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「日の丸・君が代」について

1桐鳳柳雨:2008/03/10(月) 03:03:03
この件についての私自身のスタンスです。

・国歌・国旗は必要だと考える。ただそれは、「オリンピックでメダルを取った時や世界タイトルマッチの時に困るだろう」程度の理由によるものである。

・国歌・国旗は、個人的に愛着を持っていることもあり、日の丸・君が代が良いと思う。というよりも、それに取って代わるような歌詞・メロディ・デザインなどが思い浮かばない。

・とりあえず現時点では、有権者の投票で当選した人が決めたことでもあるし、公教育の式典で国歌斉唱・国旗掲揚を行うのはよいと思う。

・そうした価値観に反対という教員は式典に参加しなければよい。またそれを、学校・及び教育委員会等も認めるべきだ。
 
・日の丸・君が代否定論者の価値観に反対するつもりはない。ただし、否定論者には、「ならば国歌・国旗はどうするのか。不要なのか、或いはどのようにして決めるのか」ということについても提案する義務を伴うものと考える。ただし、難しい提案である必要はない。

・何にしても、強制するのも、されるのも、嫌だ。

2raptnudy:2008/03/21(金) 15:21:28
何故、教職員が式典で反対の立場を表明するのかが分からない。
テレビの報道でしかそういう姿を見てないので全体像が見えてないだけかもしれないが、
あのような姿を生徒たちに見せる事での影響を考えないのだろうか?

そもそも何故反対するのだろう?

3桐鳳柳雨:2008/03/23(日) 13:57:22
反対論者の理由には大きく分けて、
・日の丸・君が代そのものに反対
・強制されることに反対
という2通りあるものと思います。

私は、「反対したい」という人の気持ちは理解できますが、「強制されることに反対」という人が、「強制されることに反対という価値観を他者に強制する」のはいかがなものかと考えます。

また、raptnudyさんがおっしゃるように、式典でそうした意思表示をすることもどうなのでしょう。

私は特段、国歌斉唱・国旗掲揚信奉者というわけでも反対論者でもありませんが、自分が出席している式典などで進行を妨害する人がいたとしたら、「他でやってくれよ。終わらねえじゃねえか」と感じることと思います。

反対論者は、式典進行を妨げることなく、違う手段・機会にて自説をアピールすることはできないのでしょうか。
それでは結局、国歌斉唱・国旗掲揚を強制する人がやっていることと、何ら変わらないような気がします。

また、国歌斉唱・国旗掲揚を強制する人は、有権者によって選挙されたということも、忘れてはいけない視点ではないでしょうか。

4raptnudy:2008/03/24(月) 17:00:19
なぜ、日の丸・君が代そのものに反対するのか?というのがやはりよく分かりません。
日の丸を掲げる事で戦争を連想するのでしょうか?
君が代を歌う事で忠誠心が働くのでしょうか?

自分は過去の式典でそういう連想はまったく働かなかったし、
めんどくさがりながらもボソボソと歌ってましたが、何も感じなかったし人生に影響も及ぼさなかった。

君が代を歌う行為にもっと隠された「何か」があるのでしょうか?
サブリミナル並みに潜在意識に何かをすり込まれてるのでしょうか?
それが10年後、20年後、30年後に突然発生するのでしょうか?

とファンタジーな事を想像してしまうくらい、まったく分からないんです。

5桐鳳柳雨:2008/03/25(火) 12:31:44
なぜ、日の丸・君が代に反対なのか…。

もし、それらしい理由を書けと言われたとしたならば、書けなくもないような気はします。

しかし、私自身、特に「君が代・日の丸反対論者」というわけではありません。
ですので、たとえ書けたとしても、それはしょせん「借り物」の言葉でしかないでしょう。

ここは、反対論者の方の意見を待ちたいところですね。
とは言っても私自身は、そのことについて議論を深めようとは思っておりませんが…。

6ロートル:2008/03/29(土) 15:24:58
歌詞には確かに問題はあります。当方も子供の時は意味も分らずに厳かな曲調に尋常でない気分に浸っていました。
ことは単純です。嫌なものはイヤでよいのでは?
唱歌というものは心の癒しを旨とするものです。
一部にであろうと、それと逆作用をもたらすならば本末転倒です。
規則・命令や強制を伴う性格の教育オブジェクトとして「君が代」は不適格でしょう。
論が分かれる抽象的なイデアを画一的な行動で統制しては、思想心情の自由を侵す意味で、基本的人権の侵害になるのは明白です。
全国民に馴染める国歌が生まれるまでは、一斉歌唱は慎むべきでしょう。

7がい:2008/04/01(火) 14:16:18
私は基本的に現状肯定派です。「君が代」は日本固有の雅楽でよいと思うし、「日の丸」は軍国主義の象徴だから嫌だとか言う人がいるが、多くの国の国旗は血塗られた歴史を背負ってきているのではないかと思うので、日本も同様だと思います。
規則・命令や強制を伴う性格のものは基本的人権の侵害になるからだめとの意見がありますが、そもそも親の子供に対しるしつけや学校教育に強制がないものはないと思います。故に、しつけは別としても教育とはその時代の為政者の思想、信条が反映されるものではないでしょうか。また、強制がだめなどということになれば、その未来は無政府・無秩序状態に陥るように思いますが。

8ロートル:2008/04/01(火) 22:10:09
教育が為政者の思想を反映してはなりません。教育の基本は普遍性を求めて科学的に進めるべきであり、よもや生き方やや価値観・・といった、個々人の精神性まで立ち入ることは所謂人権の問題に拘わることです。
法や規則による強制は、一定の社会生活上の秩序を保つ上で必要ですが、件の「君が代・日の丸」をもって個々人の行動形式を規定することに秩序を求めるのは、安定した民生を担保する最低条件を悦脱した偏った(専制的な)思想といえます。
そういった強制が無くても無政府・無秩序に陥るほど、わが国の民主制度は脆弱では無いと確信してますが・・・、やはり不安でしょうか?。

9がい:2008/04/02(水) 00:28:51
教育が為政者の思想を反映してはなりません。は理想です。韓国の金大中、ノムヒョン政権下で反日教育がなされたとのが最近の良い例だと思います。日本の民主主義は棚ぼた民主主義ですから命をかけて奪い取ったものではないので脆弱なものともいます。教育は普遍的なものではないと知っていることは重要であると思います。最近の未成年者が起こす事件を見ればすでに無秩序状態になっているように思います。

10独人:2009/07/06(月) 22:49:41
「桐鳳柳雨」さん、初めまして。あなたのメルマガ【世界の新聞「101紙」の視点】を愛読する「独人」と申す者です。各社の社説の概略を知ることができ、大変重宝しております。お礼申し上げます。

この掲示板には、メルマガで「議論を目的の掲示板を立ち上げた」とのご紹介のようなので、興味を持ち立ち寄ってみました。議論にはほど遠い投稿が多いようですが、管理者として議論できるスレッドを立ち上げたいとの思いで出されたと思われるこの話題で、小生の意見反論を述べたいと思いますので、よろしくお願いします。

まず、スレッドタイトルの『「日の丸・君が代」について』ですが、あなたの投稿内容からすると、「式典における日の丸・君が代について」と言った方が議題を正確に表すかと思います。何を議題にしたいのか、何を論点にしたいのか、明示すべきはスレッドの立ち上げ者の責任と思います。

本題に入りますが、国旗・国歌の必要性をオリンピックや世界大会程度のレベルで考えているのは、稚拙ですね。外国船が日本の港にはいる時、日の丸を掲げることを知っていますか。

それは兎も角、公教育の式典で国歌斉唱・国旗掲揚を行うのは「有権者の投票で当選した人が決めたこと」で行っているのではありません。歴史・伝統のある国際的常識や式典儀礼の作法として行っているのです。国旗・国歌について指導要領で定めている内容は、世界的には「常識」です。ちなみに、米国では地域にもよりますが、小学校で毎朝生徒が国旗掲揚をしています。

また、教員が学校の式典での指導要領に従わないのは、学校行事に意図的に参加しないことも含めて、「業務放棄」または「業務命令違反」であり「サボタージュ」です。一般の会社では懲罰の対象です。教育委員会が、そのような教師を認めるのは、規律を守らない者を認めることとなり、明らかに反社会的行為です。

日本では、思想も言論も自由です。ですから、「日本国を否定する言論」も「日の丸・君が代を否定する」思想・言論の自由があります。しかし、伝統的慣例として執り行われる式典・儀礼の作法を否定し妨害するのは、「非常識」なのです。例えて言うなら、子供に「朝はおはようの挨拶をしましょう。」、「老人を大切にしましょう。」との教えを、「法律に無いからやる必要はない」と主張し子供に教え込もうとしているようなものです。

式典・儀礼の作法は「強制」ではなく、式典・儀礼の意義の「体現」であり、社会的作法の教育でもあります。「強制するのも、されるのも、嫌だ」とのことですが、本人が嫌なことでも必要があれば強制するのが「教育」です。人間は、人間に育てられ教育されて人間になるのです。「オオカミ少女」の例を知りませんかね、今の若い人は。

あなたの今の思想を形作ったのは、誰なのでしょうか。または、何なのでしょうか。生まれつき、「国歌・国旗は必要だと考える。」とか、「強制するのも、されるのも、嫌だ」との考えを持ったわけではないでしょう。

反論、ご返答を期待しております。

11桐鳳柳雨:2009/07/07(火) 18:21:18
このスレッドを立ち上げた経緯としましては…。

日の丸・君が代『反対論者』の方からのメールが、多数寄せられた時期がありました。
卒業式で強制云々…という話題が物議を醸していた時ですね。

これは、そうした反対論者の方々に向け、書いたものです。

言ってみれば、元々の「議題」「論点」は、反対論者の方々からの主張ということになりましょうか。
「反対という方は、私のこの考え方をどう思いますか?」といったところです。

ちなみに、「オリンピック云々」の箇所は、(私が「その程度」と思っている部分もありますが、)
『オリンピックなどの時、国歌・国旗はどうすればいいと考えているのですか?』
「有権者の投票で当選した人が決めたこと」の箇所は、
『民主主義の否定にはなりませんか?』
という、反対論者への素朴な疑問ということです。


また、「議論を目的の掲示板を立ち上げた」という点につきましては、弊誌【メールのご紹介】コーナーにおける際限のない反論メールに対して、「議論を望む方はこちらでどうぞ」という目的で設置したものです。

私自身、「多様な価値観、大いにあり」と思っておりますので、議論することは好きではありません。

私自身が議論をしたいというよりも、反論メールが特に多く寄せられる「国歌・国旗」「沖縄集団自決」などのテーマをあらかじめ私のほうから提示し、「さあ、どうぞ」とお膳立てをしたというところでしょうか。


このあたり、当時のメルマガには書いたのですが、当コーナー設置間もないころには、
「そうした経緯が、時を経ることによりわからなくなってしまう」
ということに思い至っておりませんでした。

【働きたいとき働く働き方】スレッドのように、
「反対論者の方々からのメールを受けて…」
など、前置きが必要だったと思います。


当時、賛成・反対それぞれの立場の方々から、多くのご意見が寄せられました。
その中には、独人様のご主張に近いものも、あったかと思います。

もしも、当時の経緯をお知りになりたいということでありましたら、当スレッドを立ち上げた「2008年1〜3月頃」の弊誌バックナンバーをご覧下さい。この話題について、数回にわたり読者の方々からのメールや、私の見解が掲載されているものと思います。


いずれにしましても、独人様のご高説には何ら反論はございません。
私などのレベルでは、何も申し上げることはできません。

そのご見識を、ぜひとも世の中のため、広くお役立ていただけたらと思います。

12独人:2009/07/07(火) 23:06:01
「桐鳳柳雨」さん、こんばんは、「独人」です。>>11の投稿は、明確ではありませんが内容からすると、小生の>>10の投稿の返答と思われますので、ご返答申し上げます。

 まず、「桐鳳柳雨」さんはこのスレッドの立ち上げで、「この件についての私自身のスタンスです。」と明確にした上で、6つの意見を箇条書きで述べています。誰に向けられた意見は兎も角、「桐鳳柳雨」さんの意見だと解釈できます。小生はこの「桐鳳柳雨」さんの意見に対し、二つの項目を除き他については否定の意見>>10で述べました。
 それに対する、「桐鳳柳雨」さんの>>11での回答は、「独人様のご高説には何ら反論はございません。」とのこと。つまり、「桐鳳柳雨」さんは、自分の意見が間違っていた、または稚拙だったと、以下のことを認めることとなります。
・「国歌・国旗は必要だが、それはオリンピックでメダルを取った時や世界タイトルマッチの時に困るだろう程度の理由によるものである。」との考えは稚拙だ。
・公教育の式典で国歌斉唱・国旗掲揚を行うのは、「有権者の投票で当選した人が決めたこと」で行っているのではなく、歴史・伝統のある国際的常識や式典儀礼の作法として行っている。
・「日の丸・君が代」に反対の教員は明らかに反社会的行為であり、学校・及び教育委員会等は認めるべきではない。
・伝統的慣例として執り行われる式典・儀礼の作法を否定し妨害するのは、「非常識」。
・本人が嫌なことでも、必要があれば強制するのが「教育」だ。

「桐鳳柳雨」さん、掲示板ではその書き込みの内容がすべてです。そのスレッドの内容がすべてなのです。反論された後から、「こんなつもりは無かった。」とか、スレッドに紹介されても居ない「経緯はここにあります。」とか、後付で「こんなつもりで書きました。」の言い訳が通用するのであれば、まじめな投稿をされる方に対して「無責任」であり「無礼」です。「桐鳳柳雨」さんが出鱈目な人と見られますよ。

 また、最後の「そのご見識を、ぜひとも世の中のため、広くお役立ていただけたらと思います。」は、明らかに「上から目線」ですよ。何ら反論できなくて、せめてもの自尊心から出た言葉として、今回は大目に見てあげます。

 今回の投稿で、「桐鳳柳雨」さんのこの掲示板に対する程度がよく分かりました。もう小生から投稿することはありませんので、ご安心ください。

 さようなら。

13桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:07:43
コメントいただき、ありがとうございます。

一応、掲示板設置に至るまでの、メルマガ誌上でのやりとりを数回に分けて転載致しました。
よろしければ、ご覧下さい。

また、他の方々からの書き込みも、お待ちしております。


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(桐鳳)

まず、生徒を巻き込まないようにしてほしいということ。

たとえ日の丸・君が代を強制されることに反対という考え方の教員がいらした
としても、それを式典に持ち込まないようにはできないものだろうか。

例えば、どうしても受け入れられないという教員は、式典をボイコットするとか。
そして、そうしたアピールをしたいのならば、式典の場とはまた違う場所・
方法で主張するとか。

もう一つは、日の丸・君が代に反対という人は、国旗・国歌をどのようにすれ
ばよいと考えるのかということ。

単に「様々な歴史を背負っているから反対」というだけではなく、ならばどう
すればよいと言うのか。

そもそもそうしたものは不要なのか。
新しい国旗・国歌を制定するのか。
決めるとしたら、どのように決めるのか。
…など。

もし、「日の丸・君が代でいいけど、強制がイヤだ」というなら、そうした場に
参加しなければよいことだろう。

反対論者からは、そうした意見も聞きたく思う。

14桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:08:47
(SUさんからのコメント)

産経新聞の熱狂的フアンの多いこのサイトに投稿するのは少々、不安を覚え
ますが、桐鳳柳雨さんが、
「もし、『日の丸・君が代でいいけど、強制がイヤだ』というなら、そうした
場に参加しなければよいことだろう。反対論者からは、そうした意見も聞きた
く思う」とありましたので投稿することにしました。

 小生の友人に東京都の学校に勤務する教師がいます。その人に、『日本人なら
なぜ国旗・国歌を尊重しないのか」と尋ねたことがあります。
その人は「どの国の国旗・国歌であれ強制されて生まれる愛国心は、ニセモノ
でしかない」
と答えていました。
 桐鳳さんは「そうした場に参加しなければよいことだろう」とのことですが、
その友人によると、休暇も取れないどころか、自分の座る席まで指定され、
教育委員会の役人が背後から監視しているとのことです。

 桐鳳さんは東京都にお住まいのようですが、都民として「都歌」を知ってい
ますか、歌えますか?もし歌えないのであれば「それでもお前は都民か!」「非
都(国)民!」とレッテルを貼られ、ムリヤリ拝まされ、歌わされて平気でい
られますか?
 おそらく、石原都知事も歌えないでしょう。「それでも都知事か!」というほ
ど愚かではありませんが・・・。
 
 母校愛や郷土愛などは、そこで生まれ、育まれてきたものであれば、よほど
イヤな体験(例えば、「お国のための戦争の犠牲」)がなければ、自ずと誰もが
もっている自然の感情ではないでしょうか。愛国心も強制されて生まれるもの
ではないでしょう。

 為政者がそれを強制するのは、別な政治的野心があるからです。つまり、政
治権権力の強化のため、敵対物を作り上げ、あおり求心力を維持しようとする
のです。金正日は日米の脅威をあおり、ブッシュはイラクの大量破壊兵器所有
をデッチ挙げ、星条旗を振りかざして米兵と多くのイラクの民衆を死地に追い
やってきたのではありませんか。アメリカ国民もやっとそのおかしさに気づき
始めてきています。
 
 歌や旗は、権力者が民衆を情緒的に支配するための格好の装置(M.ウェーバ
ー)となりうるし、なってきたのです。そのことは、歌を歌うな、旗を振るな
ということではなく、背後にある意図に、民衆は絶えず警戒心を持とうと言う
ことです。

 桐鳳さんの朝日と産経紙の社説紹介は、うまくまとまられていますが、朝日
の論点の大切な部分が抜け落ちています。以下の文です。
「東京地裁の別の裁判長が06年、都教委の通達や指導を違憲と判断した。
その当否は別として、裁判官によっても分かれているほど判断が難しい問題を、
教育の場で一方的に押しつけるのは好ましくない」。

 蛇足ですが、6300万以上のアクセスがある「きっこ」というブログに、以下
の書き込みがありました。(真偽のほどは分かりませんが)

 「1年くらい前に「喜八ログ」さんも取り上げてるけど、『ご臨終メディア』
(集英社新書)に収録されてる作家の森巣博氏と映画監督の森達也氏の対談の
抜粋だ。
 森巣 「話は少し変わるのですが、日の丸・君が代に最も熱心な人の一人は
明らかに石原慎太郎東京都知事でしょう。で、私はスパイに依頼して、田園調
布の石原邸を監視してもらっているのですが、なぜか祭日に石原邸には日の丸
が掲揚されていない(笑)」
 森  「いい話だな(笑)東京都の旗はあったんでしょうね」
 森巣 「東京都の旗もない(笑)・・・・祝祭日には日の丸掲げろなんて言っ
ておいて、自分はいいわけ。そういうものなのです。権力者たちというのは。
昭和節(昭和天皇誕生日)すら日の丸がない。なんじゃ、ありゃ、と私のスパ
イは、ひどく失望しておりました」。

15桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:11:10
(桐鳳からのコメント)

国歌・国旗について。
この件につきましてはこれまで、たくさんの方々のご意見、及び私見を掲載
してまいりました。
また、「読者の価値観」コーナーを設け、アンケートも行いました。
本当に、様々な考え方があるものと思います。

ここで、前にも書きましたが、この件についての私自身のスタンスを述べて
おきます。
・国歌・国旗は必要だと考える。ただそれは、「オリンピックでメダルを取った
 時や世界タイトルマッチの時に困るだろう」程度の理由によるものである。
・国歌・国旗は、個人的に愛着を持っていることもあり、日の丸・君が代が
 良いと思う。というよりも、それに取って代わるような歌詞・メロディ・
 デザインなどが思い浮かばない。
・とりあえず現時点では、公教育の式典で 国歌斉唱・国旗掲揚を行うのは
 よいと思う。
・そうした価値観に反対という教員は式典に参加しなければよい。
 またそれを、学校・及び教育委員会等も認めるべきだ。
 (ちなみに、「『日の丸・君が代でいいけど、強制がイヤだ』というなら、
 そうした場に参加しなければよいことだろう」の箇所については、「参加
 したくない人は参加させなくてもいいだろう」という、学校・及び教育
 委員会等に向けての言葉でもある)
・日の丸・君が代否定論者の価値観に反対するつもりはない。ただし、否定論
 者には、「ならば国歌・国旗はどうするのか。不要なのか、或いはどのように
 して決めるのか」ということについても提案する義務を伴うものと考える。
・何にしても、強制するのも、されるのも、嫌だ。

ちなみに、社説において「何を大切な部分」と思うかは、個人個人の価値観
だと思います。
人によっては、朝日社説、或いは産経社説そのものを価値のないものと思う
かもしれません。
私個人の価値観として、先日掲載した部分に「注目した」ということです。
(コーナーの副題は、「独断と偏見はご容赦!」です)

個人的には、SUさんが「抜け落ちている」と指摘された部分は、当日掲載した、
『私たちはこれまで社説で、「処分をしてまで国歌や国旗を強制するのは行き
過ぎだ」と主張してきた。様々な歴史を背負っている日の丸や君が代を国旗・
国歌として定着させるには、自然なかたちで進めるのが望ましいと考えるからだ』
の部分に含まれている(或いはこの一節を補完するもの)と思っております。

また、「反対論者からは、そうした意見も聞きたく思う」の箇所については、
「個人的には、以下の通り考えている。」以下の部分全てにかかってくるもの
です。

「そもそも、国歌・国旗は不要なのか」
「新しい国旗・国歌を制定するのか」
「決めるとしたら、どのように決めるのか」
「国旗国歌法や学習指導要領そのものを変えるべきなのか」
「強制さえしなければ、日の丸・君が代でいいのか」
「日の丸・君が代でよいというのならば、それを『権力者の支配の道具』と
 感じさせないようにするために、具体的にどのように扱えばよいのか」
「『日の丸・君が代はいけない』ということは、逆に、特定の価値観の押し付け
 にはならないのか」
…など。

反対論者の方々の意見には、いつもこうした部分についての具体的な方策が
伴っていないように、個人的には感じております。

更に、SUさんご指摘の『都歌』の部分について。
はじめに申し上げておきますが、私は東京都民ではありません。
東京に隣接する、某県民です。
(これについては弊誌でも何度か掲載しております)

個人的には例えば、県の式典などに参加した際、「県歌斉唱」というプログラム
がもしもあったとしたら、とりあえず起立して、歌詞を眺めるくらいのことは
すると思います。
他者から特定の価値観を強制されることが嫌な私でも、「県歌を強制的に歌わ
せることなどケシカラン」とは、言わないと思います。

「都道府県歌」があるとしたら、それは「為政者の政治的野心」や「権力者
が民衆を情緒的に支配するための装置」ということとは少し異なるのではない
でしょうか。

また、都道府県歌には、君が代のように「様々な歴史を背負っている」という
こともないと思いますし、「国旗国歌法」や「学習指導要領」にも無関係だと
思います。
もしも「都道府県歌の強制反対」を唱えて式典進行を妨げる人がいるとしたら、
それは今回の社説での争点とは違う問題だと考えます。

そういう意味では国歌と、都道府県歌、或いは時々引き合いに出される会社の
社歌などとを同系列で扱うことには、個人的に違和感があります。

16桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:12:00
そもそも「国旗・国歌問題」と「思想信条の自由問題」とが関連して
いるとは思えません。朝日や毎日などは、関連しているとして強制
するなと論じるのですが、本当にそうでしょうか。

この場合の先生は、公務員です。公務員が、自分の仕事に思想
信条の自由を持ち込めるのでしょうか。私は、死刑廃止論者だから
死刑判決は出さないと裁判官が判決に書くことが許されと思う人は
いないでしょう。私は、プロテスタントの聖書主義者だから、ダーウイン
の進化論は偽りであるとしか教えられないと授業を拒否できると言う
人もいないと思います。

少年野球チームが海外で試合をした時に、他国の国旗掲揚の
式典の最中、脱帽しない、国旗に注目せず隣としゃべっている
姿に、その国の役員から日本チームの役員に抗議が来たと言う
実話があります。(不思議に、こういう話がマスコミにとりあげられ
ることもないので、知らない人が多いのですが)入学式とか
卒業式は、式そのものの意味のほかに、式典に於ける立ち居
振る舞いの訓練でもあり、それを身につけることが社会人の
常識を習得する機会です。

そう言う実訓練の時に、起立もしない先生が居るのが普通なら、
どうして世界で通用する人間が育つのでしょうか。先述の小学生は
他国の人から見れば、無礼千万な輩でしかありませんが、その
根源は、教えるべき人が教えないからであります。しかもその理由が
「私は、日の丸と君が代が『嫌い』だから」というのですから、私は
あきれてものも言えないのです。

そして、新聞は、巧妙に「すりかえ」をやって、思想信条の自由が
おかされるから、強制すべきではないという論理で国旗掲揚と、
国歌斉唱をやらなくても良いと主張しています。しかし、先述のように
教えるという公務に思想信条の自由を持ち込むのがおかしいのです。
そう言う論理が成り立つのなら、全ての公務が拒否の対象となる
のではないでしょうか。

私の知っている範囲ですが、その昔「国旗掲揚と国歌斉唱に反対」と
組織的に反対運動をしていた団体の方々は、「旗開き」には、某国の
国旗の地色であるその団体の旗を崇尊し、嬉々として「インターナショ
ナル」を斉唱しておられました。日の丸と君が代は、転覆すべき権力の
象徴でしかなかった時代でした。その工作の震源地は20年近く前に
消滅したと言うのに、その思想は別の理屈の衣を着て亡霊のように
消滅することもなく漂うのですね。

17桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:13:41
*前の分は、「SRさんからのコメント」でした。

(Zさんからのコメント)

都教委の教員処分問題については、一昨年の東京地裁原告勝訴判決が
最も妥当な判断だと思われるので繰り返さない。法令や旭川学テ事件等
の最高裁判例から論理必然的に導き出される、教科書のような判決だった。
教員の「職務」と「儀典」の関係についても、ありがちな両者混同による欺罔
を排し整理していた。

某県の大学入学式は、式典中に私語と携帯通話、メール、居眠りする者が
溢れ、成人式では茶髪サングラスの一団が大暴れしていた。
その県の公立校式典の日の丸掲揚君が代斉唱率100パーセントだった。
式典に招かれた際の態度などは、学校ではなく家庭で教えるべき作法である。
近ごろ、最低限の礼儀や躾まで学校教育の責任とするモンスターペアレンツ
(ダメ親ともいう)が増えているようだが。

某プロ球団では外国人選手が勝利祈願の神社参拝を宗教上の理由で欠席し、
安息日の試合はどんなに優勝を争っていても欠場した。
それでもその選手が職務命令違反などとして処罰されたとは聞かない。
賢明な民間企業では思想信条等内面の問題のセンシティブさを正しく理解
して的確に対応している一例である。

式典や祭祀の内容には可能な限り折り合いをつけるべく努めるが、思想信条や
内面の問題のため適応困難であれば支障の少ない形で遠慮させて頂く旨根回しし、
主催する側も事情を斟酌し配慮するのが古き良き日本の美しい互譲秩序である。
ことさらの重大な妨害行為に及ばない限りは(もしあればそれは威力業務妨害
の領域である)都教委の所作は社会的通年を逸脱し著しく衡平を欠くという点
では今回の東京地裁の判断は妥当と考える。
因みに国旗国歌法制定に際し、政府は「教育現場へ強制はしない」と答弁して
いる。

この問題は、どうも「国旗国歌」を装いながらそこから乖離し、都教委が現場を
管理しやすいイエスマン教員ばかりにするクレンジング作業の手段として利用
する意図を感じてしまう。ちょうど公立中学のある種の教員が、内申書を生徒
管理の道具としてちらつかせるように。

今回の都教委の処置の是非については最終的に司法の場で決着するだろうが、
その効果は「市場」が判断することとなるだろう。
70年代の都立高凋落の原因は、学校郡化、入試改革(試験科目減と内申偏重)
と並び、紛争処理過程で多くの優秀な教員が都立高を見限り私立校へと流出
したことにある。これら流出した教員が私立校躍進の原動力の一つとなった。
都教委の頑なな姿勢が現場の混乱を深め、受験生のますますの都立高離れ、
私立校との進学実績の格差拡大、都立校の再凋落をもたらし、緒に就いた
ばかりの都立高改革(中高一貫校、進学重点校等)の頓挫という形で都民の
膨大な血税喪失に繋がらなければ幸いである。

18桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:14:40
(SUさんからのコメント)

3日ほど不在にしている間に、小生の2/11付け拙文に、桐鳳さん、SUさん
からご意見を頂き恐縮です。Web上の意見交換は、匿名性ゆえにヒステリ
ックになりがちな中で、このサイトは、良識的かつアットホームな雰囲気で好
感が持てます。

 さて、桐鳳さんのご意見で、対案を示すべきとする考え方に一応同意して、
小生の「日の丸・君が代」に対する思いをのべます。  
 「日の丸」はデザイン的にもすっきりしていて、強制されなければ違和感を
とくに持ちません。しかし「君が代」は、歌詞も旋律も感情移入ができない作
品といわざるを得ません(小生が多少音楽をかじっているので)。大相撲の千
秋楽の君が代斉唱を見ていても、声高らかに歌っている人はむしろ少なく、付
き合いで立ち、口を閉ざしている人さえいます(だからその筋の方は焦るので
しょうケド)。
 
 それにつけても、長野冬季オリンピックの最終日の光景を思い出さずにはい
られません。会場につめかけた多くの長野県民が県歌「信濃の国」誇らしげに
そして、整然と歌っているではありませんか。強制されたのでも、義務づけら
れたものでもないことは、その表情を見てひと目で分かりました。長野県の風
土と文化をこよなく愛している、その人々の姿をほんとうにうらやましくも思
いました。権力的で恫喝的な文教行政を振りかざし、「異分子」を排除しよう
と力んでも、人の心は決して変えられないし、愛国心も郷土愛も生まる由も無
いということの証明です。
 「君が代」の対案をどうしてもということであれば、唱歌「さくらさくら」
「故郷」が、オススメです。この歌を歌って好戦的になる人はいませんね。海
外邦人の集まりで、この歌を歌い涙する人が多いと聞きます。君が代で泣く人
はどれほどいるのでしょうか。

「対案」について
 ところで、最初に「対案を示すべきとする考え方に一応同意して」記したの
は、国会審議等で与党側が対案を示せと迫ったりしています。しかし、官僚が
集めた情報を都合よく利用し、野党側には情報を開示しないで対案を出せと凄
む。国民一般と政権与党や企業の有する情報量と質の格差は、天地の差です。
ですから、相手が国であれ個人であれ、批判が重箱の隅を突くようなものであ
っても、意見表明権は尊重されるべきです。対案のない批判を封じたり、対案
が出せないからと諦めたりしてはならないと思っています。

国歌と県歌など
「国歌と、都道府県歌・・・社歌などとを同系列で扱うことには、個人的に違
和感があります」との桐鳳さんのご指摘ですが、小生は別な観点から違うと考
えています。それは、社歌にしろ校歌にしろまた、県歌であれ、その歌詞をど
うしても許せなければ、その学校、会社に入らなければいいし、他県に引っ越
せばいい、そのような自由があります。しかし、国歌については、憲法上国籍
離脱の自由はあっても、容易ならざることです。つまり選択の自由のないとこ
ろの強制は、耐え難い隷属の苦痛を与えることになります。
人間はかごの中の鳥のようにさえずることはできません。それが人間の尊厳で
はないでしょうか。

 長くなりましたので、SUさんには、要点のみでお容赦し下さい。

○公務員の基本的人権の問題ですが、特別権力関係論はもう古いですね。それ
に極端な事例をあげなければ結論づけられない点でも、無理があるように思い
ます。

○素浪人さんのいう儀式の際の態度が、どの程度割合であるのか、一部を持っ
て多としているのか、小生にはデータがありませんのでなんとも言えません。
ただ、国旗・国歌に対する態度というより、成人式の一部の若者の態度からす
れば、儀式一般の態度の問題として考えたほうが良いのではないでしょうか。

○起立しなかった教師が、特定の思想(この場合マルクスレーニン主義なので
しょうか)が「別の理屈の衣を着て亡霊のように消滅することもなく漂うので
す」と言い切る根拠が、「私の知っている範囲」では、説得力に欠けますね。

19桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:15:34
(Mさんからのコメント)

桐鳳氏が指摘していたように、私もSU氏の最初のメールに違和感を持ってい
ました。“政治的野心があるから”そして“権力者が民衆を情緒的に支配するた
めの格好の装置”だから“背後にある意図に、民衆は絶えず警戒心を持とうと”
言っているのに、その同じ人物の口から、こうしたこととはまったく無関係の
都歌を引き合いに出すことは、ちょっと違うんじゃないかなと思っていました。

そうしたら次のメールで、“県歌からは逃げられるけど、国歌からは逃げられな
い”という意味のことをお書きになっていました。だから結局、国歌と都歌は
違うということになってしまいますよね。じゃあ、そもそもなんで都歌を引き
合いに出したんでしょう。最初のメールで“「非都(国)民!」とレッテルを貼
られ、ムリヤリ拝まされ、歌わされて平気でいられますか?”と書いていたの
に、今度は、“社歌にしろ校歌にしろまた、県歌であれ、その歌詞をどうしても
許せなければ、その学校、会社に入らなければいいし、他県に引っ越せばいい”
と言っているわけですよね。だから要するに、県歌を強制されることはないと
いうことになるわけですよね。その部分についても、“ムリヤリ歌わされて平気
なのか”という当初のご自身の発言と矛盾してしまいますし、筋が通らなくな
ります。

それに、そもそも都歌を歌えない人に「非都民!」とレッテルを貼ったり、歌
が許せなくてその組織に入らなかったり逃げたりなど、そんな事例ってあるん
でしょうか。SR氏に対して“極端な事例をあげなければ結論づけられない
点でも、無理があるように思います”と言っていますが、ご自身のあげる事例
は、極端を通り越して現実離れしすぎていないでしょうか。ご自身の発言が正
しいのなら、SU氏の主張はSR氏以上に無理があるということになりませんか。

何だか、ご自身の価値観を主張するために、その場しのぎの思いつきや思い込
みで発言されているなどというように思えてならず、SU氏のすべての主張に、
論理性や説得力が感じられなくなってしまいます。
私も、国歌や国旗の強制に反対の立場です。“結局、日の丸や君が代に反対する
やつはこうか”などと思われそうで、余計に残念です。

20桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:16:47
(SRさんからのコメント)

2006年9月の東京地裁の判決が一番妥当だとのご判断ですが、
私はそうは思いません。その翌年の2007年2月に最高裁小法廷で
出された、いわゆる「日野『君が代』伴奏拒否訴訟』の判決にも
ありますように
(1)「君が代」のピアノ伴奏を命じた校長の職務命令は、思想及び
良心の自由を保障した憲法19条に違反しない。
(2)その職務命令は「特定の思想を持つことを強制したり、特定の
思想の有無を告白することを強要したりするものではなく、児童に
一方的な思想を教え込むことを強制することにもならない」
と言うことで、訴えた教師側の敗訴が確定しております。
最高裁が判断した後の2007年6月の東京地裁での、国旗・
国歌関連の裁判での判決は、
(1)国旗掲揚時の起立は特定の思想の表明になるものではなく
職務命令は思想・良心の自由を侵害するものではない 。
(2)都立高校の式典での国歌斉唱の実施率は、全国と比べ
極めて低く、通達は学習指導要領に従った式典実施に必要な
範囲のもので、教育への不当な支配には該当しない。
(3) 職務命令に違反した教諭が再雇用合格を取り消されても
不合理とはいえない。
として、再雇用されなかった教師側が敗訴しております。
従って、朝日や毎日が主張するような、思想信条の自由を
犯すものだと言う主張は、確定した判決を無視したもので
あります。この例と同じく、貴兄は最高裁の判断以前の
地裁判決を評価しておられますが、同じ誤りだと思います。

プロ野球外国人選手の勝利祈願の神社参拝に欠席したこと
の例をだされていますが、巧妙なスリカエだと思います。国旗や
国歌は、日本と言う共同体のシンボルであり、神や仏では
ありません。その外国人選手は恐らくキリスト教の信者だと
思うのですが、キリスト教のような1神教は,他の神を拝む
ことは厳しく禁じられており、それに反すると破門にすらなる
行為であります。だから神社での祈願を拒否するのですが、
その彼らも国旗には敬意を表します。神ではないからです。

式典での立ち居振る舞いは家庭で教えるものとのお話も
スリカエそのものです。集団での行動、分担、等々は
式典の予行や本番でしか体得できないことです。また、
それを子供に教えることが出来るほど記憶している親が
どれだけいるでしょうか。そして、口で聞いただけで行動
できる子供などいるはずがありません。大学入学式での
喧騒と国旗掲揚国歌斉唱率100%との対比で無意味の
印象を与えるお話ですが、私は他国の国旗掲揚のときに
起立する、旗に注目する、静かにすることは身に付くと
言ってるだけで、喧騒を止めさせるのはもっと別の教育が
不足しているからでしょう。

古き良き日本の互譲秩序で主催者側が配慮するとの
お話もご都合のよい牽強付会で、そのように配慮する
ことは、天皇・日の丸・君が代を否定する某政党の思惑
を実現させるだけのことです。

都教委の頑なな姿勢とお書きですが、頑ななのは最高裁の
判断に従わない方々の方でしょう。鈴木高弘著「熱血!
ジャージ校長奮闘記」を読みましたが、都の教育現場の
混乱は、特定思想教師の職員会議での専断横行が
長らく続いていることにあるようで、決定権が校長や教頭に
ないアナーキーな運営が間違いだと思いました。ご関心の
ある方は是非ご一読おすすめします。

21桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:19:37
(Zさんからのコメント・前編)

式典での集団としての立居振る舞いは式典の予行と本番でしか
会得できないとのことですが、その「予行と本番を通じた会得」
とは、年に1回(個人によっては数年に1回)かそこらの式典で
身につくものでしょぅか。さらに、その最中の数十秒間、誰かが
起立斉唱しなかった程度で会得できなくなるものでしょうか。
私なら、式典の予行と本番などでは何一つ会得することもなく、
誰が起立斉唱しなかったかも気付かずに終わってしまいそうです。

また、その会得は「親が記憶をもとに口で言う教育が難しい」もの
とのことですが、失礼ながら貴兄は子供を教育した経験がない御仁と
お見受け致しました。貴兄の言うような舌先三寸の生易しい表面的
行為は、そもそも家庭教育とは無縁のものです。
家庭教育とは、幼児からの人格を陶冶する家庭の全生活環境のあり方
を律することを基礎に、知的雰囲気を一つ一つ時間をかけて構築する
所作であり、親の品格人格そのものの発露の過程といえましょう。
教育効果は年1回の学校儀式で決する、親の記憶で口で言うだけの
家庭教育の出る幕ではないなどという、教育に関する貧困な認識は、
残念ながら人間の子供は言うに及ばず、犬や猿の調教以下でしょう。
現実に少しでも生身の子供と向き合ったことがあれば、少なくとも
子供の教育について一度でも真剣に考えたことがあれば、このような
下卑た発想は出て来ないでしょう。

公の場の作法を学ぶ実践の場としては、例えば親族の法事法要の類、
地域社会の集まり、稽古事の発表会等々、学校以外の場でも決して
少なくはないでしょう。それら各家庭の日常を通じて日本人として
恥ずかしくない所作を親が自然に子に伝える環境を常に機能させて、
初めて付け焼刃でない内面からの所作品格が成長できるものです。
そのような土台があってこそ、例えば他国の儀式に出席した際の作法
のような応用問題についても初めて対応準備が可能になると考えます。
1年に1回かそこらの学校行事で身につくほど甘いものではありません。
教育力も品格もない、本来子供を持つべきではない精神未熟児が勢いで
子供を作ってしまったような未熟親が、学校儀式で所作品格が会得できる
などと妄想を語るとすれば滑稽を超えて悲劇であり、そんな無資格親が
子供をスポイルしたあげく戸塚ヨットスクールなどに放り込むのでは。
次代の日本人を育てる責任ある大人として、そのような情けない負け親
にはなりたくはありません。子供にも自分の親にも恥ずかしくて顔向け
できません。

また、東京では有力国私立校の殆どが、校内式典で国旗掲揚国歌斉唱を
行っていません。私の知る限り、偏差値65以上では1校もありません。
東京に限ったことで、地方については知りませんが。
貴兄のご説によれば、これら有力国私立出身者は全員が、「他国の国旗
掲揚で起立しない、旗に注目しない、静かにしない」ということになり
ますが、実際にそうでしょうか。
福田総理も、与謝野、谷垣氏もそうなのでしょうか。(ちと古いOBかな)

私自信、小学校から大学まで、入学式卒業式とも、国旗国歌とは縁が
なかったが、だからといって、儀典に臨む教育の不足を感じたことは
ありません。重要な式典を企画し、進行を取り仕切る職務を担当した
際も、学校での式典経験など露ほども役にも立たないのが実感です。
内面の問題から単純に合流できないという者もいましたが、それは学校
での経験ではなく、家庭の薫陶と懸命なる民間企業の実務を通じて身に
付けた大人の互譲精神でもって、不都合も不満も残さず調整したものです。

22桐鳳柳雨:2009/07/08(水) 13:20:22
(Zさんからのコメント・後編)

プロ球団の外国人選手の話は、個人にその内面と反する外形的行為を
職務と関連つけて職制が強制することに妥当性、合理性が一般的及び
個別具体的に妥当と認められるか、それを組織がどう調整することが
賢明かとの問題を提起したものです。
行為の対象が宗教的儀式か、記号的表徴かは瑣末にすぎません。
その外形的行為の平穏な拒絶が、外国人キリスト教徒には許容され
日本人教員には許されないという論理は跛行しています。
式典で自己の内面に反する所作を強要された日本人教員の苦悩が、
破戒に対する一神教徒の畏怖よりも軽く甘受すべきと断定する
根拠と意図は何でしょうか。
人の内面に関わる問題の度合いは極めて属人的かつセンシティヴで
あり、人により千差万別です。キリスト教徒でも日本の神社仏閣に
参拝できる人もいるし、職場に張り出されたおとなしめの水着女性の
ポスターを何とも思わぬ人もいれば、不快でセクハラと感じる人もいる
ものです。何かの権威や指揮命令権でもって十把一絡げに決め付ける
ことが賢明な対応とは思えません。

貴兄によれば、互譲精神による配慮は天皇・日の丸・君が代を否定する
政党の思惑を実現させる牽強付会とのことですが、その天皇陛下自身が、
数年前の園遊会で「国旗国歌は強制しないことが望ましい」と言明されて
います。もちろん、天皇発言に政治的効果を認める考えはありませんが、
深く受けとめて傾聴すべき内容ではあるでしょう。

なお、2007年最高裁判決は、99年のピアノ伴奏拒否事例に関するもの
であり、2003年都教委通達に起因する処置の是非を問うた2006年東京
地裁判決に向けられたものではなく、また、この最高裁判決自体も裁判官
の間で判断は割れており、反対意見が付記された判決であったことは注視
すべきでしょう。また、先の旭川学テ事件の判例変更まで踏み込んだもの
でもありませんでした。結局、下級審から最高裁まで含め、司法判断は未だ
分裂している問題なのです。

教育とはある意味競争市場です。
今の事態は明らかに東京の公教育の現場及び教委のマネジメント能力の
低さを露呈するものであり、前の投稿にも書きましたが、都教委と現場が
このような不毛な争いを続けている限り、都立校は国私立校との競争に
負け続け、国私立校との人気、進学実績、学力の格差は広がるばかりでしょう。
それは、受験生という市場が都立校を見限り、「都立校なんかいらない、
いっそ全て民営化して教育バウチャー制に移行すればよい」という声の高まり
に繋がるかもしれません。
今の都教委に一番必要なのは、凋落する都立校を尻目に、はるかに成功して
いる有力国私立校の運営ノウハウを学び取り入れることであり、不毛な争い
などしている暇はないはずです。


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