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大東亜戦争

1NAME:2012/10/02(火) 01:39:31
大東亜戦争

21NAME:2013/08/09(金) 07:04:00
マッカーサー 安全保障 証言
対訳 マッカーサー証言
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。 いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。 彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。 日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。 したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。

※ 昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた質疑応答の一部

22NAME:2013/08/09(金) 07:04:56
日本ほど実直に戦時国際法を守った国ってないんじゃないの?
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-1258.html

民間人殺し過ぎだろ米国。
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/img/c956ace0452d11a85b0b87fc8d17ee5d.jpg/

23NAME:2013/08/09(金) 07:16:39
マッカーサー「自衛戦争」証言
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html

フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。 ところが朝鮮戦争が起こって事態は一変する。そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。 マッカーサーは前年に東京裁判が誤りだったと発言している。

「バターン死の行進」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1942_batan_shinokoshin.html

フィリピンのアメリカ軍総司令官になったダグラス・マッカーサーは、自慢の航空部隊で十分に日本を抑えられると思ったところがコテンパンにやられ、数万の兵隊を置き去りにして自分だけがオーストラリアに逃げた。その置き去りにされた兵隊たちは、バターン半島で食べるものもなく、マラリアに侵されてフラフラになってしまった。放っておけばそのまま死んだわけだが、降参したために日本軍は山の中から基地のある場所まで自分たちの何倍もの数の兵隊を連れてこなければならなかった。日本軍にはトラックがなかったために、仕方なく歩いてもらった。その途中に、多くの死者が出たために「バターン死の行進」と呼ばれ、日本軍の残虐行為と非難されている。しかし、一番残虐だったのは置き去りにして逃げたマッカーサーである。マッカーサーは日本に対する恨みを持ったのだが、それはマッカーサーの逆恨みだった。

24NAME:2013/08/15(木) 20:52:35
気になる「風立ちぬ」への指摘
8月15日
2013.8.15 03:07 [産経抄]
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130815/trd13081503080003-n1.htm

遅まきながら、宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」を見てきた。ゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎を主人公にして、作家、堀辰雄の代表作「風立ちぬ」のストーリーを重ねるというアイデアにまず驚く。

 ▼好意的な映画評が多いなかで、ある指摘が気になった。主人公に、戦争に協力することへの葛藤がみられない、というのだ。宮崎監督は、たまたま激動の昭和に生まれ合わせた、飛行機を何より愛する一人の日本人の青春を描こうとした。単なる「反戦映画」にするつもりはないはずだ。

 ▼平成4年に出た『まど・みちお全詩集』のあとがきを読んだときも、似たような違和感を覚えた。この詩集には、「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などのほか、出征直前に作られた、まどさんが「戦争協力詩」と呼ぶ2編も収められている。

 ▼戦後になって、戦前、戦中の好戦的な言動がなかったかのように振る舞った文学者が少なくないなか、まどさんの誠実な態度には感銘を受けた。それなのに、まどさんは自分を責めてやまない。「懺悔(ざんげ)も謝罪も何もかも、あまりに手遅れです。慚愧(ざんき)にたえません、言葉もありません」。

 ▼何がいけないというのだろう。戦闘機の設計者や詩人だけではない。当時の日本人は、それぞれ自分の持ち場で精いっぱい戦った。きのうも書いたように、敗れたとはいえ、その戦いぶりは、戦勝国にとっても大きな衝撃だった。

 ▼国家の再建に失敗すれば、英霊たちに申し訳が立たない。戦後の復興の原動力となったのも、生き残った日本人のそんな思いだった。終戦記念日のきょう、静かに祈りをささげるとともに、あらためて確認しておきたい。現代の価値観だけで、あの時代を生きた人たちを裁くべきではない、と。

25NAME:2013/08/16(金) 14:11:11
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-935.html

明治維新以降の戦争で日本軍は常に国際法を遵守した武士道の戦いをした事を日本人は知らなければいけない。
日本ほど国際法を守った国はありません。真珠湾攻撃においても、戦闘機は軍艦や軍事施設を攻撃してもハワイの一般住民には一切攻撃しませんでした。

しかしアメリカは日本の多くの都市に焼夷弾を投下して町を焼き尽くし、東京大空襲では10万人の市民が一夜にして焼き殺され、そして広島・長崎
の原爆投下で一瞬にして30万人以上の市民が灰にされてしまいました。アメリカの国際法違反も目に余るものがありました。

日露戦争で最初は日本を応援していたアメリカは、ロシアの世界一の海軍力が日本の力であれほど木っ端微塵になるとはよもやおもってもいなかった。負けると信じていた日本が大国ロシアに大勝利した。我に返ったアメリカは突如として日本を仮想敵国とみなし始めた。

つまり日本の想像も出来なかった実力に恐怖を抱きはじめたのです。日本は将来、きっと太平洋でアメリカと戦うことになるだろうという予感
と突然日本の連合艦隊が襲ってくるという根も葉もない恐怖をアメリカの新聞は書き立てました。

いわゆる「黄禍論」がアメリカ社会を津波のように飲み込んでいったのです。日本人は好戦的であり、アメリカ太平洋側まで奪い取る実力があり、
その危険は今や目の前に迫っているというキャンペーンがマスコミによって連日繰り広げられていきました。

アメリカの根底には、「日本の後ろに十数億のアジア人が白人に復讐する為に結束しているに違いない」というとんでもないデマが信じられていました。

ところが当時の日本の社会は不思議と親米一色に染まっていきアメリカ文化を盛んに取れいれていきました。悲しいかな日本の言論界も政界も全く正確にアメリカの実情を判断する能力を持っていなかった。

しかしアメリカのルーズベルトは日本がこれ以上力をつける前に日米決戦に持ち込まなければアメリカが危うい。そこでアメリカ政府は世論を「日
米戦争は仕方のないことだ」というふうに煽り立てる戦略を取ったのです。

そのために蒋介石に資金と武器を与え日本との全面戦争に仕向けたのです。そして日本軍は全中国で暴虐、陵辱の限りを尽くしているというキャンペーンをはり、アメリカ国民に「貧しい、悲惨な中国を日本から救わなければいけない」と信じ込ませたのです。

このようにルーズベルトはありとあらゆる手段を使って日本との戦争になるように持ってきたのです。これは私の推測で言っているのではありません。

その証拠にキッシンジャーは「日本との戦争になるように、戦争を嫌がる国民をその気にさせ、引っ張ってきた、それで世界の自由を救ったんだ。
これは偉大な功績だ」とルーズベルトを称賛しています。

歴史のうねりの中で太平洋戦争はアメリカが100%仕掛けた戦争だということを我々日本人は記憶にとどめておかなければならないと思います。

26NAME:2013/08/16(金) 16:09:19
豊満ダム完成後見学に来たフィリピン外相は
「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカ支配下で40年が経過、住民の生活向上に役立つものは一つも造っていない。
満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語りました。

参考)黄文雄、岡田英弘、宮脇淳子、倉山満

27NAME:2013/08/25(日) 05:15:00
スチムソン ハワイ ほっとした
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-311.html
◆解決された大統領の「道徳問題」

真珠湾攻撃の日(時差によりアメリカでは12月7日)の午後2時、ルーズヴェルト大統領はスチムソン陸軍長官に電話で、
「日本はハワイを攻撃した。やつらはハワイを空襲しているところだ。」と述べた。

そしてスチムソンは、この日の日記にこう書いた。

「それはたまらなく面白いことだった。・・・いまやジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を一挙に解決してくれた。
日本の攻撃の報を受けた時、私の最初の気持ちは、不決断の状態が終わり、全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たという
ほっとした気持ちであった。」

28NAME:2013/08/28(水) 03:48:35
k.onodera ‏@kmovie 9時間
昭和天皇が第二次大戦における作戦行動にまで細かく口を出してたことは、文藝春秋に載った「昭和天皇独白録」という、昭和天皇が自ら語った内容でもハッキリと裏付けられている。問題は、これら信憑性のある資料を『終戦のエンペラー』ではわざと無視し、全く違う物語を啓蒙しようとしているところだ。

29NAME:2013/08/29(木) 20:04:57
「原爆も国際法違反か」に米無言
シリア化学兵器使用で米国務省に質問飛ぶ
2013.8.29 12:24 [国連]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130829/amr13082912260006-n1.htm

 原爆投下も化学兵器使用と同じ国際法違反か−。米国務省の定例記者会見で28日、ロイター通信の記者がシリアの化学兵器使用疑惑をめぐり、米国による広島、長崎への原爆投下の例を挙げて軍事介入の正当性について追及した。

 米政府はアサド政権による化学兵器使用を断定。この日の会見でハーフ副報道官は国連安全保障理事会による武力行使容認決議なしに軍事介入することを念頭に、多数の市民を無差別に殺害したことが一般的に国際法違反に当たると強調した。

 これに対してロイターの記者は「米国が核兵器を使用し、広島、長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは、あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」と質問。ハーフ氏はコメントを避けた。(共同)

30NAME:2013/09/15(日) 06:22:58
花うさぎの「世界は腹黒い」
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/2317343/

◆ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)

 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。
(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

 ◆ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))

 ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。

 ◆ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)

 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。

 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。

 民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)
 さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256〜7ページ)

 ◆ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)
 
 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)

 1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。
(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

◆グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)

 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。

 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。
(1946年デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

 ◆ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)

 チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち
 「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。
(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253〜4頁)

31NAME:2013/09/15(日) 06:26:38
 ◆アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)

 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。

 日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。 その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。 (中略)
(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。(「魂を失った日本」未央社、57〜65ページ)

 ◆ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
 
 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。
 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。
 
 『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。

 そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

◆朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}

 「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ? 黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか? しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

 ◆ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)

 この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

 ◆スリム中将(イギリス第十四軍司令官)

 たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。
(「敗北から勝利へ」)
 かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

 ◆蒋介石

 ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

 ◆ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)

 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。
(『神風』)

32NAME:2013/09/16(月) 19:37:41
旧日本軍731部隊が人体解剖を行った証拠を発見した-中国の専門家が主張
サーチナ 8月22日(木)11時4分配信
http://military38.com/archives/31137715.html
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130822-00000009-scn-cn

旧日本軍731部隊について研究する専門家・楊彦君氏はこのほど、「旧日本軍が人体解剖を行ったことを証明する直接の証拠」を発表した。中国国際放送局が報じた。 ハルビン市社会科学院731問題国際研究センターの責任者である楊彦君氏は2011年11月、米国会図書館で米国が機密指定を解除・公開した日本細菌戦に関する資料を調査し、ペスト菌報告の「Q報告」を含む3部の報告書を発見したと主張した。

 記事は、「Q報告は731部隊が1943年に長春と農安地区のペスト感染者に解剖を行った報告書で、主に心臓、肺、扁桃腺などの器官の感染ルートと感染程度の情報を記録したもの」と報じた。 楊氏によれば、「Q報告」に記載されている解剖例は計57例で、解剖例の基本データには名前(イニシャル)のほか、年齢、性別、過程日数、病型、感染方式などが含まれているという。

 報道によれば、「Q報告」は1948年7月に米陸軍に提出された文書で全744ページ、4部構成だ。第1部は主に心臓と肺の感染データ、第2部は主に扁桃腺、咽頭、気管支、胃、腸、脾臓などの病変記録と状況、第3部は主にリンパ節の病変過程、腎臓とすい臓の解剖データ、第4部は主に副腎、甲状腺、胸腺、睾丸、脳下垂体などの解剖データが記録されている。

 楊氏は、「731部隊は細菌兵器の研究と実験を行うと同時に、医学的に病理解剖と研究も行った。その目的は侵略戦争のためであり、完全に医学論理と人道主義に背くものだ」との見方を示した。 さらに楊氏は「Q報告は731部隊が疫病防止を名目に、細菌感染研究を実施した歴史的事実を暴露するもので、731部隊が中国侵略戦争時に人体解剖を実施した直接の証拠だ」と述べた。(編集担当:村山健二)(写真:ハルビンの関東軍防疫給水部本部(通称、731部隊)跡地/撮影:宮城英二)

33NAME:2013/09/30(月) 22:37:22
硫黄島(東京都)
http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-02a0.html

太平洋戦争末期、ミッドウェー海戦で大敗を喫し、劣勢に立たされる日本軍だったが、その後、多くの旧日本兵達が絶対国防圏として死守しなければならないサイパン島が陥落し、B29の飛来と本土の爆撃を許すことになる。この硫黄島は、1944年12月のレイテ攻略で、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がった上に、米陸軍も日本本土への戦略爆撃の効果から硫黄島攻略の意義を唱え、「硫黄島攻略後に沖縄上陸」という基本戦略が秋の日本本土上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃の支援のもと開始された。3月17日、激しい戦闘の後にアメリカ軍が島を制圧し、日本軍守備隊陣地の多くが壊滅した。3月21日に大本営は17日に玉砕したと発表。その後も、生き残りの日本兵からの散発的に抵抗は続き、3月26日、栗林中将(戦闘終結直前に大将へ進級)以下300名余りが最後の攻撃で壊滅し、これにより組織的戦闘は終結した。日本軍に増援や救援の計画は当初よりなく、2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死した。これは損耗率にして96%にのぼる。一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。この模様は「硫黄島からの手紙」という映画で見た方もいるだろう。舞台全体が壮絶な玉砕を遂げた大激戦の地にどうして私が行ってみたいのか。恐らく今も回収困難な遺骨が多数眠っていることだろう。65年前にここで生きて帰れぬことと知りながら、戦地に赴き、御国の為に立派に命を散らせた若人たち。母を思い、故郷を思い、そして日本の行く末を案じながらあの世へと旅立った兵士たち。さぞかし無念だったことだろう。「同期の桜」や「海ゆかば」を共に歌いながら、挫けぬ勇気を携えて戦場に散って行ったに相違ない。そう思うと、居た堪れない気持ちがこの身を襲う。同じ日本人としてそれを思うと、死ぬ前に一度は訪れて手を合わせて冥福を祈りたい。今夏に靖国神社を訪問し、英霊の御霊に触れ、戦争の悲惨さと平和の有り難みを身に染みて感じとった。今の日本の平和は多くの戦死者たちの犠牲の上に成り立っていることを決して忘れてはならない。

34NAME:2013/10/13(日) 02:45:28
北京議定書
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8
日中戦争の端緒となった盧溝橋事件において「なぜ日本が中国の領域深くまで当然のように兵を置いていたのか」という疑問を聞くことがある。日本からすれば『北京議定書に基づく権利の行使に基づいた駐留』だった。辛亥革命後、中国は複数の腐敗した軍閥が割拠し、外国人への襲撃が相次いだこともあり、日本を含む8ヶ国の列強が居留民や領事館等を保護するため各地に駐兵していた。事前通報すれば演習は可能だったとはいえ、『盧溝橋も豊台も議定書で駐留を認められた場所ではない』。盧溝橋事件後、日中両国間で停戦協定が結ばれながらも、廊坊事件、広安門事件など数々の衝突が続く。

35NAME:2013/10/19(土) 02:46:48
戦時中の日章旗返還 「ご家族に」と米司令官
2013.7.27 15:20
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130727/amr13072715220006-n1.htm

米太平洋艦隊潜水艦部隊のコールドウェル司令官が26日、ハワイ・ホノルルの日本総領事公邸を訪れ、親族から譲り受けた第2次大戦中の日章旗を重枝豊英総領事に手渡した。日本兵とみられる氏名が記されており、総領事館などが厚生労働省を通じて家族への返還を目指す。

 日章旗には「贈久保田満君」「武運長久」と書き込まれ、知人らとみられる多数の署名がある。「仁科村長」の署名もあり、総領事館は静岡県仁科村(現在の同県西伊豆町)出身者の可能性があるとみている。

 コールドウェル司令官によると、旗は軍人で日本駐留の経験もあった親族から譲り受けた。親族がどこで旗を手に入れたかは不明という。 司令官は「ぜひご家族に戻してほしい」と依頼。重枝総領事は「保存状態が良く、(氏名なども)はっきりと確認できるので、ご家族、ご遺族が見つかる可能性は高い」と応じた。(共同)

36NAME:2013/10/21(月) 20:16:51
8分半で自虐史観の洗脳が解ける魔法の動画
https://www.youtube.com/watch?v=Yi6t6r7FbjM
fuuta345
なぜ、日本の左翼が「日本は悪い国」と宣伝・洗脳 教育をするのでしょうか? それは、遡ればロシア革命の指導者レーニンが 革命前夜にスイスのベルンに党幹部を集めた会議 で演説した内容に起源があります。 その演説とは・・・・・ 「革命のためには祖国を呪う青年をつくれ。 自分の祖国ほどひどい国はない。 革命せねばという感情をつくれ!」 ・・・・ つまり、青年たちに自分の国を悪く思わせることで 不満を高め、その不満を革命に向けさせることが 革命成功の秘訣であると言っているわけです。 ・・・・ 日本の左翼、日教組はこのレーニンの指令を今でも 忠実に守っていると言えるでしょう。 ・・・・ NHK特集の「日教組」に出てくる日教組杉並支部の 事務局長の部屋にレーニンの胸像が置いてあったのを 覚えている方もいらっしゃいますよね。

37NAME:2013/10/27(日) 07:03:45
特攻に失敗(?)した日本兵が自爆(自決)死した映像
http://www.youtube.com/watch?v=RRBs-YGtqpA

日本兵の頭蓋骨を取り出してオブジェにするぐらいの野蛮さが当時­はあったからね。
白人は有色人種を人間と思っていない時代です。
その白人に果敢に立ち向かったのがアジアで唯一の日本です。
支那は欧米に媚び諂ったアジアの裏切り者。
半島は日本によって支那の奴隷から開放されたが日本に金をせびる­乞食民族。

馬鹿じゃねーの、みんな自爆するために手榴弾持ってたよ。
基本的に、日本軍は降伏を許さないから自決するように命令されて­るんだ。
そうやって命令した上官の多くは戦争終結後も自決してないけどな­!!!
wikipediaから抜粋。
多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示し­­ていたが、戦後は復興が重要と約束を忘れ、守ったのは大西と宇­垣­などわずかであったことを批判する声もある。機体故障などで­やむ­をえず引き返した特攻員を振武寮に隔離し片っ端から「おめ­おめ帰­ってきおって!貴様たちそんなに命が惜しいのか!」とリ­ンチした­ことで知られる第6航空軍参謀倉澤清忠少佐は死の直前­まで拳銃と­軍刀を手放せず、特攻隊員や遺族からの報復に怯えな­がら2003­年死の床についた。

38NAME:2013/11/21(木) 02:07:35
「歴史乗り越え」同盟の絆 米太平洋艦隊司令官が海軍墓地で献花
2013.11.20 23:10
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131120/plc13112023110020-n1.htm

ハリー・ハリス米太平洋艦隊司令官(57)は20日、長崎県佐世保市の東山海軍墓地を訪れ、先の大戦で散った帝国海軍の軍人ら18万柱を顕彰した「海の防人之碑」に献花した。 13日にはテリー・クラフト在日米海軍司令官が同墓地で献花を行ったばかりで、日米同盟の絆の強さを改めて示した形だ。 ハリス氏は墓地内を散策し、昭和19年のフィリピン・レイテ沖海戦で米軍に撃沈された重巡洋艦「鳥海」と駆逐艦「藤波」の戦死者約1千人をまつる碑の前では、関係者からの説明に耳を傾けた。 ハリス氏は「日米は敵同士として戦ったが、今では歴史を乗り越え、困難な状態にある友人を助けるため連携している。リンカーン元大統領は『英雄をたたえない国に未来はない』と言った。海軍墓地に英雄がまつられているのを大変うれしく思う」と語った。

39NAME:2013/11/27(水) 23:26:27
ポツダム宣言受諾は無条件降伏? 衆院文科委で論争
2013.11.27 19:22
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131127/plc13112719230014-n1.htm

先の大戦で日本は「無条件降伏」したのか、それとも「条件付き降伏」だったのか−。衆院文部科学委員会で27日、こんな議論があった。下村博文文部科学相は「事実上の無条件降伏だったと思う」とし、西川京子副大臣は「大変大きな問題で、文科省だけで発言していいとは思えない」と答弁した。無条件降伏か否かは、現行の教科書でも記述が分かれており、今後の議論が注目されそうだ。

 自民党の池田佳隆氏(自民)が「戦後レジーム(体制)からの脱却をはかるうえでも、先の大戦で日本が無条件降伏したかどうかは重要な問題だ」と主張し、文科省の見解をただした。下村氏は、事実上の無条件降伏との認識を示しつつも、「(無条件降伏の定義について)一概に答えるのは困難だ」とかわした。 先の大戦で日本が受諾したポツダム宣言には、「われら(連合国)の条件は左のごとし」として、日本の主権の及ぶ範囲などの条件が示されていた。しかし戦後は「無条件降伏」との認識が広まった。

40NAME:2013/12/04(水) 20:58:22
旧日本軍の大型潜水艦「伊400」ハワイ沖で発見 高度技術流出恐れ米が破壊
2013.12.4 11:08
http://sankei.jp.msn.com/world/news/131204/amr13120411110006-n1.htm

米ハワイ大の海洋調査研究所は3日までに、旧日本軍の潜水艦の残骸をオアフ島沖の海底で発見したと発表した。原子力潜水艦が建造されるまでは世界最大級だった「伊400」で、第2次大戦の終結直後に米軍が押収、高度の技術がソ連の手に渡るのを警戒し、破壊して沈めた。 オアフ島南西沖の深さ約700メートルの海底で同研究所の有人潜水艇が見つけた。

 伊400は全長約120メートルで翼を折り畳んだ攻撃機を3機搭載できた。給油無しで地球を1周半連続航行する能力があったとされ、旧日本軍は当時米国が管理していたパナマ運河などへの攻撃に使うことを検討したとみられている。 現地で調査した米海洋大気局(NOAA)の専門家は「それまでの軍事戦略を変える攻撃能力」を持つ潜水艦だったとしている。 米軍は戦後、伊400など旧日本軍の潜水艦5隻をハワイの真珠湾に移送して能力を調査し1946年に現場海域で沈めた。同研究所は92年からこれらの潜水艦を探す調査をしている。(共同)

41NAME:2013/12/27(金) 21:08:03
橋下氏「侵略戦争と言えばいい」
橋下氏、侵略戦争との「明言必要」
2013.12.27 12:26 [west政治]
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/131227/waf13122712280014-n1.htm

 日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長は27日、中国や韓国が猛反発している安倍晋三首相の靖国参拝に関し「戦争の評価について、首相がはっきりと自分の考え方を述べないから誤解が生まれている。侵略戦争だったとはっきり言ったらいい」と提言した。 橋下氏は「学術的にはどうであれ、戦後秩序の中で日本の侵略戦争と位置付けられてしまっている。日本の国家運営の責任者はその評価を曖昧にしてはいけない」と指摘。「侵略戦争と表明した上で『命を落とした英霊によって今の日本があるので尊崇の念を表す』と言えば、中韓も反論できない」と主張した。 今回の参拝については「軍国主義や戦争を肯定しているのではないと思う」と述べ、重ねて理解を示した。 市役所で記者団の質問に答えた。

42NAME:2014/01/01(水) 20:02:56
【A級戦犯】 http://kotobank.jp/word/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF
平和に対する罪
【BC級戦犯】 http://kotobank.jp/word/BC%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF?dic=daijisen
B級戦犯は、戦争法規または慣例に違反したとする「通例の戦争犯罪」に該当する者、C級戦犯は「人道に対する罪」に該当する者
【東京裁判】 http://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A3%81%E5%88%A4
【太平洋戦争】より
…ところが敗戦後の日本人は,みずからの手で戦争責任を厳しく追及することなく,今日に及んでいる。 連合国によって開廷された東京裁判(極東国際軍事裁判)(1946年5月3日〜48年11月12日)は,(1)国際連盟,不戦条約,国際連合,日本国憲法第9条などに体現されてきた戦争を違法とする世界史の流れのなかで,〈共同謀議の罪〉という犯罪類型を導入し,初めて国家指導者の個人的な刑事責任を追及したこと,(2)〈平和に対する罪〉という新しい構成要件をつくりあげ,それを構成要件の筆頭にすえたこと,(3)〈文明の裁き〉というたてまえのもとに,〈殺人〉と〈通例の戦争犯罪および人道に対する罪〉を第2,第3の構成要件とし,十五年戦争の侵略的性格と日本軍の野蛮な残虐行為を具体的な証拠に基づいて白日のもとに暴露したこと,の3点において画期的な意義を有していた。しかし同時にこの軍事裁判は,(1)戦争の当事者である戦勝国が戦敗国を一方的に裁くという〈勝者の裁き〉であったばかりでなく,裁く側に過去4世紀に及ぶ過酷な植民地支配,アメリカによる原爆投下と都市無差別爆撃の戦時国際法違反,ソ連による日ソ中立条約侵犯と日本人捕虜のシベリア抑留問題などの汚点と弱点があったこと,(2)〈平和に対する罪〉は戦争違法観と指導者責任観とが結合されて第2次世界大戦末期に成立したが,これによって個人を重罰に処したことは法理上問題があり,また〈共同謀議〉という英米法でも問題の多い法概念で1928‐45年の事実を裁くことには無理があったこと,(3)裁判が事実上アメリカの日本占領政策の一環として行われたため,天皇の不起訴,真珠湾攻撃の観点が優越した被告人の選定,A級戦犯の責任追及の途中打切りなどの不十分な結果をもたらしたこと(戦犯),(4)日本の民衆の侵略戦争への荷担の責任がまったく問題にされなかったこと,などの弱さを有していた。…

43NAME:2014/01/04(土) 10:25:30
A級戦犯は存在しない
http://moeai.info/%e9%9d%96%e5%9b%bd%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ab%e5%90%88%e7%a5%80%e3%81%95%e3%82%8c%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8ba%e7%b4%9a%e6%88%a6%e7%8a%af%e3%81%a8%e3%81%af/.html

負けたから仕方ない、甘んじて汚名も受けるとしても、そもそも現在にA級戦犯や他の戦犯は存在するんでしょうか?
A級戦犯の中には絞首刑者と服役後社会復帰された方がいます。
絞首刑者の場合は、死を持って罪を償い名誉を回復できるわけですから、死んだ時点で罪を償えい、名誉を回復したわけです。

44NAME:2014/01/23(木) 03:16:27
井筒監督が「永遠の0」痛烈批判
映画「永遠の0」を痛烈批判した井筒監督 「見た後で自分の記憶から消したくなった」
2014年1月21日 18:03 (J-CASTニュース)
http://topics.jp.msn.com/entertainment/tv/article.aspx?articleid=3058431

上映中の映画「永遠の0」の勢いが止まらない。観客動員数は370万人を突破し、封切後4週連続でランキング首位と好調をキープしている。 この作品に対して「見たことを記憶から消したくなった」と痛烈批判したのが、映画監督の井筒和幸氏だ。何とも辛口のコメントに、原作者の百田尚樹氏もすぐさま反発してみせた。

■「特攻隊を美化している」に「記憶ゼロにして何も喋るな」

 「井筒節」がさく裂したのは、2014年1月16日深夜に放送されたラジオ番組でのこと。共にパーソナリティーを務めるマツコ・デラックスさんらとの映画談議の際に、「見たことを記憶から消したくなる映画」として名指ししたのが「永遠の0」だったのだ。 「特攻隊を美談にしている」と主張。加えて、岡田准一さんが演じる主人公は「生きたい」と考えていたのに特攻隊に志願して戦闘機に乗り込む筋書きを不自然と感じ、「そんなわけない」と語気を強めた。さらに「(実際に特攻隊に)行かない人は何人もいた。それでも『どうしても行かなきゃしょうがなかった』という空気があったという証言はよく語られる……そういう証言に基づく本当の話なら別やけど」と続けた。これに対して「永遠の0」はつくられたストーリーで「ありえない設定」、しかも特攻隊を美化していると監督の目には映ったようだ。

 この発言を複数のインターネットニュースが報じると、原作者の百田氏は1月20日にツイッターで、記事を引用しながら「なら、そのまま記憶をゼロにして、何も喋るなよ」と井筒監督に反撃している。「戦争賛美」という批判は以前にも寄せられていて、2013年8月17日付のツイッターではこう断言していた。 「私は『永遠の0』で特攻を断固否定した。多くの特攻隊員に慕われていると言われている大西瀧治郎中将さえも批判した。それなのに一部の粘着する連中から『百田尚樹は特攻を賛美して肯定する軍国主義者とだ(注:原文ママ)』と執拗に非難される。多くは本を読んでない人だが中には読んだと言う者もいるから唖然とする」 また2013年12月20日付の日本経済新聞電子版のインタビュー記事では、「主人公にあえて『臆病者』『海軍の恥さらし』と言われる人物を選んだのは、小説で『生きる』ということを描きたかったからです」と説明していた。当時の航空兵は戦死率が高く、そこで「とにかく生きて帰る」というキャラクターを据えることで「生きる」ことを問えるのではと考えたそうだ。

■俳優から「アホだと思う」と言われたことも

 もっとも井筒監督の映画作品に対する「辛らつコメント」は、今回だけではない。2007年5月、当時東京都知事だった石原慎太郎氏が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」が公開された。これも特攻隊員を描いた作品だったが、井筒監督は「戦争の美化」と批判していた。これに怒った主演俳優の窪塚洋介さんが、「この映画を見て戦争賛美だというヤツはアホだと思う」と猛反発している。 「永遠の0」は原作、映画ともこれまで繰り返し非難を浴びてきた。2013年6月18日付の朝日新聞では、作家の石田衣良氏の言葉を借りて「右傾エンタメ」と評し、「骨太な愛国エンタメ」と位置付けた。アニメーション映画監督の宮崎駿氏からは、固有名詞こそ出していないが「嘘八百を書いた架空戦記をもとにして、零戦の物語を作ろうとしているんです。神話の捏造をまだ続けようとしている」と指摘された。 井筒監督の場合は、「永遠の0」に限らず他の映画もバッサリ切っており、辛口トークは「持ち芸」とすら思えるが、何度否定しても繰り返される「戦争賛美」のレッテルをまた張られたことに百田氏もうんざりしつつ、見過ごせなかったのだろう。

45NAME:2014/01/24(金) 00:16:07
A級戦犯は「東方のナチス」 中韓が首相演説に反発
2014.1.23 22:11 [歴史認識]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140123/chn14012322120009-n1.htm

 【北京=川越一、ソウル=加藤達也】中国外務省の秦剛報道官は23日の定例記者会見で、安倍晋三首相がダボス会議で日中関係に言及した際、第1次大戦前の英独関係に触れたことについて、「英独関係を持ち出すならば、日本が近現代史上、中国に何をしたかを直視した方がよい」と述べた。また、「記憶に刻むべきは日本が中国を含むアジア人民にもたらした深刻な災難だ」と強調した。 秦氏は靖国神社参拝に関する同会議での首相の発言に対しても、「参拝が中韓両国の人々の感情を傷つける気持ちはまったくないといえるのか」と反発。いわゆるA級戦犯を「東方のナチス」とし、参拝は侵略の否定が目的だと述べた。「日本の6大紙の中の5紙も参拝への反対を公然と示した」とも主張。暗に本紙を批判したとみられる。

 首相が中国に軍事面での「透明性」を求めたことにも、「中国の軍事の国家防衛の意図、政策は透明だ。透明度を上げるべきは日本だ」と反論した。 一方、韓国外務省報道官も23日の定例記者会見で、靖国参拝に関する首相の発言を「参拝しながら韓日友好を語るのがいかに矛盾しているか、全世界のメディアと知識人が声を上げている。この声が聞こえないのは理解しがたい」と批判。「参拝は日本が犯した過ちを反省していないのと同じだ」と述べた。

46NAME:2014/01/25(土) 23:32:27
首相発言は「戦争狂言」と中国紙
中国紙、日本政府が「火消し」と報道 安倍首相発言で
2014.1.25 21:24
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140125/chn14012521250006-n1.htm

中国国営新華社通信系の新聞、参考消息は25日、安倍晋三首相が日中関係を第1次大戦で対決した英国とドイツを例に挙げて説明したことについて「日本が急いで安倍の『戦争狂言』を火消し」と1面トップで伝えた。 参考消息は国外の報道を翻訳し転載する新聞。欧米メディアの記事を引用し、安倍首相を「痛烈に批判」していると紹介。一方で、日本政府が誤解だと説明しているとの日本の報道も掲載した。(共同)

47NAME:2014/01/25(土) 23:37:49
7割は前方見ずに…ゼロ戦操縦士
前見ながら操縦するパイロットなどいない、7割は「斜め後ろ」見ながら…ゼロ戦乗りをうならす迫真の操縦場面、進化する航空映画
2014.1.25 18:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140125/wlf14012518010019-n2.htm

過去の航空映画について、笠井さんは「パイロットが前方だけを見て操縦している場面が多かったが、あれは間違い」と指摘。「実際は前方を見るのは3割、7割は斜め後方を見ながら操縦します。敵機をいち早く発見するためです」と説明する。「永遠の0」で主人公のゼロ戦パイロット、宮部久蔵を演じる岡田准一さんは、笠井さんのこのアドバイスを忠実に守り、操縦シーンでは絶えず周囲に視線を向けながら操縦桿を操っている。

まるで実機…製作陣の熱意の表れ

 鹿児島・知覧の基地から飛び立った特攻隊を描いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」(平成19年)の公開の際、取材した元戦闘機「隼」の操縦士、橋本正雄さんも笠井さんと同様、過去の航空映画の戦闘場面には不満だったという。「空戦中、背もたれに体を預けたまま操縦桿を握るパイロットはいない」と言い、「俺は君の−」については「映画で特攻シーンに引き込まれたのは、初めてでした。前のめりになりながら必死で操縦桿を握る操縦士の姿は、鬼気迫っていました」と語った。 「永遠の0」では実物大のゼロ戦が2機、「俺は君の−」では隼が2機製作されている。その際、機体を監修した橋本さんは「操縦桿を操作するとフラップも動き、実機とみまごう出来でした」とその完成度を認めた。「現代に描くからこそ嘘は許されない」という製作陣の熱意、敬意が元パイロットたちにも伝わったことの表れだろう。

今も光沢を放つ〝魂の断片〟

 一方、「過去の航空映画から、その時代に訴えようとしたメッセージを受け取ることができる」と指摘するのは、昨年6月まで航空自衛隊三沢基地でF2戦闘機の操縦士を務め、現在は北部航空方面隊司令部所属の菊地剛二等空佐(41)だ。 菊地さんが高く評価するのは、昭和19年に公開された「加藤隼戦闘隊」。実在の隼パイロット、加藤建夫陸軍少将をモデルにした東宝作品で、加藤少将を藤田進が演じ、円谷英二が特撮監督を務めた。「まだ精神論が強かった時代に、無線性能の向上による航法技術の重要性を訴えた加藤氏の先見性を、映画はきちんと伝えています。戦時中の公開なのに、これは立派な姿勢です」と菊地さんは解説する。

 笠井さんは南洋上で米軍爆撃機と交戦中に被弾、海に不時着して生還した。この機体がまだ残っていると知り、30年後に現地へ行き、ゼロ戦の垂直尾翼の一部を持ち帰った。 この尾翼片を見せてもらった。超軽量のジュラルミン製の尾翼片には被弾した跡があり、塗装ははがれ落ちている。だが、約70年を経た今も流線形の形状を保ち、光沢を放っていた。 「これこそが堀越氏らの当時の日本の技術の高さを示す証拠。『風立ちぬ』『永遠の0』が現代人に伝えたい〝魂の断片〟が、ここに残されているようでしょう」。そう語る笠井さんの表情に、誇りがにじみ出た。

 映画、テレビ、ラジオ…。われわれの生活を潤し、魅了してやまないメディアの世界。その歴史を、文化部編集委員がたどります。=続く

48NAME:2014/01/30(木) 13:14:23
真珠湾攻撃した飛行士の思いは…
トラ・トラ・トラ 真珠湾攻撃、右目を失い生還した飛行士「英霊を大切にして欲しい」 現代版「永遠の0」94歳の語り部
2014.1.30 11:12
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140130/wlf14013011170015-n1.htm

真珠湾攻撃に参加した城武夫さん=大阪市港区 「恐らく帰れないだろうと、決死の覚悟だった」。70年あまり前の思いが、いまだ胸裏に深く刻み込まれている。第二次大戦で米ハワイの真珠湾攻撃に第1次攻撃隊として参加した元日本海軍飛行士、城(しろ)武夫さん(94)=高松市。飛行士として幾多の戦場を経験し、教官として終戦まで特攻隊員を見送った。今も思い出すのは、若くして戦死した仲間や教え子たちの姿。「後世まで英霊を大事にしてもらうきっかけになれば」と、語り部として講演活動も行っている。

散った仲間が脳裏に…「すまない。語り継いでから逝く」

 昨年12月、大阪市内で行われた講演会。約600人の聴衆を前に、城さんはしみじみと語り始めた。 「あんなに美しい日の出は、見たことがなかった」 昭和16(1941)年12月8日早朝。城さんは、空母「飛龍」から3人乗りの攻撃機で真珠湾に向けて飛び立った。機上で、明るくなり始めた東方の雲の上から朝日が差し込み、緊張が高まった。 湾内にひしめく艦船に向け、低空飛行で攻撃を仕掛ける。激しく水柱が上がり、立ち上る煙が視界を遮る。1隻の戦艦に狙いを定めて魚雷を投下。機上から艦に向かうさまが見えた。「敵も攻撃してくる中で、とにかく必死だった」 15歳で海軍の航空隊予科練習部(予科練)に入隊。訓練を積み、日中戦争に従軍するなどして、15年に飛龍に配属された。

「水戸黄門」俳優や茶道裏千家の千玄室さんも教え子「身を犠牲に祖国を…」

真珠湾攻撃の約3カ月前、地形が似ている鹿児島・錦江湾で低空から魚雷を落とす訓練を繰り返した。だがこのときは相手が米国だとは思っていなかった。 16年11月下旬、択捉島に空母が集結。交渉が決裂した場合、米国が戦いの相手になると知らされた。開戦前夜、遺書をしたためた。 真珠湾攻撃後の17年4月、インド洋の英海軍基地を攻撃中に敵の戦闘機の攻撃に遭った。機体が海上に不時着し、同郷の仲間と、自身の右目を失った。治療のため、飛龍を降りて海軍病院に入院した。 その間、日本海軍の機動部隊はミッドウェー海戦で大敗。飛龍も沈没し、仲間の多くが戦死した。「入院していなかったら、自分もミッドウェーで戦死していただろう」 その後、徳島航空隊で教官として学徒出陣で召集された飛行予備学生を指導する立場に。教え子には俳優の故・西村晃さんや茶道裏千家の千玄室さんもいた。教え子の多くは特攻隊員として出撃。身を切られるような思いで見送った。

 終戦後、世の中の価値観は一変した。戦争の話をするのは避けてきたが、手を振りながら敵陣に突っ込んでいった仲間らの姿がいつも脳裏に浮かぶ。「すまん…」。心の中で、常に頭を下げ続けてきた。一方で、当時を知る者として、確固たる思いがあった。「戦争を否定しても、家族や国のために戦死した人たちのことまで否定するのは間違っている」 依頼を受け、何度か講演してきた。経験を語るのは自らのためではない。「亡き戦友たちの思いを伝えたい。そして英霊を後世大事にまつってもらいたい」。“94歳の語り部”としての使命をかみしめている。

49NAME:2014/01/30(木) 16:42:56
ヒトラーと東条を同列視する愚 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
2014.1.30 03:08
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140130/plc14013003110001-n1.htm

ここで話は一転する。 昨年末の安倍晋三首相の靖国参拝には、中韓が、いや米国までもが敏感に反応した。年が明けると、北京の猛烈な反安倍キャンペーンが国際的に始まった。最も激越なのは、イスラエルの英字紙、エルサレム・ポストへの高燕平・現地駐在中国大使の1月21日付の寄稿、「ホロコーストを二度と繰り返させるな」だろう。

≪嘘も百回言えば真実の世界≫

 表題からはヒトラーのユダヤ殲滅(せんめつ)策を断罪したかのような予断が生まれるが、違う。同稿は本稿の倍近くの長文で、6割以上が日本非難だ。靖国に合祀(ごうし)されている東条英機を「アジアのヒトラー」と呼んだ旨は産経新聞が短く報じたが、その原文全体を読むと非難の執拗(しつよう)さに多くの日本人は驚倒しよう。あの世の東条もヒトラーも、これを読めばやはり呆(あき)れ、「奴(やつ)と一緒にされたのではかなわんな」と苦笑いするだろう。 東条を弁護する必要はないが、両人は大きく違う。『わが闘争』とヒトラーの独裁は、この人物が天才的な悪魔だったことを物語る。東条は天才的軍人でも頭抜(ずぬ)けた悪党でもなかった。敢(あ)えていえば凡庸。魔書の著述もない。時代の弾みで戦時内閣を率いたが、戦争末期には交代、戦後、絞首台に消えた。その程度のことは、普通に歴史書に親しめば誰にでも分かる。問題は、中国のプロパガンダ機構の史実クソ喰(く)らえ姿勢だ。 北京は怒るだろうが、中国のプロパガンダ戦法は何となくナチスのそれに似ている。ドイツ第三帝国プロパガンダの天才、ゲッベルス宣伝相が「嘘は百回も繰り返すと真実になる」と豪語したとか伝えられるが、よもや北京もそう思っているのではないでしょうね。

≪中国宣伝戦ゲッベルスばり≫

 ゲッベルスの嘘は主に国内向けだったが、北京の史実無視プロパガンダは、専ら国際社会向けである。この狡猾(こうかつ)さの意味は重要だ。今日、往時のドイツのナチズムと日本軍国主義の相違なぞ、日独以外の国の普通の市民には分からない。ナチズムとは何かは、勝利した米国さえ理解しなかった。戦後初期の米国のドイツ非ナチ化政策は噴飯物だった。米国はやがてそれに気付いたが、時の経過に連れて、戦前の歴史的体験も歴史的知識も摩耗している。嘘のような本当の話だが、イスラエルにもネオナチがいて政府は悩んでいる。だから真実とは無縁の政治宣伝がよく効く。このことに心すべきだ。 中国は共産党一党支配国家だから、史実クソ喰らえの政治宣伝に国内からブレーキはかからない。国際的には良識ある歴史家以外には、日独両国民だけが事の当否を判断できるにすぎない。が、「東条はアジアのヒトラー」論でドイツが日本擁護の中国批判に立ち上がるはずはない。北京の宣伝で自国が損をするわけではないし、そのうえ、ドイツ国内には他国にはない『わが闘争』自由流通時代の到来という頭痛の種があるからだ。この問題では、われわれには自力対応しかない。 いずれ駐イスラエル日本大使が前掲紙に反論を書くだろう。紳士の外務省では無理だから、私が尋ねる。中国の主張を裏返すと「ヒトラーは欧州の東条」だ。それでよいか。答えが然(しか)りなら、世界から対中ブーイングが起こる。(させ まさもり)

50NAME:2014/02/05(水) 21:28:48
「日本 とパラオ」
http://blogs.yahoo.co.jp/zodiacfumiya/23913859.html

パラオの桜(1)「ペリリュー島の戦い」中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文、島民を戦火に巻き込んではならないと桜花のごとく散った日本軍の武士道精神
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/37636181.html

パラオ共和国は、「中華民国(台湾)」を国家として認めている外交関係を持つ世界23カ国のうちの1カ国で、中華人民共和国とは国交がありません。

有史以前のパラオについては未解明の状態で、近年の遺跡などの調査では、約4000年前から人が住んでいたと推定されています。
1855年(明治18年)、パラオはスペインの植民地になりました。
スペイン人らによって天然痘などが持ち込まれたことや、植民地支配での略奪、殺戮などの結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。
1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却し、この中にパラオも含まれていました。
ドイツの植民地になったパラオでは、他のドイツの植民地と同様に、道路や水道などのインフラ整備や、パラオの先住民への教育はほとんど行われませんでした。
1914年(大正3年)、第一次世界大戦が始まると、ドイツに対して宣戦布告した日本はパラオに海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させパラオを解放しました。
1919年、第一次世界大戦の戦後処理をする「パリ講和会議」によって、パラオは日本国の委任統治領になりました。
日本政府は、当時の首都である「コロール」に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、パラオは日本の南洋周辺諸島を統治する中核的な島になりました。
日本委任統治時代のパラオには、多くの日本人が移住しました。
最盛期の1943年(昭和18年)には約2万5千人の日本人と、当時は日本国民だった朝鮮人約2千人も居住していました。
1920年代のパラオの町並みの写真を見ると、右側の店舗には、韓国人が1910年の日韓併合により奪われたと歴史を捏造している、ハングル文字の看板があります。

日本は委任統治時代にパラオで、ドイツの植民地時代にはほとんど行われなかった、学校・病院・道路などインフラの整備も重点的に行ないました。
そして、パラオの首都のコロールなども、近代的な都市へと変貌されました。

日本委任統治時代のパラオは、それまでの白人による植民地支配時代とは違いました。
日本政府は、白人による植民地支配には行われなかった、パラオの住民に疾病に対する予防接種を受けさせました。
また、パラオの言語を顕すための文字をもたないパラオの住民のために、学校を建て、日本語の教科書を用いた日本語教育を行いました。

パラオには、「ペリリュー島」というパラオ諸島の島があります。 このペリリュー島では、大東亜戦争末期に、日米両軍によって実に73日間にも亘る死闘が繰り返されました。

51NAME:2014/02/05(水) 21:31:22
パラオの桜(2)ペリリュー島民を守り抜いた日本兵「ペ島の桜を讃える歌」パラオ国旗の解説、パラオ教科書の「日の丸の旗のもとに」パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア「親愛なる日本の皆様に」
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/37705620.html

ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。 「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」と。 住民はこぞって日本兵の遺体を葬りました。 そして、日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。

大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカによる目に余る反日教育が行われました。 歴史の授業では、米国で作られた教科書が使われ、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。 ところが、パラオの年長者が「そんな話しはない」と否定したため、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。

米国より独立後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られました。 国定教科書では、全462ページのうち36ページもが日本統治時代にあてられて、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられています。 日本がパラオを統治するようになった経緯だけでなくて、日本の行った学校教育・産業・経済活動などについても詳しく述べられています。 学校教育については、「当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれて、日本人は体罰で非常に厳格なしつけを行った。」と。 としながらも、一年生ですらかけ算の九九を暗記することができたなど、教育水準の高さも語られています。 「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と。 身分を問わず、努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても書かれています。

また、日本教育を経験した人の「学校の厳しいしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。 産業に関する記述にも、「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と。農業、漁業、鉱山業の発展について、日本の統治時代について公平に評価がなされています。 また、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」と。

現代で言う、福利厚生・労働基準が定められていた事も記されています。 日本統治時代について当然の評価をし、理由なき糾弾もなく、実に冷静な視点で事実のみが教えられているのがパラオの国定教科書です。 パラオ共和国は1981年に憲法を制定して、日系人のハルオ・レメイク氏が初代大統領に就任しました。 1993年にクニオ・ナカムラ氏が大統領に就任し、翌年、1994年に米国より独立して国連に加盟しました。 パラオ共和国が独立した際には、「ペリリュー兵士の歌」が作られ、ペリリュー兵士とは日本兵のことです。 題して「ペ島の桜を讃える歌」、作詞者はオキヤマ・トヨミ氏・ショージ・シゲオ氏、パラオの人々です。 今でも日本を慕って止まない心から、国民の半数以上は姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣もあります。 国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵を桜にたとえ、その日本兵への感謝の心をつづった歌です。

「ペ島の桜を讃える歌」

1、激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた、強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
2、小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ、山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
3、将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと、父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し
4、日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る、ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
5、今 守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡、古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る
6、平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に、教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る
7、どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは、椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる
8、戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく、必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを

南洋に住むパラオの人々は、桜を見た事はないかもしれませんが、桜を日本人の心だと感じていたのです。

52NAME:2014/02/05(水) 22:39:50
「病的」特攻隊遺書に韓国紙批判
特攻隊員の遺書申請も批判 世界記憶遺産で韓国紙 「軍国主義の病的な極み」
2014.2.5 13:02 [日韓関係]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140205/kor14020513040003-n1.htm

 鹿児島県南九州市が特攻隊員の遺書などを国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録しようとしていることについて、5日付の韓国紙は「歴史を無視する日本の態度に批判が高まりそうだ」(東亜日報)などと報じた。 朝鮮日報は、特攻隊について「日本の軍国主義の病的な極みを示している」と主張。朝鮮半島出身者を徴用して働かせた施設が含まれるとして、韓国が世界文化遺産への登録に反発している「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」に続き、日本が「また、なりふり構わない」動きを見せていると伝えた。

 東亜日報は、特攻隊には朝鮮人隊員がいたとし、朝鮮人の遺書も遺産登録に含まれれば「遺族はもちろん、韓国(全体)の反発が予想される」と報じた。 一方、韓国日報は5日、日本政府が産業革命遺産を構成する長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)の推薦書を1月末、ユネスコに提出したと報道。「韓国など周辺国の反発を懸念し非公開で提出したようだ」との韓国外交筋の話を引用した。

53NAME:2014/02/06(木) 01:42:33
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4453792.html

誰のせいかと聞かれれば、当時の巨大な植民地利権を守りたい列強や、ドイツに占領されたヨーロッパを開放する戦争をしたかった米国、日本と米国を戦わせ、日本軍を弱らせたかった中国と、日本軍を弱らせて東方からドイツ方面に軍隊を動かしたかったソ連などの共産主義者の謀略などがあり、あの時代の巨大なうねりの中で、どうしようもなかった一面があります。
日本の敗戦後、連合国は、言論の自由を奪い、その上で、過去の植民地支配を隠すために、植民地を奪われた恨みを晴らすために、原爆の非道を隠すために、あること無いこと日本を悪者にでっちあげ、日本人を洗脳したのです。あなたは、この洗脳教育の申し子だと思います。 そもそも、アジアなど存在しなかったあの時代をまず考える必要があります。世界はフランス、イギリス、オランダ、アメリカなどの少数の欧米諸国(列強)の植民地と化し、アジアでの独立国は日本とタイだけでした。そして、植民地の争奪戦は続いていて、完全な植民地でなかった中国を列強が狙っていたのです。

一方、独立を維持することが明治維新以来の国家の目標だった日本は、日清戦争の勝利で得た朝鮮の独立で、ロシアに対する防波堤が出来ることを期待しました。しかし、その後、ロシアの植民地になっていく朝鮮の姿に戦慄し、朝鮮が完全な植民地になる前に、シベリア鉄道が完成する前に、ロシアと戦う決意をし、日露戦争となります。日露戦争の日本軍の上陸点は朝鮮の仁川で、ロシア軍を朝鮮から駆逐しながら進軍します。多くの名将達の必死の戦いで勝利を得ます。その後、朝鮮から日韓併合の話が持ち上がり、その反対筆頭の伊藤博文が暗殺されることで、日韓併合が進みます。朝鮮を日本にして、5000校の小学校、多くの保健所、水力発電所などを作成し、朝鮮人の生活レベルを日本人と同じにする努力が行われます。その後、天才石原莞爾の戦略で満州国を作り上げ、朝鮮と同じ事をおこないます。  そして、中国の利権を狙う米国と日本が対立することになったのです。さらに、ドイツがヨーロッパを占領してしまったので、米国はドイツと戦いたかったのですが、米国民が反対でした。そこで、米国は、ハルノートで、満州の利権を米国に譲るか、石油禁輸で日本の戦争能力を奪うことにしました。その結果、日本が米国に戦いを始めることを期待したのです。日本は、熟慮の上(間違った判断でしたが)、植民地になるぐらいならと全力で戦いを開始し、世界の植民地を解放することを戦争の目標としました。そのため日本は、占領地域に原住民による軍隊を作り、その結果、日本の敗戦後、再植民地化のために再上陸してきた連合軍は敗退し、植民地が独立できました。でも、日本は敗北しました。ですから日本は悪者ではありません。虐殺もほとんどが連合国のでっち上げです。あの戦いは、間違ったものでしたが、同時に、世界の歴史を変えた偉大な戦いでもあります。そろそろ、本当の歴史に目を向けるべきです。そして、植民地の無い自由貿易が可能なこの世界で、日本は経済大国になったのです。まさに、今があるのは、あの戦いで無くなられた方々のおかげということも出来ます。

54NAME:2014/02/06(木) 18:24:39
支那事変は日本の侵略戦争だったのでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4393878.html

私としては、中国に日本軍が華北に居たという歴史的事実が、そもそも中国に取って決して喜ばしいことではなかったのではないかと思います。そういう意味では侵略だと確信して
おります。 廬構橋になぜ兵力を3倍にして、夜間軍事演習などしていたのか?これを考えると、中国侮蔑としか言いようがないのですが・・・なぜ他国に日本軍が駐留しているのかを考えると、そもそもが、侵略の延長ではないかと思ったりしています。関東軍が、満州事変を起こして以来、おかしな歯車が回り出したのだと思うのです。
それは、小村寿太郎がハリマン協定を破棄し、日露戦争のご恩を仇で返した報いではないかとさえ思うのです・・・

【何をもって支那事変の始まりとするか】

(1)盧溝橋事件。「最初の一発」は誰が撃ったのか定かではなく、偶発的な戦闘と言えるものです。そもそも日本軍がそんなところにいること自体侵略だという声もありましょうが、これは国際条約である北京議定書に基づいた合法的なものであり、日本を含む8国が駐兵していました。

(2)第二次上海事変。蒋介石はこれを日中戦争の始まりとしている。中国空軍が上海租界に無差別爆撃をかけ、翌日に上海陸戦隊を攻撃したもの。二週間前に通州事件の例もあり、上海の邦人が皆殺しの危機にさらされたため、昭和天皇やすべての文民が陸軍の派遣を望んだ。これを受け陸軍参謀本部は直ちに上海派遣軍を編成した。この件に関しては間違いなく自衛戦争だと断言します。

【近衛の優柔不断が招いた泥沼化】
上海派遣軍の反撃を受けた国府軍は首都南京へ大潰走、敗残軍を掃討する目的で日本軍は南京を攻略する。この戦いで中国の敗北が決すると、蒋介石はドイツを通じて和平交渉を持ちかけてきた(トラウトマン工作)。事変の不拡大を望む陸軍はよろこんだ。ところが首相・近衛文麿(と海相・米内光政)は、こちらが勝ったのだから条件は吊り上げるとして突っぱねてしまう。結果、事変は収集がつかなくなって泥沼化し、国民から無能呼ばわりされた近衛は内閣を投げ出した。近衛は大衆の人気取りを気にする人物で、また当時人気者だったヒトラーにかぶれ、自分の提案を相手国に呑ませようとしたのです。この傾向は第二次近衛内閣でも顔を出す。せっかくアメリカが満州国の承認する了解案を提示してきたのに、これもノーで突っぱねた。こうして日本は日米開戦へと向かっていくのですから、近衛の責任は重いと言わざるを得ません。

当時の日本が、ハリマン協定を受け入れられたかというと、多分日本人の感情として不可能だったと思います。ただ、ハリマン協定を受け入れていれば、アメリカとその後徹底的に対立する事は無かったと思えます

55NAME:2014/02/06(木) 19:28:33
日本から出ている以上、他国を侵略しているというのは単なる事実です。同時に、日本が独立国家としてあり続けるためには、ソ連の南下を抑えることと南方の資源を確保していくことが必要だったのも、単なる事実です。それらができなければ、日本はソ連に侵略され、飲み込まれていたと、当時の人たちは非常なリアリティで認識していたのです。 後者については、東京裁判において、日本が世界を侵略する陰謀を共同謀議していたと決め付けたマッカーサー本人ですら、後に「主として自衛のためであった」と認めていることです。 しかも、当時、侵略は悪事でもなんでもありません。東京裁判を開催した連合国自体、世界中に侵略の手を伸ばし植民地を持っていたということを、忘れないようにしましょう。

何が問題だったかと言うと、海軍陸軍の派閥抗争が戦争中ですら続けられた制度及び人的能力の問題です。この軍部が、さらに政府とも対立し、現役武官大臣制を盾に予算を獲得し、それを豪腕なり策謀で止める政治家がいなかった。 この状況では、中央政府からのコントロールなど利きません。 国会でいくら議員が吼えても、官僚が従わないようなもので、この構造は現代とまったく変わっていません。平時ならこれでなんとかなるのですが、有事には対応しきれません。

だからどうすべきかというと、有事・平時をきちんとわけ、平時に乱を忘れず有事の体制を明確に決めておくべきなのですね。 なお、こういう思考を「反省」と呼びます。過去の誤りの理由を分析し、未来の問題に備えることです。ひたすらシャザイシャザイと卑屈になることを反省と呼ぶのは、愚の骨頂というものでしょうね。

日米開戦の下地を作ったのは、アメリカノルーズベルトです。 そのようにルーズベルトを持っていったのは、ソ連のスターリンです。 ルーズベルトはヨーロッパの利権を失わないためにドイツと戦いたかったのですが、「戦争をしない」という公約で大統領に当選しているので自分から宣戦布告はできません。ヒトラーもそのことはよく承知していて、米国の輸送船はUボートも狙いませんし、米軍からの挑発には決して乗りませんでした。 それで、ドイツと軍事同盟を結んでいた日本に挑発の矛先を向けたというのが最大の柱です。その結果、ABCD包囲陣などによる兵糧攻めが行われ、ハル・ノートが止めとなりました。 そしてこのハル・ノートを起草したホワイトは、KGB のスパイであったことも判明しています。

56NAME:2014/02/08(土) 21:48:12
米政府、百田氏発言は「非常識」
百田氏発言「非常識」 米、東京裁判批判に反論 「地域の緊張あおる」
2014.2.8 12:31
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140208/amr14020812330008-n1.htm

NHK経営委員を務める小説家の百田尚樹氏が東京都知事選の応援演説で、米軍による東京大空襲や原爆投下を「大虐殺」とした上で、第2次大戦後の東京裁判を批判したことについて、在日米大使館(東京都港区)の報道担当官は8日、「非常識だ」と批判した。米政府の公式の統一見解としている。

 担当官は、百田氏の発言について「非常識だ。米政府は、責任ある地位にある人物が(アジア)地域の緊張をあおるような発言を控えるよう努めることを望む」と述べた。 百田氏は3日、都知事選の応援演説をした際、東条英機元首相らA級戦犯を裁いた東京裁判について、「大虐殺」を「ごまかすための裁判」と主張。南京大虐殺に関しても「38年に蒋介石がやたらと宣伝したが、世界の国は無視した。そんなことはなかったからだ」と発言した。(共同)

57NAME:2014/02/10(月) 18:13:48
第二次世界大戦で捕虜となった日本兵の扱いwwww
http://www.fknews-2ch.net/archives/34445633.html

第二次世界大戦において捕虜となった旧日本軍の兵士達が、アメリカ軍(又は連合国軍)の兵士達によって全裸に剥かれるなどの辱めを受けている様子を撮影した貴重な記録写真の数々。(最後に掲載された写真は連合国軍の軍艦上で撮影されたもので、全裸となった日本軍の兵士が数百人にも及ぶ連合国軍の兵士達の目の前で身体を洗うことを強要されている場面であるそうだ。

アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに沖縄戦がそうだった。 クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。

地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。日本兵の仕業であるはずがなかった。

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。

その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。 兵たちが口々に、「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」と、叫んだ。

兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。 兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。

◆山里宗富さん

戦前私の近所に照屋松助という頑丈な男がいた。
当時彼は家族と別れて一人で瀬底に避難していたが、その日はたまたま健堅に戻って来て家族とともにウイバルにいた。すこし体のぐあいが悪いということで寝ていたのである。
そこへ突然銃を持った二人の米兵が現れ、妻子に乱暴しようとした。たまりかねた彼は起き上がってきて米兵の前に立ちはだかり、
『私も海軍にいたことがあるが、君たちのように非道なことをしたことはない、ささっさと帰りたまえ』と怒鳴りつけた。
言葉は通じなかったもののその場は何事もなく収まり、米兵らはいったん引き上げたかに見えた。
ところが間もなく米兵らが戻って来て、彼をたたき起こし、銃をつきつけて前へ歩くように命じ、前の原っぱに連れ出していきなり射殺したのであった。

◆末吉カメさん

普通の米兵はとくに悪いことをするようでもなかったので、私達は安心していた。ところがそのなかに、住民から鬼のようにこわがられている者がひとりいた。
やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、男という男はかたっぱしから捕まえてひっぱっていったし、
若い女性には乱暴をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。事実彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。
そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。
米軍は寛容で親切だったなんてことはまったくなかったのです。自決せず投降して助かった人が幸せだったとはいえないでしょう。
こうした米軍の蛮行を見て戦時中「米軍は女性を陵辱し、男性は戦車でひき殺される」というフレーズが思い出す人もおり、自決した友人達を羨んだといいます。

日本人女性 米・田舎の白人ばかりの店で注文取ってもらえず「私だって、白人ばかりの片田舎でレストランに入ったら完全に無視され、注文すら取ってもらえなかったこともあったよ。アメリカ人の夫を持つ日本人の女友達なんか、『DC界隈ですら、夫と一緒の時と夫がいない時では、レストランでの扱いが違うのよー』って腹立ててるもんね」

58NAME:2014/02/10(月) 18:46:30
アメリカ人の有色人種蔑視
http://www.tamanegiya.com/yuusyokujinnsyubetsi.html

60NAME:2014/02/12(水) 01:39:08
8月15日を振り返って〜戦没者に捧ぐ
https://www.facebook.com/akio.nagai1/posts/433509273367859

●ククリット・プラモード(タイ元首相)
日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。更に8月15日は、我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。 我々はこの2つの日を忘れてはならない。

●バー・モウ(ビルマ元首相)
我々を白人支配から救い出してくれたのは日本だった。我々は大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は忘れない。日本ほどアジアに貢献した国はいない。

●サンパス(インドネシア元復員軍人省長官)
特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1,000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。日本ほど誤解を受けている国はいない。

●ブン・トモ インドネシア元情報相
あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。それなのに全て日本に背負わせ日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない。

●ラジャー・ダト・ノンチック(マレーシア元上院議員)
我々は日本軍を歓喜で迎えた。日本は将来の我々の独立のために多くのものをもたらしてくれた。我々は日本から学んだ最大のものは「国を守る術」だった。マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓喜の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかもマレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。

●中華民国顧問 O・ラティモア
日本が立派にやり遂げた事は欧米の植民地帝国を完全に破壊した事である。

●サンティン(アムステルダム市長)
本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。 日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現した。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむことを止め、その誇りを取り戻すべきであります。

●アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)
第二次大戦において日本人は日本のためよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。 それらの国々とは日本の掲げた短命な理想、大東亜共栄圏に含まれた国々である。日本人が歴史上のこした最大の業績は、世界を支配していた西洋人が「不敗の神」では無い事を示した点である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去200年の間に考えられていたような不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。

●グラバイ・デサイ(インド弁護士会会長)
インドは程なく独立する。 その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩は忘れてはならない。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド国民は、日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。

●ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)
日本には石油がない、錫がない、綿がない、ゴムもない。その供給を全て絶たれたらどんな小国でも戦争を決断する。 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。 (1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

61NAME:2014/02/13(木) 14:28:16
日本の特攻機「桜花」を修復 英博物館、元の塗装に
2014.2.12 08:25
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140212/erp14021208290001-n1.htm

英南西部ヨービルにある英海軍航空隊博物館は、戦時中に日本が米軍艦船への体当たり攻撃に使った特攻機「桜花」の修復作業を始めた。同博物館が11日までに明らかにした。太平洋戦争に関する新たな展示に向け、戦後に塗られたペンキをはがし、もともとあった塗装デザインに戻す計画。 現存する桜花は世界中で十数機しかないとされる。作業の過程では、機体の詳細な調査を行っており、塗装の下に隠れていた技術的仕様に関する日本語の記述も発見された。修復には数年かかる見通し。 同機は戦争の際に英国が入手した。1982年にロンドンの科学博物館から海軍航空隊博物館が譲り受け、30年以上、館内につるして展示してきたという。(共同)

62NAME:2014/02/14(金) 16:21:14
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1388826956/901-1000
924 :名無しさん@3周年:2014/02/14(金) 13:39:46.35 ID:6z+Mi/Kl
大東亜戦争はアメリカの度重なる挑発で戦争になったものであり、日本は被害者であり、戦犯など存在しない。
戦争犯罪者が存在しないのだから靖国参拝はなんの問題もない。
大東亜戦争で日本は中国に一度も負けていない。しかも共産党とは戦闘もしていない。共産党は勝者ではない。
中国共産党は国連の戦勝国でもなんでもない。ただ中国人民を大量虐殺したナチス以上の犯罪者である。
大東亜戦争で日本は朝鮮と一緒になって戦った。もし戦時中、日本に誤りがあれば、それは朝鮮の誤りでもある。
従軍慰安婦問題で日本に責任があるというなら、それは朝鮮にも責任があるということだ。
日韓併合は朝鮮の要請に基づき日本が合法的にいやいや併合したものである。そのおかげで韓国は大発展、国民はみな幸せになった。
韓国は併合に関して、日本に感謝し、礼金と朝鮮に残してきた財産の対価を支払うべきである。

63NAME:2014/02/25(火) 03:14:12
東京大空襲
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu-kusyu.t.htm
幼子を背負ったまま焼かれた母親の背は白い、そして子供は・・・/浅草・花川戸

大規模な実験

アメリカ軍は日本家屋を再現した実験場を作り、大規模な延焼実験を行っている。実験用に立てられた日本家屋は、室内の畳を日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せて精巧に作り上げられた。これらの実験がクラスター焼夷弾開発の参考とされたことにより、東京大空襲を初めとする日本本土への無差別爆撃で効果的被害を与えることに成功している。

東京大空襲 米軍は実験済みだった
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-06/15_01.html

ちなみに第一回の東京大空襲は下町の民家密集地帯を狙って行われた。米軍はいかにして日本人を効率的に焼き殺すことができるかと、砂漠に日本家屋の町を作って実験を繰り返した。ハワイから日系人の職人を呼び、畳やふすままで作らせるほどの徹底ぶり。そして一夜にして12万人の市民を焼き殺した。
http://inagist.com/all/434557571039391744/

日本人はアメリカ人とトモダチになれるのか?1/4 神戸大空襲は、米軍の「無差別」爆撃ではない…「住宅密集地・住民を標的にしたもの」「無差別という言葉、空襲の本質を見失う」 | 軍荼利
http://danshi.gundari.info/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F%EF%BC%91.html
13: 名前をあたえないでください:2013/08/01(木) 16:45:19.29 ID:7oeHalFj

うちの父親は尼崎にいた小学生(当時)だったが
住宅地で人に向けて機銃掃射された
って言ってる
これは誤射じゃないよね

14: 名前をあたえないでください:2013/08/01(木) 16:45:42.60 ID:qD4J3sNj

東京大空襲では住宅地の外側を円を描くように焼夷弾を投下し、住民の避難路を塞いでから円の内側に大量の焼夷弾を投下して民間人を虐殺した。空襲を指示した米軍のルメイ自身も「戦争に負けたら俺は戦争犯罪者だ」と言っていた程だったが、当のアメリカは戦争犯罪だと認めようとしない。空襲による民間人の大量虐殺を正当化するために、中国の南京大虐殺などの捏造された架空の事件を盛んに持ち上げて日本人に罪悪感を植え付けようそしているのが実態。

日本の家屋は木造住宅なので焼夷弾を使った。先端を尖らせ、屋根を突き通り中で
爆発して発火するようになっていた。家屋を焼いて、住民を殺し厭戦気分にさせるため。
それと、今と同じように当時もお隣の国の人達が、日本人を鬼畜のように言っていて
それをアメリカ政府が信じていたから。

この老人の語る無差別爆撃は、行為として口火を切ったのは日本であって、確かに帝国軍も重慶で無差別爆撃をやって、日中の歴史に残る蛮行を働いてしまった。
中国人が今に至るまで日中戦争のことを根に持ってるのも仕方ないといえば仕方ないだろう。

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百田氏の「東京大空襲や原爆は『米軍による大虐殺』」発言は「非常識」「地域の緊張あおる」 在日米大使館が反論
http://military38.com/archives/36235497.html
308:! ninja ! denki:2014/02/08(土) 16:22:00.47 ID:20i1Z7100
どんな理由でも一般人の頭の上に人口の太陽作ったんだ
どう考えたって虐殺だろ

323:名無しさん@13周年:2014/02/08(土) 16:22:51.97 ID:FFbJ9MOy0
よっぽど突かれたくないんだなぁ

608:名無しさん@13周年:2014/02/08(土) 16:35:38.25 ID:4Qitcm6u0
なんでどの国も気軽に日本に内政干渉すんの?

64NAME:2014/02/26(水) 07:35:54
重慶 空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E6%85%B6%E7%88%86%E6%92%83
1万人規模の民間人犠牲者を出したという事実は、無差別大量殺戮を意図した非人道的行為として東京裁判で弾劾された[要出典]。その一方で、東京など日本の各都市への無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾投下の正当性の根拠としても利用された。

要害
防御・戦闘性に富んでいること,またはそうした場所を表す語で,〈要害の地〉〈要害堅固〉などと用いる

自由主義史観研究会(歴史論争最前線)
http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi187.html
教科書が教えない歴史

東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-430.html
日本海軍は敵の根拠地を攻撃すべく首都南京の「軍事政治経済の諸機関」に対する空爆を計画し、各国総領事にこれを予告し、非戦闘員に対する避難勧告を行った。 それに対して「無差別攻撃」であるという批判が起こり、中国政府はこれを徹底的に宣伝材料に利用した。これを無差別攻撃の始まりとする論者もいるが、市民を無差別に攻撃するものではないので、当然のことながら国際法違反とはされていない。

さらに、重慶爆撃を無差別爆撃=戦略爆撃の始まりであるとして、日本が戦略爆撃の先鞭者であると主張する論がある。『戦略爆撃の思想―ゲルニカー重慶ー広島への軌跡』(前田哲男著)がその代表だ。東京大空襲は日本が始めた無差別爆撃という罪業の報いである、つまり無辜の日本人市民が殺戮されたのは日本の責任であるかのような主張である。また同書のサブタイトルから推測されるように、原爆の被爆をすら日本が戦争を始めたことに起因するという根拠のない「原罪意識」が特徴である。 重慶爆撃は敵の戦略及び政略中枢を狙う攻撃であったので、市の主要部を含むものになるのは必然であった。しかも、中国側は市街地に防空砲などの軍事施設をおいていたのである。

しかしながら、これはあくまでも軍政目標を狙った攻撃であり、市民を狙った攻撃ではない。市民に被害が及んだとしてもそれは巻き添えとしてのものである。イラク攻撃に見るように、現在の進んだ技術によるピンポイント攻撃でも巻き添えはなかなか防げない。したがって、これを戦争犯罪とはいわない。一方的に日本を断罪した東京裁判ですら、重慶爆撃は起訴対象には入っていないのである。ちなみに、訴追されているのは、南京・広東・漢口への攻撃に関してのみ。そして8件ほどの事件が証拠として提出されただけで、重慶は対象外であった。

◆米軍に殺された中国の住民

昭和19年7月、ルメイ少将は第20爆撃集団指令となり、重慶を根拠地としたB29爆撃機による中国内の日本軍基地及び攻撃可能圏内にある北九州の軍需工場爆撃を指揮した。 米軍司令部はハンセル21兵団長に、軍事施設・工場などにこだわらず、都市破壊も行うように示唆するが、ハンセルは国際法違反になると考えて、従おうとしなかったという。彼は分かっていたのである。そして昭和20年1月、ハンセルは更迭され、ルメイが兵団長となったのである。

◆原爆に匹敵する史上最大の大量住民殺害

それから2ヵ月後、3月10日の東京大空襲は次のような原則のもとに実行された。 その5ヵ月後、やはりルメイの21航空兵団のB29による広島への原爆投下が行われ、これに匹敵する住民の大量虐殺が行われた。(後に東京裁判で、日本軍が南京で20万人を虐殺したという断罪が行われたが、全くのデッチアゲであることはいまや完全に証明されている。安全区国際委員会の活動記録ともいうべき Documents of the Nanking Safety Zone (『南京安全区の記録』国民党系国際問題委員会監修で上海の英国系出版社 Kelly & Walsh 社から1939年に発行)に、南京陥落時の人口20万が12月中ずっと20万、翌年1月14日に25万と記録されているのを見るだけで、虚偽は明らかとなる。アメリカは自ら犯した民間人殺戮という戦争犯罪を隠蔽できないとでも思ったのだろうか?)

東京大空襲のように、住民集中地区を狙って焼夷弾攻撃によって焼き尽くすことは、意図的な住民殺害であり、しかも史上まれな大量殺害なのであるから、第1級戦争犯罪というべきである。ホロコーストを行ったのは、裁いた側のアメリカ自身なのである。

65NAME:2014/02/26(水) 07:45:53
戦時中歴史資料の世界遺産登録、日中韓が熱い戦い=特攻隊員遺書申請に批判も―中国メディア
配信日時:2014年2月17日 23時57分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=83549

2014年2月17日、国際在線によると、第二次世界大戦中の歴史資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に登録を目指す動きをめぐり、日本、中国、韓国が火花を散らしている。 来年は第二次世界大戦終結から70年。アジアでは最近、戦時中の歴史資料の世界遺産登録を目指し、各国が熱い戦いを展開している。中国江蘇省南京市は旧日本軍による南京大虐殺の関連資料を登録申請。さらに、中国と韓国の専門家が旧日本軍の従軍慰安婦の関連資料収集で協力し、登録を目指している。これに対し、日本は特攻隊員の遺書の登録に向けた運動を展開している。 特攻隊遺書の世界遺産登録は日本の軍国主義、侵略の歴史を美化するものだとして、中韓から批判を受けている。(翻訳・編集/AA)

66NAME:2014/02/27(木) 03:24:31
「不沈艦だと信じていた」 戦艦大和の生還元乗組員、3月2日に大阪で「“最期”を語る講演」
2014.2.26 21:30
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140226/wlf14022621310019-n1.htm

史上最大の戦艦といわれた「大和」が東シナ海に沈んで69年となるのを前に、当時の乗組員で数少ない生還者の一人、北川茂さん(90)=三重県名張市=が、3月2日に大阪市内で開かれる講演会で、大和の“最期”の様子や思いを語る。「大和が沈んだら日本は終わりだと思っていた」。だが、第二次大戦末期には大型艦の時代は去り、特攻作戦に向かう途中で撃沈され、悲運な末路をたどった大和。北川さんは「ほかに道はなかったのか」と今も悔やみつつ、語り継ぐ使命をかみしめている。

 北川さんは昭和17年、18歳で海軍に志願し、20年2月、大和への乗り組みが決定。敵艦との距離を測り伝える担当で、甲板から高さ25メートル超の場所にある「測距所」が仕事場となった。 「まるで巨大な岩のようだった」。すでに戦闘も経験していたが、広島・呉港で初めて見た大和の威容には圧倒された。「装備も近代的で、全てが他の艦船と比べものにならなかった。大和配属は誉れでした」 戦況が悪化の一途をたどっていた同年4月5日、甲板に全乗組員が集められ、沖縄への特攻命令を受けた。「足が甲板にへばりついたように動けなかった」。隣の兵隊に目を向けると、表情は血の気を失っていた。2日後、鹿児島県沖の洋上で「戦闘用意」の命令が下った。

分厚い雲の合間から次々と敵機が飛来し、魚雷を投下。すさまじい衝撃で艦が揺れ、水柱が上がり、測距所にもしぶきがかかった。左舷に集中して魚雷を受けた艦は傾き、まっすぐ進むこともできなくなった。 船が徐々に沈み、海面が眼前に迫る中、同年兵と恩賜のたばこを吸い、海に飛び込んだ。突き上げられるような2度の衝撃とともにオレンジ色の閃(せん)光(こう)が海中を染めた。重油にまみれた海面に浮かんだときには、大和の姿は見えなかった。

 約4時間後に味方に救出され、翌日の早朝、長崎・佐世保港へ。甲板に出ると朝日が差し込んだ。「太陽を見て、ああ生かしてもらったんだと。あのときの感情は今も忘れません」 生還者は乗組員の1割にも満たない276人。70年近くが過ぎ、そのほとんどが亡くなった。 「特攻の末路以外に道はなかったのか。犠牲が大きすぎた」。北川さんは今も無念さをかみしめる一方、「大和の最期を語り継ぐことは、残された自分の役目。多くの人に聞いてもらえたら」と感じている。 講演会は3月2日午後1時半〜3時、大阪市港区弁天のホテル大阪ベイタワーで。参加費は一般2500円、大学生以下1千円。問い合わせは、ウェーブ産経大阪((電)06・6633・9087)。

 戦艦大和 当時の最先端の造船技術を駆使し、開戦直後の昭和16年12月16日に完成。全長263メートル、幅38・9メートルで、射程42キロの主砲を備えた世界最大の戦艦だった。だが、戦いの主役は戦艦から航空機へと移っており、威力を発揮できないまま20年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途中の鹿児島県沖で、米艦載機の攻撃を受けて沈没。乗員3332人のうち、生還者はわずか276人(8・3%)だった。

67NAME:2014/02/27(木) 04:10:02
特攻の真実
http://www.810.co.jp/book/ISBN978-4-89295-651-5.html

http://anago.2ch.net/test/read.cgi/asia/1359838810/62
62 :日出づる処の名無し:2013/10/17(木) 16:25:34.11 ID:ZtHB57cK
特攻拒否について
一時、三四三空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請があったが、
志賀飛行長が拒否し続けた為最後まで行われる事はなかった。 戦後、志賀が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田(実)が隊舎を訪れ、
志賀に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。

志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったという。

源田氏は若人に特攻を命ずる以上、率先して特攻すべきだった。 当然のことをわきまえていない。卑怯未練の者に命ぜられての戦死では申し訳ない。

大西瀧治郎中将の苦悩
http://www.geocities.jp/kamikazes_site/saisho_no_tokko/oonishi/oonishi.html
大西は「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と答えた。大西の目には涙がいっぱい溜まっていたという。

Kさんの手記
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn010/kanoyako/kanoyak3.html
特攻隊員が出撃直前の表情は数時間後に迫った敵艦必中の責任を思ってか、あるいは肉弾となって散る恐怖心からか顔面蒼白で、しかも眦がつりあがっていたのが今でも脳裏に焼きついている。

神風特別攻撃隊の授業
http://www.tos-land.net/teaching_plan/contents/17069
特攻隊の中には、自ら一緒に戦いたいと志願した朝鮮の人たちも含まれています。彼らは、今、民族の区別なく、平等に靖国神社で弔われています。

先ほど紹介した「特攻隊」を指揮した「大西中将」です。
大西は特攻隊員達を集め訓示した。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ顔面が蒼白で引きつっていたという。
大西は涙ぐんで、「しっかり頼む」と言って訓示を終わった。大西中将は、パイロットの1人1人と握手して彼らの武運を祈った。
大西は軍令部次長として内地に帰還した。官舎に独居して妻とは一緒に住まなかった。「週に1度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」
「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ。」
「特攻は統率の外道である」 「死ぬときはできるだけ苦しんで死ぬ」この言葉どおり、(終戦の翌日)介錯無しの割腹自殺を遂げ15時間あまり苦しんで死亡した。

68NAME:2014/02/27(木) 05:15:38
特攻拒否について
http://omg05.exblog.jp/20916394
一時、三四三空に対し連合艦隊司令部から特攻攻撃の要請があったが、志賀飛行長が拒否し続けた為最後まで行われる事はなかった。戦後、志賀が残した証言によれば、度重なる特攻拒否に業を煮やした源田(実)が隊舎を訪れ、志賀に特攻を受け入れさせようと圧力をかけたという。志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったという。 源田氏は若人に特攻を命ずる以上、率先して特攻すべきだった。当然のことをわきまえていない。卑怯未練の者に命ぜられての戦死では申し訳ない。

http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/200908100000/
敗戦時、特攻作戦の責任をとって自殺した将官が2人います。1人は、今述べたように、公式には「特攻作戦の発案者」ということになっている大西滝次郎中将。そしてもう1人は(必ずしも特攻だけの責任をとったわけではないのかも知れませんが)敗戦時第五航空艦隊司令だった宇垣纏中将です。ただし、この2人の自殺の仕方はまったく対照的。大西は1人日本刀で自殺したけれど、宇垣は、何と彗星艦上爆撃機11機を連ねて、特攻に出撃してしまった。戦争が終わった後で、です。出撃した他の搭乗員は敗戦をまだ知らされていなかったようですが。自分一人で特攻の責任をとって命を絶つことは、それなりに意味があるかも知れませんが、戦争が終わっているのに、11機22人の搭乗員を道連れに自殺というのは正気の沙汰ではない。
その一方で、特攻作戦を発案する立場にいて、戦後はそのことについて何も語らず、航空幕僚長まで上り詰めた人物もおります。源田実です。
源田と特攻について、Wikipediaに面白いエピソードがあったので紹介しておきます。
源田は戦争末期、343空(第343海軍航空隊)の司令でしたが、この343空は最後まで特攻を行わなかった。しかし実は司令の源田は特攻をやらせようとして、飛行長の志賀淑雄少佐に断固拒否されたようです。特攻実施を迫る源田に対して、志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったのだそうです。

一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/history/tokkotaico/history.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A
フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した―「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。

69NAME:2014/03/03(月) 19:06:44
米紙またまた安倍首相批判 「日米関係に深刻な脅威」 NYタイムズ
2014.3.3 14:58 [米国]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140303/amr14030314590003-n1.htm

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は2日、安倍晋三首相の姿勢を「ナショナリズム(国家主義)」と指摘し、日米関係の「ますます深刻な脅威になっている」と批判する社説を掲載した。同紙の社説は、これまで数回にわたり、安倍氏の「国家主義」が危険だと訴えている。 2日の社説は歴史問題に対する安倍首相の姿勢が日本周辺の「地域に対する危険な挑発」になっているとした。米国は日米安保条約に基づき日本を守ろうとしている一方、日中の紛争に引き込まれることは望んでおらず、安倍氏が米国の利益を忘れているとした。

 安倍首相が第2次大戦の「歴史をごまかそうとしている」と批判。さらに「彼(安倍首相)と他の国家主義者たちは、いまだに南京大虐殺は全く起きなかったと主張している」との見解を示した。 従軍慰安婦問題をめぐる河野洋平官房長官談話の検証問題にも触れ、慰安婦への「謝罪を撤回する可能性」を指摘した。(共同)

70NAME:2014/03/05(水) 23:22:50
「アンカー」なぜ中韓はいま日本叩きか&河野談話めぐる石原証言の意味と自民が河野洋平を国会に呼びたくない理由
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1526.html

今は中華人民共和国と大韓民国ですが、それは日本に戦争で勝ったんだと。だからいろいろ戦争責任とか言われてるって話になってますが、

で、この訳は国際連合だと教わったんです。ところが、ニューヨークにある国際連合、日本で言う国連の、本部に実際に、初めて行った時から、あれ?国連の幹部と話してると、あ、全然違うなってことが、これ僕にも分かりました。皆さん是非行ってみて下さい。ね。国連本部の少なくとも1階は誰でも入れますから。実はこれは、新しい美しい組織が生まれたんじゃなくて、実は戦争に勝った側を連合軍って言ってますね。そのままなんですよ。United Nationsってのは国際連合じゃなくて、連合軍なんです、連合軍、ね。これAllied Powersって言い方もありますけど、基本的に、正しくはUnited Nationsは連合軍なんです。だから、戦争が終わったので敵味方なくなったんじゃなくて、ものすごい犠牲を出して、アメリカをはじめとした連合国が、勝ったんだから日本やドイツに。勝った以上は、負けた日本やドイツを、ずっと押さえつける権利がある。従って国連憲章も美しいことばかり書いてあるんじゃなくて、日本やドイツが変だと思ったら、勝った側は、国連の決議なんかなくても、日本やドイツに対しては、戦争仕掛けることができると、国連憲章にはっきり、書いてあるわけですね。これ何を意味してるのか。実は第2次世界大戦が終わって、ほぼ70年の、この、戦後の世界っていうのは、連合国の側が、戦勝国の側が、圧倒的に利益・利権を独占するという世界なんですね。で、従って、例えば韓国はどのように行動してきたかというと、本当はこうです」

「はい。これ、世界大戦が終わって、4年経ってなお、韓国は一生懸命、当時の政権が、連合国だったことにしてくれとアメリカに要求しました。アメリカは戦争ばっかりしている困った国ですけど、こういうところは正直に対応するんで、それ違いますと。これ何度も何度もやり取りしてるんですけども、最終的にダレスさんってアメリカ国務省を代表する人物が、韓国の大使と会談して、はっきり、韓国と日本は戦争したことがないと。そして、なおかつ韓国は連合国共同宣言っていうのに署名してない。連合国共同宣言ってのは戦争の最中の1942年のお正月に、私たちは連合国です、さっき言ったUnited Nationsですと、ね。そこに署名をして、日本やドイツと一緒に戦いましょうっていう、その、宣言をしてるわけです。そこに韓国加わってないから、だから韓国は連合国じゃない、すなわち、戦勝国じゃないと、アメリカに言われて、そして韓国は、続けてどうしたかというとこうしたんです」

「中華人民共和国は、1949年10月に建国されました」青山繁晴「はい。もう、これで一発で分かる方多いと思うんですが(一同同意)、戦争が終わったのは1945年ですから、だから、戦勝国は中華人民共和国じゃありませんでした。どこかというと、これです」

日本負けましたと、なったあと、から、内戦が始まって、4年かけて共産党が勝って、この中華人民共和国ができました。従って正確に言うと、中華人民共和国は、戦勝国じゃないんですよ。まあそののち実権握って、その、いわば、中華民国は台湾に閉じ込めてるから、その、国連の安全保障理事…、常任理事国も、中華人民共和国ってことになってますけど、少なくとも、連合国ではなかったのは間違いないんですね。で、従って、これ、中国・韓国の立場から見ると、かつて非常に、戦争にも強かった、日本という国と、連合国として向かい合うんじゃなくて、自分たち独自で向かい合わなきゃいけないんですね。実はその現実がありました。中国はその後、いわば台湾に、中華民国を追いやったから、有利にはなったけれども、根幹のその事実は、歴史の事実ですから変えようがないわけです。で、で、中韓が反日になったのか。違います。むしろ逆ですね。

71NAME:2014/03/05(水) 23:24:23
「まず韓国が中国に先駆けて、60年代の半ばに、日本と正常な関係になり、えー、中国も70年代、をかけて、日本と正常な関係になったわけですよね。だから、反日でも何でもなく、日韓友好、日中友好の歴史が刻まれた。それがどうして、まさしく皆さんのご疑問にある通り、なぜ今、反日なのかっていうのは、実はその理由は、これです」

「中韓が反日の理由、2つめ。日本が主権国家に戻ると、強くなるから」

日本が主権国家に戻ると、軍国主義になるって話をしてるんじゃないんです。えー、軍国主義っていうのは、いちおう仮に定義するとすると、自分の領土を越えて、例えば侵略していく国のことをおそらく言うんでしょうね。で、日本がそれをやる可能性ありますか?(笑)ね。誰が考えても、ま、中国・韓国の、人が教育受けちゃうと、そうなっちゃうかもしれないけど、世界の常識としてそんなことないわけです。そうじゃなくてこれは、強くなるっていうんじゃなくて、その、普通の国になると、日本は、立派に発言権を持ってしまうって意味ですね。じゃあ今、現状はどうなのかっていうと、それがまさしく、えー、この憲法の条文ですね。はい、出して下さい」

えー、9条の一番最後の1行を、今回見ていただきたいんですが、『国の交戦権は、これを認めない』って書いてあるわけです。えー、つまり、主権国家同士は、何があっても、日本は戦えません。相手が国だったら、戦うなとも読めるわけですね。

えー、その時に、小泉さんや、あるいは副長官だった安倍さんの努力もあり、みんなの努力があってようやく北朝鮮は、日本国民を、有本恵子ちゃん横田めぐみちゃんをはじめ、たくさん誘拐したってこと認めました。で、その時普通だったら、いわば責任を軽くするために、北朝鮮にも悪い奴がいて、つまり犯罪者がいて、誘拐・拉致してしまいましたって言うはずが、金正日総書記ははっきり、北朝鮮の国家機関が、日本国民を誘拐したと言ったんですね。相手が国家だったら、何もするなって書いてあるわけです。日本国民が奪われていても、助けに行くなってことですね。だから今、尖閣諸島に、中国の政府の船がたくさん入ってくるわけですね。すなわちこれは、はっきり言うと、日本は、敗戦から70年近く経っているけれども、主権国家と、これ色んな意見ありますよ? でも僕は呼べないと。近畿大学で国際関係論の授業やってますが、その学生諸君と一緒に考えてるのが、えー、いざとなった時に相手が国だったら、北朝鮮のような、はっきり申しますがテロ国家、こないだ国連の報告書にあったように、強制収容所も含めて、ひどいテロ国家であっても、相手が国だったら、日本国民は奪われていても、助けに行くなという、ね、それを主権国家と呼べるのかと」

「それが実は根幹にあって、従って、その、中国・韓国は、こういう、例えばこの、上はともかく、ここ(国の交戦権は、これを認めない)を削除するような憲法改正が行われたら、日本がまともに物を言うようになったら、軍国主義でなくても強いから、自分たちに影響が出ると、いうことで、いわば、守りとしての、反日なんですよね」

はい。最終的に言うと、日本が実は怖いわけですね。で、従って、その、反日っていうのは、もう、すごい攻撃的で、特に韓国はそう見えますよね。非常に攻撃的に見えるけど、攻撃ってのは実は、恐れから来る、守りですから。だからそのことを私たちが、一番深く理解することが、実は、公正な突破口になるだろうと思います。

72NAME:2014/03/24(月) 01:22:07
日本は「ドイツを模範に…」 説教を垂れる中国に問う、困るのはどちらか
2014.3.23 09:52
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140323/chn14032311110002-n1.htm

中国の王毅外相(60)が8日、記者会見で日本に敵意むき出しの説教を垂れた。 「第二次世界大戦後のドイツを模範とすべきだ」 「過去の清算」を強要したつもりだろうが、在アフガニスタンのドイツ連邦軍基地に建つ慰霊碑を知らぬらしい。ならば以下、教えて進ぜる。

コソボで戦後の戦闘初陣

 ドイツは日本同様、第二次大戦の敗戦国。確かに両国は、国際社会の警戒が薄まり、紛争解決に向けた軍事力提供を期待される。反面国内には、敗戦史観を拭わず不安視する国民がいまだにいる。そのギャップの調整に、エネルギーを費やさざるを得ない。故に、極めて慎重に、極めて抑制的に、安全保障上の戦略・諸政策を展開してきた。しかし、安全保障上の歩みの内実や速度は似て非なる。 安倍晋三首相(59)は「積極的平和主義」を国内外で訴え、ギャップを埋めようと腐心する。一方のドイツは、冷戦崩壊(1991年)以降、NATO(北大西洋条約機構)やEU(欧州連合)という集団安全保障の枠組みの変質を巧みに活用。「普通の国=戦勝国」の仲間入りを果たすべく、着実・確実に布石を打ってきた。

例えばコソボ紛争(96〜99年)で、虐殺をやめぬセルビアへの空爆に攻撃機14機を500回投入した。独連邦軍が戦後創軍されて以来、戦闘行為は初陣。しかも空爆にロシアが反対し、国連安全保障理事会の明確な授権を欠く作戦行動だった。それまでの独軍は直接戦闘を避け、輸送など兵站や医療といった間接支援でさえ、国連PKO(平和維持活動)や安保理が承認したNATOの作戦内でしか派兵していなかった。 2001年の米中枢同時テロ後、国際テロ組織やイスラム原理主義勢力の掃討に向け、米国や英国、フランスなど50カ国近くが国連決議の下、国際治安支援部隊(ISAF)をアフガンに派遣。独軍も最大時4500人を送り込んだ。国防相だったペーター・スュトルック氏(1943〜2012年)は言い切った。 「ドイツ防衛には、アフガンのヒンドゥークシュ山脈であっても派兵は必要となる」 独軍はウズベキスタンの、アフガン国境近くに基地まで保有した。スュトルック氏は基地の将兵を激励した。 「戦争を軍事力で止めさせるべき。平和のため、世界中で戦闘準備をせねばならない」

格段に大胆な決断

 国防省報告書《戦争に向けた独軍の準備》でもスュトルック氏は《平和維持と安定化以上の任務を期待する。アフリカでより大規模な役割が期待される》とうたう。 後任国防相のフランツ・ヨーゼフ・ユング氏(65)も国防白書に《独軍は外国への介入軍事力として、徹底的に再編されるべきだ》と記した。 中国の脅威を前にして尚「集団的自衛権は保有すれど行使できない」と、理解不能な“論理”で足踏みするわが国とは、日本史にはない民族浄化は別として脱敗戦国意識が相当違う。 日独の岐路は、イラクによるクウェート侵攻で勃発した湾岸戦争(1990〜91年)だった。独軍は戦闘に加わらなかった。代わりに、地中海での機雷掃海やトルコへ軽攻撃機18機+防空要員700人を派遣。米国への財政・物品支援100.7億ドルのほか、トルコやイスラエル、英仏、エジプト、ヨルダンに莫大な各種経済援助を行った。ところが、東西ドイツの再統一を助けた西側諸国の議会やメディアは、戦闘正面を回避する同盟国ドイツを非難した。 どこかで聞いた話。そう、わが国も1兆3000億円近い資金援助を実施した。だが戦後、クウェートの感謝決議の中に、日本国名はなかった。自衛隊を派遣できず、事実上の傍観を決め込んだ反発は大きかった。そこで日本政府は、PKO協力法を成立させ、自衛隊の海外派遣第一号となる海自によるペルシャ湾での機雷掃海を実現した。

73NAME:2014/03/24(月) 01:22:55
しかし、ドイツの反応は格段に大胆だった。連邦憲法裁判所が94年、NATOや西欧同盟(WEU)の域外での軍事力行使は可能という合憲判断を下したのである。前述したセルビア空爆やアフガンでの対テロ戦はこの判断で可能となる。カンボジア(医療/92〜93年)やソマリア(兵站支援/92〜95年)でのPKO、ボスニア紛争(92〜95年)におけるアドリア海での制裁監視といった、周到且つ慎重な段階を意識的に踏み、内外の反応を見極めた上での繊細な決断は見事というほかない。

アフガンに建つ慰霊碑

 ところで、中国の李克強首相(58)は5日「第二次大戦の勝利の成果と戦後国際秩序を守り抜く」と述べた。日本との戦闘を避け続けた中国共産党が「戦勝国」を気取る。朝鮮戦争(50〜53年休戦)以降現在の海洋侵出まで、「戦後国際秩序」をいちいち壊してきた中国が「守り抜く」と嘘をつく。 片腹痛いが、日本が「ドイツを模範」とし、戦後国際秩序に厳格に従い、集団的自衛権行使や多国籍軍参加に道を開くと、困るのは中国。そもそも独憲法裁判所は、合憲判断を下すにあたり《基本法(憲法)が定める『独防衛』とは国境を守るだけでなく、危機対応や紛争防止など世界中のどこであれ、広義でのドイツの安全を守るに必要な行動》と断じた。この判例以前の「独防衛」は、自国とNATO同盟国の域内防衛に限ると解されていた。判例は安倍内閣が進め、中国が恐れる、憲法解釈変更そのものなのだ。

国際秩序への貢献には、強力な諜報機関も必要だ。ドイツは、総合力においてCIA(米中央情報局)をしのぐ米国防総省国防情報局(DIA)にまで情報提供できる連邦情報局(BND)を持つ。見習おう。 何より、国際秩序を乱す国家に対する抑止力の飛躍的強化は不可欠だ。アフガンに11年も駐留した独軍では60人近い将兵が戦死した。冒頭触れた慰霊碑は、英霊を悼むべく建立された。独国民は第二次大戦後初めて「戦死」という響きを、悲しみとともに現実感を持って受け止めた。ただし、勇敢に戦った英霊はドイツの精強ぶりを再び世界に印象付け、祖国やNATOの守護神となった。 そういえば、ドイツの兵器輸出は米露に次ぐ第3位で、4位の中国を上回る。中国の仰せの通り、ドイツを手本とする分野は目白押しだ。(政治部専門委員 野口裕之)

74NAME:2014/04/06(日) 01:04:57
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7727935.html
日露戦争の勝利で、日本は一等国への仲間入りをした。と日本人は思っていました。しかし実際は日露戦争の勝利で日本は「列強の植民地入りを免れた」に過ぎなかったのです。欧州列強を一等国、植民地にされた国を三等国とするならば、日本は二等国でした。ただ、当時はその二等国といえるのは日本とトルコくらいだったのではないでしょうかね。

日露戦争も勝利とはいったところでロシアから賠償金はとれなかったので、実際は「苦い勝利」に他なりません。和平成立後日本では暴動が発生し、和平交渉をまとめた小村寿太郎は右翼に命を狙われたほどです。しかし、日本海海戦で一方的大勝利を治めたものの、奉天会戦で日本は戦力も、弾薬も使い果たしていたのです。一方、大陸軍国ロシアには装備が優れたヨーロッパ師団がまだまだ用意されていました。実は既に一度日本は弾薬を使い果たしていて、債権を発行してなんとか資金を集めて弾薬を追加で購入したのですが、奉天会戦でそれももうほとんど使い果たしてしまいました。追加の弾薬を購入する金は、もう手に入れる手段も尽きていたのです。

日本海海戦の大勝利でロシア艦隊が消滅したことで、少なくとも海軍は相対的に欧米列強に比すべき実力を示したといってもいいでしょう。しかし、その栄光もたった1年で色あせてしまいました。
イギリスの戦艦、ドレッドノートが日本海海戦の翌年の1906年に就役したからです。現代でも「ド級」とか「超ド級」なんて言葉を使いますが、その語源となったのがこのドレッドノートです。この戦艦の就役で、世界中のそれまでの戦艦は一気に「旧式」となってしまったのです。

その後、大正時代に第一次世界大戦が起きました。日本は第一次大戦にはほとんど参加しませんでした(青島に出兵したり、地中海に艦隊を派遣したりしましたが)し、戦争にあえぐ欧州列強を相手に大儲けをしたのも事実です。しかし、第一次大戦が終わって日本が思い知ったのは、「日本はもう欧州列強には追いつけない」という厳しい現実でした。
第一次大戦は「総力戦」の戦いでした。国の生産力や国力すべてを戦争に投入する時代になったのです。その国力を欧米諸国と比較した場合、日本は資源も生産力も持っていなかったのです。例えばフランスやドイツは自動車を大量に投入しましたが、日本にはそれだけの自動車を生産する能力もなかったし、なによりそれだけの自動車が持てるだけの経済力を国民が持っていなかったのです。

この、「日本には資源がない」という事情が陸軍をして危険な暴走を引き起こした原因のひとつであるといえるでしょう。日本では「大陸進出論」が活発になります。「日本に資源はないが、支那にはそれがある」と。やがてそれは満州事変となり、日本は満州に積極的に進出します。実際問題、満州は中国の中では「寒くてあまり豊かな場所とはいえない」ところでしたが、それでも日本より石炭など資源も豊富だったし土地が広くて農業生産力が高かった。日本の農家ではトラクターで大規模農業なんてできませんが、戦前の満州だったらそれができたのです。当時、最も年収が高かった「憧れの職業」といわれたのが満鉄こと南満州鉄道の社員だったのです。

75NAME:2014/04/06(日) 01:07:12
大東亜共栄圏とは、その満州進出の南方版といったところが実際だったと思います。実際問題、満州事変のときも首謀者だった石原莞爾らは「八紘一宇」のスローガンを掲げましたからね。
日本には資源がない。しかし、南方に資源はある。しかし一方的に搾取するわけにもいかないから、名目上和平的なスローガンが必要であったと思います。
興味深いのは、この大東亜共栄圏のスローガンを考えたのが陸軍の軍人だったということです。実は陸軍は仮想敵国をずっとロシア=ソ連とする「北方論」だったのです。装備もなにもぜんぶといっていいほど対ソ戦を前提にしたもので、南方で戦うなんて太平洋戦争が始まってもこれっぽっちも思っていなかったんです。どのくらい南方に興味がなかったのかというと、真珠湾攻撃以下、フィリピン作戦やマレー作戦、南方作戦がひととおり南方の資源地帯の占領に成功すると、海軍に「あのさ、兵士を引き上げたいんだけど」と言い出して(日本軍お約束である)海軍と激しく対立します。海軍は「なにいってやがるんだ、これからハワイも攻撃するし、オーストラリアにも上陸すっぞ(←でもそんなことができる能力は持ち合わせていない。偏差値50の奴が京大に合格すると言い出すくらい無謀)」といい、陸軍は「冗談じゃねえ。そんな戦力はねえぞ」と言い出して、「じゃ、間を取ってミッドウェー作戦でどうでしょう」となって、以下略です。

福沢諭吉の時代は、幕末から明治にかけてです。幕末の志士が最も危機感をもったのはアヘン戦争でした。当時の中国(清)は、アジアにとっては「比類なき大帝国」だったのです。しかし、その大帝国がアヘン戦争であまりに一方的に敗北してものすごい屈辱的な扱いを受けた。「あの中国でさえ勝てないのだから、日本も攘夷とかいってる場合じゃなくて西洋化(近代化)しないとダメだ」となったのです。それゆえの「脱亜入欧」だったのです。 「アジアの近代化」を掲げなかったのは、なにしろ日本本土の近代化でさえ致命的に遅れ気味だったので、全アジアを近代化させるほどの力はないという自覚はあったと思います。まあ政治的スローガンという側面が大きかったと思いますよ。

76NAME:2014/04/06(日) 01:13:50
脱亜論は別にアジアから脱して欧米の仲間入りしようという主張ではありません。(脱亜入欧とは別個の思想)むしろ、興亜論に対する警鐘みたいなものです。

興亜論というのは、中国・朝鮮と連携して西洋列強に対峙しようという主張です。主な論者は勝海舟、植木枝盛、大井憲太郎らでした。隣国が滅びれば、日本も滅びるという認識のもと、連携作戦で行こうよというのが、幕末〜明治初期の外交姿勢でした。この姿勢はある意味性善説です。日本もこんなに頑張って近代化を進めてるんだから、当然中国・朝鮮もやってるだろうといわけです。でも現実は違っていました。中国や朝鮮は昔ながらの伝統やしきたりに縛られ、なかなか近代化を受け入れようとしない。そんな情勢の中で「脱亜論」は書かれました。(但し、この社説を脱亜論と名付けたのは別の人)つまり、福沢先生は「(興亜論のような)性善説に基づいた外交ではダメですよ。中・朝が近代化をこのまま拒み続けるなら付き合い方を考えなければならないよ」と主張したわけです。
その中に、「脱アジア」だとか「入欧」とかいう思想は入っていません。

よく混同される思想は「脱亜入欧」とうい思想です。「早く近代化しよう」という明治政府の方針と、脱亜論が結びついた考えですが、これは戦後の福沢諭吉研究の中で、混同して論じられるようなったものではないかと最近では言われています。

「大東亜共栄圏」というのは、日米開戦後のアジアに対する外交姿勢を示すものです。このベースには、興亜論があります。興亜論では近代化を待つ姿勢でしたが、積極的に出ていって欧米列強からアジアを開放しようという思想が「大東亜共栄圏」です。つまり、アジアを欧米から開放し近代化を手伝ってあげようってところです。ですが、実態は日本による傀儡政権の樹立であって、興亜論のような平和・共同戦線とはなりませんでした。つまり、脱亜論は興亜論に対する逆説・警鐘であり、「大東亜共栄圏」というのは興亜論が化けて「平和・共同戦線→皇民化教育推奨による同化政策」となったわけです。

77NAME:2014/04/06(日) 01:14:22
日本はなぜ、大東亜共栄圏などという構想を立てたのでしょうか。当時は、日本がそれほどアジアを支配できる見込みがあったからなのでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8395718.html

日本はキチガイだったから、大東亜共栄圏などという構想を立てたのです。当時、日本がそれほどアジアを支配できる見込みはありませんでした。「キチガイ」などという言葉を使うと、一気に下品になるから、使うべきではない。しかし、これと同様の趣旨を上品な言い回しで説いた人は、いわゆる進歩的知識人だけでなく保守派にさえ多い。例えば司馬遼太郎である。明治の頃の日本は良かったが、昭和になって自国を丸ごと賭場に放り込むようなことをやった、と書き残している。何しろ司馬は学徒出陣で軍隊を経験しているからな。 

そのころの日本が妄想の虜(とりこ)だったことは、昭和天皇も戦後に認めている(認めさせられた)。1946年元日の詔書(いわゆる人間宣言)で、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念」と述べた。これこそ、大東亜共栄圏の実相を端的に言い表している。

戦後、日本は妄執から目が覚めたのだが、いまだに覚めてない人もいる。例えば、「大東亜共栄圏は、戦後のアジア各国の独立の契機ともなった」というのは、必ずしも間違いとは言い切れないだろうが、「大東亜共栄圏構想のおかげで」などと恩に着せると、ネトウヨに転落する。 なぜなら、「戦後の世界はアメリカ中心に回っている」という現実認識を欠いて、戦前並みの妄想に耽っているからだ。

例えばインドネシア独立を見よう。敗戦国日本がインドネシアから逃げ去ったあと、オランダが戻ってきて、インドネシアと戦争になった(独立戦争)。泥沼化するとも思われたが、アメリカがオランダに「戦争を続けるなら援助を止めるぞ」と言い渡した。第二次大戦で疲弊した西ヨーロッパ諸国は、戦後、アメリカから莫大な援助を受けていたのである。オランダはそれを打ち切られたくなかったので、しぶしぶインドネシアと戦うのをやめた。これこそ、インドネシア独立の決め手となったのであり、それを知らない日本人が多いらしいのは不思議である。戦後の世界はアメリカが中心だったのだから、「インドネシア独立に関しても、日本よりアメリカの影響力が大きかったのでは」と調べてみる気にならないのは、怠慢ではないか。

そして、戦後の世界は第二に共産勢力中心に回っていた。インドネシア独立に関してもそれが見られる。インドネシアの共産主義勢力が、独立闘争を支えた。そもそも、共産主義のように非道(ひど)いものが、なぜ第二世界(いわゆる東側諸国)だけでなく第三世界(発展途上国)でも勢力を張ったか。彼らは、独立闘争などになると強力な強みを発揮するからである。共産党には、「民主集中制」、「政治将校」などの仕組みがあるのだ。インドネシア独立を果たしたスカルノも、共産党の功績を認め、気配りせざるを得なかった。のちにスカルノは失脚し、代わってスハルトが政権を取ると、インドネシアは反共国家に転じた。

そもそも、日本がインドネシアを侵略する前から、スカルノらはオランダの植民地支配に抵抗し闘争していたのである。その後、日本が引き起こした太平洋戦争が、「インドネシア独立の妨げにはなっても、助けには全くなっていない」と言い切るのは、へりくだり過ぎでもあろう。しかし、「日本のおかげでインドネシアは独立できた」というのはキチガイである。事実はその中間、「一つの契機ではあっただろう」と思われる。

78NAME:2014/06/05(木) 14:38:50
戦後日本の「負けっぷり」の悪さ
英霊の遺骨を放置 日本の「負けっぷり」の悪さ象徴
2014.6.5 09:00
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140605/plc14060509000004-n1.htm

戦場に散り、葬られた夫の亡骸を求め、生後6カ月の赤子を背負い、おびただしい数の穴を一つ、また一つと掘り返す妻…。薩摩武士の妻女・武田ツルが西南の役(1877年)で見せた気迫は、凄絶なのに痛々しい。夫への情愛の濃さが支えたのだろう。同時に小欄は、戦に敗れし者の意地も見る。敗者の意地は「負けっぷり」の良さとして、キラリとした輝きを放つ。だが、大東亜戦争(1941〜45年)後の日本に敗者の意地はない。来年は戦後70年。だのに、祖国の独立と自由のため、尊い命を捧げられた113万柱もの海外戦没者が未だ、ご帰還を果たさずにいる無様は「負けっぷり」の悪さの象徴ではないか。(SANKEI EXPRESS)

113万柱が未帰還

 ベトナム戦争(1960〜75年)後20周年記念の1995年、訪越したウィリアム・ペリー国防長官(86)の第一声は「未だ行方不明となっている将兵の捜索に協力してほしい」だった。米国は遺体・遺骨を確認するまで捜索。その間は「戦死者」として数えず「行方不明者」と呼ぶ。確認されると、星条旗に包んだ棺に納め、衛兵に守られて祖国に帰還。首都ワシントン郊外のバージニア州・アーリントン国立墓地に葬られる。「勝ちっぷり」も「負けっぷり」も見事という他ない。

遺骨収集事業の「人員・予算」の少なさに唖然

内面に秘めた、優しさと強さを兼ね備える「薩摩おごじょ」の逸話に戻る。夫や父、兄弟の生死が判然とせぬ薩摩の女性は戦場を探し回った。ツルも一族の反対を抑え、四男を背負い種子島を出発、鹿児島で下船後は、熊本郊外の戦場まで歩いた。戦場では、雇った人夫を使い、気の遠くなるような数の穴にクワを入れた。出陣に際し着込んだ綿入れの柄が唯一の手掛かり。ツルは遺骨を抱いて故郷に還る。往復37日間の「女の闘い」であった。 ツルや米国の情念に比し、異国や孤島に英霊を放置して恥じぬ戦後日本の様は哀し過ぎる。彼の戦争において、外地で亡くなった大日本帝國陸海軍の将兵や軍属、一般邦人は240万人。内、113万柱の遺骨が野晒しか、海底に眠る。沈没艦艇や国によっては遺骨収集が困難な場合もあるが、即収集可能な遺骨は60万柱近くに達す。 遺骨収集事業は厚生労働省社会・援護局外事室が中心となって行われている。ところが、収集作業の中核となる外事室員はわずか40人。2013(平成25)年度中に国内外に派遣された政府職員は延べ161人で、身元鑑定の専門家やボランティアが延べ310人だった。予算も18億円に過ぎぬ。人員・予算共に年々増加傾向にあって、この程度というから唖然とする。人員・予算を増やせば柱数も増える実態は、過去のデータで証明できる。もっとも少々の人員・予算増で、今の収集ペースを多少向上させたところで、60万柱の収集だけで「ウン百年」もかかる計算だ。

日本とは大違いの米国チーム

79NAME:2014/06/05(木) 14:52:24
米国には捜索統合司令部

 米国はどうか。国防総省はハワイに陸海空軍と海兵隊を統合した《戦争捕虜・戦中行方不明者捜索統合司令部=JPAC》を置く。現役軍人はじめ、過去の戦争当時の布陣・行軍路、戦闘形態を知る退役軍人や戦史研究者、人類学者、法医学者ら四百数十人を抱える。予算規模は60億円前後と潤沢だ。ベトナムやタイ、ラオスなどにも現地事務所を有す。断っておくが「行方不明者」は8万人強と、わが国よりケタ外れに少ない。 JPACは、任務について《全てが還るまで、国家の責務で捜索→収容→送還に尽くす》《あらゆる手段を行使し、未だ行方不明あるいは未処理の米国人家族に対する約束責任を全うする》と明記する。 実際、JPACは2007年、硫黄島の戦い(1945年2〜3月)における最後の《行方不明者》となる軍曹の捜索に、発掘チームの先遣隊として、8人の調査チームを10日間派遣。別組織の米陸軍軍事史研究所でも《ノルマンディー上陸作戦(1944年6月)で全滅した中隊》を追跡捜査している。 東京都小笠原村という施政下の硫黄島に、滑走路下を含め1万3000柱を残したままの、日本の姿勢とはあまりに違う。

戦没者の犠牲の上に成り立つ日本の平和と繁栄

戦没者に対する立ち位置は、今この時も戦闘を続ける米国と、大東亜戦争後は一度も戦わずに済んでいる日本とでは、皮膚感覚が異なる。だからこそ、現在の日本の平和と繁栄が、帝國陸海軍将兵らの犠牲の上に成り立っている史実を心に刻まねばならない。 確かに、米軍の埋葬書は「戦争慣れ」した書式と言ってよい。表には、氏名▽死亡場所・日▽死因▽埋葬地▽隣接する埋葬者の身元が。裏は身元不明者用で、両手の指紋▽身長・体重▽目・毛髪の色▽人種などが記される。身元不明者にもかかわらず、指紋や目・毛髪の色が空欄のままのケースも散見される。両手や頭を吹き飛ばされた悲しい英雄たち…。

敗戦の総括を怠る日本

 埋葬書に記載された名も無き戦士はものを言わぬ。ただ、米国は戦争の度に学習し、将兵の安全を向上させる手段を含め「勝利の方程式」の改定を繰り返す。毎回、幾つもの「解」を引き出すが、将兵に敬意と名誉を与える国家の責任こそ、平和を守る最も重大な国家戦略−との「解」だけは不変だった。民主国家が授ける将兵への敬意と名誉は、戦場に行かせるための“餌”などではない。将兵と一体と成り、国を護らんとする国民の感情より芽生えた「文化」であり「国是」である。

反省ばかりを口する日本

一方、日本は大東亜戦争にまともに向き合いもせず、合理とはほど遠い無意味な反省ばかりを口に出し、なぜ負けたのかを分析する、政府による本格的総括を怠ってきた。従って、安全保障に関し思考停止し、軍の保有や集団的自衛権がもたらす抑止力向上の重要性も理解できない。自衛官を「他人」と位置付け、自衛官との国防上の一体感に乏しいので、自衛官に敬意と名誉で接する「文化」も「国是」も育たない。帝國陸海軍将兵に至っては、戦争責任をなすり付ける対象か「戦争に駆り出された悲劇の道具」とのみ思い込む。靖国神社の英霊を「心ならずも戦死された」と“悼んだ”小泉純一郎氏(72)は後者の類い。「進んでお国のために戦った」軍人がおられなかったら、この国はとっくに滅んでいる。日本国民は、敗戦から何も学んでいない。 「負けっぷり」が悪すぎる。(政治部専門委員 野口裕之)

80NAME:2014/06/13(金) 07:37:17
慰霊の場の政治利用を長崎市助長
政治利用される慰霊の場 市の姿勢が助長 慰安婦資料館の看板も
2014.6.12 22:52 (1/4ページ)
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140612/plc14061222520026-n1.htm

長崎市・平和公園に、日本の戦争責任を一方的に追及する長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑が、設置許可の更新もせずに30年以上、放置されていたことが明らかになった。碑の前では設置団体が日本を非難する集会を開いていた。公園用地の所有者であり管理責任もある長崎市は、更新の手続きを設置団体に促すこともしておらず、この姿勢が、慰霊の場であるべき平和公園の政治利用を助長したといえる。(田中一世)

 追悼碑と説明板は、爆心地公園と呼ばれる「平和公園・祈りのゾーン」に「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が建立した。その後、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を紹介する私設資料館「岡まさはる記念長崎平和資料館」の広告看板を説明板近くに無断掲示していた。岡正治氏は守る会の設立者だ。 日本軍が強制連行したとする証拠はない「従軍慰安婦」はもとより、説明板にある「(日本は)武力で威かくし朝鮮半島を植民地化した」「人々の土地を強制的に奪った」などの事項は、専門家の間でも、歴史的事実かどうか意見が分かれている。

81NAME:2014/06/13(金) 22:41:56
『敗戦後論』批判 1  三百十万人の日本人の死は無意味な死なのか
http://www.geocities.jp/akiyoshisato7/1-6.htm

日本における先の戦争、第二次世界大戦も、「義」のない戦争、侵略戦争だった。そのため、国と国民のためにと死んだ兵士たちの「死」は、無意味となる。(『敗戦後論』一〇頁)

悪いことをした子どもをしかる場合でも、なぜそんな悪さをしたのか、の理由を聞かないで、頭からしかることはよくないことだ、ということを、最近の大人は、誰でもわかっています。

それが、善悪をわきまえた大人が、全員でもって、悪いこと、悪い戦争をした、というなら、なおさら、なぜ、そんな悪い戦争を、大の大人がしてしまったのか、を問わなければ、戦争にかかわる問題を、なにひとつ、本質的に解決することへつながらないことは、明白ですよね。

日本をしてそこまで戦争に深入りさせたものは何か。このような形で敗れねばならないのは何故か。敗れたあとに来るものは何か。われわれが学徒兵として、学業半ばに志を曲げて死ななければならないのは何故か。日本人はこの巨大な浪費と、そのあとにくる無残な破局から、何を学びうるのか。(中略)

正義のために戦って死ねば、その死は意味あり、ねじれはなく、後世のものが、その死の意味をひきついで、哀悼してくれる。ところが正義のために、と戦って死んだ戦争が、 実は正義ではなく、侵略戦争という悪だった――つまり、ここで、ねじれが生じる。 だから、その死は意味がなく、無意味となり、後世の者に、先人の無意味な死とねじれた感覚がひきつがれる、と。

つまり、この論理構造から見るならば、ねじれがあったからこそ、無意味な死となった、というわけです。単純化していえば、(正)義ために死ぬことに意味があり、(正)義でない戦争に――侵略戦争に死んだため、無意味となった、と。

典洋さんの指摘は、どうも日本人の感覚からいって、ちがうと思うのです。 「自由のため」「解放のため」と、「義を信じて戦場に向かう兵士。」だいいち、このような兵士が、日本人にいたでしょうか。

日本人は、そんな御題目を、信じるということはやりません。 日本人は、論理的に納得したら動く、という感性とはちがう感性を、伝統的に育ててきたのです。 それは「和」です。まわりの「和」をくずさないために、まわりが闘えというのなら闘うのです。信じているのは、「義」ではなく、「和」なのです。 ですから、日本人が戦争に敗けた後、それが「義」のない戦争だとわかったとしても、「義」と思ったのに、「不義」だった、うらぎられた、とわかったとしても、「ねじれ」は、起こりようがないのです。 つまり、「ねじれ」の前提になる「正義」のため、というのが、はじめからないのですから。

 日本人は、あくまでも「和」のために、 勝利をめざして戦ったのです。 その「和」の頂点にある国家をたばねるシンボルとしての、天皇のために、です。 自分の努力がいたらなかったために、敗けてしまって、陛下に申し訳ない!と涙し、土下座してあやまる他ないのです。(あの八月十五日の、皇居前広場に延々とつづく庶民の土下座の姿の写真が、それを象徴しています。)

組織内のミスはまず隠す、隠蔽する。外向きの体裁をつくろうため、組織内の者は口裏を合わせる。別の言葉でいえば、情報の非公開。が日本では、一般的な感性なのです。

ある若い女子大生が、全然見知らぬ若い男に殺された事件がありました。 その死は、「自然死ではない、不自然な死」です。大岡昇平さんが、戦争による死者を、そう語った同じように。 この女子大生の死は、無意味な死でしょうか。それとも有意味な死でしょうか。

殺した男が、にんげんとしてよみがえり、彼女と遺族の気持ちが、その男のにんげんとしての気持ちにつながることによって、二度とふたたび、彼女と彼女の遺族の悲惨さを繰り返さないようになることによって、ようやく、彼女の無念が、遺族のくやしさが、晴れるのではないでしょうか。

そのあり様を見た、目覚めたる日本人は驚き、このままでいったら自国が侵略されると、危機感を感じ、幕府を倒し、明治維新を通して、国を一つにまとめて、自国を侵略から守ろうと、必死に欧米列強に対抗するための、富国強兵!追いつき追い越せの、努力の連続だったわけです。 ですから、日露戦争で日本が勝利すると、侵略され続けていたアジア人が、はじめて白人に勝った、ということで、日本人はもちろん全員万歳と歓喜するのですけど、アジアの人々も共鳴したのです。

しかし、哀しいかな、父母、祖父母たちは、侵略されまいとする近代化の後発国の悲哀を自らのものとしながら、それを防ぐために、防衛線を拡大するとして、逆に隣国に侵入して、自らが侵略者になるという過ちを犯したのです。

82NAME:2014/06/17(火) 19:23:55
証言…戦艦大和、片道燃料の真実
戦艦大和「片道燃料」の真実…艦長の会話を聞き、大和の最期を見た元測距儀兵の証言(上)
2014.6.17 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140617/wlf14061707000003-n1.htm

夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六−太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言を2回シリーズでお伝えしたい。

最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に

 戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。 大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。 「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。 その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。

 「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」 測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。

恩賜のタバコ、“形見”として親に…最期の特攻、大和は“命”を僚艦に…

83NAME:2014/06/17(火) 19:25:25
すべてが極秘だった

 当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。 「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。

 つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。 「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。

物資が枯渇する中、最後の特攻へ

 士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。 「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」

防衛へ生き残るべき艦も必要…艦長同士の決断

北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。 沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。

 当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。

84NAME:2014/06/21(土) 14:51:44
「日本人は戦うことを悪いことだと教えられ、闘争心を失った」新カリスマ経営者が今度は若者に吠えた 
2014.6.21 12:00
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/140621/biz14062112000002-n1.htm

 ビジネス本の世界で、ある経営者が新たなヒットメーカーとして出版業界から注目されているという。富士フイルムホールディングス代表取締役会長兼CEO(最高経営責任者)の古森重隆氏。米巨大企業のコダックを飲み込んだ写真のデジタル化の波や、リーマン・ショック、歴史的な超円高など、さまざまな逆境を乗り越えたカリスマ的な経営手腕に、関心が集まっているためだ。 4万2000部のヒット作品となっている「魂の経営」(東洋経済新報社)に続いて、「君は、どう生きるのか 心の持ち方で人生は変えられる」(三笠書房)が6月18日に発売された。初版は2万5000部と、ビジネス本としては意欲的な出版計画だ。

 デジタル化の波は、米国の大手企業コダックを倒産に追い込んだ。それとは対照的に、富士フイルムは古森氏の強力なリーダーシップのもと、新規事業の創造と不採算部門のリストラを同時に実行する大胆な構造転換を成功に導き、V字回復を実現させた。 経営改革のスピードや大胆さは米国企業が勝る、とされてきた経済界の常識を打ち破った古森氏の手腕に出版業界から熱い視線が集まり、出版のオファーが相次いだのだという。

「魂の経営」のテーマは、「本業消失」と呼ばれる経営の危機から「第二の創業」に至るまでの構造改革を描いた。「車が売れなくなった自動車メーカーはどうなるのか。鉄が売れなくなった鉄鋼メーカーはどうすればいいのか」。そうした「本業消失」に立ち向かった経営者の苦闘をつづっている。 2作目の「君は、どう生きるのか」は、日本の若者にどう働き、どう生きるべきかを説いた書だ。古森氏は「日本人は戦うことを悪いことだと教えられ、ファイティングスピリットを失った。しかし、人生は戦いの連続だ。世界を舞台に繰り広げられる競争に勝つためには、ファイティングスピリットを取り戻さなければならない」とメッセージを送っている。

85NAME:2014/06/28(土) 16:51:30
両陛下、念願のご慰霊 「対馬丸」遺族と生存者 寄り添うお気持ち受け止め
2014.6.27 20:55
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140627/imp14062720550004-n1.htm

先の大戦中、米軍に撃沈され、多くの子供たちが犠牲となった学童疎開船「対馬丸」の悲劇。天皇、皇后両陛下は27日、念願だった犠牲者の慰霊を果たされた。疎開経験のある両陛下は、犠牲となった子供たちと同世代であり、これまでも深く心を寄せられてきた。両陛下からいたわりのお言葉を受けた遺族、生存者は「あれから70年。一つの区切りができた」と話し、悲劇に寄り添う両陛下のお気持ちを受け止めた。 両陛下はこれまで、機会あるごとに対馬丸に言及されてきた。53年ぶりに海底で対馬丸の姿が確認された平成9年、陛下は「對馬丸見出ださる」と題して「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」とのお歌を詠まれた。皇后さまも戦後60年の17年、71歳の誕生日に際しての文書で対馬丸に触れられた。 「大変でしたね」。当時、泊国民学校(那覇市)6年生だった堀川澄子さん(81)は27日の懇談で、両陛下からこうねぎらいの声をかけられた。

撃沈された夜、「やられた!」と叫ぶ引率の女性教諭の声で飛び起きた。沈みゆく船体が巻き起こす渦の中にのみ込まれたが、救命胴衣のおかげで海面へ上がることができ、ボートの船員に救助された。「先生」「お父さん、お母さん」「助けて」と叫ぶ声が次第に消えていった情景を思い出すという堀川さん。「懇談は生存者、遺族にとって、節目になりました」と、言葉を詰まらせた。 「生きていれば、陛下と同い年なんだなあって」。思い出を振り返る豊岡君江さん(78)は、天妃(てんぴ)国民学校(那覇市)5年生だった兄の豊岡功さん=当時(11)=を失ったことを両陛下に話した。 気丈夫で活発、友達も多い人気者だった功さん。亡くなった母の生(いく)さんは「自分が無理に(対馬丸に)乗せてしまった」と後悔の念を話していたという。 懇談では、陛下から「私と同じ年ですね」と優しく声をかけられ、両陛下の温かいお心が豊岡さんにも伝わってきた。「胸がいっぱいになりました。母も喜んでいると思います」

 ■対馬丸事件 先の大戦中の昭和19年8月22日夜、沖縄から九州に疎開する学童ら約1800人を乗せた学童疎開船「対馬丸」が、鹿児島県のトカラ列島・悪石(あくせき)島沖を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没。学童約780人を含む約1500人が犠牲となった。平成9年の海底捜索で船体が確認された。

86NAME:2014/07/02(水) 19:53:35
魚雷をわざと命中させ…戦艦大和
戦艦大和「片道燃料」の真実…艦長の会話を聞き、大和の最期を見た元測距儀兵の証言(上)
2014.6.17 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140702/wlf14070207000001-n1.htm

夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六−太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言を2回シリーズでお伝えしたい。

最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に

 戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。 大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。 「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。

 その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。 「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」 測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。

恩賜のタバコ、“形見”として親に…最期の特攻、大和は“命”を僚艦に…

87NAME:2014/07/02(水) 19:54:48
すべてが極秘だった

 当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。 「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。

 つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。 「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。

物資が枯渇する中、最後の特攻へ

 士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。 「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」

防衛へ生き残るべき艦も必要…艦長同士の決断

北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。 沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。 当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。

=(下)覚悟も浮沈艦…に続く

88NAME:2014/07/02(水) 19:55:53
今年1月の「銀幕裏の声」で紹介した、空母「飛龍」に乗って真珠湾攻撃に参加した97式艦上攻撃機の元搭乗員、城武夫さんが5月30日、肺炎のため死去した。95歳だった。セイロン島の英軍基地攻撃から帰還する際、英戦闘機の攻撃で片目を失った。ハンディを背負いながらも戦後を生き抜き、戦争の証言者として、命と平和の大切さを説き続けた。合掌。

特攻を美化するつもりはない。だが若いパイロットたちが日本を守りたい一心で戦ったことは語り継ぎたい…映画『永遠の0』の特攻パイロットは実在した(上)
2014.1.11 12:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140111/wlf14011112000020-n1.htm

89NAME:2014/07/03(木) 19:55:30
日本代表の「お辞儀」に見る日本
サッカー日本代表のお辞儀から見える「菊と刀」の世界、長友の涙が意味するものとは―中国メディア
2014年7月2日 05:40 (Record China)
http://topics.jp.msn.com/world/china/article.aspx?articleid=4936944

2014年7月1日、サッカーワールドカップ(W杯)ブラジル大会で敗戦後、スタジアムのごみを拾う日本人サポーターのニュースが中国のインターネット上で大きな話題となった。これに対し、日本問題専門家の復旦大学教授は、「恩に感謝すること。日本が第2次世界大戦後の廃墟の中から経済・社会面で大躍進し、世界の強国に復興したことは、このことと密接な関係がある」と述べた。新民晩報が伝えた。

コートジボワール戦の試合会場アレナ・ペルナンブーコで、試合に負けた日本代表の選手たちは試合終了後、日本のサポーターに向けて深々とお辞儀をし、謝罪と感謝の気持ちを示した。実は、この一幕に感動させられたのは日本人だけではなかった。中国のネットユーザーが中国版ツイッター・微博(ウェイボー)で、「愛国とは過去の過ちに対して怒ることではなく、自己を正視することだ。それは、他国の優れた点を学ぶことでもある。サッカー日本代表チームの品位は学ぶに値するものだ」と投稿した。非常に誠意ある意見だ。 ブラジルW杯が始まる前、日本代表は自信たっぷりの様子を見せていた。日本の国民も日本代表に注目し、極めて大きな希望を託していた。英国のメディアが実施した調査によると、ツイッター上でW杯についてコメントしたユーザーのうち全体の37%が日本のもので、世界で1位だった。それに次ぐ2位は英国だったが、わずか11%に過ぎなかった。恐らくこういった背景もあって、日本サッカー界のスター選手である香川真司は試合後に次のように語った。「会場全体が日本を応援してくれていたのに申し訳ない気持ちでいっぱいだ」。

この「申し訳ない」という言葉は単なる謝罪の言葉だろうか?この言葉には、「恩に感謝すること」という日本文化の特徴的な要素が反映されている。日本が第2次世界大戦後の廃墟の中から経済、社会を急速に発展させ、世界の強国に復興したのは、このことと密接な関係がある。 日本文化を語る上で避けて通れないのは米国の文化人類学者ルース・ベネディクトの日本人論「菊と刀」だ。この本の第5章には、「過去と世間に負目を負う者」という見出しがつけられている。ルース・ベネディクトの論説によると、日本人は恩に報い、感謝することを非常に重視し、また感謝する対象は明確で、幅広く、具体的だという。実際、日本人の観念によると、人と人との間には恩恵を与える人と、恩恵を受ける人という必然的な関係性が存在する。恩情は一種の債務であり、必ず返さなくてはならない。恩を知り、それに報いるのは人が必ずやり遂げなければならない義務なのである。 日本人は社会は人からなるものであることを非常に明確に理解している。「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の言葉によると、「自分が手にする富が増えれば増えるほど、社会の助力を受けているのだから、その恩恵に報いるため、できるかぎり社会のために助力しなければならない。国や社会を忘れることは下等動物との差異がないことだ」とある。このように、日本代表チームがお辞儀をするという行為は、サポーターの期待に応えられなかったことを誠実に謝罪するだけではなく、サポーターに対する深い感謝の気持ちを示したもので、これこそが日本文化を象徴するものだ。

90NAME:2014/07/03(木) 20:02:17
このため、広い意味で言うと、恩に感謝することは日本の核心的な価値観の1つと言える。東京のJR渋谷駅前にある忠犬ハチ公の銅像がこの文化を体現している。日本経済が躍進する中で生まれたパナソニックの創業者・松下幸之助の経営哲学にも、企業は貢献してくれた職員に感謝すべきであり、職員もまた自分の人生の発展に寄与する会社に対して感謝すべきであるという献身の重要性を強調している。 日本サッカーのサポーターのこういった品位にも、同様に文化的記号が現れている。ルース・ベネディクトの「菊と刀」では、日本文化は西欧的な「罪の文化」とは対照的に「恥の文化」であると定義している。簡単に言うと、西欧の人々は主に絶対的な道徳観を持ち、内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している。それは、カントの次の言葉にも見て取れる。「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」。一方の日本人は他人の目線を自分たちの行動の規範とする。ルース・ベネディクトの論説によると、「恥を感じることは日本人の生活において非常に重要であり、いずれの日本人も社会が自分の行動に対する評価に対して非常に注意を払う」という。

このため、「人に迷惑をかけてはならない」というのが日本人の基本的な行動基準となる。スタジアムに残されたごみを拾うという行動もまた他の人に迷惑をかけてはならないということから来ている。しかし、日本にはこれに反する「旅の恥はかき捨て」ということわざもある。この意味は、知らない人の場所ではこの規則を守る必要性はないということだ。これもまた、日本人のスキャンダルのほとんどが家の外で起こっていることと関係があると説明できるだろう。 残念なのは、日本代表がブラジルで示した日本文化の象徴である「深く恥じ入ること」や「恥の意識」が、日本が過去に犯した侵略の歴史を深く認識したり、誠実な謝罪をするという面で示されないことだ。このような日本人の「選択性」について、考えさせられる。(提供/人民網日本語版・翻訳/MZ・編集/武藤)

↑ 日本が過去に犯した侵略の歴史???なんのことだろうか。大東亜戦争で、日本はアジアを救ったので、反省や謝罪は不要なはすですが。(笑)

91NAME:2014/07/05(土) 22:46:09
日本国憲法は英文
http://kaigaikiji.com/?page_id=1402

マッカーサー・ノートをうけて、憲法起草の責任者ホイットニー民政局長のもと24名のスタッフが分野ごとに条文を作成、わずか1週間でマッカーサーに提出した。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/nihonkoku_kenpo.html

アメリカがわずか6日間で作り日本に押し付けたもの。 日本国憲法は、当時の日本の国会である帝国議会で審議され、承認されるという手続きを踏んでおり、いかにも日本人が自主的に作り上げた憲法であるような体裁をとっているが、これはアメリカの戦略だった。アメリカ政府は、新憲法が制定される前に、GHQに対して再三にわたり、憲法が押し付けられたものであるという事実を日本国民には覆い隠すよう、また、日本国民が自分たちで自主的に定めたと錯覚するように仕向けることを要求した。

戦後できた日本国憲法は、占領軍憲法で改正しなければならないと、制定前後から日本の指導者の多くが思っていて、マスコミも憲法改正をみな唱えていた(朝日新聞、社会党、共産党ですらも憲法改正を要求していた)。 しかし、吉田茂がサンフランシスコ講和条約締結と同時に日米安全保障条約を結び、アメリカに全面的に依存したため、真の独立はますます遠のいた。吉田の選択が戦後の禍根を生み、日本人の精神を崩壊させ始めた。

対日講和条約によって独立を回復したならば、憲法改正を試みるべきだったが吉田は軍事的・外交的にアメリカに従属する道を選び、日本が真に独立国として再出発する好機を逃した。吉田は防衛をアメリカに依存し、負担を軽減することによって経済的に復活を目指そうとした(吉田ドクトリン)。この方針によって、日本が戦後の食糧危機を脱し未曾有の経済成長へと進んだのは事実だが、経済一本に絞ったために国民の力は経済にすべて結集され、この集中力が日本人の勤勉さや教育水準の高さとあいまって高度成長を実現した。しかし、その代償は大きく、経済優先の路線が日本人の正気を次第に奪っていった。

当時日本に主権がなかったし、何をするにもGHQの承認が必要だった。占領政策の批判は一切禁じられ、違反者は裁判にかけられ重労働の刑に処せられていた。日本側の粘り強い交渉で一部修正が認められたものの、政府案はGHQの作成した原案に沿った内容とならざるを得なかった。

政府案とGHQ案の最も大きな違いは以下の通りGHQ案には「一切の土地や天然資源の究極的所有権は人民の集団代表者としての国会に帰属する」という一文が入っていたがこの部分は削除された。これが削除されなかったら日本の土地は国有制になっていた。 GHQ案では国会は一院制だったが政府案では衆参二院制に修正された。さらに国会の審議過程で一部修正されたが、GHQの草案はほぼ全面的に受け入れるしかなかった。

日本国憲法は連合国の為だけに作られた
http://mekago.cocolog-nifty.com/dpzannex/2014/04/post-af52.html

英文の草案がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から提示され、それを日本語に訳したものが、現在の日本国憲法です。

92NAME:2014/07/06(日) 04:10:50
なぜ太平洋戦争で日本は、大陸で権益の衝突する欧州列強とではなく、アメリカと開戦する運びとなってしまった
http://okwave.jp/qa/q5923172.html

狙えそうな海外市場ってもう中国くらいしかなかったのです。アメリカはフィリピンを植民地にしていましたから、そのルートで中国にも食指を伸ばしていたのです。そうなると、日本と利害の対立が生じるのは当然となります。

日本にとって「死刑宣告」になったのは石油とくず鉄の禁輸でした。当時の日本は石油はほとんどがアメリカからの輸入でした。だから、石油の元栓をひねられると日本はたちまち干上がったのです。なにしろ、もし石油が手に入らなかったら日本海軍は何もしなくても1年後には燃料がなくなってしまったのです。また、くず鉄についてはあまり注目されていないのですが、実は当時の日本は高炉がほとんどなかったのです。

平炉だと鋼鉄を作るにはくず鉄からじゃないと作れないのです。だから、くず鉄がないと大砲はもちろん砲弾も作れないのです。アメリカは、くず鉄と石油を断ち切れば日本は立ち行かないことをちゃんと分かっていました。だから、くず鉄と石油を禁輸したのです。そうなると、日本は兵糧攻めで座して死を待つか、イチかバチかの戦争かの二者択一を迫られたのです。アメリカは窮鼠猫を噛むところまで日本を追い詰めたのですよ。

太平洋戦争って結局仕掛けた日本がわるいんですか?戦争はやらなくても日本が経済的にも政治的にも不利益になる事はなかったんですよね?
ましてや植民地になるなんて事はなかったんですよね?アメリカの最後通告を無視して侵略行為をしなければ経済制裁を受ける事もなく戦争は起こらなかったんですよね?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1269105762

当時弱体化していた中国に武力干渉していた列強も、今後は中国の主権を認めつつ門戸開放、機会均等で平和的に中国市場を開拓していこう、と日本も含めて九ヶ国条約を締結。しかし早速1931年に日本が条約を破って満州を侵略し中国大陸侵略を拡大します。欧米諸国も中国市場を狙っていましたが、大軍隊を送って武力で侵略したのは日本だけです。これがどうしても分からない人たちがいます。しかし日本が中国大陸を侵略している間も石油を始め重要物資はアメリカから欲しいだけ輸入出来ていたのです。

そしてフランスがドイツに降伏したどさくさに北部仏印を侵略した時でもまだ石油は入ってきていた。しかし調子に乗って南部仏印を侵略した時点でアメリカは対日石油禁輸を行います。日本の侵略主義に対してアメリカが「初めて」経済制裁の形で厳重な警告を発しました。

ここで日本が侵略政策を変えていたらまた石油も輸入出来たのですが、日本はアタマに血がのぼってしまいます。山本五十六は言いました、「三国同盟前後の事情、その後の物動計画の実情などを見ると、現政府のやり方は前後不順なり。今更アメリカの経済圧迫に驚き、憤慨し困難するなどは、小学生が刹那主義にてウカウカと行動するにも似たり」、と。よく言われるアメリカの挑発とか陰謀などはまったくありませんでした。日本陸軍が調子に乗って「小学生の様にウカウカと」侵略を拡大した結果でした。

あのハルノートも、「最後通牒」から程遠いものでした。中国からの撤退も、満州のマの字も書いてないし、大陸での日本の権益にも触れていない。それどころか、日米がお互いに最恵国待遇を与え合って通商を行う協議を始めようとまで書いてある。にもかかわらず、日本側で日本語に翻訳の時に原文に書いてある「暫定的」「拘束力のない」「提案」「草案」を消してしまい、中国からの撤退は書いていない「即時」を書き加えて最後通牒に様にしてしまいました。

93NAME:2014/07/07(月) 01:30:31
ハル・ノート
http://cosmo-world.seesaa.net/article/142255894.html
駐日大使ロバート・クレーギーが帰国後政府に提出した報告書で「日本にとって最大の問題は南方進出では無く耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった」とかかれており日本の南方進出が「領土的野心」等では無かった事を証明している。
資源・物資・大陸での正当な権益・アメリカにある日本の資産・これらを放棄しろと言う事は「死ね」と言うのに等しい事である。

うまく説明できないが、東条の二男は三菱重工の社長になっている。
三菱財閥と天皇家の関係、昭和天皇と東条の関係を考えると、東条を処刑するとは考えられないのだ。

ハルノートは太平洋戦争の原因ではない。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n73649

日本政府がハルノートを受け取ったのは昭和16年11月27日。しかし日本海軍機動部隊は既にその前日に真珠湾に向けて出撃していました。また、マレー半島奇襲上陸を目指した陸軍の大部隊を乗せた輸送船団も南方に向けて航行中でした。つまり和平交渉中に、そしてハルノートを受け取る前に強大な攻撃部隊を出撃させていたのです。

ハルノートの中でアメリカの唯一の「要求」は中国・仏領インドシナから軍隊・警察力を引き揚げる事だけです。これは当然ですね、日本がパリ不戦条約、九ヶ国条約を破って満州侵略に始まって中国侵略を拡大し、フランスがナチ・ドイツに負けたどさくさに仏印を侵略していたのですから。

ハルノートを受け入れれば良かった
http://military38.com/archives/34923240.html

ハルノートを受け入れれば朝鮮、台湾、南樺太、南洋の島々は今でも日本の領土です。
>日本がハルノートに応じても、話し合いに応じることも石油禁輸や資産凍結を解除するかどうかもアメリカは明言しなかった
そもそもあれ暫定案であり拘束力もない アメリカ政府の公式な提案じゃないし

94NAME:2014/07/08(火) 23:40:53
日本が植民地にならなかった理由 7月8日
2014.7.8 03:06
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140708/dst14070803060004-n1.htm

19世紀に入ると、欧米列強はアジア諸国を次々と植民地化していった。日本は絶体絶命の危機に立たされる。独立を守るために戦った幕末の英雄たちの物語は、繰り返し語られてきた。

 ▼ただ、元国土交通官僚の作家、竹村公太郎さんは、日本の地形と気候という視点から、もう一つの理由を挙げる。豊富な鉱物資源や広大な土地、奴隷といった、欧米人の欲望をかき立てるものが、見当たらない。

 ▼それどころか日本列島には、「欧米人を恐怖させる自然が嫌というほどあった」。確かに日米和親条約締結後の5年間だけでも、大地震が相次ぎ、コレラが蔓延(まんえん)し、江戸市中は大水害に見舞われている(『日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇』PHP文庫)。

 ▼13世紀の日本に襲来したモンゴル軍を追い払ったのも、神風と呼ばれる暴風雨だった。だからといって日本列島の過酷な運命に、感謝する気持ちにはとてもなれない。まして自然の猛威は、近年の地球環境の変化を受けて、荒々しさを増している。

 ▼列島の南海上を北上中の台風8号は、猛烈な風と大雨を伴う、7月としては過去最大級の台風だという。しかも梅雨前線の活発化と、速度の遅さという悪条件が重なっている。崖崩れや浸水の被害が、各地で最小限にとどまるよう祈るばかりである。

 ▼太陽を図柄としている日本の国旗は、「星」や「月」のデザインが目立つ世界の国旗のなかで、実は珍しい存在だ。竹村さんによると、夜になってから活発に活動する熱帯の人たちにとって太陽は、「苦しみと死の象徴」でしかない。それに対して日本人は古来、太陽の下で働くことこそ、無上の喜びとしてきた。灼熱(しゃくねつ)の太陽がことさら恋しく思える、1週間となりそうだ。

95NAME:2014/07/12(土) 15:26:15
「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判 [産経新聞]  70年前の911事変
投稿者 中田英寿 日時 2011 年 12 月 08 日 07:42:16: McoerUaxt7HLY
http://www.asyura2.com/11/warb8/msg/411.html

「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
2011.12.7 22:41 (1/2ページ)[歴史問題・昭和史]
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm

【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874〜1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882〜1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。

 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした−などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。 ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。

その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。

 マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった」と批判していた。 著書ではフーバーが「米国から日本への食糧供給がなければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろう」とマッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたことも詳細につづられており、フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなっている。 ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけになってほしい」と話している。

96NAME:2014/07/14(月) 00:34:18
消された「通州事件」
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tushujiken.htm
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:ekuwL2G7AnsJ:www.h3.dion.ne.jp/~urutora/tushujiken.htm+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

盧溝橋事件の約3週間後に起こった、おそるべき虐殺事件についてご存知でしょうか。北京の東にある通州というところで起きたこの「通州事件」は、今ではほとんど語られません。学校の教科書には全く出てきませんし、多くの歴史書や年表にも殆ど載っていません。若い人たちは、事件の名前すら知らない人が殆どでしょう。
 
 この通州事件は、昭和12年(1937)7月29日に起こった、中国人の保安隊による大規模な日本人虐殺事件です。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数の朝鮮人も含む)の約260名で、中国兵は、婦女子に至るまで、およそ人間とは思えないような方法で日本人を惨殺したのです。
 
 戦後の東京裁判で、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしました。しかし、ウェッブ裁判長によって、その申し出は却下されました。この事件にふれてしまうと、日中戦争は日本だけが悪いと言えなくなってしまうという判断があったからでしょう。ただ、通州事件の目撃者による口述書だけは受理されました。あまりに残虐な内容ですが、その一部を引用します。
 
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部にほうきを押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。
 
 東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、それに八番線を通し、一家6名数珠つなぎにして引き回した形跡歴然たる死体が浮かんでおり、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛のごとく針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこのちり箱の中やら塀の陰から出てきた」
 
 どうでしょう、これが人間のやることでしょうか。中国の保安隊は、日本人居留民を通州城内に集め、城門を閉じ、逃げられないようにして、一斉に殺戮行為を開始したといいます。決して偶発的な出来事というわけではなく、明らかに事前準備と計画をともなった組織的な行為だったのです。
 
 当然ながら、この虐殺の報は現地の日本軍兵士を激昂させましたし、日本国内にも伝わって、国民の中国に対する怒りは頂点に達しました。
 
 盧溝橋事件は、純粋に軍どうしの衝突であり、それは現地で解決がはかられました。ところが、この通州事件は明らかな国際法違反であり、その殺し方はまさに鬼畜のしわざとも言えるものでした。当時の日本人の反中国感情はこの事件を抜きにして理解することはできないのです。また、この事件に触れずに日中戦争を語ることはできないと思います。

97NAME:2014/07/25(金) 00:14:28
原爆落とされる前に降伏
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8678177.html

1.2発落とされたから降伏した 新型爆弾の脅威を目の当たりにして 早く降伏しないと3発目が落ちる。
2.日本はモルモットだった
3.実際に使う事はないと楽観視していた しかも原爆落とされても「一億玉砕」「徹底抗戦」を唱え続けた
4.天皇が戦争継続に強硬な陸軍のうちの特に強硬派が広島に集合することを知り、あわよくばその勢力漸減を狙った
5.アメリカがそれを認めてくれないと終わらない アメリカは巨額予算を投じて原爆を作った これを使ってから戦争を終える
日本は国体を護持しての降伏をずっと求めてた そこでアメリカは”原爆を落としてから”バーンズ回答をよこした
6.無条件降伏を突き付けて来たので、降伏出来なかった アメリカの思惑としてはマンハッタン計画に掛けた予算分の成果を出さなければならず
7.原爆を使われる前に降伏するための方向性が、ソ連頼みという間違えの上にあったのと、原爆の存在を現実的脅威として判断できるレベル以上に把握していなかった
8.連合国の「無条件降伏」と、日本の「条件付降伏」の折り合いがつかなかったから 無条件降伏通告が届いた頃、軍部・政府では「日本の国体維持」という譲れない条件があり
9.アメリカは曖昧な降伏条件(国体の護持、天皇の地位への保証がない)を出すことで、日本が降伏できないようにして、原爆を使用する準備を そもそも、ポツダム宣言の受諾=無条件降伏 ではない ポツダム宣言の降伏に関する文章には、「Following are our terms」(我々の条件は次の通り)と記されており、それには「日本国政府は直ちに全日本軍の無条降伏を宣言」となっています。 これは、軍隊の無条件降伏=単なる武装解除であって、軍組織の解体や消滅ではありません。 そして、軍=国家・政府 ではない以上、ポツダム宣言によって、日本という国家が無条件降伏したという事にはなりません。
10.終戦や降伏の道やタイミングを絶たれていた
11.トルーマンは、膨大な予算を使用した原爆開発の事実を、議会対策として、投下しなければならなかった 投下の事実を使う為、もう日本しか残っていなかった トルーマン個人が、次期大統領選の為に、戦費全体の1/4とも言われる膨大な予算を、議会に成果報告するために無警告投下を行なった そして、本土上陸作戦で発生する100万人の若者を救ったと情報操作した だから今でも、原爆投下は正当な行為であるとするアメリカ人が多い
12.和平に反対していたのは陸軍 原爆前に政府が強引に終戦しようとすれば恐らく高い確率で陸軍主導の軍事クーデターが起き、最悪の場合は内戦状態に陥っていた 天皇を幽閉して憲法を停止し軍事独裁政権を樹立する、あるいは秩父宮を擁立して新政府をつくるなど 終戦したくても出来ないジレンマに陥っていた重臣たちにとっては、原爆投下は天佑であり好都合なものだった
13.人体実験の前に降伏されたら困りますから終結させる交渉をする気は無かった
14.日本が降伏しようとしたため原爆を落とした 日本の降伏が早ければ、それに合わせて原爆の投下も早まったと
15.何とか戦争を終わりにしたい考えの人たちと、本土決戦までやろうという人たちと最後の最後まで揉めていて、見解の統一ができていなかった

98NAME:2014/07/27(日) 13:13:21
GHQ幹部に共産主義者 英文書
「ノーマンは共産主義者」英断定 GHQ幹部 MI5、35年の留学時
2014.7.27 11:00
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140727/amr14072711000003-n1.htm

日本占領政策に影響

 カナダの外交官でGHQ(連合国軍総司令部)幹部だったハーバート・ノーマンが英ケンブリッジ大に留学していた1935年、英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者だと断定し、第二次大戦後の51年にカナダ政府に通報していたことが26日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。ノーマンは50年代にソ連のスパイ疑惑が持ち上がったが、MI5が既に戦前から共産主義者と断定していたことで、ノーマンが関わり、左翼的傾向が強かった初期のGHQの日本占領政策の再検証が求められそうだ。(編集委員 岡部伸)

 ノーマンはカナダ人宣教師の息子として長野県軽井沢町に生まれ、日本語も堪能で、GHQ内で強い発言力を持っていた。 秘密文書「ノーマン・ファイル」(分類番号KV2/3261)は、英国内のスパイ摘発や国家機密漏洩(ろうえい)阻止などの防諜を担うMI5などの文書のうち、「共産主義者とその共感者」と名付けられたカテゴリーに含められていた。

MI5のガイ・リッデル副長官がカナダ連邦騎馬警察(RCMP)のニコルソン長官にあてた51年10月9日付の書簡では、33〜35年にノーマンがケンブリッジ大学に留学中の共産主義活動に言及。「インド学生秘密共産主義グループを代表してインド人学生の共産主義への勧誘の責任者を務めていたノーマンが35年にイギリス共産党に深く関係していたことは疑いようがない」と記されている。この時期のノーマンは、33年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学して急進的な雰囲気に染まり、社会主義者クラブに参加していたことが知られている。 文書によると、MI5の断定の根拠となったのは、インド国外のインド人を監視するインドの情報機関「IPI」の調査だった。同機関は35年4月、卒業直前のノーマンがインド人学生を共産主義グループに勧誘する責任者を務めたことが断定できる複数の証拠や証言を入手し、MI5に提供。MI5は同年7月、ノーマンを共産主義者と見なしたが、この事実はカナダや米国政府には伏せられた。

ところが、50年に米上院でノーマンがソ連のスパイだという疑惑が浮上。さらに51年5月には、ノーマンと同じケンブリッジ大トリニティ・カレッジを同じころに卒業した英外務省高官のバージェンスとマクリーンが失踪し、同大在学中に共産主義に傾倒した5人によるソ連のスパイ網「ケンブリッジ5」の疑惑が浮上。MI5は、ノーマンはそこにつながる「ケンブリッジ・リング」の1人だという疑いを強め、51年10月に急遽(きゅうきょ)、RCMPに通報した。

 カナダ外務省は50年10月24日に同省高官だったノーマンを尋問したが、ノーマンは「共産党員だったことはなかった」と答え、その後も否定を繰り返した。 作家の工藤美代子氏は「世界有数の情報機関、MI5がケンブリッジ時代のノーマンを共産主義者と判断してカナダ政府に情報提供していた意義は大きい。冷戦時代に『赤狩り』といわれて不当な弾圧として非難されたマッカーシー上院議員の主張は、一般論としては正しかったことが裏付けられる」と語っている。

99NAME:2014/07/28(月) 01:37:35
稲田行革相「百人斬り訴訟」語る
稲田朋美行革担当相講演詳報 いわれなき誹謗中傷、慰安婦問題に断固反論し日本の名誉守る
2014.7.27 23:24
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140727/stt14072723240006-n1.htm

福岡市中央区の西鉄グランドホテルで26日に開かれた九州「正論」懇話会第113回講演会。行政改革担当相として安倍晋三内閣を支える稲田朋美氏が、慰安婦問題や公務員制度改革、クールジャパン戦略などについて語り、「日本を世界中から尊敬される国にしたい」と決意を述べた。

 みなさんこんにちは。日ごろお世話になっている人が福岡、九州には多く、お招きいただき本当に幸せに思います。 私はもともと大阪で弁護士をしていまして、ちょうど30年目を迎えました。弁護士として独立してから5年目のことです。主人が読んでいた雑誌「正論」に教育問題について投稿するようになり、それをきっかけに「百人斬り訴訟」に関わるようになりました。戦時中、中国人の100人斬り競争をやった−という、嘘の記事を基に、2人の日本軍将校が戦後の裁判で処刑されたのです。

 2人の将校、向井敏明少尉と野田毅少尉の遺族らを原告に、朝日新聞や毎日新聞、本多勝一さんらを相手に、(記事で遺族の名誉を毀損(きそん)されたことに対する)裁判を起こしました。最高裁で負けましたが、高裁判決文に「2人の将校が日本刀を抜いて競争した事実はとても信用できない」と書いてくれたのは大きなことでした。こうした経緯があり、産経新聞の正論欄の執筆者に抜擢(ばってき)され、平成17年から書き始めました。

 その記事を読まれた安倍晋三首相と、当時は自民党幹事長ですが、お会いする機会がありました。私は「小泉純一郎元首相の靖国参拝違憲訴訟は全国6カ所で起こされた。法曹界には『憲法教』という新興宗教がはびこっているので、1カ所くらいはおかしな判決を書く。すると(たとえ敗訴しても)原告側は控訴せず、『靖国参拝は憲法違反』という判決だけが残る寸法です」と説明しました。

 安倍首相がそれを覚えていてくれたのでしょう。平成17年の「郵政解散」により、私は福井1区から衆院選に出馬し、当選しました。 私が永田町に行ったのは、日本の名誉を守りたいからです。何も「南京で何もなかった」とか「あの戦争は正しかった」とか言いたいわけではなく、いわれなき誹謗(ひぼう)中傷には断固、反論する。そう思って国会議員になりました。

100NAME:2014/07/29(火) 21:00:56
マッカーサー 安全保障 証言
対訳 マッカーサー証言
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。 いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。 彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。 日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。 したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。

※ 昭和26年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で行われた質疑応答の一部

日本ほど実直に戦時国際法を守った国ってないんじゃないの?
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-1258.html

民間人殺し過ぎだろ米国。
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/img/c956ace0452d11a85b0b87fc8d17ee5d.jpg/

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マッカーサー「自衛戦争」証言
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html

フィリピンで日本に完敗したダグラス・マッカーサーは、日本に恨みを持ち、復讐心に燃えていた。後に日本が原爆を落とされて負けて、マッカーサーがやってきたとき、彼はその恨みを晴らすべく、「日本は悪いものだ」と信じきって東京裁判をやらせ、自分たちの意向を反映させた日本国憲法をつくらせて日本を骨抜きにした。 ところが朝鮮戦争が起こって事態は一変する。そのとき彼は初めて東京裁判で弁護側が言ったことがすべて本当だったのだと気づく。そして満州にも支那に対しても、日本がやったようにやらなければならないという結論に達する。しかし当時の大統領・トルーマンは、ソ連と戦争になることを恐れて、マッカーサーを解任してアメリカに戻した。その後、アメリカはマッカーサーが予言したように朝鮮半島で負け始め、なんとか38度線まで押し返したところで戦争は終結する。そしてアメリカに帰国したマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会という最も公式の場で、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語ったのである。 マッカーサーは前年に東京裁判が誤りだったと発言している。

「バターン死の行進」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1942_batan_shinokoshin.html

フィリピンのアメリカ軍総司令官になったダグラス・マッカーサーは、自慢の航空部隊で十分に日本を抑えられると思ったところがコテンパンにやられ、数万の兵隊を置き去りにして自分だけがオーストラリアに逃げた。その置き去りにされた兵隊たちは、バターン半島で食べるものもなく、マラリアに侵されてフラフラになってしまった。放っておけばそのまま死んだわけだが、降参したために日本軍は山の中から基地のある場所まで自分たちの何倍もの数の兵隊を連れてこなければならなかった。日本軍にはトラックがなかったために、仕方なく歩いてもらった。その途中に、多くの死者が出たために「バターン死の行進」と呼ばれ、日本軍の残虐行為と非難されている。しかし、一番残虐だったのは置き去りにして逃げたマッカーサーである。マッカーサーは日本に対する恨みを持ったのだが、それはマッカーサーの逆恨みだった。

101NAME:2014/08/02(土) 09:21:36
「殺人者」「我々は日本と友好的すぎた」罵詈雑言で日本を酷評する中共メディアの“ヘイトスピーチ”
2014.8.2 07:00 (1/4ページ)
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140802/waf14080207000002-n1.htm

原爆投下を思わせる「きのこ雲」のイラストを書き込んだ日本地図を載せた中国重慶市にある共産党系の週刊紙報道は、中国の傍若無人ぶりを一層際立たせた。イラストの不見識ぶりだけではない。論評で、日本のことを「血塗られた手は乾いていない」「殺人者」と評し、「われわれは日本と友好的すぎたのではないか」とさえ言い切った。物騒な表現で煽り、さも原因は日本側にあると言い立てて、日本に負のイメージを植え付けるやり方は中国の常套(じょうとう)手段だ。断じて許してはいけない。

「日本の血塗られた手は乾いていない」

 報じたのは、中国共産党のエリート養成機関、共産主義青年団系の重慶青年報。ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は同紙の報道を詳細に伝えている。 広告記事で、「きのこ雲」は広島、長崎近くに描かれ、地図には「日本が再び戦争をしたがっている」と表題がついている。集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更を含む日本政府の閣議決定への批判のつもりだろうが、地図は被爆者への配慮を全く欠いている。だが、それ以上に論評は、隣国に向けたとは思えない傲岸ぶりを示した。

102NAME:2014/08/03(日) 20:46:51
地中海で再評価される日本艦隊
「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年
2014.8.3 18:00
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140803/erp14080318000002-n1.htm

地中海に浮かぶ小島マルタで第一次世界大戦中、英国の同盟国として参戦した日本海軍の功績を評価する動きが広がっている。忘れ去られた史実に光を当てようという試みだ。第一次大戦の開戦からちょうど百年となるのに合わせ、現地を訪れて日本人の足跡を探った。(マルタ 内藤泰朗、写真も)

戦利品はUボート

 マルタの港に停泊する日本海軍の艦船。敵から接収した潜水艦Uボートの甲板に並ぶ水兵たち。マルタの首都バレッタにある国立戦争博物館には、そんなモノクロ写真が展示されていた。「1917〜19年のマルタにおける日本帝国海軍」と題するコーナーができたのは数年前のことだという。 英国はドイツとの戦況が悪化する中、日英同盟を結んでいた日本に地中海への艦隊派遣を要請した。17年3月に駆逐艦8隻を派遣し、6月には先遣隊がマルタに到着した。 英国は当時、同盟国でありながら影響力拡大を図る日本を警戒し、不信感を解いてはいなかった。しかし、博物館にあった解説は、「日本艦隊の艦船数は最大時には17隻に達し、日本の海上支援の意義を否定する英国の見方は今日までになくなった。日本は大戦で重要な役割を果たした」と評価していた。

「誇らしい物語」

 18年春には、ドイツが欧州の西部戦線で大攻勢を開始し、英軍は中東などに展開する部隊を大量輸送する必要が出てきた。日本の艦隊は、788隻の連合国側の輸送船や病院船を護送し兵員70万人を輸送。敵のUボートと35回交戦し、駆逐艦「榊」が魚雷攻撃を受けて大破し、艦長ら59人が死亡するなどの犠牲も出た。 一方で日本艦隊は、Uボートの攻撃を受けた船から7千人以上を救出。人々に感謝され、戦後はUボート7隻を戦利品として日本まで運んだという。

 「日本艦隊の働きがなければ、英国は苦境に追い込まれていたかもしれない。そうした史実が知られていないのはおかしいと思い、コーナーをつくった。日本が地中海で果たした役割を忘れてはいけない」。国立戦争博物館のデボノ学芸員(35)が強調した。 第一次大戦に関連する小説を多数出版している英国出身の作家、C・W・ニコル氏は、編集に当たった「日本海軍地中海遠征記」(片岡覚太郎著)で、艦隊の地中海派遣は「日本人だれもが誇らしく思っていい物語だ」と記している。

薄れる存在感

 日本人水兵たちが眠る旧日本海軍戦没者墓地は、バレッタの港を望む小高い丘にある「英国軍墓地」の一角にあった。

白い慰霊塔には66人の名前が刻まれ、清掃も行き届いていた。第二次大戦の爆撃で破壊されたが、戦後に再建され、今も多くの日本人が訪れるという。昭和天皇も皇太子時代の21年に訪問された。 第一次大戦で戦勝国となった日本はその後、孤立の道を歩んで米国と衝突。第二次大戦では、かつて共に戦った英国やマルタとたもとを分かち、敵同士となった。 父親の代から在マルタ日本名誉総領事を務めるミフスッド氏(70)は、墓地や日本ゆかりの場所を案内しながら、マルタで日本の存在感が薄れ、中国が電力エネルギーや港湾分野に投資して急速に影響力を拡大していると明かした。 「日本と歴史的なつながりがあるマルタに、もう少し足を運んでほしい」。名誉総領事の日本人に向けたメッセージだ。

マルタ共和国 「地中海のへそ」と呼ばれる南欧の小国。人口約42万人。総面積は、淡路島の半分に当たる316平方キロ。地中海貿易で繁栄しイスラム帝国の支配下に置かれたが、16世紀に聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領に。18世紀末にはナポレオン軍が一時占領。19世紀初頭に英領となったが、1964年に独立。英連邦と欧州連合(EU)に加盟。宗教はカトリックが中心。

103NAME:2014/08/10(日) 23:31:37
1945年8月7日、広島への原爆投下を世界はどう報じたか
http://www.huffingtonpost.jp/2014/08/06/hiroshima-atomic-bomb_n_5655699.html

1945年8月7日、広島に原爆が投下された翌日、世界では新しい爆弾(原爆)に関する報道がトップ面で伝えられた。しかし日本では、原爆が投下されたことが暫くの間伏せられていた。 1945年8月7日午前1時30分(現地時間6日午前11時30分)、当時のアメリカのトルーマン大統領は「広島に投下された新型爆弾は、原子爆弾である」との声明を、世界に向けて発表した。広島に原爆が落とされてから16時間経ってからの発表だった。

すぐにアメリカ、イギリスをはじめとする世界のメディアが、トルーマン氏の声明を大々的に報じた。しかし、そのほとんどは連合国の国々によるものであったため、アメリカによる原爆投下を批判するものではなかった。ニューヨーク・タイムズは8月7日、1面から10ページにわたる特集を組んだ。トルーマン氏の声明全文のほか、イギリスのチャーチル前首相(当時)の声明、原爆の威力、アメリカの陸軍士官学校が原爆開発をリードしたことや、原子力兵器は戦争を早期に終結させるといった内容のオピニオンなどが、原爆を支持するような表現で、紙面に盛り込まれた。

イギリス紙のマンチェスター・ガーディアン紙(現ガーディアン紙)は、「アメリカとイギリスは、20億ドルが投じられた史上最大の科学上の賭けで、ドイツとの競争に勝利した」とするトルーマン氏の声明を紹介。「われわれは日本のどの都市であれ、これまで以上に迅速に破壊する態勢をとっている」とし、日本が降伏しなければ「空から破壊の弾雨が降り注ぐものと覚悟すべき」と警告する内容も合わせて報じた。ほかにも、「日本に原子爆弾」という簡単な内容の記事から、「原爆、ジャップを激震」というような刺激的な見出しの記事まで、各紙がトップニュースで広島への原爆投下を報じた。

これらの報道に対し、連合国のメディアに原爆投下への批判がなかったわけではない。一握りではあったが「残忍な行為だ」との意見も出ていた。フランス人の作家・アルベール・カミュが主筆を務めた『コンバ(Combat)』紙では、8月8日の社説に原爆への批判が掲載された。

世界がこんなもんだということは、こんなにちっぽけなものだということは、ラジオ、新聞、通信社が原爆について報じる大合唱のおかげで、昨日からもう世の中の誰もが知っているだろう。数々の熱にうかされたような記事のおかげで、どんな中都市でさえもサッカーボールほどの大きさの爆弾によって、完璧に破壊される可能性があるということがわかった。
 
アメリカやイギリス、フランスの新聞が、原爆について過去から未来まで、開発者のことや費用のこと、平和的使命、破壊効果、政治的影響などについて、素晴らしい論文を掲載しては拡散させていく。しかし我々は、次の一言で要約しよう。“機械文明は、既に『野蛮』というものの最終段階に到達した”と。(中略)もし、日本が広島の破壊によって圧力に屈して降伏するのであれば、それは喜ばしいことには違いない。しかし我々は、科学技術力をもった大国が小国をねじ伏せるような国際関係ではなく、対等で公平な国際関係を目指すことが重要であり、それ以外の結論を求めるべきではない。(コンバ紙「社説」より 1945年8月8日)

一方、トルーマン氏の声明発表を知った日本軍の大本営は、「新型爆弾」によって広島が「相当の被害」を受けたことだけを7日午後3時30分に発表するにとどまった。「アメリカによる虚構の謀略宣伝」との見方や、「国民の心理に強い衝撃を与える」などの理由から、原子爆弾であることは隠すべきだと判断したためだ。 大本営発表を受けて、日本の各紙も8日から広島の状況を詳しく報道しはじめたが、後に軍部の調査によって、投下された爆弾が原爆であることが確認されて緘口(かんこう)令が緩められるまで、各紙の表記は「新型爆弾」に統一されており、原爆の文字は見られなかった。

104NAME:2014/08/13(水) 00:56:27
名誉回復…沖縄集団自決“命令”の「汚名」着せられた梅沢元陸軍少佐、戦後日本の言論空間「日本軍=悪」と闘い逝く
2014.8.12 21:45
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140812/waf14081221450026-n1.htm

戦後69年の夏。今月6日、一人の「帝国軍人」が逝った。先の大戦末期の沖縄戦で座間味島の守備隊長を務めた元陸軍少佐で、住民に集団自決を命じたとする事実無根の「汚名」を着せられた梅沢裕(ゆたか)さん。「日本軍=冷酷非道な悪」という戦後日本の凝り固まった言論空間に抗い、軍人らしく戦い抜いた生涯だった。(牧野克也)

 梅沢さんは合理的な作戦を練る指揮官だった。沖縄戦以前に1人も戦死者を出さなかったことを誇りとし、沖縄戦に際しても「特攻はやらない」と犠牲を少しでも減らす作戦を上層部に提案、認めさせた逸話をもつ。そんな生粋の帝国軍人に理不尽なぬれぎぬが着せられた。 戦後まもなく刊行された「沖縄戦記・鉄の暴風」で、慶良間諸島の座間味、渡嘉敷両島で起きた集団自決は軍命令だった−と初めて記述され、次々と他の文献に引用された。ノーベル賞作家、大江健三郎氏も現地取材を一切しないまま自著「沖縄ノート」(岩波書店、昭和45年初版)に文献を引用し、名指しを避けながらも命令者を「戦争犯罪者」「罪の巨塊」などと指弾した。

真相は全く違う。米軍上陸の前日夜、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾の提供を求めた村の助役ら5人に対し、梅沢さんは「死ぬことはない。避難してくれ」と断った。戦後、現場にいた伝令役の住民も同様の証言をし、5人のうち生き残った女性も弾薬の提供は受けられなかった、と告白した。 しかし昭和33年、隊長の自決命令を報じた「週刊朝日」の記事を初めて読んだ梅沢さんは驚き、苦しんだ。「お国のために戦ったのに、なぜ事実がゆがめられるのか」。それでも沖縄への慰霊の旅を続ける中、苦しい生活だった住民が援護法に基づく遺族補償を得るために軍命令という虚構を心ならずも創作した事実を聞く。ついに平成17年、記述を一向に改めない大江氏らを相手取り、名誉毀損(きそん)訴訟に踏み切った。

 1、2審敗訴、23年の最高裁決定でも上告を退けられた。ただ、最大の争点である自決命令の有無について、司法は「(命令は)証拠上断定できない」「真実性の証明があるとはいえない」と判断したのだ。真実性が揺らいでも名誉毀損が免責されたのは、集団自決への軍の深い関与と当時は軍命令が通説だったことを踏まえ、出版時は真実と信じる相当の理由があるとする「真実相当性」に加え、「表現の自由」を優先したに過ぎない。

兵庫県西宮市で10日に営まれた告別式で、訴訟を取材したジャーナリストの櫻井よしこ氏は「梅沢さんを苦しめたぬれぎぬは完全に晴れている」との弔辞を寄せた。 提訴から丸9年目にあたる今月5日、朝日新聞が朝鮮人慰安婦の強制連行を報じた記事の一部が虚偽だったと認めた。沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会代表の南木隆治さん(60)は弔辞で、慰安婦問題といわゆる「南京大虐殺」、集団自決の軍命令を念頭に、「わが国をおとしめる嘘の歴史は完全に正しく書き改められなければならない。梅沢さんはそのために、最後まで日本の名誉を守ろうと戦い続けてくださいました」とたたえた。 享年97。その誇り高き姿に、日本人の本来あるべき魂をみた。

 【座間味、渡嘉敷両島の集団自決】 沖縄戦開始直後の昭和20年3月下旬、両島に上陸した米軍に追い詰められた多数の住民が手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌や鍬などを使って自決した。死者は座間味島で約130人、渡嘉敷島で300人余りとされるが、正確な人数は分かっていない。

105NAME:2014/08/14(木) 22:31:47
戦場の島の洞窟に「辞世の句」を刻んだ旧日本軍兵士は誰なのか いまなお続く慰霊の捜索
2014.8.14 21:27
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140814/wlf14081421270039-n1.htm

15日、69回目の終戦の日を迎え、戦後70年目に入った。第二次大戦の激戦地、北マリアナ諸島のテニアン島。その洞窟(どうくつ)内の鍾乳柱に旧日本軍兵士が書き残したとみられる「辞世の句」が残されている。「句を刻んだのはいったい誰なのか」。45年前に句を見つけた元徳島戦没英霊顕彰会代表の森茂丸さん(66)=徳島県阿南市金刀比羅神社宮司=は今もなお、句の主を捜し続ける。「遠い異国で散った人々を供養したい。それが私の使命です」と語った。

 辞世の句が見つかったのは、島南部のカロリナス岬近くで地下壕として使われていた鍾乳洞。内部は段差のある4層構造になっており、句は3層目の鍾乳柱に刃物のようなもので刻まれ、現在も当時のままという。 柱には「昭和二十年7月六日書 此の台上ニ戦友散りて久し 我れ敗残乃身を生き長いて九ケ月」の文言の後に「親思ふ心にまさる 親心今日の訪づれ何と聞くらん」と幕末の偉人・吉田松陰の辞世の句の一節。そして「青森県青森市長島町」の地名と名前らしき文字が刻まれている。 45年前、大学生だった森さんは、厚生省(現厚生労働省)から遺骨収集団の一員として島に派遣された際に句を見つけた。昭和54年に徳島戦没英霊顕彰会を結成した森さんは戦没者の遺骨収集と慰霊を続け、10年前に再び洞窟に入り句を写真に収めた。

平成19年8月、「転機」があった。森さんの活動を新聞報道で知った青森県鶴田町の蒔苗(まかない)芳彦さん(65)から「句は私の母の兄が書き残したものでは」との連絡があったのだ。 蒔苗さんによると、母のきみさん(旧姓三橋)ら家族は戦時中、青森県青森市長島町に居住。母の兄、三橋剛(つよし)さんは20歳で出征する前、警察官の傍ら、詩吟や俳句をよく詠み、部屋の床の間には吉田松陰の句の掛け軸を掲げていた。きみさんは生前、新聞報道をみて「戦死した兄ではないか」と語っていたが、昨年5月に98歳で亡くなったという。

 森さんは話の内容から有力な情報だと判断し、調査を始めたが、青森市遺族会や護国神社などへの照会では長島町からテニアン島に出征した兵士の存在は確認できなかったうえ、昭和23年3月の青森県発行の戦死公報では、三橋さんは昭和20年にフィリピンのルソン島で戦死したとされていた。 森さんは「句の主は自決や餓死に追い込まれる直前に書いたのではないか。遠い異国で母親への思いを松陰の句に重ねたのだと思う」と思いをはせた。そのうえで、「青森の部隊が出征した島から別の島へ転戦したという情報もあり、句の主が三橋さんである可能性は捨てていないし、さらに調査を進めたい」と語った。

テニアン島 米自治領で北マリアナ諸島にある面積約100平方キロの島。かつて日本の委任統治領で多くの日本人が生活したが、第二次大戦では戦場となり、昭和19(1944)年に日本軍が玉砕した。大戦末期に民間人を含む多くの日本人が亡くなったほか、東京、大阪への空襲や20年(45)8月、広島と長崎に原爆を投下した米軍爆撃機が飛び立った。

106NAME:2014/08/15(金) 03:39:12
NHK「日本海軍 400時間の証言」第2回 特攻やましき沈黙(4)
http://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/200908100000/

敗戦時、特攻作戦の責任をとって自殺した将官が2人います。1人は、今述べたように、公式には「特攻作戦の発案者」ということになっている大西滝次郎中将。そしてもう1人は(必ずしも特攻だけの責任をとったわけではないのかも知れませんが)敗戦時第五航空艦隊司令だった宇垣纏中将です。ただし、この2人の自殺の仕方はまったく対照的。大西は1人日本刀で自殺したけれど、宇垣は、何と彗星艦上爆撃機11機を連ねて、特攻に出撃してしまった。戦争が終わった後で、です。出撃した他の搭乗員は敗戦をまだ知らされていなかったようですが。自分一人で特攻の責任をとって命を絶つことは、それなりに意味があるかも知れませんが、戦争が終わっているのに、11機22人の搭乗員を道連れに自殺というのは正気の沙汰ではない。

その一方で、特攻作戦を発案する立場にいて、戦後はそのことについて何も語らず、航空幕僚長まで上り詰めた人物もおります。源田実です。源田と特攻について、Wikipediaに面白いエピソードがあったので紹介しておきます。源田は戦争末期、343空(第343海軍航空隊)の司令でしたが、この343空は最後まで特攻を行わなかった。しかし実は司令の源田は特攻をやらせようとして、飛行長の志賀淑雄少佐に断固拒否されたようです。特攻実施を迫る源田に対して、志賀が「わかりました。それでは特攻編成の最初の一番機には、私がお供をしますから、あなた自身が出撃してください」と言うと源田は顔面蒼白になり以後、二度と特攻攻撃の話を持ち出すことはなかったのだそうです。

http://anago.2ch.net/test/read.cgi/asia/1359838810/
64 :日出づる処の名無し:2013/10/17(木) 17:11:05.68 ID:32kx+uqE
インタビューで志賀さん本人がそれを否定してる。

実際は、源田司令に対し、軍令部が特攻を出せと圧力をかけてきた際に、「特攻特攻と言う参謀(軍令部航空参謀の寺井義守)から行くべきだ」と言った志賀さんに源田司令も「全くだ」と答えられた。(NHK特集 紫電改 最後の戦闘機にて志賀さん本人が出演して語った。)

そして、源田司令は特攻やむなしとなった際に「私が一番機で行く」と言われ、自分より先に部下を特攻に出すことを認めなかった。志賀さんが死んだ後になって左翼がこの話を改竄して源田司令のネガキャンに利用しただけだ。志賀さんは文章でも映像でも源田さんが特攻反対だったことを証言している。

65 :日出づる処の名無し:2013/10/17(木) 17:21:47.43 ID:32kx+uqE
ではなぜ62のような改竄が志賀さんの死後行われたのか。これを最初に行ったのが佐藤守であり、その義父が特攻の圧力をかけた寺井義守参謀だった。寺井義守は戦後、史料調査会を立ち上げており、佐藤守も参加している。大西瀧治郎に責任を押しつけるために特攻の生みの親として宣伝したのも彼らである。

108NAME:2014/08/15(金) 03:50:30
●特攻の真意
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/daitoasensoco/history/tokkotaico/history.html

長官は、特攻によるレイテ防衛について、 『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。

フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した。

「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。

109NAME:2014/08/15(金) 16:17:38
最も悲惨な戦場インパールの真実
遺体の山、絶望の敗走「地獄だった」…最も悲惨な戦場「インパール」、生還者が証言する真実
2014.8.15 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140815/wlf14081507000003-n1.htm

参道沿いに樹齢千年以上の杉木立が続き、蝉時雨(せみしぐれ)が降り注いでいた。和歌山・高野山の奥の院。7月20日朝、ビルマ(現ミャンマー)のパゴダ(仏塔)を模した「ビルマ方面戦没英霊納骨塔」の前で、竹中直樹(95)=京都市北区=は約80人の参列者とともに、静かに手を合わせた。 塔には、第二次大戦中にビルマで戦没した日本将兵の遺骨が分骨されている。高野山で営まれる慰霊祭は今回で49回目。毎年参列している竹中は、強い日差しが照り付ける参道を、つえをつきながら一心に歩んだ。

 「みんなあそこで死んでしもうた」。ちょうど70年前、陸軍第15師団(通称・祭(まつり)兵団)歩兵60連隊の兵士だった竹中は、ビルマの山地を歩いていた。「(中国大陸では)負けること知らんかったから喜んで行ったら、とんでもない所やった。地獄やった」。竹中は、大戦で最も無謀といわれたインパール作戦からの数少ない生還者の一人だ。

 昭和19(1944)年3月15日、竹中らはインド東部の都市、インパール攻略のため、チンドウィン川を渡った。その先に、2千メートル級のアラカン山系がそびえていた。 連合軍の補給路遮断が目的だったビルマ戦線。戦局打開を狙ったインパール作戦では英領インドへの進攻を図ったが、当初から弾薬や食料の補給が困難だと反対する声が多かった。1日に必要な糧の10分の1程度の補給能力しかなく、道なき道が続く山岳地帯で地形的にも補給は難しかった。

兵站を軽んじた愚「現地調達」…兵が就寝中に餓死、英軍も逃亡防止で鎖を…

110NAME:2014/08/15(金) 16:19:17
結局、インパールを占領後に現地で糧を得るという方針が取られた。作戦を立案し、熱心に必要性を説いた第15軍司令官、牟田口(むたぐち)廉也(れんや)は、作戦中止を具申したり、独断で退却を始めたりした各師団長を次々と更迭して攻撃を続けた。しかし19年7月、行き詰まりの果てに作戦は失敗に終わる。 退却した竹中は、2カ月ぶりに後方部隊から食料をもらった。「みんな『飯や、飯や』ってね。後ろにいた兵隊が『(戦死した)あいつに一口食わしてやりたかったな』とつぶやいたんです」。補給がない日本軍にとって、戦闘だけでなく飢えと病も深刻だった。

 ビルマへの敗走路には力尽きた多くの将兵の屍(しかばね)が積もり「靖国街道」と呼ばれた。180人いた竹中の中隊は、50人を切った。 朝になると隣で寝ていた兵士が死んでいる。「人が死に、しばらくすると染み出た脂で軍服が真っ黒になる。ハエがたかり、目玉にウジが盛り上がってな。遺族には、そんな死に方をしたなんて言われへん…」

□   □

 竹中も、激しい戦闘で2回にわたり肩などを負傷した。紙に「病院」と記しただけの野戦病院に入院し、草の上に横たわった。幸い足をやられなかったため、再び隊に追いつけた。 そのまま居続けていたら命はなかったと確信している。「『患者を優先的に運ぶから心配するな』と言われても、気休めや。結局はおいてけぼりにされる」

 進軍途中、英軍の陣地で逃亡を防ぐため鎖につながれたままの傭兵(ようへい)らが死んでいるのを見た。「勝てばどんなことをしても官軍、負ければ最後まで賊軍や」。今も強い憤りを感じる。 作戦自体を無謀だったと考える。周囲の反対を押し切った牟田口に対する批判は大きい。「弾も食料も送らずにやれと言うばかり。わしらは『ムチャグチ』って言うてたんです」

「祖国を思い、死んで行った。多くの戦友のため、首相は靖国に…」

戦場では生死は紙一重だった。だからこそ、竹中は死んだ戦友を思う。「みんな国のために死んでいった。大事にすべきやし、首相には靖国神社に参ってほしい。わしは、当たり前やと思います」(敬称略)

 第二次大戦で最も悲惨な戦場といわれたインパール作戦。犠牲者だけでなく、生還者や遺族らも、70年もの間、つらい記憶の中にさらされ続けてきた。負の歴史の断面は、今を生きるわれわれも共有すべきではないか。過酷な戦闘を、失われた多くの命を思う関係者の話から振り返る。=続く

 【用語解説】インパール作戦 第二次大戦時、英軍の反攻拠点のインド・インパール占領を目的に、日本軍が昭和19年3月8日に始めた作戦。太平洋戦線などで劣勢に立たされる中、窮余の一策という政治的側面もあった。陸軍第15師団(祭兵団)、31師団(烈兵団)、33師団(弓兵団)の計10万人を投入。全軍壊滅状態に陥り、司令部は作戦続行に固執したが、31師団の独断退却を契機に同年7月、作戦を中止した。戦闘のほか、飢えやマラリア、赤痢で死者は3万人、戦傷病者は4万5千人に上り、無謀な作戦の代名詞とされる。

111NAME:2014/08/16(土) 16:10:25
「反省」今年も踏襲せず首相式辞
村山氏以降の「反省」、今年も踏襲せず 戦没者追悼式の首相式辞
2014.8.15 19:59
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140815/plc14081519590039-n1.htm

安倍晋三首相は15日の全国戦没者追悼式の式辞で、近年の歴代首相が使用してきたアジア諸国の人々に損害と苦痛を与えたとする「反省」を昨年に続いて踏襲しなかった。一方、新たに平和重視のフレーズを盛り込み、未来志向で世界の恒久平和に貢献する姿勢を訴えた。

首相は、集団的自衛権行使容認の閣議決定に対し「軍拡につながる」などと歪曲(わいきょく)した指摘が多いことを踏まえ、「私たちには変えてはならない道がある。今日はその平和への誓いを新たにする日だ」と平和路線を強調。7月にパプアニューギニアで先の大戦の激戦地を慰霊に訪れたことにも触れ、「いまだふるさとへの帰還を果たされていないご遺骨のことも決して忘れない」と戦没者の遺骨収集に意欲を示した。

首相の式辞をめぐっては平成5年に細川護煕(もりひろ)氏が初めて近隣諸国の犠牲者に「哀悼の意」を表明。6年の村山富市氏以降はアジア諸国への加害責任と「深い反省」にも言及していた。 一方、伊吹文明衆院議長は追悼の辞で、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺で軍事的圧力を強める中国などを念頭に「わが国を取り巻く国際環境も目まぐるしく変化し、力による現状変更の現実は予断を許さない状況だ」と述べた。

112NAME:2014/08/16(土) 20:13:52
インド:旧日本軍の残虐行為、印紙が報道
http://topics.jp.msn.com/world/topics.aspx?topicid=1999

「人肉食」も…旧日本軍のインド人捕虜への残虐行為、印紙報道 その背景とは
2014年8月15日 11:30 (NewSphere(ニュースフィア))
http://topics.jp.msn.com/world/general/article.aspx?articleid=5454416

日本とインドは、長らく友好関係を築いている。しかし、第2次世界大戦当時、インドはイギリスの植民地であり、連合国側に属していた。このインドの軍隊と、枢軸国であった日本とが、戦火を交えたこともあった。このとき、日本軍が捕虜として捉えた、インド軍将兵に対して行った残虐行為を、インドの英字日刊紙『タイムズ・オブ・インディア』が詳しく伝えている。

【日本軍が捕虜としたインド軍将兵に対する非人道的行為】 1942年2月15日、日本は、当時イギリス領だったシンガポールを陥落させた。このとき、英領インド軍(英印軍)の将兵4万人が日本軍の捕虜となった。そのうち約3万人は、イギリス支配に抗しインドの独立を目指すインド国民軍に入隊した。この軍の設立にあたっては、日本軍が中心となって動いた。

 しかし、入隊を拒んだ1万人は、日本軍の強制収容所での拷問を運命づけられた、と『タイムズ・オブ・インディア』は語る。収容所でのインド人捕虜の扱いは、非人道的なものだった。過重な労働、乏しい食料、絶え間ない暴行。そして捕虜が、生きたまま射撃訓練の標的とされることが、何度もあった、と記事は語る。 船で移送される際にも、寝る場所もないほど船室にすし詰めにされ、水や食料を満足に与えられず、目的地にたどり着く前に多くの者が死んだ、と記事は語っている。

【英印軍の将校らによる、日本軍の人肉食の証言】「しかし、日本軍が行ったあらゆる残虐行為の中で、最も戦慄を覚えさせるものは、彼らが人肉食を行ったことである」と記事は伝える。 英印軍のある将校はこのように告発にする。「Suaidという村で、日本軍の軍医が、周期的にインド人捕虜収容所を訪れて、毎回、最も健康な者たちを選び出した。その者たちは、表向きは任務を果たすためということで連れ去られたが、彼らは決して戻ることはなかった」。さらに日本軍は、インド人捕虜ばかりでなく、ニューギニアの現地人さえも殺害し、食していたと主張する。

 他の将校はこのように告発している。「自分と一緒にウェワク(の収容所)に行った300人のうち、50人だけがそこから出ることができた。19人は食べられた。日本人の医師――ツミサ中尉は、3、4人の小部隊を作り、インド人1人を何かの用事で収容所の外に遣わすのだった。日本人たちはすぐさま彼を殺害し、彼の体の肉を食べるのだった。肝臓、臀部の筋肉、大腿部、下肢、腕が切り取られ、調理されるのだった」。

113NAME:2014/08/16(土) 20:17:06
【その他にも証言、証拠があるという】 記事では、これらの告発内容についての裏付けは伝えられていないが、この他にもさまざまな証言があるという。しかもそれらは、連合国が設置した戦争犯罪調査委員会に対する、宣誓証言として行われたと伝えている。その証言に基づき、何人かの日本人将校とその部下が裁判にかけられた。人肉食によって有罪が宣告され、絞首刑に処された将校の名前を、記事は挙げている。訴えられた日本人は、これらの告発を常に否認したそうだ。

 1992年、田中利幸氏という日本人歴史家が、インド人や他の連合国側捕虜に対する、人肉食を含む、日本軍の残虐行為の明白な証拠を発見した、と記事は伝える(氏は現在、広島市立大学広島平和研究所教授)。その証拠がどのようなものかについて、記事は触れていない。氏は、1997年に『隠された惨事――第2次世界大戦における日本人の戦争犯罪』という本を英語で発表した。その本では、日本軍は食料の貯えが次第になくなったときに人肉食という手段に訴えた、という連合国側の下した判決が反論されているという。人肉食は上級将校の監督下で行われ、権力を表象化する手段として認識されていた、との主張だそうだ。

【英印軍の再評価の試みとも】 このように、日本軍が英印軍の捕虜に対して行った残虐行為の数々が、記事では列挙されている。しかし、記事の狙いは、日本軍の非道ぶりを暴くことだけではないようだ。 インドでは、インド国民軍は、イギリスからの独立に寄与した存在として、特別視されている。戦後、イギリスがインド国民軍将兵を裁判で裁こうとしたため、イギリスへの反感が爆発し、独立への機運が一気に高まった。その後、1947年8月15日にインドは独立を果たした。

 反面、英印軍に対する評価は芳しくないようだ。記事によると、インドのナショナリストが第2次世界大戦を語るときには、ずっと、インド国民軍と邪悪な大英帝国の衝突として描かれてきたという。その構図では、英印軍はイギリスの手先の悪役だ。しかし、英印軍将兵が、日本軍の捕虜となり拷問を受けた際にも、忠誠を守り続けたことは、注目に値する勇敢さだと、記事は語る。 記事は、この勇敢さ、不屈の精神を、英印軍だけのものでなく、インド人一般のものとして捉えようとしている。英印軍将兵の示した忠誠心も、実はイギリスに対する忠誠心ではなく、同胞や上官、自分の所属する部隊に対してのものだった。そして、この忠誠心と、インド国民としての強いアイデンティティーとが結び付いて、彼らをあらゆる種類の困難に耐え抜かせていたのかもしれない、と語る。そしてこのアイデンティティーこそが、英国による支配を揺り動かしたのだろうと、英印軍の中にも、独立に寄与するところがあったとほのめかしている。

 この記事を引用するかたちで、国際ビジネスニュースサイト『インターナショナル・ビジネス・タイムズ』(英国版)と、バングラデシュの『デイリー・スター』が取り上げている。前者は、人肉食を中心に、日本軍が行った戦争犯罪の非人道性に着目して、抜粋して伝えている。後者は、ほぼ人肉食のことだけを伝えている。

114NAME:2014/08/18(月) 22:09:34
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-2001.html
ルーズベルト大統領が戦争を欲していた事は疑う余地は無い
当時の米国は、ヨーロッパ戦線においては英国、アジアにおいては中華民国に多大な支援を行っていました。にも関わらず、ヨーロッパ戦線はヒトラー率いるドイツ軍、日中戦争は日本軍が優勢となっていた。ヨーロッパ・アジアともに、米国が支援した勢力が負けるというのは、避けたいところだった

国内の石油資本などからの突き上げもあったと 戦争が起これば、石油や石油関連製品は飛ぶように売れますから

米国は元々、満州の利権を狙っていたということもあります。植民地支配が流行だった当事(笑)、米国はここを植民地支配すべく動いていた。しかし、日本がそこにどっしりと居座っていたため、目障りだった

115NAME:2014/08/18(月) 23:18:28
「日米開戦」はチャーチルが仕組んだ
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/library507.html

ABCD包囲陣に取り囲まれて、石油をはじめとする戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。Aはアメリカ、Bはイギリス(ブリテン)、Cはシナ(チャイナ)、Dはオランダ(ダッチ) 「イギリスを救うためには、この戦争にアメリカを引きずりこむしかない」 だが、当時のアメリカは、とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として参戦したけれども、犠牲ばかり大きくて結局は何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争などごめんだ」という声が国民の間で圧倒的であったからだ。 アメリカが日本と戦争を始めれば、日本と同盟関係にあるドイツはアメリカと自動的に戦うことになる

このときの日本政府の計画では、開戦の30分前にはアメリカ国務省のコーデル・ハル長官に国交断絶の通告を渡すことになっていたようである。実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本の野村(吉三郎)駐米大使、来栖(三郎)特命全権大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである

このとき断交通知が遅れたことについては、戦後長い間「大使館員がタイプライターに不慣れなために予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うのである。  開戦前日(ワシントン時間12月6日)の午前中、外務省は野村大使に向けてパイロット・メッセージ(予告電報)を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にアメリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。

ところが、いったい何を血迷ったのか、この日本大使館の連中は一人残らず、夜になったら引き上げてしまったのである。すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行なわれることになっていたのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。  さて、運命の12月7日(ワシントン時間)、朝9時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これを見た武官が「何か大事な電報ではないのか」と大使館員に連絡したので、ようやく担当者が飛んできたというから

もし彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らかにしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはなかった。

今日では「アメリカ(を支配する層)が、ヨーロッパ戦線にアメリカの戦力を投入する口実として、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいる日本が先に攻撃をするように策謀した」というのが定説 「日本は卑怯だ。叩きつぶせ!」という国民の大合唱を起こすためには、アメリカの日本大使館員が、国交断絶を告げる文字通りの“宣戦布告”文書を、真珠湾攻撃の後に届ける必要があったのです

当時のアメリカ大使館にいた首脳部と、そこに打電させた日本側の中心的な人物がアメリカに操られていたと見るのが正解 そのルーズベルト自身も、終戦時は、既に息絶え絶えとなっている日本に原爆を落とすことをためらったため、おそらく毒を盛られて殺され、代わりにトルーマンが原爆投下の命令を出す大統領の役目を引き受けることになった

116NAME:2014/08/18(月) 23:37:39
http://recollectionsummer.blog72.fc2.com/blog-entry-2001.html
ルーズベルト大統領が戦争を欲していた事は疑う余地は無い
当時の米国は、ヨーロッパ戦線においては英国、アジアにおいては中華民国に多大な支援を行っていました。にも関わらず、ヨーロッパ戦線はヒトラー率いるドイツ軍、日中戦争は日本軍が優勢となっていた。ヨーロッパ・アジアともに、米国が支援した勢力が負けるというのは、避けたいところだった

国内の石油資本などからの突き上げもあったと 戦争が起これば、石油や石油関連製品は飛ぶように売れますから

米国は元々、満州の利権を狙っていたということもあります。植民地支配が流行だった当事(笑)、米国はここを植民地支配すべく動いていた。しかし、日本がそこにどっしりと居座っていたため、目障りだった

117NAME:2014/08/18(月) 23:40:55
通信兵は真っ暗な地下壕で頭上に米軍戦車の轟音を聞きながら、ただひたすら本土からの無線を待った…硫黄島の真実、生還した通信兵の証言(上)
2014.8.14 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140814/wlf14081407000003-n1.htm

「父親たちの星条旗」(2006年)は米軍の視点から、「硫黄島からの手紙」(同)は日本軍の視点から見た硫黄島の戦いをハリウッドの重鎮、クリント・イーストウッド監督が映画化。その苛烈さをスクリーンに甦らせ、現代人に平和と命の尊さを訴えた。「父親−」ではすり鉢山頂上に星条旗を立てた米海兵隊員ら、「硫黄島−」では日本陸軍の栗林忠道中将の人生が描かれる。死傷者の数は日米計約5万人。“画面に写らない登場人物”の中に生還した数少ない日本兵もいる。元通信兵、秋草鶴次さん(87)はその一人。戦闘を振り返って語る秋山さんは時折こらえきれず嗚咽した。死の淵から生還した通信兵の証言を3回シリーズで紹介したい。

行く先も知らずに着任した南洋の前線基地で

 食料も水もない過酷な南洋の孤島での戦いは凄惨さを極めた。日本兵約2万人のうち生存者はわずか4%。「人はどこまで生き延びることができるのだろう。これは自分に与えられた試練だ。自分は今、その耐久試験を受けているのだ。そう思って耐え続けていました」。通信兵、秋草さんは真っ暗な地下壕で、米軍の戦車のキャタピラの轟音を頭上に聞きながら、いつ届くともしれない本土からの無線を待っていた…。

 秋草さんは昭和2年、栃木県生まれ。17年に海軍の横須賀第二海兵団に入隊する。15歳だった。通信兵となるために連日、モールス信号の猛勉強に明け暮れたという。「まさに月・月・火・水・木・金・金。授業は厳しく身体で覚えました」 19年7月28日、秋草さんは通信兵として硫黄島に上陸する。 「実はどこへ着任するのかも、我々兵隊には知らされていませんでした。南洋の島を転々としながら向かった先が硫黄島だったんです。船から島へ上陸したとたん、いきなり米戦闘機からの銃撃を浴びました。いったい何が起こっているのかも分からない状況でした」と秋草さんは振り返る。

日米決戦を賭けた最重要戦略拠点

 第二次世界大戦で劣勢に立たされた日本にとって最後の砦ともいえる太平洋の前線基地が硫黄島だった。米軍との決戦を控え、同年6月、栗林忠道陸軍中将が着任していた。 水がほとんどなく、草木も生えない硫黄島は、名前の通り、地面のあちこちから硫黄ガスが吹き出る猛暑の島。作物が採れないため、水や食料などは持ち込むしかなく、人が暮らすだけでも過酷な環境だったという。 では、なぜこんなところに日本軍は基地を作り、さらに米軍は島を奪還するため、海軍の大艦隊や海兵隊を送り込んだのか。 東京とサイパン島のほぼ中間に位置する硫黄島は日米双方にとって戦略上の重要拠点だった。米軍にとっては日本本土まで爆撃機を飛ばせる中継基地であり、逆に日本にとっては本土空襲を阻止するため絶対に死守すべき場所であった。 島を包囲した米艦隊による艦砲射撃はすさまじく、島の外観が変形するほどだったと伝えられている。軍備に勝る米軍は「島は5日間で陥落できる」と考えていた。

地下要塞のゲリラ戦

 劣勢に立たされた栗林中将が立てた戦略は明確だった。「一日でも長くこの島を守り抜き、その間に日米和平交渉に持ち込む」。裏を返せば、物資も救援もない島で、勝てる見込みのない戦闘を続けるという悲壮な覚悟の末の戦略だった。

 栗林は玉砕を覚悟しながらも持久戦に持ち込む奇策に打って出る。

 750個の地下壕をトンネルで結び迷路のような地下要塞を築き、地下に潜みながら、上陸した米兵に奇襲をかけるゲリラ戦を立てたのだ。そして、部下には「万歳突撃」を禁じた。敵に簡単に命を投げ出すのではなく、できる限り生き延びて島を死守することを徹底して命じたのだ。 海軍の通信員として19年7月、島に上陸した秋草さんは米軍機の空襲を逃れたものの、途方に暮れた。 「島には木も畑もなく、人がいるのかどうかさえも分からない。ここは無人島かと思いました。海軍の基地がどこにあるのかも分からない。道を訪ねようにも人が誰もいないのですから」

 ようやく基地にたどり着いたが、その生活は過酷を極めた。 「食事はカンパン2〜3枚だけ。1週間に1回、ようやく蒸した米をかじれるような食生活でした。食堂もなく、いつも1人で食べていました」 通信室も地下にあり、常に地下壕での生活が続いたという。「暑いので夜は外で寝るのですが、米軍の空襲の度に地下へ戻って寝ました。しかし、床は泥だらけ、それに暑くて、ろくに寝れませんでした」 そして20年2月19日、米海兵隊は硫黄島への上陸を開始する。

118NAME:2014/08/18(月) 23:43:50
すり鉢山の星条旗、翌日日の丸に
爆撃、銃撃、籠城、山頂を奪い合い、毎日「星条旗」倒して「日の丸」を立てた……硫黄島の真実、生還した通信兵の証言(中)
2014.8.18 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140818/wlf14081807000001-n1.htm

日米戦史の中でも最も苛烈な戦いのひとつとして現代まで語り継がれる硫黄島の戦い。日米合わせて計約5万人が死傷。日本兵約2万人のうち96%の兵士が戦死したこの戦いをテーマに、ハリウッドの重鎮、クリント・イーストウッド監督は2本の映画を製作している。 当初は米軍側の視点から描く「父親たちの星条旗」(2006年公開)のみを考えていたが、その準備中、日本側の視点から描く「硫黄島からの手紙」(同)の映画化を決意した。イーストウッド監督は、日米双方の視点から描かなければ伝えられないものがこの戦いにはある−と考えたからだ。

星条旗→日の丸→星条旗…山頂争奪戦に「早晩みんな死んでしまうのに…」

すり鉢山争奪…孤島の日米決戦 双方の視点から

 すり鉢山山頂に星条旗を掲げた米兵士たちは帰国後、米国民にとって英雄として迎えられるが、彼らにとって、その“栄光”は苦痛でしかなかったことが「父親−」では描かれる。 一方、星条旗が立てられる様子を地下壕から双眼鏡で確認し、「ここからが本当の戦争だ」と覚悟する栗林忠道中将ら、地下壕を使ってゲリラ戦を展開する日本兵側の視点から「硫黄島−」は描かれる…。 「星条旗が立てられた翌日、山を見ると日本兵の手で日の丸の旗が立てられていました。しかし、その日のうちに星条旗に変えられていました。が、翌日、山を見ると、また日の丸の旗に変わっていたんです…」 絶望的ともいえるこの戦場から生還した元通信兵、秋草鶴次さん(87)は地下壕の中から、すり鉢山の激しい争奪戦をつぶさに見ていた。 「遠くで、うごめく兵士たちの姿はまるでアリのようでした」。そして絶望の淵で、こんな考えが頭をよぎったという。「遅かれ、早かれ、みんな死んでしまうのだろうに頑張っているなあ…」と。

「電波発信すれば場所を探知されてしまう」

昭和20(1945)年2月19日、米海兵隊、米海軍は硫黄島への上陸を開始する。 この米軍の上陸直前、秋草さんは不思議な光景を目撃していた。「米軍機が上空から何か“白いもの”を撒(ま)いてきたんです。何だろうとよく見たら、殺虫剤のDDTだったんです」

5日で終結のはずが…

 上陸に際し、日本軍から激しい攻撃を受けると覚悟していた米軍は、あっさりと上陸に成功。23日、米兵はすり鉢山山頂に星条旗を立てる。ここまでは、当初、「5日で陥落できる」と目論んでいた米軍の筋書き通りの展開だった。 だが、ここから日米戦史上、最も過酷で凄惨な戦闘のひとつとして語り継がれることになる死闘が始まるのだ。 地下壕に潜む秋草さんたち通信兵にとっては、なおさら辛い戦いだったという。「長い無線を使えないんです。電波を発信すれば敵に場所を探知されてしまいますから」 戦おうにも戦えない。そんな消耗戦のような状況に秋草さんは耐えなければならなかった。

ようやく1機たどりついた特攻の機体は艦砲射撃で…

米軍による攻撃は夜中も休みなく続いたという。「地下壕は暑くて苦しいので、辺りが暗くなる夜に我々は外へ出るのですが、米軍はそれを狙い、地下壕から外へ出たとたん、銃撃してくるのです。真夜中も常に米軍による照明弾が上がっていました」 食料、弾薬、医薬品などの救援物資も届かなかったという。「島に病院はあるにはあったのですが名ばかりで、各隊が持っている包帯や薬などが無くなればそれきりです。補充がないのですから」

島で待った特攻機の最期

 戦闘が続く中、ある日、秋草さんは「日本本土から特攻機8機が硫黄島へ向けて出撃」という無線を傍受する。 しかし途中、「4機が引き返し、3機が行方不明…」という無線を聞く。夜になってようやく島にたどり着いた1機は、米艦隊のサーチライトを浴び、激しい艦砲射撃で被弾。秋草さんは、日の丸の半分が焼け落ちた機体が海面に墜落し、水柱を上げる光景を見て、こう思ったという。 「硫黄島へ向けて出撃した時点で、もう日本へ生きては帰れないことを、あの機体の搭乗員は覚悟していたのです。私があの日見た水柱、あれは人柱だったのです」 米軍が「5日で陥落する」と想定した硫黄島の戦いは、日本軍の粘りで37日間続いた。

119NAME:2014/08/18(月) 23:44:59
【インパール作戦70年(2)】
敗走、血が出る腹を押えていたあいつはどうしただろう、飯さえ食えばおぶれたのに…補給なき戦い、絶望の飢え
2014.8.16 07:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140816/wlf14081607000008-n1.htm

「そりゃ、ひどうおました。命は一つしかないのに、ひたすら突撃だけやった」。祭(まつり)兵団の歩兵60連隊機関銃中隊員としてインパール作戦に臨んだ西川慶三(93)=京都市北区。胸中に、あの戦闘の凄惨(せいさん)さは「行った者にしか分からない」という思いがあり、だからこそ「なんぼ説明しても分からへんやろうし、想像できひんやろう」と口を閉ざしがちだった。

 天長節(昭和天皇の誕生日、4月29日)までにインパールを攻略せよとの命令を受け、西川らもアラカン山系に踏み入った。山を越えても、また次の山が立ちはだかる。馬の背に武器を積んだが、険しすぎて馬が上がれない。結局、人間が荷を担いで山を越えた。 行軍中、敵はすぐに退散し、順調かと思えた。だが、それはインパールに日本軍をおびき寄せる作戦だった。眼下にようやくインパールの街の灯が見えたころ、圧倒的な敵軍が待ち構えていた。兵器の違いは一目瞭然(りょうぜん)だった。 戦車がそり立つように丘陵の傾斜に迫る。「こんなもん、機関銃の弾でどうして止めるねん」。険しい山々を越えてきた日本軍は大砲を持参していなかった。 戦車に肉薄して下部に爆弾を入れ、爆発させてもびくともしない。一瞬止まるが、すぐに進んでくる。敵の猛攻に前進も後退もできないまま、死傷者だけが増えていった。 弾薬が尽きかけ、何度も無線で後方部隊に応援を頼んだが、返事はない。「お前らはそこで死ねというこっちゃ」と感じた。

 そんな中「勝ち目はないが、俺が戦車を食い止める」と中隊長が告げた。無謀だと止めたが、中隊長は重機関銃を撃ち続け、果敢に敵に向かって進み、戦車砲の直撃を受けた。「砂ぼこりが上がって、中隊長を探したけど何もなかった。横から弾を入れていた同年兵も一緒に死にました」

「まだ生きている兵にガソリン、焼かれる…息を潜めてじっと見ていた」

120NAME:2014/08/18(月) 23:46:15
中隊長は陸軍大将の子息で、陸軍幼年学校から士官学校に進んだエリートだった。「死ぬことをいとわないほんまの軍人や」と今でも思う。中隊長が戦死し、西川は「何もかもがいやになった」という。 人間の所業とは思えないようなむごい光景も目にした。西川が退却して川を渡った際、対岸には歩けない負傷者が残されていた。そこに敵の車両が現れ、敵兵が液体をまき、ライターで着火すると、一気に炎に包まれた。液体はガソリンだった。「まだ生きている兵隊さんが焼かれるのを、息を潜めてじっと見ているだけでした」

 敗走する西川らに、雨期が追い打ちをかけた。作戦開始時に水がなかった川は濁流となり、川幅は数百メートルに及んだ。食料はとうに尽き果て、飢えで体力を消耗し、軍刀も重さに耐え切れず半分に折った。 腰に手榴(しゅりゅう)弾を1個つるし、戦闘で負傷した左足を引きずりながらつえにすがって歩いた。道端には多くの兵隊が座り込んだり、倒れたりしていたが、どうにもできなかった。 作戦開始時に渡ったチンドウィン川を渡り終えたところで意識を失った。「血が出る腹を手で押さえていたあいつはどうしたやろうと、今でも思います。飯さえ食えていたら、おぶっていったが…」。70年の時を経ても悔しさが消えない。

第二次大戦での日本の戦没者数は300万人余り。うち8割が、戦況が悪化した昭和19年以降に亡くなったとされる。中国大陸での戦いでは、重機関銃も突撃も有効だったが、米英など連合軍との戦闘では通用しなかった。「兵器が違いすぎて戦(いくさ)にならない。なんでもっと早く戦争をやめると決断しなかったのか」 西川は毎朝、庭に出て、ビルマに向けて経を唱える。年に数回は自転車で約1時間かけて京都・東山の慰霊碑を詣でる。今月15日の終戦の日にも、慰霊碑に手を合わせる。 「みんな、帰りたくて帰りたくて、たまらんはずや」。西川の悲痛なつぶやきに、ビルマ戦線から生還した兵士たちの思いが重なり合っている。


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