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名古屋社会情報

1名古屋:2012/03/05(月) 04:53:48
気になる記事やニュースで語り合う

996名古屋:2012/04/11(水) 21:00:55
シンクロニシティ

●シンクロニシティの隠された意味を知るためには
  私がシンクロニシティを日記の形式で記録し始めたのは1993年のことだった。記録した内容は大きなもの、小さなものといろいろだが、4年を経過した現在改めて計算してみると、月平均で8回もの「意味のある偶然」が起きていることがわかった。月8回ということは、1年間に直せば100回近くになる。きちんと記録をつけていなければ、この大部分を忘れてしまったはずだ。まったく予測していない瞬間に起きるシンクロニシティを記録し集めていくと、これだけの数になるのである。
  日記をあらためて見た私は、正直なところかなり驚かされた。一つひとつの現象の内容をつぶさに見ていくと、たしかに不思議なものばかりだ。不思議ではあるが、特にメッセージ性を強く含んだものばかりではない。これはおそらく、微視的な観点から見ているからだろう。ところが、前後に起きたことを考え合わせると、その現象の意味がはっきりと浮かび上がってくるのだ。
  さらには、シンクロニシティの間にも明らかな関連性が見て取れる。いってみれば、それぞれの現象は細胞のようなもので、それがいくつか集まることによって真のメッセージの意味が明らかになるような気がするのである。シンクロニシティのメカニズムを解く鍵は、ここにあるのかもしれない。一つひとつの現象は、パズルのピースのようなものなのだ。
  テレビの画面に近づいて表面をよく見ると、無数の光の点があるのがわかる。点の明暗や濃淡が微妙に変化することによって、画面の一部分が構成される。画素と呼ばれるこうした点が何千何万と集まって、はじめて意味のある画面ができあがるのだ。しかも画面は、少し離れたところから見ないと何なのかわからない。
  シンクロニシティと人生の関係は、この画素と画面の関係に似ている。意味のある偶然一つひとつが集まってできた人生という画面を、遠くから見てはじめて、その真の意味が明らかになるのである。
  人間の一生には、必ずテーマがある。それに気づこうと気づくまいと、テーマは歴然として存在するのだ。一生におけるテーマが何であるのか。そのヒントを与えるのがシンクロシティという現象なのである。全体像を見ることによって、一つひとつの現象の意味が明らかになるともいえよう。
  これを可能にするのが、日記をつけることだ。日記をつけておけば、短期から中長期にいたるまでの流れを把握することができるので、ある時点における自分の状態とシンクロニシティの関係を探ることもできる。また、文章を読み返すことによって事実のみを思い出すことができる。自分がこの世に存在する、という奇跡を理解し、感謝するための客観性を得ることができるのだ。人生を広い視野から考えれば、それまでの考え方が一変することもあるだろう。価値判断の基準となるのは、自分自身が記録した文章だ。これ以上信頼できるものはない。
  シンクロニシティ日記をつけるのは、あなた自身の“運命の本”を書くことにほかならない。現象によって示された真意を汲み取ることによって、人生という航路を進むにあたっての指針を得ることができるのだ。そして何より大切なのは、日記を通じて自分と自然、自分と創造主の関係を確認することだ。人間はまぎれもなく自然界の一部であり、その自然界を創り上げた創造主とも直接つながっているのである。
  シンクロニシティは、深層心理や無意識を通じて日常に示される奇跡といってもいいだろう。形のない深層心理や無意識が、はっきりとした形で働きかけてくる現象ともいえるかもしれない。一人ひとりの人間は、それぞれが自然界や創造主と深いつながりを持っているからである。われわれは祈りの言葉で神に語りかけるが、神や自然が無意識を通じてわれわれに話しかけてきたとき、それがシンクロニシティという現象になる。
  シンクロニシティによって示されたメッセージを正確に読み取ることは、天啓の導きとより高い目的意識を得ることにつながるだろう。一生を広い視野から考えられるようになった人は、他人を微視的な基準で判断することもなくなる。なぜならば、他の人々も自分と同じように自然の一部であり、それぞれの人生に大きなテーマが隠されていることを実感するからだ。
  こう考えると、神と人間を直接つなげるものがシンクロニシティであるということがいえる。宗教家はそれを神の介在という。また科学者は既存の概念で説明しきれない部分と呼ぶだろう。シンクロニシティを理解することは、われわれが何であるのかを理解することに通じるのだ。自分がどこにいて、どの方向に進むべきなのか――その理由が自然界全体をスケールとして示される現象ということができるだろう。

997名古屋:2012/04/11(水) 21:02:52
魂をめぐる物語


●信頼すること
  「創造主に、自分がほしいと思うものを与えてくれるよう、お願いしなさい……」両親は娘に言いました。「創造主は、必ずそれにこたえてくれるから」
  彼らは、娘がまだ赤ちゃんのころから、そう言いつづけていました。そしていまや、娘は7歳になっていました。
  「私、創造主にお願いしたの」ある朝、娘は言いました。
  「何をお願いしたの?」両親は尋ねました。
  「私の誕生日に、雪を降らせてくださいって」
  そう言って彼女は、クスクスと笑いました。両親は「これは困った」という表情で見つめ合いました。娘の誕生日は7月で、彼らは砂漠に住んでいました。砂漠の7月は、言うまでもなく、寒くはありません。
  2週間後、誕生日に友だちがたくさんやってきて、楽しい時間を過ごし、帰っていきましたが、雪は降りませんでした。しかし、少女はちっとも悲しそうではありませんでした。
  「創造主がこたえてくれなくて、がっかりした?」両親は彼女に、やさしく尋ねました。
  「彼はこたえてくれたわ……」彼女は言いました。「彼は言ったの。そんなことはできないって」
  ある人たちは、創造主を宇宙と呼び、それがどのように機能するかを知っている、と考えています。この少女の両親のようにです。そして、2人同様、いつも落胆しています。
  「人生とは、どうしてこうも、うまくいかないものなのだろう?」彼らがとても得意とする自分への問いかけです。
  「宇宙は私に、何でこんなことをしてくるの?………」彼らは言います。「こんなの不公平じゃない!」
  そのような人たちと、先ほどの少女の違いは、「信頼」にあります。彼女は、宇宙からのあらゆるこたえに満足しています。でも、彼らは違います。彼らは、宇宙とはかくあるべきだという、勝手な考えをもっています。そして、その考えから外れたことが起こると、心を乱します。

●宇宙は心強いパートナー
  インドの伝説のなかで、インドラは天を治める神です。ある日、彼は地を訪ねることに決めました。そして彼は地を訪れたのですが、いつになっても天に戻りませんでした。ほかの神々は心配になり、使者たちを地に送り、彼を捜させました。
  やがて、使者の一人が彼を見つけました。インドラは豚になっていました。
  「インドラ!」その使者は叫びました。「戻ってきてください! 天がバラバラになってしまいます!」
  「戻る?」インドラは驚いて言いました。「そんなこと、できるわけないじゃないか! 私には、面倒を見なくちゃならない雌豚と子豚たちがいるんだから」
  インドラは、自分が誰なのかを忘れていました。その使者は、どうにかして、彼にそれを思い出させなくてはなりませんでした。
  あなたにとって、宇宙は心強いパートナーです。それは、あなた自身にとっていちばん大切なことをあなたが思い出すように、親身になって手助けしてくれます。そのことを信じることが「信頼」です。
  あなたは、自分にとって何が最善であるかを知っている、と考えているかもしれません。でも、宇宙は、あなたが知らないことも知っています。インドラは、自分を豚だと言い張りました。あなたは自分を何だと言い張るのでしょうか?
  宇宙は、あなたに、恐れることや怒ること、悲しむことなどを指南したりは決してしません。それは、インドラを捜しにきた天からの使者のように、常にあなたを、可能な最高の生き方ができるように導こうとしています。「信頼」とは、それを知っていることなのです。

998名古屋:2012/04/11(水) 21:05:10
霊魂の旅


●見えない世界が急激に変化している
  この世はあの世の移し世(映し世)だと言われている。ということは、この世がこれほど急激に変化をしているのだから、あの世(幽界)もすさまじいスピードで変化をしているはずである。
  今まで死後の世界を論じたものはたくさんあるが、つねに動いているものとして捉えたものはない。死後の世界・幽界は、美しく明るいところから暗い地獄界まで変わりない姿で描かれてきた。
  五大宗教が生まれ、五大文明が生まれ、人類は徐々に進歩していったが、科学万能の現代に至ってだんだんあの世(幽界)が変化し始め、現在は幽界の変化の動きが猛烈となって、この影響をわれわれは気づかないうちに受け始めたのである。
  そしてさらに、幽界の動きがこの世の動きよりもすごいスピードで変化し始めたのである。このことを話す前に、一つだけ知っておいてもらいたいことがある。自然のなかに人が生活し、いろいろのものを開発して文明が生まれる。この世は物質の世界である。この物質界に比べて、見えない死後の世界・幽界は物質になりきらない半分だけの物質(これを半物質、または霊物質という)の世界である。霊魂も幽体もオーラなども半物質である。
  わたしたちは、時としてこの半物質を見ることがある。幽霊現象がそれである。幽霊は幽体であって半物質である。この幽体の波長と人の波長が合ったとき、その人は幽霊の姿を見ることができる。
  人には肉体の下に半物質の幽体(霊成型=ひながた)があるように、動物にも植物にも山にも川にも自然にも宇宙にもあらゆるものに、半分物質である幽体(霊成型)がある。つまり、すべてのものは元の形(=霊成型)があり、たとえば、山の幽体がこの世に出てきて山になり、川が干上がってなくなり半物質だけになり幽界に帰り、地上から姿を消したりする。
  地上のすべての物質はいつまでも同じ状態ではない。いのちのあるものはやがて死に、生命がないと思われている鉄などの物質もやがては溶けてしまう。すべてのものは時間の経過のなかでどんどん消滅し、また生まれ変化しているのである。
  さて、今日幽界の動きがこの世の動きよりすごいスピードで変化を始めたと言ったが、それはあの世・幽界がこの世のなかにすごいスピードで現われてくる大変な時代なのである。もう少しくわしく言えば、幽界にあるすべての半物質がわれわれの目に触れる物質に変化をしながら現われてくるということである。

●近い将来、この世とあの世(幽界)が一つになる
  半物質であるあの世(幽界)がこの世のなかに物質となって現われてくる恐ろしいときが、今いよいよ迫りつつあると先に述べたが、この現象がはっきりとした形で始まり出してから20数年経っている。この頃からまず異常気象が多くなり、天候を初めとする自然に変化が見られ出した。
  いろいろ注意して見てみると、社会的にも大きな変化が見られ出している。原因不明の病気、少年から幼年へと移っていく犯罪の若年化、すべてに対する価値観の変化などあらゆるものが、異常ともいえる急変化のなかに揺れはじめたのである。現代人はいろいろの見方をするが、これはあの世(幽界)がこの世と一つになるために、物質化し始めた前兆なのである。われわれの研究によれば、あの世(幽界)から移し世であるこの世に伝わってくる変化は、約40年と推察される。
  あの世(幽界)の半物質がこの世に向かって物質化し始めたため、あの世の相当暗い部分から明るい部分にかけて、想像を絶するすさまじい熱と冷気の大嵐が吹き荒れ、死後の世界にいるすべての霊魂は、その影響を受け大混乱の様相を呈しているのだ。
  われわれがこの幽界のすべてが物質となろうとしている大変化を見るとすれば、それは山は裂け、海は空から降る想像を絶した大天変地異の身の毛もよだつ光景を見ることになるだろう。
  しかし、それは半物質界である幽界が物質になってゆくために必要な光景なのである。こうして幽界が物質となってこの世に現れるとき、この世はすさまじい光景を呈しながらあの世(幽界)と、完全に一つになるのである。
  人類の滅亡を説く者、暗い未来への大予言などなど、巷(ちまた)にその声は広がっているが、それは人類の滅亡でもなければすべての終わりでもなく、用意されたプログラムの新しいページに進む一つの大きな節目なのである。

999名古屋:2012/04/11(水) 21:11:12
成功をつかむ驚異の七大法則


●想念がすべてを逆転する
  賢明なる読者は、これまでの私の説明で、おぽろげながらもわれわれの住む物質の世界が架空の現象の世界にすぎない、ということがおわかりいただけたと思う。そこで新たに疑問がひとつ生じてくる。それは――この世が単なる現象の世界であり、運命の原型がすべて四次元の実在の世界にあるとしたら、われわれ人間はあくまでも受け身であり、四次元から投影される運命(不幸)は100%甘受しなければならず、したがって人間の運命は絶対に変えられないことになってしまうではないか――ということである。
  たしかに理屈の上ではそういうことになるかも知れないが、実際には、われわれの運命は、われわれの自由意志によって100%変えることができるのだ。というのは、四次元の実在の世界とは、いうなれば心の世界であり、ゆえに肉体は無理でも心だけは自由に出入りすることができるからだ。したがって、心の法則を利用して四次元の運命の原型を変えてしまえば、そこで三次元に映し出される運命もガラリと変わってしまうのである。
  このことについては、心の力のエキスパートでもある谷口雅春氏も、次のようにズバリ述べられている。(「生命の実相」日本教文社)

  「この『念の世界』でできあがるという事件は、すでに永劫の昔からできあがっていて、もうちょっとも変えることができないものであるかといいますと、決してそうではないのであります。『念の世界』でできあがる事件も、宇宙に満ちているいろいろの生物の心の働きの組み合わせにしたがって、時々刻々作られてゆくのであります。大きなあらすじの事件は、多くの『念』の働きを成立要素としてこまかい事件よりも早く、いわばむしろ、多数の『念』の多数決で決まってゆくのでありますが、それとて『進行中』のものであって、できあがってしまったものではありませんから、ある事件を起こしている『念の要素』の変化によって、またその事件は変わってゆくのであります。ここにわれわれの運命を支配しうる自由があるのであります」

  要するに、こういうことである。たとえばあなたがどこかの映画館に入ったとする。そこでは大変悲しい映像が映し出されていた。あまりの悲しさに、あなたはしだいに憂うつになり、そこで今度はあなたは、明るく楽しい映像を観たいと思った。その場合、スクリーンをどのように変えようと、そこに映し出される映像はけっして変わるものではない。映像を変えるためには、まず映写室に行くことだ。そして映写機のフィルムを、暗く悲しいものから明るく楽しいものに取り換えてしまうことだ。そうすればあとは自動的にスクリーンの絵は暗から明に変わることは自明の理である。
  これとまったく同じ理屈で、三次元の運命を変えるには、いま言ったように想念法を駆使して四次元の運命のパターンを変えてしまえばよいのだ。
  アメリカのニューソートの宗教家でトーマス・トロワードという人は、「四次元の宇宙は、人間の念願や希望など強くイメージされたものを受け取り、それを具体化して三次元の現象の世界へ具現する力をもっている」と述べている。これは取りも直さず、想念によって運命の原型が変わる、ということであり、事実この心の力をうまく活用するならば、あなたの人生はあなたの思い通りに展開することもけっして夢ではないのである。
  その心の力の具体的な活用法について、ここで簡単に紹介しておこう。
  たとえば、あなたが今なにかの商売をはじめたとして、その商売を将来はぜひとも繁盛させたいと思っていたとする。その場合、あなたは、まずはじめに「この商売は絶対に繁盛する! 必ず繁盛させてみせる!」と毎日自分で自分にいい聞かせ、それを信念にまで高めていくことが肝要だ。そして、実際に商売が大繁盛しているかのごとく、いかにも元気に振る舞って毎日を過ごしていくのである。
  そのためには、たとえ商売が低迷していたとしても、けっして落胆することなく、つねに商売繁盛の状態を装って「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」を心の中で繰り返し唱えていくことだ。そのあなたの装いがやがて宇宙に感応し、四次元の運命の原型を新たにつくり変え、いずれあなたの事業は軌道に乗ることになるのである。むろん、そうなるためには、この想念とともに、現実的な努力も必要なことはあらためていうまでもないだろう。

1000名古屋:2012/04/11(水) 21:12:34
生きがいの創造


●想念と気
  昔から「丑の時(刻)参り」といって、夜中の2時ごろ、人々が寝しずまったときに、お宮などに参って、憎いと思う人のわら人形を作るか絵図を描いて、それを樹などに釘づけにして、眼なら眼、鼻なら鼻を、向こうの人間だと思ってうち込む。そうすると、それが、相手に応える。これは非常にいけないことだが、昔はよくやったものである。
  どうしてそれがきくか。わら人形や絵図をたたいたり切ったりしたところで何の影響もないではないかという人もあるが、それは「気」というもの、想念というもの、その気から出る波というもの、エネルギー、気から出る一種の電気、その働きを知らない人のいうことである。憎いと思って打ちこむその気は、強い電気の波となって、ほんとうに相手に伝わっていくから、相手はその影響を受けるのである。その人が病気になるとか、原因のわからない故障が起きるとかいうことがあるのである。
  しかしこれは「人を呪わば穴二つ」といって、自分も墓場にいかなければならない。人を殺そうと思えば、まず自分の穴を掘っておけと昔からいうのである。
  とにかく人の想念は怖ろしいものであって、実際は知らず知らずにこの想念というものが世の中を乱しており、よくしており、いろいろと根本的な影響を与えているものであるということを知らなければならない。
  お互いの家庭においても、家庭の人々の想念というものが浄らかであり、親しみぶかく、真実があれば、なんとなしにそこには輝きがあり、愉快があり、幸福がある。
  それに比して想念というものに憎しみがあり、嫌味があり、不親切であれば、そういう気持ちが、しじゅう波となって流れ出ており、その波と波とが衝突して向こうの体にぶつかる。それがなんとなしに感じるもので、このなんとなしに感じるのが怖ろしいのである。だから、世の中をよくしようと思えば、想念を浄らかにしなければならない。
  気がはいる、ということを俗にいうが、これは事実である。
  おなじ食物でも、心をこめた料理はなんとなしに食べたくなる。ところがけんかしながら、あるいは、いやいや料理した食物はまずい。料理人でも最後は腕の冴えではない。そのときの気持ちである。
  人間の気持ちというものはすべてへ流れ込むものである。すべてに作用するものである。確実にものを動かすものは気持ちであり、気である。刀には打つ人の気がこもる。よい気がこもっているならば、天地のよい気を吸い込む。人間でも類をもって集まる。「同気相もとめる」といって、同じような者がなんとはなしに集まってくるものである。
  犬でも猫でもそうである。馬は気の合う同士は、顔を合わせてなつかしそうにする。俗に「うまが合う」というが、馬というものは、仲がよかったらそばへきて顔を突き合わしている。うまが合わないと、尻でどっちも蹴り合いをしている。
  物はすべて霊気によって造られ、霊気を受けて性(さが)をなしている。人間同士の間においても、たがいに霊流は通じているので、甲の心は乙の心、乙の心は丙の心となるのが自然のなりゆきである。
  自分の代わりに他人がしていることがある。他人の代わりに、その霊流に感じて、知らずしらず、自分が行為にあらわしている場合もあるものである。だから、ひとりが嬉しければ、その周囲はみな嬉しく、ひとりが悲しければ、その周囲もみな悲しいということになる。
  昔から同気相求むとか、類をもって集まるとかいって、心に毒気をいだけば必ず邪気がこれに応じてきたり、心が清明で誠であれば、かならず神気がここにあつまるのは理の当然である。
  心中に邪念を生じれば、その頭上に一種の黒気が立ちあらわれ、邪気はこれを望んで自然にそこに引きつけられるのであり、心中に喜悦の情があれば、その身辺に一種の光輝があり、陽気善霊は自然にそこに集まって来るのである。
  鬼を出そうと仏を生もうと、それはその人の心の持ち方一つであって、本来この世にきまった敵というものもなければ、また味方というものもなく、自分の心一つで敵も味方もつくりだしているのである。あいつは憎いとしじゅう思っておれば、その心は、相手が意識するとしないとにかかわらず通じずにはおらないので、ますます両人の間に溝ができ、いわゆる仇敵の間柄となってゆくのである。
  心の働きというものは、このように恐るべきものであるから、われわれはあくまでも心をおだやかに愉快に持って、二六時中、周囲の人々へ美しいはなやかな電波のオーケストラを放送して、人生をより幸福にし合うように努めなければならないのである。




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