したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

白翼の悪魔

1妖怪に化かされた名無しさん:2005/05/02(月) 03:09:15
 夕暮れの近づく、とある住宅街の道。ブロック塀と生垣に左右を挟まれた、幅一車線のそこを、一人の青年があるいていた。
 彼は細身で背が高く、濡れは色の髪をして、漆黒の学生服を着、それと同じ色の区個食の鞄を左手から下げていた。その顔には、細い眉と黒真珠の様な瞳を有する切れ長の妖しい眼。
そして透き通るような白い肌に鮮やかな血色の唇。
 美しい。が、彼のその美貌には何か不吉なものを感じさせる、闇の雰囲気を纏っていた。特にその良の瞳は深淵のように果てしなく深く、覗き込んだものを引き寄せ、呑み込んでしまうかのように思えた。しかし、その忌まわしくさえある魔性の引力は、同時に同性をも魅了しうる奇妙な魅力となって、彼の周囲に放たれていた。
 彼はふと、前方を歩く学生服の正面を、その夜闇の瞳に捉えた。
 少年は背が低く、年令は十二・三歳くらい。何の変哲もない、下校途中の中学生に見えた。ただ、1点を除いて。
 その一点は髪だった。裾を切り揃えた彼の髪は、遠めにもくっきりと目立つ茶色であった。しかもその色は、脱色や染髪ではありえない綺麗な栗色。
 青年は忍び足で、背後から少年にそっと駆け寄った。夜闇に紛れて動く黒猫のように。
 青年の普段の雰囲気からすると、死を運ぶ黒豹と例えるべきだろう。しかし、端正なその顔に浮かんでいるのは、チェシャ猫のような悪戯っぽい笑み。

2妖怪に化かされた名無しさん:2005/05/02(月) 03:10:05
 青年は、少年の背後に立つと、白くほっそりとした指を持つ右手を、少年の左肩にポンと置いた。すると少年は振り返った。
 その顔は、日本人離れしたはっきりとした目鼻立ちに、長い睫毛と、髪と同じ栗色のクルリと明るい澄んだ瞳の目。恐らく、ハーフかクォーターだろう彼は、未熟さ故にどことなく儚げな印象を与える、誰もが認める美少年であった。
 青年の姿を身にすると同時に、少年はその綺麗な目を大きく見開き、美しい顔に怯えの表情を浮かべ、大慌てで踵を返して逃げようとした。
 予想通りの反応だ、と青年は内心ほくそ笑むと、鞄を離した左手で彼の左腕をしっかり掴んだ。青年の左腕は、華奢な外見に似合わぬ剛力を発し、そのまま少年をグイッと引寄せ、右腕で少年をギュッと抱きしめた。
 少年を捕らえた青年の黒く華奢な姿は、まるで巨大な蜘蛛の様に凶々しく見えた。少年は、その蜘蛛の巣に囚われた蝶の様に、その身を捩って青年の抱擁を振り解こうとジタバタともがいた。しかし、華奢とはいえ、青年と少年とは身長による歴然とした体格差があり、腕力の差は一目瞭然だった。
「は、離せ。イビルアイ」
少年の口からは、変声期前の高く澄んだ声が放たれた。

3妖怪に化かされた名無しさん:2005/05/02(月) 03:10:38
「やだなあ、司君。人間の姿のときは貴幸って呼んで欲しいなぁ」
 イビルアイと呼ばれた青年は、意地の悪い笑みを浮かべ、彼を両腕で抱きしめた。そしてそのまま身を屋やかがめて、彼の左肩に顎を載せるようにして耳元で妖しく囁いた。
「なあ、司君。ちゃんと、目を見ながら話そうぜ」
 司と呼ばれた少年は、青年と目を合わさないようにしっかりと目を瞑り、更に顔を背けた。まるで、青年と目を合わせることが、命に関わるかのように。
「は、離せ。さまないと、大声を出すぞ」
「クククッ。平気だよ。今ここには、誰にも気付かれないように結界を張ってあるから。つまり、今ここにで、どんなに大声を上げようが、誰も来ない、というわけさ」
一言一言区切って囁く。
「う…。じゃあ、翼さんに…」
「クククッ。残念だな。俺の眼力は心を操るんだぜ。君に、この事を絶対に喋れないようにすることも簡単なんだぜ」
「そ、そんな…」
 曇天が嵐になるように、少年の表情は怯えから絶望のそれへと変わっていった。イビルアイは、彼が怯え、恐怖に震えるさまを、痺れるような快感をもって眺めた。
 イビルアイは、このいじめ甲斐がある相手でじっくり遊ぶことにした。
「まあまあ、そんなに怖がることないじゃないか。別に、捕って食おうってわけじゃないんだからさ」
 イビルアイは、その端整な顔に浮かぶ邪な笑みを一層強めた。
「なぁ、仲良くしようぜ。司君」
 そして彼は、左手を司の小さな顎に掛け、軽く力を込めて自分の方を向かせようとした。
「や、やめて…」
少年は諦めと恐怖の入り混じった、消え入りそうな声で懇願した。しかしそれは、却ってイビルアイの嗜虐心をくすぐっただけだった。

4妖怪に化かされた名無しさん:2005/05/02(月) 03:11:07
 突然、そこに能天気な声がした。
「やあやあ、お二人さん。仲がおよろしいことで。うんうん。仲良き事は、美しきかな」
 通りの向こうの方から、一人の整った顔立ちの青年が、穏やかな表情を浮かべて二人に近づいてきた。
 長身の身体は、落ちついた雰囲気を漂わせる黒衣と黒い鍔広の帽子に包まれていた。そして首からは、彼の職業を雄弁に語る金色のロザリオを下げていた。年は若いのでまだ新米という感じがするが、どこから見ても神父である。
 その顔には、意思の強そうなくっきりとした眉と、微笑んでも隠しきれない揺るぎない信仰心を表す、真っ直ぐな眼差しの瞳。
 彼の手には更に場違いさを助長する、中身の入った緑色の布製の買物袋。
「つ、翼さん」
 恐怖に押しつぶされそんなっていた司の顔が、旭日に照らされたかのように、パッと歓喜に輝いた。一方、イビルアイの顔は、今までの笑みから一転して苦虫を噛み潰したように歪んだ。
「げっ、ジャパニエル…じゃなかった、翼。なんでここに?」
「夕食の買物の帰りですよ」
新米神父は澄ました顔で答え、右手の買い物袋をヒョイと上げてみせた。
「つ、翼さん、助けて」
 司がイビルアイの腕の中で、必死になって暴れた。しかし彼の腕は、相変らず万力のようにびくともしない。
「イビル…いえ、貴幸君。また司君をからかっているのですか?」
 翼、あるいはジャパニエルと呼ばれた神父は、二人に一歩踏出した。

5妖怪に化かされた名無しさん:2005/05/02(月) 03:11:46
 二人の美青年は、司をはさんて向かい合った。
 二人は共よく似た顔立ちをして、共に美しかった。しかしそれは全く異質の、正反対の美しさであった。
 一方は妖しい美しさ。それは背徳的で危険ではあったが、誰でも気軽に近寄る事のできる“俗”な魅力を放っていた。
 例えるなら、それは闇であった。
 忌まわしく、邪悪を連想させるものの、だからこそ、罪を犯した後にその身を隠す事もできる、ある種の安心感のようなものがあった。
 もう一方は、高貴な美しさ。それは崇高で気高かったが、原罪を背負う身である人間にとっては、近寄りがたい雰囲気を持っていた。
 例えるなら、それは太陽であった。
 美しく光り輝き、暖かくはあるものの、全ての非との心の奥底にあるね些細な悪をも暴き立てる、直視できない程の刺すような厳しさが秘められていた。
 翼はついっと手を伸ばすと、司を抱きしめているイビルアイの手に、チョンと触れた。と、彼に触れられたところがズキッと痛み、さらにそこを中心にしてイビルアイの腕に痺れが走った。
 司は、力の抜けたイビルアイの腕を振り解くと、まるで幼子が母親にするように、翼の身体にぴったりと寄り添い、ほっと安堵の表情を浮かべた。
 翼は、その陽光の様な眼差しでイビルアイを正面から見据えた。一瞬、夜闇を映し出したようなイビルアイの瞳が、怯えに曇った。
「私には、司君を守る義務があります。なくなった先代の神父の、たった一人のお孫さんなんですから」
“義務”という言葉を聞くと、司は寂しそうな表情を浮かべ、それまでぴったりと寄り添っていた翼から少し間を開けた。
 しかし翼はそんな司の態度に全く気付かないまま、すいっとイビルアイに近寄ると、にっこりと微笑んだ。

6妖怪に化かされた名無しさん:2005/05/02(月) 03:12:26
「あなたに、神の祝福のあらんことを」
 翼はイビルアイに顔を寄せると、爪先立ってその額に軽く接吻をした。と、そこからイビルアイの身体に先程と同じように痛みと強い痺れが走った。冷や汗が流れ、彼の身体中から力が抜けた。そしてイビルアイの全身を駆け巡った痺れは、並行感覚を乱し、軽い眩暈と共に、イビルアイはドシンと尻餅をついた。
「それではご機嫌よう。行きますよ、司君」
 軽い意趣返しを終えると、翼はくすりと笑って、右腕で司の肩を抱いた。司は、再び嬉しそうな表情を浮かべ、それから思い出したようにクルリと振るとイビルアイに向かってべーっと舌を出した。それから前を向いて、何事もなかったかのように、翼と共に歩み去っていった。
「ねえ、翼さん。今日の夕飯は何なの?」
「ビーフシチューですよ」
翼は手に下げた買い物袋を、ちょいと持ち上げて見せた。
「ねえ、ひょっとして、またぼく一人の分だけ?」
「ええ、そうですが」
「一緒に食べ様よ」
「しかし、私は天使ですから、地上の食物は必要ないんですよ。それに、まあ、私もいろいろと忙しいですし」
「やだ。一緒じゃなきゃ、やだ。僕も食べない」
司がむくれると、翼は一瞬困ったような表情を浮かべたが、すぐににっこりと微笑んだ。
「わかりました。今日は一緒にご飯を食べましょう」

7妖怪に化かされた名無しさん:2011/09/26(月) 23:51:40
 二人が角を曲がって見えなくなるとイビルアイはようやく立ちあがり、ズボンについた埃をパンパンと掃った。
「やれやれ、ちょっと悪戯が過ぎたな。それにしても“義務”か。アイツも冷たいよな」
 軽くため息をつくと、その青年は帰路についた。

その夜の事だった。イビルアイこと中沢貴幸は、居候をしている中沢家の二階にある六畳の自室にいた。そこで彼はベッドに腰掛け、暇つぶしに何冊かの雑誌を読んでいた。
 家主である中沢夫婦は彼の正体を知らない。彼が偽りの戸籍を用意し、更に魔力の籠った視線で他に身寄りのない親戚だと思い込ませているからだ。
 不意に、彼の部屋の窓をコツコツと叩く者があった。イビルアイは慣れた様子で窓に寄り、カーテンと窓をガラリと開ける。すると黒衣を身に纏い、背に烏の翼を生やした長髪の青年が入ってきた。それはまるで、夜闇が凝縮して部屋の中に傾れ込んで来たかのようだった。
彼もまた、イビルアイと同じく背徳の雰囲気を漂わせた、不吉な闇の美しさを持っていた。しかし、その雰囲気は対照的であった。
イビルアイの持つ暗黒は、静かな夜の闇であった。
なぜなら、彼がばら撒くために有する魑魅魍魎のごとき数々の悪徳は、完全に鳴りを潜めていたからだ。彼はそれらを自らの理性によって支配し、抑えているのだ。
それはあたかも、暗躍する魔物を完全に包み隠す夜闇のようであった。
だから彼は一見静かで平穏に見えても、すぐ背後に迫る危険を隠している夜闇のような、得体の知れない不気味さも漂わせていた。
だが一方では、その夜闇の雰囲気がか弱きものを優しく包み込んで隠すような、奇妙な優しさに似たものを秘めていた。
しかし、もう一人の青年の持つ暗黒は雷雲の黒さ、嵐の暗さであった。
彼もイビルアイと同じく数々の背徳と欲望を内に持ってはいたが、それは彼の内部で嵐の雷鳴と豪雨と暴風のように荒れ狂っていた。
しかも彼はそれを一切隠そうとはしなかったため、それらはぎらつく輝きと鳴って彼の相貌から放たれていた。
さらにその輝きは、全てを打ち砕き吹き飛ばすような激しさ凶暴さをも含み、見る者に警戒心と恐怖を与えていた。
「よう、久しぶり。アイ」
青年は、銀の鈴を転がすような声でそう言うと、イビルアイににっこりと微笑みかけた。
「久しぶり、ウィス」
アイことイビルアイも微笑み返す。相手は長年の付き合いのある同族、イビルウィスパーだ。
「な、久しぶりに会ったんだからさ……」
ウィスはアイと正面から向き合うと、彼の首に両腕をかけるた。
ウィスが期待に満ちた眼差しで怪しく誘うと、アイは彼を抱き寄せる。そして彼は、目を閉じたウィスの唇にそっと自分の唇を重ねる。
一瞬の後、アイは顔を離して抱擁を解いた。ウィスの顔に、残念そうな色が浮かぶ。
「いいじゃんか。久々なんだから、もっと楽しもうぜ」
アイは軽く肩をすくめる。
「おいおい、ここでおっぱじめる気かよ。下には俺の養父母もいるんだぞ」
人の身分を持ち、人間社会に溶け込む以上、偽りの家族とはいえその関係は良好にしたいところだ。
「んなもん、人払いの結界張っとけばいいじゃんか」
「お互い、せいぜい十分しか持たないだろうが。途中で切れるだろうが。
 それとも、中断してまた結界を張り直すか?」
熱中してる最中に、そんな風に水を差されるのはえらく興ざめだ。ウィスははっと軽く溜息をつく。
「今日は控えて、また今度、どっか別の場所でしようぜ」
アイの提案を、ウィスはしぶしぶと呑む。
「まったく、相変わらずストイックな奴だな。もっと欲望を楽しめよ。
 大食によるはち切れる程の満腹感を、美酒の目も眩むような酩酊を、麻薬の宙を飛ぶような快楽を、煙草のゆったりとした心地よさを、盗みの手に汗握るスリルを、そしてソドミーの背徳の喜びを、さ」
ウィスの誘いに対し、アイはきっぱりと断った。
「俺ハ欲望を支配してそれを広めるけど、それに振り回されるつもりはないんでな」
「ほんと、お前って悪魔のくせに生真面目な奴だな」
ウィスはジト目で見る。
「売り物を摘み食いしてちゃ、商売にならないぜ。それに、こいつは麻薬だぞ? 下手に手を出してると中毒になって、こっちが“お客様”の仲間入りをしちまうだろ」
アイはすました顔で答える。
「大丈夫さ、その辺のところは弁えてるさ」
ウィスはいつものにやにや笑いを浮かべる。

8妖怪に化かされた名無しさん:2011/09/26(月) 23:52:50
「相変わらず、自信家だな。
 ところで、今日は何の用だ? まさか俺に会うためだけに、遠路はるばるこんなとこまで来たんじゃないだろ?」
それはそれでうれしいけどな、とアイは付け加える。
「ああ、実は組織からの指令があってな」
そう言いながらウィスは、アイと一緒に隣り合ってベッドにトスッと腰掛ける。
彼の言う組織とは、黙示録にある七つの頭を持つ魔獣に率いられた魔物の軍勢。人類の堕落と、暴力と恐怖による世界の支配を目論む、ザ・ビーストと呼ばれる組織である。
「組織? 待てよ。俺はお前と違ってフリーのはずだぜ」
ウィスがポケットから煙草の箱を取り出すと、アイは手慣れた調子でそれから一本を引き抜いて軽くキスをする。その一瞬、口からチロッと火を吹いて点火してウィスに渡す。
「お、ありがとう。……でもさ、この町がターゲットになったんだから、お前も無関係ってわけにはいかないだろう?」
紫煙を吐きつつ、ウィスは手短に組織の計画を説明した。彼に与えられた指令とは、人類の堕落化計画の一環として魔力による直接的な邪悪化であった。そのテストケースとして、この街が選ばれたのだという。
「なーに、オレの声とお前の視線があれば、こんな街の一つや二つ、容易いもんだろ?」
アイは、眉間にしわを寄せる。
「でもな。俺はそういう直接的なやり方は好きじゃないんだけどな」
「だろうな。お前ならそう言うと思ったよ」
二人の付き合いは、そろそろ百年になる。
「でも仕方ないさ、本部の命令だからな。決定された以上、従わないとな」
すまじきものは宮仕え。
「それからさ、今度の計画にはあのジャパニエルの野郎をぶっ殺す事も含まれてるんだぜ」
アイの眉が、ピクリと動く。よくよく注意しないと見えない程、微かではあったが。
「この街にいるんだろ? お前の天敵がさ」
この計画を遂行するにあたり、この街の敵対勢力——人間に味方する妖怪達——の抹殺もその中に含まれていた。
「ああ。でも、どうやって奴を? 昔、奴と戦ったときにはお前も俺も、散々な目に遭わされただろ?」
努めて平静を装って、アイは尋ねる。
実際、聖なる天使と聖なるものに弱い悪魔だ。戦えば結果は目に見えている。
「なーに、やり方は簡単さ。直接ぶつからなけりゃいいんだ。
 駅前とかにたむろしてるチーマーとかを、お前の視線でちょいと焚きつけて、奴の住処にほんとに焚きつけてやるとかさ。
 いくら天使でも、家ごと燃やせばいちころさ」
「……確かに、それなら確実そうだな」
言葉とは裏腹にほんの一瞬、微かにアイの表情が曇る。しかしウィスが気付かれぬようにすぐに無表情に戻した。
「じゃあ、詳しい予定は二・三日後に知らせるからな」
煙草の吸い殻を机の上のジュースの空き缶に捨てると、ウィスは窓から夜空へと飛び去っていった。そしてじきに、その黒い姿は闇に溶け込んで見えなくなった。
煙草の煙を消すために窓を開け放ったまま、アイはベッドの上にゴロリと仰向けになってじっと天井を見つめていた。
そして一時間近い思案の後、アイはガバッと起き上がった。
「くそっ。俺も“堕落”したもんだぜ」
そう自嘲的に笑うと、彼は背中の翼を広げて窓から飛び立った。目指すは町内の教会、ジャパニエルの住居。

9妖怪に化かされた名無しさん:2011/09/29(木) 07:30:58
その教会は夕方に三人が出会った場所から数百メートル離れた、住宅街の一角にあった。
それはこじんまりとして、屋根の上に十字架を掲げていることで辛うじて教会と判る程度の建物。それ以外で同じ敷地内にあるのは、隣接する小さな二階建て住宅と同じく猫の額程の庭。
その住宅の一階の庭に面した窓から、灯りが漏れていた。中では司が窓際に置かれた机に向かって、辞書を片手に教科書の英文を翻訳していた。
不意に、ドアをノックする音がした。
「入りますよ」
翼の声だった。司は返事をすると、勉強を中断して大きく伸びをした。
翼がドアを開け、夜食のクッキーとホットミルクを載せたお盆を手に入ってきた。
「はい、差し入れです。どうです、はかどってますか?」
「うん」
そう答えて彼がお盆の上のマグカップに手を伸ばしたとき、今度は窓からノックの音がした。
「どなたです?」
翼が少し警戒して尋ねた。
「俺だ、イビルアイだ」
昨日の今日どころか夕方の夜である、司が椅子から腰を浮かせて逃げの体勢になった。
「とにかく開けてくれ、翼。話があるんだ」
怯える司の代わりに翼の手によって窓が開けられると、外の夜の暗がりの中に闇色の翼を背負ったアイが立っていた。
しかしその身に纏う雰囲気は夜闇の支配者のごとき静かな自信に満ちたものではなく、むしろ夜闇の庇護を受ける逃亡者のようなおどおどしたものであった。
「珍しいですね。あなたがここへ来るなんて。しかもこんな時間にご用とは、どうかなさったんですか?」
アイは天使と同じ部屋に入るのを嫌って、窓の外に立ったままウィスの話した事について全てを語った。
「俺は奴を止めておくから、お前は暫くどこかに姿を隠した方が良い」
アイはそう言って話を締めくくった。
「でも、お前は悪魔なんだろ。生まれついての悪人なんだろ? だったら何で、そんな事をわざわざ翼さんに知らせるのさ」
司がアイに嫌疑の目を向けた。
「別に俺は、お前らなんかどうなろうと知ったこっちゃない。だけど俺は、今の人間としての安楽な暮らしが好きなんだ。だからそれを壊す真似はしたくない。
 それに元々俺が好きなのは悪徳を撒く事じゃなくて、それで苦しむ人間を見る事だからな。人間は真面目で善良な方が良いんだ。
 それから……、これはほんのおまけみたいな理由だけど、お前には何回か命を助けられているしな」
「お知らせしてくださって、ありがとうございます」
そういって翼はアイに向かってにっこりと微笑み、頭を下げた。
「バ、バカ。単に天使に借りを作ったままだと気分が悪いから、知らせてやっただけだ」
アイは照れ隠しに怒鳴った。

10妖怪に化かされた名無しさん:2011/09/29(木) 07:33:58
その時だった。不意にアイが苦悶の叫びを上げる。見れば彼の背後の暗闇より伸びる二本の腕。それが彼の両目に指を突き立てたのだ。
アイは両目を押さえ、苦痛に呻きながら地面に蹲った。その背後に目に憎しみの炎を灯して立つ、奈落の底から吹き出す暗黒が凝縮したような一人の青年がいた。
イビルウィスパーであった。
彼は激怒し、心の内に渦巻く憎悪をはき出した。
「やっぱりそうだったのか! アイ、この裏切り者めっ! 同族の俺より、宿敵のこいつに味方しやがって。
 畜生! 許さない。アイ、てめえは許さない。
 もうこれで、貴様の眼力は使えまい。さあ、死ねっ」
ウィスはそう叫んだ。アイのように炎を吐く事もせず、ただ叫んだだけ。しかしその途端、苦悶の叫びと共にアイが体を弓なりに仰け反らせて地面に倒れた。
邪悪なる囁き手に相応しい死の命令、それがウィスの能力。
ウィスはさらにアイに怒鳴った。
「よくも、よくも……、くたばれっ、この裏切り者! 滅びろっ」
ウィスが矢継ぎ早に死を命じる度、アイは身を捩り呻きながらのたうち回る。さらにウィスがその腹を蹴り飛ばすと、彼は二・三度痙攣してから動かなくなった。
「貴様っ」
その途端、突然の事に放心していた青年神父が動いた。冷静だった表情が一変して険しくなり、同時にその姿も大きく変化した。
整った顔立ちはそのままに、髪と瞳が輝くような黄金色になり、見た者が思わずひれ伏してしまうような神々しさを放つ。そして黒い僧服が白い潮位と金色の鎧に替わり、同時にその背中からは清らかな純白の翼が生えた。
更に彼の右手には全体が十字架を象った、白銀に輝く剣が現れた。
これが天使ジャパニエルの真の姿であった。
彼は左手で制して司を戸口まで下がらせると、剣を構えて窓の外に躍り出た。しかしウィスは一歩飛び退いてニヤリと笑うと、部屋の中に向かって一言命じた。
「死ね」
ジャパニエルの背後でうめき声。振り向けば苦痛に顔をゆがめた司が、部屋の入り口でドサッと倒れるところだった。
端正な天使の顔に一瞬怯えの表情が走り、すぐに憤怒の形相へと変化した。
「よ、よくも司君を!」
ジャパニエルは鬼気迫る視線でウィスを睨み、剣を構えた。しかしウィスは余裕の笑みを浮かべて言った。
「おっと、動くなよ。さもないとそのガキが死ぬぜ」
たとえいかなる剣の達人であっても、声より速く動く事はできない。おまけに相手は人間以上の生命力を持つ魔物である、いかに天使の聖なる剣をもってしても一太刀では倒せまい。
悔しげな表情でジャパニエルは立ち止まった。
それを眺めて邪悪な笑みを浮かべつつ、ウィスは思案した。
「さて、どうしてもらおうかな。……そうだな、そのガキを助けたかったらその剣で自分の喉を突いてもらおうか」
ジャパニエルは何の迷いもなく、自らの喉仏に剣の切っ先を当ててその柄頭に左の掌を当てた。
キリスト教徒にとっては自殺は背教行為である。ましてや彼は神の忠実な僕たる天使。本来は彼にとっての背教行為とは、自らの存在を根底から否定するにも等しい行為。
自分の命と存在意義を根底から否定する行動にもかかわらず、それは何の迷いも感じさせない淀みのない動作だった。
「約束は、守ってくれますね?」
天使は、殺意すら籠もった視線を悪魔に投げ掛けた。
「ああ。貴様さえ死んじまえば、無力なガキには用はない。指一本……いや声一つだってかけないぜ」
ウィスは下卑た笑いを浮かべた。
「だめだ……、翼さん」
部屋の中に倒れている司が、ジャパニエルの背に向けて弱々しい声で叫んだ。ジャパニエルは彼の方を振り向き、その顔に穏やかな微笑みを浮かべた。それは背教の行為をする者でありながら殉教者の崇高さを秘めた表情だった。
「すみません、司君。もう、一緒に暮らす事はできなくなってしまいました」
そして司の後に万物の父のおわす天を仰ぎ見ながら、背教に対する短い謝罪の言葉を述べて手に力を込めようとした。

11妖怪に化かされた名無しさん:2011/09/29(木) 07:36:01
その時だった。
「待てっ」
突如放たれたその声は、ウィスの足下に横たわっているアイのものだった。そして今までピクリとも動かなかった彼が、突如飛び起きた。
「なにっ!?」
ウィスが驚愕の声を上げた。
両眼から涙のごとく血を流している彼は、声を頼りに手慣れた動作でウィスに抱きつく。そして見る者を慄然とさせる不吉な笑みを浮かべ、アイはその顔をウィスに近づけた。
「お、お前、まだ生きて……」
そう言いかけたウィスの口が塞がれた。アイの口によって。
アイの舌が怪しく蠢き、巧みにウィスの唇を、歯をこじ開けてその奥に潜り込む。ウィスは突然の事に呆然としたまま、それとそれが紡ぎ出す甘美な感覚を口腔へと受け入れていった。
しかし、ウィスの口に入ってきたのはアイの舌だけではなかった。
突如ウィスが驚愕と苦痛に目を見開き、そして仰け反った。離れた二人の口の間に、ゴウッと一瞬炎が閃いた。
「クククッ。どうかな? ご希望の”熱ーいキッス”は、先程のお返しさ。どうだ? “腸が煮えくり返る”気分だろう」
アイが精一杯の虚勢を張り、弱々しく笑った。
ウィスはアイを突き飛ばすと、両手で喉と口を押さえて苦悶の表情を浮かべて目の前のアイを睨み付けた。
口移しに注ぎ込まれた地獄の業火によって、ウィスの口と喉は焼かれてもはや声は出せない。だから、死を命じる事もできない。
アイは一旦は離れたものの、再びウィスにしっかりとしがみついて背後のジャパニエルに精一杯の声で叫んだ。
「今だ、ジャパニエル。構わん、俺ごとこいつを刺せ!」
ジャパニエルが剣を首から離し、両手で腰だめに構えて翼を羽ばたかせ、ウィスに突進した。
ウィスは死にかけたアイの抱擁を振り解こうともがき、その腹を肘で撃った。
死の命令によって傷ついた内臓を打たれたアイは、血を吐きつつもウィスを離さない。その口が微かに動き、小さな声で、しかししっかりと囁く。
「ウィス、悪かったな。一緒に、死んでやるよ」
ウィスの両目が見開かれ、そして彼はアイと体を入れ替えた。
その一瞬後、肉の切り裂かれるドシュッという鈍い音と共に十字架を象った聖なる剣が悪しき者の胴を貫いた。同時にウィスの口から、ぐはっと空気の塊がはき出された。
そして剣が刺さったままの傷口からは清らかなる純白の輝きが漏れ、辺りを白く染め上げた。
体内を聖剣の発する輝きに焼かれ、ウィスは剣を引く抜こうと必死にもがく。しかし十字架に貫かれたままの悪魔に力が出せる訳もない。
剣からはなおも聖なる輝きが放たれ、悪魔の黒き内蔵を焦がした。
「貴様に現世は似合わん、地獄に帰れっ!」
ジャパニエルはウィスを睨み付け、そう言い放った。
清き輝きはさらに幾度も放たれ、悪しき肉体を完全に浄化し塵に返した。

12妖怪に化かされた名無しさん:2011/09/29(木) 07:37:20
イビルアイは鋭い痛みと共に意識を取り戻した。彼がいるのは暗黒の只中。目を潰されたままだからだ。
「お目覚めですか?」
天使の声が聞こえた。
「紛らわしいな。俺は助かったのか? それとも間違って天国なんかにきちまったのか?」
「助かったんですよ。傷を癒すのが何とか間に合ったんです」
アイはベッドの上で上体を起こし、ふと思い出して翼に尋ねた。
「なあ、おいっ。司の奴は大丈夫だったのか?」
「ええ。お陰様で、何とか一命を取り留めました。さっき傷を癒したので、今はぐっすり眠っていますよ」
アイはホッと安堵の溜息を吐くと、続いて尋ねる。
「ウィス……あいつは?」
「完全に滅ぼしましたよ。塵も残っていません」
「……そうか」
鬱ぎがちなアイに、翼は声をかける。
「ご心配ありがとうございます」
翼がくすりと笑うと、アイは慌てた。
「い、いや別に、司の事が心配だった訳じゃない。ただ、その……いじめ甲斐のある奴に死なれるとつまらないから、ただ、それだけだ。
 そ、それに今回の事だって、お前や街の人間共を助けたわけじゃないぞ。ただ、ライバルがいないとつまらないし、人間は善良な方がいたぶり甲斐がある。ただ、それだけだ。それだけだからなっ」
「ま、そういう事にしておきましょう」
ジャパニエルは微笑みながら、ふとある事を思い出した。一説によれば悪魔とは元は人間に試練を与える天使だったという事を。
「ちぇっ。また借りができちまったな」
アイが不満げに呟いた。
「いえ、今回は私も司君も助けてもらったんですから、チャラどころかこちらが借りを作ってしまったくらいですよ」
「そうか」
アイは気が抜けて、ドサリとベッドに倒れようとした。その身体を天使の腕が支え、ゆくりと横たわらせた。泥だらけになったアイの服は脱がされており、そのため翼の腕が直に彼の背中に触れた。
「まだ他に、どこか痛い所はありませんか?」
「お前の触っているところ全部だ」
ぶすっとした口調で、彼は答えた。
「ああ、すみません。ついうっかり直に触ってしまって。でも、そんな軽口を言えるなら、もう大丈夫ですね。
 では、目を癒しますからじっとしててください」
ジャパニエルはにっこりと笑うと、アイの目に手をかざして癒しの力を送り込んだ。そして彼は心の中でこうも付け加えた。
あなたにもお見せしたかったですよ。聖なる光を受けて、あなたの翼が天使のそれのように白く輝くところを。

13妖怪に化かされた名無しさん:2022/04/21(木) 22:50:26
>>1
訂正です。
× 彼はふと、前方を歩く学生服の正面を、その夜闇の瞳に捉えた。
〇  彼はふと、前方を歩く学生服の少年を、その夜闇の瞳に捉えた。

14妖怪に化かされた名無しさん:2023/01/16(月) 23:07:21
>>1
× それと同じ色の区個食の鞄
〇 それと同じ黒色の鞄


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板