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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第8部

1正樹 ◆6z10n91cnw:2009/07/29(水) 22:30:19
 
「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第8部
 
 法律や政策は、科学ではない。単なる決め事である。一旦決められてしまったら、
少なくとも十年は変えることができない物ではない。いつでも変えることができる。
 
〓〓〓〓〓
 
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第1部
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1208692176/
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1208692176/l50

「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第2部
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1221570330/
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1221570330/l50
 
「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第3部
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1227007639/
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1227007639/l50
 
「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第4部
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1230810755/
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1230810755/l50
 
「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第5部
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1234620029/
 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/4312/1234620029/l50

41正樹 ◆6z10n91cnw:2009/10/26(月) 21:38:39
 
>>40
 
 もしも戦史としてやれば、回避することができるのでは!?
 
 『日本の歴史13−江戸開府』
 (中央公論社:辻達也)
 −330頁〜338頁−
 大名の取り潰し
 (第1因は、「関ヶ原の戦い」や「大坂の役」のように戦争に負けた場合で
あり、第2因は跡継ぎがいない場合である)
 お家騒動
 大名廃絶の第3因は、幕府の咎(とが)めを受けて処分される場合である。
今日のように法律がはっきりしているわけではなく、例えば武家諸法度なども
解釈は様々(さまざま)にできるものであるから、どういうことを咎(とが)めるか、
どういう処分にするかは、時の当局者の気持ち一つに掛かっているわけである。
 大名が処分された理由は、様々(さまざま)であるが、それの中で、まず
注目されることは、家中の紛争を幕府が咎(とが)めたことである。藩主と
重臣、或(ある)いは重臣同士の争いが表面化し、これを幕府が裁いて、大名を
取り潰した例はかなり多い。つまり家中を纏(まと)めることさえできないの
では、領内の統治を行なうことはできない。従って藩としての責任を果たし得ない
と言う理由で潰すのである。
 慶長15年(1610年)堀忠俊(ほりただとし)(越後福島45万石)、
元和4年(1618年)村上義明(越後村上9万石)、関一政(せきかずまさ)
(伯耆(ほうき)黒坂5万石)、同年最上義俊(出羽山形57万石)、寛永17年
(1640年)池田輝澄(播磨山崎6万8千石)、生駒高俊(いこまたかとし)
(讃岐高松17万1千石)、同20年加藤明成(あきなり)(会津42万石)、
慶安元年(1648年)古田重恒(石見浜田5万5千石)などがそういう理由で
潰されている。それの中に堀・生駒・加藤と言うことでの大きな大名が入っている
ことが特に目を引く。

42正樹 ◆6z10n91cnw:2009/10/26(月) 22:09:25
 
>>41の続き
 
 『日本の歴史13−江戸開府』
 (中央公論社:辻達也)
 −338頁〜339頁−
 家中の内紛が幕府の藩政への干渉、大藩の抑制の好餌となっている感はあるが、
幕府は必ずしも常に家中の治(おさ)まらない大名を潰したり、減封したとは
限らない。
 寛永9年(1632年)の頃に、筑前福岡の黒田藩で、藩主・黒田忠之(ただゆき)と
家老・栗山大膳(くりやまたいぜん)との争いが起こり、大膳は幕府に、忠之が
謀反の意図ありと訴え出た。翌10年3月に、将軍・家光が直々(じきじき)に
裁いた結果で、忠之の叛意は否認され、栗山大膳は南部に流された。これが
所謂(いわゆる)黒田騒動である。
 たとい叛意は虚偽の申し立てであるにしても、藩主と家老との争いであり、
しかも黒田忠之は短期者で、藩主としての能力に欠けていたとの評もあるほど
だったので、取り潰そうと思えば、十分にそれの理由があったはすである。
 一説によると、家光が忠之を訊問し、栗山大膳と対決させようとしたときに、
忠之はこれを拒否し、「事の真否は暫(しばら)くおき、主君である自分が
家臣と対決することは君臣の道に外れるから、もしもどうしても対決せよと
言われるのなら、自分に切腹を仰せ付けて欲しい」と言ったので、家光がこれに
感服したのだと言う。また一説には、家光が忠之を評して「彼は愚か者である。
愚か者の所領を没収することはかわいそうだから許してやる」と諸大名に申し
渡したとも言う。
 将軍の命じた対決を拒否したのだからこれを咎めることもできるし、愚か者
だから所領を没収すると言う理由も成り立つから、この両説とも我々を十分に
納得させるものではない。要するに、黒田騒動判決の真相は分からない。
 これの一年前の寛永9年7月に蒲生忠知の家の紛争の裁判があった。この
事件は忠知が家老の中で蒲生源左衛門にのみ政治を任せるので、家老の福西
吉左衛門・関十兵衛が反感を持ち、家中に紛争が起こり、遂に幕府に訴え出た
ものである。これに対し幕府は、福西・関を重く罰し、蒲生忠知を咎めなかった。
黒田騒動と似た判決で、藩主には構(かま)いなく、これを訴えた家老を罰した
のである。
 徳川家康が忠秀に諭(さと)した言葉として「裁判では理非を正すことが
肝要であるが、理非よりは政治に支障がないように計らうことが大切だ」と
言ったと伝えられる。また家康はあるときに奉行たちと話をしていたおりに、
「裁判は勝たせたい方に勝たせることが良い」と語ったと言う。幕府の大名
家中の内紛の裁き方には、まさに政治の支障を除くことでの、勝たせたい方に
勝たせると言う原則が伺(うかが)われる。


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