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Getcha Back〜my sweet home〜

1Flyhalf:2003/10/18(土) 21:56
はじめまして。Flyhalfと申します。

短めの中篇ってとこでしょうか・・・お話をひとつ
投稿させていただきたいと思います。
小出しにしながら週一くらいでマターリ更新の予定です。
よろしくお願い致します。

2名無し(0´〜`0):2003/10/18(土) 21:57
幾千万の人が生き、恋をし、傷つき、また生きる。
懸命に。
懸命に。

愚かでも、小さくても、つまらなくても。
生きることは、それだけで、素晴らしい。

―柴田よしき「幸せの方角」より―

3名無し(0´〜`0):2003/10/18(土) 21:57
Getcha Back〜my sweet home〜

4Flyhalf:2003/10/18(土) 22:02
[1]

土煙をあげながら走るバスの車窓から眺める風景は、住み慣れた街と同じ大陸にあること
が信じられぬほど、何も無い世界だった。車の重みで固く踏み締められた黄土の細く長い
道が、行く末の当ての無さを感じさせ不安を増幅させる。

−疲れた…少し眠ろう。

石川梨華は終点にたどり着くまで、まだ時間があることを確認すると、ゆっくりと瞼を閉
じる。クッションの薄い背もたれに体を預けなおすと、まもなく深い闇に吸い込まれてい
った。



5Flyhalf:2003/10/18(土) 22:04
木馬に乗っていた。梨華は綺麗に飾られた木馬に横向きに座ると、柵の向こうに手を振り
ながら無邪気に笑っている。その視線の先には、照れくさいのか、小さく手を振りながら
優しく微笑むマコトがいる。見詰め合う二人の耳に始動を告げるブザーが聞こえると、木
馬は上下に揺れ動きながら、ゆっくりと回り始めた。梨華は軽やかな音楽と色とりどりの
ライトに包まれながら、幸せを噛み締めていた。木馬に座る自分の姿を追うマコトの視線
に、深い愛情を感じたから。

木馬の心地よい回転を楽しみながら、この時を永遠にと願う梨華の頭上で、突然雷の音が
鳴った。その音を合図にして叩き付けるような雨が一帯を襲う。幸せそうな笑顔を浮かべ
ていた家族連れやカップル達が軽い悲鳴をあげながら屋内の施設に消えていく。ふと気が
付くと自分と同じようにメリーゴーランドを楽しんでいた人々の姿もない。

6Flyhalf:2003/10/18(土) 22:07

事態を呑み込めない梨華の思いとは裏腹に木馬はゆっくりと回り続ける。梨華は救いを求
めてマコトの姿を探した。何度も録画を繰り返した古いビデオテープのような、そんな景
色の向こうにマコトは立ち尽くしていた。激しい雨が空色のシャツを濃紺の色合いに変え
てマコトの体にぴったりと張り付かせている。その瞳はさっきまでの暖かさが消えて、空
虚な冷たい眼差しに変わっていた。異常な空間とその視線に怯える梨華に向かって、紫色
になったマコトの唇が小さく動いた。

「さようなら」

梨華は、はっきりと聞こえたその言葉を上手く呑み込めずに愕然とする。しかし言葉は肉
体に針のように突き刺さり胸の鼓動を速めていった。梨華の心臓が刻むリズムに応えるか
のように木馬が荒々しく回転を速めると、赤一色になった電飾が異常を喜ぶかのように点
滅を繰り返す。梨華は木馬を貫いている手すりを強く握り締めて目を閉じると、心の中で
叫んだ。

―お願い。夢なら覚めて―

7Flyhalf:2003/10/18(土) 22:09


梨華は体を一瞬硬直させた後、大きく目を見開いた。ため息を漏らすと、さっきまでの出
来事が夢でよかったと心から安堵した。ふと腕時計の白い文字盤に目をやる。一時間ほど
眠っていたようだが、目に映る景色に然程の変化は見られない。そのまま窓の外を眺めな
がら、まだ少し余韻が残る夢の意味合いを考えていた。

とてつもなく悲しい夢だった。
夢の中とは言えマコトにさよならを告げられたからか?
いや違う、自分からマコトを捨てて家を飛び出してきたんだ。
じゃぁ何がこんなにも悲しい。


梨華は考えを巡らせたあと自嘲的に微笑んだ。

8Flyhalf:2003/10/18(土) 22:10

心の奥深く見えない場所では、出会った頃の二人に戻りたいと思う自分がいる。まだ若く、
愛し合うことで全てが輝いて見えた、思い出にするには然程遠くない過去への回帰。
梨華は大きく頭を振った。もう戻れない。戻れないから自分は今こうしてバスを乗り継ぎ
知らない町を目指している。愛情が憎悪に変わる前に、手をつないで歩いていた人生の階
段から飛び降りたのだ。

梨華は胃の辺りから、じわじわと沸きあがってくる不快感を取り除くように深呼吸をすると、
一つ前のバスターミナルで買った文庫本を読んで気を紛らわせることにした。

9Flyhalf:2003/10/18(土) 22:11
[2]

土煙をあげながら走るバスの車窓から眺める風景は、次第に見慣れた景色を映し出し、疲
れた心を和らげてくれた。亜依も疲れたのか、スケッチブックを胸に抱いたまま、小さな
寝息をたてている。保田圭は加護亜依の体を自分の方へ引き寄せると、その姿をじっと見
つめた。見つめながら30分ほど前に交わした、中澤裕子との会話を思い出していた。



10Flyhalf:2003/10/18(土) 22:19

圭は喫煙コーナーに入ると、ポケットから取り出したメンソールの煙草に火を点けた。
深く息を吸い込むと、巻き紙がちりちりと音をたてて先端から灰に変わっていく。

「ブラックでよかったよね」

その声に振り向くと、亜依の担当医である裕子が、紙コップを両手に持ってこちらを見つ
めていた。圭は小さく頷いて差し出されたコーヒーを受け取ると、コップを口に運んだ。
月に一度の通院。亜依のカウンセリングが終わると必ず口にするコーヒーは、気持ちが沈
んでいるせいか、いつも苦さだけが際立つ味わいだった。

11Flyhalf:2003/10/18(土) 22:22

ふたりはコーヒーを飲みながらどちらとも無く窓に近寄ると、中庭にあるベンチに視線を
向けた。そこにはスケッチブックをしっかりと抱きしめて座る亜依がいた。

幼さの残る瞳が、何を書こうかとぐるりを見渡している。やがて視線を一点に定めると、
スケッチブックを開き色鉛筆を軽やかにすべらせ始めた。夢中になって手を動かし、色を
重ねるごとに輝いていく亜依の笑顔。その様を見つめながら微笑む圭の横顔に裕子の声が
触れた。

「ホンマにな、もうウチのカウンセリングなんて必要ないんやで…。見てみ、あの笑顔…
心の傷は当の昔に癒えてるんや。あの子はもう、辛い過去を引きずったり自分自身を嫌い
になったりせえへん。今のままでも大丈夫や。だからもう、ウチに出来ることは無い…」

12Flyhalf:2003/10/18(土) 22:44

そう言い終えて俯く裕子に、圭は真っ直ぐな視線を向けると、怒りを抑えるような、悲しみ
を堪えるような声を吐き出した。

「先生…匙を投げるんだ。『脳障害を起こした訳でもない、声帯も問題ない。だから大丈夫』
『心の問題だから、いつかきっと直る』先生そう言ったじゃない」

沈黙がふたりを包んだ刹那、圭の瞳から一筋の涙が頬を伝った。

「喋れなくても、目が見えなくても、ちゃんと自立して生きている人がいるのは、私だっ
て知ってるよ。亜依だって自立出来るって信じてる。亜依がね、全く喋ることが出来ない
のなら、私にも諦めがつくかもしれない…。でもね、亜依は…亜依は一言だけど言葉を口
に出来るの。『あい』って自分の名前を声にすることが出来るのよ」

裕子はため息を吐いた後、窓の外に視線を向けた。ベンチでは、まだ亜依が嬉しそうに
スケッチを続けている。

13Flyhalf:2003/10/18(土) 22:45

「せやね…」

裕子の言葉尻が僅かに震えると同時に、鼻を啜る音が続いた。

「きっかけが必要なんよ。あの子の心のどこかにある『壁』を突き破るためのきっかけが
…それはきっとウチなんかの力やあらへん。多分、圭ちゃんでもひとみちゃんでもない、
新しい何かが、きっかけになるんやないかな」

圭は亜依と自分を隔てている窓ガラスに悲しげに手をあてた。指先に挟んだままの煙草は、
一度吸ったきりフィルターの部分で消えてしまっている。圭の心中を表すかのように、落
ちた灰と涙が白いリノリウムの床を汚し、濡らしていた。



14Flyhalf:2003/10/18(土) 22:46

圭は目を閉じて唇を強く噛み締めた。そうして切なさを断ち切ると心の中で呟く。

−誰だっていい…例えそれが悪魔でも。どんなきっかけでもいい…それが誰かを不幸にする
ことになっても。亜依に言葉を取り戻してくれるのならば−

15Flyhalf:2003/10/18(土) 22:48
[3]

―まだ着かないのか…―
梨華は次第に熱を帯びてくる額の汗をハンドタオルで拭いながら、ため息を吐いた。少し
前に感じた不快感は、どうやら気持ちだけの問題では無かったらしい。徐々にバスの揺れ
にも耐え切れなくなってきて、大きく背中を丸めると、その姿勢のまま動けなくなってし
まった。

「大丈夫?」

優しい言葉と同時に背中に手が置かれた。ほんの僅か体を起こして声の方に顔を向けると、
中年の女性が中腰で立っていた。南の街の出であろう中東系の顔立ちは心配そうな表情を
浮かべている。

16Flyhalf:2003/10/18(土) 22:49

「平気ですから」

声だけはどうにか振り絞ったが、意識は今にも切れてしまいそうで、笑顔を浮かべてみせ
る余裕までは無かった。女性は運転手に向かって大きな声を張り上げた。

「ちょっと。急病人だよ」

その声を境に、車内の空気が少しずつ張り詰めていくのがわかる。運転手は前を向いたまま、
何事も無いように答えた。

「次の街まで、まだ一時間半ほど走んなきゃなんねぇ。お客さん、ヤバそうなのかい?」

女性は梨華の顔を覗き込むようにして問いかける。

「一時間半だって。あんた、我慢できるかい?」

梨華が頬を引きつらせながら笑顔を作るのと同時に、一番後ろの座席から声が聞こえた。

「運転手さん。どうせ私の家の前で休憩でしょ?うちで少し休ませて様子を見てみようか」

梨華は重くなった体を何とか動かして声の主を見る。そこには若い女性と小さな女の子が
寄り添うように座っていた。

17Flyhalf:2003/10/18(土) 22:51
[4]

ピルスナーグラスを丹念に磨きながら笑顔を浮かべているが、頭の中では別のことを考え
ていた。

吉澤ひとみの現在の思考は夕飯のメニューや恋人の昼食の事などではけしてない。目の前
にいる男を、どうやって「あしらう」か。自分は本当に最後まで「我慢」が出来るのか。
そのふたつだけだった。

一時間前は、4、5人の常連客がのんびりと会話をしている風景を見ながら『今日こそは
無事に役目を果たせる』と心の中でガッツポーズをつくっていた。しかし30分ほど前に
現れた−大昔の西部劇に出てくるやられ役みたいな大男−が現れてから、徐々に雲行きが
怪しくなってきた。男はジョッキのビールを注文して少し唇を湿らすと、舐めるような視
線でひとみを見つめ続けた。一杯目のビールを飲み干した後下品な笑みを浮かべると、二
杯目の注文から本腰を入れてひとみを口説き始めた。男のビールはすでに6杯目である。

18Flyhalf:2003/10/18(土) 22:53

「なぁ、こんな所に居たってつまんねぇだろぉ?」

男は遂に吐息がかかるほどの距離まで顔を近づけてきた。ひとみは煙草のヤニとアルコー
ルの混ざった臭いに堪らず顔を背けるが、男は全く意に介さないようで、なおもしつこく
ひとみに言い寄ってくる。

「お前は今日限りでこんな店とおさらばして、俺の女になる運命なんだよ。きっとそうさ」

ひとみはカウンターの下で作った握り拳を、思わず振り上げそうになってぐっと堪えた。
目の前の男に負ける気はしないが、自分を信じて店の留守をまかせてくれた圭を怒らせると
もっと怖かったからだ。

19Flyhalf:2003/10/18(土) 22:54

その様子を見兼ねた一人の中年常連客が、カウンターに近寄り、男の背中に声をかけてきた。

「あんた、どっから流れて来たの?長距離トラッカーや隣町の人ならこの店のこと知らない
訳ないもんな」
「なんだよてめぇは…ちっと黙ってろ」
男は振り向くと、対話を許す間も与えずに太い腕を振り回して常連客を殴り倒した。
ひとみはその瞬間、磨きかけのグラスを手もとに置き去りにしたまま、カウンターを
飛び越え男と対峙した。

20Flyhalf:2003/10/18(土) 22:55

「なんだい嬢ちゃん…抱かれにきたのかい?」
「正当防衛成立」
ひとみは嬉しそうにそう叫ぶと、男の太腿の内側を狙って下段蹴りを放った。衝撃に顔を
ゆがめて屈んだ男の髪を素早く両手で掴み、その鼻先に思い切り膝を叩き込むと、デニム
の生地を通して鼻骨を折った確かな感触がひとみに伝わってきた。しかしひとみは攻撃の
手を緩めない。掴んだ髪を放り投げるようにして男の上体を起こすと、潰れた鼻先に渾身
の右ストレートをお見舞いした。男は何年も磨きこまれて黒く光る木の床に大きな音を立
てて倒れこむと、大の字になってダウンした。その途端他の客が一斉に立ち上がり、ひと
みに向かって歓声ををあげた。

21Flyhalf:2003/10/18(土) 22:57

当のひとみは涼しい顔で殴られた常連客に近づくと、ポケットから取り出したハンカチを
その口元にそっとあてがった。

「おじさん。大丈夫」
「あぁ…ありがとう。また、ひとみちゃんに迷惑をかけちまったな」

ひとみは常連客ににっこりと微笑んだ後、カウンターに戻ってウォッカの瓶を手に取った。
栓を抜きながら、気を失ったままの男に近寄ると、その顔にウォッカを振り掛ける。えも
言われぬ刺激に男は激しく咳き込みながら体を起こした。何事が起きたのかと慌てふため
く男の姿を見下ろしながら、ニヒルな微笑を浮かべたひとみが口を開いた。

「ウォッカはアタシの奢り。だからビールの代金だけ置いてってよ。そうだ…再戦したい
んなら、ケンカの負けはつけにしといてあ・げ・る」
「くっ…」

男は鼻を押さえながら立ち上がると、ポケットから皺くちゃの紙幣とコインを取り出して、
ひとみの足元に叩き付けた。やられ役にはお似合いの捨て台詞を吐くと、足早に店を飛び
出して行った。

22Flyhalf:2003/10/18(土) 22:59
ひとみはしゃがむと、散らばったコインを拾いながらため息を吐いた。

「覚えてろよ!か…あんな奴に限って二度と顔を見せないんだよねぇ…」

店に居た客たちは、興奮冷めやらぬと言った感じでグラスを頭上に掲げた。

「俺らのひとみちゃんが、今日も勝利を収めた事に乾杯」
「乾杯!」

その声に悪ノリをしたひとみが、立ち上がりガッツポーズをした瞬間、扉が開き外の空気
が店内に流れ込んできた。開け放たれたままの戸口には、顔色の悪い女性に肩を貸す圭が
立っていた。

「何騒いでんの?…ひとみ、あんたもこっち来て肩貸して。この子をベッドに連れてくの」

青ざめた顔。額に浮かぶ汗。飾り気の無い服装。ひとみが抱いた減点だらけの第一印象は、
華奢な体に腕を回した瞬間消え去った。香水のように加工されたものでは無い、花のような
香りが、ひとみの心を甘く刺激したからである。

23Flyhalf:2003/10/18(土) 23:03
ここまで。
緊張するし、鯖の調子が悪くて入れなくなったり^_^;

ちまちま遅い更新でご迷惑かけますが、暫くお付き合いの程
よろしくお願い致します。

24名無し(0´〜`0):2003/10/19(日) 14:55
(・∀・)イイ!続きが楽しみな作品でつ

あの…。Flyhalfさんてフライハーフさんですか?
違ってたらゴメンナサイ

続き楽しみにしています!!

25名無し(0´〜`0):2003/10/21(火) 16:44
面白そうなのが始まってる…。

26Flyhalf:2003/10/25(土) 20:56
[5]

濡れた床にモップをかけながら、何気なく外の様子を窺ってみた。表では圭がバスの運転
手と何やら話しこんでいる。きっと運び込まれた彼女のことだろう。ふたりは、共に困っ
た表情を浮かべながら言葉を交わしていたが、圭がため息を吐く様な仕草を見せた後、ゆ
っくりとバスの方へ歩いていった。

ひとみは圭に騒動がばれる前に痕跡を消してしまおうと、懸命にモップを動かした。
床に零れた―ひとみ自身が零したわけだが―ウォッカの匂いが、さっきまで鼻先に感じて
いた、甘い香りを急速に打ち消していくのを感じると、何故だか少しだけ寂しい気持ちに
なった。

27Flyhalf:2003/10/25(土) 21:00

彼女はきっと都会育ちなのだろう。荒れた大地に慣れたひとみの腕に残る、線の細い柔ら
かな感触がそう感じさせた。ひとみは不意に掃除の手を休めると、自分の両手を見つめた。
お世辞にも綺麗とは言えない肌に視線をやりながら、もう少し女性らしさがあってもいい
かなと考えたが、すぐに頭を振った。田舎町の外れにあるこの店に必要なのは、綺麗に手
入れされた指先なんかじゃない。お客が飲み干したグラスを黙々と洗い、フライパンから
飛んだ油にも動じない肌。酒癖の悪い男を叩きのめす事の出来る、しっかりした拳なのだ
と自分に言い聞かせるように考えた。

我が身を愛しむような悲しむような、そんな複雑な表情を浮かべて立ち尽くすひとみの背
後に、いつから居たのか圭が立っていた。ピンク色のスーツケースを両手で持ち、どこか
澄ましたような表情を浮かべている。

28Flyhalf:2003/10/25(土) 21:01

「ひとみちゃん。お客様の居る前でお掃除だなんて、何か粗相でもあったのかしら?」

普段は絶対に使わない丁寧な物言いに棘を感じながら、ひとみはゆっくりと振り返った。

「あぁ…これ?そうそう、ちょっと零しちゃって。ははは」
「さっきお店に入る前にね、シャツを血まみれにした男の人とすれ違ったんだけど、まさか
うちのお客さんじゃないわよねぇ」
「さぁ…知らないよ、そんな人」
「あら、大変。ひとみちゃん。転んだの?」
「へ?転んでなんかないよ。どして?」
「ジーンズの膝。血がついてるから」
「…」

29Flyhalf:2003/10/25(土) 21:04

つかの間の沈黙の後、二人は大声で笑いあった。しかし圭の目は少しも笑ってない。
ひとみは笑いながら、圭の横をすり抜けようと一歩を踏み出したが、透かさず圭に
タンガリーシャツの襟首を掴まれてしまった。瞬時に引き寄せられると、ひとみの
耳元で圭が低い声で囁いた。

「今月は一週間タダ働きしてもらうからね」
「いっしゅうかん!来月新しいサンドバックを買おうと思ってたのにぃ…勘弁してよぉ」
「ダーメ!あと『あの子』治るまで、うちで面倒を見ることにしたから、アンタも看病を
手伝うんだよ。わかった」

ひとみは口を尖らせ拗ねてみせたが、圭の毅然とした眼差しに渋々ながら「はい」と返事
をした。圭はそこで初めて優しい微笑を浮かべると、手にしたスーツケースをひとみに渡した。

「あとは私がするから、二階にこれを持って行っといて

30Flyhalf:2003/10/25(土) 21:06
[6]

飾り窓の向こうに見える岩山に沈む夕日が黄土をオレンジ色に染め抜いた頃、梨華は目を
覚ました。汗ばんだ体はまだ重く柔らかなマットが泥土のように感じられる。額の汗を拭
おうと毛布から手を抜きかけたそのとき、よく冷えたタオルが紅く染まった梨華の頬に触
れた。タオルに添えられた指先を辿るように肩口に視線を向けるとそこに、バスの後部座
席に座っていた少女が心配そうに梨華の事を見つめていた。少女は梨華と目が合った瞬間
驚いたような表情を浮かべたが、すぐに視線を外して恥ずかしそうに俯いた。梨華はその
仕草に微笑みながら、少女に声をかけた。乾いた喉は少し掠れた声を響かせた。

31Flyhalf:2003/10/25(土) 21:07

「ありがとう。…ここ、あなたのお家?」
少女は小さく頷いた。固く結ばれた唇のあどけなさが、可愛さを引き立たせている。
「もしかして、ずっと側に居てくれたの?」
少女はもう一度頷くと、タオルを額にのせてくれた。

「私の名前は石川梨華。あなたは?」
「あい。おうち」
「あいおうち?」
「あい…おうち」
「あい。あいちゃんて言うの。おうちって…?」
「あい…おうち…」

32Flyhalf:2003/10/25(土) 21:08

梨華が訝しげな表情を浮かべると、少女の顔が少しずつ赤くなっていった。その瞳には
うっすらと涙が浮かび始める。急激に影を帯びていく少女に、梨華は困惑し言葉を失い
かけたが、戸惑いながらも言葉を繋いだ。

「どうしたの?ねぇ…」

言いかけたところで、少女は勢いよく立ち上がり、逃げるようにその場を離れた。

「待って」

梨華は右手を差し出してそう叫んだが、少女の残した悲しげな残滓に囚われたように、
そのまま動きを止めた。追いかけたい衝動を封じる体調の悪さに苛立ちつつ、思いがけ
ない少女の涙に戸惑いを感じた。

33Flyhalf:2003/10/25(土) 21:15
中途半端&少量ですが、ここまで。

>>24さん、>>25さん

レスありがとう。励みになります。

34飼育の緑板、好きです。:2003/10/27(月) 17:26
更新お疲れ様でした。
思わず引き込まれてますです、ハイ。
登場人物が自分的にヒットです。
次回がすご〜く楽しみです。

35名無し(0´〜`0):2003/10/30(木) 16:02
おぉぉぉぉ
続きが楽しみです。がんばってください!!

36Flyhalf:2003/11/02(日) 14:53
[7]

肉厚のステーキをフライパンにのせると、小気味よい音と食欲をそそる香りが厨房に
広がった。ひとみは止め処なく流れる汗を拭きながら、カウンターから次々と舞い込
む注文を軽快にこなしていく。

南の街S地区とN地区を結ぶ荒野の一本道。そのちょうど真ん中に圭の店は立っている。
昼間は長閑なカフェドライブインだが、日が山間に沈むのを境に仕事を終えた男たちや、
仲睦まじい恋人同士が肩を寄せ合うパブに早変わりする。荒野に点在する町にはどこも娯
楽が少なく、楽しみと言えば「食べて」「飲んで」「語らう」事くらいだ。だから圭の店
は繁盛した。勿論、立地条件だけでは客商売は勤まらない。姉御肌で気っ風がいい圭。妖
しげな魅力を放つ夜間バイトのカオリ。荒っぽいが調理の腕は一流のひとみ。そんな魅力
的な娘達が男手も借りず切り盛りするこの場所を、人々は愛し大切にした。

37Flyhalf:2003/11/02(日) 14:56

ひとみはステーキを皿に盛り付けトレイに載せると、カウンターの圭に手渡した。圭はそ
れを素早くカオリに渡すと、換わりに汚れた皿を受け取りひとみに差し出す。いつもなら
亜依が一時間ほど皿洗いを手伝ってくれるのだが、彼女の看病が忙しいのかまだ姿を
見せない。ひとみは流しに溜まっていく皿を見つめながら、眠っていた彼女の顔を思い
浮かべた。



38Flyhalf:2003/11/02(日) 14:58

スーツケースを、めったに使わない客室に運び込むと、彼女は穏やかな寝息をたてていた。
ひとみはゆっくりとベッドに近寄ると、その顔をそっと覗き込んだ。

柔らかな曲線を描いた輪郭に、目鼻が綺麗に整えられた顔立ち。息苦しいのか、少し開か
れた唇が愁いを感じさせる。

ふと気がつくと亜依も同じように彼女の顔を覗き込んでいた。ひとみはにっこりと微笑んで、
小さな声で呟いた。

「亜依。このお姉さん、綺麗だね」
その言葉に亜依も微笑んで頷いた。
「アタシ店の準備があるから、あと頼んだよ」
亜依が親指を立て見せると、ひとみは亜依の頭をくしゃくしゃに撫で回してからその部屋
を後にした。

39Flyhalf:2003/11/02(日) 15:02




「ひとみ。オーダー詰まってるよ!」

ひとみは圭の怒声に我を取り戻すと、慌てて次のメニューに取り掛かった。

ひとみはこれまで他の女性が普段垣間見せる「女性らしさ」に特別、感心をしたりするこ
とは無かった。男も女もなく、人としての優しさ、強さ、醜さ、狡さをその瞳に写し、心
に留めていた。しかし彼女は今までに出会った誰よりも圧倒的に「女性」だった。月を見
つめ「月」と言うように、花を見つめ「花」と言うように。ひとみにとって彼女は「女性そのもの」
のような気がした。

40Flyhalf:2003/11/02(日) 15:03

[8]

―どうして名前を口にしちゃったんだろう…―

溢れ出る涙を拭くこともなく、階段を駆け下りていく。亜依が悲しくて涙を流すのは
本当に久しぶりの事だった。



41Flyhalf:2003/11/02(日) 15:05

亜依は10歳くらいまでは、喋ろうと必死にがんばっていた。唯一言葉に出来る名前だけ
を懸命に喋り続けていた。しかし誰かに向き合うたびに辛い思いを味うことになる。
愛らしい亜依に大人達は気軽に声をかけてきたが、何を話しかけても九官鳥のように繰り
返される言葉に、すぐに表情を曇らせた。逃げるようにその場を去ってゆく背中を見つめ
ながら亜依は傷つき、ただ涙を流すだけだった。

亜依は、もう言葉を口にする事が出来ないと諦めてからこれまで、声を発することは無か
った。だから店に来る常連客や中学の友達はみんな、亜依が全く喋れないと思っている。
ただ、実際には自分の名前だけは―不完全にだが―口にすることが出来た。今では、その
事を知っているのは圭、ひとみ、カオリ。そして中澤をはじめとする病院のスタッフぐら
いであった。

42Flyhalf:2003/11/02(日) 15:06



心の泉から湧き上がる言葉が胸元で枯れ、唇から流れ出ることがないのなら、名前すら封
じてしまおう。そう心に決めていたのに。眠りから覚めた瞳を見つめた瞬間、この女性な
ら分かってくれるような気がした。自分にかけられた魔法が唐突に解けて、何事も無く言
葉を交わせるような、そんな気がした。

43Flyhalf:2003/11/02(日) 15:08

亜依は階段を下りると、真っ先に厨房へと駆け込んだ。コンロの前に立つひとみの姿が
目に映ると、その背中に真っ直ぐに抱きついた。ひとみは「わぁ」っと声を上げると首
だけを動かして亜依に話しかけた。

「こらっ!遅いぞ。見てよ、あんなに食器が溜まっちゃって…亜依?」

亜依は背中に顔を押し付けたまま動けずにいた。ひとみはコンロの火を止めて、皿を手に
取ると、もどかしそうに料理を盛り付けて圭に手渡す。ふっと軽く息を吐いてから、ゆっ
くりと体を回し、亜依をしっかりと抱きしめた。

44Flyhalf:2003/11/02(日) 15:11

「どした?あのおねえさんに何か言われたの?」
亜依は顔を擦り付けるようにして左右に振る。
「わかった。お腹が空いて泣いちゃったんだ」
ヘアゴムで結わえた髪がさっきより早く左右に揺れた。
「じゃあねぇ…隠していたお菓子が無くなってた」
亜依はようやく顔を上げると、どんぐりを口に隠したリスのように両頬を膨らまして、
ひとみを睨んだ。ひとみがその頬を両方の人差し指で押すと、空気が亜依の唇から間の
抜けた音を立てて漏れ出した。その音にふたりは声を上げて笑いあう。笑いながらひと
みは抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。

「笑ってるほうが、かわいいよ。ウチも圭ちゃんも、笑ってる亜依が大好きだよ」

45Flyhalf:2003/11/02(日) 15:12

亜依が恥ずかしそうに頷く。ひとみは一瞬優しい微笑みを返したあと、亜依の腰に手を
這わせ、いつもの憎まれ口をたたいた。

「あれ?加護さん。また少し大きくなられたみたいですねぇ」

亜依は体を離すと、怒りの表情を見せてゆっくりと口を動かした。

(もうてつだってあげない)
「ごめんなさい。冗談です。明日、アップルパイ焼いてあげるから、ね。」

亜依が腕を組んで悩む素振りをして見せたとき、カウンターの方から圭の怒声がいつもの
二割り増しで飛んできた。

「あんたら何やってんの。今月の給料はカット。絶対、絶対、絶対にカット」

ふたりは慌てて仕事を始める。客席からは大きな笑い声が聞こえてきた。

46Flyhalf:2003/11/02(日) 15:16
つづく。

>>34さん、>>35さん レスありがとう。
最後まで読んでいただけるように頑張ります。

47名無し香辛料:2003/11/07(金) 03:09
更新お疲れ様です。
新作ですね。たまらない舞台設定です。すげーカッコいい。やられた。
…駄目だ。『カッコいい』しか思い浮かばない(w
マイペースでがんがって下さい。次回更新楽しみにしてます。

48Flyhalf:2003/11/10(月) 20:40
[9−1]

時計の針は午後10時を指していた。いくらか具合の良くなった梨華はベッドから体を
起こすと、古ぼけた木枠の窓を開け放してみた。未舗装の駐車場に止められた車の
エンジンが回り始めスタートを切ると、テールランプがゆっくりと遠ざかって行く。やが
てそれは暗闇に浮かぶ小さな赤い点になってしまった。そうして一台、また一台と車が
走り去っていくと、階下に響く喧騒も徐々に静まっていった。最後の一台が走り出し、
黄土色の大地が剥き出しにされると、道路脇に聳え立つ『drive in』のネオンサインが
消され、この店の灯りだけが荒野の光源となった。

梨華は冷えた空気を大きく胸に吸い込んでから窓を閉じると、ベッドに戻り腰を下ろした。
不意に階段を上ってくる靴音が聞こえてくると、その足音がこの部屋の前で止まる。静か
に開かれたドアの向こうには、バスの中で梨華に肩を貸してくれた女性が立っていた。

49Flyhalf:2003/11/10(月) 20:43

「起きてたんだ。具合はどう?」
「まだ少し気だるい感じがしますけど、明日になれば大丈夫だと思います」
「そう良かった」
女性は優しく微笑むと、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。梨華はベッドの上で正座を
するとその姿に深々と頭を下げた

「本当にご迷惑をおかけしました」
「いいのよ別に。私こそ勝手に途中下車させちゃって…良かったのかな?」

その言葉に、梨華は頭を振りながら視線を落とした。目に映るキルトカバーの鮮やか
な色合いが、寂しげな瞳の色を隠してくれる。

「いいんです。どうせ当てのない旅ですから」
「そっか…。あっ、自己紹介まだだったね。私、保田圭」

圭は笑顔を浮かべながら手を差し出してきた。梨華は詮索のせの字も見せない圭の
態度にほっとしながら、手の平を重ねた。

「石川梨華です」
「へぇ…あんたのイメージにぴったりの名前だね。ところでお腹空いてない?何か持って
こようか?」

梨華が「少しなら」と答えると、圭は一旦その場を離れた。

50Flyhalf:2003/11/10(月) 20:46

暫くしてトレイを手にした圭が梨華の元へ帰ってきた。底の深い皿には、暖かな湯気を
立てるミルク粥がたっぷりに盛られている。そのボリュームに梨華は思わず吹き出して
しまった。

「保田さん。私こんなに食べられませんよ」
「あぁ…うちのシェフ、何を作らせてもダイナミックだから。食べられるだけ食べて。味は
私が保証する」

梨華は圭の言葉に頷くと、粥をスプーンですくい口に運んでみる。途端に梨華は目を丸く
した。それは弱った体を労わり、空腹を満たすためだけの食事ではなく、立派な料理だった。
甘ったるいミルクの味わいのなかに僅かにピリリとした辛さが口に広がる。どうやら隠し味に
山椒を使っているらしい。

51Flyhalf:2003/11/10(月) 20:50

「美味しい」
その言葉に圭はニヤリと笑って見せた。
「ひとみの料理はうちの店の生命線だから」
「ひとみさんって…女性がコックさんなんですか。どうりで優しい味わいだと思った」
「そう?本人はちっとも女らしくないんだけどね」

梨華は圭の言葉に女性シェフのイメージを湧かせつつ、夕方走り去って行った少女のことを
聞いてみようと話題を変えた。

「あの…あいちゃんって子は…」
「えっ?」
梨華の言葉を聞き終えぬうちに切り捨てるような声を圭が上げた。梨華はその声と、驚愕の
表情を浮かべる圭に戸惑い、暫し言葉を失った。

52Flyhalf:2003/11/10(月) 20:51

圭は問い詰めるような視線を梨華に向けると、声を搾り出すようにして口を開いた。
「私、あの子の名前を口にしたかな…?」
梨華は小さく頭を振る。
「あの子が自分で『あい』って言ったの?自分の名前を口にしたの?」
梨華はスプーンを手にしたまま頷くと、小さな声で伝える。
「『あい』って言いました…。『あい、おうち』って」
「そう…」

圭は暫くの間呆然としていたが、ゆっくりと立ち上がり窓際に歩み寄った。窓ガラスの
向こうには、何もかも吸い込んでしまうような漆黒の闇が広がっている。やがてその闇
の中央に四年前の記憶が切れ切れの映像となって浮かびあがった。

53Flyhalf:2003/11/10(月) 20:51


カーテンに五月の陽光を遮られた部屋。
アイボリーのリラックスチェアに座る亜依。
裕子の唇が幼い頃の思い出を呼び覚ます呪文を唱えると、亜依はゆっくりと瞼を閉じた。
二人の様子を緊張した面持ちで見守る圭。
その隣には制服に身を包んだひとみ。
そう、あの頃のひとみの髪はとても綺麗だった。

54Flyhalf:2003/11/10(月) 20:52

窓ガラスにあの頃のひとみの背中まで伸ばした黒髪が一瞬だけ浮かんで消えた。
やがて圭はその闇に向かって、重々しく語り始めた。

55Flyhalf:2003/11/10(月) 21:00
相変わらず短いですが、きりのいいところで。

>>47さん
レスありがとう。最後まで読んでいただけるよう頑張ります。

56名無し(0´〜`0):2003/11/13(木) 19:26
少しづつ、謎があかされてきますね。
すっごい楽しく読んでいます。がんばってください!!

57Flyhalf:2003/11/20(木) 22:11

[9−2]

「ある街の若い夫婦に、一人の赤ちゃんが生まれました。表情が豊かな、とてもかわいい
女の子で、両親はその子に『亜依』と名づけました。小さな木の芽が太陽の光を浴びて、
ぐんぐんと大きくなっていくように、あいちゃんもすくすくと成長していきました。おしゃべり
がとっても大好きで、知らないおじさんやおばさん。近所のお兄ちゃん、お姉ちゃん。誰に
でも人見知りしないで話しかけるあいちゃんは、みんなに愛される幸せな女の子でした。

58Flyhalf:2003/11/20(木) 22:12

けれどもそんな小さな幸せが、ある日突然に崩れてしまいました。あいちゃんのパパが、
家を出て行ってしまったのです。ママは必死になって居なくなったパパを探しましたが、
なかなか見つかりません。あいちゃんの幼心にもママの悲しみは伝わってきました。日を
追うごとに塞ぎこんでいくママの心を元気付けようと、あいちゃんはママに向かって笑顔を
作り、その日あった楽しいこと、びっくりしたこと、おかしかったことを話して聞かせました。
お話が終わるとママはあいちゃんを抱きしめながら、決まってこう言いました。『あいちゃん
ありがとう』抱きしめられたあいちゃんは泣いているママの背中を小さな手でいつまでもな
でてあげました。

59Flyhalf:2003/11/20(木) 22:13

パパが見つからないまま季節は秋になりました。いつになく陽気なママが『あいちゃん。
お買い物に行こう』そう言ってデパートに連れて行ってくれました。デパートでお買い物
をした後、ふたりは屋上にある小さな遊園地に行きました。あいちゃんはたくさんの乗り
物に乗っておおはしゃぎです。無邪気に遊ぶあいちゃんにママがこう言いました『ママは
トイレに行ってくるから、ここでいい子にして待っていてね』あいちゃんは笑顔で『うん』と
頷くと、屋上のベンチでじっとママを待っていました。けれどもママは、一向に戻ってきま
せん。あいちゃんがお腹を空かせても、寂しくて泣きそうになっても、ママは戻ってきませ
んでした。その日は遊園地のおじさんが、おまわりさんに電話してくれて、パトカーに乗っ
てお家に帰りました。あいちゃんが初めて捨てられた、悲しい一日でした…。

60Flyhalf:2003/11/20(木) 22:15

あいちゃんはだんだん、お出かけが嫌いになりました。知らない街でお買い物をしたり
すると、必ずママが居なくなって一人ぼっちにされてしまうからからです。その度にあい
ちゃんは知らないおじさんやおばさんに、泣きながら『ママはどこ?』『あいのおうちは
どこ?』と聞いて歩くことになりました。おまわりさんに連れられてお家に帰って来る度に、
ママは疲れた顔を浮かべ、深いため息を吐きました。でも…あいちゃんはママが大好き
でした。おしゃべりをしてくれなくても、笑った顔を見せてくれなくっても、ママのことが大好
きでした。

61Flyhalf:2003/11/20(木) 22:16

何度か続けられた悲しいお出かけは、とても冷たい冬の日に終わりを告げました。前の夜
から振り続けた雪は、街を銀色の世界に変え、葉っぱを無くした木の枝にも花のように降り
積もっていました。ゆっくりと舞い落ちる雪を見ていると、悲しいことばかりで元気を無くして
いたあいちゃんの気持ちも、少しだけ明るくなりました。窓ガラスにくっついて雪を眺めるあ
いちゃんの背中にママが声をかけてきました『あいちゃん…もっといっぱい雪が見られる所
に行こうか』あいちゃんは黙って頷きました。

62Flyhalf:2003/11/20(木) 22:20

あいちゃんとママは、長い時間電車に乗って知らない街の駅で降りました。雪の降り続く
街中を随分と歩き回った後、ママはあいちゃんの手を引いて公園の中に入りました。辺り
には誰もおらず、雪には誰の足跡も付いていません。ママが急に『えいっ』と言って、綺麗
な雪面に足跡を付けました。あいちゃんも真似をして『えいっ』と小さな足跡を付けます。ふ
たりは久しぶりに楽しそうに笑い合いました。ふたりは夢中になって足跡を付けながら、一
歩一歩公園の奥へ足を進めていきます。すると奥には小さな森がありました。ふたりはそ
こにある木の下にしゃがんで休憩をすることにしました。公園の雪面にはふたりの足跡が
スタンプのように残っています。あいちゃんはその足跡を見ながらママに話しかけました。
『パパもどこかで雪を見てるのかなぁ…』ママは黙って首を傾けた後、バックの中から銀色
の水筒を取り出しました。水筒の中にはあいちゃんの大好きな温かなココアが入っていま
した。コップがひとつしかなかったので、ママと順番にココアを飲みます。体が温かくなって
くると、あいちゃんは眠たくなってきました。ママに優しく抱き寄せられると、ゆっくりと目を閉
じました。あいちゃんは夢を見ました。真っ白な世界でひとりぼっちになる夢です。あいちゃ
んは怖くなって泣き出しました…泣きながら、大きな声で何度も何度も叫びました『パパ。
ママ。どこにいるの』『あいちゃんのおうちはどこ』夢の中で何度も何度も叫び続けました…」

63Flyhalf:2003/11/20(木) 22:21

[9−3]

さっきまでこの店から荒野に向かって放たれていた熱は、暗闇に吸い込まれてすっかり
消え失せてしまっていた。唯この部屋を包む空気の冷たさは、そのせいだけでは無いよ
うに思えた。圭は窓ガラスに映る自分の泣き顔を力強く睨み返した後、気だるげに振り向
いて壁板に凭れ掛かる。心に巣くう遣る瀬無さが薄れていくと、ぼんやりとした部屋の輪郭
が次第にその形を露わにしていった。ハリウッドタイプのベッドの上では梨華が押し殺すよ
うにして涙を流している。その脇にあるテーブルに置かれたミルク粥は、人を癒すような暖
かさをとっくに失っていた。

64Flyhalf:2003/11/20(木) 22:23

圭は内心、戸惑っていた。出会って半日にもならない梨華にどうしてこんな話をしている
んだろうと。相手も大人だ『ちょっとね』と誤魔化せば、余計な詮索はしなかったかもしれ
ない。しかし、もう何年も声を発しない亜依が、梨華に対して口を開いたと言う事実が、圭
の心に一つの道筋を示した。

−亜依は梨華に知ってもらいたかったのかもしれない。ならば自分が伝えよう−

圭はドレッサーに置いてあるティシュケースを手に取ると、梨華の側に行きそっと手渡した。
そしてそのままベッドに腰掛け梨華が落ち着くのを待った。鼻を赤くした梨華が悲しげに圭を
見つめる。その瞳から言葉に出来ない思いを受け止めると、圭は何かを懐かしむように話し
始めた。

65Flyhalf:2003/11/20(木) 22:24

「二人きりになれる場所で、いちゃつこうと思っていたカップルがね。降り続く雪に隠れ
そうになっていた二人を、偶然見つけたの。二人は全く動かなかったらしいけど、女の
子の唇だけが、僅かに動いていた。ただ一言『あい…おうち』って、繰り返し呟いていた
んだって…。病院に行く途中、母親のバックから遺書が見つかって、心中だって事が
判明して…亜依は生きる気力が強かったから助かった。でも母親は手当ての甲斐無く、
この世を去ってしまったの…。亜依は父親も母親も失った…それだけじゃない、言葉まで
失った…あいに残ったのは深い心の傷と、たったひとつの言葉『あい、おうち』…」

66Flyhalf:2003/11/20(木) 22:25

物語が終わった部屋の中で、時計の秒針が刻む音だけが空しく響いている。梨華が深い
ため息を吐くと、圭は忘れ物を思い出したような表情を浮かべて立ち上がった。

「ごめんね。体壊しているのに。私なんでこんな話したんだろう…。お粥冷めちゃったね、
暖めてこようか?」
「すいません…やっぱり、まだ食欲ないみたいだから」

梨華が伏し目がちにそう告げると、圭は黙って頷き、テーブルの上に薬と水の入ったグラス
だけを残した。料理をトレイに載せドアに向かう背中が不意に立ち止まる。振り返った圭の
表情はとても穏やかで深い温もりを感じさせた。じっと見つめ返す梨華に、圭は暗闇に灯り
を灯すような一言を残して、客室を後にした。

67Flyhalf:2003/11/20(木) 22:26

「亜依にはもうひとつ残っていたものがあるの…周りのみんながびっくりするくらいの
豊かな表情。なかでも私の一番のお気に入りは、絵を描いている時に見せる笑顔。
あなたにも見せたいから、暫くゆっくりしていきなよ…」

68Flyhalf:2003/11/20(木) 22:36
つづく

>>56さん
レスありがとう。頑張ります。

訳あって更新が伸びる可能性が出てきました。
しかし時間があれば必ず更新しますので、今後もお付き合いの程
よろしくお願い致します。

69名無し(0´〜`0):2003/11/23(日) 15:09
あいぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。・゚・(ノД`)・゚・。
そうだったのか…そんな訳があったんですね。
更新は作者さんのペースでがんばってください!
楽しみにしています。

70名無し(0´〜`0):2003/12/08(月) 01:47
私、今一番この作品を楽しみにしているんです。
作者さん。マターリ待っていますので、がんばってくださいね。
続きが見れるまで毎日通います。

71Flyhalf:2003/12/11(木) 20:18
[10]

梨華はチークで誂えたヘッドボードに背中を預けると、天井の木目をじっと見つめた。
樹木が育っていった証の鮮やかなうねりが、どこと無く人の生きる道筋の複雑さを思
わせる。様々な出来事や、それに対する思いが胸中を去来し、自然と自身を貶めていた。

高校時代に出会ったマコトとは二十歳の時に結婚をした。友人達よりも早く両親の庇護
から抜け出した自分は、それだけで充分、大人になれたと思っていた。ただ現実は違った。
恋人時代よりも共有する時間が長くなっただけで二人の関係は、いとも簡単に亀裂を生じ、
共に描いた夢はジグソーパズルのように細切れになってしまった。一年と一ヶ月。その月日
の半分は辛いばかりだった。逃げ出すには早すぎると他人に後ろ指をさされても、梨華には
とても長く感じられた年月。

72Flyhalf:2003/12/11(木) 20:22

初めて頬を張られた翌朝に堪らなくなり家を飛び出した。不幸せな自分を哀れみ悲しんだ。
二人で見つけたアパートの部屋よりも息苦しい場所なんてこの世には無い。過剰なまでに
悲劇のヒロインを気取ってバスに飛び乗った。

誰かに優しくしてもらいたかった。苦しむ自分の姿を見て、優しく背中に手を当ててくれ
た人が居た。何も聞かずに柔らかなベッドを貸してくれる人が居る。思いやり。優しさ。
久しく忘れていた暖かい心に触れる喜び。今の自分なら、誰もが優しくしてくれると思っ
ていた。それがごく当たり前のように。

「まるで乞食だ…幸福のお裾分けをして貰おうなんて」

独り語ちると、不堪な感情が瞬く間に心の中を満たし始めた。それは途端に形を成し、瞳から
溢れ出す涙となって頬を伝った。梨華は下唇をぐっと噛み締めると両手で顔を覆う。この部屋
に自分以外は誰も居ないことは分かっている。それでも隠したかった。それは涙ではなく浅ま
しい自分自身の心。

73Flyhalf:2003/12/11(木) 20:37

年齢。性別。環境。境遇。それぞれ違う人間の感情を量り比べる事なんて、全く無意味な
行為だとは分かっているが、亜依が歩んできた人生と、自分が歩んできた人生の中に生ま
れた暗闇の深さを考えた。物心付いてまもなく、辛い日々を過ごした少女と、自分で選ん
だ道から逃げ出しただけの自分。

自分は闇の中で何一つ探そうとしなかった。僅かにでも光の差し込む場所は、多分どこかに
在ったはずなのに。


涙を拭おうと頬に手を当てると、不意に亜依が当ててくれたタオルの感触が蘇ってきた。
ひんやりとしたタオル地とは裏腹に、心の中の暖かさが伝わってきた瞬間。

74Flyhalf:2003/12/11(木) 20:38

迷い込んだ森の道を戻ろうともせず、ただ深い場所へ向かって歩く。そこで同じように
迷う人間に出会った時、自分は力を貸すことが出来るだろうか。笑顔を見せて「大丈夫」
だと励ますことが出来るだろうか。不安や痛みに恐れる事無く向き合う勇気。

梨華は考えながら自嘲的な笑みをこぼした。

誰もが『補い』『繕い』しながら、この世を生きているのだ。人は皆、何かしらの不平不満を
抱えて生きている。悩みの無い人なんてきっとこの世には居ない。

75Flyhalf:2003/12/11(木) 20:46
つづく

>>69さん>>70さん
レスありがとう。
更新が止まっていて申し訳ありません。
ほんとうにまとまった時間が取れないんです。
必ず完結させますが、暫しお待ちを・・ほんと、すいません。

76名無し(0´〜`0):2003/12/12(金) 14:03
更新キタ━━━(^〜^≡(^〜^o≡o^〜^)≡^〜^)━━━━!!!!!!
楽しみに待っています。時間が取れたときで全然かまわないですよ。
この作品大好きなんで!!
作者さんのペースでがんばってください!!

77Flyhalf:2003/12/16(火) 19:28
[11]

目を開き、うつ伏せになった体をゆっくりと起こす。窓枠を額縁に見立てると、晴れ渡る
空の景色が一枚の絵画となって映し出された。時刻を求めて壁掛け時計に視線を移す。短
針の先端はアラビア数字の8の括れを指し示していた。

梨華はベッドから降りると、真っ先に鏡に向かい、自分の顔を映してみた。

昨夜は情けない気持ちを胸に抱いたまま、いつの間にか眠りに落ちていた。ピローカバー
には、その証のように涙の痕が染み込んでいる。おかげで瞼が少しばかり腫れているが、
体調そのものはどうやら回復したようだ。

78Flyhalf:2003/12/16(火) 19:30

梨華は汗を吸った衣服を脱ぎ捨てシャワーを浴びると、スーツケースの中から淡いピンク
のノースリーブを取り出し、インディコデニムのスカートとあわせた。ドレッサーの前に
座りメイクを始めると、俄かに心が躍り始める。ふと、鏡の前でワクワクするのは何時以
来だろうと考えた。そして、久しくそんな気持ちを忘れていたことを思い出し、少しだけ
悲しくなった。そんな自分に思わずため息を漏らしたが、気持ちを切り替えてメイクをす
ませると、部屋のドアを開けて、1階に下りてみることにした。

79Flyhalf:2003/12/16(火) 19:32

階段を下りて少し歩くと右側にリビングがあった。かなり広いその部屋は、梨華が一夜を
過ごしたアンティークな客室と比べると、壁以外はどれも今風な物ばかりで飾られていた。
はめ殺しの窓は大きく、太陽の光が部屋中を満たしている。

梨華はその部屋の中央に進み両手を広げると、瞼を閉じ差し込む日差しにその身を委ねた。
窓ガラスをすり抜け、衣服を通し、肌を突きぬけて細胞を刺激する太陽の光は、梨華の心を
ゆっくりと温め、深い安らぎをもたらしてくれる。全ての煩わしさから開放され、住み慣れ
た街を出てから、初めて落ち着いた時間を感じることが出来た。

80Flyhalf:2003/12/16(火) 19:34

「おはよう」

不意に無防備な背中にくぐもった声がかかると、梨華は慌てて振り向いた。心を包み隠す
ように胸元で手を合わせ、驚きの表情を浮かべる梨華に、声の主は咀嚼したものをコーヒ
ーで流し込んだ後、ぎこちなく微笑んだ。梨華もその笑顔に戸惑いを感じてしまい、中途
半端な顔つきで挨拶を返した。

「おはよう…ございます」
「ごめん。驚かしちゃったかな?」
「うん。ちょっとだけ…」
「昨日は、よく眠れた?」
「はい…おかげで元気になりました。どうもありがとうございます」

梨華がそう言って深々と頭を下げると、ひとみは慌てるようにバタバタと両手を振った。

「いや、いや…ウチは何もしてないし。こっちこそ、こんな汚い所に泊めてしまって…」

81Flyhalf:2003/12/16(火) 19:37

梨華はマグカップを片手におろおろするひとみを見て、くすりと笑った。途端にひとみも
動きを止めてにっこりと笑う。二人は笑顔をたたえたままどちらとも無く歩み寄ると、し
っかりと握手を交わした。

「石川梨華です。よろしく」
「アタシは吉澤ひとみ」
「もしかして、夕べのお粥はあなたが作ってくれたの?」
「うん…あれ、口に合わなかったかな?」

ひとみの低い声が、更に一段トーンを下げると、今度は梨華が慌てるように首を振った。
「ううん。すごくおいしかった。あの時はまだ熱っぽくて…残しちゃって、ごめんなさい」
梨華が申し訳ないと言った感じに、眉を八の字にすると、ひとみは優しく微笑んだ。
「残したのなんて気にしてないよ。おいしいって言ってもらえて、うれしい…」

見詰め合うと梨華の中に、また新たな温もりが流れ込んでくる。その源はきっと、つながった
ままの手の平から伝わる、ひとみの心なのだろう。

82Flyhalf:2003/12/16(火) 19:38

口を閉ざし一つの彫像のようになった二人の姿に、入口から圭の呆れたような声が飛んできた。

「ねぇ…昼メロには、ちょっと早すぎる時間じゃない?」

二人が慌てて手を離すと、圭が冷やかすような視線を放ちながら、どこかから『にやにや』と
音が聞こえてきそうな笑みを浮かべた。その瞬間、梨華とひとみの思考がシンクロナイズされ、
共に頬を引きつらせた。

―保田さん。ちょっと、怖い…―
―圭ちゃん。怖え〜よ…―

83Flyhalf:2003/12/16(火) 19:45
つづく

>>76さん、レスありがとう。

84名無し(0´〜`0):2003/12/17(水) 19:59
今日はじめて読みました。
凄く面白いですー^^
楽しみにしていますので、がんばってくださいね。

85名無し(0´〜`0):2004/01/04(日) 21:00
続きまだかなーとかいってみるテスト

86Flyhalf:2004/01/09(金) 22:22
大変申し訳ありません。もうちょこっとお待ちをm(__)m

87名無し(0´〜`0):2004/03/12(金) 12:01
まだかなぁこの作品すごくたのしみにしてたのに…

88名無し(0´〜`0):2004/07/29(木) 22:45
もう無理ですか…

89名無し(0´〜`0):2004/08/25(水) 21:17
誰か続き書いて


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