘ぐ姿と、嬌声を
楽しもうじゃないか。なぁ?」

 事実、サキュバスがカーミラから受けた指示は男の体に変化させた上で吸血、死亡以外の選択肢
で精神を毀せと言われただけで、それ以外であれば何をしても指示に反する事は無い。
 だから、秘所も含む体全体を縛って人形のように弄ぶもよし、逆に仰向けの状態にして
己の後庭に彼の下腹部を挿し入れて騎上位で彼の体を嬲るのも、その他の選択をしてもい
い。

110Awake 9話(4/10):2013/09/27(金) 02:28:28
そしてサキュバスは久しぶりの純潔の血を飲みながら、その代償として彼と快楽を共有する
選択肢を取った。
 うつ伏せにしたヒューの背中は血溜まりが出来るほど流れていた時より出血はおさまってい
たが、血を舐めようとサキュバスはシャツを捲り上げるために下から右手を掛けて傷口をなぞ
り、濡れた指先を口に入れた。
 そして恍惚の表情で涎を垂らしながら徐々に下腹部が脈打ちつつ硬く膨らむと、それを
享受するかのように血の匂いがしなくなるまで舐り尽くした。
 彼は己の臀部に硬い物が当たっている感触が生々しく、剥き出しになっている下半身に
厭というほどの不快を感じた。
「はぁっ……血の味だけで俺の方が蕩けそうだ。なにもしていないのに竿の先が濡れてき
た……」
 そしてサキュバスは己の両膝をヒューの脹脛に乗せ体重を掛けると、彼は更なる痛みに両足が麻
痺して動けなくなった。
 ヒューは上半身を後ろに捻って一心不乱に両腕に力を入れ、両手でサキュバスの首を絞めたが力
及ばず、サキュバスは「フッ」と軽くヒューに対して嘲笑してから左手で彼の首根を掴んだ。
 それから右腕で彼の上半身を持ち上げて腰を浮かせると、目の前の石柱に上半身を押し
付けた。
「よくもまぁ、そんな気力があるものだ。嬲り甲斐があるよ、お前は」
 サキュバスは目の前のターゲットを御そうとより強く左手に力を込め、苦痛に歪ませながら
眉根を寄せて横目で睨みつけ自分を見ているヒューをより強く押した。

111Awake 9話(5/10):2013/09/27(金) 02:29:29
「グアァッ! ほざけっ。倒錯した雌豚が」
「フン、今にも女のように竿をぶち込まれそうになっている奴の科白とは思えないくらい
威勢だけは良いな。だがな、苦痛に歪ませた顔をずっと眺めているほど俺は狂っちゃいな
い」

 そう言うとサキュバスはカーミラが残していった拘束用の呪縄に拘束の命令を出し、呪縄自らヒュー
の両手首を後ろ手にきつく縛り上げた。
 それに対しヒューは解呪のスペルをつむぎ出したが少しだけしか緩まず、気付いたサキュバスが
彼の右側の太腿の前方を掴んで己の下半身に彼の臀部が当たるよう密着させると、彼の上
半身を石柱に押し付けたまま今度は己の膝を彼の脛の内側にずらし、彼の引き締まった足
を己の膝で広がして臀部の割れ目を挿入しやすいようにした。
「さあ、力を抜け。なに、自ら求めて来るぐらい馴らしてやる。しかもお前が求いで来た
ら俺は永遠に応えよう。約束する。だがまずは俺にそうさせる活力を与えてくれ」

 そしてサキュバスは己の腰筋に力を入れて腿でヒューの臀部を固定すると、早速右手でシャツを
めくり、露になった血まみれの背中に吸い付くと喉を鳴らすぐらいに血を貪った。

「俺は断固拒否する。貴様のような薄汚い輩にこれ以上弄ばれる義理は無い。例えこの身
が得も言えぬ苦痛に苛まれようとも、他人に己の快楽と想いを委ねる気もな!」

 ヒューはサキュバスが脇目もふらず自分の血を飲んでいるいるために、自分に対しての注意力が
薄れた事に気付き拒絶の意を伝えると同時に渾身の力を込め腰に力を入れた。

112Awake 9話(6/10):2013/09/27(金) 02:31:00
それから足の麻痺を物ともせず下半身を捻り返し、右上腕を床に着け瞬時に両足を屈め
ると、跪いた格好で血の味を堪能し口角からだらしなく血を滴らせ、酔って茫漠としてい
るサキュバスに向かって、地面に着いた反動を託した鉄の靴底を斜め下から顎に向かって突き
上げた。
「グファアァアアアァアアァ!」
――シマッタ! 時間ヲカケ過ギタヨウダワ。明確ニ意識ヲ取リ戻シタ今、私ハスデニ彼
ニ勝ツコトハ出来ナイ。ナラ……私ノ身ヲ犠牲ニシテデモ生贄トシテノ体面ヲ保タセナイ
トカーミラ様ト伯爵ハ満足サレナイ。
 思考はあってもなす術もなく吹き飛ばされたサキュバスは、両腕をだらしなく浮かせ口の中
に残っていた血液をしぶかせながら、にやけた表情のまま仰向けで地面に叩きつけられた。
 術者の力が殺がれたため呪縄が解け、すかさずヒューは足首の付近で留まっているズボンを
穿き上げるとベルトで固定した。
 それから素早くサキュバスの頭部を捻じ切るつもりで、左足をサキュバスの喉元に軽く乗せた。
「クヒャヒャヒャアァッハァッ! まだそんな余力があったのか! グフャ!?」
 そして下卑た表情で口の周りについている血液を嘗め回し、背中を仰け反らせて腕を伸
ばしヒューに指先を向け、部屋全体に響き渡る甲高く下品な声色で笑い出すのを聞いた瞬間、
ヒューは汗と血に汚れた長髪を掻き揚げながら、無表情で鉄靴の先をサキュバスの喉仏にねじ込ん
だ。
――ソウ、ソレデイイノ。オ前ハ己ノ身ガ一番カワイイ人間。体面ヲ保ツタメナラドンナ
事ダッテスルヨウナ。ダカラオ前ノ姿デ下品ニ振舞イ挑発シテアゲル。ソノ先ニアル結末
ヲ考エラレナイ位ネ。

113Awake 9話(7/10):2013/09/27(金) 02:33:11
「黙れ、淫売。俺のツラでその様な下品な表情と口調は断じて許さん」 
「哀れだ。哀れだよ、お前は! 人を愛する事も理解しようとする術を得ようとしない。
己の獣性を認めずに自分だけは……自分だけは綺麗な身体、精神を保つ事がハンターの資
格だと思い込んでやがる!」
「黙れ」
――血を舐められて、俺の情報全てが盗まれたか。
「ネイサンのことにしてもそうだ、あいつがお前に無償の愛を与え、その上ハンターの称号を
継ぐ数日前まで寝ているお前に毎朝口付けをしていた事も知らない訳ではあるまい?」

「……貴様に奴のソドムの罪を聞かされ、平静を保っていられるほど俺の神経は太くない。
特に自分と同じ顔をした貴様から奴の事を“あいつ”などと呼んで貰いたくはない。安ら
かに煉獄へ堕ちろ」

 ヒューはさらにサキュバスの喉に強く鉄靴を食い込ませ、とうとう喉を潰したので血飛沫が辺り
一面に広がった。だが、なおも口角から血を垂れ流しながらヒューを誹謗し続けた。
「グフッ! 知っていたんじゃないか。毎朝重ねられる唇に気付かない振りをして、あい
つを振り回しているお前は人でなしだ」
「貴様、先程から思っていたが何故反撃しない? 首を半ば踏みにじられても声が出せる
貴様の事だ。何を待っている?」
――やはり物理攻撃は効果がないか。それとも俺の血にまだ酔っているのか? まさか!?
「早く……殺れよ……さあ! どうした?」

114Awake 9話(8/10):2013/09/27(金) 02:34:12
意外にもサキュバスは血を飛ばしながら、ヒューに対し己の消滅を冀う科白を放った。
「断る。貴様と俺は今や同じ躯体、体内に流動するのは同じ血液、ただ違うのは貴様が正
常な状態で生を受けた者でないという事だけだ」
 彼は痺れる足に更に重心を掛け、残っている聖水を鉄靴の先に垂らしサキュバスの流れ出る
血液と同化させた。
 すると、聖水が注がれた肉片から硝煙のようなものが発生し、白く変化すると灰になっ
て風化した。
「な……何……故? カーミラサ……マハ、聖水ガ効ナイッテ、私ニ……」
 白眼の部分を血走らせて口角を捻じ曲げ、半ば女体に戻りかけている体に動揺を隠せな
いサキュバスにヒューは勝ち誇った表情を見せた。

「俺の体を良い様に弄んだ貴様に教えてやろう。今、貴様は出血多量を起し依代である肉
体を捨て、血液に意思を持たせる準備をしていただろう」
「ダカラ……ドウシタトイウノ?」
「その血液、液体は意思を持たせれば水にも氷にも、霧にだって変化させる事ができる。
つまり、血を飲んだ貴様は俺と同じ血液を持ち、俺の体の傷口から何の拒否反応もなく同
化できるわけだ」
――ワタシハ夢ノ中ニノミ存在スル生キ物。夢ノ中ニ簡単ニ堕チル人間ニハワタシハ倒セ
ナイケレド、苦痛ヲ一身ニ受ケ止トメラレル人間ハ夢ノ世界ニハ来テクレナイ。
時間ガ経テバワタシノ存在ガ薄レテクルノハ明白。夢ダモノ。アーア、彼ヲ痛メツケルノ
ニ時間ガ掛リ過タノネ。
ソレニ気付イタワタシガコノ身ヲ賭シ、セメテ彼ニ成リ代ワロウトシタノガバレチャッタ
カ。

115Awake 9話(9/10):2013/09/27(金) 02:34:50
「……イタ……イ……イタイ……ヨ」
「そうだ。俺は今まで聖水はかければ効果があると思っていたが、どうもそれだけでは無
いらしい。貴様のように身体を変化させられる者は、表層にはそれなりの耐性が附いてい
ると気付いた。そこで内部を抉り、その中から侵食してゆく方法を考え付いた。もっとも
一か八かの賭けだったが」
「ク……ガァアァ……アァ……」
 サキュバスは充血した両眼で肉が徐々に焼け爛れ消失して行く様を見つめながら、肺腑が消
失したと同時に呻く声すら聞こえなくなったが、やがて頭部だけを残し全て風化してしま
った己の姿にただ涙を流すしかなかった。

――このようなザマになっては何も出来まい。普段の俺なら此処までの手間を掛けて消失
させるなど考えられなかったが……まあいい、先に進めるのだから。

 ヒューは痺れた足を引きずりながら己の剣を探し始めた。しかしサキュバスが未だ生きている事
に不安を感じて彼女の元へ戻り、彼女の髪を掴み叩き潰そうとしたが彼女の頭部に目線を
合わせると、何事かを口にしているのに気付いた。
 自分への呪詛でも呟いているのか? とヒューは思ったが判読してから彼は眉間に皺を寄せ
振り上げた拳をゆっくりと降ろした。
「魔物も人も変わらぬということか。ならば人として冥府に送ろう。少し待っていろ」
 それからまたサキュバスの髪を掴んだまま部屋を歩き回り、やがて部屋の隅に放置されてい
た剣を見つけ手に取ると、跪いて彼女の頭部を自分のほうを向かせて石畳に安置した。

116Awake 9話(10/10):2013/09/27(金) 02:35:29
 そして切先が綻んだ剣に聖水を染み込ませ、彼女に無表情のまま視線を向けてその細い顎
を動かないよう固定させると、

「許そう。そして汝の魂に安息を与えん」

 ラテン語でそう謂った。彼女は軽くヒューに微笑み「あ、り、が、と、う」と口にして涙を
流し静かに瞼を閉じた。
 それを見届けた彼は聖剣をサキュバスの眉間から一気に深く刺し貫き消失させた。

――本当は死にたくない。でも私を、私のままで逝かせて……。か。俺は何人ものヴァン
パイアに成った人間を煉獄へ送ったが、皆一様にして同じ様な言葉で俺達に懇願して消失
して逝った。このサキュバスも元は人だったのだろうか?
 そう思案を巡らせながら自身の緊張が解けてくるのを感じずにはいられなかったが、や
がてその様態が意識を奪っていくのにそう時間はかからなかった。
「そんな……馬鹿な……俺の体……力が……う、失せるなぞ……持ってくれ……頼む」

 ヒューは周りに自分を害する者がいない事を再度確認すると、瞬時に安堵し過度の外傷と消
耗を認識してサキュバスが残して逝った灰の上に倒れ込み、望まないまでも意識が遠退いた。

117Awake 10話(1/9):2013/10/09(水) 01:20:40
 月光を室内に取り込むための明かりとりが部屋を照らしているだけで、あとは初老の男
が精気の抜けた姿で祭壇の簡素な柱に縛られ、その下の床に構築された黒い魔法陣が青白
い仄かな光を放っているだけの部屋があった。
 そして、そこにはじっと禍々しい光を放つ紅玉の目で、柱を見つめているドラキュラが佇ん
でいた。
 真祖ドラキュラは不完全な復活をした場所から少し奥まった部屋で、モーリスを生贄として魔力
の増幅を図る儀式を行っていた。
 もっとも、ドラキュラは覚醒しているものの、未だに術者であるカーミラとデスから魔力を分け与
えられている状況に変化がなかったため、自らの手で魔力を増幅させられない苛立ちを覚
えていた。
「また、気絶したか。無理もない。一刻以上、我の魔力を増幅するために強制的に精力を
放出させたのだ、普通なら既に死んでいるがこ奴、体力は衰えても心と精神は一段と強固
な物になりおったわ」
 物言わぬ仇敵――覚醒と意識消失を繰り返しているモーリスを前に低い声色で微かに笑いな
がら、彼の命の灯をどうやって潰えさせようかとドラキュラは半ば喜びに心踊りながら対峙し
ていた。
 しかし、その一時の愉悦も彼の背後に赤黒い魔法陣を浮かび上がらせて出現したカーミラに
よってかき消された。

「うふふ……長い時間、仇敵を眺めていても面白くないでしょうから、退屈凌ぎになるも
のをお持ちしました」

「カーミラか。己の持ち場はどうした? それに何だ、これは? これはお前に与えた物だ。
散々甚振った挙句、残滓を捨てに来たのか? 無礼な。それならば己のフィールドに持ち
帰り、下僕の餌にすれば良い。不愉快だ」
「まさか。ただそれだけの者ならわざわざここへ運びませんわ」

118Awake 10話(2/9):2013/10/09(水) 01:22:28
 地下水路で敵を待ち構えているはずのカーミラがドラキュラの元に現れた。
 それだけでも命令を遵守していないと彼は思ったが、それ以上に下僕に投げやったはず
の物の長髪を掴んで引きずって運んできたものだから不快感は一層濃いものになった。
「心配なさらなくても継承者はまだ、禍々しい古の死竜と死闘を繰り広げているところで
すわ。それにアドラメレクを倒し、鉄の障壁を破っても毒の川がある限りダンピールも人も簡単に
私の元へは来る事は出来ません」
 ドラキュラの忌々しげな視線を躱しながら、その場で床に叩きつけるように落としたヒューの
方へカーミラは視線を向け見つめた。
「ほう、己が下僕に投げやった人間に興味を持つとはどう言う心算だ。カーミラ」

「……ご存知でしたか。ならば、話が早い。私が持っているこの部屋の鍵は唯一、この空
間に足を進める事が出来る物です。しかし、念を押しすぎると言うことはこの状況におい
てない筈です。すでに三人の術者のうち貴方に魔力を与えていたネクロマンサー様が倒され、その
手が屠った血糊を拭い去らないうちにデス様に向かいつつある。もし、あの方が食い止める
ことができなければ私の身とて危うい物となり、そうなれば鍵を持っている私を屠ったら
次は魔王……貴方のもとに駆け付けるでしょう。しかし、未だ完全なる復活を遂げられて
いない今、ここで聖鞭を振るわれたならば我等の宿願を果たす確率は低くなります。失礼
ながら断言出来るくらいに確実です」

 ゆっくりとだが説明をしながら消沈していく声色とともに、徐々に眉根をひそめ、焦り
とも諦めともつかぬ眼差しと歪んだ貌をするカーミラの様子に、優勢を誇り蠱惑の微笑を湛え
た彼女の面影は既に消え失せていた。
 同時に己の存在の消滅という予測が、チリチリと刺すような感覚となり悪寒を持って彼
女の全身を侵食していく。

119Awake 10話(3/9):2013/10/09(水) 01:24:11
「つまり、可能性を高めるためにここへ打診しに来たと?」
「その通りです」

 ドラキュラは意識が消失しているモーリスと、気絶しているヒューを見比べて彼らの血縁と仲間意識
を鑑み、余興を思いつくと嬉しそうにカーミラに言い放った。
「よかろう。この者に鍵を守る番人となってもらおう」
「それは面白い趣向でございますわ。仲間同士、どのような貌で、どのような戦い方をす
るか見物ですわ」
「唯の人間が過ぎた力に心を呑み込まれず、独りあそこまで踏破して来るとは思わなんだ。
相手が人ならば人としての情に訴え惑わすのが最上。彼奴の感情と考えを増幅し利用させ
て貰う。そして共に朽ち果てるが良い」

 魔性二人はヒューを見て高らかに哄笑し、これからの展開に楽しみを覚えていた。
 気絶しているモーリスが血と汚れを纏っているヒューの姿を見たうえ、その内容を聞いたら絶望
と失望が入り混じった感情を持ってしまい、いとも容易く心の壁を崩壊させてしまったの
だろうが、気絶していた事でその不幸は防がれた。
 ともあれ、魔性二人もその効果に気付かないほど切羽詰まっていたものの、それなりに
手を打つ事は忘れていなかった。
「それと侯。私も全力を以って継承者と対峙する所存ですが、私が持っている術者の権限
をお渡しします。これで私が屠られたとしても貴方が消え失せる事は無いでしょう」

「あい解った。お前達の忠心に感謝する」
「ありがたき幸せ」
 カーミラは劣勢になりかけている状況に苛立ちを覚えているドラキュラが、そのせいで己に威圧
を与えるくらい重々しい感覚をぶつけがらも礼を言った事で、もう一人の侵入者を屠りつ
くし、必要とあれば、半死半生の状態で生贄として捧げようと誓った。

120Awake 10話(4/9):2013/10/09(水) 01:25:00
 カーミラが儀式の間から地下水路に戻るために移動していた頃、古の死竜を倒し、新たなマ
ジックアイテムを手に入れたネイサンは、木箱が邪魔をして通れなかった凱旋通路を目指して
歩んでいた。
「……はぁ、はぁ……かはっ、さすがに死ぬかと思った」
 口中が切れ、何度も腹部を突きあげられたせいで、移動するたびに咳込んで口角から血
が滲み吐血していた。
 今にも倒れそうなくらい痛めつけられていたが、それでも休まずに安全な場所で少し体
を癒すため、このエリアから一刻も早く脱出しようとしていた。足許がふらつき、壁にも
たれかかりながらの歩みだったが、襲ってくる敵に対してのみ攻撃しながら通過していた。
「今度こそ師匠のもとへ行けるための……助けるためのアイテムが手に入るといいけど…
…」
 やがて、エリアの外に通じる扉までたどり着くことができた。
「ここは……奈落階段」
――そうか、地下回廊前のアイアンメイデンが破壊されていたから、階段中途にあった人
形も破壊されているかもしれない。
 そう結論付けると、ネイサンは新たな通路を探り出せる事に希望を持たずにはいられなかっ
た。
 だが、地下水路に辿りついたものの、扉を開けたと同時に腐った血液や腐食した匂いが
ネイサンの鼻腔を駆け巡った。
 その悪臭に一瞬にして気分が悪くなると、その場で床に蹲ってそのまま嘔吐した。
「……酷い、酷過ぎる! こんなところにいたら瘴気で鼻と頭がおかしくなる! ここは
後回しだ」
 しばらくして嘔吐するための内容物がほとんどなくなったところで、ネイサンは口と鼻をハ
ンカチで抑えながら立ち上がり、地下水路から逃げるように駆けだした。

121Awake 10話(5/9):2013/10/09(水) 01:27:29
「ウゥッ……」
――暗い。何と暗い。む? 風? 冷たい風。こちらへ向かってくる? それにこの破裂
音は何だ? あぁ拍手か? 拍手だと? 知覚出来ているという事は……俺は生きている
のか!?

「見事だった。カーミラやサキュバスの甘言や手管に堕ちず正気を保っていられるとは」

――聞き覚えのある声。それに此処はどこだ? そして先程まで感じていた不快感と、身
体の痛みが殆どと言って良いほど消え失せている。
 靄が懸かっているように周りがぼやけて見えないが、徐々に蝋燭の明かりと悪魔崇拝者
が必ずと言っていいほど儀式に使用する悪魔の偶像、バフォメットの像が見えてきた。
「儀式の……間?」
 ヒューはまどろんだ眸だけで周りを見渡し、誰に言うわけでもなく掠れた声で小さく呟いた。
「その通りだ。そして我がお前を回復せしめた」
「ウッ!? 貴様は……! ドラキュラ!」
 眼前の人物を確認すると、眉間に皺を寄せて叫ぶや否やヒューは立ち上がろうとしたが、足
が縺れて尻餅を付いてしまった。
「そう無闇に身体を動かすでない。我の話を聞け」
 ドラキュラは血色の無い顔をヒューに向け、軽く微笑むと言を弄し始めた。
「その前に今までお前を苦痛に晒させていた事を謝ろう。しかしカーミラは哀れな女なのだ、
生前のあれは常に他者から心も身体も奪われ続け、故に得る事の無い純潔を求め続けたの
だ」
「それが如何した。俺の事には関係が無い筈だ。何故その話を此処でする? それに、こ
こはどこだ! 親父をどこにやった!?」

122Awake 10話(6/9):2013/10/09(水) 01:29:57
 ヒューは訝しく思い強い口調でドラキュラの話を遮るとドラキュラは、彼を横目で見て己の話を続け
た。
「だが、魔性の者もハンターも穢れなき身体で我に挑んで来た者は居らぬ。何処かで他者
と身体で交わりその腐臭を撒きながら、我の前に恥かしげも無く様々な言葉で我を封印す
る口上を捲し立てていた」
「他者は知らん。俺は俺自身の信念で持って貞潔を保っていただけだ。貴様が言を弄しよ
うが聴く耳を持つと思っているのか?」
「お前は気を失って知らないと思うが、お前をここまで運んできた下級の魔物が何体お前
の体に触れようとして消失したか知っているか? お前の身体が為せる業だからこそだ」
「だが、俺はカーミラに負けて身体を弄ばれた」
「それはカーミラだからだ。百年以上掛けて純潔の血肉を喰らい続け、図らずともその力が身
に附いたのだろう」
――どう見てもこれは弄言の類だろうが、この男は生前、ワラキア公だった時、巧言令色
を用いる者は平民であれ、臣下であれ許さなかったと言う。また、この男自身も幾度と無
く虜囚の身になっても敵に心から屈する事が無かったとも。
いや、死してなおその公正さが残っているとは信じがたいが。悪魔は事実と共に嘘を織り
込ませるのが得意だ。話半分に聞くのが上策だろう。

「それにだ、我はお前の様に力を持ち乍ら、周囲の者達に因って目的を達せられない者の
苦悩を知っている」
「……」
「ハンター以外には殆ど知られていない我の故国――ワラキア公国の歴史を知っている者
なら我がどの様な生を送って来たかは知っているであろう。我は幼き頃、あの忌まわしい
オスマンの虜囚と為った。我は力を持たずお前の様に力を得るまで時を待った」

123Awake 10話(7/9):2013/10/09(水) 01:30:56
 ドラキュラが虚空に顔を向け遠くを見つめると一気に土埃の戦場が眼前に広がった。
ヒューはその情景に瞬時に身構えたが、彼のすぐ横でターバンを巻いたムスリム兵が、落馬し
た騎士と思しき豪壮な鎧を纏った者の首を蛮刀で刎ね飛ばし快哉をあげていた。
 首を断たれた肉体からは噴水のように血液が噴き上がったが、近くにいる彼の衣服に一
切付かなかった事から幻覚だと認識したものの、どうドラキュラが自分に対して手を打ってく
るか見極めるために言葉を挟まなかった。
「しかし、同じく虜囚と為った弟のラドゥ――奴は美男公などと綽名されていたが、その
実は後宮に入り浸った上おぞましい事に、己の身体を娼婦のように異教徒に委ねる背徳者
となり果てていた」
「……」
「其れだけでも非難されるべきであろうに恥知らずにも、故国に帰った我に対してオスマ
ンの手先となって刃を向けおった」
 場面が変わった。凄惨な戦場はノイズのような砂塵が辺りを覆い砂粒によって掻き消さ
れ、目の前に現れたのは無数の騎士を引き連れた馬上の美丈夫だった。
 だが、豪奢な鎧を身につけていても遠目からも解るくらい華奢な身体は、象牙細工のよ
うに脆そうだった。

「……何が言いたいか、お前には解るな……? 目的も手段も選ばず実を手に入れた人間
に自由など無いのだ」
――ネイサンの事を言いたいのか。状況は似ているかもしれないが少なくとも現在の奴は自分
の身を守れるくらいの力はある。詭弁に惑わされるな。

「そうであろう? ラドゥが勝ち得た我が領土は結局オスマンの領土と為り、弟弟子とて
お前を打ち倒した上で勝ち得た名誉と実では有るまい」
「……与えられた実と名誉ということか?」
――しまった! 精神の楔を取り除いていない状態で不確定な事象を肯定する声を漏らし
てしまった。撥ね退けなければ。

124Awake 10話(8/9):2013/10/09(水) 01:31:39
ヒューはこれ以上の対話を拒絶するため、心を閉ざしドラキュラと対峙することを決めた。
「実力の無い者が実を取れると言う事は何を意味するか。卑怯な手段で手に入れたのに相
違あるまい。お前の想像通りだ」
「黙れ!」
「ではそ奴がお前におぞましい肉欲を振り撒いていたのに、急に止んだのはどう言う事だ?」
――知るか! 奴から直接聞いて無いのに推察する道理も無い。何とかして状況を打開し
ない事には活路を見いだせない。詭弁は全て撥ね退けてやる。
「我はお前の身も心も自由だと言うのに、つまらない対抗心で小人に怒りを向けている事
が哀れで為らんのだ。哀れと云うのはお前の自尊心を傷付けるな。為らば単刀直入に言お
う――力を貸してやる」
「は!? 敵である貴様が俺の体を回復したのも腑に落ちないというのに、力まで与える
だと!? 酔狂も大概にしろ!」
「だが今は吼たえてもお前は我に勝てぬ。そうであろう?」
――痛い所を突いてくれる。
「それに力は与えるとは云うて居らぬ。貸すとは云うたが」
 ドラキュラと問答している間に徐々にヒューの目は薄暗い蝋燭の光に慣れ、上方を見ると駒が控
えている青白い扉を発見した。
――扉! あの上の扉に親父が居るんじゃないか? 一か八かだが奴を倒すのではなく勢
いで突破して扉にたどり着いてやる。それから態勢を立て直して再度突撃する。
「これ以上御託を並べるな! 俺はそのような甘言を受け入れるほど堕ちてはいない! 
死ねぇえーっ!」
 
 この状況で足掻いても仕方ないが、何もしないよりはましだと思い、彼は拳を握り剋目
して掌に聖属性の小さな魔方陣を発現させると、そのままドラキュラに突撃した。
 もちろん力任せに打倒する気は毛頭なく、モーリスを奪還するために即席でもドラキュラの攻撃
を躱すための防御壁を身に纏い、ドラキュラに接触する寸前で軌道を変えながらすり抜け、青
白い扉に向かって壁を駆けあがると指先に扉が触れた。

125Awake 10話(9/9):2013/10/09(水) 01:32:44
 だが、扉が開ききる前にヒューの背後にドラキュラが迫り、彼の首に腕を回すとそのまま締めあ
げた。
「……なっ?」
「痴れ者が」
「ぐぁっ……!」
「他者を利用する事を受容れられぬ其の無意味な自尊心程、度し難い愚かさは無い。我に
刃を向けた事は万死に値するが、人としての稜線を保って居る事は賞賛に値する」
「稜線? 何を……言ってやがる……?」
 ヒューは首を絞め上げられながらも、ドラキュラが自分を軽く褒めたことになぜそう言ったのか
意味が解らず、なんとか思考をまとめようと首に巻き付いた腕を剥ごうと必死にもがいた
が、
「……気に入った」
「あ?」
「人としての稜線を保ったまま我の手足と為れ」
「ふざけた事をっ……! グファッ!」
「またぞろ敵意を向けられたら堪らんから、少しの間眠って貰う。血など吸わぬ。其の様
な事をしたら幾ら人としてあの弟弟子より膂力が有ったとしても、聖鞭が掠っただけで塵
に還ってしまう。そうなっては困るのだ」
 より強い力で彼の首を潰すかのように圧迫すると、すぐに酸欠状態になったヒューの意識は
消失した。ドラキュラはそれを確認すると目の粗い床に叩きつけ、痙攣している様を見下ろし
ていた。
「カーミラにくれてやると言った手前、興味などなかったが、共食いする様を見るのもまた楽
しかろう」
 やがて、四肢が弛緩し仰向けに倒れ込んで白目をむいたヒューの苦悶の表情を見つめると、
ドラキュラは床に赤黒い魔方陣を一瞬にして出現させた。

126Awake 11話(1/8):2013/10/09(水) 23:03:51
――俺は強い。強くあるべきだ。何故なら俺は聖鞭の継承者たる家系に生まれ、貴族でな
いにしろそれなりの羨望と賞賛を勝ち得てきた家系の嗣子だからだ。
その証左に常に他者に対して圧倒的な力を示し、誰も俺の指揮や攻撃方法に適う者はいな
かった。
なのに……あの臆病者! 俺が物心ついた頃からずっと普通の子供達が遊んでいる時間さ
えも削り鍛錬に励み、夜には常に知識を求めた努力さえ踏み躙って後継者の地位に収まろ
うとは! 
確かに、俺より力と統率力は劣るものの他の連中と組んだ時より滞りなく、俺の望む方法
で敵を撃破させられる事で唯一俺の好敵手として認めているが、ただそれだけだ。
事実、補佐しかしたことが無いのに聖鞭を継承した奴は、指揮系統の手順は違えるわ、己
が止めを刺すべき所を見誤るわで全く役に立たなくなった。
所詮、補助に徹していた人間は上に立つことなど出来ないのだ。
「その通りだ。生まれながらの将器を持った者こそが人の上に立ち、総てを差配する事が
可能だ」
「誰……だ? その……声は?」
 ヒューは聞いた事があるような威厳のある声の主を、自分の記憶を手繰り寄せるかのように
思いだそうとした。
――死んだ祖父か……。いや、それよりもここはどこだ? 窓が開いている。
窓の傍に立っているのはネイサンか……朝日は眩しいが風が心地いい。
今、見慣れたベッドに潜り込んで寝ている……ここは故郷の我が家だ。
そうか、これは真祖が見せる幻覚か、幻覚など見ている暇はない! 起きろ! 目を覚ま
せ! また、いつもの様にこちらへ歩いてくる……朝から俺をからかうのか? 夢の中ま
でこんな光景が再現されるのはいい気がしない。

127Awake 11話(2/8):2013/10/09(水) 23:06:28
――お前が求めている相手の依代にするなと、毎日、毎日言いたかった。
今なら言える、これ以上、人を勘違いさせるような行為で惑わせないでくれと、悲しそう
な目で俺を見ないでくれと。
「頼むから、止めてくれ。お前は一体俺に何を求めているんだ?」
 だが、起き上がり、懇願する心持で勇気を振り絞ってネイサンに問いかけたものの、彼はヒュ
ーを気にする事なく通り過ぎて部屋から出ていった。
「幻覚の中だから俺の存在や意識とは関わりなく時間が過ぎて行っているのだな。馬鹿馬
鹿しい、こんな意識の中からとっとと出て行きたい」
 一人残され、彼は力なく呟くと状況の解決のためにネイサンを追う事にした。
 徒弟用の屋根裏部屋から一階の食堂に降りると、ネイサンとモーリスが深刻な面持ちで会話して
いた。
「おはようございます師匠。ヒューはまた書斎にいるのですか」
「うむ、内面を見つめるのは構わん。だが、己を全て否定した訳でもないのに焦燥感が漂
うあの顔は何だ? やはりお前に聖鞭を渡したのは正しかったと見える」
「そんな事を仰らないで下さい。誰だって自分が後継者たる素質を持って周りからも認め
られていたのに、格下の人間が継承したら心が塞がれます」
「だから駄目なのだ。状況は刻々と変化する。戦況の変化を感知できても己の存在を不変
だと思っていたら何時かは足元を掬われる。無論それはお前にも言える事だ」
 ヒューは会話の内容を見た事はないものの、いつも考えたくないが妄想してしまう内容を見
せつけられて改めて嫌悪を催した。
「そんな事は言われずとも分かっている。俺が焦っていたのは聖鞭を持っていたのにもか
かわらず何度も死にかけていた奴と俺との差を確かめたかっただけだ」

128Awake 11話(3/8):2013/10/09(水) 23:08:01
――そうか、この時の俺は奴との接触を避けるためにいつもより早く起きるようになった
頃か。だからベッド上に俺の存在は無かった訳だ。
 考えを巡らせている間に、今度は自分が最も嫌悪に思い忌避しても、なおもちらつく光
景が現れた。
「……師匠」
「師匠ではなく、昔のように呼んでくれ」
 ネイサンが口を開き、自分に向けるような悲しげで蕩けるような眼差しを父親に投げかけた
時、ヒューは状況に耐えきれず大声を出してから頭を抱えて、全ての事象を否定するために耳
目を塞ぐような心境で目を強く瞑った。
 しばらくして声も存在も感知できなくなったところで瞼を開くと視界が暗闇に包まれ、
自分の体だけがその場にあった。
「窺い知れない物事を弄するのは止めろ! 嫌だ! これ以上見せないでくれ! そんな
おぞましい光景など……」

「だが、お前に向けられた行為は即ち、他者に視点を移せばお前自身が耐えられずに声を
荒げてしまうほどの憎むべき愛情なのだ。しかし摂理に合わぬ情を受けていたのにも関わ
らずお前が拒否出来なかったのは、奴の与えるアヘンの如き甘き毒のような快楽に引き擦
り込まれて思考を奪われたからではないのか?」

 暗闇の中からドラキュラの声が木魂した。どの方向に居るのか感知できないのにヒューは苛立ち、
姿を確かめるように声を張り上げた。
「嘘を抜かすな! 俺は一度もあらゆる肉体の快楽の虜になった覚えは無い!」

「人は肉体だけで快感を得るのではない。行動と行為によってほとんどの人間は快楽を受
けた事を知覚するのだ。お前は気付かぬうちに奴の行為を受け入れる事で他人から存在を
求められていると言う快感を享受していたのではないのか?」

「黙れ!」

129Awake 11話(4/8):2013/10/09(水) 23:09:03
 一気に嚇怒したと同時に羞恥が込み上げてきたヒューの心の鼓動は激しく高鳴った。
 明確な拒絶を示さなかった自分の心境は、表層では否定していても暗にネイサンを受け入れ
ていたからからでは無かっただろうか? 
 薄眼でしか確認しようがないが、他人には見せない彼の切ない眼差しと、互いに頑強な
肉体を有しているのに潰れやすい水蜜桃を食むかのように、柔らかく己の頬と唇を求めた
姿と想いの儚さが去来すると、モーリスに対して叶わぬ想いを抱くネイサンの行為を受け入れてき
た自分の心の在りかは、孤独の中に佇んでいたのにようやく気づいた。

 打倒すべき敵にそれを指摘され、揺れ動く己の心の危うさに対峙するための気力を削が
れて感情を顕わにしたが、それは己が知識として体得していた「悪魔と対話すべからず」
という原則を忘れるほどの動揺だった。
「貴様、御託を並べ嫌悪を催させて奴との殺し合い望んでいるのは解っているぞ。浅墓な」
「あの男もお前のように面白みのある奴であれば良かったのに」
 からかうように言葉を淀ませ口許を歪めたドラキュラの皮肉に、ヒューは自分の感情よりモーリスの
安否に一抹の不安を覚え口にした。
「親父……親父をどうした!? 答えろ!」
「生贄の生死なぞ関知しておらぬわ。身体は儀式の間にあるがうんともすんとも云わぬ。
ただ魔力が未だに感知出来るから生きてはいるのだろう。大した物だ」
「な……生殺しの状態にあるわけか。非道な。放せ! やはり死力を尽くして貴様を倒す!」
――この空間が俺の精神なら意識は俺のものだ。少なくとも剣を構築できるだろう。
術者の幻影を振り払えれば意識は俺の手に戻るはずだ。

130Awake 11話(5/8):2013/10/09(水) 23:09:42
 その予測通り聖剣がヒューの手元に構築された。それから聖剣と己の魔力を用いて大剣を作
り出し光が発現したと同時に空間から闇が消滅してドラキュラの姿が現れた。
 すかさずその方向に剣を向けドラキュラを両断しようと瞬時に構えたが、振り下ろした剣身
を片手で容易く止められた揚句に圧し切ろうとより一層力を込めても、ドラキュラは涼しい顔
をして軽く剣身を弾くと、その衝撃でヒューは吹き飛ばされ床に叩きつけられた。

「う……」
「縋る対象の喪失を懼れた故の身勝手な憐憫に流され自身を見失ったか。人の愛とは業の
深い物だ。仮令その本人を大切に想う事を知らず、ただ縋るだけの身勝手な愛でもな。膂
力の差を弁えず闇雲に刃向かうは矢張り下賎の者よ!」
「何! 貴様、今何と言った!?」

「お前があの光景を見て嫌悪を感じたのは、人倫に悖る行為と捉えただけでは在るまい。
愛を無限に与える二人が己に見向きもせず、互いに愛を語らう事で一人にされるのが怖い
のであろう! 人を信用せぬ癖に、人の感情を貪って己の存在の立脚点としている浅まし
い小人が!」

「黙れ! これ以上妄言を吐いても陥落などせんぞ」
――認めたくない! 認めてたまるか!

「妄言か……ならば何故、己の論を言い立てず言葉を切るように吼たえておるのだ? そ
うだ、いい事を教えてやろう。お前の精神はすでに我が手中に収められている。心の中で
這いずり回り、抗っても何の意味も為さんのだ。その証拠に」

131Awake 11話(6/8):2013/10/09(水) 23:11:32
 床に叩きつけられた痛みで座り込んだまま動けないヒューの体は、ドラキュラに一瞥されただけ
で両手の肉が瞬時に融けるように崩れ落ち止め処なく血が流れ出た。

「馬鹿な……痛みを全く感じない。ではこの空間は、この体は、俺の精神であっても貴様
の支配下にあるのか……畜生っ、止めろ、精神が崩壊したら魂のない器になってしまう」

「確かに人ではなくなるな、それもいかなる様態もこなせる肉体に構築できる。例えばそ
うだな……」
 ドラキュラは指を鳴らしヒューの肉体の崩壊を止め一気に肉体を再構築した。だが、服装は変わ
らないものの少し丸みを帯びた女そのものだった。
 彼は女体に戻りかけたサキュバスを思い出し全身に怖気が走ったが、ドラキュラは表情を崩さず
ヒューの視線の先へ瞬時に移動すると、己の目を彼の眼と合わせ眼球を見開いた。
 一瞬にして眼光を浴びた彼は咄嗟の事で対抗できず、防御の呪文を詠唱したものの防護
壁の構築が間に合わなかったため、精神の奥にまで呪文を具現化した黒い膜を纏ったドラキ
ュラの侵入を許してしまった。
 接触した直後に刺すような痛みがヒューの全身を駆け巡り、呪詛が体中の皮膚を赤黒く盛り
上げながら刻まれていった。
「しっ……しまった!」
「目覚めよ! 同情と憐憫を用いて人の心に入り込む卑劣な背徳者を消し正道を貫くのだ。
その責はお前のような貞潔な人間にしか出来ぬ仕事なのだから」
 その瞬間、閃光とともに引き込まれるような空間の歪みによって、ヒューの体はもとあった
場所から引きずり出された感覚に襲われた。

132Awake 11話(7/8):2013/10/09(水) 23:12:14
「ここはどこだ……?」
 瞬時にして誘導された場所を見渡すと、そこには深紅の絨毯、一つの玉座、月輪の全体
が見える壁の様な広く大きなガラス窓があった。

 ヒューは自分の体を触ってみると、胸の脹らみや腰から骨盤にかけての扇情的な括れと、な
だらかな腰つきは消え、馴染みのある自分自身の体そのものだった事に安心したが、逆に
何もない事に焦って聖剣の剣身をまじまじと見つめ、細かい変化を見逃さないよう確認し
ていた。
 何度見ても眼の色はいつもと変わらない漆黒を湛え、犬歯が鋭利な形に変化したことも
認められなかった。
 ここはどこなのかと確認するために体を起こし立ち上がり、すぐに探索を始めた。
 だが、調べるまでもなく壁一面に広がるガラス窓から満月と対面する尖塔が見え、己の
現在地を然りと認識した。

「尖塔の屋根が同じ目線にあると言う事は……城の最上部、展望閣か。何故ここに俺は居
る?」

 状況が飲み込めず辺りを見回したが、自分の周りに敵どころか生き物の息遣いは感じら
れなかった。
 また自分が受けた傷はすっかり消え、むしろ力が漲っている様子だった。体も本来の自
分の姿のままだった。
 が、誰も居ないのが少々不安になってきたのか誰かに問いかけるように独り言をつぶや
き始めた。

133Awake 11話(8/8):2013/10/09(水) 23:12:52
「ドラキュラに捕まったのは幻覚だったのだろうか?」
――いや、背中は微かに痛みを感じている。それなのに傷が塞がり、体が満足に動くよう
だ。
「力を与えられたと言うのか。だが」
――フン……気のせいか。生きているのならさっさとここから出て儀式の間の鍵を奪取し
てからドラキュラと対峙しないと……?
 ふと見ると自分の目の前にもう一つカーミラが居たフロアと同じく青白い扉があった。出口
だと思い扉に触れると出口ではなく行き止まりの空間が現れた。
「鍵? これは……」
――儀式の間の鍵か? 何故こんな所に。
 ケルト文様の台座の上に鎮座していたのは、魔力が微かながらも放出している黄金色の
複雑な形をした鍵だった。ヒューはその複雑な形状と掌に収まるか収まらないほどの大きさを
見て一瞬で判断した。
 だが鍵に触れた途端、どこかで聞いた事のあるような声が自分の耳元に木魂した。
――「目覚めよ! 同情と憐憫を用いて人の心に入り込む卑劣な背徳者を消し正道を貫く
のだ。その責はお前のような貞潔な人間にしか出来ぬ仕事なのだから」
 その文言に頭を揺さぶられ一気に何かを屠りつくしたい衝動に駆られた。
「そう言えば……ネイサンはどこにいる? 真祖は俺を弄する時に奴の死を言わなかったな。
となれば奴は生きている。そうだ、聖鞭でなければ真祖は倒せない。だが奴がいる限り籠
絡された親父が奴にまた渡すのは目に見えている。ならば奴をこの世から消し去るのが俺
の望み」
 自分の妄執と催眠術によって偽りの記憶と想いを植え付けられたヒューの心は、ついに殺戮
の炎を点してしまった。

134Awake 12話(1/7):2013/10/13(日) 15:16:20
ヒューが力なく魔性に潰され洗脳されている間、ネイサンは他のエリアより崩壊している感を覚
える地下保管庫をひた走り、鍵を探し続けていた。
 何かを貯蔵するためにほかの場所よりも区画ごとの空間が広く取られていたが、建築、
いや、城内の構築中だったのだろうか、未完成の支柱を木箱で固定している箇所や、レン
ガや床などを切り出すために正方形に整えられた岩がほかのエリアより多くみられた。
 とにかくそれらの物が散乱しており、前に進むにも壊して回るしか方法が取れなかった。
それに進むにしても階段などどこにも見当たらず、恐る恐る足を挫かないよう下へ降り
て行った。
やがて壁に大きな書架がある部屋に出た。
全てで無いにせよ古今東西の書籍が相応の冊数を持って配架されていた。もちろん、部
屋の状態が上の区画に比べて変化していても、部屋全体を見とれている余裕はない。
敵は部屋にもおり、障害物があるとはいえ前より難なく倒す事は出来たが、途中すぐに
侵入した部屋で行き詰っていた。
「……敵は倒したけど、いちいち木箱を動かして足場にしないと先に進めないのが面倒く
さい」
――城内にいる敵を難なく倒せるくらいにはなったけど、死に対する恐怖はいつまでたっ
ても払いのけられない。
独りごちる間も部屋から出た途端、サキュバスがまとわりつくように襲ってきた。
 サキュバスが誘惑せずに敵意を向けて攻撃すると言うのも滑稽な姿であるが、彼にとっては
誘惑が自分の心を掻き乱す要因になりえるので、ある意味助かっていると思いながら探索
を進めていた。

135Awake 12話(2/7):2013/10/13(日) 15:17:42
実際、地下保管庫にいる敵は攻撃も、耐久力も弱いと思えるほど易々と倒されるものば
かりであった。
多くの不可解な敵と対峙した後だから余計そう感じられたと言うのもあったが、攻撃パ
ターンとマジックアイテムの恩恵をうまく利用できるようになった証左である。
 ただ、倉庫の扉を開け吹き抜けに出るたび、サキュバスが纏わりついてくるのが鬱陶しいだ
けで難なく攻略出来ていた。
 しばらくすると、駒が鎮座する青白い扉が見えてきた。
「また、青白い扉。こんな片隅で何が待ち構えていると言うのか」
 侮っているわけでもなかったが、少々、敵の攻撃に慣れた上での放言であることは否め
なかった。
 それでも、駒と対峙するためには勢いだけで戦える訳ではないといった思慮はある。休
憩を取った後に挑む事にした。
――ここまで一気に駆けて来たけど、師匠を助け出せたとしてもどうやって真祖と対峙し
ようか? それに、体力が残っているとは思えないから、城外の安全な場所で一時休息し、
作戦を練り合わせてから体勢を立て直す他ないだろう。
それから、ヒューの動向も気がかりだ。生きていればいいけど、あの様子だと満身創痍なのは
間違いない。
「自ら共闘を放棄するとか何を考えているんだ、あいつは。それに、あんな偏狭な人間だ
ったのだろうか」
 だが、また自らの感情に迷っても仕方がない。生き延びられなければ、そんな感情を抱
く事さえ無意味なのだからと、心を引き締めた。

136Awake 12話(3/7):2013/10/13(日) 15:18:28
――魔城は人の心をいかようにも変え、人が伺い知らない姿を見せる。
まさか自分にヒューが倒せなかった魔物をギリギリとはいえ、倒せる事が出来たと言うのも
未だに腑に落ちないものがある。それでもあいつより力が強くなったのは自分自身が体得
した力じゃないから、あんな姿を見せられたら……とても、心が痛い。
 ネイサンは短い休息を終えると再び青い扉を前にして、慢心しようとしていた甘さを払拭す
るように固唾を飲み、扉に触れた。
 開いた先には真祖の腹心と伝えられている死神がいた。
その姿を見た時一目でわかる程、伝承の姿そのものでこちらに体を向けていたからだ。
 紫のフードを被った骸骨――浮遊して、城に迷い込んだ慮外者を排除し主を守るため容
赦なく屠りつくす忠実なる配下。
 死神のシンボルである処刑用の大鎌は肩に担いでいなかったが、真祖現れる所に死神の
陰あり――今まで踏破した部屋にネクロマンサー以外、いかにもな出で立ちをした魔物を見なかっ
た事からそう判断した。
 どう攻撃しようかと少し様子を観察していたが、一向に攻撃を繰り出さない。ただ浮遊
して何かを伝えるだけに居るのかと考えたのもつかの間、いきなり四方八方に骨でできた
鎖を放射して来た。
「……いきなり攻撃してくるとは!」
 運よく後ろに飛び退いて回避できたが、少々攻撃に対して警戒を解いていた自分の甘さ
に気づき、攻撃の種類と威力を観察しようと思った。
――行動が大きい。けど、攻撃している時に立ち止まっている。それに死神とは思えない
ほど威圧を感じられない。

137Awake 12話(4/7):2013/10/13(日) 15:19:44
攻撃を見極めるために動きを止めた。すると空間一杯に鎌が発現し、回転しながらネイサン
目がけて追尾して来た。
「……痛っ、だけど聖鞭で消散するのが救いだ」
 一斉に切り刻んできた鎌に対応できず、腕や首筋の数か所を切られたが聖鞭で鎌が消え
るのを見て脅威にはならないと判断した。
 今までの敵より倒しやすいと思ったが、慎重に行かなければ死に直結するのは目に見え
ている。
――今度は遠隔攻撃か。雷球が自分を追尾してくる。この時に攻撃するのは無謀だろう、
球体は俺の体と同じくらい大きい。これが来たら消えるまで逃げよう。試しに当たってみ
るほど体力があるわけじゃない、無理に間合いを詰めるのは無茶だ。

死神が両腕を広げると、掌から強さが感じられるくらいの魔力を持った光の球が放電し
ながら襲ってきた。それは聖鞭で叩いても消える事はなく、その上、小鎌も同時に繰り出
して厄介な攻撃を展開されていた。
 しかし、この程度のパターンを持った敵の対処に困惑する事は最早なかった。
 城内に侵入し、ヒューに見捨てられた後に一人で魔を屠らなければならなかった時は、まさ
か真祖の右腕とされる死神と対峙し、力量を測る事など予想すらしなかっただろう。
ある程度、攻撃すると死神の周辺に光の刃が立ち上り、力を蓄えるかのように身を屈め
て紅く染まると、ローブを纏った姿はたちどころに消え失せて、巨大な鎌を前足にした重
鈍な亀のような魔物に変化した。
「何だ、この奇怪で醜悪な姿は」
 本当にこれは死神なのだろうかと、また疑問に思ったが倒すのに躊躇はなかった。

138Awake 12話(5/7):2013/10/13(日) 15:20:24
――要はあの大鎌の間合いに入らず攻撃すればいいだけの話だろう。通常攻撃ではぎりぎ
りの位置だけどカードを使えばリーチが伸びる。ただ、攻撃の種類を見ないと分からない
方法だけど。
だが、重鈍な躯体にも関わらず逡巡している暇はネイサンになかった。
 死神が魔法陣を前面に発現させた後、重鈍な上半身と大鎌を振り上げた。間合いに入ら
ないよう後ろに飛び退いてからその場で攻撃を待ったが、振り下ろした瞬間、地響きとと
もに骨が砕けるような強い振動がネイサンの全身を襲った。
 一度喰らっただけでも足元が縺れるくらい酷い衝撃を受けてから考えたのは、魔法陣が
出現した瞬間に飛び上がる方法だった。 
 相手の攻撃を侮った事で要らぬダメージを受けたため、遠隔攻撃を中心に展開する事に
決めた。
――飛び越えて背後に回ろうとしても大鎌で身を割かれる事は目に見えている。真正面で
戦う方がリスクは少ないけど、手持ちのクロスが底をつき、そこからの持久戦になったら
こちらが不利だろうな。
不注意でダメージを食らえば、近いうちに血だるまになって切り刻まれた死体の出来上が
りだ。
 そこからは攻撃のパターンを注視しつつ、死神の巨躯に向かってクロスを投げつけてか
ら効力が消えるまで次のクロスを投げないなど、慎重すぎるくらいに消費を抑えた攻撃方
法をとる事にした。
 ダメージを受けないよう、死神の挙動に変化があれば攻撃の手を緩めて逃げることに専
念していくと、やがて動きが止まった。
 だが、復活するかもしれないと次の事象を待つために死神の姿を観察していたら、虚空
に暗黒の渦が空間を巻き込むように拡大した。

139Awake 12話(6/7):2013/10/13(日) 15:21:14
体が吸い込まれる。と彼は身構えたが、すでに動かない死神の肉を引きちぎりながら吸
い込み、やがて全てを飲み込んでしまうと同時に渦が収縮して消えていった。
「……吸い込まれている。しかし、あの召喚された空間は一体何だったのだろうか」
――まさか、己の肉体を生贄として異界への門を開いたのか。だとしたら真祖が復活する
時間を早めてしまった事になる。まずい、一刻も早く残りの駒を倒してしまわないといけ
ない。
 そう思いネイサンはいつものように宝物庫の扉を開けた。
 見ると宝物が置かれている台座の上に、手の平に収まるくらいの小さな藍玉があった。
「鍵じゃなさそうだ」
 少しがっかりして肩を落としたが、手に取ると不透明な藍玉が少し青い光を帯びて半透
明に変化し輝いた。
 清浄な光に変化したのには驚いたが、この藍玉をどう扱っていいか分からず不安な心境
で見ているのを汲み取ったかのように、自分の使い道を示すイメージがネイサンの頭の中に流
れ込んできた。
「……俺たちがこの城に入る前に命を落としたハンターが身に着けていたマジックアイテ
ムだったのか。穢れた物を浄化させる力があると、そう教えたのか? ありえない。俺に
過去を見る力は無い。まやかしだ」
――それが本当なら喜ばしいことこの上ないが、魔性はこういった幻覚を見せ、新たなギ
ミックを手に入れる事で屠る魔物の数を増やしてより強い力を得させ、生贄としての力を
高めようと誘っているんじゃないのか? 
俺は非力だ。思考の間隙に精神に対して呪詛を織り込まれるかもしれない。けど、誘われ
ても聴かなければいいんだ。
一切取り合わず撥ね退ければ問題はない。
 ネイサンは思考を纏め、上空以外に踏破出来なかった場所、毒の川が流れて進路を妨害して
いる地下水路に向かって歩を進めた。

140Awake 12話(7/7):2013/10/13(日) 15:23:39
死神――デスの消滅とそれによるドラキュラの力の増強を確認したカーミラは、地下水路の奥深くで
静かに考えを巡らせていた。
「生贄にするための力を増幅させているとはいえ、力の陥穽に嵌らずに私の城を駆け抜けて
こられる人間がいようとは思いもしなかった」
――デス様は消滅したと同時に伯爵の力を増幅させるよう、自ら術をかけられていたのか。
術者の権限は三つに分かれていたとはいえ、主導はこの私。
デス様が倒されても伯爵が消滅することはあり得ないが、今まであの方が吸収してきた力を
削がれる事態は発生する。
そこで、わざと自らの肉体に術をかけ生贄としてその身を差し出されたか。
何という忠心。
魔たるものが、特に己を復活させた者に対して捨て駒としか思っていないような主に、そ
のような清々しい性根を見せる事が必要とは思えないが、あぁ……混沌を望むが故の犠牲
と思えば私も納得がいく。

「何にせよ、私のフィールドに入り込んでくるお前の力を、見せてもらおうか」
 カーミラは己を倒そうと迫ってくるネイサンを待つ間、彼が抱えている精神の表層部分を読み取
るために力を放出させた。
 礼拝堂で感じた内容によっては弄ぶ材料になり、己の領域に侵入してきたネイサンに対して
表層部分の同調と、彼が聖鞭を持っているために侵入できないかもしれないと言った危惧
はあるが、あわよくばヒューに行ったように精神の楔を打ちつけるため幻視を行った。

141Awake 13話(1/15):2013/10/14(月) 00:17:20
全て己の足で踏破出来る所を廻った。もう奈落階段の中途しか道が残されていない。
だが、薄暗く濁った水脈が前に来た時と同様、有機物が腐敗した臭いと血に似た臭いが混
ざった悪臭をところ余さず放っていた。
 ネイサンは無意識に掌で口と鼻を覆い、悪臭が漂っているこの場所に嫌悪した。
――このマジックアイテムが毒の水を浄化するとは思えないけど、賭けてみるしかないだ
ろう。
 冷やかな青が薄暗い空間の中でも燦然と輝いているネックレスを、彼は不安な面持ちで
見つめてから、それから勢いよく毒の川に飛び込んだ。
「!? そんな……」
 見る見るうちに血に似た色と腐食した臭いが瞬く間に消散し、目で確認できる辺りを過
ぎても澄んだ水の流れが広がっていた。
――これで判った。侵入者はすべて生贄としてこの城に誘われている。
俺の戦いに対する目標は、己の身を守るくらいの力を持って他人を補佐し、皆と勝利を分
かち合う事だった。だけど、仲間に勝ちうる力を持ちたいと願った事がないかと言えば嘘
になる。
それを自らの身体能力で補うのではなく、マジックアイテムを用いる事に躊躇が薄れ始め
ている。
 ネイサンは自問自答することで、独りよがりな結論を出す事に躊躇を覚えながらも、魔性の
問い掛けに口頭では問答する気は無く、心が読みとられた場合、仮の防護壁を築く事で精
神に楔を挟みこまれないようにした。
 ともあれ腐食の空間から薄暗いまでも、滾々と清浄な空気を湛えた場に変化した場所を
突き進むことにした。
 入ってから気づいたが、この地下水道は生温かい城内の中で一気に体を冷やすくらい冷
気が張りつめている。

142Awake 13話(2/15):2013/10/14(月) 00:18:24
「他の場所より無駄に体力を消耗したら、恐らく生きては帰られないだろう」
 白い息を吐きながら、投擲されたものに接触しないよう遮蔽物になる壁と場所を見つけ
つつ、通行に邪魔な敵を一体ずつ排除していった。
 中途に金属の滑車と歯車が内蔵している物体が見えた。よく見ると同じ物体でも階段状
になっているものと、鉄塔のように横に真っ直ぐな状態で壁に設置してあるものがあった。
 歯車の接続部分とその下をよく見ると、寒さで固まった潤滑油の塊が茶色く接続部分に
こびり付き、そこから小さな滓が上からぽろぽろと落ちてきた。
 滓が現在も落ち続けているという事は、自分が進入する前に誰かが――この状況におい
てはヒューぐらいなものだろうか? 彼が動かしたのだろうと思うと、彼に近づいた心持にな
り凍て付く寒さから一転して温かい希望がわいてきた。
 
 ネイサンが地下水道に侵入し敵を屠りながら突き進んでいるのを察知したカーミラは、地下水道
の落窪の広場で敵が侵入してくる青白い扉を見上げ、諦念とも血の高揚ともつかない奇妙
な感情を覚えていた。
「……また、倒されるのか。主の魔力が蓄積したと同時に復活し続けるこの身が」
――何度も生かされ、何度も傷めつけられ、何度もたった一人で暗闇に閉じ込められ、魂
の救済すら受けられないこの身の所在に、あるときは嘆き、あるときは残虐に他者を屠る
快楽に身震いしながら恍惚となり、今度は……
「己の消滅に対しては何の感慨もない。流石にここまで絡みついた宿命に対して最早、感
情を沸き立たせる事さえ億劫だ。ただ戦い、相手を屠り、逆に屠られればそれで終わりだ」
 そう逡巡したあと、今度は己の消滅よりも己と対峙する者に対し、カーミラは満たされない
想いに怒りとそれを屠る喜びを沸き立たせた。

143Awake 13話(3/15):2013/10/14(月) 00:22:53
「だが、正道を以って私と対峙する者の浅ましさは、何度見ても唾棄すべきものだ。今度
の獲物は少々ましだが、大望を持つでもなく小さな幸せをかき集めて自分のものにしたい
と願う貪欲さ……私には望んでも得る事の出来ない、他人との関係を紡ぎたいと願う腹立
たしい欲望。どんな大望よりも、ただある当たり前の幸せを護りたいと思うその心が私を
苛立たせる……それなら己の欲望にのまれて、潰えるがよい」
 そう言うとカーミラは静かに目をつむり、己の魔力を解き放って幻覚の結界を展開した。
 魔力を放出され、ただでさえ凍てつく空気に、ネイサンは己を屠ろうとあらゆる方法で攻撃
してくる敵を避けながら息を上げるくらい必死に駆けているものの、纏わりつく瘴気のよ
うな魔力によって深淵に近づくにつれ幻が見えてきた。
「……? 誰かいるのか?」
 敵を察知するために気を張っていたネイサンは少々、周りに対して敏感になっていた。
 その虚をカーミラが突き、己のフィールドに侵入してきた獲物をいたぶるための罠に彼は絡
め取られたのである。
「幻を追いかけるがいい」
 カーミラは己がボロ布のように散々いたぶり、真祖に投げやったヒューの姿を遮蔽物に隠れてい
た魔物の表層に一時的に固着させた。
 先程まで血と汗に塗れて重く汚れた姿とはうって変わって、黒い鴻毛の如き長髪をたな
びかせて走るヒューの後ろ姿をネイサンは確認すると、再び自分より先にこのエリアに侵入してい
たと思い、今度こそ説得し、共闘するために呼びかけた。
 だが、聞こえないのか、そのまま走り去り、いつしか消えてしまった。
「待ってくれ! どうして何も言ってくれないんだ! 応えてくれ!」
 見失った事に落胆しつつも息せきかけて辿り着いた場所を確認して、ようやく走り去っ
たのは幻影だと理解した。

144Awake 13話(4/15):2013/10/14(月) 00:23:41
遮蔽物のない水路の中途で質量を持った人間は消えない。厳しい寒さの中で邂逅した事
で状況判断ができなくなっているのに嫌でも気づかされた。
「……しっかりしなきゃ」
 そう言いながら歯の根が合わないくらい震えていたが、無駄な攻撃を受けて死なないよ
う敵の攻撃を躱しつつ、ネイサンはこの城のどこにあるのか分からない安全な空間を探し求め
た。
 しばらくすると、また幻覚が見えてきた。
 今度は捕えられたはずのモーリスが物陰から姿を現し、無言でネイサンを詰るように険しい顔で
見ていたが、瞬時に消え失せた。
 先ほど、ヒューを求めて大声を出した事を思い出し、幻覚だと解っていてもモーリスに対する罪
悪感と恥ずかしさのあまり赤面したが、すぐに冷や水を浴びせられたかのように心根が消
沈した。
 その様をカーミラは意地の悪い笑みを湛え「惑え、惑え」と楽しげに見て、自分の元に来た
時はどのような情景を見せて羞恥に悶え、絶望させるかを考えた。
「このままでも幻視に惑わされ手下に倒される事は必至だが、あの手駒のように精神に楔
を打ち込んでやる。用心に越したことは無い……何っ! 入り込めないだと!?」
 彼女は手を翳し、心眼を用いてネイサンの記憶と思考が絡まった表層から精神の手綱を掴も
うとしたが、寸前で白い結界が張り巡らされていたため、その手は痺れる痛みを以って弾
かれた。
「聖鞭が強固な結界を張っているのか……忌々しい! 奴の精神が霧に覆われたように見
えない。ならばもっと惑い、狂うがいい」
 カーミラが苦々しい顔で罵った時、ちょうどネイサンが通過している場所にて、人を惑わすセイレー
ンが飛び交っていた。

145Awake 13話(5/15):2013/10/14(月) 00:26:02
セイレーンの発する声を聞いた者は幻視と幻聴に惑わされ海中に引きずり込まれるという。
この城に巣食うセイレーンもまた簡単に海中に引きずり込ませるくらいの力を持っていたが、カ
ーミラはその能力に確かな質量を持った幻視を見せる力を付与した。
 言葉と能力を与えられたセイレーンは歓喜するように、カーミラが命じたターゲットに向かい一斉
に群がると悲鳴のような鳴き声を上げながらネイサンの心に侵入してきたものの、瞬時にネイサン
の下から離れ、彼の攻撃の範囲外まで退避すると、その場で円を描くように飛び回った。
――オ前の心ヲ探シテイル。オ前ヲ求メテ浅マシイ姿デ
――カワイソウ。オ前ニ助ケテモライタイノニ、声ヲアゲラレナイナンテ本当ニカワイソ
ウ。
 セイレーンがネイサンの心の表層に語りかけている隙に、フローズンシェイドが氷弾を放ち追尾してきた。
 逃げ回りながら鋭利な羽根に追尾機能を持たせて武器にしているセイレーンとは違い、本体は
その場から動かないので楽に掃討できたが、進もうとしたと同時にセイレーンがまたネイサンを急襲
して来たため、今度は体勢が取れず交互に繰り出される遠隔攻撃と直接攻撃を躱すのに必
死になり、やがて誘導されるようにネイサンは壁際に押しやられた。
 しばらくの間、激しい波状攻撃による羽搏きでネイサンは視界を遮られたが、羽の隙間から
ヒューの幻が見えた。
 セイレーンはネイサンがヒューの姿を知覚できたのを確認すると、再び手が届かない範囲に逃げて効
力が切れないように、その近くで飛び交い始めた。

「なんでまた、お前がここに……」
 共闘を呼び掛けてもヒューが何度も撥ね退けた事は嫌でも覚えている。そんな彼がこの期に
おいて自分に対して態度を軟化させるとは信じがたいし、間違いなく魔性が見せる幻とは
理解している。

146Awake 13話(6/15):2013/10/14(月) 00:27:42
 それでも礼拝堂で見た彼の危うさを心配し、なおかつ自分が存在と心を渇望している彼
の姿に、疲弊した心身は甘き妄執に目を向けないではいられなかった。
 その上、衣擦れの音や、質量のある鉄靴の音を響かせながらネイサンに歩み寄って来た事で
正常な判断ができなくなった。
――幻のように姿は揺らめいていない。それに、幻覚だとしてもこんな質量を持った幻覚
なんてあるのだろうか? もしかしたら操られているのか? 俺を絡め取るつもりなのか?
だけど本物ならむやみに攻撃できない! 
 ネイサンは彼に声をかけ、どう反応するのか確かめようとしたが、口を開く前に真剣な眼差
しでヒューがゆっくりと彼の方に寄ってきたので鼓動が高鳴り、硬直した。
 やがて、動けない体を強く抱きしめられると、絡みつくように体を重ねてられて、立っ
たまま壁に押し倒された。罠と分かって試していても切ない欲動を感じ、天を見上げるよ
うに頭を静かに上げながら目を閉じて深く嘆息した。
 だが、深く唇を重ねようと迫ってきた時に、ネイサンの目は完全に覚めた。
――人の匂いがしない! やっぱり幻覚だ! 現実を思い出せ、俺の姿を見てヒューはこの城
で嫌悪を顕にしていたじゃないか。辛くとも、いろんな状況が俺を救ってくれる。幻想な
んて捨ててやる!
「これは俺だけの感情だ。あいつの心と体は俺を許していない! 消え失せろ!」
 吼え、幻視を強く押し退けてセイレーンのもとまで近づくと、飛び回って逃げ惑う怪鳥を一体
ずつ始末したと同時に幻は瞬時に消え失せたが、自分でも叶わぬ想いである事象が目の前
に現れたことで、否応なくヒューに対する感情に虚しさを覚えてしまった。
 幸いにも聖鞭の力で己の精神が操られないことに安堵を感じつつ、自分勝手な欲動に指
向している心の脆さに腹を立てられずにはいられなかった。

147Awake 13話(7/15):2013/10/14(月) 00:28:27
 この怒りを他者に擦り付け、相手を中傷したのであれば、カーミラはすぐさま感じ取って利
用するつもりでいたのだが、ネイサン自身に向けたので聖鞭の力で精神が保護されてしまい彼
の心の深淵に入り込む事が出来なかった。
 ともあれ、ネイサンに対して感情の揺らぎを与えた事は間違いなく、その証拠に死と生の渇
望が入り混じり彼の下腹部が膨張した。
 それから己の欲望を含め一気に羞恥心が沸き立ち、近くの遮蔽物に隠れて気分と感情を
抑えるために小休憩を取った。
 だが、安堵からか座り込んだと同時にズボンが下腹部を撫でるように擦れて、気持ちよ
さに小さく抑えた嬌声を漏らした。
「ふ……うっ……くっ、はぁ……はぁ……何を考えているんだ……クソッ! 疼きが治ま
らない……落ち着くんだ」
 その状況に耐え難い嫌悪が掻き立てられると、耳目を塞ぐように頭を抱えた。
――いったん抜くか? いや、駄目だ。道中にセイレーンやウィッチがいた。精の匂いを嗅ぎつ
けて奴らが寄ってきたらひとたまりもない。
 ここまで濃い幻視は、強大な魔力が作用して見せる事象であることは明白である。より
強い魔力を放つ場所を抑えないと何時までたっても幻覚を見続け、その間に完全に迷って
しまうだろう。
 そう考えるとネイサンは奮起して、性欲を抑えてから魔力が放出している場所を探しだした。
 道中、幻視が何度も見えたが、退魔の原点に立ち返り祈祷文を無心に口唱しながら駆け
ていたため、深淵に向かっていても立ち所に消え失せていった。
 やがて、青白い扉が見えてきた。
 今から自分をこれ程までに惑わした魔性と対峙するかと思えば緊張し、少し立ち止まっ
て双眸を閉じてから気分を落ち着かせると、一気に刮目して扉に手を触れた。

148Awake 13話(8/15):2013/10/14(月) 00:29:25
 その瞬間、室内から今までに感じた事がないほどの禍々しい濃厚な魔力が噴出してきた。 

「お前は確か、ドラキュラと儀式の間にいた…。」

「私はカーミラ。私がドラキュラ侯を復活せしめた。」

 扉を開け、広間の落窪にいる姿を確かめたと同時にネイサンは、地下水道で見た幻視の正体
が判った。術者である彼女が見せる幻術に自分は酔わされかけていたのだと。
 彼はそう結論を出すと、己の精神の手綱をカーミラに握られかけていた事に、戦慄と羞恥が
込み上げてきた。
 曲がりなりにも退魔の能力を有している自分が覚醒状態で惑わされるのだから、この事
象が力を持たない人々に向けられたらと考えれば、この世が混沌の坩堝と化すのは時間の
問題である。 
 だが、その恐怖に慄いたとしても、対峙した以上、自分が倒さなければ誰もその魔手を
止める事は出来ない。
 その事実を受け止め、ネイサンは改めて上位の魔性に恐怖したが、怯んだ事をカーミラに悟られ
ないよう恫喝するように真意を問うふりをした。
「何故、奴の復活を願う!? この世界を地獄に変えようというのか?」
 もっとも、本気で答えを求めているわけではないので、別段何を言われようとネイサンは耳
を貸す気も概念を受け入れるつもりもなかった。

「この世が既に地獄だとは思わぬか? 人は皆、闇に憧れ混沌と力を好む、汚れた利己的
な生き物。それにふさわしい世界に変えるだけの事。大した違いは無い」

「勝手な事を言うな!」
――人々が各々の欲望に忠実に生きるって事は、第三者を傷つける必要のないのに為しえ
てしまう行為だ。人として許されるか!

149Awake 13話(9/15):2013/10/14(月) 00:30:40
 カーミラと対面してネイサンは己がいかに惑わされやすい感情を持っていたのかと改めて自覚し
たが、それでも自分だけではなく、無数の人間が利己的な感情を以って行動したらどうな
るかと想像し意識から感情を切り離した。

「あなたも心に潜む闇を開放すれば、素晴らしい世界を感じる事ができる」
「うるさい!」

 しかし、どんなに吼えても術者カーミラの見せる幻覚は、会話をすればするほど脳に焼き付
くぐらいの確かさを以ってネイサンの心を惑わせた。
 触れる手、絡みつく足、柔らかい唇と舌の感触、拒絶されない永遠と思える時間の共有。
誰にも邪魔されず抱きすくめ漏らした声にときめき、肉と肉をあわせ互いの重みを感じ独
占し、解放しながらしなやかに波の様な態で身体を弄り抱きとめて深く、深く滾らせた物
を幾度も迸らせ、それから……
――だめだ、この女の声と内容を聞いていると欲望が肥大してくる。頑なに撥ねつけないと。
 ネイサンの心は欲望を肥大させられた欲動の発露に苛まれ、弄ばれた怒りに震えていたが、
カーミラは表情から察知されたらたまったものではないと微かに眉根をひそめた彼を嘲笑する
かのように、一方の口角を微かに釣り上げ、表情を昏くした。
 カーミラは他者に対して優越を求めるでもなく、固執する独占欲を見せないネイサンの感情に苛
立ち挑発するために幻覚の度合いをまた強めた。

「あなたといた彼…。彼は自分に正直だったわ。我が主も彼を気に入った様よ…。フフフ」
「なに? お前らヒューに何をした!」
 その言葉を聞き、ネイサンは真租とヒューが対面して自分と同じように彼の野望や欲動を増幅さ
せ心身を弄ばれたのなら、忌々しき事態である。
 彼はそう考えを巡らせて自分のこと以上に焦って叫んだが、カーミラは片手を彼に向けると
強い光を発現し、辺り一面が一瞬光に包まれ何も見えなくなった。

150Awake 13話(10/15):2013/10/14(月) 00:32:00
 ネイサンはその光を見ないように目をつむり、すぐに状況を確認するために開眼したが、目
の前にはすでに桃色のペチコートを着た艶麗な女の姿は無く、巨大な頭蓋骨に乗った赤黒
い女怪――変化したカーミラが浮遊していた。
 カーミラはネイサンを見降ろし彼が開眼しているのを確認すると、彼の心を手に取るかのように
言葉を紡ぎ始めた。
「見える……あなたは今苦しみの真っ只中にいる」
「なんだと?」
 ネイサンは己が道中を含め、今も淫媚な妄想に惑わされているのをカーミラに見られていたかと
思うと、一瞬、肝の冷える思いをしたが、己の世界に何人たりとも踏み入らせる気がない
彼は、思考を遮断し眼前の敵の動向を観察することにした。
 だが、人の身で幻覚を見せる魔性に克てるはずもなく、聖鞭の法力で彼の深層に侵入さ
れないまでも容易く感情を読み取られ言葉を弄された。

「でも、なんと甘美な痛みを伴った苦しみなのかしら」
「……」
「誰にも言えない苦しみは、己の状況を悲劇に変えて陶酔する事の出来る身勝手な感情」
――欲望を認めろ。身近にある幸せを肥大させて渇望しろ。黙っていても私はお前をいた
ぶる。反論してきたら言葉尻をとらえて幻覚とともに弄んでやる。
「黙れ」
「あら、恥じる事など一つも無くってよ。むしろ愛する事はどの様な形であれ美しいもの
なのに。私の手を取りなさい。私の手に掛かればあなたの想いは夢で無く現実にする事だ
って訳も無いわ」
「……」

151Awake 13話(11/15):2013/10/14(月) 00:32:45
「お互いに見つめ合い、甘い口付けを気が済むまで交わして、それから……その息遣いに
戯れた後、言葉にならないくらいの絶頂を確かめ合うために、身体をまさぐりながら相手
の奥にある全てを曝け出して何度も何度も愛しむ事は……まさにあなたにとって素晴らし
き世界」
 カーミラは沈黙を選んだネイサンを嘲笑うため言葉を重ねた。聖鞭の力により彼女の本領が発揮
できない状況に対して苛立ちをぶつけるかのように、言葉だけで彼の羞恥心を煽るだけ煽
ろうとした。
 その言動自体、彼女がすでに相手に対して無傷では王手をかけられない焦りの証左であ
るが、解っていても後は近接戦でしか彼を生贄として手に入れられない事にカーミラは自尊心
が傷つけられ、腹立たしさを感じていた。
「何故自分の想いを隠して生きようとするの? 大切に育ててくれた師匠の息子を穢す事
になるから? それとも下らない決まりで二人とも死刑になる恐怖から? だったら、そ
の元となる師匠を混沌の救世主に捧げればいい。それなら師匠もいなくなって、そのうえ
下らない決まり事など無くなり全てが丸く収まるわ」
 
――しまった! 師匠や世間に対する考えまで読み取られた! 俺は本当に弱い。そして、
この女は人の心を甘く包み込むのに相当長けている。ともすれば負けた後、本当に手を取
り、この身と思考をすべて委ね預けてしまうくらい魅力的な提案を与えるこの女の下僕に
なって、思うままに実行するだろう。
だけど、ここまで来てそんな真似を許してたまるか! 
「聞く価値も無い。お前を打ち倒せばそれで終わりだ」
「そう……ならば死になさい。薄汚い、おぞましい体の合歓なぞ私の許容の外よ」

――薄汚いか……魔性の者にさえ否定されるか。いや、最初から判り切っていた事じゃな
いか。
「我等の手中にある大切な者達を意のままに出来る機会を与えてやったのに。愚かな」

152Awake 13話(12/15):2013/10/14(月) 00:33:31
――与えてやった? 俺は師匠に対して申し訳なさを感じた事はあっても邪魔に思った事
は一度も無いし、それに与えられた中でヒューを求めた覚えは全く無い。
それを……いくら道に外れているとは言えだ。
「痛みと幻想を与えてやる。せいぜい抗う事ね……ふふふ」
 純粋に力だけであればカーミラが勝っているものの、真租が戯れに与えた力のせいでまさか
ネイサンが自分を追いつめられるくらいの魔力を有しているとは、あまりにも相手を侮り過ぎ
たと彼女は彼と直に対面して初めて後悔した。
 カーミラがその変化に気付かなかったのは、カードの効果によって魔力の変動があったため、
完全に彼の力を把握できなかったのが原因である。
 ともあれ、雌雄を決しなければ互いの状況が進まないのは両者とも一致していた。
 ネイサンはカーミラの攻撃方法を見極めるために回避行動を行い、カーミラは彼の力を量るため軽く
攻撃を仕掛けた。
「まずは、逃げ回りなさい……」
 カーミラは幻覚の作用を練り込んだ紫弾を展開し、頭蓋骨の下に大きい電流を放出すると、
足場を伝いながら彼女の攻撃の種類を見極めるために回避して、安置を求めているネイサンを
弄ぶように追い回し始めた。
「当たってたまるか!」
 頭蓋骨の下の放電は避ければ当たる事は無いだろうが、問題は自分を追尾している紫弾
が消えるかどうかで戦術を立てないと、いつまでたっても本体に攻撃を加えられないとネイ
サンは踏み、近づいてきた紫弾を聖鞭で叩くと、幸運にも触れた瞬間に消散した。
 これにより遠隔攻撃の一つは封じられる事が分かったネイサンは、この攻撃を無効化できる
カードを使って戦端を開いた。
「……小癪な」
 紫弾を無効化された事で攻撃手段の一つを失ったカーミラは、腹癒せにヒューに放った巨大な光
線をネイサンに向かって発射した。

153Awake 13話(13/15):2013/10/14(月) 00:34:17
 光線が発射された事に気付いたネイサンは、後方に飛び退き足場を使い上方へ逃げたが、不
幸にも照射時間が彼の滞空時間より長かったため、為す術もなく全身を焼かれた。
「うふふ……死ななかったの? あの男より強靭なのは認めてあげる。でも、あははは!
服が全部焼けおちればもっと面白かったのに! 残念だわ!」
 カーミラはしてやったりと、ネイサンが床に叩き落とされ痛みで蹲りながらも自分を睨む彼の顔
を見て、純粋な嗜虐心を湧き立たせた。
 紫弾を封じられた事で言を弄し幻覚を見せるより、自分の力で捻じ伏せてから半死半生
の状態で命乞いをさせ、懇願しても聞き届けることなくその体をドラキュラに捧げ彼の師匠で
あるモーリスの目の前で吸血させ眷族にするか、肉片になるまで嬲るといった残虐な行為を想
像して、震えるような快楽を覚えると心が高鳴った。
――何だあれは! あんなものとヒューは戦ったのか? 今までの駒とは格が違う。だけど、
体は鞭のリーチだけで当たるくらいの大きさだ。遠隔攻撃の種類と挙動さえ間違えなけれ
ば確実に攻撃できる!
 そうネイサンは考え頭蓋骨に接近したが、間合いを詰め過ぎて直進してきた頭蓋骨に撥ね飛
ばされた上に、反対側から無数の衝撃波を繰り出された。
 だが、落窪の壁に邪魔されて攻撃範囲が狭かったため、後方に退避するだけで回避でき
た。
 そこから頭蓋骨が幻視ではない事を確認し、今度は逃げられる範囲で聖鞭を振るったが、
完全に当てが外れた。頭蓋骨に聖鞭を当てても攻撃が透過したからだ。
「そんな……馬鹿な」
 当てているはずなのに当たらず驚愕しているネイサンの表情にカーミラは気付くと、侮蔑を表情
に出し盛大に哄笑した。
「私に触れられるとでも思っていたのか、愚か者! 死ぬまで堂々巡りをするがよい」
「クソッ」
――頭蓋骨はカーミラの幻影なのか。しかし、その体当たりは質量があった。いや、頭蓋骨は
攻撃範囲に含まないでおこう。そうなれば赤黒い方が本体だ。

154Awake 13話(14/15):2013/10/14(月) 00:35:17
「……そう言えば衝撃波も光線も放出時には背後がガラ空きだった。試してみるか」
 出来るかどうか分からない予測を試してみるには、ネイサンの体力と気力は耐えられないく
らい消耗していたが、それでも何もしないで嬲られるよりは有益だと思い、部屋の中心に
ある足場の中段でカーミラの攻撃を待ち構える事にした。
「正面で戦うつもりか? 私との力の差がまだ解らぬか」
 突進してくるカーミラの嘲りを無視してネイサンは遠隔攻撃の挙動を待ちながら、彼女の本体に
クロスを投擲し、衝撃波を放ったと同時に足場を伝って彼女の後方に移動して攻撃が終わ
るまで聖鞭を振るった。
 彼女の肉体に攻撃した時に打撃音が響き、腐った血液が混じった体液が流れている事か
ら、ネイサンはダメージを確実に与えているのを確信すると、あとは紫弾や突進に気をつける
だけで一定の攻撃で彼女の肉は削がれ、体液を辺り一面に迸しらせることができた。
――攻撃方法がわかったとしても、こいつは体力がある……耐力が相当高い。
 やがて、カーミラの肉が崩れ体中から血を噴き出し、その魔力が微弱なものになった時、ネイ
サンの鼓膜が破れるくらい甲高い咆哮とも悲鳴ともつかない不快な叫び声が上がった。
 それから彼女の全身が浄化の炎によって燃え盛ると、すぐにその体は陽炎のように揺ら
めいた。
 そして、陽炎もその場から消散し強い光がまた空間全体に瞬いた。
 それから間を置かず、光が収束すると打撲痕や裂傷が体中におびただしい数を以って刻
まれ、ペチコートがところどころ裂かれ、焦げた様態で石畳にへたり込んだカーミラが現れた。
 口角から血をとめどなく流し、艶麗な容姿を苦痛に歪ませながらも自分を凝視し、血涙
を流しながら睨みつける灼眼に、ネイサンは勝者とはいえその悪鬼の表情に全身が粟立った。
――これで術者は掃討した。魔力がほとんど感じられない。真祖が消滅するのも時間の問
題か。
 ネイサンはそう考えたが、カーミラはその安堵した表情を見て口角を歪ませると、喉を鳴らす音
を出して吐血しながら彼を馬鹿にした歪んだ笑顔を見せた。

155Awake 13話(15/15):2013/10/14(月) 00:35:55
「…もう遅い。儀式の支度は整った。後は月が満ちるのを待つのみ。我が主が完全に力を
取り戻されるのは、もう時間の問題…あなたの大事な師匠と仲間は…」

 そして、ネイサンの心に楔を打ち込むかのように言葉足らずな科白で彼の不安を煽ると、そ
のまま体を揺らめかせてカーミラは消滅してしまった。
「師匠! ヒュー! クソッ!」
 ネイサンはその言葉の真意を測りかねて、いや、最悪の形――二人共、すでに真祖によって
贄とされてしまい、いくら死闘を繰り広げても、自分だけが生き残っても二人がこの世に
おらず真祖が完全な力を取り戻したらと想像して、絶望と諦念、何もかも阻止できなかっ
た自分に対してやり場のない怒りを湧き出たせた。
――だけど、確認できない以上は言葉にされても惑わされちゃいけない。進もう。
まだ終わっちゃいない!
 そう彼は気を取り直し、次に進むためのマジックアイテムを手に入れようと最奥の宝物
庫へと足を進めた。
 そこは、宝物庫というにはとても寂しく薄暗い何もない空間だった。
 ただ、木の台座の上に大きい鳥類の片翼が鎮座していた。鍵ではなかった事にまたネイサン
は落胆したが、どういったものか調べるために手で触れた瞬間、そのまま跡形もなく消失
した。
 何が起こったのかと唖然としたが、気のせいか体が軽くなったような心持ちがした。試
しに飛び上がったところ、急に体が引っ張られるような速さで天井に向かって垂直にジャ
ンプした。
 その状況に彼は驚き、頭を天井にぶつけないよう体を回転させ、天井に足底をつけて衝
突を回避した。そのあとはすぐに石畳に着地したが、急激に着地した時の関節の痛みや痺
れは全くなかった。
 ともあれ、とうとう人にあらざる高さで移動できるようになったネイサンは、展望閣へと続
く天空の未完成な階段を目指し、敵に接触しないよう高く跳びあがりながら進んでいった。

156Awake 14話(1/18):2013/12/19(木) 03:02:02
「来たか…ネイサン。」
 幻覚に惑わされながらも術者カーミラを倒した事で全ての術者を掃討したネイサンは、階段のな
い不完全な建物をひた走り、やがて行き止まりの空間にたどり着いた。
それを示すかのように駒がいる馴染みの青白い扉を開くと、深く沈む様な声とともに展
望閣の玉座の下で静かに振り向く者があった。
 何度も城内で邂逅し共闘を望むも、己の矜持を守るため自ら状況を放棄したヒューの姿だっ
た。
 その様子に身体を傷付けられておらず、難敵が多いこのエリアで何時もの如く剛毅を誇
った剣技で敵を屠りながら探索していたのだろうとネイサンは考えを巡らせた。
 だが、同時に幻覚ではないかと疑ったが、惑わせるような柔和な表情でも様子でもなく、
拒絶された時と変わらぬ険のある表情だった。
 とにかく声をかけられた事にネイサンは、アドラメレクに惨敗した時の無残な格好から立ち
直ったのを見て顔面が喜色に覆われた。
「ヒュー!良かった!無事だったのか。俺はてっきり…。」
「てっきり……何だ? 俺が死んだとでも思っていたのか? ……その方が貴様にとって
好都合だろうよ」
「何を言っているんだ!? まさか!?」
「ヒュー、何をする!?」
「…俺の方がお前より優れている…。」
 微かに笑い眼をぎらつかせると、有ろうことかヒューはネイサンに向かって抜刀し脅した。
 眼の輝きの中に尋常ではないものを読み取ったネイサンは寸での所で躱したが、身を傷付け
られそうになった事よりヒューが己に躊躇なく剣を向け、しかも人を嬲る様な目つきで自分を
見たことに驚きと失望を隠せなかった。
 だがヒューは直ぐに笑み掻き消し、頭を横に振り次第に苦悶を表した貌で対峙し始めた。
「お前を倒し、それを親父に証明して見せる…。」
「操られているのか、カーミラに?いや、ドラキュラにか!?」

157Awake 14話(2/18):2013/12/19(木) 03:02:59
――俺を攻撃しておきながら悔悟の表情をするとはおかしい。
人の言葉と行動はここまで噛み合わなくなるものか? 操られていたり、吸血されている
とすれば辻褄は合うが、さっき術者であるカーミラを消滅させたんだ、もしカーミラに因るものだ
ったらヒューは解呪されているはずでドラキュラも消滅しているはずだ。
だけど、今現在を鑑みればドラキュラの復活の主導権はカーミラから本人に委譲されたと見るべき
だろう。一度もお前に勝った事が無いのにどうすれば救えるんだ!? 
師匠! 魔手に落ちた仲間を救うことはこんなに途方も無い感覚に陥るのですか? 
こんな苦しい事……教えて貰ったって理解出来るものじゃない!
「……何故、お前は俺の心をそこまで掻き乱すんだ……?」
 自分勝手な感情を口にしていたが、その心は自分が死ぬか、ヒューを誤って殺してしまうか
もしれない予測に対しどうしていいか判らなくなってしまっていたからだ。
「どうした? 来ないのならこちらから行くぞ!」
「止めろ! 何故お前と戦わなといけないんだ!?」
「俺の途に邪魔だからだ。それ以外に何がある?」
「……俺が、お前にとって要らない存在だったのか? そんなの信じたくない!」
 ネイサンの叫びもヒューの耳朶をかすめただけで一向に介する事無く冷笑され、ネイサンは二度三度、
追い詰められた獲物の弱腰を嬲る様に切りつけられた。
「消えろ」
「……っ!?」
――本当に容赦ない。修行中の模擬試合とは格段に違う気迫、殺す気だ。

 どう攻撃してくるか判断が付かないままヒューの攻撃にたじろぎ、ネイサンは彼の直接攻撃が及
ばない距離まで後退りしつつ攻撃の種類を見極めようとした。
 敵に操られている以上、己が知っている方法以外の攻撃を繰り拡げるだろう。

158Awake 14話(3/18):2013/12/19(木) 03:04:02
決断したら迅速に行動を起こさなければ時間が足りない。
 展望閣に駆け上がる途中の回廊から見えた月は深夜に差しかかっていた。ネイサンがまずい
と思い急いだ理由は、殆どの人間が無意識の世界に引きずり込まれる深夜が一番、魔が人
々を襲うには格好の時間となるからだ。
 それまでに復活した真祖がサキュバスなどの夢魔を放ち、人々をほしいままに餌食にしたら
どうか――
「逃げるか臆病者!」
「……!」
――許してくれ。お前を試すような事はしたくないけど、それが嫌なら目を覚ましてくれ!
「うぐっ!?」
「対峙している相手に背を向けるとは格闘の基本すら忘れたようだ。お前にしては珍しく
慢心したか」
「……少し、黙れ。人を嬲るような者に堕したお前の声なんて聞きたくない」
 間合いを取るために危険とは思いながらも全速力で駆けだしたが、案の定、クロスを投
擲され背中に数本突き刺さった。
――早さと力は変わらない。与えられたのは何だと言うのか?
 
クロスを引き抜き、痛みに耐えながら起き上がるや否や、一直線に剣をつがえたまま突
進してきた。だが、まともに食らえば大打撃となる太刀筋も大味過ぎて切れが無く、少し
体を後方へ移動しただけで難なく躱す事が出来た。
――どういう事だ? 動きが大きすぎる。とっさの判断すらできなくなっているのか?
もう一度離れてみるか……何!?

 再び駆けだした時、ヒューの剣が残像を帯びて天をも突かんとするくらいの大きさと質量を
もって振り下ろされた。

159Awake 14話(4/18):2013/12/19(木) 03:05:16
「うわぁあぁぁぁ!?」
 今度は避けられず額に切先が直撃した。瞬時にして肉を抉り出されるかのように粗く裂
かれ、血が噴き出した。止め処なく流れる血を見てネイサンは戦慄した。
「初めて見た……あれは人が与えられる攻撃でもなければ、力でもない。飛び道具だけで
は推し量る事が出来なかったか……見誤った」
 流れる血を手で押さえながら視界がぼやけてくるのを感じるも、ヒューの動向を窺い見た先
に石柱があり、その上方に足場がある事を確認した。
――ヒューを避けながら上へ駆けあがった後、足場で回復するか。あの高さは人であれば到底
届かない高さだけど、今の自分であれば難なくあそこまで飛べるだろう。
だけど、ヒューがあそこまで届いたなら俺は容赦なく攻撃され死ぬ。
こんな悲しい事、いつまで続くんだろう。
悪夢だ、性質の悪い冗談であって欲しかった。お前に嬲り殺されるなんて、嫌だ。

血を拭い、足元をふらつかせたが気を取り直して行動を開始した。自分を攻撃するだけ
で当てもない、焦点が定まらないような攻撃を軽く避けながら足場へと飛び上がった。
足場に向かってヒューの上方を飛び越えて到達した時、石柱を背に振り返って彼の姿を見た。
表情には怒りの表情しか見当たらなかった。これほどまでに激しい怒りを今まで向けられ
た事はなかった。
だが、冷静さを失い悪鬼の表情をして、自分を追い詰めている彼の姿を目の当たりにす
ると、自分が聖鞭を継承した事でこうなってしまったのに、心を痛めた以上に怒りに任せ
て自分を攻撃してくる状況に居た堪れなくなった。
自然と涙が溢れた。失望で心が潰されてしまいそうだった。
「膂力だけ強くても、動きが伴わないお前なんてお前じゃない!」
 その声を聞いたのかは分からないが一瞬、ヒューが歩みを止めビクッと身震いしたように見
えた。
 もちろんヒューが声に応えた訳ではない。だが、ネイサンは彼の深層が動きを止めたと思いたか
った。少しの仕草でも自分の声が彼に届いたと感じた事に少し、心に落ち着きを取り戻し
た。

160Awake 14話(5/18):2013/12/19(木) 03:06:28
一緒に彼も追ってくるかと思ったが、飛び跳ねて斧を投げつけてきたぐらいで跳躍力は
変わらず人のままであった。その様子に嬲り殺される可能性はなくなったと安堵し、カー
ドの力でしばらく傷を治癒していった。
――今まで遠隔攻撃の状態を見ていたけど、今度は近接戦闘であいつのペースをずらして
時間を稼ぐか? 通常なら無理だろう。でも、操られているなら退魔の文言であるラテン
語聖句を詠唱する事で、その隙を突く事は出来ないだろうか? 
さっき突進した時に避けられても進行方向を変えられないほど動きが大雑把だったんだ、
打撃に特化した攻撃のみであれば注意力は散漫になっていると思う。賭けてみるか。

 やがて、額の傷もある程度塞がり痛みも引いた。これで視界が血まみれになる事もなく
なった。
 そのまま床に降りると攻撃されるのは必至なので、ヒューが後ろを向いた隙に静かに降りた。
 無論、瞬時に気づかれて剣で攻撃されたが、予想通り通常攻撃の剣技に鋭さが見られず
剣捌きの間合いに入る事さえ容易に出来た。
――よし、一か八かだ。
 ヒューに聞こえるようラテン語で退魔の聖句を唱え始めた。すると、見る見るうちに動きが
鈍化していった。
「……!」
――やっぱり……効果はある。良かった、吸血された証である灼眼にはなっていない。な
のに、ラテン語聖句を聞いた程度で攻撃速度と膂力が一瞬だけど停止している。
そうか、術者の闇の部分が表出しているから、その綻びから来ているのか。降霊術のよう
な何か代償を用いた一時的な催眠術みたいだけど、効力に関しては人間が行なうより相当
強力な暗示が掛かっている。
それなら身体の動きを徐々に止めて解呪する手を考えよう。
 まずは、攻撃手段である剣を聖鞭で絡め取り瞬時に押し倒して、正気に戻るまで聖句を
耳元で唱え続けたらいいのではないかと考え付いた。それに、組み伏して体重をかけ、羽
交い絞めにすれば首を絞められる事もない。
ネイサンは予測を立て剣身に聖鞭を絡ませたが、引っ張っても腕が伸びるだけで離れない。
「柄と手がくっ付いたように離れない……」

161Awake 14話(6/18):2013/12/19(木) 03:07:10
だが、操られていても無駄な動きをしている間まで止まっている相手ではない。すぐに
剣を振り下ろされ、逆にネイサンが弾き飛ばされた。
「やっぱり、攻撃して体力を削らないと動きが止まらないのか!」
――聖句を唱え続け、あいつの身体を傷付ければやがて動きは止まるだろう。だけど、攻
撃によって命を奪う寸前まで来たら俺はどうすればいい!? ヒューの首筋や胸部を見たら吸
血痕は無かったし、クロスを平気で扱っていた。灼眼にもなっていない。
膂力は借り物でも、人のままだ。その彼を殺したら、俺は人殺しだ。愛する者をこの手で
殺すのだ。失った時の苦衷と後悔はいかばかりであろうか!
だから人として俺に対峙させたのか、ヒューを!
「それに……人の力で無いマジックアイテムを用いている俺に、人として対峙しているお
前を倒すのは、卑怯以外の何物でもない。逆に俺が化け物だ」
――悲しいかな、この城を出るまで外れてくれないらしい。目的を果たしても人の意思に
関わらず、呪いの様に体に絡み付いている。文字通り利便さを持ち合わせた魔性の道具っ
て訳か。

 だが、攻撃しないとネイサンの方が無残にも嬲られてしまう。どうしようもない状況に悲痛
な声を上げ、落涙し、対峙するしか彼には方法が残されていなかった。
「許してくれ……早く……っ、目を覚ましてくれ!」
 対峙し、間合いを詰めて攻撃を始めた。予想通り、ここから先は何の障害もなく一方的
な攻撃が展開されるだけだった。
 ラテン語聖句を唱え、動きを止めた隙に叩きつけるように聖鞭を振った。当然、ヒューの服
は裂け、切り裂かれた皮膚から血が飛び散り、打擲するたびに絨毯に何度も滴った。
それでも彼の洗脳は解けない。動きは止まらない。
 ネイサンによって動きを封じ込められたにもかかわらず、空しい攻撃を続けている。
――もう……嫌だ。どうして気絶してくれないんだ。これ以上攻撃したらお前の骨や腱を切
ってしまうじゃないか……どうして平然と攻撃を受け続けるんだ……?
 ネイサンは泣きながら聖句を唱え攻撃を続けた。それでもヒューは倒れない。失血で顔が青ざめ、
ようと、当たらない攻撃をネイサンに繰り出しているだけだった。

162Awake 14話(7/18):2013/12/19(木) 03:08:37
ヒューが普通で無い姿に変化していくごとに、ネイサンの心は張り裂けそうになった。いや、今
すぐにでもこの状況を終わらせたかった。
 やがて、ヒューの体は失血から動きが不安定になってきた。それからようやく体の軸がぶれ、
崩れ落ちるように昏倒した。
「……これで、これで終わった。ヒュ……」
 声を掛けた瞬間、白い魔方陣が中空に現れた。すると、その魔方陣にヒューの体が吸い込ま
れるように浮き上がった。
 明らかに意識が途切れた状態で発生したので、ヒューが構築した魔方陣では無いのは判った。
「消えろ!」
 真祖がヒューの体力がなくなる前に解呪されないよう仕掛けたものだろうと考えると、確実
に解呪出来ないまま自分にヒューを殺させようと言う肚が見え、人の気力を削ぐ目的で発動し
たと思われた。
 確認が取れない予測だが、それでもそう考えると神経を逆なでされたように憤りを感じ
た。
 もしそうなら闇の部分があるはずだから聖属性のクロスを使えば消滅するのではと思い
魔方陣に投擲したが、さしたる効果もなく全ての攻撃も透過した。
 やがてヒューは再び生気が漲ったように覚醒し、中空から絨毯に降り立った刹那――素早く
剣をネイサンに向って振り下ろした。
 先ほどまで顔面蒼白で、失血による口唇の変色が認められる顔からは想像がつかないほ
ど回復したように見えたが、よく見ると出血や打撲痕は酷く、裂かれた傷を刻んだまま攻
撃を繰り出してきた。
「……もう、止めてくれ。これ以上、動かないでくれ!」
 無残な姿になっても自分を追い詰める狂気に、ネイサンは身も心も圧し潰れそうになった。
 もしかしたら、ラテン語聖句を唱えたことによる拒否反応から、彼の精神が開放するの
を抑制するため防護壁が発動したのかと予測を立てた。
 そう思うと今まで自分がしてきたのは何だったかと判らなくなり、一瞬、気落ちと疲労
でよろめいた後、通常攻撃の範囲内から少し後退してしまった。
 だが、間合いから外れた一瞬で遠隔攻撃が発動し、今度は無数の剣が彼に襲いかかった。
「……っ、一瞬の油断も見逃さないか」

163Awake 14話(8/18):2013/12/19(木) 03:09:51
その剣も聖鞭で叩き落とせばすぐに消散したが、一つだけ遅れて追尾して来た短剣とナ
イフが体に突き刺さった。
「!? さっきの巨剣と同じぐらい強い……!?」
 ナイフが突き刺さってもそこまで致命傷とはならなかったが、短剣は掠っただけで大量
に血を噴き出させるくらい傷を押し拡げた。
 ネイサンは痛みに耐えながら観察すると、短剣は彼を追尾攻撃した後すぐに球体へと変化し、
ヒューの体内に入り込んでいった。
 その上、ヒューの傷口が硝煙を伴い、少し塞がって行くのが見えた。
――俺を傷付けたらその分、回復すると言うのか……どこまで堕ちたら気が済むんだ……

「それでも俺は、お前を解呪出来る事を信じたい!」
 彼は愕然としながらも今度はヒューの繰り出す通常攻撃を躱し、間合いを詰めるとまたラテ
ン語聖句を唱え始めた。
――魔方陣が発現したのであれば、それなりにダメージを受けているはずだ。現に、さっ
き付けた傷は完全には治っていない。攻撃を続けていたら気絶するかもしれないけど、今
度ばかりは死んでしまうかもしれない。
「体力を削れると判った以上、お前の動きが止まるまでやり続けるしかない……っ」
――お前は人のままだ。だけど解呪出来ないまま死んでしまったら、そのまま遺体を安置
する事は出来ない。真祖がいる限り復活する可能性がある。そうしたら、心臓に楔を打ち、
腱を切ってしまわないといけない。頼むから、お願いだから、俺にそんな事をさせないで
くれ!

「目を覚ましてくれ! お願いだから!」
 目を瞑り、涙を流しながら再び攻撃を始めた。彼の肉体を打擲し、切り裂き、血を何度
も迸らせ、絨毯や服、肉体に流れる血が濃く固まっても力を奪い続けた。
 打撃を与えるたびに何度も同じ言葉と想いを泣き叫び続けた。
 自らの手で傷つけ続けるたびに、自分の心が壊れていくようだった。

164Awake 14話(9/18):2013/12/19(木) 03:12:31
やがて振り下ろした鞭の鋭い音と、筋が断たれた鈍い音が同時に質量を以って重く響い
た。その音がヒューの行動の一切を奪った。
 肉を切り裂かれ筋を断たれた肉体は、どんなに気力があっても維持できるものでは無か
った。打擲され吹き飛ばされて、床に体を叩きつけられたままヒューは昏倒した。
 それでも気丈にも手を虚空に翳し立ち上がる素振りを見せたが、意識が切れてそのまま
の恰好でしばらく動かなかった。
「やめてくれ!お前をこれ以上傷つけたくない!ヒュー!!」
 肉を断った音にネイサンは自らの行為に戦慄を覚えた。もう、心は限界に近かった。
 すでに頭の中は後悔と自責の念で真っ白だった。言葉にならない叫びを泣きじゃくりな
がら発した。だが――
「ネイサン?ウウッ、お、俺は…。」
――生きている……正気に、戻ったのか……?
 完全に白目を剥き絶命しかけたヒューの肉体は神に懇願を受け入れられるかのように、明確
に生き永らえるのを許され再びネイサンの名を呼んでくれた。
 ヒューは大きく息を吸い、深く嘆息しながらゆっくりと瞼を開いた。ネイサンは介抱しようか
迷ったが正気に戻ったかどうかが分からず、近寄りたいと思っても足が竦んで動けなかった。
 いや、再び攻撃されたら自分の身を守るために今度こそ殺してしまうのは目に見える。
だから静観するしかなかったと言うのが正しいだろうか。
「…ありがとう…聞こえたよ、お前の呼ぶ声が…。」
「…ヒュー。大丈夫か?」
――城内で傷つき、独りよがりの言動を俺に向けた姿の見苦しさを見ても、お前を完全に
軽蔑するまで至らなかった理由がこの戦いでようやく解った。
 模擬戦では力を加減して対峙していたのではなく、無論互いに殺し合う位の粗野な感情
を持ってではなかったけど、それでも膂力がなく漫然とお前に立ち向かっていた俺を徒に
嬲るような扱いではなく、実力の差を受け止めた上で、いつも一人の人間として対峙して
くれていたのだ。
その感情は歳を重ね生きていくには不便なもので、知らず知らずのうちに削り取られてい
くのに、戦う毎に己の心のままでいられる孤高の理想が眩しく輝いていたからだ。

165Awake 14話(10/18):2013/12/19(木) 03:13:06
しばらくしてヒューは自ら体を起こし、体の痛みに耐えながらその場で蹲ったまま彼を仰ぎ
見ると、微かに笑い自嘲するように真っ直ぐ彼を見た。
「ネイサン…俺はお前に嫉妬していた。」
「!?」
「親父がお前を認めることで、俺が要らない存在になるのが怖かったんだ。ただ認めて欲
しかった…。」
 そう恥部を曝け出しながらヒューは表情を歪ませると、自然と涙があふれてきた。
「それはお前を始め他者を認めず、それに気付かず歳を重ねるごとにただ己の矜持と独善
を護ろうとした偏狭で愚かな感情だったのだ。それを毀したくない一心であらゆる手段で
他者を傷つけ続けた……」
「もういい…。」
「そんな心の闇を、親父は見抜いていたんだろう。だからお前を…。」
「よすんだ。」
 ネイサンは言葉を遮ったが、ヒューは己の言葉を紡ぎながら後悔と羞恥を噛みしめ始めた。
「いいんだ。今では愚かな俺にも親父の選択が正しい事が良く判る。」
――そうだ、俺だって人を補佐するなんて出来ない事は無いが、采配を取っている人間が
自分より判断が遅く、的確でないと判別した時点で俺が上に立ち指揮権を取ってしまうき
らいがある。
目的遂行のためにはやむを得ない事から表立って言う者は居なかったが、陰では不遜だ、
尊大だ、驕児、小童如きがと何度耳に痛い言葉が入ってきたか。
その批評に親父は俺とチームを組んだハンターから聞いた情報を擦り合わせ、度を過ぎた
行動があったなら俺に注意していたが俺は「生き残ったのだからいいだろう」と知った風
な口をきいて自ら飛躍するチャンスを何度も逃していた。
いや、親父以外に一人だけ面と向かって言い放つ者が居たな。いつも俺の後ろにくっ付い
て来る臆病者の癖に、人に意見する事だけは対等にしてくる奴が。

166Awake 14話(11/18):2013/12/19(木) 03:13:56
そう回想しながら、ヒューの脳裏にネイサンとの実力差が明確にあった頃の問答が浮かび上が
ってきた。
――「あの時点で指揮権を強奪するように取ったら、誰だって文句の一つでも言いたくな
るぞ」
――「じゃあ、側面に回り敵の視界を一瞬でも消失させなければ、正面から突撃するばか
りではこちらがダメージを被ってしまう。お前だって判っていただろうに」
――「それは……」
――「やり方と言い方が拙かったと言いたいのだろう? 俺も本当は精一杯だったんだ。
外から見ていたから判断できたのであって、当事者だったら俺でも動けたかどうか……そ
の上、己の役割の中で、今回は補佐の立場で彼を援けなかったと言うのが最大の失敗だっ
たな……はっ、今のは誰にも言うなよ!? 恥ずかしい上に外聞が悪いから」
――「お前が他人にその手の事を言わないのは知っている。そして俺が誰かに言うなんて
思っているのか?」
――「言い訳したばかりか気まで遣わせて悪かった……」
……いつも俺の傍にいて俺のために諫めてくれた人間の存在と言動を忘れてしまっていた
とは、いよいよ持って焼きが回ってきたな。
人は一人では事を成せない、だからこそ三人のチームで魔を狩る事が出来るのだ。と、こ
の状態になって親父の言葉が痛烈なまでに身に沁み入るとは、何と辛辣な皮肉だ。
補佐してくれる大事な仲間が傍にいないだけで、どれだけ周りが見えなくなった事か。そ
して、補佐をする者の重要さを長きに渡って軽んじていた自分自身の愚かさが、どれほど
滑稽でおかしな姿を晒していたか。
そんな今にも泣きそうな顔をするなよ、お前も傷を負っているが俺はそれ以上に血が流れ、
お前に打擲された傷は服に触れるだけでとても痛いんだ。俺の方が痛みでまた気絶しそう
なくらい痛いのに。
それから今まで勝てなかった俺に完勝したんだ。もっと喜べよ。それが出来ない奴だから
お前の存在に安堵するのだろうな、我ながら情けない感情だ。

167Awake 14話(12/18):2013/12/19(木) 03:14:58
「フッ…これ以上、俺に恥をかかせるな。」
 一瞬、瞼を軽く閉じ首を下へ傾げたが直ぐにネイサンの顔を仰ぎ見て微笑んだ。しかし、そ
の両頬には赤い豪奢な絨毯の繊毛を赤黒く染めるほど止め処もない涙が伝い、まるで光を
見つめているようだった。
 そう見られる事に後ろめたい感情を抱いていたネイサンはヒューの眼差しを直視できず、聴き続
けるには心苦しかった。
 むしろ、何も言われず押し黙ってくれていたほうが、幾分かましな心持ちになっていた。
「お前は俺の告解を何故押し止めようとするんだ。初めてこれだけ曝け出した俺の弱い部
分を聞けないというのか? そうか……親父を助けるのに無駄な時間を取らせてしまった
ことに腹を立てているのか。そうだな、責められても仕方ない」
「違う! 俺が原因でお前が自分自身を卑下して傷つけている姿を、これ以上見たくない
んだ! それに断罪なんてもっての外だ!」
――告解だと? お前の体を傷付け、矜持を粉々に打ち砕いた俺はお前の後悔を受け止め
るに値しないと言うのに、それでも青眼を向けてくれるのか? あぁ、そんな貌をしない
でくれ、俺はお前を――

「……ただ、愛したいだけなのに、愛しているのに……手を差し伸べたいのに、お前が自
分自身を傷つけているのを知っていても俺がどうすることも出来ないのが悔しい。それな
のにお前が俺に自分を卑下している科白を吐けば、側にいるのに援けられない事実に打ち
のめされるから……」

「……愛している?」
 想いの丈を叩きつけた言葉の中に、己の苦衷と恋情が溢れ出てしまったのをヒューに聞かれ、
ネイサンは一瞬にして青ざめた。
 この想いは自分の心の中に秘匿しておくものであって、一生曝け出すつもりはなかった
とそう思っていただけに、言葉を回収したい心境が次の瞬間には言葉を詰まらせてしまっ
た。

168Awake 14話(13/18):2013/12/19(木) 03:17:00
「言葉を濁そうとするな。もう一度訊くぞ。愛していると言ったのか?」
「……」
――答えるべきか? 迷うな。ここまで訊かれているのに。だけど後ろめたい気持ちはあ
るが愛しているのは間違いない感情だ。それに自分がこの先、言えるチャンスは無いかも
しれない。それなら……

「……そうだ。お前を愛している。その気持ちと言葉に嘘偽りも、躊躇いも無い」

 直接本人から「愛している」と言われ、ヒューはどう言葉を返していいものか、無論、泣き
そうな表情をして青褪めた顔で、切なく呟いている彼の想いを即答で拒絶するつもりはな
かった。
「知らなかっただろうが、お前が俺に師匠の事で嫉妬していると言うのなら、これが俺の
お前に対する感情だ」
「……知っている」
「……え?」
 ネイサンは己が秘匿していた感情を事も無げにヒューが理解し認識していた事に、全てを見られ
ていたからこそ嫌悪を向けられていたのかと心が抉られた。
 どこまで知られているのか分からない事にネイサンは不安を感じ、生唾を飲み込んで冷や汗
が顔から流れた。
「この状況で鳩が豆鉄砲を喰らった様な間抜けなツラをして俺を見るな。お前が毎朝、謝
りながらも俺の寝覚めを掠め取っているくらい思いつめた恋情を抱いている事なんて知っ
ている」
「人が悪いな。いつから知っていた?」
――あれだけ長い間、朝から唇だけとは言え求めたんだ。寝ていても気付かない訳ないじ
ゃないか……我慢していたのか。
 高ぶった感情を抑えるためとは言え、ネイサンは自分が行った所業を思い出し今度は一気に
顔面が紅潮した。

169Awake 14話(14/18):2013/12/19(木) 03:19:35
その様子を見て、ヒューは軽口を叩いた自分の言葉が彼の挙動を変化させている事に気付き、
意地悪が過ぎたかと内容を濁して言葉を続けた。
「……さあな、だが、お前がその恋情と思慕を言う相手は違うのではないか?」
「は?」
「その感情と言葉は俺ではなく生きて親父に言ってくれ。何故俺なんだ」
 それから息をのみ、一呼吸置いてからやっと、長年の疑問をヒューは声を出して尋ねる事が
出来た。
それに対し、何故そのような事を考えるのか意味が取れないネイサンは、逆に自分はヒューにそ
う言った感情を抱かせるほどモーリスに接触していたのかと、混乱して彼に聞き返した。
「何……だと? 俺は! お前しか見ていなかったのに。どうしてそこで師匠が出てくる
んだ!?」
「だけど、お前は毎日『ごめん』と謝ってから……」
「謝っていたのはお前と師匠を巻き込んでしまう後ろめたさがあったからだ。それ以外に
理由は無い」
「そうだったのか? 親父の依代としてではなく俺自身を見ていてくれただと?」
 ヒューはその言葉を本人の口から直接聞くまで懐疑的な感情で、絞り出すようなネイサンの告白
を聞いていたが、ネイサンが感情を顕わにし、見据えるように人と対峙する様子を見せた事で
本気なのだと認識した。
「人を依代にするほど俺は人でなしじゃない。何故そんな風に思ったんだ?」
「俺は自身の人格と精神に自信が無かった。人は能力と実績だけで対面している人間の価
値を判断する。自ずとそのように振舞って来ただけで、それを差し引けば俺には何も残っ
ていない事は自覚していたから誰も人格など愛してくれる人間はいないと、心の奥で思っ
ていた」
 同時に自分に向けられた純粋な愛情を受けどう返していいのか、ヒューは正直困っていた。
だが、困惑した表情を見たネイサンは、自分の行動を知られている以上に歪んだ形でその恋情
を認識されてしまっていたかと思うと、ふつふつとやり場のない腹立たしさを覚えて、一
気に自分の想いを彼に対してまくし立てた。

170Awake 14話(15/18):2013/12/19(木) 03:20:21
「だから俺の想いをお前自身に向けたものじゃないと判断した……? ふざけるな……」
「ネイサン……?」
「十年前のあの日、カルパチアの麓でお前が俺のために泣いてくれた優しさは忘れない!
修行中、そして戦闘になった時、死にそうに怯えている俺に、いつも手を差し伸べてくれ
たお前の安堵した貌は本物だった! そんなに自分を卑下しないでくれ。必要以上に虚勢
を張らないでくれ」
 もっとも殆どの他人には、ヒューが自分自身を卑下しているとは到底思われないだろうが、
己の能力に恃み、誇示し続けるのはまさしく他者の評価を懼れ、自身を否定されたくない
と思っている者の証左であると、ネイサンにとっては解っていた事であった。
 しかしそれはヒューの本来の人格さえも覆い隠してしまうほど、周りの期待が幼い身を徐々
に蝕んでいった結果によるもので、やがて己の行動規範すらも他人の目から見て違和感が
無いかどうかで判断する様になって行く過程を、ネイサンは十年間共に過ごした事で何度も見
てきた。
 だからこそ自分よりも優っていても守りたい、必要とあれば諫めてでも援けたいと思う
ようになったのを、言葉を紡ぐごとに改めて感じていった。
「俺がお前の傍にずっといるから。外に向けて虚勢を張るんだったら……いつでも聞くか
ら」
「お前、それは友情の中で考えても良いんじゃないのか? 何も恋情が介入するものでは
無かろうに、同性だぞ? 死刑が怖くないのか?」
「駄目なんだ、何度もそれは考えた。だけど俺は他人には見せない俺にだけ見せるお前の
姿が愛しい。独り占めしたい。お前と生きていく時間が長ければ長いほど、お前の痛みが
深まれば深まるほど救われた立場なのに護りたいんだ、欲しくなるんだ」
 渇望した。狂おしいほど渇望し手に入れたいと何度も願った。自分でも驚くほど言葉を
詰まらせず言えた事にネイサンは、目の前の相手がどのような表情を見せようと長年の苦衷を
込めて切々と言葉を重ねた。
「それに、独占したいなんて感情のどこに友情が介入するように見えるんだ? 確かに俺
は常にお前との間に対等で理性のある関係を持ちたいと思っているけど、それだけじゃ済
まないんだ俺にとってのお前という存在は」

171Awake 14話(16/18):2013/12/19(木) 03:21:48
――城内で見せられた幻惑こそ、自分自身の欲望だと改めて気づかされた。どう足掻いて
も俺はお前に恋情を抱いているだけじゃなく、明確な性愛をも抱いていることを。

「気持ち悪いと、下種だと罵ってくれてもいい。だけど、これ以上俺はお前に自分の気持
ちを隠したくない。最後まで……聞いてくれてありがとう」
 
――最後までか。ネイサン……死ぬ気か? 
「そのまま儀式の間へ行くのか?」
「?」
「あの扉は呪術だけで封印されているのでなく、物理的にも封印されている。だから鍵は
存在する。奥の扉に黄金色の鍵が置いてある。行け。俺に構うな」
 ヒューは傷ついた自分を心配して、動けるようになるまで待っているような風情がネイサンの態
度に見えたので、その感情は嬉しいが敢えて念を押すように、傷ついているのは自分だけ
ではないと認識させるためモーリスの名前を出した。
「親父を…師匠の手助けをしてくれ。頼んだぞ。」
「分かった。」
 そう言って、ヒューに背を向けゆっくりと宝物庫へ歩き出すネイサンは振り向き、全てのわだか
まりが消えた静かな笑顔をもって彼を見た。

「答えはまだいらない。だから、今はそこにいろよ! 一緒に生きて城から出よう! も
ちろん全員で!」
「……ああ」
――そうは言うが、足手纏いの俺を連れて敵と対峙しながら移動できるほどお前には余裕
など無いはずだ。甘いな。
 ネイサンが儀式の間に通じる鍵を取りに宝物庫へ入った後、ヒューはどう考えても戦力として役
に立たない自分の身を彼の前から消さなければ、意地でも行動を共にしたいとネイサンが願う
事で結果、共倒れになる虞があると予想し、すぐに展望閣から駆け出した。
 それから、ある事の準備をするために、傷だらけの身体を庇いつつワープゲートへと急
いだ。

172Awake 14話(17/18):2013/12/19(木) 03:23:43
「戦って判った。ネイサン……お前は人の身で在りながら魔性の力を己の物にして、くっ……」
 断裂しかけた足を庇っているせいで真っ直ぐ走る事が出来ずに、時々壁の方によろけな
がら、だが今までとは違い自分を愛してくれる者を助けるため、そして自分以外の人間を
心から救いたいという明確な目的を持って、一歩、また一歩を迷い無く己を信じて踏み出
していた。
「いや、向かってくる力そのものを受け流し自壊させる術を、いつの間にか習得出来てい
たんだな」
――人の世界ならいざ知らず、魔性の跋扈する世界では人の力に毛が生えた程度の力で感
情の赴くままに立ち向かう事自体が愚かだ。
俺は知らない世界で卑小な感情を以って粋がっていただけに過ぎん。
「だが、後悔している暇は無い。俺は俺にしか出来ない事であいつを、ネイサンを援ける」
――そして……生きてあいつの想いに今度は俺が応える。
親父以外に兄弟でも無いのに俺の我儘も暴言も全て包み込んで、あんなに成った俺を殺さ
ずに目覚めさせたあいつの想いを無駄にしないためにも、今ここでくたばる訳には……
 胸に手を当てヒューは切にネイサンの身を案じ、微かに笑いながら一瞬立ち止まった。
「それに、今は俺の事など気にせずに早く親父の許へ向かってくれ」
 だが、その隙を突いてダークアーマーが彼の背中に向けて黒い煙を剣から発した。
 察知した彼は振り向き様に黒煙を躱わして、ダークアーマーの腹部の鉄帷子に剣を素早
く刺し貫くと、思考を中断された苛立ちをぶつけるかのように、その身体を足蹴にして剣
を引き抜いた。
「退け! 塵に還れ!」
 そして、迫りくる魔物を蹴散らしワープゲートの間へ辿り着いたヒューは、天井を仰ぎ見な
がら自嘲した。
「親父……あんたの目は慧眼だったよ。何時ぞやは不見識だと散々詰ったが、その馬鹿で
蒙昧な暴言を吐き必死に諭そうとした気持を汲み取れなかった俺を、あんたは赦してくれ
るだろうか?」
 言い終わった後、穏やかな顔でワープゲートの光の水面に指先から浸し、そのまま己の
全身を委ねるように決戦の場所、全ての始まりの地へと続く凱旋回廊へ向かうため、ヒューは
光の渦の中へ呑まれていった。

173Awake 14話(18/18):2013/12/19(木) 03:24:34
ヒューの存在を背に扉を開けたネイサンは扉を閉めると急に足が震えてきた。
「言った……とうとう言ってしまった」
――戦闘中に陥る不安感から言ってしまったのだろうか? 死を覚悟した状況から吐露し
た言質か。いや、この場合は遺言といった方が正しいか。
「俺は卑怯者だ。もし俺が死んでヒューが生き残ったら、あいつの心に楔を打ったまま逃げて
しまう事になる……これでいよいよ持って生き抜かないといけなくなった」
――師匠、申し訳ありません。あなたに育てられた恩を、とうとう仇で返してしまう事を
行いました。

 ネイサンは軽く頭を垂れると両眼を細め眉根をひそめて、最後の宝物である黄金色の複雑な
形をしている鍵を見た。
 手に取ってみて自分の掌に納まらないくらいの長さと重さがあった。そのさまは一人の
人間の生命と人々の命運を握るには軽過ぎるかも知れないが、自分の想いと自分と共に過
ごしてくれた人々の事を想いながら強く握りしめると、愛する者が待っているであろう空
間に足を踏み入れた。
「待たせたな、ヒュー。あれ?」
 広間に彼の者の姿は見えなかった。最後の戦いに不安を感じていたものの、一緒に脱出
できると半ば安堵と嬉しさを噛み締めていた後だったのでネイサンは落胆し、小声で呟いた。
「おい、どこへ行った?」
――くそっ! あんな身体で人の手を借りずに動き回るなんて死ぬ気か? もし死んだら、
俺は何のためにお前と戦って傷を負わせてまで正気に戻したんだ!?
「師匠……ヒューを死なせてしまったら俺は、あなたを助けた後に何と言っていいか分からな
い。だけど、もう直ぐです。とにかく、それまで正気を保っていて下さい! 師匠!」
 鍵を握り、歯を食いしばると、そのまま儀式の間を目指しネイサンは駆けだした。

174Awake 15話(1/14):2013/12/20(金) 23:10:52
――師匠!

「はっ」
――幻聴か……今は何時だろうか? 何時間も術で身体を拘束されているから既に感覚が
痺れてきている。
 このままでは身体を傷付けられなくとも寒さも相まって身体全体が壊死してしまう。若
い頃ならいざ知らず、年老いたこの身体にはかなりの拷問だ。
 覚醒したモーリスはドラキュラが眺めていた水晶球をぼやけた両眼で知覚し、少しの間目を向け
ると、それに気付いたドラキュラがまだ魂が肉体にあり、精神が消失してなかったモーリスの存在
に不快を感じ、皮肉を放った。
「気が付いたか? 貴様が無様に伸びて無ければ面白いものが見物出来たろうに……」
「……」
「如何在っても我と言葉を交わす気には為れぬか、残念な事だ、ボールドウィン。その点、貴様
の息子は我に対して友好的で在った」
――言葉を交わしたのか……ヒュー。何と愚かな事を。我等はどうあっても彼奴らのような弄
言する輩に口では克てぬと言うのに。
「貴様の息子が我と契約し、貴様が後継者と目したガキの父親と同じ状況に陥った様は見
物だった。あの時の操り人形と同じく人の狂気と言う物を、存分無く我に見せてくれた良
い玩具だった」
――ヒューよ……ネイサンの父親と同じ道を辿ったか。血気に逸った感情を利用されドラキュラと対峙
したその場で魔手に堕ち、一瞬前には共に戦っていた夫人を己が剣で切り刻んだあの男の
ように。
吸血され、錯乱したグレーブスを救うためには術者である真祖を塵に還すしか方法は無い。
無論、魔力だけで非力な彼女がグレーブスの攻撃を防げるはずもなく、儂もその間、ドラキュラの
攻撃を受け闘い、彼女を助ける事が出来なかった。
躊躇無く夫人を屠り尽くした後、儂に刃を向けるグレーブスの容赦無い攻撃を受け、何度も攻
撃を躱わすために仕方なく突進して来る彼の胸部を鉄靴で蹴り飛ばしながら防いでいた。
儂は、あの二人を助けることが出来なかった。心を最後まで救う事が叶わなかった。

175Awake 15話(2/14):2013/12/20(金) 23:12:15
「親父。より強い力を求めて何が悪い。俺は親父のように仲間を己の力不足で死なせたく
は無い!」

力……退魔の能力は遥かにグレーブスが儂より上回っていた。そして、ヒューより高い矜持を有
し他者を見下すことにかけては、ヒューなど足元にも及ばないほど苛烈だった。
その彼が魔に堕した時、儂に吐いた言葉は未だに忘れる事は出来ない。

「グレーブス! 止めてくれ! お前……何という事を! 彼女はお前のために、お前の事を
常に思ってどれだけその身を焦がしていたと思っている!? その彼女をお前は……グァ
ッ!俺にまで剣を向けるのか!?」
「……ボールドウィン。貴様はその惰弱な憐憫の情を以って、どうやって幾人の者達を心から救
えることが出来た? 俺は力を誇示して言葉を尽くしても大勢の人間を助けても誰も……
俺に心を許してくれなかった!」
 残忍な目付きでグレーブスは無残な姿で息絶えている夫人を一瞥し、まなじりに憎悪を醸し
出した皺を作りその視線をモーリスに向け微かに笑いながら言葉を続けた。
「……そこに転がっているその女も同様だ。俺の妻で俺の血を継ぐ息子もあるのに……そ
の女が貴様にだけは心から微笑んで俺を嘲笑う。だから消してやった!」

「誰もが貴様に対して心からの賞賛を与える。じゃあ俺は、俺は一体何のために無力な衆
愚共を救い続けているんだ!?」

――衆愚!? そんな事を思っていたら心を開く者も開く訳が無い。
当たり前じゃないか、同じ人間同士言葉を尽くさずとも感覚で判る。
「グレーブス……お前のその高すぎる矜持が己の身を焼き、己の心を自分自身の狂った陥穽に
嵌めて汚している事さえ気付かないのか……? 人の夫、人の父となっても己の事しか考
えられぬ者に真の賞賛を求める資格は無い!」
「言ったな貴様ぁああぁ――!!」
――実際、真の賞賛などというものは存在し得ない。それすらも感じる事が出来ないほど
不自由な心で生きていたのか……グレーブス……。

176Awake 15話(3/14):2013/12/20(金) 23:13:17
――冬の波間の様に美しい灰銀のウェーブを靡かせた彼女が、寂寥漂う灰青の瞳を持つ青
年の永久凍土とも呼べるくらいに硬い猜疑心を融かしたと思っていたのに。
それに俺は二人と出会う前から妻がいた。その俺が何を好き好んで姦通を犯さねばならん
のか。
彼女の想いすらもこの男は平気で踏み躙るほど、己が愛された事を理解せず受け入れられ
なかったのか……
 
 どうしようにも解決できない状況にモーリスは、吸血され術に堕ちたグレーブスを見て失望の念
を拭いきれず罵ろうとしたが、ふと先刻まで温かい血潮を巡らせ戦っていたグレーブス夫人の
無残な姿が視界に入った時、彼女がグレーブスに対してモーリスに吐露していた会話の内容が蘇っ
てきた。
 あたかも彼女が哀れな夫のように怒りに任せて術に堕ちそうになった、たった一人の僚
友を全力で護り尽くすかのごとく。
 
――「ボールドウィンさん。あの人の言った事を許してあげてね」
――「あの人が他人を傷つけ遠ざけるのは、自分自身が大っ嫌いだからよ。でも自分自身
の所為じゃないのにずっと否定されてきたんだから、自分を守るためには仕方の無い事か
も知れない」
――「私も彼やあなたに会うまでそうだったんだから、言う資格は無いかもしれないけど、
自分の半身の様に思えてならないの。だから今まで大事にしなかった自分自身の心を繋ぎ
合わせるように愛しみたいから、あの人の傍に居るの。身勝手かしら?」
――「不器用だけど最近じゃ顔を赤らめながら花をくれたりするの。でもこの前は……う
ふふっ、ずっと茎を握り締めていたせいで花がクタクタになったのに気付くと、いつもの
調子で勝手に怒りはじめて勝手に悄気返っているの」

177Awake 15話(4/14):2013/12/20(金) 23:13:55
――「おい! どうやったら泣き止むんだ? 何か苦しそうだぞ? 痛いのか? あ? 
腹減ったのか?」
――「あらあら、どうあやして良いか分からないのね。貸して。お父さんが慌てたらます
ます不安になるわよ」
――「参ったな……お前には敵わないよ」
――「当然よ。今は私の手元にあるけど、いつかはあなたが全てを教えることになるのよ。
それまでは私の領分であって欲しいわ」

――そうだ! グレーブスは出会った頃とは違って彼女を心から愛し、息子のネイサンを慈しむ穏
やかな目で見ることが出来るほどまで人としての温かさが快復してきたのだ。
以前はそうだったとしても現在は違う。過去は過去だ。
しかし、覆い隠されたとはいえ本人の通ってきた道でもある、その欠片が一片たりとも残
っていないことなどあろうものか。
それを本人が望まぬとしても増幅させれば獣性が滲み出すのか!? 何と非道な!

「ドラキュラ……貴様だけは許さない。心の隅に眠る切片の記憶と感情を己の愉しみの為だけ
に弄り回して惑わせた貴様の罪は、煉獄に堕ちても漱がれる事は叶わぬと思え!!」
 モーリスは歯を剥き出し、さながら狂犬のように己を屠ろうと待ち構えている血塗れの狂戦
士に――それも最も愛する者の血を浴びた外道と成り果てた僚友の姿を見やり、声になら
ぬ叫びを挙げて術者であるドラキュラに幾度と無く不死者を屠った聖鞭を向けた。
 そして、度重なる疲労で充血した目から血涙のような濃い涙を流し、くぐもった声を出
しながら徐々に悲しみを帯びた唸り声を上げると、強大な異種の魔性に鞭を鋭く振るい挙
げた。
「何故己を害する者の為に涙を流す? 貴様自身の状況を考えればそんな余裕はあるまい
に。ククク……望むも望まぬも人の皮を被ったその狂戦士は貴様を消し去る迄、ありとあ
らゆる手段を駆使して屠る悦びを求め続けるぞ! そぉら如何した! 逃げろ、逃げろ!
無様に!クハハハハッ! 愉快だっ!」

178Awake 15話(5/14):2013/12/20(金) 23:14:33
「ボールドウィン! 力の覇道の為に礎となれ! お前の力も合わされば誰も俺に冷笑をしない!
更なる力を! だから死ねぇええぇ――」
「来るな! グレーブス――! 俺はこの手でお前を塵に還したくない! 止めろ――」
 だが、いくら大声で制止を促してもモーリスを攻撃する切っ先に微塵の躊躇も見られないグレ
ーブスの猛攻は、モーリスが鞭を振いグレーブスの身体に牽制程度に中てるなど、全ての力を防御に
注いでも、モーリスの正面ほとんどの致命傷となる部位の薄皮に血が滲むぐらい的確に捉えた。     
 そのため相手を殺害せずに解呪したいと考えていた自分の甘さに怒りを覚えると共に、救
う道を断たねばならない苦衷が心の中に溢れていた。
 現に防御するため聖鞭を振うも既にグレーブスは灰青の眸から濁った灼眼――吸血された兆
候が出始めていた。その証拠に鞭が彼の体を掠る毎に硝煙の様な煙と回復しない傷が徐々
に増えていったからだ。
 これでは剣技と膂力が勝っていても肉体の欠損により崩壊するのは明白である。モーリスがグ
レーブスを屠るのは時間の問題になってきた。
――肉体が崩壊しようとも、それでも立ち向かう狂気。俺は彼の心を救うことはできない
のか? なぜそんな笑みを湛え、快哉しながら俺を殺そうとする?
ラテン語聖句……駄目だろう、既に傷口が灰と化している。魔性の者になりつつある証し
だ。
と言って真祖に近づくとしても彼の攻撃を無視して突撃したら両者に嬲られる。

 モーリスの胸中を知ってか知らずか、玉座より冷笑を眼下に向け両者の対決を真祖は眺めて
いた。
 彼が防戦一方で苦しみ、グレーブスが残忍な笑みを向けながら血液が灰になっても攻撃し続
ける異常さに段々面白みを感じ始めたのか、ふてぶてしく両足を組み玉座の肘掛にもたれ
て両者の戦いを剣闘士の試合のごとく観戦し始めた。
「ほう……疾風の如き動きと其れとは反対に隙の無い剣捌きだ。此処まで均整が取れて居
るのは一種の芸術でも在る」

179Awake 15話(6/14):2013/12/20(金) 23:16:10
 しかも独りごち、批評まで行う始末。盤上の駒を弄んでいる感が見受けられた。モーリスの
耳朶に心ない科白が掠めると、怒りに震え落涙した。
――貴様の様な外道のためにこれ以上人々の命を落とさせてたまるか! 
 それからモーリスは己の置かれた立場に改めて絶望し、グレーブスと対峙しつつも今一度、許し
を乞うため夫人を見た。
「……済まない。俺には友を殺す事でしかこの世を救えないようだ。許してくれ」
 小声で呟いた瞬時、グレーブスが剣をつがえモーリスに突進して来た所を聖鞭で彼の剣を絡めと
り攻撃する手段を失わせ、同時に対峙していたグレーブスの許から薄笑いを浮かべ観戦いてい
た真祖の玉座へ駆けあがった。
 当然、血肉を求めていたグレーブスが攻撃の手を緩めるはずもなく、素手でモーリスの体に飛び
掛かって首筋を噛み切ろうとしたが、その気配にモーリスは彼の胸部に聖鞭を振り下ろし、玉
座に向かう階段から叩き落とした。
 その一撃でグレーブスの行動が停止した。血と灰が混ざった奇妙な光景が眼下に広がったが、
微かに動いていたため死んではいないと確信したモーリスは、真祖と雌雄を決するため今度こ
そ一対一で対峙し闘争した――

「……終わった、やっと終わった……」
 モーリスは真祖の消滅を確認してから糸が切れた様にその場にへたり込もうとしたとき、空
間全体に振動が走った。
「城の崩壊は案外早かったか」
 心を奮い立たせ、ぐらつく足元をものともせずグレーブスを抱えて脱出しようと試みた。グ
レーブスを支えようと自分の肩に彼の腕を回しながら、玉座下の階段で息絶えているグレーブス
夫人を見た。
――今、グレーブスの体内から流れている血液に灰は見当たらない。多分、グレーブスの魂は人
の世に留まったと思う。安心して君は一足先に眠っていてくれ。父と子と聖霊の名におい
て。アーメン……
 物言わぬ夫人の躯に別れを告げ、モーリスは意識が飛んだグレーブスを支えながら城外へと脱出
するため、歩みを進めた。

180Awake 15話(7/14):2013/12/20(金) 23:17:07
 やがて、脱出直後に入り口が押し潰されると、暗闇の中に崩壊した城を復活しないだろ
うかと確認しながらモーリスは、正気に戻ったかどうかわからないグレーブスの傷ついた身体を抱
えて城外へと向かった。
 しばらくして焼ける臭いがした。振り向くと崩壊した城から燭蝋の火でも木材に燃え移
ったのだろう、小規模だが火の手が上がり空を朱に染めていた。
 グレーブスの重みを感じてまた彼の夫人の事を考えたが、無数の瓦礫にガラスの破片が飛散
し完膚なきまでに崩壊した城を見て、グレーブス夫人の遺体は瓦礫に埋もれて押し潰されてい
るだろうとモーリスは想像した。
 しかし、遺体の状態を確かめなければ村に戻って報告する際、ある程度損壊すべきかど
うか報告できなければパニックに陥った村人たちが自分達に何をするか分からない。   
 だから、一旦グレーブスを村へ置いた後、遺体を引き揚げようと考えた。
 崩壊しながらもうもうとあがり続けた土煙がある程度おさまり、城跡が現れ始めた時に
振り向くと遠目で確認できるくらい離れていたが彼女の遺体はすぐに見つける事が出来た。     
 悪魔城の天守閣跡にグレーブスが贈った指輪を嵌めた白い手が瓦礫から突き出ていた。
 モーリスはその状況に当初の目的を忘れてしまうほど動揺し、グレーブスを介抱しつつすぐさま
その場所に歩いていった。それから膝を付いてグレーブスの体を横向けにし、その場に寝かせ
ると夫人の手を取ってから彼女の名を呟いた。
 手はもちろん冷たく、瓦礫もある程度遺体に堆積していたので生き返る事は最早ないと
考えた。それよりも一刻も早くグレーブスを村に連れ帰ろうと彼のもとに向かった。すると、
背後で咳込む音が聞こえた。グレーブスの意識が戻ったのだ。
「ブバッ……ゴボッ……ケハッ……はぁ……はぁ、く……る、し……い……あぁ、ボールドウ
ィン……俺は……? それに彼女は?」
――見たら忘れられないくらい酷い有様で息絶えていた彼女の状態を忘れたと言うのか?
記憶が混濁しているのか。無理もない、お前の心と体はほぼ死地に立っていたのだから、
おかしくなっても……それに、俺もどうかなりそうなくらい神経が張り詰めている。
 意識を失っていたグレーブスは覚醒すると、いきなり大量に喀血して口角からとめどなく血
を流した。

181Awake 15話(8/14):2013/12/20(金) 23:20:09
それから口中に溜まった血液がグレーブスの喉頭に浸入し、肺腑からの出血も相まって喉頭
に流れて詰まり呼吸が出来なくなり、やむなく意識が遠退くのを防いだと言った方が正し
いだろうか、いずれにしろ瀕死の重傷を負ったグレーブスが文字通り身を引き裂かれた苦痛を
伴う、ひと時の生を噛みしめる最後の機会を得ることが出来た。
 もっとも、その生を安寧な状態で享受する事はグレーブスには許されなかったが。
 モーリスは息も絶え絶えの姿で自分に向かって血塗れの手を差し出すグレーブスを見て、その手
を両手で強く握ると、生きる希望を持たせるために嘘を吐こうかどうか迷ったが、もし彼
女の遺体に浄化の裁定が下れば、グレーブスにとって最大の辱めを受けるだろうと予想した。
 それにショックは小刻みに与えられた方がまだましだと思い、だが、簡潔に真実を述べ
るだけに留めようと努めた。
「死んだ」
 と一言だけ重く。グレーブスは一瞬息を呑むように、たった数文字のこの世にあるもっとも
残酷であろう言葉を受け止めた。
「村に行こう。グレーブス」
「そう……だったな。愚かな俺が、愚かな感情を以って殺してしまったんだったな。全く
持って救い難いクソ野郎だよ、俺は」
 モーリスはこれ以上の時間の経過と会話はグレーブスの命を縮めると判断し、外に繋いで置いた
馬に乗せるため背中を向け、抱え上げようと体を背けた。だが、
「目を背けるな、あんたはこんな……時でも言葉一つ掛けないんだな」
「違う。無意味な問答を続けるなら一刻も早く村へ急いだほうがいいと判断したからだ。
泥のように眠り、泣くのはここでする事ではない」 
 モーリス自身、酷い言葉を吐いていると心を痛めたが、言葉をかけると彼自身も心が折れそ
うになるので苦悶の表情を浮かべて己の心情を遮った。
「俺はここで死ぬ。もっとも彼女は天国ヘ……俺は真祖と共に煉獄へ直行だが」
「何を気弱な……馬鹿を言っている暇があったら俺の背に身体を預けろ」

182Awake 15話(9/14):2013/12/20(金) 23:21:11
「フッ……胸骨の破片が皮膚を突き破っているこの姿を見てそう抜かすのなら、よっぽど
の阿呆だな。あんた」
 グレーブスが自嘲するように軽く笑うと、血まみれの自身のコートを剥ぎシャツをおもむろ
にたくし上げた。モーリスは振り返ると近くに燃えている手頃な角材を松明にし、グレーブスの上
半身付近に翳した。
 微かな明かりによってその無残な姿を確認すると、吐き気を催すのに数秒もかからなか
った。いや、その状態で話しながら表情を変えることの出来る姿に、恐怖と戦慄さえ覚え
たのが最大の理由かもしれない。
「うっ……俺のせいだ。俺が……お前を打擲し階段から叩き落としたから……」
「仕方ねぇよ。俺相手に手を抜いたらあんたは今頃この世にはいねぇ。自惚れんなよ。解
ったなら俺に末期の言い訳でも吐かせてくれ」
 グレーブスは眉根と目頭に悲愁の漂う無数の皺を寄せながらも、喀血した血液を流しつつ口
角を緩ませ微笑した。その様は人としての生を全うするには歪な姿であったが、痛みに対
してグレーブスが尋常ならざる耐久力の持ち主であった事を改めてモーリスは思い知った。
 本人の意思や、体の状態から、助かる見込みが全くないと判断したモーリスはグレーブスを抱き
かかえ、彼の夫人の所まで連れて行くと少しの間横に寝かせた。
 それから、残された力で瓦礫を取り除き夫人の遺体の8割くらいを引き揚げた。8割と言
うのは膝から下は無残にも瓦礫によって潰され、見るも堪えないほど肉片が細切れになり
消失していたからだ。
 しかし上半身はグレーブスが切り刻んだ痕以外は、埃に塗れていたとは言えほぼ無傷と言っ
ていいほど綺麗な姿で残っていた。
 既に立って歩く事さえ叶わず、自らの力で座位を保てない状態まで弱ったグレーブスをその
まま冷たい地面に寝かせるのは可哀想だと思ったモーリスは、抱きかかえたままの態勢で地面
に腰を下ろした。
 グレーブスは夫人の姿を横目で確認すると、震えながら片手の指を絡ませてその手を取り、
少し握りしめた後、握力が失血で奪われたのか、すぐに力なく冷たくなった手を取り落と
した。

183Awake 15話(10/14):2013/12/20(金) 23:22:12
「ごめん。結局、君を幸せにするどころか俺は……君を殺しちまった。許さなくていい、
どうか、天国に行ったら俺の事なんて忘れて心穏やかに居てくれ。もう、力もしがらみも
全て、君を苦しめるものはないのだから……だから、口づけはしない。愛していても、俺
にはその資格がないから」

 それからグレーブスは天を仰いで嘆息し、死に逝く者として惜別の情を吐露し始めた。
 唯の人間であれば白目を剥き、喀血した血液が咽頭に逆流して呼吸もままならないが、
それでもすべて吐き出さないと安らかに逝けないと思ったのだろう。
「モーリス……。俺は力なんて要らなかった。もし出来得るなら平凡に生き、彼女に愛される
事に引け目を感じないで愛し、ネイサンを教え導きたかっ……ぐばっ……はぁはぁっ……普通
の家に生まれた俺だけに退魔の力があったせいで、家族共々奇異の目で見られバラバラに
なった……代々その能力を連綿と受け継ぎ、その状況を少なくとも一族だけが奇異としな
いあんたの環境が羨ましかった」
 彼は痛みに耐えつつ今度はモーリスの手を震えながら握り胸元に引き寄せると、荒い息を常
人の様に弾ませて苦痛に満ち引き攣った笑顔を見せたが、その眼には清々しい輝きが宿っ
ていた。
「同時に俺と同じ力を持つ者と出会えた事がどんなに嬉しかったか。そして心からこんな
俺を愛してくれる彼女も……オブッ……グフッ……同じ力を持っていた事にどれだけの運
命を感じたか……」
 そう言うと、グレーブスは再び夫人の手を取り、嵌めている指輪を確認するかのように彼女
の手に優しく触れた。そして、また咳込むと、大量に喀血し鮮血が大地に迸った。
「……ゼェゼェ……だが、この能力のせいでどこへ行っても風聞によって気味悪がられ、
まともな仕事を得ることさえ出来ず、食うに困って己が忌避している能力を嫌々ながら使
わざるを得なかった。だからその対価として……唯一無比の限りなき栄誉と賞賛が欲しか
った」
 モーリスは悔恨を口にした彼の淀みない言葉に、今まで過ごしてきた時間を思い返すと自然
と双眸から涙が溢れた。

184Awake 15話(11/14):2013/12/20(金) 23:26:36
「だけど、あんたや彼女と一緒に過ごした時間は、そんな葛藤や渇望をも忘れさせてくれ
る程とても幸福だった……僥倖を享けた自身が死ぬ事に未練は無い……心残りが無い訳で
はないが……その前に……」
 グレーブスは瞠目し、ぎこちなくモーリスに微笑みかけると、一筋の涙を流して血でむせながら
も明朗な声音で懇願した。
「ありがとうモーリス。最後に人の心を取り戻してくれて……それから、済まないがネイサンを頼
む。愚かな俺のように、力だけで孤独に生き抜く事の無いよう教え導いて……くれ」
「グレーブス!?」
「……」
 遺言を残したグレーブスは最後の言葉を紡いだ後、消え入る様に穏やかな相貌で逝った。そ
れでも温かい血が流れ続けていた。瞳孔を開いたまま絶命したグレーブスの遺体をモーリスはひし
と抱きしめ、次第に無念が込み上げると廃墟の真っただ中で咆哮した。
「……俺はお前達を助けられなかったんだ! 謝辞を言われる理由など無い――!」
 魂はこの世にない、もう二度と照れ隠しのつもりで捻くれた表情をして言葉を発する皮
肉屋の声を聞く事が出来ないのは分っている、分かっていたが、それでもいつも一緒に戦
ってきた仲間を一度に失った悔しさと悲しみは、すぐに拭い去る事など出来る筈もなかっ
た。
「起きてくれ! 目を……っ、覚ましてくれぇー! お前まで逝ったら誰があの子に能力
を引き出させる事が出来るんだ!?」
 モーリスは心ならずも力を求道しなければ己の精神の均衡が保てなかった僚友と、力を持ち
ながら共に生き、愚かなまでの抱擁を是とした僚友の妻の生き様に、言い様の無い空虚と
憐憫を以って生き残った己の道を思い、どの様な声を出して泣いているのかさえ分らない
くらい哭いた。
――こんな道を残された子供達に歩ませていいのか? 俺は……強制したくは無い。
だが、俺達のような力を持っている者がこの世にどれだけ居ると思っている? 人の力だ
けで解決できない事態を見過ごして一時の安寧を得たとしても、後悔だけが残るだろう。
グレーブスは力など要らないと言った。

185Awake 15話(12/14):2013/12/20(金) 23:29:29
「ならば力を持つ意味を模索し己の物として体得するのが途では無いのか?」
――子供達……ヒューなどは既に一族の中で成人した者でも負けている者すら居るくらい、退
魔の能力と状況判断の的確さを持っている。
しかし、本当に諸手を挙げて喜んでいいのか? グレーブスのように己が与えられた力を考え
ぬままに使い、自壊して行く道に陥るのではないか――? 
 
――案の定ヒューは嗣子として生きることのみに執着し、己が持ちし能力をあたかも息を吐く
ように存在する事が当然だと考えていた。
嗣子として生きるのも一つの道ではあろう。現に父は自分に誇りと嗣業に矜持を持つよう
儂が物心付いた頃より自身が死ぬまでずっと言い続けてきた。
それから言ったらヒューは嗣業には矜持を持っているだろう。だが彼自身に誇りと自我は微塵
も無い。あるのは他者に取り縋り己が何者かであることを他者の目から見て確認し、その
レールに乗って生きるだけの人形のような生だ。それも相手に対して優秀にこなす人形だ。
それが故に取り返しの付かない事になるまで見抜けなかった。だがそれを儂が指摘したと
してもその望む通りに振舞うだろう。それでは駄目だ。また自分の足で立つ事に遠のいて
しまう。
だからあえて突き放した。己の道に選択を与えるために、思考の結果、職業を放棄しても
いいように。そして職業として選んだ場合は上に立つだけでなく、ネイサンが負ってきた役割
も卒無くこなせる様になってもらいたかったから。
いや、儂自身が同じ職業を選択した我が子の死に様を見たくなかっただけかもしれない。
幸運にも遺児のネイサンは儂と性質が同じだった様なので、あらかたグレーブスの遺言を履行でき
たみたいだが、ヒューの根底は儂と同じ性質を持ちながらも、攻撃の性質は力を飽く事無く欲
したグレーブスと同じであった――

186Awake 15話(13/14):2013/12/20(金) 23:30:03
覚醒しても一言も発せず、自分を見ている生贄に神経を逆なでられた真祖は、苛立ちを
顕わにした。
「忌々しい奴だ、貴様は」
「……」
「我の復活の妨げを一度ならず二度までも人間風情が見る事が出来ようとは。何か言え」
 真祖は自分に一度打ち勝った人間が無関心なさまに不快を表し、怒りのままに片手で首
を絞めた。
 一方、対話する気など一切なかったモーリスだったが、首の関節がミシミシと音を立てられ
るくらい人の膂力では太刀打ちできない力で首を締め上げられ、痛みを与えられた事に恐
怖を感じて、半ば懇願するかのように質問を絞り出した。
「ウグッ……放せっ、はぁっ、カハッ……何故、貴様は己の意思にかかわらず復活する事
を是とし、受け入れる?」
「誹謗するか命乞いするかと思えば質問を投げ掛けるとは無作法な。此れだから下賎の民
は躾が成って無いと言われるのだ。だが、この城に来てから初めて貴様が我に興味を向け
たのに免じて許してやる」
 口角を歪ませニヤリと笑い絞める力を緩めると今度は、モーリスの顎を指で掴みグイと面前
に近づけ呪詛を吐くかのように、だが、淀まぬ口調で彼に答えた。
「我にはもう現世に於いて領土と、それに付随する臣民と呼べる者は持ち合せて居らぬ。
しかし魔たる彼等、闇を求める人間はその我を心から要求し、我の願いと憎悪を叶えよう
としてくれる。我の為に動いてくれる新たな臣民の求めに応えるのは領主たる者の務めだ
からだ」
――愚答だな。死人と認識しているのにも拘らず、この世にでしゃばる愚を冒すほど未練
たらしい生き様は無い。
「……これ以上儂が貴様と問答する理由はないな」
「……ほう、今ので我の総てが解ったとでも?」

187Awake 15話(14/14):2013/12/20(金) 23:31:53
「貴様の知った事ではない」
「尊大で無礼な奴だ。感情と思考を己の胸中に秘め置いて、他人の問いに答えぬとは」
「……」
「また、沈黙するか。臆病も其処まで来れば寡黙や厳格と謂われるだろうな。だが、貴様
は十年前我を恐れて口も利けぬ程、震えて居たでは無いか」
 実際は怒りに震えてモーリスはドラキュラと対峙していたが、その光景すらも相手を弄する糧と
なす浅ましさに、言葉には出さずとも心の中で色をなしてさまざまな言葉をもって中傷し
ていた。
「……」
「フン……まぁ良かろう。貴様と我の力の差は歴然として居るのは疑い様の無い事実。術
で拘束されて居る其の身で何を言うたとしても、我の復活の為の生贄と言う事には相違無
い」
「……」
――発言せず心で聖句を繰り返し、正気を保っている儂を簡単に贄として消費できるか?
いや、されて堪るか。グレーブス達が生命を賭してくれたおかげで生き残ったこの命を、最も
憎むべき相手に捧げて無為に失う事は、彼等から託された総ての未来を消し去ってしまう
事になる。今出来る事は儂が魔手に落ちない事、ただ一点のみだ。
 モーリスはドラキュラを鋭い眼光で睨みながら一言も発せず対峙する事に決めた。

188Awake 16話(1/11):2013/12/21(土) 06:28:59
「くっ……階段が途中で切れていて移動するにも往生する」
 ヒューはブツブツと不平をぼやきつつ痛む足を庇いながら、それなりに息急き切って駆け、
ネイサンより先に儀式の間へ辿り着いた。
――悔しいが俺がこの状態で戦うのは自殺行為と解りきっている、ならせめて邪魔者を排
除するくらいは出来るだろう。どこまで持つか判らないがネイサンと真祖の戦いに雑魚如きが
乱入して堪るか。
 彼は殆どのキリスト者が効力を認識できる原始キリスト教の印「☧」を、儀式の間に通
じる扉に聖水を浸した布で塗りつけた。
 効果はすぐに現れた。主を護ろうと突進してくる蝙蝠などがその扉に触れるたび消失し
ていったからだ。それを確かめた数分後、ネイサンが儀式の間へと駆けて来ると、その足音を
聞きつけヒューは心配させないよう儀式の間の扉周辺から姿を隠した。
 ネイサンは扉の印とその周辺に散乱している蝙蝠の血と肉片を見て、彼より早くヒューが来た
事が分かって目で姿を探したが「早く行け、親父をいや、師匠を助けてくれ…頼んだぞ」
とヒューが彼に膝を折り懇願したことが過ぎり、一瞬にして彼に対する深慮の念は消え失せた。

 ネイサンが儀式の間へと進んだ事を確認したヒューは「☧」の記された扉を開き、群がる蝙蝠
や下級の魔物の侵入を素早く遮断するため、スケルトンの腕が挟まっていようと躊躇無く
其の骨が粉砕される軋んだ音を発して力任せに扉を閉めた。
「頑張れよ、ネイサン。頼むから俺のように対峙したドラキュラの弄言と甘言に惑わされないでく
れ」
 だが、扉を閉める際にコウモリや有翼の魔物が一気に入り込んできた。物言わぬ彼らだ
が怒りの表情でヒュー目掛けて一斉に飛び掛かってきた。

189Awake 16話(2/11):2013/12/21(土) 06:30:08
「畜生! 大切な者を守るのに必死なのはお前らとて一緒か。ならばこの円陣の効力に耐
え、キリエからのミサ曲を最後までその姿を保ったまま聴き通せるかやってみろ! 砕け
散れっ! 何!?」
 咄嗟にヒューが退魔のための白い魔方陣を出現させると、一気に室内に入り込んだ魔物が
蒸発し跡形もなく焼失した。
「今頃力が戻るなぞ……フフ……ハハハ」
 消失し、床に白煙が薄く辺り一面に漂っている様子を見て、自分がいつも発現させてい
た力を取り戻したのを歓喜したと同時に、畏れを感じ体が震えてきた。
――おかしい、誰かのために動こうと思い始めたばかりなのに、何故このような事が起こ
ったんだ? カーミラが消失した上、洗脳が解けたから力を取り戻したのか?
「そうか、やっと棘が消えたか……だが、ネイサン相手に無様な戦い方をしたのは否定できな
いな」
 ヒューはふと儀式の間の上、モーリスが拘束されている部屋の辺りを見た。
「今なら解る。俺の状態がどうあってもお前を信じ意地を張らずに一緒に戦っていたのな
ら、カーミラなんぞに負ける事も時間を無駄にする事もなかったな、間違いなく」
 軽く笑いながら自嘲し、真祖が放つ濃厚な魔力が消えうせる時を待つ事にした。

ネイサンが最後であろう青白い扉の前へ来た時、背後で軋む音を響かせながら入口の扉が閉
まる音がした。
その音を聞き背後で彼が守ってくれているのに心安くなった。そして――
両親を殺した敵であり今まさに恩義ある育ての親を生贄として拘束し、その糧で世界を
力で支配し弱者を虐げんとする真祖ドラキュラを打ち倒して、封印するべく儀式の間の奥の扉
を粛々と開いた。

190Awake 16話(3/11):2013/12/21(土) 06:31:47
「師匠……!」
――ネイサン……一人か? やはりヒューは魔手に堕ちた後、死んでしまったのか。予想してい
た事とは言え辛い……我が子が自分より先に逝く不幸を味わうとは何たる試練か。
 モーリスは覚醒して初めて聞く、扉の開く音に希望と絶望の入り混じった、澱の溜る様な重
い感覚に心臓が早鐘を打ち始めた。

「よくここまで辿り着いたな、若僧。フッ。」
「師匠!」
 ネイサンはモーリスが柱に拘束され憔悴し、衰弱したのが判るほどぐったりとしている様を見て、
一気に逆上した。
「ちょうど良い。儀式にふさわしい時も訪れた。」
 その表情をドラキュラは嘲る様に含み笑いをしながら言葉を発した。それから口角を歪ませ
モーリスの方へ視線を投げかけた後、力の陥穽へと誘うマジックアイテムを全て付与したネイサン
を見て漲る力が溢れる姿を確認すると、その力を取り込みたいと欲した。
「貴様も我が血肉と化してやろう。」
「そうはさせるか! 師匠!大丈夫ですか、師匠!」
 己に向けられた侮蔑を意に介さずネイサンは叩きつける様に反発し、モーリスの身を案じた。
「うるわしき師弟愛か。だが誤魔化すな。」
すぐ縄を解くために近づこうとしたが、真祖の間合いに入ってしまう事に気付いたため、
歯噛みする様な感情を湧かせつつその場で真祖と対峙せざるを得なかった。
その姿を真祖は小馬鹿にし、願望を叶えるような口調で軽く彼の心を誘った。
「貴様も持っているはず。心の闇をな…。」
「なんだと!?」
「全ての上に立ちたい、手柄を独り占めしたい…。」
「!」
――またか、そんな甘言通りの事なんて俺は望んでいない。目の前の師匠を助け、お前を
倒したら終わりだ。

191Awake 16話(4/11):2013/12/21(土) 06:32:44
「…愛情を独占したい…仲間を蹴落としたいとは思わぬのか?」
「……」
「貴様の友人は思っていたぞ…。」
――確かに、ヒューはそうだったかも知れない。だけど、それは他人が口にしていい種類の
言葉じゃない。
「我はその闇を増幅し、力を与えてやったのだ。」
 大仰に声を抑揚させ、それをあたかも人の感情全てを読み取り、実現させる事が出来た
と言い放った真祖の力にネイサンの心は震え恐れたが、他者を虫や獣かの様に認識し、興味本
位で足や羽をもぐような残酷な子供と対峙しているようだった。
ただの魔物なら一笑に伏すだけだろうが、強大な魔力を有している真祖であれば殆どの
生物に対する生殺奪与の権を簡単に握れる状況を作り出せる事に、改めてこの眼前の敵は
この世のためにあってはならない存在だと激しく嫌悪した。
「貴様っ!!人の心をもて遊ぶとは!許さない!」
 内容に迎合や共感を一切覚えず、ネイサンの心の中は憤りだけが広がった。
愛する者を踏みにじり、弄び、その命を軽んじる魔王に鉄槌を与え、煉獄へ叩き落とさ
なければこの世は地獄と化す――若きハンターの双肩にかかった最終決戦はここに始まっ
た。

――師匠。この仇敵を煉獄に送り返したら、皆で生き延びた事を分かち合いましょう!
 そう心で宣言するや否や、真祖の体が光の柱に覆われ蝙蝠がその周りを纏った。刹那、
一瞬にしてネイサンの眼前に立ちはだかり手を翳すと蝙蝠が飛びだして来たが、その攻撃には
俊敏さと威圧が見られなかった。
 無数の蝙蝠は真祖を覆っているものの、召喚した蝙蝠の数は躱し、攻撃するだけで消滅
できるくらい少なかったからだ。
――今まで戦ってきた魔物や駒に比べると攻撃の質が劣っている。どう言う事だ?
 すると、いきなり電流を纏った大量の蝙蝠が不規則な軌道を描いて急襲して来た。

192Awake 16話(5/11):2013/12/21(土) 06:33:34
「今までの攻撃は、目晦ましだったのか!」
 とは言え、注意するのはその攻撃だけだと踏んだ。カーミラのように幻覚を出すでもなく、
攻撃範囲もダメージを与える場所を考えるまでもなく、ドラキュラの巨大な体に当てるだけで
傷口から灰が毀れるだけだった。
――これが仇敵の力なのか? 否、師匠はドラキュラとの戦いは一度きりではなかったと言っ
ていた。なら、真の姿を晒すまで攻撃の手を緩めなければいい。
 無駄なダメージを受けないよう機械的に淡々と遠隔攻撃を躱し、本体に当て続けた。
 そのような攻撃をされても真祖は真の力を発揮することなく、やがて、その場に崩れる
ように蹲った。
 倒したのかとネイサンは半信半疑で後ずさったが、眼光をぎらつかせていたため諦念を感じ
られなかった。不運にもその予測は的中した。
「力を…完全な力を…。」
 無数の攻撃を受け、灰を撒き散らしながら蹲ったドラキュラは、倒したかどうかも分からず
不安な貌で近づけないネイサンを見てふてぶてしくニヤリと微かに笑うと、自らの体を粉々に
崩壊させた瞬間、大きな光の柱を出現させ灰とともにその中に吸い込まれていった。
「なに!?」
「奴を追え!逃がしてはならん!グッ…。」
「!!」
ドラキュラが消えたと同時にそのゲートから今まで以上の魔力の放出を感じたネイサンは、ドラキ
ュラが人間の世界における外皮を生贄にして自分に有利なフィールドを開いたと、モーリスが怒
鳴るようにネイサンに指示をするまでもなく察知していた。
魔力の放出は戸外で待機していたヒューも感じ取り、開くかどうかは分からないが、身体
はある程度回復してきたのでネイサンをサポートするために儀式の間の深部に駆け出した。
もちろん、ドラキュラ自身はすでにそのフィールドにいなかったため、難なく青白い扉はヒュ
ーの侵入を受け入れた。

193Awake 16話(6/11):2013/12/21(土) 06:34:55
それから一気に室内に駆け込み、目視してから状況を把握すると、モーリスを拘束していた
縄を解き、すぐにヒューは彼の体を支えてネイサンの補佐より脱出の準備を図った。
「歩けるか? 親父」
「……ゆっくりとなら」
「それで十分だ。脱出しよう」
「師匠……」
「親父の事は俺に任せろ。お前は奴を追え!」
「…わかった。二人は先に脱出しててくれ。」
 足が縺れながらも歩行できるくらいの体力がモーリスに残っていると確認できたヒューは、こ
の状況において真祖と戦える体力が残っているネイサンに望みを託すような大声で声をかけた。
 声をかけられ、扉の外でいつでも踏み込めるよう待機していたヒューの存在にネイサンは安堵
を感じたが、二人がこの城を脱出する道中で接敵しても逃げられるのだろうかと考えると、
不安になって言葉を詰まらせた。
 だが逆に自分に自信を持った顔で微笑んでくれるヒューの強がりに縋る他はないと、静か
にその願いを聞いた。
「奴を倒し、必ず戻って来い。」
「ヒュー」
 ヒューは自分とモーリスの背中を見ながら扉まで不安そうに見つめているネイサンに、今は自分た
ちより真祖を打倒することが先決だと、それから、戻ってきた時には彼の恋情に対する答
えを出しておくつもりで待っていると、顔を赤らめながら言葉を紡いだ。
 ネイサンは何故顔を赤らめたかは意味が取れなかったものの、自分に対して笑顔を向け、優
しく「必ず戻って来い」言われたことに喜びを覚え、それから人の世の命運を託された事
で再び真祖と対峙する勇気が溢れてきた。

194Awake 16話(7/11):2013/12/21(土) 06:36:08
四肢に軋みを感じつつも城内から脱出するためにヒューはモーリスを支え、介抱しながら歩み
を進めていた。
 城内は拘束される前と変わらず、生温かい血の匂いを漂わせたような瘴気に包まれてい
たが、モーリスは死んだと思っていた息子が憔悴しきっていた自分のもとに駆けつけ、また共
に生きてこの世に留まれた事に安堵し、僥倖を感じていた。
 だが、少しでも気を抜けば意識が飛びそうなくらい魔力を吸い取られていた。しかし、
教会へ報告するまでは意識を保たなければならないと考えたモーリスは、自分が意識を失って
いる間、何があったのかを聞きながら状況の整理をしようと思った。
 ハンターは討伐後に宿泊している土地の教会へ赴き、大まかにだが報告しなければなら
ない以上、時間が許す限り情報を集め内容を纏めておく必要があった。
「ヒュー、お前はネイサンと一緒にいたのではなかったのか?」
 いきなりそう問われ、これから答える内容に自分の恥部を詳らかにせねばならない事を
察知したヒューは言葉を詰まらせながら、だが、簡潔に答えようと努めた。
「穴に落とされた後、足を挫いたネイサンに早く城から出るよう言ってから、そのまま置き去
りにして探索していた」
「初めから共闘していなかったのか……自ら戦力を縮小するとは、馬鹿な事を……」
「ああ、本当に馬鹿だったよ。それから、ヴァチカンの査問審議に掛けられたら一発で破
門される状態に陥った」
「やはり真祖の魔手に堕ちたのか……」
「……そうだ。しかもご丁寧に真祖のいる儀式の間の鍵の番人にさせられて。正気に戻し
たのがネイサンだった」
 軽くヒューが笑ったのを見てモーリスは少し様子が変わった事に気が付いた。正気になったと
言う事はネイサンに敗北したのは確実で、自分が一対一の戦闘においては格下と思っていた相
手に打ち負かされたのである。それをいい意味でも悪い意味でも自尊心の高いヒューが、他
人に対して客観的に話せる心理を見せたのが腑に落ちなかったからだ。

195Awake 16話(8/11):2013/12/21(土) 06:36:42
「しかし、膂力はお前の方が上だろう? それは儂も認めるところだが」
「いくら力があっても周りを把握できず使う道を間違えれば、砂上の楼閣のように水をぶ
っ掛けるだけで崩れてしまう物だ。あいつは少しの力で物が壊れるポイントを最適な方法
を用いて的確に突くって事を知っているから、俺の弱点をことごとく破壊できた」
「ほう」
 モーリスは心の中で感嘆した。ただ一度の敗北で人はここまで変るものかと。やがて、門を
出て城外へと続く吊り橋まで出た。そこから正面を向けば数刻前に血のような瘴気を漂わ
せる城を眺めた森が見えてきた。見据えた後、また二人は歩を進めた。
 その間、ヒューはモーリスの感嘆に満ち、目を丸くし驚いた顔を見て、逆に面食らった様な表
情をして報告を続けた。
「今回は特殊だったがネイサンが俺にラテン語聖句を掛けながら、俺の通常攻撃範囲すれすれ
で確実に打撃を与えていたから、俺の攻撃の本領である遠隔攻撃を殆ど喰らう事無く余裕
を持って倒す事が出来た」
「他人の存在に縋るのではなく認める事がお前に出来るとは……いやはや」
「何か言ったか?」
「いや、こっちを向いて見ろ。ふむ……犬歯は針のように尖ってはいないな」
「ふわっ! 止めてくれ」
 モーリスは橋を渡りきった後、森の入口で立ち止まり、眼前の息子の口中におもむろに指を
差し入れた。
 急に口腔内を観察された事にヒューは驚いたが、しばらくなすがままに任せていた。
「それから紛れも無く晴眼だ。ここ数ヶ月見たことの無かった澄み切った目だ。本当に解
呪された人間の目だ」
「……そう言われると何か面映いな」
「よく……生きて戻ってきた。生きていてくれてありがとう……ありが……とう」
「親……父?」

196Awake 16話(9/11):2013/12/21(土) 06:37:51
再度、生き延びられた喜びに目を潤ませながらヒューを抱きしめたモーリスだったが、安堵で半
分糸が切れたかのようにヒューの体から崩れ落ち、その場で腰を下ろした。ヒューもまた、つら
れて傾れ込むかのように一緒に座った。
「すまん、歩いているだけでも辛いらしい。横になってお前と話をしていいか?」
「ああ、それより目を閉じて寝ていたほうがいいぞ」
「それは出来ない、儂は見届けねばならんのだ。城が崩壊し、消滅する希望と恩寵を。だ
が陽光が時間になっても射さない時には希望は消え失せ、儂が命を賭してグレーブスの遺児
の骸を踏み越え力及ばずも戦うだろう」
「親父……言うな、それ以上言葉を続けないでくれ。それに何故俺を先兵として奴の元へ
向かわせない? 親子としての情で俺を見ているのならお門違いだ、それとも同業者とし
て俺はそんなに信用できないのか」
 数刻前に敵の術中に落ち、仲間に刃を向けた自分が言える筋合いではないと理解してい
たが、苦痛と疲労が見える年老いた父の姿を前にして、予測でも想像したくないと思い咄
嗟にヒューは口にした。
 モーリスはヒューが自分に言っている言葉と状況に矛盾を感じたのか段々顔を赤らめ、目を伏
せながら尻すぼみになって行くのを聞いて一瞬微かに笑ったものの、すぐに厳しい表情に
戻してから答えた。
「そうではない。少しでも力のある方に回復させる時間を持たせるのが優先だと思ったか
らだ。だが、儂やネイサンが力を与えるような事態になったらその時は……ヒュー、お前が我等を
彼奴に渡さぬよう生きていても聖剣で刺し貫け」
「……以前の俺なら『判っている』と躊躇なく受けただろう。だが人の情の温かさを思い
知った今の俺にその言質は酷過ぎる」
「だからこそ徒に軽々しく力に恃み、死に急ぐ言動を儂は忌避したのだ。己と他人の生命
を軽んずる事は力と自己の存続の諦念に他ならない」

197Awake 16話(10/11):2013/12/21(土) 06:38:34
モーリスはヒューの相貌が徐々に青ざめ、自分から目線を逸らして口もとを震わせながら怯え
ている様に気づいたものの、念を押す心持で言葉を続けた。
「それにそんな事態になったらお前とて……分かるな?」
「ああ。奴と対峙した後に身体の機能が奪われた場合、身体が貪られようとする事態に陥
る前に、意識があるうちに……自裁する」
「そうだ。しかしキリスト者として自ら命を絶つ事は背徳者、排教者の汚名を着る事にな
る。お前の魂は煉獄に入る事も、人の世界に留まる事も許されない辺土の住人となる」
 話をしている内に寂寥と悲しみが込み上げてきたヒューは、仰向けで空を見ながら生き延
びた息子と数刻後に起こる悲観的な予測を語る父親の胸に静かにうつ伏し、子供の様に滂
沱の涙を流しながら自分の途と宿命をこの時、初めて呪った。
「そんな事、死ぬほど聞かされたと言うのに……親父。俺、今死ぬ事とあんたやネイサンが居
なくなる話をしただけで震えているんだ。死んだらあんた達の魂と一緒に居る事は出来な
い。孤高ではない、一人ぼっちで存在と概念は永久に許されない者になってしまう恐怖に」
「泣け。今まで流せなかった涙を思う存分流せ。己の無力を自覚し改めて他者と交わり、
人間としての力を死ぬその時まで構築し続ける土壌と気概を心の中に準備出来るまで」
 表情の見えない息子の涙を感じながら、モーリスは咽び泣く嗚咽が途切れるまで彼の頭を撫
で続けた。その仕草にヒューはただ「済まなかった」と何度も嗚咽の合間に漏らした。
 己の不安定さゆえに、徒に死なせたくなかったモーリスの苦悩と決断を言葉ではなく肌で感
じ、余計な理屈や言い回しをされずとも、最も信頼している二人から愛されていた事に心
からの感謝と、謝罪をささげずには居られない心境になったからだ。
 モーリスはふと、頭を撫でながら唐突にヒューに尋ねた。
「お前、他の世界を見る気はあるか?」

 意外な言葉を投げかけられ、一瞬ヒューは戸惑って顔を上げると、己の立ち位置をもう一
度確認するかのように懐疑的な口調で聞き返した。

198Awake 16話(11/11):2013/12/21(土) 06:40:07
「おかしな事を言う。俺が今この職を放棄したとして何が出来る?」
「お前はまだ若い。職人の徒弟としては年が行き過ぎているとしても、どこに出しても恥
ずかしく無いくらいの教養は与えたつもりだ。幸いスコットランドの殆どの大学は宗派に
関係なく門戸が開かれている、お前さえ望めば……視野を広げるために学問の世界に身を
投じても遅すぎる事はあるまい」
 今度は自分が今まで考えた事すらなかった提案を出され、ヒューは少々面食らい自分の希
望とこれまでの経緯を踏まえた予測を絡め、意見を出した。
「止してくれ。もし、そうなったとしても今のままの俺では学資の無駄になるのは目に見
えている。身近な者からさえ学ぶ事を軽んじていた人間が、他人に混じって急に求道する
事など出来ようものか」
――嫌だ、まだあんたに教えてもらいたい事がいっぱいある。ネイサンからも学ばなければい
けない事がいっぱいある。教えを請う事は問題ない。だが、一緒に居るなら告解のような
俺への想いを答えにして導き出さないといけない。断るにしても熟考しなければ。それに、
もし承諾したとして受け入れられるのだろうか? 性愛も含めて。前よりは嫌悪を感じな
いのは事実だが、今は判らない。でも、状況が想いを決めるのは確実だろう。
「それに、折角伸ばした髪も切らないといけなくなる。ハイランドではともかく、大学へ
行くにはこれでは野蛮人の姿だからな」
 変化を望んでいない事を訴え、自嘲するように髪に触れた。
「だけど俺の処置は親父、あんたが決めてくれ。またしても己の所在を人に委ねる愚かさ
は百も承知だ。それに、職業としての適性だけは、俺の希望だけで判断できる物ではない
と思うから」
「……解った。ただし、儂の決定に従う事を約束できるか?」
「ああ」
 暗闇の中に浮かぶ月輪が風に流された黒い雲に覆われた。二人の会話は途切れ、奇跡と
恩寵を待った。

199Awake 17話(1/7):2013/12/22(日) 21:12:03
「何だ……この荒れ果てた世界は?」
光のゲートに入るとすぐさま伝承や、聖書に記されているような地獄と思しき異世界が
ネイサンの視界に広がった。
だが、伝聞と伝承と違うのはその大地に立ち辺りを見渡しても、死者の魂どころかそこ
に居るはずの悪魔すらいない奇怪な場所であったからだ。
何度も流され凝固した血の様に赤黒く、暗澹たる邪悪としか思えないような瘴気が空一
面を覆い、山も河もなく、どこまでも果てしなく続く荒漠たる大地がネイサンを出迎えた。
そして、その空には邪眼の様に二重の円を以って浮かぶ禍々しい紅月があった。
その周りをプロミネンスが覆い、輪郭となしていた。その他にも中空に浮かび、開眼し
た目玉が張り付いている岩はあったが、ただ、それだけがこの世界の変化だった。
やがて、その空間に巨大な悪魔が歪みながら出現した。
 儀式の間で対峙した血色の無い傲岸な貴族の出で立ちとは違い、全ての吸血鬼の真祖と
呼ぶに相応しい存在となったドラキュラである。
全身を鋼鉄のような筋肉で形成された外殻に覆われ、その肉体は鈍い紫紺に光り、巨大
な蝙蝠の羽を両翼にしてはためかせた姿は、まさに異界の魔物そのものであった。
「くくく……」
「!?」
「良い場所であろう? 此れが我の望み、我以外の存在が消滅した世界だ。実現すれば、
総ての者が死ぬ苦しみも、生きるが故の処々の煩わしさを味合わずに済む」
 その荒唐無稽な願望を耳にした瞬間、ネイサンは心の奥底から絶望と恐怖、そして虚無が去
来した。
――ただ、全ての存在を消すためだけに、この城にその糧となる生贄を誘い込み、弄んだ
と言うのか。馬鹿馬鹿しい! 人の心と体を玩具のように弄んだ外道に相応しく、存在の
消滅と言う鉄槌を打ちつけてやる!

200Awake 17話(2/7):2013/12/22(日) 21:13:41
「鬱陶しい御託を並べるな! だったら、その言質の通り貴様が消滅しろ!」
「……小僧! 来い! この期に及んで言など弄さん。貴様の力、我に見せよ!」
 ドラキュラが両腕を動かしその体が発光すると、瞬時に轟音が響きわたり空から無数の隕石
が落下して来た。
 天空から降り注いでくる無数の隕石はネイサンの体ぐらいの大きさがあった。その上、速度
を付けて落下してくる物体が地面に激突し、大地を抉った衝撃で広範囲にわたって砂埃が
立ち昇った。
――あんなものに当たって押し潰されたら身が持たないぞ!
 心中で震えながら攻撃の方法を探し逃げ回っていたが、目測を見誤り隕石に押し潰され
た。
 抉り込む前に後ろへ飛び退いたが、それでも内臓を圧迫され攻撃のタイミングをずらさ
れた。
――痛たた……っ。これほどまでの威力、何度も食らったら命が幾つあっても足りない。
皮膚が焼けている。歩くだけでヒリヒリする。
 隕石が回転して摩擦した後の傷を見て、真祖の力を垣間見た。
 しばらくすると隕石の落下はおさまったが、たった一度の攻撃を受けただけで、冷水を
浴びせたように冷や汗が出るくらい戦慄した。
――まずは体に当てないと話にならない。試しに遠隔攻撃でダメージを見てみよう。
 ネイサンはクロスをドラキュラの外殻に投げつけたが、ダメージを受け体液が迸るわけでも抵抗
する訳でもなく、むしろ攻撃が透過して投擲武器を無駄にする形となった。
「まるでカーミラみたいだ。本体のみに攻撃しないとダメージを受けないのか? でも、その
本体はどこだ?」
 そう考え、また全体を観察した。前に攻撃を受けた時には気づかなかったが、今度は両
肩が発光した後、腹部が裂け、その中から内臓が抉り出されるかのように禍々しく大きい
目玉が現れた。

201Awake 17話(3/7):2013/12/22(日) 21:14:45
そして、血走った眼球から身を切り裂くぐらいの威力を持つ光線が発現し、己を狙い大
地に無数の光が照射してきた。
 光線と言いっても、目で追えるほど範囲が狭かったので逃げおおせる事は出来たが、光
線が通過した後はその熱量で炎が発生し、何もない大地は劫火の如く燃え盛っていた。
――鋼の様な筋肉の中から現れたのが魔力を掌る本体か。直接間合いに入れば一蹴される
のは目に見える。さっきの様な攻撃を何度も食らうなんて耐えられない。
だけどあの攻撃は広範囲じゃない。隕石が来たら全力で逃げおおせるとして問題は、どこ
で攻撃を与えるかだ。
 彼は目玉の位置から少しずれて、側方に回ってから攻撃したらどうかと考えた。真祖は
体を動かす事なく攻撃を繰り出しているのを、二度目の攻撃で把握し確信したからだ。
――自分を囮に使って攻撃している隙に後方へ回り攻撃するか。そのかわり隕石が降り注
いできた時は全力で逃げ切る。
 そう結論付け、攻撃と防御を開始した。
 だが、そこからが至難の技だった。攻撃しようにも隕石は何度も落とされ、逃げるしか
なく、いつ隕石に接触してもおかしくない状況だった。
 その他にも毒の泡が自分に纏わりついてきたので、泡を取り除くのに必死で攻撃どころ
ではなかった。
 光線を繰り出す攻撃は中々繰り出して来ず、攻撃の機会はその間に絞られていた。
 それでも与えられたチャンスを無駄にする事なく、攻勢をかけていたため攻撃を殆ど受
ける事なく着々と力を削って行った。
 やがて、真祖の肉体に変化の兆しが現れた。外殻の色が鈍い紫紺から、毒を含んだ死体
が腐食する前のような気味の悪い薄暗い緑青に変化をした。
 すると、今まで見た事がないパターンの攻撃を繰り出してきた。
 目玉を隠し、腹部が固く閉じられると巨大な両手を広げて前に翳し、全身が光を帯びて
発光したと同時に、巨体とは思えないような速さでネイサン目がけてワープしてきた。

202Awake 17話(4/7):2013/12/22(日) 21:16:30
 身構えたが急襲されて攻撃の種類が見極められず、ネイサンの体は巨体に巻き込まれて全身
の骨が軋む音がするほど激しく引き摺られた後、盛大に吹き飛ばされた。

「うわぁぁぁぁぁ――!?」
――何だこれは! 何だこれは! 何だこれは! 一気に骨が砕けたように痛む!
 空中に放り出され、なす術もなく無様に岩だらけの大地に勢い強く叩きつけられた。
 あまりにも激しい力を受け、その場に這いつくばったが、体勢を立て直すためすぐに立
ち上がろうとした。
 だが、一瞬にして関節に痛みが走ると、バランスを崩してまた大地に倒れ込んだ。
 その上、落下した衝撃で一気に口中がズタズタに切れて吐血し、一撃で全身を打ち据え
られた痛みが心に戦慄を植え付けた。その状況に一瞬にして全身が粟立ち、寒気が走った。
「がはっ……ぐぁ……ぁっ」
――強い、力そのものを凝縮した存在だ。だけど永遠に光が射さない地が存在しないよう
に、人の世に不変の力なんて存在してはいけないんだ。
「……ぐぶっ、はぁ……はぁ、でも、戦わないと、何も変わらない!」
 力強く叫んでも孤独は心の中に広がった――戦い、そして斃れても責められるべき肉体
が消滅したら、人々が己を罵倒し、怨み、嘆いても声は魂には届かない。
 それでも、自分自身として生きるため、愛する人たちを守るため、今度こそ城内には仲
間は誰一人としていない、孤独な戦いを制するために心を奮い立たせた。
 突撃された後、もう一度同じような攻撃が来たら空へ逃げようと構えていたが、いつの
間にか巨大な体が一瞬にして消散し、どこからともなく現れた大量の蝙蝠が固まって飛び
交っていた。
「何だ? あれは?」
 よく見ると、蝙蝠が固まっている中心に巨大な目玉が浮遊していた。
「真祖の核……?」
――姿が不安定だ。もしかすると力が保てないくらいの打撃を与える事が出来たのか! 
もうじき消滅する兆しなのか……? それなら、この痛みも、恐怖も解放される時は近い。
神よ。今一度の恩寵をお与えください!

203Awake 17話(5/7):2013/12/22(日) 21:17:40
「今度こそ、貴様を煉獄に叩きこんでやる! 消え失せろ!」
 真祖の核に直接攻撃を加えるにしても、蝙蝠の群れが邪魔をして打撃を与えられないな
ら、いつも通り投擲武器で弾数を稼ぎ、数が費えても攻撃を受けない限り直接攻撃が出来
る隙を見つけ確実に叩く。
それに突撃した時に腹部の肉は開く事はないので逃げる事に専念する。普通に飛び越える
だけでは防げないが、手に入れた人外の力で天空へと飛び上がれば真祖に接触する事はま
ずないだろう。

――よもや自分が俺を惑わすために与えた力によって対峙される所まで追い詰められると
は思ってもみなかっただろう。
 厄介なのは目玉にまとわりついている蝙蝠が、自分に向かってバラバラに突進してくる
ことだけだった。
 蝙蝠を掃討するためにクロスを投げたところ血を吹き出しながら消散したため、蝙蝠の
姿が黒く変化して真祖の幻影が現れるまで、投擲武器を繰り出した後に聖鞭で攻撃し続け
た。
 だが、すでに限界以上の体力と気力を使い果たしたせいで、何度か蝙蝠の突撃を避けき
れず鋭い歯牙で血を貪られるようにその身を食われたが、ここまで身体を変化させられな
いほど魔力が低下したドラキュラに対し、攻撃されてももはや必要以上に怯むことはなかった。
 やがて、一夜の闘争に終焉の時が訪れる瞬間がやってきた。
 幾度となく大きく聖鞭を振るい続けると、ようやく蝙蝠を巻き込みながら、真祖の核が
血と肉片を撒き散らして大地に叩き落とされた。
 しばらくの間、果実が割れたような姿で核は血液を流出させながら細かく痙攣していた
が、ネイサンはその場にたどり着くと、躊躇なく核を踏み潰しその場に大量の血が飛散した。
 瞬時に強大な魔性の幻影が現れると、大地を大きく揺らしがなら靄が晴れるようにその
姿がゆっくりと消え失せた。

204Awake 17話(6/7):2013/12/22(日) 21:18:30
 それから直ぐに空間全体に白く強い光が発現した。その清浄な光に「これで終わったの
だ」とネイサンは静かに目を瞑ったが、数秒して瞼に感じる光が軽減した頃に目を開けた時、
儀式の間にその身体はあった。
 そして眼前には灰と腐臭を放ちながら凝固しかけた血液を止めどもなく体中から垂れ流
しているドラキュラの姿があった。
 だが、対峙しても魔力を全て削がれたドラキュラの無残な姿に、もはや何も思うことはなか
った。ただあったのは両親、そして仲間二人のことだけだった。
――父さん、母さん。敵を取ったよ……師匠、そしてヒュー。みんなで生き残れたんだ。俺
達は再び人の世に光を取り戻したんだ。
「無駄だ。我は滅びることは無い。」
 カーミラが消滅した時のように消滅することに何ら抵抗を見せないドラキュラの様子を見て、ネイ
サンは強大な魔力を持っていた不死者に再び底知れぬ恐怖を感じた。
 魔王ドラキュラの復活を待ちわびる魔性と人間はいつの時代にも存在し、その度に復活させ
られているのを思うと、その意味を理解した。
「余を求めている者の血の叫び、心の中の闇の叫びにより、何度でも目覚め蘇る」
「そのときには、また俺たちがいる。…安心して消えるがいい。」
――哀れな。死者の復活は復活した者のみが責められるものじゃない。世の潮流が人の心
を蝕み、闇を求めるものだとすれば俺達だけでは対処しようがない。永遠の命題だ。
 彼は不敵な面構えで笑みを浮かべながら、陽炎のようにゆっくりと揺らめき消失してい
く真祖の姿を眺め、同情とも不安とも付かないような奇妙な感情で仇敵が消滅するまで対
峙した。
そして――

205Awake 17話(7/7):2013/12/22(日) 21:23:13
「!?」
 ドラキュラが消滅した瞬間、転倒するくらい強い地鳴りが起こった。彼は戦闘の疲労や余韻
など物ともせず生き延びるため、生き残るため至る所が崩落していく恐怖に慄きながら崩
壊していく城から脱出した。
 無数の瓦礫が頭上より降り注ぎ落下してくる。
城内の構造が崩落によって変化し、脱出ルートが分からなくなってきた。それでも駆け
るのをやめれば瓦礫に押しつぶされるのは明白。城内の生温かい瘴気が薄れ、冬の冷たい
外気の割合が増えてくるまで彼は脱出ルートを見落とさないよう眼球から涙があふれてく
るくらい見開いて疾走した。
 やがて城門に出て吊り橋を渡りきると森へと抜けた。そして、息急き駆けてきた先には
疲労感が漂う表情をしながらも、毅然とした態度で迎えている二人がいた。
「師匠! ヒュー!」
 朝焼けに照らされた二人は青年の声と姿を認めると、様々な想いが込み上げて来て何時
しか双眸が潤み始めた。
 
「おかえり……。神よ、我らに恩寵と奇跡を与えられた事を心より感謝いたします」

 モーリスとヒューはネイサンに駆け寄ると、お互いに彼を支えあう様に抱きしめた。
 そして、宿敵を打倒し生還した事を心の底から祝い、誰一人欠ける事なく生き延びられ
た喜びに胸を詰まらせながら抱き合うと、ネイサンは微かな嗚咽を漏らしながら滂沱の涙を流
し続けた。

206Awake 18話(1/10):2013/12/23(月) 02:35:24
 再び地鳴りが辺り一面に轟くと、三人は音のした方に目を向けた。
ネイサンは二人から離れてから体を視線の先に向けた。討伐前の状況と重ね合わせて感慨深く
その様を崩壊する悪魔城を見つめながら、しばらく無言で冷たくも心地よい風に頬を、体
中を撫でられる清々しさを感じていた。
 やがて、峡谷の孤島から悪魔城は完全に瓦解し瓦礫の山と化すと、すぐに大量の灰とな
り一瞬にして風に攫われ消滅した。
 再びネイサンが後ろを見るとモーリスは疲労困憊の表情をさらに険しくし、脂汗をかいて唇を引
き締めていた。
「師匠、大丈夫ですか?」
「ネイサンか。ありがとう。よくやった。」
 立っているのもやっとの様だったが、耐えるように自分を見据えているモーリスの様子にネイ
サンはそれ以上声をかけられず、ただ粛々と師の言葉を受けるしかなかった。
「…一人前のハンターとして成長したな。」
 モーリスは改めてネイサンの精悍な姿を見て、亡きグレーブス夫妻の遺児をひとかどのハンターと
して育て上げた事に充足を感じた。
 そして――魔手に一度は絡め捕られたものの、晴眼を以って生還した我が子に希望と期
待を見出し、言葉を紡いだ。
「ヒュー。お前にも礼を言おう。だがお前は、もう一度修行をやり直しだぞ。」
「わかっているよ、親父。生まれ変わった気分で鍛え直してやるさ。」
――本当に、いいのか? 本当に……
 一瞬モーリスから睨めつけるような視線を感じたが、ヒューは微かに笑った父親の表情を見逃
さなかった。
 柔和な表情を見せたモーリスの姿に安堵し、また三人で歩む事を許された事に気づくと神に
感謝するとともに、朝陽を浴び精悍さが漂う姿を持って生還したネイサンの存在に心が高鳴る
と、他者を愛すれども神の教えと人の世には背き、戦いの中で愛を囁いた者と共に悲しき
想いを抱え生きる事を決意した。

207Awake 18話(2/10):2013/12/23(月) 02:36:19
――俺達の想いが白日の下に晒され罪を得ても、お前のためなら罪人の名を帯びよう。
お前はずっと俺の事を思って言い出せずに居たのだから。
惰弱を払拭し、他人のために誰も成し得なかった事を成功させたお前を、俺は心から愛し
たいと願った。
世間では罪であろう。だが、強く人から愛される事は決して悪い感情じゃない。俺自身の
足りない所を埋められるのはお前だけだ。だからお前の想いに応えたい――

「よお、ネイサン。ちょっとでもたるんだところを見せたら、いつでも代ってやるからな。」
 
 ヒューは対面しているネイサンの前に拳を握った腕を差し出すと強い口調で宣言した。
 それに対しネイサンは己に腕を差し出すよう求めている事に気づき、お互いの対面に腕を絡
ませた。
 するとヒューはモーリスに聞こえない程度の小声でネイサンに覚悟の程を訊ね、諒解を求めた。
「……もしそうなっても気後れすることなく、お前に俺が御せるか?」
「え……本気で言っているのか……?」
「こんな事、お前以外に誰に言う? 改めて訊こう。俺と共に生きてくれるか?」
 ネイサンは一気に顔と言わず、全身が紅潮したように熱くなった。冬の冷気が一瞬にして全
身を駆け巡る血潮の熱によって感じられなくなるほどに――これは夢ではないのかと己に
かけられた言葉に何度も疑念を持ったが、絡ませた腕の感触は現実だった。

「望むところだ!ヒュー!」
 朝日を浴び然りと自信に満ちた笑みを持って対峙するヒューの様子に、ネイサンは嬉しさの余
り破顔し、やっと自分が生きて帰った事を実感出来た。

208Awake 18話(3/10):2013/12/23(月) 02:37:07
 空を覆っていた薄暗い瘴気を朝焼けが溶かすと、モーリスは報告するため滞在している村に
向かって歩を進めた。
「さて、瘴気が晴れたところで報告に戻るとするか。御者が森の入口で痺れを切らして待
っている頃だろう」
「親父……報告を任せていいのか? そんな状態では途中で力尽きるだろうから、俺達二
人で……」
「でしゃばるな。お前が儂の体を気遣ってそのような事を言うのは分かる。だが、報告者
としての責務を果たさねばならないのは分かっているだろう? そのためにお前から状況
を聞いたのだ。分かったのなら訊かれない限り口を噤んでおけ」
「……悪かった」
 そう言ってからしばらく無言のまま歩き、馬車が待っている場所へとたどり着いた。
御者は三人の姿を見ると一気に破顔し喜びの言葉をまくし立てると、それを見た三人は疲
れた顔を見せながらも柔和な表情で御者を労った後、馬車に乗り込み、報告の擦り合わせ
を行った。
 その頃、一昼夜、魔族と闘いながら夜警をしていた町の男たちが、魔物の姿を見なくな
って一刻、真祖の消滅を感じつつも三人のハンターが無事に戻って来ることを期待して、
今か今かと手の空いた者が町の郊外で胸を弾ませながら待っていた。
 しばらくして、町人の一人が蹄鉄の響きが街に近づいてくるのに気付くと、隣に声をか
けた。
「おい、馬が走って来る音がしたぞ。双眼鏡で見てみろよ」
「お、おう……ん! 帰ってきた。馬車が帰ってきたぞ! それに御者が笑いながら馬を
御している! ハンターたちの姿も見える!」
「やった! どんより雲が無くなったのはやっぱり倒したからだ!」

209Awake 18話(4/10):2013/12/23(月) 02:37:51
「司祭様たちを呼んでくる! おーい! 馬車が戻ってきた! 吸血鬼を倒したんだ!」
「あの者たちに神の御加護があらん事を。多大なる恩寵あらん事を。父と子と聖霊の名に
おいて……あぁ、喜ばしや、一夜にして脅威を取り除く業を生きて見られるとは……」
 町にいた男たちや起こされた町の人間が次々と郊外に集まりだし、護られた事を確認し
合うとその場で歓声を上げてお互いに腕を組んで踊り回った。
「旦那方が! 旦那方が悪魔を倒した! 生きて帰ってきたぞー!」
 御者が郊外の人だかりを見ると大声で叫び、人々に馬を御しながらもう一方の手を大き
く振った。
 その声を聞いて群衆はまた興奮し、盛大な歓声をより大きく上げ空気が割れるくらい轟
いた。
 やがて、到着した馬車が郊外の人混みに囲まれ、人々は英雄の姿が現れるのを今か今か
と押し合いへし合いして心待ちにしていた。
「……これは」
 モーリスが馬車から下りて群衆を見てその光景に驚き、弟子二人はここまで歓待された事が
無かったせいか、ただまごついて言葉が出ない様子だった。
 三人が地面に降り立った時、重厚で豪奢な典礼衣を身に纏い、群衆の先頭にいた修道司
祭と修道士が膝を折り、祈る格好で頭を垂れていた。
 同時に彼らに倣って群衆が同じ格好で彼らを出迎えた。
 その様にまた驚き、三人は頭を上げるよう頼んだが司祭は「礼を述べるまではこの格好
を許して下さい」と言って崩さなかった。
「貴方がたは我々だけでなく、近隣の町や、いいえ国すらも守り通したのです。これくら
いの虚礼など大した事ではございません。それに他のハンターとは違って必要なもの以外
は何も要求してこなかった。それだけでも我々は貴方がたに信を置いて感謝の意を表すの
は当然と考えているのです」
「司祭……」
「それに、お疲れのところ心苦しいですが、貴方がたはすぐにでもこの町の聖堂に赴き、
報告の義務を果たさなければならない。功労者に無体な事を言っているのも分かっていま
す。ですが、今から御同行願えますかな?」

210Awake 18話(5/10):2013/12/23(月) 02:38:42
「無論です」
 モーリスは誠実な人々を少し騙すような報告をする事に心を痛めたが、わざわざ瑕疵を広が
す事もないだろうと敢えて追及されない限りは口を噤もうと思った。
「汝らに、父と子と聖霊の名において祝福をせん。アーメン」
「アーメン」
 司祭が十字を切ると人々もそれに倣って三人に祈りを捧げた。
 三人は歓声を上げ、祝福の言葉を投げかける熱狂冷めやらぬ人々に見送られながら、司
祭と共にこの町の修道院内にある聖堂へと足を進めた。
 
 聖堂に入るとすぐさま扉は内側から閉じられ、静謐が支配する空間が一気に広がり空気
が張りつめた。全員、祭壇に祈りを捧げた後、司祭は祭壇に向かい、修道士数人が祭壇の
両側を背にして三人と対面した。
「本来こういった規模の討伐であれば司教が諮問するのですが、今回は特殊な例でしたの
で司教、修道院長代理として司祭の私が担当させていただきます」
 組織として認知はすれども状況は内密に。という事だろう。実際、一部の聖職者やハン
ター以外は真祖が復活したとは知らないのだから、この対応は当たり前の措置である。
 知っているハンターも、漏らせば自分たちが倒せないのに尻尾を巻いて逃げている事の
証左になるので、恥知らずな者でない限り口外する事もないだろう。
 町人が誰一人として討伐後も伝承の真祖の名をあげていないことから、情報管制はある
程度敷かれているのは明白で、もし漏れてもヴァチカン側は情報を握りつぶす事ぐらい容
易にできた。
 それにエクソシストの司祭が滞在地に選んだこの土地は、穏健なカトリックの信徒で形
成されているため、信徒である三人にとってはギスギスした雰囲気をほとんど感じない静
かな町だった。
 先ほどまで熱烈に彼らを取り囲んでいた人々が聖堂前で大人しく待っている事に安堵し、
間違っても信徒の暴動など起こらなさそうなのが三人にとって救いである。

211Awake 18話(6/10):2013/12/23(月) 02:39:23
「では始めます。汝、マウリシウス、父と子と聖霊の名において虚偽の無きよう聖書に手を触れ
宣誓されよ」
 ラテン語で司祭がモーリスに対し宣誓の儀を執った。
町は穏やかでも聖職者の諮問内容が苛烈で無いとは限らない。三人は固唾を飲んで質問を
待った。
だが――
「……これにて諮問は終了とする。答弁に瑕疵を認められず、様態も不審な点が見られぬ。
諸兄弟よ、この者に不明な点があれば発言されよ」
「内容に瑕疵認められず。精神、身体も悪魔に侵食された形跡を認めず」
「同じく」
 諮問は厳しいものではなく、むしろ概要を訊ねられただけで半刻もかからなかったので
ある。

 すっかり拍子抜けした弟子二人だったが、平静を保ちながら答えていたモーリスもまた心境
は二人と同じであった。
 だが、最後の関門を突破した訳ではない。聖別された物をこの身に当てられる儀式が残
っていたからだ。
 聖体拝領や交わりの儀で司祭が、ワインに少し浸したホスチア(聖餅)を三人の口に含
ませた。
 ネイサンはこれで皮膚が焼け、その音と煙が発生し、拒絶する行動が見られれば間違いなく
ヴァチカンに召喚されるだろうと内心、震え慄いていた。
――敵の手に落ちたヒュー、生贄にされかかった師匠、魔が残した爪痕が肉体に現れはしな
いだろうか? 分からない。だけど神よ、生き延びた喜びを俺から奪わないでください。
 その懸念は二人とも感じていた。しかし、三人ともホスチアを拝領した時に何の変化も
見当たらなかった。
奇跡だ、聖寵だと思った。

212Awake 18話(7/10):2013/12/23(月) 02:40:01
 三人はその状況に心から喜び破顔しかけ小躍りしたい気持ちになったが、儀式の妨げと
なるような行為をすべきでないと興奮を静めた。
 そして、最後の交唱を聖職者側と共に唱え全ての儀式が終わった。
 モーリスは概要のみで済み、修道司祭が内容を詳らかに聞くことがなかったのは、過程はど
うあれ、三人が生きて帰って来た事と、言質の取れない予測だが、エクソシストの司祭
――いや、本来はただの司祭ではなく司祭枢機卿の手回しもあったのだろうと考えた。
 ともあれ、最後の関門を通過したことで息子と、恩義ある僚友の遺児の事を思い、今度
は誰一人欠けることなく生還できた事実を噛みしめた。

 それから、祭壇から歩み出た修道司祭に促された三人は、翼廊近くの身廊まで来ると、
彼の合図で聖堂の門扉が一気に開いた。
 開扉した所から徐々に陽の光が差し込んで来た。白亜の身廊を一直線に照らすと、彼ら
の足許まで光の道が煌々と広がった。
 その眩しく皓々たるさまは、人々の脅威を取り除いた英雄の前途を指し示しているよう
な清浄さに満ちていた。
 そして、外に出ると報告の際にはざわめきながらも大人しく待っていた人々も、彼らの
姿を見た途端、割れんばかりの歓声を上げた。
 三人はその様に嬉しくなり、疲れた体と心が癒されるようで握手を求められたらそれに
応え、修道院の前に止めていた馬車までの距離は短くても人々の輪が集い、囲まれ、歩み
は遅々として進まなかったが、馬車に乗り込んでからもその声は聞こえていた。
「師匠、人の喜びはどんな時に見ても心穏やかにするものですね……」
「その通りだ。儂等はどんなに忌み嫌われ、名誉が得られずとも人の世がある限り、魔を
打ち払い続けるだろう」
「ですが、教会で報告した内容で本当にいいのでしょうか? 実際、師匠やヒューが魔手に
落ちかけたとはいえ、お二人の話を詳しく聞けば聞くほど魔性との密な接触を許している
のは明白です。取り様によってはヴァチカン側からの召喚も免れないかと」

213Awake 18話(8/10):2013/12/23(月) 02:41:05
――そして俺自身も。
 
 最功労者であるネイサンが、神や世間、もっとも裏切ってはならないモーリスに対して背信行為
をしているのは自分自身でも理解している、そう思っても、己の倫理に照らしそれらも含
め尋ねずにはいられなかった。
「お前は魔を討伐できるようになったが、職業人としてのハンターにしてはまだまだ甘い
所があるな」
 職業人としてのハンターと区別した意味でモーリスから論を聞いたことが無かったネイサンが訝
しげな表情をして質問した事に、モーリスは諭すように答えた。
「プロであれば過程はどうであれ、相手とこちら側、第三者に対して結果より大きい瑕疵
が無ければ内容を真正直に晒す必要などない。より大きな信用を得たければ口を噤むのは
決して忌避される事ではないぞ」
「師匠。結果はどうであれ、己の名誉と成果のために過程を欺き通すのは、今まで培って
きた力と信用を放り投げるようにしか思えないのです。俺の考えは間違っているのでしょ
うか?」
 不安げにモーリスを見る視線に真っ直ぐさが見えると、その清純さに心が清々しくなる心地
がした。
「いや、その考えは間違いではない。確かに己の力を把握せず戦い方も工夫出来ないうち
に己を偽り過大もしくは過少に見せる事は、他者だけではなく自分に対して物事を不明に
してしまう虞がある。偶然とはいえ荒療治だったが、今度の事でお前たちは状況によって
は無力になる事を理解してそこから立て直しを図り、結果を出せる術を身に付けたのだ。
それは己の能力に金銭と価値を生み出せた事を意味する。お前はもっと己の能力と価値に
自信を持って動け」
 二人のやり取りをじっと静かに見ていたヒューは、ネイサンが自分より重鈍だが堅固な土台を
もって仕事に対し堅実なスタンスで臨んでいる事を理解し、改めて己が生き急いで他者の
理解を強引に得ようとした傲慢さを恥じた。

214Awake 18話(9/10):2013/12/23(月) 02:42:05
――同じ仕事をしているのに俺は嗣子として期待され、なまじ年齢より高い力を持ってい
たが故に目が眩み、認められたいがため早く名声を得たい一心で穴だらけの不完全な意識
で物事に臨んでしまっていた。
考えを聞いたらますます人生を共有したい同志はお前以外には考えられなくなったじゃな
いか。

 軽く頷きヒューは目をつむって微笑んだが、モーリスはこの場に参加している弟子として彼に
も目下の目標を与えた。
「何を以って笑うのかは知らんが、お前は逆に他者と交わり独善を薄めろ。それまでは仕
事でも私事でも突出する事は許さん。角を矯めよ」
 今まさに自分がそう生きようと思い始めた所に、父親から見透かされた様に言われた事
で恥ずかしさのあまり顔を赤らめてしまった。
「……善処する」
「……いい加減、意見を受け入れる事に素直になれ。父子であるから許される事でも他人
であればとっくに愛想を尽かされる態度だ。もっとも、他人に対しては意見された事に表
層的に従い、相手が望む表情で首肯する狡さがあるから性質が悪い。だが、身内に対して
は前より殻に閉じこもらず解りやすい態度で対面するから、本当は嬉しかったりする」
「真顔で言うなよ、恥ずかしい」
「ふ、そう照れるな」
「ばっ……親父! な、な、何を!」
「ははははは」
 モーリスが面白半分にからかっている状況に、ヒューは居心地悪そうに頭を掻いていたが、ネイサ
ンは助け舟を出すかのように話を変えてヒューに問いかけた。
「ところで、帰ったら何をしようか」
「俺とお前の立場は逆転したが、それでもいつもの様に日々を進めるだけだ」

215Awake 18話(10/10):2013/12/23(月) 02:43:16
 そう言ったヒューの表情は捻じくれた嫌味のあるものではなく、日の光が差すような温かい
微笑を持った柔和な顔付きだった。
 それを見たネイサンは改めて何もかもが元に戻ったと思った。ヒューが見せた静かな笑顔に、
遠い少年の日にカルパチア山脈の朝日に照らされ、顔を赤らめながら見つめるほど綺麗で
慈愛に満ちた笑顔を持つ少年だった頃のヒューの姿が重なった。
――少し状況は違うけどな。お前の心が側にある、それだけで日々の姿が違って見えてく
るから不思議なものだ。
「そうか……そう思うなら有難い」
「俺は何があっても、立ち止まらないぞ。生きている限りな。手伝えよ? ネイサン」
「もちろんだ――ありがとう……」
 ふと、意図せずにネイサンは小声で呟き、自分の愛した人の姿を見て幻想ではなく実際に存
在し手に入れた上、共に生きられる事に多大なる喜びと幸せを感じずにはいられなかった。

――帰ろう、故郷へ。二度とこんな危機が起こらないよう祈りながら――

 一行は逗留地に戻り、数日かけて荷物をまとめた後、一路、フランスへ向かい故郷を目
指し、帰途に着いた。

 彼等がこの後どうなったのかは判らない……ただ、公的な記録にその戦いと功績は残さ
れていないため、その足跡は後人に辿られる事はなかった。



――End


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