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八鹿高校事件ホームページのために

1もっこす</b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2003/09/12(金) 20:16
このスレッドに、八鹿高校事件の関連情報を集めます。

82葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/08(日) 16:29
「解放の道」(1971/9/25)より。

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被疑者扱い撤回さす
堺市が弾圧を策謀 でっち上げに抗議

 【堺】大阪府堺市で堺北警察署が、部落解放同盟堺支部(丸井一美支部長)の市交渉に介入、「市職員に暴力行為をはたらいた」と同支部の滝野和清さん(35)に被疑者として出頭するよう命令を出しましたが、九月十六日、同支部や協和町市民など百三十人が抗議して、出頭命令をてっかいさせました。
 堺市教育委員会が、「解同大阪府連」朝田一派とくんで「窓口一本化」を固執、朝田一派の下部組織に入っていない家の児童・生徒に夏服を支給しないという差別行政をおこない、堺支部と父母が二ヵ月半にわたる抗議行動をおこした結果、八月十一日、全員に支給させました。
 ところが、一週間後の十八日、市教委の泉野総務課長、池西同和教育室長、森主教務部長の三人が「五月二十八日の市交渉のとき、暴行され、ケガをした」と、医師の診断書をそえて被害届を出し、同時に高尾教育長ら市幹部七人の連名で、滝野和清さんを暴行、傷害で告発しました。
 五月二十八日は、この日から約三ヵ月前。十八日になって訴えたのは、正常化の運動を弾圧する目的のでっちあげであることはあきらか。しかも、堺北署では民主運動を弾圧するのが目的である警備課が担当するなど、警察も部落解放運動への不当介入を策謀していることがわかりました。
 このため十六日、堺支部をはじめ正常化連加盟の各支部代表と協和町住民百三十人は、滝野さんをまもって堺北署に抗議。泉谷弘副部長ら十人の抗議団が、署長、警備課長らと会い、「”被害”を受けたという日から三ヵ月以上もたってから、市がわの一方的ないい分をきいて、いきなり被疑者あつかいで出頭させるのは不当だ」「”窓口一本化”をまもるための市と朝田一派との共謀とみられるが、警察はこうした背景を無視している」「公安警察である警課が調べているのは政治的策謀だ」と追及、滝野さんにたいする出頭命令を取消させました。
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83葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/18(水) 22:24
「解放の道」(1974/2/10)より。

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東京でも集団暴力

【東京】大阪・羽曳野市で暴徒と化している朝田一派は東京でも二月三日夜、荒川区と台東区で正常化連のビラを配布していた仲間を襲撃、ら致したあげく、なぐる、けるの暴力を加えました。
 三日午後七時すぎ、正常化連準備会の小畑力夫が台東区清川二丁目、都営アパートでビラを配布していたところ、朝田一派の志鎌重夫がなぐりつけてケガをさせました。
 また、同日午後十一時ごろ、高橋新平さんら三人が荒川区荒川八丁目でビラをくばっていたところ、自動車や自転車であとをつけていた若い男女五・六人がおそいかかって、自動車で同町内の区立荒川集会所(朝田一派が占拠している)にら致、三十数人で不法監禁し、若林芳夫(朝田一派の「都連」書記長)がなぐるけるの暴力を加えました。
 急をきいて、川口真治共産党区議ら約二十人がかけつけて抗議、十一時四十分ごろ奪還しました。
 朝田一派の集団暴力、監禁を受けた小畑、高橋さんらは、告訴する準備をすすめています。
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84葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/19(木) 23:36
「解放の道」(1970/12/25)より。

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二千七百人が観賞
映画「橋のない川」大和高田市で上映

 【大和高田】映画「橋のない川・第二部」が十九、二十の二日間奈良県大和高田市の高田キネマで上映され、二千七百人が観賞しました。
 大和高田市での上映にたいしても、社青同奈良教育大班など約二十人の暴力集団が、国道の交差点でうずまきデモをやり、警官に暴行をくわえ、二人がたいほされるという気ちがいじみた暴挙をはたらき、解同奈良県連青対部と称する連中が、上映阻止のビラをまいて妨害しました。
 しかし、上映運動妨害を指揮している朝田一派の川口解同奈良県連書記長の地元、御所市柏原部落から百五十人が観賞するなど、高田周辺の部落や教師、一般市民などが、暴力集団の妨害をはねのけて観賞しました。
 また、全国水平社創立者の一人である坂本清一郎氏も顔をみせ、「わたしたちが願いつづけ、歩みつづけてきたたたかいの姿、すじ道を正しく描いてくれているので、ほんとうにうれしかった」とはなしていました。
 なお、奈良県では十二月十二日の奈良市での上映いらい、映画「橋のない川・第二部」の観客は一万三千人をこえました。
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85葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/21(土) 14:35
「解放の道」(1976/4/5)より。

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朝田派県連が分裂
埼玉 野本の独裁、利権を非難

 【浦和】埼玉県で朝田一派の「解同県連」が分裂、三月十三日に「部落解放同盟を愛する会埼玉県連合会」という団体がつくられました。
 朝田一派の中執でもある野本勝彦の独裁と利権あさりは、かれらの組織内でもひんしゅくをかうほど異常なもの。組織を私物化するために事務局員八名中、六名を解雇して関西系のトロといわれる連中で補充。野本の妻静子が会計をしている県連財政のうち五千万円が使途不明であったり(――彼女は、このほか同和建設協会、企業連などの会計を兼任していますし、大宮市内に八千万円もかけて豪邸を新築し、また、軽井沢に別荘を那須別荘地に土地を所有しているともいわれています。)
 このような組織の私物化と利権あさりは、県民のきびしい批判をうけていましたが、事務局員の解雇を契機に内部矛盾が爆発、昨年十一月、県連副委員長大野一良氏を中心に「部落解放同盟埼玉県連合会愛する会」を結成して、野本勝彦・静子夫妻を中心とする幹部の利権あさりの実態をばくろしてきました。
 愛する会は、野本のたくみな策略にかかって解散したとつたえられていましたが、三月十三日、極秘で正式発足したもの。「解同県連」の組織は千五百世帯と公証。このうち「愛する会」は、二十支部、七百人と発表しています。
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86葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/22(日) 12:07
「解放の道」(1975/2/25)より。

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京都
橋のない川に1200人
府職・市職 教組青年部 暴力集団の妨害排し

 【京都】京都市職労、同府職労、京都市教組の各青年部が共催して、二月一八日、京都教育文化センターで「映画と講演の夕べ」(映画「橋のない川」第二部上映と、川上雅詮京教組部落対策委員長の講演)が開かれ、千二百人が参加して大成功をおさめました。
 この催しは、京都でも「同和行政」をめぐる不公正や朝田一派の無法な暴力がくりかえされているなかで、「労働者こそ、正しい部落解放理論を身につけよう」と開かれたもの。
 当日、「市職反戦」を名のるトロツキスト、市内の朝田一派「青年部」、全電通に巣くう「反戦」などをはじめ、青ヘル、黒ヘルや四メートルの竹槍で、「武装」した集団など三百人がおしかけましたが、防衛隊にはねかえされ、妨害策動はみごとに失敗しました。
 このあとも、妨害集団は路上にタムロし、ウズまきデモをくりかえし、ときおり警官隊と「衝突劇」を演じて見せましたが、集会参加者と付近住民のもの笑いのタネになるだけでした。
 参加した労働者は「朝田一派の反民主主義的な本性がよくわかった。それにしても、なぜ差別をなくすことを訴えているあんな感動的な映画を『差別映画』というのか」と、朝田一派の蛮行に怒りをのべていました。
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87名無し@日本降参党員:2004/02/24(火) 13:27
今度民主党から参院選に出馬する松岡徹(松岡とおる)が犯罪行為を働いた
記事はありませんか。

もしあったら、至るところにその記事をバラ撒いて、松岡の当選を断然阻止
してやります。

88葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/26(木) 22:56
>>87

こんなのありますた。

http://www.jcp-osakahugikai.com/katudou/2001/20010205-3.html

89名無し@日本降参党員:2004/02/27(金) 20:15
>>88
謝謝。いろいろなところにバラ撒いてやります。

90葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/29(日) 00:04
「解放の道」(1977/1/25)より。

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「解同」内対立を激化
市交渉中に傷害事件

 【堺】年末に支給したものを「解同」の圧力に屈して、返済をもとめてまわる堺市当局の無責任な態度に施策をうけた人たちは、断固として拒否しました。
 また同和町内で「解同」にたいする批判がたかまるなかで、「解同」堺市部内でも、市側の年末措置を認めようとする現執行部派とあくまで「窓口一本化」に固辞する旧執行部派とが対立。十七日、約四百人を動員して「市立解放会館」で「市交渉」をおこないましたが、両派は「交渉」そっちのけで口論、場内で山口組系の暴力団がからんだ傷害事件が発生し、「交渉」が中断する事態がおこりました。
 この日は、速水逸良、島伊三郎両助役らが出席。旧執行部派が市幹部に①昨年末個人支給した制度資金の前面回収②「窓口一本化」の再確認③市長名での自己批判と今後の決意表明――など四点を押しつけようとしていました。
 ところが、「窓口一本化」によって利権あさりをねらう旧執行部派は、「個人給付はすべての地区住民に支給されるべきだ」という姿勢をとっている現執行部派にば声をあびせて攻撃に終始して、「交渉」はタナ上げのまま休憩に入りました。
 このとき、「交渉」に参加していた土建業者が山口組系の組員に刺されるという事件が発生したため、交渉はそのまま中断。このため「解同」は市にたいして、今回の問題は「しばらくたな上げ」を宣言しました。
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91葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/29(日) 02:00
「解放の道」(1978/12/5)より。

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「解同」幹部に求刑
共産党府議暴行事件で
大阪地裁

 【大阪】九年前、買いもしないバスを買ったとごまかして大阪府から五百三十六万円を受けとり、ウソの清算報告書まで出していたことを追及された「解同」大阪府連の上田卓三らが共産党府議団控室に乱入、暴行傷害事件の差し戻し後半が十一月二十九日、大阪地裁刑事一部(大政裁判長)で結審、検察側は「解同」光明町支部長の高田登美雄に罰金二万円を求刑しました。
 一九七〇年二月二十七日におこったこの事件は「幽霊バス事件」として有名。共産党の藤川豊議員(当時、故人)と串田晋事務局員が右下腿部打撲でそれぞれ十日から一週間の傷をうけたため両氏らは上田卓三、高田登美雄ら八人を住居侵入、障害・暴行で告訴しました。しかし地検は高田のみを起訴。大阪地裁は一部有罪、一部無罪の判決、高裁も一審判決を支持し、高田は最高裁に上告しましたが棄却、地裁に差し戻されていました。
 検察側は、「藤川委員が強く二回けられ、一回が氏名不詳、一回が高田登美雄であるが、バス不正事件追及に抗議の目的で府議団控室に乱入し、同一場所、同一時間に犯罪が生じているので、同事犯として障害の責任が高田にあることは明白」と断罪しています。
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92葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/02/29(日) 14:49

「解放の道」(1978/4/15)より。

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「解同」の妨害はねのけ登園

二人の幼児が無事に
全解連など市民が守りぬく
大阪・吹田

 【吹田】大阪・吹田市光明町で、「解同」支部が市立ことぶき保育園に入園する二人の幼児の親が、かれらの下部組織「保育父母の会」に入っていないことにいいがかりをつけて、連日二十数人を動員、保育園の玄関にピケをはって妨害しました。
 しかし、全解連支部や広範な市民のきびしい批判と抗議をうけた「解同」は十二日ピケを解き、二人の幼児は無事、元気に保育園へ通えるようになりました。
 「解同」に入園を妨害されていたのは、大小田春義さんの長男・康祐ちゃん(生後四ヵ月)と西河義治さんの長女・真理ちゃん(四歳)の二人。
 入園式のおこなわれた七日、西河さんらが子どもとともに保育園へ行くと、「父母の会」会員ら二十数人が入口に立ちはだかって入会を強要しました。翌八日、二人の子どもは無事に登園できたものの、十日朝、「解同」副支部長の高田博一らが、二十数人の主婦らを動員して妨害しました。
 これにたいして全解連支部は「市は入園を決定している。『解同』に権利はない。すぐにピケを解け」と抗議。お母さんに抱かれた西河真理ちゃんは、いったん園内に入り、保母にあずかられるようにしましたが、「解同」にとりかこまれて大声でわめかれたため、おびえた真理ちゃんが泣き出したので、お母さんはやむなく保育園から出ました。
 さらに十一日、門坂民生部長が市の責任で二人をあずかろうと、「市が措置決定をしているのであずかります。門をあけなさい」と松田保育園長に指示。松田園長が門を開けようとすると「解同」と「父母の会」の十数人が実力で妨害。門坂次長が「妨害をやめなさい」とくりかえし通告したにもかかわらず、無視しました。
 事態を重視した「公正・民主の教育と同和行政を要求する吹田市民の会」の池原隆・市職労委員長、佐々木紘治・水道労組委員長など代表十人は、市に「子どもが安心して保育所へあずけられるよう、万全の対策をとれ」と要請。全解連支部は「『解同』のいっさいの妨害を排除せよ」と要請するとともに、「こどもの心を傷つける『解同』=『父母の会』」と、真相を訴えるビラを市民に配布しました。
 このようなとりくみのなかで、「解同」はピケを解除したもの。しかし、かれらは、二人の親が「『父母の会』に入会した」とデマをとばしたため、全解連支部は「ウソやデマは絶対に真実にとってかわることはできない。二人の親は、『父母の会』に入会せずに、正々堂々と保育所に入れました。いまこそ、住民全体の納得のいく公正・民主的な同和行政を実現するためにたたかおう」と、光明町一帯の住民に呼びかけるビラを全戸配布しました。
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>>91

「藤川委員」を「藤川議員」に訂正します。

93名無し@日本降参党員:2004/03/17(水) 14:49
生徒から暴行、被害教諭を施錠部屋に隔離…兵庫の高校

・修学旅行先で2年男子生徒(17)に暴行を受け、負傷した兵庫県猪名川町、
 県立猪名川高校(関保校長)の男性教諭(39)が、職場に復帰した3月初め
 から、学級担任を外され、学校にいる間、鍵をかけた応接室で隔離状態に
 置かれていることが16日、わかった。
 教諭が被害届を出し、男子生徒は2月下旬、傷害容疑で逮捕されたが、
 学校側は「生徒たちとの無用な混乱を防ぐため」と説明している。

 調べによると、男子生徒は1月29日深夜、修学旅行先の山形市内のホテルで
 教諭がカラオケを歌わせないことに腹を立て、教諭を土下座させたうえ、頭をける
 などして約1週間のけがを負わせた疑い。当時、約10人の生徒と別の教諭2人も
 いたが、止めることができなかったという。

 教諭は心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断されたが、2月中旬、職場
 復帰を申し出た。しかし、学校側は混乱が収まっていないとして、2月末まで
 休職するよう命じた。3月1日以降、出勤したが、生徒たちの目に触れないよう、
 生徒が登校する約1時間前までに出勤させ、生徒が下校するまで応接室にいる
 よう指示された。応接室は外から施錠され、校長室を通らないと出入りできない
 ようにした。

 池田正章教頭は「異常事態だとは思うが、生徒との無用な混乱を避けるために
 は仕方がない」と説明する。しかし、教諭は「どうして被害者側が監禁されなければ
 ならないのか分からない。何をすることもなく、応接室に1日中いて精神的に参って
 しまった」と話している。 (一部略)
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040317ic01.htm

94葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/04/20(火) 10:38
お久しぶりです。「解放の道」(1971/3/5)より。

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結婚式に乱入・暴行
朝田一派「橋のない川」に因縁
羽曳野市

 【羽曳野】「解同大阪府連」の朝田一派が結婚式場にのりこんで暴力をふるい、新郎をなぐりケガをさせるという気ちがいじみた暴行事件が、大阪府羽曳野市で発生。親族をはじめ結婚式場に居合せた人たちを憤がいさせました。
 朝田一派に暴行されたのは、羽曳野市職労副委員長の森田豊一郎さん(二六)。森田さんの結婚式は二月二八日午後二時から、羽曳野市立市民会館でおこなわれる予定でした。ところが午後一時ごろ、朝田一派が分裂策動でデッチあげた「解同向野支部」の和島才一、浅田満、海原明美ら二十人の暴力分子が会場に乱入。結婚式に出席していた川口清・羽曳野市職労委員長ら三人の組合幹部の首をひっぱたりして、新郎新婦の控室へつれこみ、「映画”橋のない川”の上映に協力するのは差別だ」と脅迫しました。
 このあと、会場にきた森田氏が、結婚式準備のために控室をあ、けるよう話したところ朝田一派の連中は「なまいきな奴や」「いてしまえ」となぐりかかり、森田氏は顔をなぐられ、メギネが割れてその破片でまゆと眼下をキズつけられたため、結婚式は一時間あまりおくれました。
 羽曳野市では、部落解放同盟羽曳野支部(高松実委員長)を中心に民主団体によって映画「橋のない川・第二部」上映実行委員会がつくられ、三月六日に市民会館で上映するとりくみがすすめられています。
 ところが市当局は、いったん会場使用を許可しておきながら、朝田一派の圧力にくっして二月二十日、松本市長名で「使用許可取消し」を一方的に通告、二十七日、には「上映禁止」の仮処分まで申請ましたが、裁判官や上映実行委の弁護士から「憲法違反」とと指摘されて、取り下げる始末。
 同日、市職労も松本市長に「市民会館は市民ならだれでも使用できるたてまえ、不当な取消しは許せない」と抗議しました。破れかぶれになった朝田一派には、これが気にいらず、市職労にいんねんをつけ、結婚式場にのりこんできたもの。
 この暴挙を知った部落住民をはじめ多くの市民は、「あれが、”朝田解同”のやることか」として非難のこえをあげています。
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テンの打ち方など誤植ぽい箇所が多いのですが、いちおう原文ママです。

95もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/21(水) 19:00
>>94
よくさがしたね♪
すごい。
タイムリーだよ。

96もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:17
山 史門 (CYL03752)
解放同盟分裂以前(2308/3248)

花田 信一郎 さん、こんにちは。

>さて、次です。八鹿高校事件について述べてみましょう。全解連の批判、攻撃と
>いうものが稚拙で、少なくともマスコミに相手にされないという理由に事象だけ
>をとりあげて唯我独尊的に事を語るという性格があるからです。

朝日新聞記者上丸洋一氏は「なぜ新聞は書かなかったのか」ということについて
次のように述べています。

////////////////////////////////////////////////////////////////////////
 発生当時新聞は、この事件を兵庫県内の読者に向けて地方版に小さく報道した
だけであった。なぜ社会面に書かなかったのか。事件から20年あまり経った95年、
取材にあたった元新聞記者たちを訪ね歩き、話を聞いた。
 ある元部長は電話口でこう言った。「はっきりゆうたら逃げたんですよ。あま
り関わりたくないという意識がありましたな」。ところが、その後じかに会った
とき、彼は「部落差別は深刻だ。被差別者の立場に立って・・・」と何かを警戒
しているかのように、固い口調で繰り返した。その変わり様は不可解だった。別
の元記者はこの事件の報道を再検討すること自体、けしからんことだ、といった
口調だった。「部落解放のための糾弾を普通の暴力事件のように書けば、解放同
盟が暴力集団のように見られてしまう懸念があった。だからできるだけ抑えた」
と語る元支局部長もいた。(中略)
 天声人語の筆者深代惇郎は、八鹿町を管轄する豊岡支局に電話をかけ、「なぜ、
もっと書かないんだ」と若い支局員をしかったという。
 新聞は自らの主体的な判断で、事実は事実としてしかるべき紙面にきちんと書
くべきだった。それが新聞の役割であり、書かないのは暴力の黙認に等しかった。
いや、当時の記者にもその意識はあったに違いない。実際、多くの関係者が「い
ま思えば、もっと書くべきであった」と振り返った。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

97もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:19

 どこにも全解連の批判、攻撃というものが稚拙だったから、事象だけをとりあ
げて唯我独尊的に事を語っていたから、マスコミが相手にしなかったという理由
はありません。あなたの主張は、マスコミ関係者のスケープゴートでしかありま
せん。
 翌日の東京の各紙には「赤旗」を除いて一行も報道されず、現地の兵庫や関西
で発行されている新聞でさえ、全く黙殺したものがあるほか、取り上げた新聞も、
事件の性質から見て扱いが小さい上、その内容の多くは「八鹿高教諭らと解同系
もみあい」とか、「教師団と共闘会議側とトラブル」などと、集団リンチという
凶悪な犯罪が行われた事件の真相を伝えるにはほど遠いものでした。


>日共と解放同盟の分断亀裂の原因は何であったとお考えですか?

 当時の自民党がどのような方針を持っていたかは、1958年12月『部落解放運動
の最近の動向』(自民党同和問題議員懇談会)でまとめています。

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部落解放運動が「いわゆる民族民主統一戦線の一貫としての共同闘争」として
進むことが何より危険だ。勤評闘争で部落解放同盟が「勤評は差別を助長し同和
教育の障害になる」として和歌山その他で共同闘争をしていたことを重視し、こ
れが「勤評評定反対のような社会運動、政治運動等の権力闘争の統一行動に結び
つき、高められていくことに強い警戒感をもっている。さらに解放同盟が日本共
産党の部落対策路線に接近しつつあることも着目する。しかし、全体としては
「まだ解放同盟の組織は、それほど強固なものではないと思われる」。強力な運
動体になる前に先手を打つべきだ。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 背景には、自民党が「国民の間で進みつつあった革新共闘の一層の発展をくい
止め、そこから部落解放同盟を脱落させようとした」ことがあります。

 1959年6月に自民党治安対策特別委員会が作成した「国家の安全保持に関する
意見(案)」では次のように言っています。
「資本家、企業家は、いわゆる資本主義的悪弊を改め、労働者はマルクス・レー
ニン主義的階級闘争思想を排脱して、労使双方が国民経済の中におけるそれぞれ
の任務を自覚し、相互に立場を尊重する健全な労使慣行を確立すること」。

98もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:21
 この案は、勤評闘争に見られる国民の幅広い統一行動の発展を前にして、これ
を分裂・弱体化させることをめざして作り上げられた方針で、具体的には、「全
日本同和会」の育成としてでてきました。会が結成されたのは、安保闘争が頂点
を迎えていた60年5月10日、まさに部落解放同盟が三池炭鉱争議に連帯して運動
を強化しつつあった時期のことです。同和会の結成大会宣言には、「左右の階級
独裁を排し、国民を分裂・構想に導くような階級闘争はとらない」という言葉が
入れられています。

 とくに60年の安保闘争の絶頂期の6月17日に作成された「当面の公安情勢の分
析とその対策」では、「当面は、共産党、容共分子の孤立化を図ることを方針と
すること」と述べています。

 もう一つは、自民党側からの同和対策の積極化という形あらわれてきました。
政府同和対策予算(補助金と特別交付金)を「地域住民の自覚と積極的協力を基
とした受入態勢」のある地域を「モデル地区」として重点的に投下し始めました。
住民の「自覚と積極的協力」というのは、住民の下からの部落解放運動がないこ
と意味する言葉でした。

 6月17日の提案が出てから2ヶ月後に同和対策審議会設置法が公布されました。
同和対策のイニシアティブをとったのが、ハト派ではなく、勤評闘争や安保闘争
の対処の先頭に立っていたタカ派「素心会」グループであったこともうなずけま
す。素心会は、安保闘争や同時に進行した三井・三池炭坑争議に特別鋭い関心を
示し、緻密に情報を集め、周到な分析を加えていました。

 アメリカ政府もこの路線を支持・応援しました。ホワイトハウスで作成された
文書では池田内閣を「反政府派の社会主義者に最も巧妙に対応してきた内閣であ
り、それは社会福祉計画と生活水準向上のための諸政策により大きな力点を置く
ようになったし、かつこれを通じて左翼勢力を封じ込め、徹底的に孤立させ、公
的活動からしめだすことを目指している」と評価されています。

99& </b><font color=#FF0000>(70zeVo/k)</font><b>:2004/04/25(日) 18:22
 結論は1961年3月27日付自民党治安対策特別委員会文書「国民に対する指導理
念確立に関する件」にまとめられています。その具体策として「福祉国家建設の
ための政策を勇敢に実施」することが提唱され、「健全な国民運動」を組織して、
革新的な民族民主統一戦線が強大化するのを未然に防ごうとし、そこで同和対策
の具体化を急いだのです。

 この「左翼勢力を封じ込める」という方策は、部落解放同盟の中の活動的な勢
力もその対象とするものでした。自民党は解放同盟内に「思想的対立が深刻化し
てきた傾向」(全日本同和会第3回大会資料1962年4月)のあることを察知し、
その指導部主流を補助金行政への道へと誘導して、活動的な勢力を孤立させよう
としたのです。同和対策審議会の設置や運営に重要な役割を果たした山本政夫氏
は「朝田君は、まあ物取り主義結構じゃないかと言っていた」と証言しています。
ロストウ路線に通じていた当局者は、このような物取り主義者たちを補助金行政
=開発行政によってたやすく「若い指導層の新しい源泉」にかえることができる
こと気づき、自信をもち始めました。

100& </b><font color=#FF0000>(Fm7GU/Nk)</font><b>:2004/04/25(日) 18:24
 その実例とは、1961年10月、愛媛県で部落解放同盟が、自民党が主導権を握っ
て組織された県同和対策協議会に吸収合併されたことです。愛媛県は、勤評政策
を先導的に試行して自民党の新しい地域支配の実験場として位置づけられました。
このことは、たとえ部落解放同盟を名乗る勢力であっても、一定の条件を与えれ
ば地域支配の有力な一翼を担う勢力へと変質することを証明したのです。

 このようにして自民党は、同和対策事業を地域ボス主導の方向で推進すれば、
革新的統一戦線を打ち砕くことができることを知りました。また解放運動指導部
の一部を開発行政の担い手に変えて地域支配を補強することができることに気づ
きました。

 他方、活発になってきた要求実現運動(請願運動)=活動的な勢力に対しては、
弾圧を加えました。以下の府県は解放同盟が活発な地域で、しかも教組、全日自
労、生活と健康を守る会など共同闘争を組んだ支部に向けられました。それは住
民に根ざした戦闘的な支部に痛打を加えるもので、解放同盟左派を孤立化・弱体
化させるものでした。

*1962年7月4日 高知県興津(オキツ)事件
  高知県警が250名の武装警官を動員し、小室部落を急襲
  13人逮捕、14〜15人負傷
*1962年7月6〜7日 
  高知県警80名の武装警官が再び急襲。17人逮捕
*1963年8月23日 山口県
  警官150人を動員、県連活動家9人逮捕
*1963年11月13日 香川県
  失対打ち切り反対で県連・全日自労支部、県と団交
  警官を動員して一人逮捕
*1963年11月20日 香川県
  上の問題で県庁で交渉中の同盟員3人を不退去罪で検束
*1964年7月21日 大阪府
  蛇草支部など16団体が5日、国産生ワクチンの安全性確認を要求して対市交渉
  府警、暴力行為があったとして市議を逮捕。蛇草支部を手入れ。
*1964年7月28日 広島県
  15日の水害復旧要求の対市交渉で暴力行為があったとして、県連委員長を逮捕
*1964年9月22日 岡山県
  県連井原市協、部落行政施策の完全実施を要求して160人で市長交渉をした際、
  県警を動員して退去を命令
*1964年12月 大阪府
  北蛇草で警察、不正受給として生活保護者を調査
*1965年1月24日 奈良県
  県警、桜井市の3診療所を国民健康医療費詐取容疑で家宅捜査
*1965年6月17日 奈良県
  大和高田市3部落の低家賃住宅入居選考で、部落住民の反対を押し切り抽選
  会を強行、これに抗議した同盟員3人を逮捕。

101もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:26
 1962年5月24日、興津事件が始まる6日前、高知県同和対策審議会の初会合が
行われました。この審議会に知事が「同和関係団体の一本化を促進し、同和行政
の運営を円滑にすること」諮問しています。この意味は第一に、行政側の審議・
決定した予算や計画を「円滑」に実施する態勢をつくりたいということであり、
一旦決定されたことに対して住民側が意義や抗議をすることを許さないようにし

たいということです。第二に同和対策事業の窓口を一本化できるよう同和関係団
体を統合したいということです。興津事件を推進するような戦闘的な組織は排除
し、愛媛のように解放同盟と融和団体との合併をはかってそれに同和事業の実施
をゆだねたいということです。解放同盟の右派を政府・自治体に引き寄せ、右派
と同和会とが協力し解放同盟の左派を押さえつけながら同和対策予算による施策
を実施するという構造なのです。

 大阪府では同和対策審議会で、府会議員、同和事業促進協議会4名、解放同盟
府連3名によって審議が進められているうちに、識字運動をはじめ住民に根ざし
た活動を発展させていた蛇草では「暴力行為」を理由に支部が手入れを受けるあ
りさまでした。同じ解放同盟に入っている人々であっても、あくまで住民の要求
に密着して運動を進めようとする勢力は弾圧を受け、「物取り主義結構」とする
勢力には審議会のポストが与えられたのです。

 このように運動への一定の譲歩を装いながら、実は解放同盟の右派的な指導者
を「開発行政」の担い手の隊列に加え、これを手なずけようとする動きでした。
そしてこの動きが右派的指導者を官僚化し部落解放運動を変質させる効果は、驚
くほど早くかつ顕著に現れました。同和対策審議会答申やそれを具体化した同和
対策事業特別措置法は、この動きの全国化でした。(続く)

99/03/16(火) 07:07 山 史門(CYL03752)

102もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:32
八鹿高校の同和教育(2307/3248)

RE:01201

花田 信一郎 さん、こんにちは。

>>ここらを問題にするなら、解放研の設置が八鹿高校の(同和?)教育への「介入」
>>にあたるのかどうか、といったあたりにまで踏み込んで評価を下す必要が出て
>>きますね。

>ご指摘のとおりだと思います。ただ、裁判記録には、上記のようなBUNTENの問題
>提起は示されていないわけです。
>昭和48年(1973年)には解放同盟兵庫県連の支部が地区にも
>発足しています。つまり、このことが「解放研」の発足にどれだけ主体的に関っ
>たのか。或いは「子供たちの主体的な意思」としての「解放研設立要求」であっ
>たのか。もちろん、どちらかが一方的にあったというわけではないだろうと思い
>ますが、これは少なくとも「八鹿高校」の「解放研設立」という事象ですから、
>生徒たちの意思はどうであったのか、という視点は極めて重要だと思っています
>ね。今は、いくつかの文献から、そういうことを調べています。

 最高裁民事判決では、事件当時の八鹿高校の教育について、「少なくとも(解
同が主張するような)部落差別を助長するような差別教育ではなかったことは明
らか」だとしており、「解同」が要求した「部落解放研究会」を教職員側が承認
せず、「解放研」生徒との「話し合い」に応じなかった点について「落ち度」が
なかったことは認定しています。

103もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:33
 解放研の性格と実態については、八鹿中学の卒業生の田村氏が述べています。
雑誌『部落』94年11月号より
////////////////////////////////////////////////////////////////////////
 3年生の前期に、生徒会の会長をしておりました。夏休みまでは解放研もそん
なに目立った存在でなかったのですが、秋の文化祭の行事には解放研の時間を確
保するように指示され、シュプレヒコールが始まり、突然何が起こったのかな、
という感じでした。それに引き続いて、ある生徒の交換日記に書かれていた未解
放部落の生徒に関する記述が差別意識のあらわれだということで、確認糾弾会が
もたれました。「部落差別とはどういうことか」と質問され、分かりませんと言
うと、「それが差別なんだ」と言われてびっくりしました。そうした中で生徒会
の役員は解放研に入るようにと言う指示があって、入りました。和田中学校の確
認会があるから出るように、と突然来るわけです。
 非常に苦しい状態でしたね。例えば解放歌を歌えないと差別者だと言われるの
で、お風呂の中で一生懸命覚えるとか、それから国語の時間に解放歌の意味調べ
とかもうそれは必死でしたね。
 11月22日、生徒会の係の先生が、生徒会の前役員と新役員は反省会をするから
残ってほしいと言われました。残っていたら、反省会ではなくて、八鹿高校に連
れていかれたんです。(目的も何も言わずにです)。ゼッケンをはちまきを渡さ
れ、これは絶対手放すなと言われて高校に入り、うろうろするなということで、
木の下に集まっていました。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

104もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:36
 最高裁は、「解放研は、人間的な触れ合いと全人格的な結びつきを基盤として、
教える者と教えられる者との間に良好な教育的秩序が必要な学校教育において、
その全てを根底から破壊しかねない重大な危険性を帯有しているのみならず、指
導面でも、教師の指導を排除して、教育現場において関係者の総学習、総点検の
実施を要求する解放同盟の指導を至上のものとしており、運動体的色彩の濃い生
徒の集団であって、本来教師の指導、助言のもとに学習活動をすべきクラブ又は
同好会とはまったく異質のものであった」と、「解放研」が「解同」という外郭
団体の指導下組織であることを明らかにしています。
 学校教育が「不当な支配を受けない」と言うのは、教育基本法で保障されてい
ます。「解放研」問題を口実として県立八鹿高校に「解同」丸尾派が教育介入を
図ろうとしたのは明白です。

>ただ、八鹿高校の部落研というのは、その前身
>にあたる「社会科学研究会」から数えれば、事件の10年前に発足しているわけで
>す。そこから分化して4年前に「部落研究会」として独立をしています。
>八鹿高校でいわゆる「同和教育」としての授業が始まったのは昭和46年の春から
>です(1971年) 。
>で「同和教育」でどういう内容が指導されていたかといえば「部落の歴史」や、
>「起源論」が中心だったという証言があります。つまりここで問題になるのは、
>「部落差別も一般差別も一緒」という結論への導入なんですね。それは違うとい
>う生徒の意見に対しては「根源を考えるには、社会体制と歴史で考えよう」とい
>った回答になる。

 ここまでに何か問題があるのでしょうか?

105del:del
del

106もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:42
>再び「現実の実態がそこにない」という反論には「実態に部落
>差別の根源があるのか、そんなものは先生にはわからない」という話になる。
>このあたりは、現在の全解連の主張と大きな隔たりはありませんから、こういう
>指導が行われていたということについては、かなりの信憑性があると思います。

 「実態に部落差別の根源があるのか、そんなものは先生にはわからない」とい
う指導が行われていたのでしょうか?
 卒業生である三木氏が雑誌『部落』94年11月号で証言しています。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////
 それと事件の関係で言うと、ぼくが3年生の時、同和教育をめぐってちょっと
したもめごとがあったんですよ、ぼくのクラスで。ホームルームの同和学習の時
間に、部落出身でぼくの友人が、歴史ばかりの同和学習をきらって欠席したんで
す。恐らくその時間への批判を欠席というやり方であらわしたんだと思います。
 ぼくたちの担任の先生は、普通の先生でしたが、その日の放課後、班長を集め
て会議を開き、民主的な方向で解決してくれました。ぼくはどっちかというと解
放研ばりの意見で、「歴史ばっかり学んで何になる、部落差別の現実に学ぼう」
と主張しました。そういう意見に対しても丁寧に対応してくれて、率直で真剣な
討論になりました。歴史を学びながら、現実問題の学習を大きく取り入れようと
いう結論になり、クラスへ提案されました。
 このように生徒の問題提起に対して、先生たちは誠実に対応されていました。
だから事件の時「教師が生徒との話し合いを拒否した」のが事件の発端だといわ
れていましたが、ぼくたちはすぐそのウソに気がつきました。おそらくそれは、
事件当時の在校生の一致した見方だったと思います。それがあの日の生徒たちの
行動を支えていたものだと。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

107もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:45
>つまり「社会科学研究会」「部落研究会」の方針が強く反映されたものであった
>ということにもなりますね。

 学校教育がなぜ生徒の「社会科学研究会」「部落研究会」の方針が強く反映さ
れたものとなるのでしょうか?

>日本共産党が中枢を占める「兵庫県高教組」の声明をみると「結成以来二十数年
>、一貫して民主的な教育を推進してきた分会である。また、高校全入運動の中心
>となるなど、地域住民と提携し、その要求を自らのものとしてともに解決してき
>た分会である。生徒をよく理解し、親と生徒と学校の深いつながりの中で、差別
>のないホームルーム編成や生徒の自主活動を保障するなど、同校教師の実践は高
>い評価を得ている」などと自画自賛だらけなのだが、もしそのとおりであるなら

>ば、こういう事件はおきるはずもないのである。(#2245)

 実践は声明のとおりです。雑誌『部落』94年11月号より
////////////////////////////////////////////////////////////////////////
 私が高校にいた頃は、事件以前だったんですが、八鹿高校の自治会はすごいと
いう話はその頃から聞いていたんです。何か安保闘争では東京まで代表を送った
学校であるとか、但馬ではじめてフォークダンスをした学校であるとか。
 自由な校風ってのが本当にあふれていましたね。その反面、責任をもって高校
生活を創り出していく、別の言い方をすれば、一人前に扱われたというか、それ
が一番大きな違いでした。それまでの中学校の管理教育とあまりにも違うのです。
 リーダーキャンプの後、いよいよ本キャンプに入るわけですが、リーダーたち
を中心に立案から実行にいたるまで、全部生徒がやるわけです。バスの予約まで
生徒がしなければならない。自分がしなければ、誰もしてくれない、それまでの
人生になかったことでしょう。(卒業生三木氏)

 普通は教師が何をどうしたかということで教育が語られると思うんですが、八
鹿高校の場合は、生徒がいかに何をするのか、そっちの比重が非常に高い学校だ
と思います。八鹿高校事件後、八鹿高校の教育が語られる場合、民主教育や同和
教育がクローズアップされましたが、やっぱり同和教育ばっかり見られてしまう
ということがありますね。(外から虚像をつくってくれるな)。
 何が違うかというと、まず授業ですね。
 地学:ラジオの気象情報を聞いて天気予報図を書く
    全員が天気図を書けるようになる
 倫社:自由テーマで原稿用紙10枚以上全員提出
 物理:グループで何度も実験し、その度にレポート提出
    レポートを書くために友だちの家にグループで集まる
 体育科のキャンプだけじゃなくて、通常の授業の中で、自然に仲間づくりがさ
れていく。それと生徒自身に主体的に取り組ませる工夫された授業ですね。
 キャンプやホームルーム活動、学校祭に懸命に取り組んで、勉強一辺倒ではな
い豊かな高校生活を送った。クラブに入っていない生徒ものめり込めるメニュー
がたくさん用意されている学校だった。
 生徒自治会という面でいえば、特に事件後、他の自治会活動を知って感じたん
ですけれども、いわゆる民主的自治会活動をやっているという高校の場合、教師
の方が社会的な問題に取り組ませるよう指導しているところが多いように思いま
した。ところが八鹿高校の場合、そういう教師からの指導は何もない。八鹿高校
の場合は授業改善の問題であるとか、どういうクラスをつくるかということ、学
校祭への取り組みとか、そういう高校生の等身大の発想がまず大切にされた。民
主的というより自由な雰囲気が強かったと思います。
 特に執行部とかホームルーム運営委員の連中なんか、自分たちは先生と対等の
立場で学校づくりをやっているという意識が非常に強くて、先生がどんなことを
言おうが、自分たちのことは自分たちできめるんだという伝統がありましたね。
だから事件の時も、自分たちの学校なのになんで外部が介入するんだという怒り
がまずあったんです。
 八鹿高校事件というものに対して、教員の方もたたかったし、生徒も生徒の立
場で一緒にたたかった。とくに先生方が入院して授業がない時、学校の管理運営
はどこがやったかというと生徒自治会だったんです。12月2日授業が開始される
まで自主授業をやったわけです。そして校長、教頭、県教委に対して正常な学校
を取り戻せ、先生と生徒の身の安全を保障せよという要求をつきつけながら、学
校を運営してきた。(卒業生濱氏)

108& </b><font color=#FF0000>(70zeVo/k)</font><b>:2004/04/25(日) 18:46

 当時の中学校解放研の中に、八鹿高校の差別教育というのを徹底的にあおられ
て、八鹿高校へ行って教師を糾弾するんだという目的をもって入学した生徒もい
ました。だからクラスの中でもこわごわなんです。朝来中、和田山中は解放研の
組織率も高いし、向こうは向こうで八鹿中はどうかなとうかがっている。ところ
が八鹿高校の場合は、ホームルームでの活動をすごく重視されていて、それにの
めり込んでいってしまいました。一年生の夏のキャンプは、全員で分担しながら
やっていく。その中でクラスがまとまっていく。
 それができた頃に学校祭に突入する。いやおうなくクラスの行事が進んでいく。
                            (卒業生田村氏)
////////////////////////////////////////////////////////////////////////



98/10/02(金) 13:00 山 史門(CYL03752)

109もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:52
山 史門 (CYL03752)
八鹿高校再び(2633/3248)

花田 信一郎 さん、こんにちは。

>特に「地名総鑑闘争」についての、はぐらかしたと
>しかいいようのない回答については言葉を失いましたね。
                      ・・・・・
>>>>>解放同盟の「地名総鑑糾弾闘争」における一定の成果について、認めるという
>>>>>立場をとるのか、それは全く認めるに値しない。そのような運動は同和問題の
>>>>>解消について、解放運動として意味のない、取り組むようなことではないとい
>>>>>う点で否定されるのか、まずここをはっきりさせてください。
>>>解放同盟の活動がなければ、もっと巧妙な悪質なものが際限なく出回っていた
>>>と思います。
>> 確かに「地名総鑑」の発行は防げたでしょう。しかし、就職の機会均等の保障
>>は、上記のような取り組みがなければ、実現できなかったでしょう。(#2626)
は回答になっているでしょ。

>しかも今度は公明党
>批判のための「だらだらとした引用」を繰り返すことに終始する。「共産党も
>ひどいが公明党はもっとひどいのだ」という印象を与えることによって議論を
>拡散し回避しているとしかいいようがありません。
>要するに山さんにとっては
>「共産党」こそが全てなのですね。とにかく一切の批判はうけつけない。徹底
>して「はぐらかす」というのであれば、続ける意味などありません。質問に対
>して質問で切返すなどというのは「反論」にはならないということが山さんに
>はわからないのでしょう。

>>竹入氏へ
>>の場合は「批判された政党」がとりうる許容範囲ではなかったか
という花田さんの認識について、コメントすることがいけないことですか?
あなたの認識に対する一切の批判はうけつけないということですね。
 印象を与えているのではなく、現実に「公明党が機関紙上でどのようなことを
しているのか」を示しているわけでしょ。議論の拡散ではないでしょ。
 ここで論点になっていること以外について論点を広げてはいません。

110& </b><font color=#FF0000>(70zeVo/k)</font><b>:2004/04/25(日) 18:54

 そもそも「全解連の運動は大衆的かどうか」が論点だったはずです。それに日
本共産党の問題を持ち出してきて、議論を拡散し回避したのは花田さんでしょ。
 花田さんは、全解連の具体的な運動について言及したことはないでしょ。ある
なら発言番号を明示して下さい。
 「自分は広げていいが、他人は広げるな」ということですね。


>> 共産党や共産党員に対する公務員による盗聴や盗撮などは許されるというこ
>>とでしょうか?
>そんなことをいつ私が述べましたか?

#2365で
>>>やりかたがまずかった。下手だ
>>>った)という以上の感想は、判決についてはない
と警察の盗聴に関して述べていらっしゃるので、上記の問いを発したわけです。

>> 八鹿高校事件に関しては、花田さんは、解同による拉致・監禁・暴行・傷害
>>は共産党員なら許されるという立場でしたよね。
>
>共産党員なら許されるなどということではありません。
#2245では
>>>日共系教師たちは・・・
>>>教師集団など認めるに値しないというのが、私の考えですね。
と述べていますよ。
 じゃあ、誰であっても「解同による拉致・監禁・暴行・傷害」は許されるとい
うことですね。「解同」の「拉致・監禁・暴行・傷害」という「人権侵害」は問
題にしないということですね。
以前、#2298で
>>>糾弾闘争として負傷者を出したことについて、それ自体は遺憾な面があ
>>>ることを否定しない。
とおっしゃっています。これは負傷者を出したことは「残念だ」という気持ちで
すね。それ以上の「人権侵害」に対する評価はないということですから。
 そして同時に#2298で
>>>その経過をみれば「おこるべくしておこった」事
>>>件だという面を強く感じるということです。
と事件を肯定し、前回も
>色々な経過の中から「不当な差別があれば」それが決して望ましいことで
>はないにしろ、あのような結果を生み出したことは、やむをえない面を否定で
>きないと述べているのです。
と「やむを得ない」と認められているのですから。


>あの事件に関
>しては、解放研の設立を一度は学校側も認めながら、それが全解連によって不
>当に潰され、彼らは生徒との話し合いを拒否したのです。同和問題について考
>え方の異なる研究会が学校に設置されることは全くおかしなことではありませ
>ん。

 忠告してきたことを聞かないからこんなところで「墓穴」を掘るんですよ。解
放研の設立を認めなかったのは、「全解連」でしたか。八鹿高校事件の時に「全
解連」ってありましたか?

 この件については#2297で次のように反論しているのですが、花田さんは
>>>山さんが世に言う「最高裁判決」というものを金科玉条の如く支持していること
>>>はよくわかりました(笑) 別に「最高裁判決」が全て妥当な判決ばかりなどとい
>>>う認識は、私は有しておりませんので。
全く無視していますね。これを「議論の回避」と言うんですよ。

111もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 18:56
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////
>5月12日に「解放研」承認を要求する生徒が校長・教頭に話し合いを求め、その
>経過の中で6月には校長・教頭・分校教師らが研修会にも参加。7月には管理職
>の責任において「解放研」の発足が承認された。別に「部門研」を潰せなどとい
>う要求はでていません。ところが日本共産党党員教師もしくはシンパの教師とい
>う面々は、とにかく策動に励むわけです。8月5日には校長・教頭が欠席したま
>ま、職員集会を開催し「解放研部室」の撤去を決議しています。職員会議の性格
>を議決機関・諮問機関どうとるかは別にしても、こういう方式がまともだとは到
>底思えません。

 職員会議では承認されていないのですよね。なぜ「管理職の責任において」、
解放研の発足が承認されたのですか?学校という中で、議決機関・諮問機関だろ
うが、教職員の承認を得ずに、管理職が独断を行うことが誤りだと思います。
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 花田さんの言うことがいかに一方的かを示します。
八鹿高校事件前日11月21日に兵庫県高等学校教職員組合が訴えた文「但馬の住民
のみなさん、全県下県民のみなさん」や東上高志同和教育著作集18『ドキュメン
ト八鹿高校事件』部落問題研究所所収「この無法、この蛮行−朝来事件の真相と
背景−」1974年2月では、次のようになっています。

/////////////////////////////////////////////////////////////////////////
 研修会とは、「部落差別に立ち上がる高校生の一泊研修会」で、主催者は但馬
同和教育協議会高校部会で、参加者は各高校の校長、教頭、同和主任、「解同」
一部役員、部落出身高校生などで行われた。
 しかし、研修会とは名のみで、その中身は各学校の同和教育の点検という形で
すすめられ、確認・糾弾会となりました。
 八鹿高校についていえば、「解放研をつくれ」という要求を参加していた教頭
につきつけ、いくら「職員会議で決定しなくては私の一存では決められない」と
言い続けても、認めるまで大多数の生徒・解同青年行動隊と一緒になって長時間
せめつづけ、強引に認めさせました。 
 けれども、この無茶苦茶なやり方で認めさせた「解放研」設置の要求は、今日
に至っても職員会議の承認を受けずに校則のどこにもない方法−すなわち、校長
独断で部室も与えられ、教頭が顧問になっています。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

112& </b><font color=#FF0000>(70zeVo/k)</font><b>:2004/04/25(日) 18:59
////////////////////////////////////////////////////////////////////////
>その後の話し合い要求も拒否し11月16日には待機した解放研生徒
>と話合った3人の教師をとり囲み連れ出し、そのまま11月22日まで一斉スクラム
>下校という方式を採ったわけです。18日には「解放研生徒」21人が職員室に座り
>込み話し合いを要求。彼らは依然として話し合いに応じない。11月19日釈明を求
>める生徒たちの要請も拒否。20日に「差別教育糾弾闘争」に発展した。

 最高裁民事判決では、事件当時の八鹿高校の教育について、「少なくとも(解
同が主張するような)部落差別を助長するような差別教育ではなかったことは明
らか」だとしており、「解同」が要求した「部落解放研究会」を教職員側が承認
せず、「解放研」生徒との「話し合い」に応じなかった点について「落ち度」が
なかったことは認定しています。解放研の性格と実態については、「解放研は、
人間的な触れ合いと全人格的な結びつきを基盤として、教える者と教えられる者
との間に良好な教育的秩序が必要な学校教育において、その全てを根底から破壊
しかねない重大な危険性を帯有しているのみならず、指導面でも、教師の指導を
排除して、教育現場において関係者の総学習、総点検の実施を要求する解放同盟
の指導を至上のものとしており、運動体的色彩の濃い生徒の集団であって、本来
教師の指導、助言のもとに学習活動をすべきクラブ又は同好会とはまったく異質
のものであった」と、「解放研」が「解同」という外郭団体の指導下組織である
ことを明らかにしています。学校教育が「不当な支配を受けない」と言うのは、
教育基本法で保障されています。
 つまり「解放研」問題を口実として県立八鹿高校に「解同」丸尾派が教育介入
を図ろうとしたために起こったのです。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////
 16日には、教頭から「臨時職員会議の結果、解放研生徒との話し合いはしない
ことになった」という返事があった。このため生徒は、電話連絡により、連合解
放研に支援を依頼し、3時半頃には20名の他校の「解放研」が来た。一方的に同
和室3名の教員を罵倒し、他校の「解放研」20名近くが職員室入口にたむろし、
帰ろうとする教師たちを妨害した。
 17日の日曜日には「解放研」の生徒が八鹿高校内の職員室をはじめ教師の机の
中まで「差別教師糾弾」のポスターをはりめぐらせ、18日朝には「八鹿高校教師
の冷たい仕打ち」なるビラを高校前・養父・和田山・新井・生野の各駅前でまい
た。「解同」の宣伝車6台が八鹿高校に入り、大声でがなりたてていた。休み時
間にはシュプレヒコールが繰り返される騒然たる状態が続く中で「三項目の要求」
が出されます。18日の座り込みの21人の中には他校生も含まれており、さらに昼
過ぎには、マイクロバスで40名の他校「解放研」生徒を引き連れて丸尾が乗り込
み、3時40分に「八鹿高校教育正常化共闘会議の闘争宣言」をスピーカーで行い、
八鹿高校は異常な状態におかれます。ここですでに「解同」に八鹿高校は占拠さ
れているのです

113& </b><font color=#FF0000>(Fm7GU/Nk)</font><b>:2004/04/25(日) 19:02
 「三つの要求事項」は次の通りです。
一、八鹿高校解放研の顧問をさらに3名つけること(但し、その人選は解放研の
希望を受け入れること)
二、八鹿高校解放研と先生の話し合いをもつこと(但し、但馬地区高等学校連合
部落解放研究会並びに各役員を含むこと)
三、現在、八鹿高校の同和教育は、部落の解放と全ての生徒の幸せにつながって
いないことを認めること。

 要求されているのは、八鹿高校の教師と生徒の話し合いではないのです。二は
但馬各地で「話し合い」という名で行われてきた「点検・確認・糾弾」を受けよ
ということです。三の要求は、八鹿高校の同和教育は、差別教育であったことを
認めよということです。
 またこの研究会は単なる「同和問題について考え方の異なる研究会」ではない
こともお分かりでしょう。人事まで要求する研究会なのです。このような研究会
が「学校に設置されることは全くおかしなことではありません」と言えますか?
 また三の要求なんて、「本来教師の指導、助言のもとに学習活動をすべきクラ
ブ又は同好会とはまったく異質のものである」ことは明白でしょう。
 もし、こうした要求の一つでも飲めば、八鹿高校は、南但馬の各小中学校や行
政と同じように、反社会的暴力利権集団としか言いようのない解同に蹂躙される
ことは火を見るより明らかでした。

 20日には、他校の「解放研」生徒、青年行動隊によって職員室の出入りが自由
にできない状態になる。さらにこの日から「約1200〜2700人が同市内で集会とデ
モを繰り返した」(「毎日新聞」)
 この夜、「八鹿高校差別教育糾弾共闘会議」に切り替えた彼らは、21日午後4
時から21名の「解放研」生徒をハンストに入らせ、最悪の事態をつくっていった。
 「三項目」要求をのむまでは、どこまでも、どんな手段を使ってでも、押し切
る−という彼らのやり口がよく分かる。

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>21日からの「ハンスト抗議」(生徒らの)も放置して、日共系教師たちはスクラム
>を組み校歌とインターナショナルをうたって一斉下校。こうした中で流血事件が
>おき、双方に負傷者が出たわけです。要するに「生徒不在」の中でのこれだけの
>闘争を平気でやってのける、放置するなどという教師集団など認めるに値しない
>というのが、私の考えですね。

 また判決では、、事件当日、危険を感じた原告らが集団下校した点についても、
「落ち度」なしと、次のように教職員の態度・行動の正当性を認めています。
「緊急事態に直面した原告らが、自らの身体の安全と八鹿高校の教育の自主性、
主体性を守るため、非常手段として集団下校したことには無理からぬものがあり、
むしろ緊急避難であったということができる」とした上で、刑事判決の原告非難
部分を引用しながら「解放研の性格と実態、解放研生徒の要求する『話し合い』
の内実等を子細に検討すれば、右の指摘が果たして正鵠を射たものかどうか疑問
なしとしない」とその誤りを指摘しています。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

114& </b><font color=#FF0000>(Fm7GU/Nk)</font><b>:2004/04/25(日) 19:07
 上記の動きを見ても、八鹿高校の「解放研」生徒20名の動きでないことは明ら
かです。すなわち、八鹿高校事件は、八鹿高校「解放研」を全面に出してはいる
が、最初から「解同」丸尾一派が、組織的・計画的に進めていたことが明らかで
ある。要求を受け入れれば、話し合いと称する「糾弾」を、受け入れなければ、
それを理由に一気に攻め込むという、まことに巧妙な「三項目要求」に端的に表
れている。
 「ハンスト」ですが、それは今では八鹿高校では誰一人知らないものはいない
「ビフテキランチ」を腹いっぱい食べさせてのハンスト入りであった。
 夜になると、「一万人集会で共闘しよう!」という呼びかけで「デモや抗議糾
弾集会が約3時間にわたって」(町長資料)繰り広げられ、糾弾会会場づくりも
行われ、投光器が設置され、「解放車」が配置されるなど、翌日の準備が着々と
整えられていった。
 
 学校においては、「解放研」生徒の座り込み、断食に加えて、18日から他校
「解放研」、青年行動隊、座りこんでいる生徒の父母、「解同」丸尾一派が出
入りし、教師を威圧して、騒然たる有様であった。こうした中で教師たちは、
身の安全を守るために18日から集団登下校を行い、授業を守り通してきたので
あった。解同小西委員長は「授業を放棄してスクラムを組んで学校を逃げ出し
た」などと罵ったが、八鹿高校の全教職員は22日の襲撃の日まで、これほどま
でに困難な状況にありながら、一人として職場を放棄していないのである。

115もっこす </b><font color=#FF0000>(08EeniEM)</font><b>:2004/04/25(日) 19:08
 22日に教職員のとった処置は、襲撃から生徒を守り、身の安全を守るために、
ホームルームで事態の緊急性を伝えて生徒の下校を促し、そして年休届けを出
して全員が校門を出ることだった。教師たちは、八鹿高校の校歌を歌いながら
整然とスクラムを組んで校門を出ていった。
 それに対して、「解同」丸尾一派は数百名を動員して襲いかかってきたので
ある。道路に座りこんだ教師に対して、彼らが何をしたかは「告訴状」に見る
とおりである。

今回は、八鹿高校事件を中心にしました。残りは別RESで。

00/02/14(月) 13:58 山 史門(CYL03752)

116葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/06/08(火) 19:46
ご無沙汰しております。「解放の道」(1975/6/15)より。

--
新聞労連青婦協を襲う
東京の朝田一派

 【東京】「部落解放同盟」都連青年部を名のる、朝田一派とトロツキスト暴力学生約八十人が、七日夜新聞労連青婦協の集会参加者に突撃、二十人を負傷させる事件をひきおこし、関係者のなかに怒りがひろがっています。
 新聞労連東京地連青婦協は、この日東京湾内で船上交流集会を開きました。マスコミ内部で「朝田タブー」がひろがっていることから、労働者の立場で、部落問題を正しく知ろうと、同集会で「橋のない川」の上映を計画。朝田一派は、これにいいがかりをつけて参加者を襲撃したものです。
 朝田一派は、最初「日共新聞労連の差別映画上映糾弾」などとかきたてたビラを配っていましたが、上船場受付に、参加者が集りはじめたころあいをみはからって、隊列をくんで突入。参加者約二百人は、スクラムを組んで乱入者を阻止しましたが、数回にわたる突入で、最前列にいた二十名の人たちが傷をおわされました。
 参加者は、「一方的な主張を暴力でおしとおそうとする態度は許せない」「八鹿高校の話も聞いていたが、暴力集団としての本質がよくわかった」といかりの声をあげ、交流集会を成功させました。
--

117葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/06/08(火) 23:55
「解放の道」(1975/4/25)より。

--
山田さん宅へ投石
朝田一派 暴力で選挙妨害
大阪市

 【大阪】六日午後七時ごろ正常化連会計・大阪連絡会議副議長山田政信氏宅(大阪市東住吉区矢田矢田部町本通六丁目)にブロックの破片やこぶし大の石が投げこまれて、玄関のガラスを割られ、蛍光灯が破損するという事件がおこりました。
 山田さんの家族は奥にいたため被害がありませんでした。午後8時すぎ帰宅した山田さんは、ただちに110番して警察に捜査を要請。心配してかけつけた近所の人たちに「朝田一派がどのような妨害やいやがらせをやってきても、絶対に負けない」と話していました。
 山田さん宅襲撃事件は、全国いっせい地方選挙で反共「社公民」路線の”暴力行動隊”として登場してきた朝田一派のものであることはあきらか。
 かられらは(ママ)、この日の朝も同町の市営住宅前で街頭演説をしていた共産党の候補者カーをおそい、約十人の運動員になぐる、けるの暴力を暴行をくわえています。このとき、車上にいた山田さんは「選挙妨害をするな」「君らのやっていることは部落解放運動ではない」ときびしく抗議し、現場をみていた部落の人からも「やめろ」と非難されていたことに逆うらみして、山田さん宅にいやがらせをしたもの。
 なお、朝の暴行事件には朝田一派の「矢田支部」執行委員・大阪府職員の中田耕平、住田邦広、「支部青年部」の田村伸一、中田勝彦、トロツキストの高味修一らがいました。
--

118トレマン:2004/06/10(木) 21:37
>>葉寺覚明さん
いつも読んでます。
これからも頑張ってください。

119葉寺覚明 </b><font color=#FF0000>(WuRV/fU6)</font><b>:2004/06/13(日) 21:57
「解放の道」(1976/4/5)より。

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朝田派幹部が離脱
高知
暴力行為を自己批判

 【高知】六年前、高知市で映画「橋のない川」第二部が上映されたとき、これを暴力で妨害して、公判中の「解同」朝田一派県連(委員長東崎唯夫)の前幹部が、かれらの組織から離脱し、国選弁護人による分裂裁判が、このほど、高知地裁で決定されました。
 朝田一派から離脱したのは、土佐郡土佐町の支部長であった小南晶博氏。一九七〇年十一月四日、高知市東宝劇場で、上映実行委員会による「橋のない川」上映にたいして、小泉氏は県連書記長藤沢嘉郎(現朝田一派の中央副委員長)の指示をうけて、西村渉、米内聖賢など暴力幹部とともにトロツキスト学生をふくめて約七十人で劇場を襲撃。実行委関係者と観客六人に重軽傷をおわせました。
 このため、実行委員会はただちに告訴。同年十二月に六人が暴行傷害罪で逮捕され、今日まで、高知地裁で裁判がつづいています。
 小泉氏は、その後も西村渉らの利権あさりに利用されてきましたが、朝田一派の暴力・利権路線に矛盾をもつようになりました。
 さらにことし二月になって、正常化高知県連へつぎのような文書をよせて、誤りを自己批判するとともに、朝田一派の組織から離脱、「正常化連の協力と指導をえて、自分を立ち直らせていきたい」と決意を表明しました。
 「私は現在おこなわれている映画『橋のない川』第二部上映に関する暴力、傷害事件での判決は、すべて間違いなく事実であることを認めます。藤原周、山上益郎弁護士と部落解放同盟高知県連合会の主張するこの事件での『無罪説』については、事件当事者である私は、認めるわけにはいきません。私が間違った部落解放路線を信じ本事件にも関連して、多くの部落の仲間や真の部落解放を願う民主団体の仲間に迷惑をかけ、また、解同県連の一部幹部などの利権のお先棒となっておこないました行為は、深く自己反省をいたします。」
 正常化高知県連は、小南氏の自己批判にあたたかい手をさしのべ、正しい部落解放の隊列に復帰するよう援助しています。
--

 …「小南」「小泉」と表記されていますが、原文ママです。

>>118
トレマンさん、ありがとうございます。
また時間を見つけてせこせこアプしていきます。

120もっこす:2007/03/23(金) 09:20:34
上げておきます。
(*^_^*)

121名無し@日本降参党員:2007/07/27(金) 23:09:16
上げておきます。

122葉寺覚明 ◆pdWuRV/fU6:2007/07/29(日) 19:18:35
お久しぶりです。これからもよろしくお願いします。

「解放の道」(1980/03/05)より。
--
 【福山】広島地方裁判所福山支部(渡辺宏裁判長)は二月二十七日、県立戸
手商高校暴力事件の判決公判を開き、「解同」中執・広島県連委員長の小森竜
邦と広中忠夫にたいする起訴事実(集団暴行・不法侵入)を認めて罰金三万円
をいい渡す有罪の判決をくだしました。
 戸手商事件とは、七三年十二月十四日、小森ら「解同」暴力分子五十人が芦
品郡新市町戸手にある同校へ乱入、職員室で和田嘉郎教諭を殴打するなどの暴
行を働いた集団暴力事件。小森らが”差別糾弾”してひき起したものであるだ
けに教師、関係者から裁判の結果につよい関心が集まっていました。
 この日の判決で、渡辺裁判長は検察側の主張を全面的に採用。「多人数が職
員室で暴行を加え、同室を騒然とさせ混乱に陥れた行為は、常軌を逸し、犯罪
は重い」と強調して有罪に処しました。
 「解同」中執自身による暴力事件で、有罪判決を受けたのは、駒井昭雄(高
松高裁)につづいて小森は二人目です。
--

123名無し@日本降参党員:2010/08/07(土) 20:33:17
八鹿闘争勝利記念碑

1974年11月、八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、
教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。
南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。
権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、
憲法の14条の根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。
この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑は建立する。
よき日の為に
2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会


被害者意識の塊のような記念碑が、八鹿高校の舞台となった町に建立されました。
みんなで祝福しましょう。

tp://www2.atword.jp/footnotes/files/2010/07/f1000172.jpg

124del:del
del

125もっこす:2014/08/22(金) 21:28:35
ホームページを作るまでもなく部落解放運動そのものが終わりました。
部落問題も2007年高校歴史Bの改定時にカワタ身分の役割が明記されることで解決しています。
作られた偏見は徐々に確実に消えていくことでしょう。
歴史の真実が抑圧されてきた百姓の嘘だったとは意外でしたが。

126自民党員:2017/08/09(水) 07:45:20
youtube見てたらたまたまこの事件の動画が出てきたから色々ググッてたんだけどさー、たとえ差別されたとしても残虐無道な暴行が許されるわけねーだろ、バカじゃねーのかこいつら。暴行してないとか言っちゃってるけど火のない所に煙はたたねーだろ、学力も知能も低いんだろーな、こんな事件起こすんだからさw てかさ、部落女が男子学生にフラれたのが発端とかって思わす笑ちゃったけどIQ低すぎじゃね?。んで丸尾って部落出身者なんだろ?今どこで何してんの?
当時33歳ってことはもう老いぼれだろーけど、こいつが作ったNPOのWEBも電話番号も無いけど表に出て来ないって事はこの猛暑の中ですでにくたばったか?ww
日本には言論の自由ってのがあるから思いっきり差別のどん底に叩き落としてやるよ、早く出て来い!

127自民党員:2017/08/09(水) 07:51:38
>>123

その記念碑に向かって立ちションしたろか?w

128うさぎ:2017/11/06(月) 21:52:53
tp://slow-hand.jp/url/?id=1419


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