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日本史

1NAME:2016/09/20(火) 03:49:03
日本史

2NAME:2016/09/20(火) 03:51:54
江戸 井戸 上水道
http://www.gakken.co.jp/kagakusouken/spread/oedo/01/haiken.html

江戸時代は、水道網が発達していた
http://suumo.jp/journal/2013/09/12/51461/

「水道の水で産湯(うぶゆ)を使う」が自慢だった江戸っ子。江戸市中は水道網が整備されていた。玉川上水(多摩川が水源)と神田上水(井の頭池を水源)の2大水系を中心に、6つの上水があったというが、8代将軍吉宗のころに、それ以外の千川上水、青山上水、三田上水、亀有上水が廃止された。

水道は、川の水を土地の高低を利用した自然流下式で、木や石でつくった樋を水道管として流した。江戸市内は坂が多いので、緻密な計算が必要な難しい事業だった。 例えば、最も規模が大きい玉川上水は、羽村から四ツ谷大木戸までは、多摩川から開渠(かいきょ=地表に水路を通す)で流し、四ツ谷大木戸から江戸市中には暗渠(あんきょ=地下に水道管を埋める)で給水した。水質や水量の管理のために、四ツ谷大木戸などには、水番屋を置いた。 江戸っ子は、この水道の汲み出し口である井戸(水道井戸)を利用した。掘り抜き井戸と違って深くはないので、写真にもある竹の柄のついた汲み桶で井戸から水を汲んだ。

下町では水屋が頼みの綱

本所・深川などの下町は、上水が隅田川を越えられなかったり、埋め立て地で水質が悪かったりして、飲料水に困るエリアとなっていた。そこで、水道の水を売り歩く「水屋」という商売が登場する。 水屋は、1荷(か)の水を4文で売っていたという。1荷とは、天秤棒の前後の桶2つのこと。その重さの水を、16文だったそばの価格の4分の1で売るのだから、利の薄い商売だ。それでも、得意先が決まっていたので、水屋のほうでも、どの家でいつごろ水が不足するかを把握して売り歩いたそうだ。

現代では、蛇口をひねれば衛生的な水や湯が流れるのは当たり前になっている。しかし、江戸時代は、自宅まで水を運ぶことも重労働で、飲み水は絶えず新しくしておかないと腐ってしまうといったこともあって、水を大切に使っていたのだ。

3NAME:2016/09/20(火) 04:00:46
江戸の水道井戸
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1233.html
江戸の町は、海に面した低湿地です。だから井戸を掘っても良い水が出ない。 そこで、関東平野を流れる大きな河川から、上水と呼ばれる水道川を造って町に水をひき、これをさらに地下に設置した石や木でできた水道管を使って、江戸市中にくまなく分配していた

江戸時代の中期頃には江戸市中にほぼ20〜30メートル四方に1か所の割合で設置されていました。 また「水道井戸」に水を分配するための地下水道は、なんと総延長が150kmに達しています。文句なしに当時の世界一の規模 江戸の町の人口は、100万人。当時のロンドンやパリでも50万人程度で、人口も世界一なら、はりめぐらされた地下水道の規模も世界一、そして水道井戸の数も世界一

4NAME:2018/01/10(水) 22:26:12
東大研究チーム:アイヌ宛て最古の古文書 ロシアで発見
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%9d%b1%e5%a4%a7%e7%a0%94%e7%a9%b6%e3%83%81%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%82%a2%e3%82%a4%e3%83%8c%e5%ae%9b%e3%81%a6%e6%9c%80%e5%8f%a4%e3%81%ae%e5%8f%a4%e6%96%87%e6%9b%b8-%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%81%a7%e7%99%ba%e8%a6%8b/ar-BBIcg2F?ocid=iehp#page=2

当時の松前藩から漂流船扱いなど指示

江戸時代後期の1778(安永7)年に当時の松前藩から北海道東部のアイヌ民族の有力者に宛てた文書の原本が、ロシアのサンクトペテルブルクに残されていた。東京大史料編纂(へんさん)所などの研究チームの調査で見つかった。240年前に松前藩からアイヌ民族に手渡された最古のオリジナル文書とみられ、アイヌ民族とロシアとの接点を示すものとしても注目される。

 文書は松前藩の「蝦夷(えぞ)地奉行」から、根室半島先端に近い「ノッカマップ」(現在の北海道根室市)を拠点としていたアイヌ民族の有力者「ションコ」に宛てたもの。▽交易に使われる施設の「運上小家」の火の用心に努めよ▽和人の漂流船が漂着した際は、この文書を見せて介抱の上、送り届けよ--など4項目を「定(指示)」とし、背いた者は厳罰に処すとしている。

 文書は東京大史料編纂所などの研究チーム(代表、保谷徹・東京大史料編纂所教授)が2016年10月、ロシア国立サンクトペテルブルク図書館で発見した。松前藩の文書は幕末や明治初期の混乱などでほとんど残っていないため貴重だ。

 共同研究者で北海道博物館の東俊佑(あずま・しゅんすけ)学芸主査(近世史)は「原本としては最も古いものとみられる。発見の経緯から、鎖国の時代にアイヌの手から蝦夷地を訪れたロシア人に文書が渡り、それがロシアで見つかったことになる。その点に意義がある」と話している。

 この文書から11年後の1789年、過酷な労働環境などに不満を持ったアイヌ民族が蜂起し、和人71人を殺害した「クナシリ・メナシの戦い」が発生。弓矢の名人でもあったションコは戦いを終息に導いた一人として、松前藩家老で画家の蠣崎波響(かきざきはきょう)の「夷酋(いしゅう)列像」(12枚)の1枚に描かれている。【本間浩昭】


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