だが、数秒間待っても身体の痛みは感じない。如何するつもりかと一気に目を見開いた。
すると、目の前には在り得ない者が立っていた。
――ネイサン!?
何故、奴が? さっきいたサキュバスは何処へ行った? ――まさか……? 唖然とした彼が
目を白黒させていると、
「ヒューか……?」
ネイサンと思しき姿形をした者が、いつも自分に見せている何かを窺うような表情をして、
声も同じ人物の声色でこちらを立ったままの姿で見ていた。
「貴様……何をしている? ここにいる女を倒せ。今回は貴様に聖鞭を預けたのだからな、
それだけの働きをしてもらおうか」
彼は唇を捻じ曲げ目を据えてから目の前の青年を睨み付けると、彼に対して矜持を保つ
ため強い口調で言葉を発した。如何に自分が無様な姿になっていようとも、偽者と解って
いても彼の姿形をしている者にだけは弱っている姿を見せたくなかったから。
「“彼”は私の言う事しか聞かないわ。その上、何人たりとも彼には私以外の者の声は聞
えなくってよ。残念だったわね」
カーミラはほくそ笑み何事かを傍にいる青年に語り掛けると、グレーブルーの眸を朱色に染
めた青年がヒューの面前に近づいて跪き拘束している縄を解き始めた。解いたと同時に上半身
の動きが戻った事を知覚したヒューは、サキュバスに気付かれないよう後ろ手でウェストポーチの
中身を探り、十字架と聖水がまだ存在していることを確認した。
――しめた!
「Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum, benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus. Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis
peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae Amen!(めでたし聖寵充満てるマリ
ア、主 御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せ
られ給う。天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終の時も祈り給え)!