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ゲーム好きのやる夫とやらない夫のお話
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| (__人__) | やる夫の名前はやる夫。
\ ` ⌒´ ,/ 趣味はゲーム。よろしくな
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| l /  ̄フl l |〔 ̄ ヽ
ヽ -´  ̄ノ -'--"- L ̄ }
ヽ ___,ノ ̄ `ヽ  ̄ _ノ
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| ( ●) (●)
| (___人__)
.| ` ⌒´ノ 俺の名前はやらない夫。
| | やはりゲームが大好きだ。
.|、 _r十、
[::.ヽ、 __rく_} _i .}
_, 、-一 :::"\ :::::::::} _i _l _i .}
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「そっちが魯育であってる。孫魯育(字は小虎)が死んだのは255年で、もちろん孫峻のせいなんだが」
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「規則正しく、と云っちゃいかんだろうな。この年の7月に孫峻暗殺計画が発覚し、関係者は処刑されたンだが、孫魯班(字は大虎)は魯育が二宮の変で自分に逆らったのを根に持っていた。ために『あの子も計画に参与していたわ!』とあらぬことを云いだし、その気になった孫峻は魯育を殺している」
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「ただし、今回は関係者皆殺しとはいかなかった。孫峻伝によれば死者は数十人で、首謀者にも自殺が許されている」
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「首謀者の孫儀が孫静の孫なんだ。孫峻としては手を出しかねたようでな」
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「ひ孫。正確に云うと、孫静の、長男孫暠の三男孫恭の子が孫峻で、孫静三男孫皎の末っ子(五人兄弟)が孫儀」
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「祖父の甥、だな。日本語には堪能でないので、それを何と呼ぶのかはよく判らんが。ともかく、こうして旧孫和派は全滅した。孫和の夫人のひとり何姫が、孫和の子供を引き取って育てることになった……が、それはまた別のオハナシ。ここまでの、孫峻の振る舞いはおおむね魯班がけしかけていたのはいいか?」
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べん びず せん しず
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「正直な心ってのは大事なモンだからな。というわけで、孫魯班という女は自分の都合しか頭にない。腹違いの兄でも同腹の妹でも平気で切り捨て、呉の臣下がどれだけ死んでも気にしない。呉が滅んでも自分だけ生き残ればそれでいい、みたいなあさましい考えがはっきり見える」
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「正直な心ってのは大事なモンだからな。というわけで、孫魯班という女は自分の都合しか頭にない。腹違いの兄でも同腹の妹でも平気で切り捨て、呉の臣下がどれだけ死んでも気にしない。呉が滅んでも自分だけ生き残ればそれでいい、みたいなあさましい考えがはっきり見える」
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「となれば、孫峻が大トラから逃れる手段として外征を選んだのは、無理からぬオハナシだ。呉の国内では魯班の手が届くのは、亡き孫和が身をもって証明している。外に活路を見い出すことで、魯班の束縛から逃れようとした」
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「そこまで思いきる度胸はなかったようでな。そして迎えたのが毌丘倹の乱だった。淮南で毌丘倹・文欽が魏に謀叛したと聞いた孫峻は、自ら呂拠・朱異・留賛らを率いて出陣している。2月9日のことだが、途上で文欽がやってきている辺り、タイミングが遅かったとしか云いようがない」
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ゾッド君は
『人の身で抗えないような逆境を
人の身で乗り越える人間がいる』
と信じたいんだと思う
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「とりあえず文欽を連れて寿春(地名)までは向かったンだが、すでに諸葛誕が城に入っていたのは先に見た通り。ために、呉軍は撤退しているが、諸葛誕は追撃した。割と激戦だったようだが、かつて東興の戦いで先陣を張った勇将留賛が討ち取られ、別動隊の朱異が魏の城を落とせなかったので、やむなく撤退している」
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「そうだったンだが、司馬昭は彼を中央に召し寄せている。つまり、毌丘倹の敗死や文欽の離脱、諸葛誕・鄧艾の配置換えなんかが相次いで、東も西も軍事的にやや不安があったンだ。そこで司馬昭は陳泰を中央に置き、どこかの前線で問題が起こったときに出せる遊軍として使うことにしたようでな」
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「この男の強さはまた今度確認するが、西は鄧艾に任せていいという風潮ができたようでな。ために、陳泰は主に東部全線に回されている。まぁ、鄧艾が予想以上に働いたからの使い方で、もし鄧艾が王経並の武将だったなら、陳泰はかつて仲達がやったように、大陸を西から東に走り回ることになっていたかもしれない」
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「司馬昭の陳泰評だ」
『かつて孔明が為さんとした志は、姜維で為せるものではない。陳泰はそれを未然に防ぎながら兵員の補充は要請せず、通信手段を整え敵への対処方策を整えた。決断力と沈着な判断力を兼ね備えていることからも、都督や大将というものは陳泰のようでなければならない』
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「いや、その前の寿春侵攻戦(255年2月)から。毌丘倹の蜂起と敗戦によって淮南が平定されると、ともに挙兵した文欽親子も敗走し、呉へと逃げ込んだ。孫峻が毌丘倹の蜂起を見届けて10万の兵を出し、途上で逃げてきた文欽を保護したのは前回見た通り」
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「見届けてから動いたのが呉らしいな。呼応していれば毌丘倹たちには都合のいい展開になっただろうが、呉の利益だけで考えるなら両者相食み疲れ果てるのを待つのは、さほど間違った判断ではない」
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「文欽を収容し、そのまま兵を退いていればよかったンだろうけど、孫峻は進軍した。呉書に兵数は明記がないが、魏書鄧艾伝によれば10万の軍。迎撃の指揮を執ることになったのは諸葛誕だが、鄧艾に迎撃命令を出している」
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「司馬師がブっ倒れたゴタゴタで、その辺りがしっかりしていなかったンだろうな。席次としても、鎮東将軍諸葛誕の命を雑号将軍の鄧艾が拒めないのは仕方ないことだし。ともあれ、諸葛誕は寿春城にこもり外には鄧艾が出て、呉軍を迎撃することになった」
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「先走るな。当初諸葛誕は、鄧艾に肥陽(地名)で呉軍を迎撃するよう命じたンだけど、現地に赴いた鄧艾は、そこに呉軍は来ないと判断。南下すると、配下の諸葛緒を出して呉軍に挑ませている」
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「だとは思うが、出自は不明だ。この時点での役職は泰山太守だから、兗州出身ではなさそう(本州回避の原則)だが。孫峻がかなりあっさり兵を退いたのには、この男が呉軍と激突して、被害は不明だが魏軍の士気旺盛と見たのと、歴戦の留賛が病を発していたのが原因らしい」
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「それでも孫峻は動いた。翌256年8月に、文欽の進言を容れて徐州への侵攻作戦を決行している……が、本人はその中途で死んだ。魏は、陳泰を主将に東方軍が迎撃の準備を整えていたンだが、直接の戦闘は起こらなかったようでな。9月14日とあり、孫峻が思い通りに動かなくなったのに腹を立てた大トラの仕業と見ていいね」
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「瑾兄ちゃんの一族を根絶やしにした張本人だから、いい感情は抱いていなかったと思うぞ。それだけに、権力を握って増長し、宮廷の女官に狼藉を働くお約束な小物ぶりも書かれている。そんな宰相が死んだンだから、呉の政治も少しは良くなる……と誰もが期待するところだけど、後を継いだ孫綝が大差ない輩だったから始末に負えない」
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「孫静の、長男孫暠の長男孫綽の子。孫峻のいとこに当たるンだけど、当時偏将軍、つまり最下級の武将にすぎなかった。何でそんな奴をと云えば、孫峻から後継指名を受けた、ただそれだけっぽい」
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こういう事故はもう起きないでほしい、とかニュースで言ったりはしてるけど、結局、どこかで似たような事故は起きてるし、予言はハズレてほしいとは思うけど、やっぱり当たるんかな、って思うな。
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日本消滅って…前から…アメリカ合衆国、日本州みたいな感じなのが、実際になるだけなのでは?
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「そう思ったのは呂拠だった。孫峻存命当時はちゃんと武将していた彼だが、戦地で孫峻が死に孫綝が後を継いだと聞くや、率いる軍をそのままに取って返し、孫綝を廃そうと目論んだ。先の文欽救援戦で勝利を挙げたのに、撤退を命じられて面白くなかったのが一因のようでな」
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「だが、それだけに孫峻との仲は次第に悪化していた。反孫峻派の皆さんは滕胤を昇進させて対抗馬にまつり上げようとし、孫峻の太鼓持ちは滕胤を重用しないよう吹き込む。諸葛格が討たれた当初、孫峻は太尉、滕胤は司徒と、三公に並べられるはずが、そんなワケで孫峻が丞相となり、その副官職の御史大夫は置かれないことになった」
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「決定的になったのは広陵城の一件だ。呉から徐州方面に向かう際の前線基地となりうる場所に、孫峻が城を建てたいと云いだしたところ、群臣は孫峻を畏れて誰も発言しなかった(つまり、誰も賛成していなかった)が、滕胤だけは表立って反対の声を挙げている。孫峻は滕胤の意見を無視したンだが、城そのものは完成しなかった」
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「そゆこと。呉では元来、合肥(揚州)を抜いて豫州方面に向かおうという基本戦略を執っていたンだが、この方面の守りが分厚いのは、孫権時代から通じてのこと。そこで文欽や呂拠、それに朱異といった武将たちを徐州・青州方面に進ませることを思いついたらしい。これなら東シナ海に出ての海路援護も可能になる」
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「呉書には明記がないンだが、この遠征の総司令は孫峻だったと考えられる。ために、孫峻が死んだから……と撤退命令が出た。ところが呂拠はそれに反発し、滕胤を丞相に任じるよう戦地から諸将連名の上奏を行っている」
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「孫綝には指揮能力なんてないンだが、孫峻同様決断力はあったようでな。ちょうどよくこの頃、武昌(地名)を守っていた呂岱が死んだので、滕胤をそちらに送りだすという名目で、呂拠と連絡が取れないよう計らった。その上で、従兄(年長のいとこ)の孫憲に呂拠を迎撃させながら、文欽らに『呂拠を討て!』と命じている」
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「これは当然ながら、と云っていいな。まず、孫綝は後を継いだだけでまだ悪事も何もしておらず、討つのに躊躇いがあった。また、従軍していた朱異たち諸将にしてみれば、ここで呂拠が成功したら下風に立たねばならなくなる。確かに呂拠は驃騎将軍だが、孫峻の下では同格に扱われていたンだから、それは面白くない」
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「そして、残る文欽にしてみれば、孫峻は自分を呉に受け入れてくれた恩人だ。その後継者を討てと云われたら、喜んで反発する。というわけで呂拠は進退窮まった。せめて孫憲を抜ければ戦況は変わったはずだが、前後に敵を迎えるかたちになり、側近から魏に走るよう勧められても『叛臣となるのは恥だ』と自害している」
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「意外と因果関係はしっかりしているわけだ。しばらく魏をほったらかしていたが、実は司馬師の死後にひと悶着あった。曹髦(つまり、郭太后)から『司馬昭は許昌に留まり、洛陽へは帰ってくるな』という詔が下っているンだ」
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「これについては、明元郭皇后伝(『明帝の皇后郭さん』の意。元は追号)に『皇帝が三代に渡って幼少だったため、補佐の大臣が政治をおこない、国家の大事はすべて皇太后にお伺いを立ててから施行した』とある。事実上の宰相に帰還するなという命令を出す大事が、郭太后の耳に入っていないとは考えられんのだ」
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「それはないンだが、そんな評価を受けた35人を、上から三君・八俊・八顧・八及・八厨とランク付けしているンだ。陳蕃は三君の末席(総合で3位)、李膺は八俊の筆頭(総合4位)につけ、八及の三席(総合22位)に『海内所称劉景升(天下の語り草)』劉表がいる。この辺りが、党錮の禁でのターゲットになったワケだ」
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「ともあれ、諸葛誕が謀叛するに至ったのには、ちゃんと理由と事情がある。ちょっと書き起こしてみるが」
諸葛靚「オヤジ、ダメだとさ」
諸葛誕「呉が国境を犯しているのだから、10万の増兵と新しい城くらい許可してくれてもいいではないか! 孔明が死んで20年になるというのに、まだオレを疑っているのか!?」
諸葛靚「それだけじゃないからな、オヤジの場合。王将軍や毌丘将軍の二の舞にならないよう、身を慎まないと」
諸葛誕「曹爽、王淩、夏侯玄、毌丘倹……次はオレか? それならいっそ……あ、誰か来た。はーい」
伝令「早馬でーっす。ハンコか花押お願いしまーす」
諸葛誕「はい、ごくろうさま。オレあてに……詔勅? えーっと……諸葛タンを司空に任命するので、軍を楽チンに任せてすぐ来てね、か。ふむ……せーちゃん」
諸葛靚「せーちゃんはやめろ」
諸葛誕「魏に謀叛するから、お前呉に行って援軍を頼んで、そのまま人質になってくれ」
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呉の徐州方面出兵(256年)に対し、諸葛誕は魏の朝廷に10万の増兵と淮水に面した新しい城の建設を許可するよう求めている。が、朝廷は『お前の指揮下の軍勢で対応できるだろうが』と突っぱねている
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賈充「洛中でみなが大将軍に帝位を禅譲すべきと話しているのは知っていると思うが、君はどう思うね」
諸葛誕「お主は曹操様に重用された賈逵殿の子でありながら、そんなたわけたことを云われるか! 代々魏に仕えておきながら国を売り渡そうとするなど、聞き流せることではないぞ。もし洛陽で返事が起こったのなら、オレは無論命を投げ出す所存だ」
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「曹髦伝にもその旨記述はある。まぁ、誘いだろうな。支持を集めた土地と兵から引き離し、宮中に連れ込んでしまえばどうとでも処分できる。賈充曰く……えーっと、ちょっと長くしないと文脈が通じないな」
『諸葛誕は威名・人望を揚州に馳せている(ため、非常に危険である)。いま召しだしても応じないだろうが(詔勅に逆らったという事実をもって罰する口実にできるので)、災難は小さく、事態は軽く済む。だが、召しださず(に放置して)、事態の起こるのが遅くなればなるほど、災難は大きくなる』
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「ところが、そのあとがまずかった。司馬昭は、三公の一隅を提示すれば諸葛誕はホイホイ来ると高を括っていたようだが、賈充も鍾会も『それでは来ないでしょう』と読んでいる。事実、諸葛誕は喜ぶよりむしろ不審に思った。序列で考えれば驃騎将軍の王昶が先に三公になるはずだ、と」
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「状況的にも心理的にも追い詰められているのに、ある程度冷静な判断はできるンだ。しかも、詔勅でありながら勅使が派遣されず、早馬で届いたというのも諸葛誕の不審を増長させた。ついに挙兵を決意したというより、ついにキレたと云うべきだろう。257年5月、諸葛誕は動く。こういうのを日本語では『仕方ない』という」
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「最初に諸葛誕の怒りが向いたのは、『軍を預けよ』と名指しされた揚州刺史(当時諸葛誕は征東大将軍)の楽綝だった。演義では戴陵・張虎(張遼の子)と並んで孔明相手のやられ役だが、曹操軍五将軍の一・楽進の息子だ。もともと諸葛誕の部下だったので、あるいは東方軍にも『地方軍将は副将が昇格する』という不文律があてはまっていたのかもしれん」
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A「その息子が、賈充と組んでいたってコト?」
F「と、考えるべきだろうな。諸葛誕の年齢は不明だが、楽進が死んだのは218年(39年前)だ。それなりの年齢になっているはずなのに、かつては冷や飯喰っていた諸葛誕の下に配属されて不満を抱いていたのは想像に難くない。しかも死に方はあっけなく、楽進伝にぼそっと『不意打ちで殺された』とあるだけ」
A「抵抗もしなかったのかよ!?」
F「諸葛誕伝の注だともっと非道いぞ。攻め込んできた(どこの城かは記述がない)諸葛誕相手に籠城しようと、兵に門を閉じるよう命じるンだが、諸葛誕が『お前はかつてオレの部下だっただろうが!』と怒鳴ると、兵は門を閉じるのをやめたようなンだ。で、数百人からの諸葛誕軍に追われ、楼上で死んだ……となっている」
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「かくて諸葛誕は楽綝を攻め殺し、淮南・淮北の官吏・軍兵十余万、精兵四万から五万を召集し、1年間戦えるだけの食糧を集めた。さっきさらっと云ったが、その気になればこれだけの兵を即座に集められるンだから、増兵なしでも呉軍を退けるのは難しくなかったように思える」
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「かくて諸葛誕は楽綝を攻め殺し、淮南・淮北の官吏・軍兵十余万、精兵四万から五万を召集し、1年間戦えるだけの食糧を集めた。さっきさらっと云ったが、その気になればこれだけの兵を即座に集められるンだから、増兵なしでも呉軍を退けるのは難しくなかったように思える」
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「うむ。そして守りを固める一方で、末子の諸葛靚を呉に送り、臣従を申し出て救援を求めている。以前云った通りこれだけはやっちゃいかんのだが、すでに諸葛誕は『魏にはオレの生きる場所はない!』と思いつめていたようでな」
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また、二、三十人の東京の張三李四の輩を恐れ入らせた花和尚は、彼らの目の前で大きな柳の木を根こそぎにしておどろかすが、これ以来、日本の講談では、清海入道だろうと、後藤又兵衛だろうと、荒川熊蔵だろうと、岩見重太郎だろうと、豪傑と呼ばれる者は、みんな松の大木をバリバリバリと引っこ抜いて、暴れねばならぬことになった。
(中略)
源平時代から南北朝時代に活躍した山法師や荒山伏は、弁慶以外は人気がなくなり、忘れかけていたころに、水滸伝が輸入され、その中に花和尚が山法師・荒山伏のイメージに新風を吹きこんだのだ。
(中略)
おそらく武蔵坊弁慶を除いては、日本の暴れ坊主たちはだれも花和尚魯智深の豪放豪侠ぶりには及ばなかったようである。
實吉達郎『豪傑水滸伝』(コーエー) 68・69ページより抜粋して引用
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「略した部分には、真田十勇士の三好清海・伊三入道や、鬼弁慶玄達・信濃丸入道円海・黒龍坊雲海・独心坊・火焔坊雷雲・鬼熊入道雷山坊・鬼坊主雷山・常陸坊天岳(登場順)など、日本講談界の山法師・荒山伏らが語られている。實吉氏によれば、おおよそ弁慶を除いて『日本の悪い暴れ坊主』は皆、花和尚の影響を受けている、とのこと」
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羅貫中 三国志演義第三八回より
身未升騰思退歩 ――孔明は、野にある内から『大成したら戻る』と告げていた
功成應憶去時言 ――もし漢王朝復興の大願が成就していたら、きっとそのことを思い出し、実行していただろう
只因先主丁寧後 ――だが、劉備臨終に際しての詔により、
星落秋風五丈原 ――巨星は、秋風吹く五丈原に落ちてしまった
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「あなかしこ、あなかしこ。さて、五丈原での孔明を詠った第一部から、第二部では孔明の若き日々に焦点を当てている。全体量が全体量なので、今回は細かく見ることをしないで、蘇軾(蘇東坡)の詩をもって流しておく」
蘇軾 隆中
諸葛来西国 ――孔明は西国(蜀)に来て名声を馳せ
千年愛未衰 ――千年もの間、土地の人々に愛されている
今朝游古里 ――いま、私(蘇軾)は彼の故郷・隆中に来たのだが
蜀客不勝悲 ――蜀からの旅人として、悲しみをこらえることができない
誰言襄陽野 ――誰が予想できただろうか、この襄陽の片田舎が
生此萬乗師 ――万乗(天子)の師たる孔明を生もうとは
山中有遺貌 ――山中には孔明を慕うおもかげが残り
嬌嬌龍之姿 ――嬌々と連なって龍のごとき姿を為す
龍蟠山水秀 ――龍が臥していた(臥龍=孔明がいた)頃には山水も麗しかったであろうに
龍去淵檀移 ――その龍が飛び立った後では、深い淵檀さえも涸れ果てる
空余蜿蜒蹟 ――今はむなしく延々たる山並だけが残り
使我寒涕垂 ――私に悲しみの涙を流させるのだ
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「続く第三部は、赤壁に始まって南征で終わっているものの、赤壁に関する孔明をたたえる詩というのはちょっと見当たらないのでパス。代わって、夷陵の戦いにおける孔明の動きについて、杜甫が詠んだ『八陣図』を」
杜甫 八陣図
功蓋三分国 ――孔明の功績は三分した国々を覆い尽くし
名成八陣図 ――孔明の名声は八陣の図によって完成された
江流石不転 ――長江の水は流れても(=どれほどの時が経とうとも)、石兵八陣(=孔明の名声)は崩れない
遺恨失呑呉 ――ただ惜しむらくは、呉を併呑し天下を盗ることができなかったことか
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「かなり早い時期に、すでにできあがっていたようですね。続く南征に関しては……胡曾ですか、唐代の詩人がこう詠んでいます」
胡曾 詠史詩六四七段
五月駆兵入不毛 ――五月、孔明は兵を駆り不毛の地へと踏み入った
月明瀘水瘴烟高 ――月は煌々と瀘水を照らすが、あやしき瘴気は高く立ち昇る
誓将雄図酬三顧 ――だが、三顧の恩に酬いる誓いのためならば
豈憚征蛮七縦労 ――孟獲を七縦することを厭うはずがない
『星落〜』第三部ラスト
辺塞遠く雲分けて
瘴烟蛮雨ものすごき
不毛の郷に攻め入れば
暗し瀘水の夜半の月、
妙算世にも比なき
智仁を兼ぬるほこさきに
南夷いくたび驚きて
君を崇めし「神なり」と。
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孔子 論語楚狂接輿歌
鳳兮 鳳兮 ――鳳(=孔子)よ、鳳よ
何德之衰 ――どうして徳が衰えたのやら
往者不可諫 ――過去の賢者でも世直しはできまいし、
來者猶可追 ――未来の賢人など待っておれまい
已而 已而 ――仕方ないではないか
今之從政者殆而 ――このような乱世で志を遂げることはできんよ
注 楚の接輿(人名)は、狂人のふりをしてこの歌を歌いながら、孔子の前を通り過ぎた。乱世で出世しようと目論むことの危険性を説き、暗に隠棲するよう勧めている。
『星落〜』第六部第三段
明主の知遇身に受けて
三顧の恩にゆくりなく
立ちも出でけむ舊草廬
嗚呼鳳遂に衰へて
今に楚狂の歌もあれ
人生意気に感じては
成否をたれかあげつらふ。
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成否を誰れかあげつらふ
一死尽くしし身の誠
仰げば銀河影冴えて
無数の星斗光濃し、
照すやいなや英雄の
苦心孤忠の胸ひとつ、
其壮烈に感じては
鬼神も哭かむ秋の風。
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高き、尊き、たぐいなき
「悲運」を君よ天に謝せ、
青史の照らし見るところ
管仲楽毅たそや彼、
伊呂の伯仲眺むれば
「万古の霄の一羽毛」
千仭翔る鳳の影、
草廬にありて龍と臥し
四海に出でて龍と飛ぶ
千載の末今も尚
名はかんばしき諸葛亮。
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杜甫 詠懐古跡五首其五
諸葛大名垂宇宙 ――孔明の偉大な名声は、時空を超えて伝わっている
宗臣遺像肅清高 ――この忠臣の遺像は粛然として清らかで、気高い
三分割拠紆籌策 ――天下三分して策略を運らすそのさまは、
万古雲霄一羽毛 ――永遠に大空を舞う、一羽の鳳のようだ
伯仲之間見伊呂 ――その才覚が伯仲する者には伊尹と太公望がいるだけで、
指揮若定失蕭曹 ――もし指揮どおりに策が業われていれば、蕭何・曹参も顔色(=存在意義)を失っただろう
運移漢祚終難復 ――しかし天運は彼に味方せず、漢の帝位は回復されなかった
志決身殲軍務労 ――北伐の志は変わらなかったが、過労死してしまった
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伝諸葛亮 梁父吟
歩出斉城門 ――斉の城門からふらりと出れば、
遥望蕩陰里 ――遠くに蕩陰(地名)の里が見える
里中有三墳 ――そこには三つの墳墓があり、
塁塁正相似 ――土が高く盛られ、どれも同じつくりだ
問是誰家墓 ――「これ、誰の墓かね?」
田疆古冶氏 ――「田疆さんに古冶氏さんでさぁ」
力能排南山 ――武勇は山をも崩し、
文能絶地紀 ――政務でも才覚を誇った彼ら
一朝被讒言 ――だが、ひとたび讒言を被って、
二桃殺三士 ――ふたつの桃で3人の勇士が死んだ
誰能為此謀 ――その謀略を成したのは誰だ?
国相斉晏子 ――斉の相国、晏子そのひとなのだ
注 「二桃三殺」のエピソード
斉には田開疆・古冶子・公孫接(詩中では、字数の都合で『田疆古冶氏』となっている)という三人の勇士がいた。
が、彼らが権力を握ると国が乱れると考えた晏子は、王と謀って三人を殺すことにした。
ある日、王の前に呼び出された三人に、晏子は桃をふたつ示した。
「お前たちの中で、功績が優れていると思う者は、この桃を取るがいい」
田開疆と公孫接がとっとと桃を手にしてしまった。出遅れた古冶子は腹を立て「オレの方が功績は上だ!」と剣を抜く。
するとふたりは、自分の功は古冶子に及ばないのに先に桃を取ったのを恥じて、自害してしまう。
そうなっては古冶子も、手柄をひけらかしてふたりを死なせたのを恥じて、自害してしまった。
恥を知ることを示す矜持をくすぐって、晏子は三人を排除したのだ。
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「とろけるほどの大きさかね……? あれからすでにひと回り(60年)近く経っているとはいえ、その頃の記憶が身体にしみついている住民は少なくなかったようでな。毌丘倹の乱が平定されたのちには、処罰されるのを恐れた城内の民衆(諸葛誕伝に曰く『十余万全員』)が、城門を破って呉に逃げ込んでいるンだ」
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「何となく。ともあれ、前二者とは違って諸葛誕は、追い詰められ勢いあまっての挙兵だった。その割には、毌丘倹とは違って周辺地域の制圧に成功し、また、自分も突っぱねた経験から、魏将に同調を呼びかけてもムダだと察して、最初から呉に助力を求めている」
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「今回に限らんでもまずいが、今回で云えば普段よりまずい。追い詰められてキレただけに、諸葛誕は、呉の側の都合をほとんど考慮していなかった」
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「この頃、孫亮と孫綝の対立が激化していたンだ。滕胤・呂拠を除いた孫綝には、もう敵対者はいないと思われたが、大将軍の上には皇帝がいる。孫権の死(252年)から5年が経ち、孫亮も数えで15歳だ。257年4月には、宮殿ではじめて政治を執った……とある」
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「大きくなっていたワケだ。ために、当然ながら孫綝と対立するようになった。孫綝からの上奏を反対・反論して突っぱねたり、自分と同じくらいの年代の、兵士の子供を集めて3000人の部隊を編成し『私も彼らとともに成長していきたい』と御苑での演習を行っている」
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「自分の置かれている立場が、孫権の頃とはまるで違うことに自覚が出てきたンだろう。あるいは孫魯班の入れ知恵か、とにかく孫亮は孫綝の上奏をはねるようになった。皇帝の立場としては間違いではないンだが、孫綝が面白くないと逆恨みしても、まぁ無理はない」
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「そんな具合に、内部に一触即発の危機を孕んでいただけに、諸葛誕からの救援要請には国を挙げて応えている。文欽が呂拠を討つのに尽力したように、助ければ自分の有力な手駒になると期待したのが孫綝で、孫綝が成功しても大局的には孫亮の功績になり、失敗すれば孫綝を排除できると考えたのが孫亮」
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『かつて高祖劉邦は、黥布が叛乱を起こした折には自ら討伐に向かわれた。隗囂が背いた折には、光武帝劉秀自ら長安に入られている。我が魏においても、明帝曹叡御自身で呉や蜀を征伐されたのだから、朕と皇太后自ら諸葛誕の叛乱を平定し、東方を安定させようと思う。それこそが、士気を高め武威を広めることになるのだ』
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「帝位に就かなかった曹操はともかく、曹丕や劉備も自分で出陣していたように、皇帝自ら出陣するのは士気を高めるのには効果的だが、皇太后を連れていく必要はない。誰かの入れ知恵なり強制なりがなければ、郭太后まで従軍することにはならなかっただろう。あるいは、曹髦の身を案じて郭太后が自分から従軍すると申し出たとも考えられなくはないが、司馬昭のせいでそんなことになったと見ていいだろう」
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「だが、これによって諸葛誕が魏に戻れる可能性はなくなった。何しろ、錦の御旗どころかかしこき処そのものが出陣してくるンだから、完全な朝敵となりおおせたンだ。諸葛誕は心理的にさらに追い詰められ、一方で、討伐に向かう魏軍の士気は高まった。大義名分我にあり、とね」
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「かもな。さて、司馬昭は軍才でいうなら司馬師より上だ。ために、諸葛誕が5万の兵を集め、呉が呼応して数万の軍を動かすことを想定し、しかるべき対応策を講じている。青・徐・荊・豫州の軍と、関中の駐留軍を動員し、総勢26万もの大軍をこの一戦に投入したンだ」
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「お約束の白髪千丈という気もしなくはないが、陣容は整えられている。西方軍軍団長から中枢に引き抜かれ、云わば『郭淮の代わり』から『仲達の代わり』に抜擢された陳泰が軍政を預かり、先の毌丘倹の乱でも奮戦した王基が先陣となっている。南は荊州に王昶が入り、西は鄧艾に司馬望(司馬孚の子)を派遣して防備をかためた」
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「ところが、またしても王基がやっちまった。先発した王基が寿春城を包囲していたので、文欽(つーか、たぶん文鴦)はその陣を突破して寿春入りしている。そこで司馬昭は州泰(鄧艾に替わって兗州刺史就任)・陳騫(陳矯の子)・石苞(初登場)らを送って包囲網を強化させた」
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「諸葛誕の叛乱劇は、呉の滅亡を招いた」
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「諸葛誕の叛乱劇は、呉の滅亡を招いた」
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「割と重要なオハナシだが、孫権の死後、呉では三派が権力争いを繰り広げていた。このうち、諸葛格・滕胤らの豪族派は孫峻・孫綝ら孫静系皇室派によって始末され、残る孫魯班率いる外戚派が皇室派と暗闘していた」
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「孫亮の夫人が全尚の娘なんだ。本人の伝によれば、全公主すなわち大トラ孫魯班は、彼女の従祖母(血のつながらない祖母)にあたる。つまり、全琮と前妻の間に生まれたのが全尚……らしい」
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「そゆこと。もともと武官として孫権に重用され、公主まで娶った家だ。それなりの勢力を誇っても不思議ではないが、その全家が事実上滅んだのがこの諸葛誕の叛乱なんだよ」
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「そゆこと。ところが、逃げ込んだ先が(呉にとっては)悪すぎた。直接司馬昭のところに駆け込んできたモンだから、鍾会が悪だくみして、流言を広めさせたンだ。全禕・全儀に書状を書かせ、それを、寿春城内にいる全懌らのところに持ち込ませている」
『寿春が落ちないのに腹を立てた呉は、遠征中の諸将の親族を皆殺しにしようとした。だから我らは魏に降ったのだ』
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「ところが、これに先立って思わぬアクシデントが発生していた。孫綝が朱異を処刑したンだ」
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F「ところが、これに先立って思わぬアクシデントが発生していた。孫綝が朱異を処刑したンだ」
A「何でか!?」
F「これには多少の事情がある。もともと朱異は、父・朱桓の後を継いで軍功を重ねた勇将で、生前の孫権に『朱異が勇者とは聞いていたが、会ってみれば噂以上ではないか』と称賛されたこともある。だのに、孫綝に命じられるまま攻撃を繰り返しては負け続けていたので、三度めの攻撃命令、それも『決死でやれ!』には、ついに逆らった」
A「……魏では王基が『君命有所不受』とか何とか云っておきながら出世してるのに、呉ではそれで死ぬか」
F「孫綝から呼び出された朱異がノコノコ行こうとすると、従軍していた陸抗(陸遜の子)が危険だから行かないよう勧めているけど、本人は『心配無用』と相手にしなかった。で、孫綝の兵に取り押さえられると、状況が判っていないのか叫んでいる」
『何の罪があって、呉の忠臣たるワシを捕らえるのか!?』
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F「かくて朱異は斬られ、その軍勢は孫綝の弟が引き継ぐことになった。これでは、全懌が全禕の書状を頭から信じても、無理もないオハナシだと思えるだろう?」
Y「書状文中の"呉"を"孫綝"と書き替えれば、なんら疑う余地がなくなるな」
F「そんなワケで、全懌ら従軍していた全家一族は、寿春城の東門(守備担当は王基)を開いて外に出てきて、魏に降伏した。これが11月のことだった」
A「江東豪族の集合体だけに、疑心暗鬼に駆られると即座に崩壊するな……」
F「しかも、城内では城内でトラブル発生。蒋班という、先に留賛を破った諸葛誕の副将と、文欽の意見が対立した」
蒋班『朱異を殺し呉へ帰ろうとしている、孫綝などあてになりません! 兵の士気があるうちに、全兵力を挙げて囲みを破るべきです!』
文欽『孫綝が我らを見捨てようとしても、孫亮陛下がそれを許すまい。それに、長引く戦火に魏の兵は疲れ果てている。守りを固めていれば、魏国内のどこかで叛乱が起こり、事態は好転するはずだ』
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「結論を云ってしまえば、司馬昭の作戦勝ちなんだ。寿春についた当時から、司馬昭は早期攻撃論を退けている」
『この城は堅く、兵も多い。攻撃しても攻め落とせないだろうし、呉から援軍が来れば前後に敵を迎えることになる。それじゃ危険極まりない。いま、三人の叛逆者どもが城内にこもっているのは、天の差配かもしれん。奴らをここに釘づけにして、策略をもって制圧してくれよう』
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「城の東側および南側は王基が包囲を担当していた、と本人の伝にある。両方を指揮しなきゃならないなら気配り目配りが行き届かなくなる可能性は高く、攻めるならそのどちらかがいい。そして、東門包囲陣には全家一党が加わっている。つけいる隙が余所より多く、補強されていない南側に兵を叩きつけるのは、判断としては間違いではないと思う。正直、僕がこの時の諸葛誕の立場にあったとしても、南側に攻撃していたはずだ」
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「そうでもないさ。だが、そんな6日間の攻撃も失敗に終わった。全懌辺りが何か手を打ったンじゃないかと思うんだが、昨年から食糧が不足しはじめていたため、士気が低下していたようでな」
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「割と単純な計算だ。もともと5万の兵で1年分なら、そこに3万の援軍が加わって8万。人数が増えたらその分食糧の減りは早く激しくなり、また、手ぶらで降伏したとは思えないので、全懌がそれなりの量の食糧を持ちだした可能性は高い。蒋班は同僚とふたりだけで降ったから持ちだせる量もたかが知れているが……」
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「というわけで、寿春城内から包囲陣に降伏する者が相次ぎ、実に数万にのぼった。いよいよ困り果てた諸葛誕に、よせばいいのに文欽がとんでもないことを吹き込む」
『いっそ、アンタの率いる魏の兵は外に出してしまえ。そうなれば食糧は足りるはずだ。なに、オレが連れてきた呉兵がいれば、城は守れるさ』
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「何でそんな奴を送り出すンだ……と思ったが、呉将で魏の事情にいちばん精通していたのが文欽か」
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「さて、少し話を逸らすが、関城という防御施設がある。城門の前に防御側が作る砦なんだが」
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鬼の件のあとピーってなったの俺だけ?😢
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「うん。城門の前に、それなりに堅固な砦を作っておくンだ。すると攻撃側は、城門を攻めれば関城に背後を衝かれ、関城を攻めれば城から攻撃を受ける。城壁の弱いところや低いところ、門の正面に作ってしまえば、攻城兵器を近づけなくする働きも期待できる。長期の籠城戦には必須の防御施設なんだ」
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つもり、見込み みらあいけい
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『追い詰められて帰順した彼らを斬っては、城内の連中は改めて抵抗するだろう』と、助命し、将軍位に爵位まで与えている
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『諸葛公のために死ぬのだ、心残りなどない』
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寿春城内にはまだ呉軍の武将も残っていたンだけど、西門を預かっていた于詮は『主君から命を受け、ひとを救おうとしておきながら、勝利を得られず敵に降るなど、男のやるべきことではない!』と、降伏勧告をはねつけて魏軍に斬り込み、討ち死にしている
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「というわけで、完全に戦機が熟したと踏んだ司馬昭は、自ら全面攻撃の指揮を執った。四方から兵を進め城壁を登ったが、城内の兵たちには抵抗する者もない。かくなる上はと諸葛誕、馬を駆り直属の兵を率いて、関城から討って出た。戦況そっちのけで司馬昭を討とうと突っ込んでいるが、迎え撃った胡奮(胡遵の子、胡烈の父)は防戦を貫き、ついに諸葛誕は乱箭に斃れている」
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「……これじゃ危険視されるわな。才では孔明に及ばなくても、徳では孔明に引けをとらない」
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「漢にとって、死に場所ってのは何物にも代えがたい価値があるンだよ。一方で、司馬昭から『三人の叛逆者』と名指しされていながら、あっさり捕らえられたのが唐咨だ(残るふたりは文欽・諸葛誕)」
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「曹丕の代に魏で起こった叛乱事件の首謀者でな。文帝自らこれを叩き潰したンだが、唐咨は呉に走り、左将軍にまで出世している。曹丕の代ということは、つまり30年ばかり前なので、あっさり捕まったのはそれなりの年齢だったからと考えていいだろう。ちなみに、どうにも部下に縛られて降ったような記述がある」
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「ところが、司馬昭は唐咨を殺さず、雑号だが将軍位を与えている。降伏した部下たちもちゃんと遇されたので、文鴦たちの処遇を鑑みてひと芝居打った、というところじゃないかな。もちろん、投降した呉兵一万超も殺されることはなく(『生き埋めにしろ』との声はあった)、分散こそさせられたが魏の国内に移住している」
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「おおらかに遇することで、魏の度量を示すのだ……とは司馬昭の談。淮南では叛乱が相次いだので、厳しく締めつけても呉と組んで挙兵するだけだから、無意味だと判断したワケだ。この処置には呉も思うところがあったようで、投降した兵たちの家族を罪に問うような真似はしなかった、とある」
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「自分で云うけど無理もないンだ。何しろ、諸葛誕は寿春城を包囲されて、外に出ようと必死にあがいていたのに、包囲している魏軍では基本的に『堅く守って相手にするな。連中の自滅を待て』という命令を遵守していた。その辺りに関して、『ひたすら外に出ようと攻撃を繰り返していた』とか『外に出すまいと防御をかためていた』とは、戦場では当たり前すぎて正史に書かなかったとしても仕方ないだろう?」
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「それでは書く気が起こらなかったのかも……な。かくて"魏の狗"諸葛誕は死んだ。"蜀の竜"孔明・"呉の虎"瑾兄ちゃんともども陣没したことになり、その中では唯一の戦死となる」
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「うむ。戦後のことも計算して、投降者や捕虜を遇していたくらいな。全家一門や文兄弟、さらには唐咨にまで将軍位を与え、低いとはいえ爵位・官位も与えている。あまつさえ文鴦たちに、文欽の遺体を収容させると先祖の墓に葬ることを許し、輸送用の牛馬まで支給したので、武威と徳義を知らしめた……とは諸葛誕伝の注に引かれた習鑿歯の談」
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「いやでもな。習鑿歯はどこまで司馬昭を気に入ったのか、と思える記述がある」
高い勲功を打ち立て人々はその成果を楽しみ、業績は広く知れ渡って敵国もその徳を慕った。武威を輝かせたうえに文治の経略もあまねく行き渡らせた、このやり方を推し進めていけば、天下にいったい刃向かえる者があろうか。
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「呉にとって有力な武将だった朱異や全一族、文欽とか于詮とか、多数失ったモンね」
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「呉が被った直接的な被害としてはそれだな。そもそも孫綝は朱異を処刑すると、実質そのまま退却した(孫亮伝によれば9月)に等しいンだから、全懌たち寿春城内に取り残された呉軍将兵が投降したのは、やむを得ないこととも云える。さらにさらに、寿春城陥落による最終的な投降兵は10万に達した……とは習鑿歯の談」
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というわけで、孫綝の勢力こそ弱まったものの、気がついたら孫亮の勢力がさらに乏しくなっていたという、笑えないのか笑うしかないのか判りかねる状況が展開されてしまったワケだ
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「いちがいには責められんけどな。負け戦から逃げ帰ってきた武将が、敵にではなく主君に殺されるのは、実際のところ歴史的に珍しい話じゃない。寿春から敗走した孫綝は、いつぞやの諸葛格同様に、問責を加えられるのをおそれて宮中に参内しなくなった」
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彡(゚)(゚)が安価で世界のうまいものを食いに行くスレ【ゆっくり】
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