[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
| |
過去/未来/史実
1
:
NONAME
:2009/09/18(金) 02:53:07
過去/未来/史実
人類は、いつ宗教から目覚めますか? 馬鹿ですか? 人が生きる意味は? その目的と行く末は?
3
:
NONAME
:2010/10/27(水) 10:58:38
アフリカ以外で最古の現生人類を発見
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト 10月26日(火)16時33分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20101026-00000001-natiogeo-int
中国南部で驚くべき化石人骨(アゴの骨)が見つかった。現生人類がアフリカを出た時期が、定説より大幅にさかのぼる可能性がある。
2007年、広西チワン族自治区の崇左市(すうさし)のジーレン(Zhiren)洞窟で人骨は発見された。下顎骨は先端が突出しており、はっきりと現生人類の特徴を備えている。しかし注目すべきはその年代だ。中国でこれまで最古とされてきた現生人類(ホモ・サピエンス)の化石よりさらに6万年もさかのぼるという。
研究共著者でアメリカ、ミズーリ州セントルイスにあるワシントン大学の人類学者エリック・トリンカウス氏は、「約10万年前の化石で、アフリカ以外で発見された最古の現生人類だ」とコメントしている。
これまで、ホモ・サピエンスの出アフリカは約6万年前が定説だった。その後、世界中で初期人類ホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)などと置き換わるのに、それほど時間はかからなかったと考えられてきた。
中国で見つかった早期現生人類の化石は、人類の移動の歴史を大幅に塗り替えるかもしれない。また中国の現生人類は5〜6万年間も別のヒト属と混在し、異種交配が行われていた可能性さえある。
加えて、解剖学的に「現生」に属する人類は、人間らしい活動を始めるかなり以前に中国へたどり着いていた可能性も示唆されている。例えば、物や人、出来事をビーズや描線などで表現する「表象的思考」は人間の特性であるが、中国の考古学的資料でその特性が確認できるのは約3万年前だ。
ハワイ大学の人類学者クリストファー・バエ(Christopher Bae)氏は、今回の研究を受けて次のようにコメントしている。「出アフリカの時期に関するこれまでの定説は、主に遺伝学的証拠に基づいている。新発見のアゴの骨はその定説に別の側面から挑戦状を叩きつけた。年代がはっきりしており、ほぼ現生人類と見て間違いない証拠も備えている」。
一方で、アメリカにあるウィスコンシン大学マディソン校の人類学者ジョン・ホークス氏は次のような見解を示している。「中国の洞窟からはアゴの骨と3本の臼歯しか見つかっていない。しかも現時点では、ネアンデルタール人の骨である可能性も残されている。人類の移動の歴史に関する再考の必要性は、今後の展開次第だろう。個人的には研究チームの主張に賛成だが、もっと証拠が欲しい。化石からDNAを抽出できればいいのだが」。
研究の詳細は、「Proceedings of the National Academy of Sciences」誌オンライン版に10月25日付けで掲載されている。
Rachel Kaufman for National Geographic News
4
:
NONAME
:2010/10/27(水) 11:00:56
人類がアフリカを出た要因は技術革新?
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=47122223&expand
#title
人類がアフリカから旅立つことになったきっかけは、気候変動ではなく技術革新だったとする新しい研究が発表された。
初期のホモ・サピエンス(現生人類)の移動時期と、社会的発展や道具を作る技術の革新があった時期とが一致していることが明らかになったという。一方、アフリカの降雨量の変化といった気候の変動要因は、従来考えられていたほど人類の移動と密接に関連していなかったことが分かった。
研究チームのリーダーでオーストラリアにあるウーロンゴン大学のゼノビア・ジェーコブス氏は、「人類が大移動した時期は技術的な進歩がみられた時期に重なっている。技術の向上が移動を引き起こしたと推測できる」と語る。
われわれ現生人類は、およそ20万〜15万年前にアフリカに居住していたと考えられている。近年の研究によると、79万年前には自然発生した火を利用していた可能性があるという。その後、約10万年前には自ら火を起こすようになり、6万年前には火起こしや道具の製作技術に加え、洗練されたコミュニケーション技術も発展していたようだ。これらの時期と、アフリカから人類が移動し始めた時期が重なっていることは、遺伝子学的な研究結果からも示唆されている。
同時期にはスティル・ベイ文化、ハウイソンズ・プールト文化という、道具の利用を伴った2大文化が生じており、ジェーコブス氏らのチームは南アフリカ共和国の9つの遺跡に遺されていた両文化の出土品を調査した。出土品には両面加工の尖頭器をはじめ、装飾的なモチーフや記号、貝殻のネックレスや個人の持ち物と思われる道具などがあったという。
さらに一連の遺跡自体の年代を測定した結果、1つの気候や環境にはとどまらないことが判明した。「地域的な環境変化が影響した可能性は残るが、気候と人類の移動の間に特別な相関関係は見られなかった」と同氏は述べている。
今回の研究では、急激な技術革新の波が突然訪れて、1000〜5000年という比較的短期間のうちに姿を消していたとする説も裏付けられた。だが、こうした技術革新が急速に発展した理由や過程については依然として不明だという。
アリゾナ州立大学人類起源研究所の古人類学者カーティス・マレアン氏は、この点について次のように話している。「極めて短期間に技術が発展したのは非常に興味深いことだ。アフリカに暮らしていた初期の現生人類は、高度に洗練された効率的なデザインの道具を発明し、急速に広める力を持っていたらしい。同時期にはネアンデルタール人も存在し、現生人類の拡散に伴って姿を消しているが、その理由も道具の発明と伝播の力の差にあったのかもしれない」。
初期の人類がアフリカから拡散したときのルートについては、これまでナイル渓谷からシナイ半島経由で東地中海に出たとする北東ルートや、エチオピアから紅海に出た南東ルートが提唱されていた。これについても、新たにサハラ砂漠を北上するルートを示唆する研究が先週、発表されている。
この研究では、衛星データと化石土壌の地球科学的な分析に基づいて、太古の昔にサハラ砂漠のリビア付近から地中海に出る川の流れが存在した可能性が示された。かつてこの一帯が草原の広がるサバンナで、そこから中東に道が開けたと推測できるという。
Photograph courtesy Chris Henshilwood
5
:
NONAME
:2010/10/27(水) 11:03:03
15万年前、絶滅の危機に陥っていた人類
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=90006&expand
#title
世界中からヒトのDNAのサンプルを集めて人類の移動の歴史を探っているナショナル ジオグラフィックのジェノグラフィック・プロジェクトが新しい調査結果を発表した。
今回の調査では、15万年前に絶滅の危機に瀕していた人類はいくつかの小さなグループに分岐し、後に再集結してアフリカを脱出するまでのおよそ10万年間、別々の営みを続けていたことが明らかになった。調査を監修したジェノグラフィック・プロジェクトのリーダーを務めるスペンサー・ウェルズ氏は「これまでの仮説では、アフリカのサハラ以南に生息していた極めて小さな単一集団が人類の始祖であると考えられてきた。しかし今回の調査によって、その仮説は正しくないことがわかった」と話す。
現生人類は、およそ20万年前に1つの独立した種として出現した。これまでの研究では、現代人はすべて祖先をたどっていくと、この始祖的な人類に行き着くとされてきた。しかし、およそ6万年前アフリカからの最初の大移動が始まるころには、人類は既に遺伝系統が異なる別々のグループに分岐していたということが今回明らかになった。
20万年前から6万年前までのその間に、いったい何が起こったのだろうか。ウェルズ氏らはそれを探るため、アフリカのサハラ以南に居住しているさまざまな先住民族を対象に、母系遺伝するミトコンドリアDNAを624人から採取して、その全ゲノムを解析した。ゲノムとは1人の人間が持つDNA一式を指す。その結果、ウェルズ氏のチームは、アフリカ東部が発祥地とみられる1つの集団が、およそ15万年前に南へ移動したグループと北東へ移動したグループに分岐したことを突き止めた。そもそもなぜ集団が分岐したのかについては明確でない部分もあるが、調査によれば、その要因の1つとして気候変動が考えられるという。
ウェルズ氏は、マラウイ湖が何度も深刻な渇水に見舞われたという証拠を示しながら、「この時期には大きな気候事象が何度か発生したとみられており、それらが分岐の要因となった可能性は高い」と語った。さらにウェルズ氏は「人類の個体数は2000程度にまで減少した。おそらく各集団の規模はせいぜい数百人程度だったと考えられる」と話す。人類は絶滅の一歩手前にいたのだ。過酷だった気候条件が穏やかになると、それぞれの集団は個体数を増やし、やがてはアフリカの外へと広がっていくことになった。その際、後期石器時代に生まれた新しい道具や技術も一役買ったかもしれない。
これらの新発見は、もともと医療への応用を目的としたものではないが、外部の専門家にはその可能性を示唆する人もいる。今回の研究には参加しなかったイタリアのパビア大学イタリアの遺伝学者、アントニオ・トッローニ氏は「この研究成果は今後、疾病の研究を含めたアフリカの人々に関する遺伝子研究の参考になるだろう」と話している。
Photograph by Chris Johns/NGS
7
:
NONAME
:2010/10/27(水) 11:18:01
ネアンデルタール人と現生人類の交配はなかった
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=95961871&expand
#title
Ker Than
for National Geographic News
August 12, 2008
DNAに関する新たな研究結果によると、ネアンデルタール人と現生人類は異種交配していなかったようだ。この研究では、ネアンデルタール人の集団が小規模だったことが絶滅の引き金になったこともわかった。
ネアンデルタール人のミトコンドリアゲノムの配列解析が完了した。ミトコンドリアゲノムとは母親から代々受け継がれる遺伝情報だ。この解析は、クロアチアの洞窟で発見された3万8000年前のネアンデルタール人の大腿骨を用いて行われた。このたび解析されたのは13の遺伝子を構成する1万6565個のDNA塩基で、ネアンデルタール人のDNAとしては最長の解析となる。
ミトコンドリアDNA(mtDNA)は、通常の“核”DNAに比べ、古代の遺骨から取り出しやすい。核DNAは細胞核の中に入っているが、ミトコンドリアは細胞中にたくさんあるからだ。「mtDNAゲノムは核ゲノムに比べてかなり小さいので、核ゲノムよりもずっと早く解析結果が分かる」と、研究の著者であるドイツのマックスプランク進化生物学研究所のリチャード・グリーン氏は説明する。
今回の分析では、現生人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人に分かれる直前の共通の祖先が、80〜52万年前に存在していたことが示唆された。この結果は、以前にネアンデルタール人について行われた短いDNAの解析結果とも一致している。
現生人類とは対照的に、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNAには、突然変異による塩基の置換えが数多く見られた。しかし全体的にみると、ネアンデルタール人が経験した進化上の変化は比較的少なかったようだ。
ネアンデルタール人のmtDNAで多数確認された突然変異から、自らの遺伝子プールの制限のために苦しんでいたことが考えられる。これはおそらく、ネアンデルタール人が当時ヨーロッパに住んでいたホモ・サピエンスに比べて小規模な集団で生活していたためとみられる。小規模な集団では、「進化上の有害な変化を排除する自然淘汰の力が若干弱まる」と前出のグリーン氏は語る。
3万8000年前のヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人の集団が1万人を超えることはなかったと推定されるという。「これがネアンデルタール人の絶滅要因となった可能性もある」と同氏は述べている。ネアンデルタール人はおよそ30万年前のヨーロッパに初めて出現し、その後、約3万5000年前には謎の絶滅を遂げている。3万5000年前といえば、現生人類がヨーロッパに到着した直後のことだ。
「ネアンデルタール人の小規模集団のうち、いくつかは辛うじて生き延びていたと考えられる。その場合、その後に起こったわずかな生活の変化が絶滅の引き金となった可能性がある。その変化の一因としては、やはり現生人類の登場が想定される。別の大型人類の出現は、ネアンデルタール人にとって大きな変化だっただろう」と同氏は話す。
ペンシルバニア州立大学の分子生物学者であるステファン・シュスター氏は、今回の研究には関わっていないが、次のようにコメントしている。「これまでにネアンデルタール人と現生人類の異種交配を主張する説は数多く出されてきたが、今回の研究結果でその論議にも終止符が打たれるだろう。これで少なくとも母系においてはネアンデルタール人と現生人類の混血を示す遺伝子マーカーがないことが分かった」。
同氏はまた、「研究者らはネアンデルタール人のDNA分離作業をことのほか注意深く進めている」とも語った。「今回の研究では確実な分析結果を得るため、各塩基につき35回程度の配列解析が繰り返されている。人間のDNAが混入して分析結果がゆがまないように格別の注意が払われたということだ。これまでの実験ではこの点がウイークポイントになっていた」。
前出のグリーン氏は、3万8000年前のネアンデルタール人の集団が小規模だったという主張について「想定の域を出ない」としているが、それでも「この研究結果が出る前に比べれば論拠のある主張だ」としている。
8
:
NONAME
:2010/10/27(水) 11:21:49
ネアンデルタール人、現生人類と交配
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20100507001&expand
#title
Ker Than
for National Geographic News
May 7, 2010
これからは他人のことを“旧人類”といってバカにする前に鏡を見る必要がありそうだ。最新の研究により、ほとんどの現代人がネアンデルタール人とのつながりを持っていることが明らかになった。遺伝子構造の少なくとも1〜4%はネアンデルタール人に由来するものだという。
研究では、遺伝子解析により、現生人類(ホモ・サピエンス)とネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)の異種交配を示す確かな証拠が発見された。ネアンデルタール人はおよそ3万年前に絶滅した人類の近縁種である。
また、現生人類とネアンデルタール人は中東地域で交わった可能性が高いとも結論付けている。従来の研究ではヨーロッパが第1候補地と考えられてきたが、実際には現生人類がアフリカから旅立った直後だったようだ。
研究チームのリーダーでカリフォルニア大学サンタクルーズ校のエド・グリーン氏は、「ネアンデルタール人から現生人類に向けて遺伝子流動があったことは十中八九間違いない」と話す。
アメリカ、ミズーリ州セントルイスにあるワシントン大学の人類学者エリック・トリンカウス氏は、今回の研究を受けて次のように話す。「異種交配の可能性は以前から私も主張していた。当時は化石骨格を基にしたのだが、DNA解析によって一蹴された。ようやく汚名をそそぐことができたようだ」。
さらに、トリンカウス氏は、「われわれが実際に受け継いでいるネアンデルタール人のDNAは、今回の研究が示す数値よりもはるかに多いと思う」と話す。「1〜4%というのはあくまで最低限の値だ。10%、あるいは20%という可能性さえある」。
9
:
NONAME
:2010/10/27(水) 11:22:31
◆ネアンデルタール人と現生人類が交配した意外な場所
研究チームは、中国、フランス、パプアニューギニア、アフリカ南部、アフリカ西部の5人のヒトゲノムと、ネアンデルタール人のドラフトゲノムとを比較した。
解析の結果、現生人類とネアンデルタール人のDNA配列は99.7%が一致していることが判明した。なおチンパンジーとは98.8%一致している。
また、アフリカ人以外の民族集団において、ゲノム中にネアンデルタール人のDNAの痕跡が存在していることも明らかになった。この事実は、異種交配の地をめぐって新たな謎を生むこととなった。ネアンデルタール人も現生人類と同様、アフリカ大陸で誕生したと考えられている。ただし、アフリカで両者の共存を示す化石証拠は発見されていない。
「現生人類とネアンデルタール人の間で遺伝子交換があったとするなら、その地はヨーロッパだと考えるのがこれまでの常識だ。数千年の共存期間を証明する、十分な考古学的証拠があるからだ」と研究チームの一員デイビッド・ライヒ氏は話す。
反対に、ネアンデルタール人が東アジアの中国や、南太平洋メラネシア地方にあるパプアニューギニアに住んでいた考古学的記録は存在しない。
「ところが実際には、中国人もメラネシア人もネアンデルタール人と近い関係にあり、ヨーロッパ人だけの特徴ではなかった」とライヒ氏は明かす。同氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)とハーバード大学が共同運営するブロード研究所で集団遺伝学の研究に従事している。
◆ネアンデルタール人と現生人類は一晩だけの関係?
では、ネアンデルタール人のDNAはどのようにしてアジアやメラネシアにたどり着いたのか?
研究チームによると、ネアンデルタール人と現生人類が異種交配した期間は、現生人類がアフリカを旅立った直後、さまざまな民族集団に分かれて世界中に散らばっていく直前だという。最初の交配は約6万年前の中東地域で発生したと考えられる。アフリカに隣接しており、2つの種が一時期共存していた考古学的証拠も存在するという。
研究チームのライヒ氏によると、2種間で生じた遺伝的影響には大規模な異種交配は必要ない。「ネアンデルタール人と現生人類は一晩だけの関係だったのかもしれないし、異種間のあいびきを何度も重ねていた可能性もある」。
◆異種交配のDNA上の証拠はほかにも存在
現生人類とネアンデルタール人の異種交配に関する遺伝的な証拠が発見されたのは、今回の研究だけではない。
アメリカにあるニューメキシコ大学の遺伝人類学者ジェフリー・ロング氏が率いる研究チームも、初期現生人類とネアンデルタール人やハイデルベルク人との間に異種交配があったことを示すDNA上の証拠を発見しており、学会報告を先月行ったばかりだ。
同チームはネアンデルタール人のゲノム解析を行ってはいないが、異種交配が起きた時期に関しては今回の研究と同様、現生人類がアフリカを旅立った直後だと結論付けている。ロング氏は次のように話す。「私たちの研究は現生人類の遺伝子情報を基に進化過程をたどったもので、実証的な裏付けは予想外だった。非常にうれしく思う」。
研究成果は、5月7日発行の「Science」誌に掲載されている。
10
:
NONAME
:2011/04/21(木) 14:34:53
国立科学博物館ホームページ 「日本人はるかな旅」
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/index.html
第5章 そして日本人が生まれた
およそ2300年前に中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人は、長く平坦な顔で、大柄な身体つきをしていました。
彼ら渡来系弥生人は、九州北部から日本列島各地に広がり、縄文人と混血しつつ、本土人の主体を形成しました。
彼らと共に渡来した文化は、在来の縄文文化と融合して、弥生文化を生み出しました。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/index.html
アイヌ・本土人・琉球人
大陸からの渡来民の流入は、古墳時代の終わりの7世紀頃まで続きました。
この間、大陸からの新しい文化や技術を持ち込んだ渡来民は、
本州を東に進んで近畿地方に進出し、大和朝廷を築き、さらに関東、東北へと、
先住の縄文系の人々と混血しながら進出していったようです。
このような混血により古墳時代の末には、渡来民が主体となって
現代の本土人の原型がほぼできあがったと考えられています。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-15.html
分子レベルでみた日本人のルーツ
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-26.html
11
:
NONAME
:2011/04/21(木) 14:37:53
平成17年度〜平成21年度日本学術振興会科学研究費補助金による
更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html
「本プロジェクト研究で得られた新知見」
⑥そして、時代を下り、シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、
少なくとも3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布した。
⑦⑧この中国東北部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一部が、
縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、
広く日本列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先となった。
「弥生時代枠組み変化の日本人起源仮説への影響の検討」
弥生開始期の年代は500年程度遡らせるべきだ、との見解に従って
計算機シミュレーション的に再分析を行なうと、
渡来系の人々は、これまで以上に緩やかな増加率で土着縄文人を圧倒し、
人口比の逆転現象を起こし得ることが示された。
12
:
NONAME
:2011/06/15(水) 17:34:40
ポーツマス条約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。当初ロシアは「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、日本が譲歩し、調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。 日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こした。
日本の国際連盟脱退
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
満州国の存続を認めない勧告案が含まれたリットン報告書が国際連盟で採択された事を受け、1933年(昭和8年)3月27日、日本は正式に国際連盟に脱退を表明し、同時に脱退に関する詔書が発布された(なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日)。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板