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やる夫は人生に絶望しているようです35

1名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:04:24 ID:nhlWA29c0
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2名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:04:42 ID:nhlWA29c0
三国時代、ある家に男子がいなかった場合、姉妹の子などの異姓の親族から養子を迎えることがしばしばあった。

朱治・朱然の朱氏や、陳矯などが有名だ。
代々通婚していたという曹操の曹氏と夏侯氏もその例かもしれない。

ところで、朱然の子の朱績は、父朱然の本来の姓である施氏に戻りたいと皇帝孫権に願い出て、なんとか認められて施然と改姓したのだという。

この養子関係は、元に戻る可能性があるものなのだ。

ということは、曹操の父曹嵩は夏侯氏だったと言われているから、曹操も夏侯氏に改姓できる状態だったのだ。

しかしここで問題がある。曹操は子女を夏侯氏と結婚させているのだ(娘と夏侯惇の子を結婚させたりしている)。
姓を戻したら「同姓不婚」の禁を犯すことになる。

というか、姓を戻していなくても実質的には既に同姓不婚に反している、というのが当時の人々の認識だったのかもしれない。
陳矯はそういう批判を受けているのだ。



曹魏はなぜ曹操の父曹嵩の出自を隠したのか。

私は、曹嵩の出自が曹操の「同姓不婚」違反を明らかにしてしまうことが原因ではないかと思っている。

3名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:05:06 ID:nhlWA29c0
実はそれの原作まだ読んでないんですが、『赤毛のアン』でアンが激白してる内容から考えると、正直言って陰惨な話になるような気がするんだけど、どうなんでしょうか。

見もしないうちから言うのも何なんですが、『アンの青春』『アンの愛情』をやるべきだと思います。

4名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:05:25 ID:nhlWA29c0
魏國置丞相已下群卿百寮、皆如漢初諸侯王之制。(『三国志』武帝紀)

所署置依漢初諸侯王故典。(『三国志』先主伝)

なんでわざわざ「漢初諸侯王」の制度に準拠すると但し書きするかといえば、当時の諸侯王は領国も小さく、独自の官僚制度も制限されていたため。
それに対し漢初の諸侯王は丞相や相国を置き、官僚制度もほとんど漢と同一であったのだ。

この例外規定があるため、魏は相国、漢中は丞相を置いたのである。

5名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:05:49 ID:nhlWA29c0
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6名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:06:02 ID:nhlWA29c0
              , -―――-、
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         ゝ       `r-イ_,)        |
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     l         `ー――‐-T´
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7名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:06:33 ID:nhlWA29c0
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    .        |. u   t'' Oj´  ィOツ ',       む、むぅ……たしかに不安はある
    .          ',      `¨¨´   ヽ   l
    .           ヽ.     (_ノ--'  ノ
    .       _ ---‐| \、 ___´¨`,..-<        だがしかし……やっぱり……!
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8名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:06:44 ID:nhlWA29c0
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9名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:07:05 ID:nhlWA29c0
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10名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:07:37 ID:nhlWA29c0
[ 板情報 | カテゴリランキング ]【ニュース】塩を入れすぎた朝も愛おしい。岡奈なな子が魅せる「ちょっといい朝ご飯」の幸せな時間
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やる夫は人生に絶望しているようです31
1:名無しのやる夫だお:2020/05/09(土) 10:13:33 ID:S/KTezlY0
年齢、学校名、会社名を書き込んだ奴等は絶対に許さない
一生では済まない
来世も永遠に許さない
永遠に恨み憎み続ける

11名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:07:53 ID:nhlWA29c0
[ 板情報 | カテゴリランキング ]【ニュース】霜降り明星・粗品、笑い飯・哲夫に苦言を呈す「哲夫さん、かっこ悪いですよ」
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【希望】やる夫は為替取引に手を出すようです【絶望】
1:現実 ◆Rm09Y8LTKA:2014/06/06(金) 00:44:25 ID:gIiBBLFg0
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓

     やる夫は為替取引に手を出すようです
       

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 ヽ    -一ー_~、⌒) |r┬-|  | |           |     。    。    。
  ヽ ____,ノ   `ー'´                  。     。        。



これは実体験を元にした物語です。
スレ初心者ゆえに見苦しいところもあるかもしれませんがエタらないよう
頑張りますので暖かい視線で見守りください

12名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:08:12 ID:nhlWA29c0
『ONE PIECE (ワンピース)』第1159話「運命の島」感想「ゴッドバレー事件の真相が次々明らかに/どんだけの因縁が交錯?/ガーリングが想像以上のクズ/デービー一族の正体とは」【反応集】

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13名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:08:34 ID:nhlWA29c0
初平二年、黃巾三十萬衆入郡界、劭糾率文武連與賊戰、前後斬首數千級、獲生口老弱萬餘人、輜重二千兩。賊皆退却、郡內以安。
(『後漢書』応劭伝)

(初平三年)青州黃巾衆百萬入兗州、殺任城相鄭遂、轉入東平。
(『三国志』武帝紀)

思うに、泰山太守応劭が初平2年に撃退した黃巾30万とは、あの曹操が降伏させたと言われる青州黃巾100万の一部(曹操が下した卒は30万とされている。応劭が迎撃したのが卒30万だとすると辻褄が合う)ではないだろうか。

もしそうだとすると、青州黃巾は泰山郡に侵入しようとして応劭に阻まれ、その後任城相や兗州刺史を殺し、それから曹操が立ち向かった、ということになる。

応劭が物凄いのか、この時の青州黃巾は郡太守がガチバトルを挑めば五分五分くらいの確率でどうにかなる相手だったのか、それとも1年の間に人数が3倍に膨れ上がったのか。

14名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:08:55 ID:nhlWA29c0
(曹)嵩靈帝時貨賂中官及輸西園錢一億萬、故位至太尉。及子操起兵、不肯相隨、乃與少子疾避亂琅邪、為徐州刺史陶謙所殺。
(『後漢書』宦者列伝)

なにかを思いついたわけではないんだが、疑問に思うので挙げてみた。

なんで曹嵩は琅邪に行ったんだろう。この頃の琅邪というと、臧霸たち「泰山の諸将」がたむろっていたあたりのはず。
琅邪が出身でもないはずの曹嵩が、どんなツテで行く事になったんだろう。

疎開というには危険な気もするんだが、曹操と一緒にいるよりも安全だったんだろうか。

15名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:09:14 ID:nhlWA29c0
妻の捉え方が違うのかもしれんけど、下界の人を散々蔑んでるくせに美しいシャッキーを妻にしようとする天竜人がキモすぎる

16名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:09:27 ID:nhlWA29c0
何がキモいっていわゆるゴミを見る目とかじゃなくて、本当に親しい相手に向ける顔で話した直後にやったこと。完全に異生物だわ

17名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:09:42 ID:nhlWA29c0
①ガンジーが助走つけて殴るレベル
②インド人が水質指摘するレベル
③イギリス人がシェフ呼ぶレベル
④チャルロス聖がマシに見えるレベル

18名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:10:06 ID:nhlWA29c0
永平二年、以太山之蓋﹑南武陽﹑華、東萊之昌陽﹑盧鄉﹑東牟六縣益琅邪。・・・
京國中有城陽景王祠、吏人奉祠。神數下言、宮中多不便利、京上書願徙宮開陽、以華﹑蓋﹑南武陽﹑厚丘﹑贛榆五縣易東海之開陽﹑臨沂、肅宗許之。・・・
初、邈(※順王容の弟)至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此紱於邈。
(『後漢書』琅邪孝王京伝)

後漢の琅邪王にはちょっと面白いエピソードがあった。

あの城陽景王祠のお告げに従って東海国から開陽や臨沂をトレードしてきてること。

一旦は泰山郡から所管換えした華県が再度トレードされてること。

後漢琅邪国の都は後漢末に臧霸らが本拠にした開陽であること。(王と臧霸らの関係はどうだったんだろうか?)

城陽景王祠をぶち壊したことや徐州殺戮で有名な曹操を琅邪王の弟が褒め称えてること。(時間軸的には徐州攻めの前だが)

考えてみると諸葛亮らは琅邪郡ではなく、生まれたころは琅邪王国の人間だったんだなあ。

19名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:10:50 ID:nhlWA29c0
前漢では琅邪王氏の出身県である臨沂県や、後漢琅邪国の都である開陽県は東海郡に属していた。

また、ご存知諸葛亮の出身陽都県は城陽国。
城陽国は後漢初に琅邪に併合となっているのだ。

20名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:11:10 ID:nhlWA29c0
前漢の諸侯王の国を治めるのは相(諸侯相)。
民を治めるのは内史。

あれ?と一瞬思うが、これはこういうこと。

内史というのは首都圏の民政長官(都知事みたいなものか)。
前漢初期では諸侯王の国は複数の郡を含んでおり、おそらく内史はそのうち都の近辺の直轄領を治めたのであろう。他の郡はもちろん郡太守がいたはずだ。
諸侯相はその内史、郡太守、諸卿全ての上に立つ宰相だったのだ。

だが、諸侯王の国がどんどん細分化され、しまいには一つの郡より小さくなってしまうと、諸侯王の国は内史の管轄=全土になる。
そうなると、諸侯相と内史が分離している理由が無くなってしまうので、成帝の時の内史廃止ということになったのだろう。

晋の時代になると諸侯相が内史へと改称されるが、これはもしかすると「太守」と官名の文字数を揃えるためなんだろうか。

21名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:11:56 ID:nhlWA29c0
前漢の諸侯王の国を治めるのは相(諸侯相)。
民を治めるのは内史。

あれ?と一瞬思うが、これはこういうこと。

内史というのは首都圏の民政長官(都知事みたいなものか)。
前漢初期では諸侯王の国は複数の郡を含んでおり、おそらく内史はそのうち都の近辺の直轄領を治めたのであろう。他の郡はもちろん郡太守がいたはずだ。
諸侯相はその内史、郡太守、諸卿全ての上に立つ宰相だったのだ。

だが、諸侯王の国がどんどん細分化され、しまいには一つの郡より小さくなってしまうと、諸侯王の国は内史の管轄=全土になる。
そうなると、諸侯相と内史が分離している理由が無くなってしまうので、成帝の時の内史廃止ということになったのだろう。

晋の時代になると諸侯相が内史へと改称されるが、これはもしかすると「太守」と官名の文字数を揃えるためなんだろうか。

22名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:14:40 ID:nhlWA29c0
古代中国語では、「犬」や「馬」などの動物名が、単に“動物”全般を指すこともあった。

23名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:15:21 ID:nhlWA29c0
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24名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:15:35 ID:nhlWA29c0
『ONE PIECE (ワンピース)』第1159話「運命の島」感想「ゴッドバレー事件の真相が次々明らかに/どんだけの因縁が交錯?/ガーリングが想像以上のクズ/デービー一族の正体とは」【反応集】

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25名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:16:28 ID:nhlWA29c0
内史というのは首都圏の民政長官(都知事みたいなものか)

26名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:17:33 ID:nhlWA29c0
領軍と護軍と監軍と督軍と撫軍って何がどう違うんだろうねえ。

27名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:18:15 ID:nhlWA29c0
劉邦が竹の皮で作らせたのが劉氏冠。亭長時代からかぶっていて、その後これは「劉氏冠」と呼ばれるようになった。

28名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:19:29 ID:nhlWA29c0
金持ちならカンボジアで貴族みたいになれないだろうか

29名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:19:39 ID:nhlWA29c0
レギュラーが途中でいきなり死亡脱落ってのは珍しい気がするな。

だいたい昔(昭和末期頃)の仕事人はそんなにドライでクールな感じでもなかったよね。今シリーズは意外と重い。嫌いではないが。

30名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:20:09 ID:nhlWA29c0
なんかまだダルいよ。でも明日から仕事なのでダルいことは忘れることにする。

31名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:20:26 ID:nhlWA29c0
帝以所作光武本紀示蒼。
(『後漢書』東平憲王蒼伝)

ここの帝は明帝。つまり光武帝の息子。
実父の本紀を子が作るってどうなんだろうね、この場合。

32名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:20:52 ID:nhlWA29c0
たまに三国志のいわゆる「二宮事件」を考えてみたくなる。

33名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:21:32 ID:nhlWA29c0
たまに三国志のいわゆる「二宮事件」を考えてみたくなる。

私が二宮関係の列伝等を眺めてて不思議に思うのが、孫権の陸遜への対応。

丞相陸遜は皇太子交代の議論があると知ると、「皇太子と魯王の区別をつけなされ」みたいな諫言をした。すると太子の「もりやく」である太子太傅吾粲は陸遜との文書のやりとりを理由に獄に下され、陸遜自身も孫権の使者により責め詰られ、怒りを発して急死した。
しかも、陸遜が死ぬと子の陸抗に「楊竺が陸遜について言った二十事」を詰問している。

是儀も似た様な諫言をしているのだが、こんな目には遭った様子は無い。

それ以上に不思議なのは、なぜこの諫言で「詰問」する必要があるのか、ということ。諫言を無視するというなら分かるが、陸遜親子は何かを「二十事」も詰問されているのだ。魯王派急先鋒の楊竺からの「二十事」とはいえ、一体何を言えば周囲まで巻き込むような大事になるのだろう?

私はどうしても腑に落ちない。よく孫権の老害だのと言われるが、仮に孫権がこの時曖昧だったとしても、こんな苛烈で不可解な爆発は他にないのではなかろうか。



(この疑問が恐ろしくスッキリ解消してしまう話があるわけだが、これを敢えて外して考えてみた。)

34名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:21:54 ID:nhlWA29c0
濟川王明坐殺太傅、中傅廢遷防陵。
(『漢書』武帝紀)
應劭曰「中傅、宦者也。」
(同注)

漢の諸侯王には太傅がいた。いわゆる「もりやく」。監視役ともいう。

で「中傅」という宦官の「もりやく」もいたらしい。

『漢書』百官公卿表や『続漢書』百官志には見えないが、確かに存在はしていたようだ。

35名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:22:43 ID:nhlWA29c0
為四姓小侯開立學校、置五經師。

(注)袁宏漢紀曰、永平中崇尚儒學、自皇太子、諸王侯及功臣子弟、莫不受經。又為外戚樊氏、郭氏、陰氏、馬氏諸子弟立學、號四姓小侯、置五經師。以非列侯故曰小侯。禮記曰「庶方小侯」、亦其義也。

(『後漢書』明帝紀)

後漢には「四姓小侯」というある種の特権階級があった。桓帝紀によると後に梁・訒両氏も仲間に加わったらしい。
これら皇帝の外戚家のための学校が作られ、そこで儒学を学ぶ事ができたということのようである。
他にも皇帝による下賜などの際にも官僚待遇で恩恵に与れるなどの余禄もあったようだ。

儒学を学んだ四姓小侯たちは官僚となり、栄えていったのだろうか。

後漢では外戚家の子孫と思われる者が末期頃まで多く官界に残っていたように思われるのだが、この制度が一因だったのかもしれない。

36名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:23:01 ID:nhlWA29c0
四姓小侯

37名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:23:35 ID:nhlWA29c0
詔令死罪繫囚皆一切募下蠶室、其女子宮。
(『後漢書』光武帝紀下)

「死罪で繋留されている罪人から蚕室送りになる者を募集し、女子は宮刑(注によると幽閉)とした。」

私は蚕室に下す=宦官にする=宮刑と思っていたが、ここでは女子についてだけ「宮」という字が使われている。

少なくとも漢律の世界では「下蚕室」と「宮(刑)」は同一のものを指すわけではではないようだ。

38名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:24:04 ID:nhlWA29c0
ここで言うのはおかしいかもしれないけど、俺も江陵に居たのがどんな者だったのか、は常々疑問に思ってた。
劉備のそれまでの言動を考えたら、親劉備的な存在ではないかと思ってはいるが。

もっとも、反劉備的な将がいたけど劉備は攻め落とす気だったという可能性も無くはないが。関羽に兵を分けて別行動したのもそのためかもしれないし。

39名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:24:21 ID:nhlWA29c0
近鉄京都線の踏切で走行中の特急電車と自動車が接触…車が炎上、乗っていた少なくとも1人が死亡 京都・精華町
FNNプライムオンライン によるストーリー•
33 分

40名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:25:07 ID:nhlWA29c0
呂后8年
・酈商 死亡
・恵帝の子4名 死亡
・文帝の子4名 死亡
文帝元年
・楚王劉交 死亡
・元御史大夫任敖 死亡
文帝2年
・丞相陳平 死亡
・斉王劉襄 死亡
・燕王劉沢 死亡
文帝3年
・元丞相審食其 死亡
・城陽王劉章 死亡
・済北王劉興居 死亡
文帝4年
・丞相灌嬰 死亡

呂氏が滅びて文帝が即位した前後から数年の間に、諸侯や大臣の間に多数の死者が出ている。
これは偶然なんだろうか。

41名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:26:30 ID:nhlWA29c0
こんばんわ。
そもそも統一秦の制度に皇后が居たかどうかという問題になりますね。
統一秦の皇后の記述は『漢書』卷九十七外戚傳上に「漢興、因秦之稱號、帝母稱皇太后、祖母稱太皇太后、適稱皇后、妾皆稱夫人。」とあるぐらいですかね。
……と「天子の好逑--漢代の儒教的皇后論」(『東洋史研究』第61巻第2号)という論文から少し情報中継してみました(笑)

42名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:26:51 ID:nhlWA29c0
なぜか最強を自称したノイトラに対するみんなの反応【BLEACH 反応集】

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43名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:27:13 ID:nhlWA29c0
おっしゃるとおり、『漢書』外戚伝や百官公卿表(将行など)の記述からは、秦に「皇后」の制度があったことは間違いないと思います。
ただこれが「制度上存在していたけれど立てられなかった」のか、「実際に立てられていたけれど『史記』では確認できなくなっている」のかは不明としか言いようがないと思います。
t-hirosaka様も指摘するように、始皇帝には複数の子が居たので、妻妾がいたことは間違いありませんが、彼女たちはどうなったのでしょう。
また、二世皇帝胡亥にも皇后、皇太后に関する記述を見た覚えがないのですが、彼も皇后、皇太后を立てなかったんでしょうか。謎は深まるばかりです。

44名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:28:00 ID:nhlWA29c0
思いつきで適当な妄想をしてみた。


秦の始皇帝、二世皇帝について、その時代のほぼ唯一の信頼できる史料である『史記』には皇后が居たという記載が無い。

しかし、『漢書』では秦に皇后や皇太后の制度があったことを記している。

それはなぜか。『史記』に秦の本紀や伝が記されるまでの段階で、何らかの事情で隠蔽されたのではないか。

では誰が、あるいはどんな事情で隠蔽したのか。隠蔽できるだけの権力または立場に居たのは、相当な権力者か皇帝、さもなくば司馬遷本人である。

だが『史記』といえば漢の高祖劉邦の子捨て父見捨てなどの醜聞もしっかり取り上げていることで有名だ。

ということは、司馬遷本人が隠蔽したのだ。

何故か。きっと、司馬遷の親族が始皇帝か二世の皇后(またはその両方)と縁続きなのだ。

司馬遷の先祖は秦の司馬錯で、白起の副将も輩出している。秦ではなかなかの家柄なのだ。後宮に入り皇后となる女子が居ても不思議ではない。

だが統一秦が滅び、漢の世となってしまうと、始皇帝の皇后(もしかすると二世の皇后や二世の母かもしれないが)という名は極めつけの悪名になってしまう。司馬遷の家はそのことを隠し、『史記』でもそれがバレないように細工したのだ。きっと。

45名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:28:23 ID:nhlWA29c0
例えばなんだけど、始皇帝の秘密主義的なものがあるんじゃなかろうかと。
ようは自分のプロフィールを出したく無いミュージシャンみたいに家族構成が秘匿されていた感じで。
阿房宮なんてのがあるんだから奥さんたくさん居るはずなのに、そゆのが無いってのも
つまり、始皇帝自身が、功績のみ意外情報を秘匿していた可能性ってどうでしょ?

46名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:29:02 ID:nhlWA29c0
後漢光武帝の長男、東海恭王劉彊。

彼は当初光武帝の皇太子だったが、母郭氏が皇后を廃されて以降は皇太子を降りたがっていたとされ、最終的には皇太子廃位を許されて東海王となった。自分から皇太子を辞したこと、その後も処分されたりしなかったことなどは美談として語られる。

彼の享年は34歳。光武帝死去の翌年に死んでいる。
ちょっとタイミングよすぎるかな、と思わないでもない。

47名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:29:29 ID:nhlWA29c0
後漢光武帝の長男、東海恭王劉彊。

48名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:30:29 ID:nhlWA29c0
市町村ナンバー形状

49名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:31:11 ID:nhlWA29c0
伏皇后の密書を悩んだ挙句曹操に密告したら「なんでもっと早く言わないの?」と言われて目が泳ぐ荀紣が好きな子(いやそんな子は居ないと思うが)必見のサイト。一応張っておく。休止が残念。

50名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:31:25 ID:nhlWA29c0
あの王莽の官位。

・黄門郎(宮殿の衛兵)
・射声校尉(エリート弩兵隊長)
・騎都尉(エリート騎兵隊長)
・大司馬(武官全体の長)


王莽は軍人。



(意図的に一部の官位を省略してます)

51名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:31:55 ID:nhlWA29c0
彭城靖王恭、永平九年賜號靈壽王。十五年、封為鉅鹿王。建初三年、徙封江陵王、改南郡為國。元和二年、三公上言江陵在京師正南、不可以封、乃徙為六安王、以廬江郡為國。
(『後漢書』孝明八王列伝)

「賜號靈壽王」とあるが、これはつまり「霊寿王」という称号だけ貰って領国は無いということらしい。幼年だからなのか、封建するべき国の空きがなかったからなのか分からないが。

もう一つ、江陵に封建すべからずという三公の進言も面白い。前漢では洛陽に封建することを武帝が拒んだように、洛陽を都とする後漢では封建すべきでない地の一つとして江陵が存在したということだ。

52名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:32:31 ID:nhlWA29c0
米沢は伊達政宗生誕地だったりしますが、現在、現地では伊達政宗のことはほとんどと言っていいほど言われてません。
ドラマ関係で直江アピールが強いということもあるでしょうが、むしろ伊達氏は敵のイメージなのかもしれません。

53名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:32:51 ID:nhlWA29c0
【ワンピース】最新1163話 伝説たちの一斉攻撃見開きがヤバすぎる…に対する読者の反応集

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54名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:33:34 ID:nhlWA29c0
前漢の権臣霍光の娘婿。

・訒広漢(長楽衛尉)
・范明友(度遼将軍、衛尉)
・趙平(散騎、騎都尉、光禄大夫)
・任勝(諸吏、中郎将、羽林監)
・金賞(奉車都尉)
・劉病已(皇帝)

娘何人いるんだ。

55名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:33:59 ID:nhlWA29c0
前漢高祖時代の代王について、ちょっと変な感じになってるのを見つけた。

『史記』高祖本紀によると、高祖6年に韓王信が太原に移封され、翌7年に匈奴に降伏。その年に兄劉仲(劉喜)を代王に立てている。しかし劉喜は8年に国を放棄している。その後高祖11年になって趙相国陳豨の乱の平定後に高祖の子劉恒(文帝)が代王に立てられた。

『史記』漢興以来諸侯王年表では、代は韓王信が王に立てられ、彼が匈奴に降伏した後に王国ではなく郡となり、高祖11年に高祖の息子劉恒(文帝)が王に立てられたとされている。

『漢書』高帝紀下では、高祖6年に代王劉喜が立てられ、劉喜は7年に匈奴来襲から国を逃げ出した。そこで高祖は子の劉如意を代王に立てている。高祖9年になり、趙王が謀反で廃位されると劉如意が代わりに趙王となった。翌10年に代相国陳豨が反乱し、その翌年11年に乱が平定されると劉恒が代王に立てられている。

『漢書』諸侯王表では、劉喜は高祖6年から7年まで代王。劉如意は9年に趙王に立てられている。劉恒は11年に代王に立てられている。


何が問題か。
まず高祖10年に反乱した陳豨は『史記』本紀では趙相国、『漢書』本紀では代相国となっているが、その時点ではどちらも王が不在なのだ。
それどころか、『史記』淮陰侯列伝では、陳豨は「鉅鹿守」となっており、相国ではないのだ。だが『史記』韓信盧綰列伝では趙相国と言われている。
更に、『漢書』本紀では劉如意が劉喜と入れ替えで代王になっているが、この記録は他には見えず、他の記録ではいずれも代には劉喜から劉恒までの間が不在であったかのようになっている。これは『漢書』劉如意伝でも同じであり、劉如意が高祖7年から9年まで代王だったようには書かれていない。

一体、この混乱はなんなんだろう。

56名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:35:53 ID:nhlWA29c0
陳豨は趙相国でいいんじゃないですか。高祖9年に趙王張敖が廃されて劉如意が趙王となり、
翌10年に趙相国陳豨が反乱したということで。
代相国でもあったかもしれません。劉如意が高祖8(7)年から代王だったとするならですが。
張耳陳余伝とも合わせてみると、つじつまはこれが最も合うと思います。
といっても記述の混乱の理由は分かりませんが。

57名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:37:01 ID:nhlWA29c0
『史記』淮陰侯列伝での「鉅鹿守」がちょっとひっかかるんですよね。
趙王張敖が廃位された時点で趙への派遣が決まり、資格は「鉅鹿守」だった。それから劉如意が趙王になったから任地はそのままで「趙相国」になった、と考えればいいのかな。
「代相国」、および劉如意が代王だったという記録が『漢書』のものだというのもなんか気になる。
気になる、以上のはっきりしたことが言えないのでもやもやするんですけどね。

58名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:37:20 ID:nhlWA29c0
五経無双こと後漢の人許慎さんの『説文解字』見てみたら、前漢の皇帝の名前はそのまま書いてるけど(皇帝の名前だという注釈も無い)、後漢の皇帝の名前は「上諱」と書いて避諱してるみたいだ。

前漢の皇帝の名前に対しては後漢では避諱しなくても良くなってたんだろうか。

59名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:38:14 ID:nhlWA29c0
漢の高祖の皇后で恵帝の実母、呂后。

恵帝死後、彼が皇太后として実権を握る時代となった。

彼女は諸侯王の劉氏、高祖の功臣である大臣たちを敵に回しつつ呂氏の勢力を伸ばし、ついには呂氏を王とすることに成功した。

その裏には、自分に従う者への「飴」と、諸侯を監視し従わない場合に処分する「鞭」があった。

その一つに、諸侯王の宰相(諸侯相)への褒賞および自派閥からの諸侯相派遣がある。

呂后の時代、以下の者が列侯となっている。
・斉受(斉丞相):斉王劉肥(高祖の子)の丞相
・呂勝(淮陽丞相):淮陽王劉強(恵帝の子)の丞相
・朱通(呂丞相):呂王呂嘉(呂氏)の丞相
・王恬啓(梁丞相):梁王劉恢(高祖の子)の丞相
・徐徐s(恒山丞相):恒山王劉朝(恵帝の子)の丞相
・呂更始(楚丞相):楚王劉交(高祖の弟)の丞相
・越(長沙丞相):長沙王呉右(呉芮の子孫)の丞相

諸侯相は諸侯王の宰相であり、諸侯王の行動を制限、監視しうる立場にある。その者たちを列侯とするというのは、呂氏に反抗的な諸侯王の宰相に対しては監視への褒賞であるし、呂氏一党の諸侯王の宰相に対しては忠勤への褒美であろう。

もちろん全ての諸侯相についてそういう褒賞が行われたわけではない。他の諸侯王に対しても、また別の手段があるのだ。
・趙王劉友(高祖の子):后が呂氏
・趙王劉恢(高祖の子):后が呂氏
・淮南王劉長(高祖の子):呂后の元で育つ

60名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:39:29 ID:nhlWA29c0
劉邦死亡時に残っていた諸侯王一覧

61名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:40:12 ID:nhlWA29c0

王国名 諸侯王名 備考
魯国 劉交(りゅう・こう) 劉邦の弟。魯元王。
趙国 劉如意(りゅう・にょい) 劉邦の子。趙王。呂后により毒殺。
燕国 盧綰(ろ・わん) 劉邦の幼なじみ。のちに匈奴に亡命。
楚国 劉交(りゅう・こう) 魯王から楚王に転封(諸説あり)。
代国 劉仲(りゅう・ちゅう) 劉邦の弟。のちに廃される。
淮南国 劉長(りゅう・ちょう) 劉邦の子。のちに反乱を起こす。
梁国 劉恢(りゅう・かい) 劉邦の子。梁王。
淮陽国 劉友(りゅう・ゆう) 劉邦の子。淮陽王。
常山国 劉衡(りゅう・こう) 劉邦の子。常山王。
膠西国 劉賈(りゅう・か) 劉邦の子。膠西王。
斉国 劉肥(りゅう・ひ) 劉邦の長子。斉王。

62名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:40:46 ID:nhlWA29c0
つまり、呂后は諸侯王対策として、宰相に息のかかった者を送り込むことや、后を呂氏とすることなどで諸侯王の不逞の行いを監視、統御していたのである。

では、他の王はどうか。
上記に出てこない当時の王は呉王、燕王、代王である。
あの呉王劉濞については、おそらくは遠方ゆえに放置状態なのだろう。
燕王劉建は高祖の子であるが、彼は死後に側室から生まれていた子を呂后に始末されており、正妻や側近が呂氏だったのではないかと思わせる。

となると、残りは代王恒、すなわち後の文帝である。
彼も高祖の子なのだが、どうも彼についてははっきりとしたことが分からない。他の高祖の子が全て監視下に置かれるか殺されるかしていたことを考えると、辺境に封じられた彼とて例外とは思えないのだが・・・。
勘ぐり過ぎとの謗りを覚悟の上で言わせてもらうと、ちょっと何か隠されているような気がしてしまう。

63名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:42:13 ID:nhlWA29c0
はっきりと言うと、「代王恒=文帝の王時代の正妻は呂氏縁者だったんじゃない?で、文帝が即位するに当たって子供ともども始末されたんじゃない?」ということです。
断言することは決して出来ませんが、状況証拠はかなり「黒」に近いと私は思います。

64名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:42:42 ID:nhlWA29c0
四月、擊陳豨、屬太尉勃、以相國代丞相噲擊豨。一月、徙為代相國、將屯。二歲、為丞相、將屯。孝惠五年薨。
(『漢書』傅𥶡伝)

陳豨の乱平定に加わった漢の高祖の将である傅𥶡は、代の相国、次いで丞相となった。
「将屯」とはおそらく兵を率いて代に駐屯したということだろう。

代というのは陳豨が匈奴と組んで反乱を起こしたいわくつきの地。傅𥶡の屯兵は匈奴と陳豨の残党に備えたものなんだろう。


高祖の子、劉恒が封建された代とはそういう土地柄。長安との距離を考えても、諸侯王たちがさまざまな締め付けや危険にさらされた呂后時代において、呉王劉濞と違い単に放置するというのはちょっと無さそう、と思う。

65名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:43:53 ID:nhlWA29c0
春秋時代の徐王

66名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:44:54 ID:nhlWA29c0
春秋時代にかけて中国に存在した東夷諸国の一つ。徐戎や徐夷、徐方、舒とも称され ... 徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力である ...

67名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:45:28 ID:nhlWA29c0
これが答えられませんなのはよく分からんね、何か中国のやばい情報と音や字が似ているのか

68名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:45:53 ID:nhlWA29c0
徐(じょ、紀元前20世紀頃 - 紀元前512年)は、夏代から春秋時代にかけて中国に存在した東夷諸国の一つ。徐戎や徐夷、徐方、舒とも称される。

69名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:46:25 ID:nhlWA29c0
概要
夏代から周代にかけては現在の山東省臨沂市郯城県に位置していた。周初に安徽省宿州市泗県、江蘇省宿遷市泗洪県一帯を中心とした。東夷諸国のなかで強大な勢力を誇ったが、春秋時代に楚による攻勢を受け、紀元前512年に呉により滅ぼされた。

『後漢書』東夷伝に「管、蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」とある[1]。管は河南省鄭州の地でここに周武王の弟の管叔鮮が封じられ、蔡は河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は徐州付近の広域地で、徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した[1]。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた[1]。

70名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:46:35 ID:nhlWA29c0
概要
夏代から周代にかけては現在の山東省臨沂市郯城県に位置していた。周初に安徽省宿州市泗県、江蘇省宿遷市泗洪県一帯を中心とした。東夷諸国のなかで強大な勢力を誇ったが、春秋時代に楚による攻勢を受け、紀元前512年に呉により滅ぼされた。

『後漢書』東夷伝に「管、蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」とある[1]。管は河南省鄭州の地でここに周武王の弟の管叔鮮が封じられ、蔡は河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は徐州付近の広域地で、徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した[1]。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた[1]。

71名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:46:47 ID:nhlWA29c0
概要
夏代から周代にかけては現在の山東省臨沂市郯城県に位置していた。周初に安徽省宿州市泗県、江蘇省宿遷市泗洪県一帯を中心とした。東夷諸国のなかで強大な勢力を誇ったが、春秋時代に楚による攻勢を受け、紀元前512年に呉により滅ぼされた。

『後漢書』東夷伝に「管、蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」とある[1]。管は河南省鄭州の地でここに周武王の弟の管叔鮮が封じられ、蔡は河南省上蔡県の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は徐州付近の広域地で、徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した[1]。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた[1]。

72名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:46:57 ID:nhlWA29c0
考証
林泰輔は、朝鮮の「卵生説話」(赫居世居西干、鄒牟王、首露王、五伽耶王、脱解尼師今)と『賢愚経』『法苑珠林』『新唐書』『大越史記全書』『山海経』『大明一統志』『博物志』『後漢書』などにみられるインド古代伝説との類似性、および『三国遺事』に抄録された『駕洛国記(朝鮮語版)』に記される金官加羅国の始祖首露王の夫人の許黄玉が天竺阿踰陀国の王女であることを根拠にして、「古代にインド人が馬剌加海峡を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に加羅国を開いた」と述べており、加羅はインド人が切り開いたと指摘しているが[2]、関連して、林泰輔は、張華が著した『博物志』にみられる徐偃王の卵生説話におけるインド古代伝説との類似性から、中国もまたインドから流れてきたものと指摘している[3]。

脚注
^ a b c 奥田尚『徐の偃王物語と夫余の東明王物語』追手門学院大学文学部アジア文化学科〈アジア文化学科年報 2〉、1999年11月1日、52頁。
^ 林泰輔『加羅の起源続考』光風館書店〈支那上代之研究〉、1927年。
^ 李萬烈 (2005年6月). “近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 228-229. オリジナルの2015年9月8日時点におけるアーカイブ。
関連項目
徐偃王
カテゴリ: 夏殷周春秋戦国山東省の歴史周朝諸侯国
最終更新 2022年9月30日 (金) 20:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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73名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:47:09 ID:nhlWA29c0
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74名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:47:25 ID:nhlWA29c0
福岡県久留米市でふらつき走行 車運転の男を酒気帯び運転の疑いで逮捕
FBS福岡放送 によるストーリー•
7 時間

75名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:47:42 ID:nhlWA29c0
徐偃王(じょえんおう)は、中国徐国の政治家。『後漢書』の注釈を完成させた唐章懐太子は、徐偃王の部分の注に『博物志』を引用、徐偃王物語を記している[1]。

概要
『後漢書』東夷伝に「管・蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」とある[1]。管は河南省鄭州の地で周武王の弟の管叔鮮が封じられ、蔡は上蔡の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は現在の邳州市付近の広域地で、徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した[1]。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた。

76名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:47:57 ID:nhlWA29c0
徐君の宮人は妊娠して卵を生んだ。これを不詳とみなして、卵を水辺に棄てた[3]。
孤児や独り身の者たちを母のように養育する者がおり、彼女は鵠蒼という名の犬を飼っていた。鵠蒼は水辺に食を求めて、棄てられていた卵をくわえて彼女のところへ戻った。彼女は不思議に思い、卵を覆うようにして暖めた[3]。
卵から子が生まれたが、通常の子と違い寝そべるように横たわって生まれたため、名を偃(横たわる)とつけた[3]。
徐君の宮廷はそのことを聞き、子の誕生の次第を調べたうえで、宮中に迎えて養育した[3]。
子は成長すると仁智を備え、先代の徐君の後をつぎ徐国の君となった[3]。
その後、鵠蒼は死に臨んで、頭には角が生え、尾は九尾となり、黄竜の化身だった。鵠蒼のまたの名は后蒼であり、偃王が鵠蒼を葬った場所は、徐国のなかであり、現在も「狗壟」が残っている[3]。
徐王が国を治めにつれ、その仁義は有名となり、偃王は周へ船で行きたいと思い、陳と蔡の間に溝(運河)を通じさせたが、その時に朱色の弓矢を得た。その弓矢を得たことで、天瑞を得ることができたとして、自分の名を号として徐偃王と自称した[3]。
付近の淮・江の諸侯で偃王に服従する者が三十六国に及んだ。天下を支配していた穆王はこれを聞き、使者を楚に派遣して偃王を伐たせた。偃王は愛民の心があり闘わずして、楚に敗北した[3]。
敗北した偃王は北走し、彭城武原県に逃れた。万を超える人びとが偃王に随って移住した。それでその山の名を徐山とし、その山上に石室の廟をたてた[3]。
廟には神霊が宿り、人びとは祈るときには文を書いて割符のようにするというが、世代を隔てた古いことなので詳細を明らかにし難い。徐城の外には徐君の墓があり、昔、季札はその場所で剣を解いたが、それは心の許すところに違いたくないということからである[3]。

77名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:48:33 ID:nhlWA29c0
伝承
徐偃王物語に直接関係する部分は残されていないが、『竹書紀年』穆王三七年条に「伐楚。大起九師。東至於九江。比黿鼉以為梁」とあり、穆王は大亀や大鰐を叱りつけて梁すなわち橋をつくらせる話がある[4]。袁珂はこの話は楚を伐つ時のことではなく、徐偃王打倒の時とする説を支持しており、徐偃王物語には穆王との戦いの場面があり、大亀や大鰐が橋をつくる話が元来は存在していた可能性がある[4]。

考証
殷末周初の東夷を解明した古典的かつ基本的な研究に、貝塚茂樹の研究がある[5]。周武王は殷紂王を打倒したが、殷の祭祀は殷の旧領土に封じた武王の子の武庚禄父に継承させた。武庚禄父を一人の人名とする『史記』の説があるが、『論衡』などの二人の人名説が妥当である[5]。武庚は殷の故都(安陽)に封じられ、禄父は梁山出土の銅器の銘文からみて、梁山に封じられた。武庚は周に反乱、禄父も加担したが、周公旦や召公奭に平定された。周公旦や召公奭は、山東渤海まで遠征、恩賞として周成王は召公奭に徐地域を与えたが、実際に徐地域を支配したのは、召公奭の長男の燕侯=匽侯旨であり、燕侯=匽侯の号である「燕(えん)」「匽(えん)」は、旨が拠点とした「奄」(魯の近隣)の「奄(えん)」による。燕国出土銅器の銘文は「燕」を「匽」と記している。この匽侯旨が投影、伝説化されたのが徐偃王である[5]。召公奭は、『史記』に燕国に封じられたとあるが、易州出土の銅器の銘文からみて、これは燕侯旨が易州に封じられた史実を修飾したものである。燕侯旨が易州に移封されたのは、周公旦の長子の伯禽が匽つまり奄に封じられたためである。『史記』は周公旦が魯(匽つまり奄)に封じられたとするが、これは伯禽の史実を背景とする修飾である[5]。

周初に梁山地域に封じられた燕侯=匽侯旨が伝説化されたのが偃王物語の徐偃王である[5]。燕侯旨が燕国南部の易州に移封されると、旨の伝説的投影像である徐偃王物語も燕国に広まる[6]。さらに燕国が遼西から遼東へと支配を広げるに従い、徐偃王物語の伝達範囲も広がる[6]。

徐偃王物語は「卵生説話」であるが、三品彰英によりその分布や意味が検討されており、「卵生説話」はインドネシアを中心に、中国沿岸部から朝鮮半島、北東アジアに分布し、中国沿岸部は東夷と南方系住民が境を接して居住、この地域一帯に「卵生神話」などの海洋民族文化が流布していた[7]。それが春秋戦国時代から漢人が東進してきたため、東夷は北へ、南方系は南へ押し分けられた[7]。また殷は東夷といわれ、「卵生神話」はこの地域に存在した可能性もある[5]。

林泰輔は、朝鮮の「卵生説話」(赫居世居西干、鄒牟王、首露王、五伽耶王、脱解尼師今)と『賢愚経』『法苑珠林』『新唐書』『大越史記全書』『山海経』『大明一統志』『博物志』『後漢書』などにみられるインド古代伝説との類似性、および『三国遺事』に抄録された『駕洛国記(朝鮮語版)』に記される金官加羅国の始祖首露王の夫人の許黄玉が天竺阿踰陀国の王女であることを根拠にして、「古代にインド人が馬剌加海峡を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に加羅国を開いた」と述べ、加羅はインド人が切り開いたと指摘しており[8]、関連して、林泰輔は、張華が著した『博物志』にみられる徐偃王の卵生説話におけるインド古代伝説との類似性から、中国もまたインドから流れてきたものと指摘している[9]。

78名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:49:05 ID:nhlWA29c0
徐国は西周から春秋時代にかけて淮北に位置していた国である。夏の禹のときに伯益の子の若木が徐国に封じられた…などというのは眉唾だが、東夷の一派の「徐戎」はおそらくその起源なのだろう。周公旦の子の魯侯伯禽は徐戎や淮夷と争闘して国都の東門を開けることができなかった(『書経』費誓)。周の穆王のとき、徐の偃王がいて最盛期を迎え、周の国都まで侵攻しているが、けっきょくは敗北してその子孫は周に臣属している。
徐国は紀元前512年に呉によって滅ぼされている(『春秋左氏伝』昭公30年)ので、秦王政の時代に隠れ里のように存続していた…なんてことは多分ありえない。

徐国が実在していた考古学上の証拠もいくつかある。1965年に山東省費県上冶鎮台子溝村で「徐子氽鼎」が出土している。1979年には江西省靖安県で「雁君之孫徐令尹」の銘文をもつ青銅器が出ている。この雁君は徐の偃王のことといわれている。1982年には浙江省紹興市で「徐王之」の銘文をもつ青銅器が出ている。

西周のころにはわりと大国であったとイメージしてかまわないだろう。

79名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:50:45 ID:nhlWA29c0
前漢の諸侯王墓には、山を穿つ崖洞墓と“黄腸題湊”という竪穴墓の二大類型があり、前漢後期には黄腸木を石材に代えた黄腸石墓が現れる。前漢諸侯王の大型崖洞墓は主に河南省東部・江蘇省北部・山東省・河北省にあった梁・楚・魯・中山などの諸国に見られる。そのうちで数量の多いのは、前漢前期の梁国と楚国の墓である。

80名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:51:19 ID:nhlWA29c0
司馬懿の官職履歴

81名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:52:44 ID:nhlWA29c0
大将軍・曹爽そうそうと太尉・司馬懿しばいが輔政することになったため、曹爽と司馬懿に侍中を加え、符節と鉞を授け、都督中外諸軍・録尚書事にした。

82名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:52:58 ID:nhlWA29c0
司馬 懿(しば い、拼音: Sīmǎ Yì、 光和2年(179年) - 嘉平3年8月5日(251年9月7日))は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。字は仲達(ちゅうたつ)。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。西晋が建てられると廟号を高祖、諡号を宣帝と追号されたため、『三国志』では「(司馬)宣王」と表記されるが、西晋の始祖であるため独立した伝は立てられていない。

生涯
名門の家柄
河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次男で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卬の12世孫にあたる[1]。司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。

兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(中国語版)(季達)・司馬恂(中国語版)(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた[注釈 1]。妻に張春華、息子に司馬師・司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。

司馬懿は若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれ、崔琰にも高く評価された[2]。内心嫌悪している時も表面上は穏やかに振る舞い、疑り深いが臨機応変に動いたという[3]。

83名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:53:25 ID:nhlWA29c0
黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託された。曹叡は母の甄氏が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した曹叡は父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせた。同年、襄陽に侵攻した諸葛瑾・張覇らを徐晃らとともに破り、張覇を斬った。この功により驃騎将軍に昇進し[7]、曹真・曹休に次ぐ第三位の軍人となった。

84名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:54:17 ID:nhlWA29c0
蜀との戦い

清の時代、描かれた諸葛亮と司馬懿

清の時代に描かれた諸葛亮と司馬懿の対峙の様子
建安25年(220年)、曹操が死去した際に、遺体を鄴に運び葬儀を主催することを曹丕に命じられた[11]。曹丕が魏王に即位すると、司馬懿は河津亭侯に封じられ、丞相長史となった。同年、献帝からの禅譲を受け魏の皇帝となった曹丕は、司馬懿を尚書とした。また督軍、御史中丞にも任じ、安国郷侯に封じた。

85名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:58:22 ID:nhlWA29c0
司馬懿の現存する詩は、『晋書』に収録された以下の「讌飲詩」一首のみである[7]。

天地開闢 日月重光
遭遇際会 畢力遐方
将掃逋穢 還過故郷
粛清万里 総斉八荒
告成帰老 待罪舞陽

86名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:59:04 ID:nhlWA29c0
また、曹爽と同じく、剣履上殿(剣を帯び靴を履いたまま昇殿しても許される)・入朝不趨(謁見時に小走りに走らずともよい)・謁賛不名(皇帝に目通りする際は実名を避けてもらえる)の特権を与えられた。また、駐屯地の農業を振興し、大いに名声を高めた[28]。

87名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 18:59:53 ID:nhlWA29c0
司馬 師(しば し)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は子元。西晋が建つと世宗の廟号、景帝の諡号を贈られた。司馬懿の長男で、司馬昭・司馬榦の同母兄。生母は張春華[1](宣穆皇后)。

生涯
実権を受け継ぐ
司馬師は上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。若いときから「雅にして風彩あり」、「沈毅にして大略多し」など呼ばれるほどに評判が高く、夏侯玄や何晏らと名声を等しくした。何晏は常々、司馬師を称えて「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たす事ができる」と言っていた。魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、中護軍(中領軍とともに皇帝の近衛兵の指揮を執る役職)に昇進する。

司馬師は司馬懿と共に曹爽に対するクーデターの計画を練ったが[1]、弟の司馬昭すら兄の考えを知る事はできなかった。正始10年(249年)正月、クーデター決行日の早暁、司馬師は司馬孚と共に速やかに洛陽宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。その整然とした陣容を見た司馬懿は「子元もやるようになった」と言った。司馬師はかねてから死を覚悟した壮士(死士)を3000人ほど養っており[1]、クーデターに際してたちまち集結したが、周囲の者はどこから来たか分からなかった。司馬師はこの功績により衛将軍となった。

→「高平陵の変」も参照
嘉平3年(251年)8月に司馬懿が亡くなると「伊尹既に卒するも、伊陟事を嗣ぐ」と言われ、撫軍大将軍として魏の全権を掌握した。嘉平4年(252年)には大将軍になった。

88名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:01:28 ID:nhlWA29c0
呉との戦い
同年、孫権の死に乗じて胡遵・諸葛誕らに呉の東興を攻めさせたが、呉の大将軍の諸葛恪に大敗した[1](東興の戦い)。この敗戦の罪を諸将に問うべきという意見がこの時朝廷ではあったが、司馬師は「諫言を聞かずここに至った。これは私の過失である。諸将に何の罪があろうか」とその罪を自ら引き受けようとしたため、かえって人々は皆恥じてその度量に服したという[1]。ただし胡三省は「(司馬師のこうした言動は)自己の権力を固めようとしたものである。盗賊にもそのやり方がある。ましてや国を盗むならなおさらであろう」と辛辣な評価を下している(『資治通鑑』)[2]。

89名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:02:34 ID:nhlWA29c0
伊陟(いちょく、Yi Zhi、生没年不詳)は中国殷の政治家。伊尹の子[注 1]。賢人として知られ、殷王の太戊(中宗)に用いられてこれをよく補佐し、先代の雍己の時代に威信が衰えた殷を復興させた。

経歴
『史記』殷本紀によれば、殷王太戊の宰相を務めた。『竹書紀年』と『汲冢書』では、伊尹が太甲を廃して自らが即位し、後に太甲が復位した際に伊尹を殺してその子の伊陟らを用いたとされる[注 2][注 3]。

90名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:03:10 ID:nhlWA29c0
正元2年(255年)正月、寿春で毌丘倹・文欽の乱が起こる。司馬師が10万の軍勢を指揮して討伐する間、中領軍の官職を兼ねて洛陽を守った。乱の鎮圧後、病で重篤となった司馬師を許昌で見舞うが、まもなく没した。曹髦は司馬氏の兵権を削ぐべく司馬昭を許昌に留め、傅嘏に軍を率いて帰還するよう詔勅を下す。しかし傅嘏は鍾会と相談の末にこれを拒み、司馬昭を奉じて洛陽に帰還した[6]。2月、司馬昭は兄の後継として大将軍・侍中・都督中外諸軍・録尚書事に昇った。甘露元年(256年)には高都公・大都督となった。

91名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:09:18 ID:nhlWA29c0
蜀漢の滅亡(しょくかんのめつぼう)では、中国の三国時代における、魏の鄧艾・鍾会らが蜀漢(蜀)を滅ぼした戦いについて記述する。

92名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:20:57 ID:nhlWA29c0
歴史
 将行は故の秦官。漢もこれを継ぐ。
 景帝中六年、更名して大長秋と為す。
 成帝鴻嘉三年、皇后の詹事官を省き、大長秋に併合する。

93名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:21:32 ID:nhlWA29c0

(前漢)
 一人、秩二千石。
 或いは中人(奄人、宦者)を用い、或いは士人を用いる。
 席次詹事の下。

94名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:21:57 ID:nhlWA29c0
 詹事とは、前漢代に置かれた朝廷の職官である。中宮(皇后の宮)及び太子家を司った。成帝鴻嘉三年に省かれ、その職掌は大長秋に併合される。
 また、皇太后の居る長信宮を司る長信詹事が適宜置かれた。

95名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:22:36 ID:nhlWA29c0
歴史
 詹事は、故は秦官。漢はこれを継ぐ。
 景帝中六年、長信詹事を長信少府と更名する。
 成帝鴻嘉三年、皇后の詹事官を省き、大長秋に併合する。
 哀帝綏和二年、帝の実の祖母、定陶太后を尊んで恭皇太后とし、生母の丁姫を恭皇后として、左右の詹事を置いた。両者の食邑は長信宮、中宮(皇后宮)の如く。
 平帝元始四年、長信少府を長楽少府と更名する。
 以後、後漢、魏は置かず。
 晋武帝咸寧元年、太子詹事を置いて太子家を掌らせる。太子太傅・少傅は官属を領せず。
 廃置を繰り返しながらも長く存続する。

96名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:23:36 ID:nhlWA29c0
トランプ政権が世界最大級の気候変動研究機関を解体する意向。科学者は「我が国の能力を後退させる」
ハフポスト日本版 によるストーリー • 2 時間 •
読み終わるまで 1 分

97名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:25:01 ID:nhlWA29c0
 少帝が詔を発した。



「私は眇身(微小な身)をもって大業を継承することになり、一人孤独にして憂愁の病の中にいるため訴える相手もいない。大将軍と太尉は遺命を奉受して私の身を輔佐し、司徒、司空、冢宰、元輔は百寮を統率して社稷を安寧にしている。よって汝らは群卿大夫と共にその心を励まし、私の意に副わせよ。諸々の宮室を建造している労役は、皆、遺詔によってこれを中止する。官の奴婢で六十歳以上の者は、免じて良人とする」

98名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:26:13 ID:nhlWA29c0
『史記』高祖功臣侯者年表および『漢書』高恵高后文功臣表によると、奚涓は舎人として劉邦の沛での起兵に従った。咸陽に入ると郎となり、漢に入ると将軍として諸侯を平定した。魯侯に封じられ、4800戸の食邑を得た。漢初のうちに軍中で戦没したらしい。功績は樊噲に匹敵したといい、高祖劉邦の功臣としては7位に列せられている。奚涓には男子がいなかったため、母の疵(底)が魯侯に封じられた。

というようなあたりは、てぃーえすさんがとっくに言及していて、劉疵墓との関係まで言及されていたりするわけだが。

99名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:26:33 ID:nhlWA29c0
さてさて、『漢書』地理志下の魯国の節に「もとの秦の薛郡が高后元年に魯国になった」と割注があり、『漢書』高恵高后文功臣表に「高后二年、(宣平)侯(張)偃が魯王になった」とある。高后元年(紀元前187年)だか高后二年(紀元前186年)だかに、張敖と魯元公主の子の張偃が魯王となり、魯国が成立していることになる。

『史記』高祖功臣侯者年表によると、奚涓の母の疵は高后五年(紀元前183年)に死去しているので、張偃の魯王国と疵の魯侯国が併存していた期間があることになる。もちろん張偃の魯王国は郡クラスの王国であり、疵の魯侯国は県クラスの侯国であるので、併存そのものに問題があるわけではない。ただ魯国の中に魯国がある入れ子構造は、漢代郡国制下に発生した面白現象であるなあと、感嘆きわみないわけである。後世の史料に魯郡魯県を見ても何も面白くないので、神は細部に宿るのである。

100名無しのやる夫だお:2025/12/20(土) 19:27:05 ID:nhlWA29c0
◎昭襄王前期
厳君疾(『史記正義』曰、「蓋封蜀郡厳道県」)
穰侯魏冄(宣太后弟)
涇陽君(王弟)
高陵君(王弟)
城陽君
◎昭襄王後期
安国君(太子=孝文王)
応侯范睢(魏人)
武安君白起
葉陽君(華陽君の誤りか?)
華陽君
陽泉君
剛成君蔡沢(燕人)
◎始皇帝前期(統一前)
文信侯呂不韋(河南雒陽十万戸を食邑とする)
長安君成蟜(王弟)
昌平君(楚人)
昌文君(楚人)
衛君元君(野王県)
周君(陽人の地に祭祀を保つ)
長信侯嫪毐
◎始皇帝後期(統一後)
武城侯王離(徹侯)
通武侯王賁(徹侯)
建成侯趙亥(倫侯)
昌武侯成(倫侯)
武信侯馮毋擇(倫侯)
衛君角(野王県)
◎二世皇帝期
安武侯趙高




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