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タクトの世界

259タクト:2008/08/12(火) 17:44:54
ああ、可朝師匠はどこへ行く…
もう20年以上前になるが、吉本がまだなんば、梅田、京都の3つの花月を持っていた時代に、月亭可朝師匠はバリバリ活躍していた。
そのときぼくは新喜劇にいて、梅田花月の進行をしていた原君と話をして意見の一致をみたことがあった。
「なあ、一番切れてる芸人(師匠)って誰や思う? やすし師匠? (笑福亭)松之介師匠? ボタン師匠?」
「やっぱり、あの人やろ」
「可朝師匠!」

表向きはやすし師匠が生きながらの芸人ぽく言われて、まわりも気を使っていたけど、意外と人を見て態度を決めているような感じもした。それより、可朝師匠は根っからぶっ飛んでいたように思えた。

「好田はん、知ってる? 花月のもぎりは可朝師匠に気をつけろって言われているやて」
「?」
「前にな、可朝師匠がもぎりのところに来て、「売り上げ本社に持って来い言われた」って言ってそのまま売り上げ持って、住之江競艇に行ったらしいわ」
「豪快やな」

最近になってアルトくんから、
「可朝師匠、いまケーエープロにいるらしいわ」
「えっ、吉本ちゃうん?」
可朝師匠がケーエープロ(ぼくとアルトくんが最初にいた事務所)に移籍していたのを、その時知った。吉本で何かしたのかなと思いながら。

その可朝師匠が大阪府警淀川署に逮捕された。
元交際相手にストーカー行為をしたとのことで、ストーカー規制法違反の疑いで…。

エピソードは事欠かない。知っていたのもあるし、今回調べてみて初めて聞いたのもある。ほんとかうそかわからないのもあるが、可朝師匠ならば、というものばかりである。(Wikipedia抜粋)

●3代目染丸に師事したが、短期間で破門されている。これは師匠の愛人に手を出したためと言われているが、事実無根であり全くの誤解、濡れ衣である。

●見かねた米朝が預かるつもりで声をかけたところ、勝手に自ら「桂小米朝」と改名し、正式に入門する。なお丁度この頃、腹話術師をしていた斎田けんじ(のちの桂米紫)が米朝に弟子入りを志願し米朝の内諾を得て、落語家に転向すべく前の師匠の説得にかかっていた最中であった。このため後年両者のどちらが一番弟子となるのかで揉めに揉め、ようやく朝丸(現在の桂ざこば)が間に入り、年長者の米紫を一番弟子とする事で収拾した。なお、「桂小米朝」を名乗った理由は、字画が良かったからである。

●小米朝時代、現在の小米朝である師匠の息子を平日午後に預かったとき、大阪・千日前の大劇アルバイトサロン(現在のキャバクラに似たような風俗業)に連れて行ったという。これは閑散期である平日日中に入場したため安く飲食できた事と、子供を連れてくる事でホステス達のウケも良く、また店より玩具を貰える(=玩具代が浮く)事がその理由。
米朝一門であるが、兄弟弟子の多くが米朝事務所に所属しているのに対し、長い間吉本興業に所属していた。

●吉本時代、後輩芸人が「ギャラが安い」とぼやいたので、吉本興業に掛け合いギャラのつり上げ交渉を行った。曰く「ワイは日本の月亭可朝や。」これに対して吉本側は「日本の月亭可朝ならば、他所でも通用するでしょう。どうぞ他所へ移って貰って結構です。」と突き返した。これには可朝も完敗し、「このまま吉本に居させて貰った方が。」と譲歩。結局交渉前よりギャラが下げられた。

●借金とワンセットで語られることの多い「スッポンメガネ」であるが、発売当初は黒字の収益を上げていた。赤字→借金になったのは、国鉄のキヨスクでの発売が内定していたが、売価に関して国鉄(鉄道弘済会)側が難色を示し話がご破算になり、全国のキオスクに出すためにあらかじめ大量に生産(契約してから生産すると間に合わないので、事前に生産しておいた)したメガネがダブついたのが原因である。この商品を思いついたのは、「欧米には鼻メガネがあるが、日本にはそれがない」という理由から。しかし、1987年に松原市にある「サンクストーン」と言う眼鏡製造会社が発売していた「ローガングラス」のCMに出演し、関西を中心に発売された。

●京都の旅館で中田ボタンらとトランプ賭博に興じていたところを警察に踏み込まれたが、咄嗟にトランプを裏返して「神経衰弱」に偽装し、事なきを得た。が、警察はそのまま隣の部屋に踏み込み、池乃めだか、日佐丸(平和ラッパ・日佐丸、4代目)、Wヤングの平川幸雄が一時拘引された。うどんの代金を賭け金と間違えられたためである。

●エイプリルフールで「家が焼けてるねん」と言い続けていたら、自宅の仏壇の蝋燭が原因で本当に焼けてしまったことがある。しかもその仏壇は、ギャンブルで勝ったお金で買ったものだったという話をテレビで暴露されていた。
たまに彼がテレビに出るときに彼の曰く、その昔、春木競馬場でバカ勝ちして、すでに仏壇が家にあるのに構わず、シャレで購入したという。またそれを、魂も何も入れていないのに、蝋燭をあげたりなど供養じみたことをしていた。そうしたら、ある日、その供養していた蝋燭が倒れ、火事になった。その日彼は外で呑んでいたのだが、夫人から連絡があったとき運悪くエイプリルフールで、彼(および、一緒にいた取り巻き)はまるっきり信じなかったのだが、電話の応対に出た花紀京がしつこく言い、さらに花紀が知るはずもない可朝宅の隣人の名前を出したことから仰天し家に帰ったら、家が丸焼けであったと言っている。

●「ほんまにほんまでっせ」だけを言い続け、爆笑を取る。遂には、それしか言わず、高座を降りた。 これはぼくも見た。なんだこの芸は、お客さんむちゃくちゃ笑っているやん、これだけでと度肝を抜かれた。

●出前で注文したうどんを高座で食べて出番が終わったことがある。また、高座で寝転がり本当に寝てしまい、それだけで出番が終わったことがある。

●空港で預け荷物受け取りのベルトコンベヤーの上に乗っかり、荷物(自分のギター)と一緒に出てきたことがある。知人に「あれに乗って出てきたら1万円やる」と言ったところ「そんなん出来るか!あんたこそ乗って出てきたら1万円やるわ」と言い返され、「そうか!」と乗って出てきて約束通り1万円貰ったとのこと。

●無類の賭け事好きから、友人の立川談志をして「あいつの人生そのものが博奕だ。」や、「落語界の横山やすしだ。」と言わしめる。

●1971年、第9回参院選に全国区から無所属で出馬(同じく出馬した談志の応援演説が予定されていた日に、気が変わって立候補届を出した)。“一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと”を公約とするが、落選。当時の選挙戦で選挙カーを高速道路で走らせ、そのまま演説していたというエピソードもある(のちの参院選で落選した島田洋七にも同様の話がある)。2001年には第19回参院選に自由連合公認で比例代表区から出馬したが、再度落選。大阪市議選にも出馬歴あり。なお、最初の参院選出馬の影響で、当時レギュラーだった「新婚さんいらっしゃい!」など多数の番組を降板し(公職選挙法の規定による)、そのまま復帰することはなかった。

●実はギターを弾くことができず、調律は楽屋に居合わせた芸人に頼んでいる。(これは気づかなかった)

ヒット曲はかなりあるが、なんといっても1969年に大ヒットした「嘆きのボイン」が有名。そのときの歌詞で「ボインは赤ちゃんが吸うためにあるんやで〜♪」と師匠は歌っていたのに。

可朝師匠はこれからどこへ行くのだろう。

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