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ガンスリンガー系女子()
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/ o゚((●)) ((●))゚o \ やってもいない汚職の罪で警察をクビになったんだお
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/ o゚⌒ ⌒゚o \ このままじゃ段ボールハウスコースなんだお
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/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ だからやらない夫に何とかしてもらうお!
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漢の武帝は幼少の後継者に代替わりしてから皇太后(後継者の実母)が呂后のようになるのを恐れ、先にその後継者の実母を殺したという話が伝わっている。
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孫権もかなり似通った状況なので、武帝の故事に倣った、という可能性も無きにしもあらず。
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密かに指示した黒幕がいたとして、自分が病に倒れたら呂后の故事を調べ出した。という話が孫権の耳に入っていたならば、一番可能性が高いのは孫権なんじゃないかとは感じますね。
袁夫人と近しかった人間による報復とか、潘夫人を危険視した憂国の士による暗殺とかも可能性は0じゃないんでしょうが、あまりピンとは来ない感じです。
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消されたのが疲れて寝ていた時っていうのも、皇后自身が隙を見せた時とも言えますが、「孫権と離れていた=孫権が皇后に知られずに何かを指示できた時」とも言えますしね。
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長子を太子としていたけど肝心な主君が迷いまくってて、死後に危うくクーデターが起こるところだったり、二代続けて末期に太子を立てる羽目になったりと、どうも後継者選びがグッズグズだった曹魏を反面教師とした結果が、多くの者が長子への継承に難色を示していてもなお長子を太子として替えることもなかった、という晋武帝の後継者選びなんじゃないだろうか・・・。
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曹丕も前王朝の問題点を反面教師にしてましたし、司馬炎もそうしててもおかしくないですね。
司馬炎自身も司馬攸との後継問題があったからという事もありそうですが。
ただ反面教師にした結果別の問題が生じて亡国の要因になっていったというのは、何ともままならなさを感じますが。
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初代曹操から曹丕の時は曹植・曹彰の動向が怪しく曹丕と王太后の独断で王に即位することとなった。
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曹丕から烈祖様こと曹叡の時は臨終に際して初めて皇太子に立てられた。これは始皇帝から胡亥の時と同じ状況に見えるわけで、平穏な継承とは言い難い。
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烈祖様から斉王芳の時も臨終に際して初めて皇太子に立てられた。これも先代の時と同様で、側近が死にかけの烈祖様の手を取って無理やり詔を書かせた、などという話が伝わる程度には平穏な継承とは言い難い。
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斉王芳から高貴郷公は廃位によるもので平穏な継承とは程遠い。
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高貴郷公から陳留王は言うまでもない。
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曹魏の帝位(王位)継承で一番平穏で満場一致だったのは、陳留王から晋王司馬炎への禅譲だった説。
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曹丕や曹叡からの継承の時ですら一部の実力者の意志で継承が決められてそうな感じ、王朝を通して初代様の気風を大事にしてたんだなあ(棒)
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なんだか今日はめっちゃ眠くて何も手に付かない。寝るので1年したら誰か起こしてください。
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蔣濟って烈祖様の時に封禅を推進しようとしていた人物だけど、曹爽と司馬懿の争いの時には曹爽と対立して司馬懿に協力する側になっていたんだな。
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烈祖様の重臣でありながら次の皇帝の主流派になれずにいた老臣、という点で司馬懿と共通している。
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司馬懿親子や曹爽の陰になっているが、案外とこの時代の政局を左右するキーパーソンの一人だったかも。っていうか太尉なのでそれなりに重要人物なのは間違いないか。
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地位的には司馬懿と一段しか違わない高位のはずだが、最終的には司馬懿たちに利用されて終わる(『世語』の曹爽説得の話)というのは悲しいところ。
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魏の烈祖様の時、青竜5年3月を景初元年4月ということにした。
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つまり青竜5年2月の次の月が景初元年4月となり、この年は3月がキャンセルされたということだ。
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トランプの関税の条件、限界突破ww
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やる夫が聖杯戦争のためにとんでもない英霊と契約したようです【完】
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そういえば、張耳で思い出したが、劉邦が張耳の食客となり懇意であったのは、そもそも劉邦は張耳の出身である大梁にルーツを持つ一族であったということがあったんだろうな。
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劉邦にとって沛は戦争による移住先であり、張耳は同郷の大物、という認識だったのだろう。
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たぶん同じ言葉、同じ習俗だからこそ食客として受け入れられ、最終的に後継ぎと正妻の長女で縁組するまでになったのではないか。
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秦末から戦乱期の趙って実権を魏人の張耳・陳余に握られてて、どうも地元民の影が薄い気がする。
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他国では一応その地に根付いていた者の政権が生き延びていることが多いように思うので、実はこの時期の趙独特の現象かもしれない。
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まあ、征服者のはずの劉邦に靡いたとされる秦も大概なのだが・・・。
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趙は李牧抹殺の一件が示すように政治的混乱が生じていて、現地人から指導者が生まれにくい情勢でもあったのだろうか?
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趙歇も陳余の傀儡という扱いですもんね。
そういえば、燕も現地民の存在感がない気がします。
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臧荼はどこの人なんでしょうね。もとより将だったなら燕の人なんでしょうか。
その辺次第ですね。
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臧荼はどこの人なんでしょうね。もとより将だったなら燕の人なんでしょうか。
その辺次第ですね。
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蜀漢の劉禅が降伏した後の待遇と呉の孫晧が降伏した後の待遇はたぶん天地の差があると思う。
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それは降伏時期の違い(劉禅の場合は呉へ降伏を促すため厚遇する面があったはず)も大きいだろうが、司馬氏一党の中で、「献帝を漢最後の皇帝とすべきか、それとも蜀漢の劉禅を漢最後の皇帝とすべきか」について、迷いが多少なりとも存在していたからでもあるんじゃないだろうか?
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つまり、蜀漢の方が最後の皇帝として保護すべき血筋という意見があった、あるいは出る可能性があった、と認識していたのでは。
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どちらの血筋もほぼ同等に扱っておくことで、仮にそういった声が出てきたとしても混乱を生じることなく対応できるのである。
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山陽公と安楽公では山陽公だけ特別扱いされていたとはいえ、どちらも「公」であり、思ったより差が無い。
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山陽公と安楽公では山陽公だけ特別扱いされていたとはいえ、どちらも「公」であり、思ったより差が無い。
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司馬氏は献帝の子孫を最優先で保護すべき漢王朝の子孫と単純に考えていたわけではなく、劉禅の子孫を保険としていた、とも言えるのかもしれない。
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漢は滅んでから南北二系統に分裂した、とも言えるのではないか。
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そういえば、かつて費禕は姜維の大軍で攻めるという方策を却下して1万のみ与えられていたという(『三国志』姜維伝)。
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また、蜀漢が降伏した時の将兵は10万2千であったとされる。
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こうしてみると、姜維はおそらくは単独で5万もの兵を率いたことはなかったのではなかろうか。
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費禕がいなくなって自分が大将軍になってからも、全軍の半分を直接率いたとは思いにくい。
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改めて、鍾会が5万を与えようとしていたというのが凄い待遇だったというのが分かる。
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