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【原作】ドラキュラ・キャスバニ小ネタ/SSスレ【準拠】

79古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/13:2011/03/28(月) 00:22:40


 やがて公子は十歳になった。父たる王は息子を正式に騎士として叙任し、成人たること
を認める儀式を執り行った。彼がまだ人間であったころ、息子を持つことを夢見ていたこ
ろに、思い描いていた式典が華麗に繰り広げられた。
 城の玉座の間の一角には一時瘴気を追いはらうための徹底的な結界をほどこした観覧席
が設けられ、人である妃が式典に列席できるように、特別な配慮が払われた。同様に式典
に出席した闇の貴族たちにとっては憤懣の種だったが、この人間の女性にどれだけ王が愛
着を抱いているか、またその身にいかなる形であろうと非難や攻撃を浴びせたものがどの
ような目にあうか知りつくしていたので、不満は態度に出さず、王妃として、また公子の
母として彼女が粛々と席につくのを、貴族らしい鷹揚な慇懃さで迎えた。
 十歳の公子はすらりとして美しく、しなやかな若木のように高く頭を上げて頬を上気さ
せていた。母の見守る前で、玉座にかけた父の前に跪き、剣を肩に触れられながら、誓い
の言葉を澄んだ声で述べた。父は儀式に使った剣を鞘に収め、騎士の最初の佩剣として、
また成人を迎えた子への父母からの贈り物として、その場で息子に与えた。
 その剣こそ、かつて彼が人であったころ、妻であった女性のもとに自らの代わりとして
遺した剣であり、その血を引いた現在の妻の守り刀でもあった。剣は長い時間を経て幾人
もの人々の手を過ぎ、もとの持ち主の息子の手に戻った。
 十歳の公子にとってその長剣はまだ少し長すぎ、佩くと鞘の先端が床に届くほどだった
が、父母の心のこもった贈り物を受けた少年は成人を認められた誇らしさと喜びに目を輝
かせ、着せかけられた長衣をさすっていた。身につけるにはまだ大きい鎧や盾も剣に会わ
せた意匠のものが造られ、同じく贈り物として、玉座の間の片隅に安置されていた。また
城の周囲に住む村人たちからも、救い主であり寛大な支配者である王の子息の成人に際し
て、心づくしのパイや菓子、花、素朴な彫刻や刺繍が山と捧げられていた。
 この場で同時に、公子の二人の従者の成人の儀も行われた。それぞれ十三歳と十四歳に
なっていた彼らは、正式に闇の宮廷での地位を認められ、人間でありながら王のかたわら
で今後も魔術の奥義を究めることを承認された。これもまた列席した貴族たちにとっては
不快のもとだったが、王手ずから教育したこの二人が、人間としては驚嘆すべき魔力を持
つに至っていること、闇の者でさえ手の届くもののほとんどないような高度な魔術でさえ
使いこなすようになっていることを考えると、表立って文句の言える者はなかった。

80古歌-イニシエウタ-【四ノ歌】14/14:2011/03/28(月) 00:23:13
 この日を境に、公子と従者たちの道は微妙に分かれた。それまで三人兄弟のようにいつ
もともにいた彼らは、二人と一人にわけられた。
 王の息子として、成人した公子は高貴の生まれに義務づけられた教育、王たることの意
味、真の高貴さと誇り、勇気と力の意味を学ばねばならなかった。生まれながらに身体に
流れる闇の王の血、その強大な力を制御する術は、人間のそれとはおのずから違ったもの
にならざるを得なかった。
 また、そうした闇の帝王学を修めるとともに、知らなければならない知識も膨大にあっ
た。父の統べる闇の世界に巣食う魔物と有力な貴族たち、その名と力、性向、勢力と本体
の能力、詰め将棋にも似た闇の者の手口とその交渉の方法、また闇の世以外にも数多く存
在する異界、そこに棲息する想像を絶した異質な存在、彼らを利用し、あるいは交渉する
特別の言語、数多く存在する異界の通路と落とし穴、戦いの方法……
 兄同然に慕う二人とともにいられないことを公子は悲しんだが、身につけた剣を撫で、
もう大人なのだからと自らに言いきかせた。辛いときにはいつも母がいて、やさしい声と
手で涙を拭ってくれた。
 そして二人の従者たちは、将来、公子が王たるときに備えて、ますます魔術の研鑽に励
んだ。気がつけば彼らは、無から有を生み出す究極の禁術──悪魔精錬術をさえ、その身
につけるようになっていた。自らの魔力を結晶させ、そこからまったく新しい生き物を造
り出すこの禁術は、闇の貴族の中でもごく限られた者しか使えず、しかも、生み出すばか
りかその生き物を成長させ、はるかに強力に進化させるなどという技を使えるようになっ
たのは、闇と人の二つの世界を通じても、この二人しかいなかった。
 二人はいつしか、ほかの貴族たちを押しのけて魔王の側近となり、二十歳にも満たない
身ながら、その双の腕として働くようになっていた。兄同然の二人が父に信任されている
のを見て、公子はよろこんだ。
「私も父上のように立派な王になるから、二人とも私にも変わらず仕えてほしい」と無邪
気に公子は頼み、実直なヘクターは感極まって幼い主を抱きしめた。
「もちろんです、若君はいつでも俺のご主人です。いつまでも、俺はあなたに心を込めて
お仕えします」
 アイザックはいくぶんさめた目でこれを見守っていたが、公子の明るい目を向けられる
と、瞳をなごませ、胸に手をあてて軽く礼をすることで返事に代えた。

81古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/1:2011/03/28(月) 00:24:56
【五ノ歌】

〈死〉はほとんど姿を見せなかった。精霊界の離宮へはもちろん、闇の城においても見か
けられることが少なくなった。ほんのときたま、城に棲みつく魔物たちや闇の貴族たち
が、なかば透きとおった影となって地下水路を徘徊する〈死〉を見たと噂したが、それも
噂にすぎなかった。魔物たちは人間への攻撃を禁じられ、退屈しきっていたが、王の命令
とあっては従うしかなかった。うさばらしに仲間同士で殺しあったり、森の動物を引き裂
いたりするものはあったが、人への禁令は固く守られた。
 主である王はといえば、しもべの存在すら頭の中から追いやっていた。今の彼にとっ
て、〈死〉と、それが思い出させるものほどおぞましいものはないのだった。なかば闇の
血を引いた息子はどうあれ、人間である妻は、いつか確実に死を迎える。その日が来るこ
とを、なによりも彼はおそれた。妻に気づかれぬよう何重にも守りの術をかけ、できるか
ぎり老いを遠ざけるとともに、いかなる病からも傷からも守られるようにしていても、か
つての妻、エリザベータが突然に〈死〉の手に奪われたことを考えると、不安でいてもた
ってもいられなくなった。いつか彼女がいなくなることを思うだけでも苦しみのあまり、
冷えた血が氷のように血管の中で凝固するように感じた。
 妻は夫のそのような思いを察していた。一日の課題を終えた公子が自室に引き取ってし
まってから、夫の頭を膝にのせて、妻はしずかに歌をうたった。古い穏やかな歌曲は夜の
しじまにやさしく溶けた。身じろぎもしない夫の黒かった髪は白く変わり、黒衣の上で息
子とよく似た白銀の色に光をはじいていた。
 人の血は彼の糧であり、その糧は保護された人々から献上されるもので十分に保証され
ていたが、本来、闇の魔力を本当に養う糧とは、血を吸うときにともに吸いとられる人間
の感情、恐怖や哀願、混乱、狂気、そして死なのだった。愛情のもとに絞られ、感謝と崇
敬の念をこめて捧げられる血は、肉体は保っても魔力の糧とはならなかった。闇によって
せき止められていた人としての老いが、徐々に彼の上に降りつもり始めていた。

82古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/2:2011/03/28(月) 00:25:28
「余は醜くなったであろう」
 静かに燃える暖炉の前で、駄々をこねるように彼は何度も妻に尋ねた。始めて彼女がこ
の城に来たとき見た若々しい美丈夫は、いまは皮肉げに唇を曲げた白髪の男となってい
た。なめらかな肌には皺が寄り、美しい手はごつごつと節くれだっていた。いいえ、と妻
はかぶりを振り、荒れた手を愛しげにとって口づけた。
「以前の貴方さまもお美しゅうございました。そうしていまの貴方さまは、以前にまして
お美しゅう存じます」
「世辞はいらぬ。人の目におのれがどう写るかくらい理解している」
「わたしがお世辞など申しあげないのはご存じのはず」
 妻は両手で夫の皺の刻まれた頬を包むと、額と頬と唇に次々と唇をあてた。
「貴方さまの老いは、わたしのために人の恐怖を啜ることをやめられたから。おん自らの
身を支える大切な糧を捨てたがために今のお姿があるのだとしたら、この髪も、お顔も、
お手も、刻まれたものすべてが、わたしを愛してくださることの証し。なぜ醜いなどと見
えましょう。わたしには今の貴方さまが、何よりもとうとく美しいと感じられるのです」
 妻の細い指にさすられ、闇の王は深い吐息をついた。そしていっとき自らの暗い血と運
命を忘れ、人間であったころの単純な喜びを、愛する妻の手と暖炉のぬくもり、美しく賢
い息子、芳しい薬草の香りのする家庭を、目を閉じて味わうのだった。


 穏やかな日々はなんの変わりもなく五年の間続いた。公子は成長し、母ゆずりの美貌に
父の血を引く強靱さと、秘めた魔力を持ち合わせた魅力的な少年になった。はじめは身長
にあまった剣もいつか見事に使いこなせるようになり、学問と鍛錬にはげむかたわら、母
のもとで安らぐときには剣を抜いて、いっぱしの騎士気取りで、どんなことがあっても母
上は私が守ってみせます、と若々しい声で宣言し、母と侍女のジュリアを微笑ませた。
 すっかり若者らしくなったヘクターとアイザックも暇を見つけては姿を見せ、幼いころ
のように、奥方の心づくしの並ぶ茶会の卓を囲んだ。公子は二人の話を聞きたがり、一人
前の廷臣として、父のそばで働くことが許されていることをうらやんだ。ヘクターは公子
をなだめて、それもこれも、いずれ若君によき側近を与えたいとのお父君のご意向なので
すから、といさめた。

83古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/3:2011/03/28(月) 00:25:58
「若君はいずれお父君の玉座をお継ぎになる大切な方です」弟同然の公子のふくれた頬を
つついて、ヘクターは笑った。
「俺たちはその日のために、もっとさまざまなことを学ばねばなりません」
 子供の手が離れた母は、幼い魔女見習いとなったジュリアに手伝わせて、さまざまな薬
草の組みあわせや、小さな白魔法の編み出しに時間を費やしていた。そこから生み出され
たさまざまな薬やよい食物、病人に元気をつけるためのささやかなまじないは、作り手自
らの手で病める人々、飢えに苦しむ人々のもとへ届けられた。
 妻が城の外へ出ることに関して夫たる王はあまりよい顔をしなかったが、こういう薬
は、きちんと使い方を理解している者が説明しないと、取り扱いが危険なこともあるので
す、ときっぱり告げられると、反論することができなかった。どのみち彼は、妻が求める
ことに対して、本当には拒否することなどできないのだった。
 配下の魔物たちのうちから護衛をつけさせることを提案したが、人々を怖がらせてはい
けないからとそれも断られた。闇の者はしょせん闇の者であり、万が一にも、人々を傷つ
けるようなことが起こってはならないから、とも。
 でも、と笑いながら彼女は言った。
「わたしたちの息子でしたら、きっと連れていっても大丈夫かもしれませんわね。あの子
はわたしの薬草術についてもよく知っていますし、少しは人間の世界を見せておくこと
も、あの子には必要ですもの」
 そこで、そのように事は運んだ。若い公子は母の護衛を務めることを喜び、光栄に感じ
るとともに、話にしか聞いたことのない人間の街を歩けることに少年らしい興奮を覚え
た。護衛の役割はようやく剣が似合うようになったばかりの彼にとって、魅力的な冒険で
あり、騎士としての栄誉の任務だった。
 ヘクターとアイザックの二人も、実の母同然に接してくれる女主人のことを気遣わない
わけはなかった。いつものように茶菓の卓を囲んでいるときに、ヘクターは小さな革袋を
取りだし、城の外へ出るときは必ずそれを身につけてくれるように懇願した。
 中身は小さな宝石のついた銀の首飾だった。細い銀線を複雑に組みあわせて魔術的文様
を編みあげた中に、小指の先ほどの虹色に光る石が収まっている。

84古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/4:2011/03/28(月) 00:26:30
「魔力の結晶です」とヘクターは言った。「危険が迫れば孵化して、命令に従ってくれま
す。どうか、これだけでも持っていてください。俺たちを安心させるためだけでも」
「そう言われては、断るわけにもいきませんね」
 女主人は困ったように笑って鎖を指にからめた。鎖を首の後ろで留めると、息づくよう
に魔力の石はゆっくりと明滅した。
「これはあなたが造ったの、それともアイザックが?」
「石は俺です」ヘクターはいくぶん恥ずかしげに言い、同僚のほうに首を傾けた。
「でも、その銀細工はアイザックがやりました。魔力を物にこめることについては、俺よ
り彼のほうが上ですから。俺はあまり手は器用な方じゃないし」
「奥方様にめったな物を差しあげるわけにはいかないから」アイザックはむっつりと答
え、自分の答えに頬を赤くした。奥方は笑って赤毛の若者を引き寄せ、本当の母親のよう
に接吻した。
「ありがとう、二人とも。必ず身につけることを約束します。でも、人を驚かせないよう
に、そっと、内緒でね」
 そして母が出かける時になると、公子は自分の剣帯をしっかり締め、母は魔力の石の飾
りをつけて、きらめきが漏れないよう胸元に石を入れた。ヴェールをかぶった母のあとに
ついて篭や瓶をかかえ、苦しむ人々の家を回った。貧しい人々の上にかがみ込む母の美し
い姿に、公子は、幼いころ自分やヘクターたちの、また城に迎えられた人々の上に傾けら
れたと同じやさしい慈愛の輝きを、誇らしい思いで見つめるのだった。


 だが、外の世界では不穏な動きが起こりはじめていた。魔物や悪魔の襲撃を受けなくな
った周辺の領主や聖職者たちは、自分たちが課している重税や教区税から、人々の目をそ
らす目標を失ってしまったことに気づいたのだった。
 これまでは魔物や悪魔が出現したとの知らせがあれば、兵士を派遣し、あるいは悪魔祓
いを行って、お前たちの納めている税はこのためにこそ遣われているのだと見せつけるこ
ともできた。だがそれがなくなったこの数年、人々は無意味に収奪される金や収穫物に不
満を高めていた。守ってもらうべき魔物の襲撃もないのに、なぜ理不尽な重税に耐える必
要があるのか?

85古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/5:2011/03/28(月) 00:27:06
 それに困窮して森に迷いこんだ者を救ってくれるという不思議な城の噂も、不満に拍車
をかけていた。実際にそれを目にし、また姿を消す人間があとをたたないのがその存在の
証明だった。動物以下の扱いを受けながら飢えて死ぬより、悪魔と契約しても人間らしく
暮らせるのならばと、多くの者が村を捨てて森に入った。その全員に城の門が開かれたわ
けではなかったが、確かに、森に消えて戻ってこない人間は増えていた。
 支配者たちは焦りはじめた。自分たちの支配をおびやかそうとする何者かがいる。それ
は超自然的な方法で民の心をとらえ、暗闇に引きこんで神の、ひいては、王侯や教会の支
配から人々を引き放そうとする。民草からしぼり取った税と収穫物で肥え太った彼らにと
って、金づるを闇に消え去らせてしまう者は、確かに、悪魔以外の何者でもなかった。
 そして富裕な市民の中にも、不満を抱くものはいた。医師は最近、自分たちのところに
かつぎ込まれる患者が減っていることを感じていた。
 町に流れる噂によると、それは、妖精のように美しい貴婦人が深夜、病に悩む貧しい者
のもとに現れて、薬を与え、治療法を教えていくためだという。その薬は医者の水薬や瀉
血などよりはるかによく効き、萎えた身体に力を与え、手のつけようのない熱病に劇的な
効果をもたらした。また食べ物を買う金もなく飢えている下町の貧民のもとにも貴婦人は
現れ、篭にあふれるほどのパンと、栄養豊かな果物や肉の燻製を与え、皆で分けるように
と言いおいて去っていった。
 治療費が払えず門前払いを食わせた患者が、別人のように健康そうになって町を歩いて
いるのを、彼らは何度も見かけることになった。また、パンくずひとつ買えずに青い顔で
物乞いをしていた子供が、ふっくらと赤い頬を取りもどして元気にはしゃいでいるのを見
て、商人たちは顔色を変えた。
 こうしたことはの彼らの矜持と、それより大事な世間体というものを深く傷つけた。町
の人々はしだいに医者や商人を軽く見るようになり、聖母のようにやさしく麗しいという
その不思議な貴婦人の来訪を待ちこがれるようになった。
 貴婦人の与える薬は香りを嗅ぐだけでも熱を追いはらい、苦痛を取り去ってくれた。ま
たそのパンは、まるでキリストが与えたパンと魚のようにいくら食べても減らないという
噂だった。独り占めすればあっという間になくなってしまうが、皆で仲良く分けさえすれ
ば、十人も子供のいる家族が二十いたとしても、けっして尽きることはないと。

86古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/6:2011/03/28(月) 00:27:38
 施政者、つまり王侯と教会、そして富裕な市民たちにとって、これらはゆゆしい出来事
だった。自分たち以上の権威をもつ何者かが、人々の心をとらえている。しかも強制と恐
怖とではなく、愛と施しとで。増長した市民たちは支配の軛を脱し、反対に自分たちに襲
いかかってくるかもしれない。考えただけで身の毛のよだつ事態だった。
 なんとかせねばならない、と彼らは衆議一決した。そのような怪しい女など、いずれ悪
魔の手先に決まっている。甘い言葉や誘惑を重ねて、神のもとの従順な仔羊であるべき市
民に、いらざる知恵を吹きこもうとしているのだ。一刻も早くその女を始末し、市民を悪
魔の魔手から救い出すべきだった。なぜならその女は間違いなく魔女であり、今は甘い餌
で人々を引き寄せているが、いずれは本性を現して、人々を地獄のしもべにしてしまうに
違いないからだ……。
 ひそやかに策略を練る人間たちの影に、暗い眼窩と、むき出しの歯を持ったなにものか
が動いた。大鎌がにぶく光り、黒い外套の裾が鼠のようにさっと物陰に消えた。


 ふいに、強烈な不安にかられて彼は目を開いた。
 いつもと同じ目覚めのはずだった。棺をとすることからは長く離れており、頭の下には
人間と同じベッドのやわらかい枕と絹の敷き布があった。昨夜呑んだばかりの血の盃が、
まだ滴をこびりつかせたまま脇の小卓に置かれている。
 彼は起きあがり、鼓動していないはずの心臓を抑えて身を丸めた。自分は夢など見な
い。魔物は夢を見ない。生きながら死んでいる吸血鬼は。自分の眠りはいかに偽装しても
人のそれと同じではなく、日の出ている間、自分は死者なのだ。死者が夢を見るわけもな
い。だが、最悪の悪夢を見たと同じ、いや、それより悪いかもしれない、このいてもたっ
てもいられぬ焦燥はどうしたことだ。
 寝台から降り、脇から昨夜脱いだままの化粧着を取りあげて羽織ろうとしたとき、あわ
ただしく扉が叩かれた。
「我が主。陛下」ヘクターの息せき切った声だった。
「陛下。若君様がひどい傷を負って戻られました。ただ今離宮で手当てを受けておられま
す、急いでお越しください、奥方様が──」

87古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/7:2011/03/28(月) 00:28:08
「リサは」自分が喋っているとはとうてい思えなかった。声が唇からこぼれ落ちるのを別
人のことのように感じていた。
「リサはどうした。彼女は。わが妻は」
 嵐のように魔王は扉に向かった。人の真似をするためだけに身につけていた化粧着は一
瞬で蒸発し、魔力がかたちをとった黒と真紅の闇の王の衣服が、昏い薔薇のように全身か
ら咲き出てきた。
 黒い暴風となって部屋を出てきた主人に鼻先をかすめられ、ヘクターは苦痛に顔をゆが
めて飛びのいた。ただの人間であれば今の一瞬で跡形もなくこの世から吹き飛ばされてい
ただろう。荒々しい魔力の竜巻として進む主人を、急いでヘクターは追った。
 この日、奥方はいつものように息子を連れて、少し離れた街へと薬を持って出かけてい
た。たいていの訪問は夜間に行われるのだったが、この街は最近、夜になると聖別された
松明や武器で武装した夜警団がひっきりなしに徘徊するようになっており、夜よりも昼
間、人混みにまぎれて入りこむ方が安全だろうと彼女は判断したのだった。
 街では最近、奇妙な疫病が流行っており、罹った者はひどい腹痛と下痢の末に、衰弱し
て死んでしまうのだった。人間のみならず、牛や馬などの動物にも被害は広まっており、
このまま放置すれば、街一つが全滅しかねない様相を呈していた。
「これは病気ではありません」と貴婦人は顔を厳しくして言ったのだった。
「だれかがあの街の井戸や川に毒を投げ込んだのです。でなければ、同じ井戸や水源から
水を飲んでいる者にばかり症状が出るはずはありません。しかも、動物にまで。なんて酷
いことを。水がなければ、生き物は生きてはいけないのに」
 そして作れるかぎりの毒消しと胃腸を整える薬、水から毒を抜くための方法をわかりや
すく示した書き物を篭に詰め込み、決然と出発したのだった。昼間に出かけることの危険
を訴えるジュリアやヘクターたちは必死に留めたのだったが、苦しむ人々を救おうとする
彼女の決意をくつがえすことはできなかった。
 一陣の黒い暴風となって王は妻の離宮に躍り込んだ。精霊の侍女たちは部屋の一隅に固
まって泣いており、全身から魔力と憤怒を発散させる主人が入ってくると、細い悲鳴をあ
げてますます身を縮めて抱き合った。

88古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/8:2011/03/28(月) 00:28:42
 ジュリアとアイザックだけが、長椅子に寝かせられた公子のそばに膝をついていた。ジ
ュリアもまた恐怖に肩を震わせたが、気丈に礼をとり、意識のない公子の額から懸命に血
をぬぐい取ろうとしていた。公子の白い頬にはいくつも痣とすり傷ができ、服はずたずた
に裂けて、あちこちから血が流れていた。剣は長椅子のひじ掛けに立てかけられている。
長い銀髪は泥と血でよじれた束になり、裂けた唇に血の塊が盛りあがっている。
「若君様。若君様」長椅子から力なくだらりと垂れている手を、必死になってジュリアが
さすりなから呼んでいた。
「お父君がいらっしゃいましたよ、若君様。どうぞ気をしっかりお持ちになって、目をお
覚ましくださいまし、若君様、若君様」
「リサは」
 人形のように動かない息子の前に立ちつくして、彼はそれだけを口にした。
「これの母は。リサはどうした。わが妻は」
 黙して動かなかったアイザックが、手にしていたものを主に差しだした。鎖の切れた首
飾の残骸で、石を留める部分がゆがみ、血がついていた。そこで始めて王は、長椅子のか
げに目立たぬようにうずくまる、翼を持った異形の影を見た。彼の弟子たちの術によって
生み出される、魔力の結晶の産物だった。
 手をのばすと、壊れた首飾が掌に重く乗った。影の生き物が靄のように形を崩し、もと
の魔力となって首飾の乗った手に吸いこまれた。血と苦痛と狂気の味が舌の上に広がっ
た。そして混乱と悪意が。叫喚が。声高く叫ばれる神の名が……
 彼は生き物の目を通して世界を見ていた。正確には、それが宿っていた魔力の結晶を通
して。永いあいだ見たことのない昼の世界、太陽の光。行きかう人々。
 妻がいる。たぐいまれな美貌をヴェールに隠し、人々を救うためのものを詰めこんだ篭
を提げ、後ろに息子を連れて、ある家の裏口をくぐろうとしている。あたりに人影はな
い。奇妙なくらいに静かだ。
 だが次の一瞬、静けさは恐ろしい喧噪と暴力に取って代わられる。とつぜん家の中か
ら、武装を固めた兵士の一団があふれ出てくる。
 貴婦人は息を呑むような仕草をしたが、悲鳴もあげず、ただちに踵を返そうとする。だ
が、武装を固めた兵士の無骨な腕ががっしりと細い首筋を掴む。腕をすべった篭が転が
り、薬や乾燥させた薬草の束が落ちる。

89古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/9:2011/03/28(月) 00:29:13
『魔女だ! 魔女を捕まえたぞ!』
『篭の中身に触るな! 毒だ、呪われるぞ!』
『母上! 母上!』
 若い公子の悲痛な叫びが響く。剣を抜きはらって兵士たちに斬りかかろうとするのを、
『いけません!』という母の鋭い叱声が止める。
『この人たちを傷つけてはいけません。彼らは何も知らないのです。自分がなにをしてい
るか、わかっていないのです』
『偉そうな口をききやがって、この魔女めが』
 兵士の手が母の頭からヴェールをむしり取る。下から表れた、咲きほこる百合のように
清楚な美貌にはっとしたように手を止めたが、じきに自分の任務を思い出したか、『来
い!』と腕をつかんで乱暴に引き立てた。公子も剣を奪い取られ、髪をつかんで殴られ、
蹴られた。母はきっと顔を上げて兵士を見た。
『子供に乱暴なことをしないでください。この子は何もしていません』
『何が子供だ。どうせ魔物か何かのくせに』
 返ってきたのは嘲りと暴力だった。ドレスはずたずたに裂かれ、奪い取られた。人を救
うための薬と処方は泥の中に踏みにじられて見えなくなった。大勢の兵士に囲いこまれ、
母と子は押し出されるように街の広場へと引き出された。
 そこにはすでに火刑台が用意されていた。そばには司教の冠を被った聖職者が立ち、街
に疫病と災いをまき散らした魔女に対する断罪を読みあげるべく待機していた。
 街の人々が広場を埋めていた。罵声が飛び、石や汚物が彼女に向かって飛んできた。中
には彼女に救われた人々も多くいた、しかし、今ここで表立ってそれを口にすれば、彼女
と同じように火刑台に上って焼かれるしかなかった。彼らは口をつぐみ、命を救ってくれ
た貴婦人に対して、口汚く罵りながら腐った卵を投げつけた。
 下着一枚になった彼女はそれでもまっすぐに顔を上げ、強い視線をじっと空に注いでい
た。まったく怯えたようすのない女にたじろぎながらも、司教は、街に拡がった病と汚染
された水は、すべて魔女である彼女の仕業だと言明した。でなければなぜ、その治療法を
知っていたり、こそこそと人の家の裏口から入ろうとするのか。
『おまえは魔女か、女』

90古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/10:2011/03/28(月) 00:29:48
『お答えする意味があるとは思いません、司教様』
『おまえは井戸に毒を入れ、人々に呪いをかけ、災いをこの地にまき散らしたのだ』
『いいえ、毒を入れたのはわたしではありません』落ちつきはらって彼女は言った。
『けれども誰が入れたかは、今わかりました。けれども、口にはいたしますまい。なんと
答えようとあなたがたは、魔女としてわたしを殺すおつもりなのでしょうから』
『なんという穢れた女だ!』宝石を指にきらめかせた男が叫んだ。これは自らの手で、毒
を下町の井戸に投げ込んで回ったことのある男だった。動揺を隠すために、彼はたっぷり
したガウンの袖の中にむっちりした両手を隠した。
『まさか、闇の力に触れたこともないと抜かすのではあるまいな、貴様は?』
『闇を統べるお方が、わたしの夫です』静かに彼女は答えた。そこには侵しがたい威厳
と、高い誇りが込められていた。
『あの方は誰からも見捨てられたわたしを拾い、愛し、妻と呼んでくださいました。その
ことについてなにひとつ、否定するつもりはありません。あの方は確かに闇に住まう王、
けれども、あの方ほどにすばらしい方を、わたしはほかに知りません』
『サタンの妻! 魔王の妃!』
 あまりのことに、司教は金切り声で叫んだ。群衆は震えあがった。その時まで石を投げ
ることに躊躇していた少数の人々も、目の前で堂々と発された、闇の者への愛という究極
の冒涜に、口もきけなくなった。
『魔王とお呼びになるなら、たしかにそうでしょう』と彼女は言った。
『あの方は闇の王、夜と影と暗黒に住まうすべてのものを支配する方。けれども悪魔では
ありません、少なくとも、あなた方が考えているような意味では。愛を知り、与え、また
求めることのできるものの、いったいなにが悪魔でしょうか』
『えい、黙れ。黙れ』
 狂ったように司教は杖でもって彼女を打ちすえた。女の目はあまりにも美しく澄み、彼
の内心さえも貫きとおすようだった。領主や商人たち同様、貧しい人間のための水源に毒
を入れることを、神の仕事を果たす手段として承認したことを、司教ははじめて恐ろしく
感じ、恥じた。だがそれはすぐに目前の敵、魔女、彼の秘めた悪事を見透かす者への強烈
な殺意にとって変わった。なんとしてもこの女を消してしまわねばならなかった。女があ
らぬことをしゃべりださないうちに。毒と疫病が本当は誰のしわざなのか、あの青く澄ん
だ夏空の色の瞳が、人々に告げてしまわないうちに。

91古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/11:2011/03/28(月) 00:30:24
『燃やせ! 燃やせ!』
 狂ったように群衆は叫んだ。興奮と狂熱があたりに煮えたぎり始めていた。彼女に救わ
れた家族でさえ、今は敵だった。サタンの妻! 魔王の妃! そのような者の救いを、今
まで嬉々として迎えていたとは!
『燃やせ! 燃やせ!』
『燃やせ! 燃やせ!』
 下着まで引き裂かれ、肌もあらわな姿で彼女は火刑台に引きずりあげられた。汚物と血
で汚れた顔を、それでも彼女は高くあげて空を見つめていた。凛とした横顔のあまりの高
貴さに、刑吏の手はとまどい、ためらったが、なんとか自分の仕事を思い出した。
『子供も燃やせ! 悪魔の息子だ!』
 地面に押さえつけられていた少年に、群衆が殺到した。それまで必死にもがき、叫び、
あがいていた公子は、殴打され、踏みにじられながらも母のもとへ近づこうとしていた
が、自分を殺そうとつかみかかってくる数多くの凶暴な手に、はっと身を固くした。本能
的な恐怖が、少年の裡に流れる闇の血を呼び起こした。銀髪の少年の姿はゆらめき、溶け
て流れるように見えた。
 次の瞬間、そこには傷つき、血を流した一頭の狼が横たわっていた。狼は悲痛な叫び声
をあげると、身をよじって人々の手を逃れ、ひと飛びで高い屋根へ駆けあがると、全身の
毛を逆立てて唸り声をあげた。
『変身したぞ!』
『悪魔だ! 悪魔の子だ!』
 恐怖のどよめきが群衆からあがる。狼の姿は輪郭を崩し、ふたたび少年の姿に戻った。
 だが、その形相は一変していた。呼び起こされた闇の血のために、淡い蒼色だった瞳は
爛々と金色に燃えていた。小さな唇からは牙がのぞいて、獰猛な唸り声がもれていた。指
は折れ曲がって建物の端をつかみ、延びた鉤爪が釘のように梁に食いこんでいた。血を流
す身体と、捕らわれた母、そして周囲を取り囲む狂乱した群衆に、怒りの咆哮をあげた。
全身をぶるぶると震わせ、何かを脱ぎ捨てるかのように、背中を曲げた。
『いけない!』

92古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/12:2011/03/28(月) 00:30:57
 声とともに、銀色のきらめきが飛んだ。誰もが水を掛けられたようにはっとした。子供
に気を取られていたすきに囚人が何かを投げたことに気づいて、刑吏があわてて女をしっ
かり押さえつける。屋根の上で少年はぎくりと身を引きつらせ、あたりを見回した。その
頭上に、黒い翼が大きく広がった。両腕がつかまれ、足が屋根を離れた。
『は、母上!』
『憎んではいけません。人を憎んでは』
 火刑台の上に立ちながら、母はやさしく微笑んでいた。幼い日々、平和な離宮の庭で、
暖かな居間で、静かな寝室で、いつも見ていた笑顔だった。
『あなたのお父君は、あなたに人として育ってほしいとお思いでした。わたしもそう思い
ます。ですから、人を憎んではいけません。あなたがいま見ているのは人のほんの一面に
すぎない。悪も善も、両方を秘めているのが人間なのですから』
『母上、いやです、母上』
 涙声で公子はもがいた。もしものためにとヘクターから渡されていた魔力の結晶から生
まれた怪鳥が、力強い脚と翼で公子の身体を吊り下げていた。嘴には奪い返してきた公子
の剣もくわえている。泥に汚れた頬に涙が筋を引く。
『母上、私、私は──』
『火をかけよ!』
 これ以上しゃべらせてはならないと判断した司教が、大声で命令した。女はすでに柱に
縛りつけられ、脚もとには油に浸された薪が積みあげられていた。松明が投げ込まれ、た
ちまち燃えあがった。裂けたスカートの裾が燃えあがり、炎が立ちのぼった。熱さに近く
にいた群衆が波が引くように下がった。
『母上──母上!』
『アドリアン、──』
 轟炎に囲まれて立ちながら、母はなおも微笑んでいた。その唇が、最後に小さく動くの
を公子は見てとった。その言葉が意識に刻まれると同時に、少年の力は尽きた。
 瞼がおり、視界が暗くなった。ぐったりとなった公子をつれて、影の生き物は燃えさか
る処刑台と歓呼する群衆をあとに、一路、闇の城へとはばたいていった。

93古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/13:2011/03/28(月) 00:31:29


 これらの事実を、手の中で消滅するまでのほんの一呼吸のあいだに、生き物は王に伝え
た。王はそのすべてを見、聞き、知った。妻の身に何が起こったかを理解した。幻が消え
ても、彼はしばらく彫像のように凝然と空中を見つめていた。あたかもそこにまだ、妻の
顔と、それを取り囲んだ火、押し合う群衆の紅潮した顔また顔が見えるかのように。
 やがて彼は握りつぶされた首飾の残骸を手から滑りおとすと、ヘクターと小さなジュリ
アの呼び声に背を向け、よろめくように城へと足を向けた。
 そこから先は断片的な映像でしかない。安らかに食卓を囲む自らの民を、愛と尊敬でも
って彼を養っていてくれた人々の住む村は、一瞬にして暗黒の翼に包まれた。湯気をたて
る料理も、子供のおもちゃも、つくろいかけた着物もみな置き去りにされ、風に吹き払わ
れたように村は無人となった。咲きほこる薔薇も沈丁花も吹きすぎた颱風によってあっと
いう間に黒く枯れ果て、塵となって辻に舞った。
 彼は自らの足もとに恐れおののく民を見た。これまで愛情深い主であった王の突然の変
貌に驚き怯え、理解できないまま身を寄せあっている人々の顔を見た。その善良な顔の一
つ一つは、妻の死に熱狂していた人間たちと同じだった。どれも人間、どれひとつとして
変わりはない。炎の中で彼女は死んだ、リサは、リサは……。
 魂ぎる絶叫を遠いもののように聞いた。肉が裂け、甘く新鮮な血と恐怖の香りが濃く鼻
をついた。長く嗅いだことのない芳香だった。人形のように手足が放り出され、豚を捌く
ようにはらわたが地上にこぼれだした。いまだに驚愕と恐怖を貼りつけた首が引き抜か
れ、血しぶきをたてて床に落ちた。
 絶叫と混乱は、徐々に鎮まっていった。気がついたとき、彼は踝まで血に浸る部屋の中
で、五体を引き裂かれた人間たちの死体に囲まれ、唖然と膝をついていた。
 自分が何をしていたのか、何をしようとしているのか、ほとんど考えてもいなかった。
頭はしびれたようになり、白い靄につつまれていた。その中でただ一つ、炎で書かれた文
字として、妻の名前が大きく燃えていた。
 リサ。

94古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/14:2011/03/28(月) 00:32:10
 部屋の入り口に動くものの影を見た。反射的に彼はそちらを向いた。息子が、そこに立
ちすくんでいた。銀髪は乱れて頬にかかり、白い顔はさらに蒼白く透きとおるようだった
が、傷はすでに癒えていた。ほっそりときゃしゃな姿と、青い目を大きく見開いた小さな
顔は、あの日、ひとりの少女が闇の王の餌食になるようにと置き去られたあの時に見たも
のと、胸痛むほどによく似ていた。
「リサ」震える声で彼は呼んだ。手をあげ、その手が鮮血と肉片にまみれているのに気が
ついた。部屋を充たす血臭にもあらためて気づいた。血まみれの王は鮮血と死体のただ中
に座り、救いを求めるようにただ手を差しのべて呼んだ。「リサ」
 こんなつもりではなかった。こんなことをするつもりではなかったのだ。おまえが許し
てくれるなら、余はまだ正気でいられる。この人々にいま一度命を与え、静かなあの日々
に還ることができる。幸福な、穏やかなあの年月、おまえと、息子とがいた、あの庭、あ
の居間、おまえの手のぬくもり。
「リサ──」
 だが、幻はおびえた顔で身を引いた。はっきりと恐怖を眼に浮かべ、あとずさった。少
年は父の恐ろしい姿に背を向け、姿を消した。廊下を駆け去っていく足音が長く響いた。
戸口に残った銀髪のきらめきが、掻き傷のように目を痛ませた。足音が完全に消え去るま
で、彼は片手を伸ばしたまま凍りついたように姿勢を動かさなかった。
 完全な静寂がしばし続いた。やがて、地の底から立ちのぼってくるような含み笑いがは
じまった。彼はそれが自らの喉から出ていることを知った。床の鮮血は生き物のように動
いて彼の身体に吸いこまれ、散乱する死体は一瞬にして干上がり、灰となって散った。の
けぞって彼は哄笑した。長く。
「〈死〉よ!」長い哄笑のあいまに、彼は長く忘れていた従者の名を呼んだ。
「〈死〉よ、〈死〉よ、いずれにある!」
『おん前に、我が主』
〈死〉の黒衣はすでに彼の足もとに控えていた。頭巾のかげの骸骨は闇の中で眼窩を昏い
火に燃やし、大鎌の刃はつめたく蒼く研ぎすまされていた。
「闇の王の命令である」笑いに息をつまらせながら彼は命じた。頬をなまぬるく伝うの
は、吸血鬼の流す血の涙であった。
「わが力に額づく、あらゆる軍勢に告ぐ──人間を殺せ、人という人を皆殺しにせよ! 
ひとりとして残すな、今こそ人間どもの世を、闇の底へと蹴落としてやるがよい!」

95古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/15:2011/03/28(月) 00:32:42


 のちに続く数百年の生で、公子がこの瞬間を悔やまなかったことは一瞬とてない。もし
この時部屋に駆けこみ、父を抱きかかえて、その喪失と傷とをともに分かち合っていたな
らば、その後の惨劇は避けられただろうか。一千年をこえてうち続く闇の運命を止められ
ていただろうか。誰にも解らない。
 ただこの時、公子はまだ十五歳の少年でしかなかった。目の前で母が焼き殺され、自ら
も打擲されて傷ついた。それまで善なるものと信じていた人間の別の面を見せられた。そ
れらのことを受け入れて、なおかつ父の悲しみと苦悩に思い至るには、彼の魂はまだいか
にも幼すぎた。
 しばしの恐怖と自失から醒めると、彼は父が人間界への侵攻を開始したことを知って驚
愕した。懸命に父にすがり、無惨な殺戮をやめるようにといくども懇願した。だが、父は
聞く耳を持たなかった。かえって息子から顔をそむけ、廷臣のひとりを呼ぶと、息子を闇
の城のもっとも奥まった一画に監禁するようにと命じた。
 王にとって息子は、憎むべき人間の血をなかば継いだ子だった。しかしその血は死せる
妻の血であり、唯一の愛のかたみでもあった。なによりも、息子は母に似すぎていた。成
長すればするほど、母のたおやかな美貌は、青年のすっきりとしたかたちをとって息子の
上に花開いた。それを見ることは彼にとって苦痛であり、幸福が永遠に失われたことを思
い出させた。それはいかに人の血を流し、殺戮をくり返してもけして癒えない傷だった。
 公子はときおり父が自分のもとを訪れていることを感じていた。起きているときに来る
ことは決してなかったが、目を覚ましたとき、室内に残る血の匂いと闇の気配が、父がそ
こにいたことを公子に教えた。
 成長するほどに母のおもかげを濃くしていく息子に、王がなにを思ったかは知るよしも
ない。ただ、息子が眠りに落ちているあいだに父はやってきて、何もせず、ただ眠る息子
の顔だけをじっと眺めて去ってゆくのだった。自らの無力さに、公子は泣いた。
 三年の月日が過ぎた。魔王に率いられた魔界の軍勢は、人間界を席巻する勢いで各地に
拡がっていた。人間にとって安全な場所はどこにもなく、かろうじて抵抗を続けている土
地も数えるほどしかなかった。人間の世は危機に瀕していた。支配者たちと教会の聖職者
たちはふたたび顔を寄せあい、この緊急事態に何か打つ手はないものかと、長い会議を持
った。

96古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/16:2011/03/28(月) 00:33:24
 そしてまた、闇の城の奥でも、ひとつの話し合いが持たれていた。十五歳の公子は、い
まや十八歳となっていた。監禁された一室の寝台に座り、ひとりの青年と向かいあってい
た。くすんだ銀髪をもった彼は、沈痛な顔で公子の前に膝をついていた。ヘクター、今で
は魔王軍の一翼を担う、名にし負う悪魔精錬師であった。
「私はもうこのまま父の所行を座視することはできない」と公子は言った。
「ヘクター、おまえに無理を言うのはわかっている。だが、私にはもうおまえより他に頼
る者がない。かつておまえは私に、若君はいつまでも俺のご主人です、と言ってくれた。
もし、あの言葉を信じてよいのならば、今こそ、私を助けてほしい。私をこの部屋から出
し、父を止められるように、力をかしてほしいのだ」
 すぐに答えることは、ヘクターにはできなかった。なんと言っても彼を拾い、養い、魔
力を導いて、現在の地位を与えてくれたのは魔王その人である。彼への忠誠心と愛情は公
子に劣らず深く、しかし、それがために、奥方の死とそれによる主の狂気、破壊と殺戮に
心を痛めてもいた。
 もとより魔力を持つ家系の子として世の中から爪弾きにされてきたアイザックは、今こ
そ自分を迫害してきた人の世に復讐するときとばかり、嬉々として魔王のもとに腕をふる
っている。だが、かつて生みの母の命を省みない働きによって、心ない村人から守られた
ヘクターは、人間への愛をまだ忘れてはいなかった。自らが造り出す無垢なる魔物たち
が、殺しの血に染まって闇に堕ちていくことにも胸を痛めていた。兄弟のように育った公
子の苦悩と悲しみを、わがことのように感じた。魔王軍の中にあって、あくまで闇の側に
立ちつづけるには、ヘクターの心はあまりにもやさしかった。
「若君」長い沈黙の末、ヘクターは低く囁いた。
「俺のご主人は、今でも、いつまでもあなたです。──お助けいたします。どうぞお手
を」


 公子が監禁部屋を抜け、姿を消したという報告を、王はさほど驚きもせずに受けた。そ
の手引きをしたのが自らの片翼とする悪魔精錬師であることにも、表情を動かさなかっ
た。

97古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/17:2011/03/28(月) 00:33:58
 捕縛され、前に引き据えられたヘクターに冷たい一瞥を投げ、「愚かな」と呟いて、爪
でその身を引き裂いた。ぐったりとなって倒れ伏した彼を、手まねで運び出すように命
じ、あとは視線も向けなかった。引きずられていく同僚を、アイザックは眉根を寄せて見
送っていたが、その目に同情はなかった。彼にとって唯一の拠り所は魔王とその眷属であ
り、いかに公子の頼みであろうと、魔王を裏切ることは彼の理解を超えた行為だった。
 城の拷問部屋で死んだ人々が投げ込まれる坑に入れられた彼がどのように城を逃れ、新
たな生を送ることになったかは、この物語の外にある。ヘクターが城を逃れたと同じ頃、
人間たちは通常の兵ではとうてい魔物の群れに立ち向かうことはできぬと衆議一決し、と
ある辺境に血を伝える一統の当主を選び、任務を与えることとした。
 この家系は代々魔物狩りの力を持つとされ、〈吸血鬼殺し〉の異名を持つ聖鞭を受けつ
いでいた。だが、異能の力を持つ家系がどこでもそうであるように、この一族もまた魔物
同様に忌み嫌われた。もはや血筋すら絶える寸前であったその一族最後の若き当主に、魔
王、魔族の群の主とその本拠である闇の城の討伐の任が課せられたのであった。
 魔物の跳梁を止めるため、また、失われた家名の栄光を取りもどすために、自殺行為に
もひとしい危険なこの任務を、若き当主は受けた。まだ二十歳、先年家督を継いだばかりの彼は、磨きぬいた鞭術と強靱な肉体をようやく役立てるときが来たと、装備を調え、伝
来の聖鞭を腰につるして、魔王の盤踞する闇の城へと一路旅だった。
 そして公子、監禁からヘクターの助けによって逃れた公子は、どうにかして父のもとへ
行き、この蛮行を止めねばならぬと城の地下に身をひそめて考えていた。かつて自らの家
であった城はもはや敵地であり、混沌は彼を拒んで、城主のもとへ容易には彼を行きつか
せようとしない。
 しかし、あきらめることはできなかった。悔恨が、そして母の遺した言葉が、彼を突き
動かしていた。『憎んではいけません、アドリアン、──』。父は母の遺志を知らないの
だ。自分があの時父を拒んだばかりに。
 責めは自分が負わねばならない、と公子は思った。たとえ、父殺しの大罪を犯すことに
なろうとも、この手で、父を止めねば。

98古歌-イニシエウタ-【五ノ歌】18/18:2011/03/28(月) 00:34:31
 手の中の剣をしっかりと握りしめる。成人の儀の日があざやかに思い出された。その剣
によって父に騎士に叙階され、大人として正式に認められた日のことを。美しく飾られた
広間と、立派な息子の姿に微笑んでいた母のことを。あのころ、父は幸せだった。自分
も。こんなことになるとは、いったい誰が予期したろう。
 胸をつらぬく思い出に頭を伏せたとき、物音がした。誰かが通路を進んでくる。公子は
立ちあがった。誰だ。魔物ではない、気配が違う。では人間か。しかし、この闇の城に、
単身乗りこんで無事でいられる人間など──。
 灯りが揺れる。公子は近づいてくる足音に向かって、前へ踏み出した。

99古歌-イニシエウタ-【結ノ歌】2/1:2011/03/28(月) 00:35:58
【結ノ歌】

「息子よ……教えてくれ」
 業火の中に塵となって薄れていきながら、魔王は夢見るように呟いていた。
「あれは……リサは……最後に、なんと言ったのだ」
 すでに三世紀の月日が経っていた。いちど魔物狩りの男と教会の魔女、こそ泥、そして
自らの息子によって滅せられた魔王は、邪教を奉ずる神官の手によって復活を遂げた。そ
してまた、父殺しの苦悩を負いきれずに自ら永遠の眠りについたはずの息子は、避けられ
ぬ運命の糸に導かれるようにふたたび目覚めて父と対峙することとなった。
 二度目に滅することとなった魔王は、ほぼ視界を失った目を息子の方にさまよわせた。
崩れていく身体からしだいに闇の力が退いてゆき、公子はその中に、幼いころ、自分を抱
きあげてあやしてくれた父の瞳を見いだした。
「人を……憎んではならない、と。そして」公子は言った。
「父上、あなたを、……あなたを、愛している、と」
 魔王の目がわずかに見開かれた。そして最後に残っていた血光が吹き消されるように消
えた。「そうか」と彼は呟いた。
「そうか……。」
 恨みと憎悪が陽を浴びた雪のように解けていった。永い年月の果てに、ようやく彼の、
わずかに残った人の心は、安らぎを見いだしていた。だが、これで終わりではないことを
彼は知っていた。一度闇に侵食された存在は、滅されるたびごとに人間性をそぎ落とされ
てまた甦る。完全な浄化が行われる日まで、際限なくそれはくり返されるのだ。
 自らの愚かさが妻に、そして息子に与えた苦しみの大きさを思って、彼は泣いた。涙は
出なかった。彼は消えようとしていたが、それは一時のことに過ぎなかった。いずれまた
彼は甦り、息子、あるいはその協力者たちの手で滅ぼされるだろう。そのたびにわが子
は、実の父をその手で殺す苦痛を味わうことになるのだ。
 すまない、と最後に告げようとした。だがもう刻がなかった。黙然と立つ息子の顔に、
深く刻みこまれた痛みと嘆きを彼は見た。母のおもかげを受けついだその顔、かつて自分
のものであった剣を握ったその手。これから彼は幾度父殺しの罪を味わうことになるの
か。
 すまない、と唇を最後に動かし、魔王は混沌の闇に消えた。
 かさねて二度父を屠った剣を下げ、顔を覆って公子は立ちつくした。

100古歌-イニシエウタ-【結ノ歌】2/2:2011/03/28(月) 00:36:53

 
 二度にわたる父殺しの傷は、公子の身と心を永遠にその瞬間に縛りつけてしまった。時
間は彼に一指も触れることなく通りすぎ、本来ならば時が癒してくれるはずの傷も、口を
開け、血を流しつづけるまま残った。
 公子は仲間を得、暖かな人々に迎えられた。だが孤独はどこまでもついて回った。十八
歳のままのやわらかな心と魂をかたい殻でおおうことで、公子はそれに対した。彼は笑わ
ず、語らず、楽しまなかった。苦悩の終わる日は見えなかった。定められたその日までは
──
 ──一九九九年七の月、魔王と、その魔力の根源たる城を、おのが呪われた身とともに
完全に消滅させる、その日までは。

-end-


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