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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

9 美髯公 :2015/05/29(金) 22:41:02

      【 清澄での修学時代 】

  幼名を善日麿と言った大聖人が、勉学の為に清澄寺の道善房の許に預けられたのは十二歳の時であった。「本尊問答抄」には「生年十二同じき郷の内・清澄寺と
 申す山にまかり登り住しき」(P.370 ⑧)と述べられている。小湊に近いこの寺は「清澄寺縁起」によれば、奈良朝の光仁天皇、宝亀二年(七七一年)、不思議法師
 という僧が、清澄山を訪れて、虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、小堂を建てて之を安置した事に始まるという。その後、叡山の慈覚大師円仁がここを訪れ、僧坊を
建立し天台密教の寺院にしたという。大聖人は入山して間もなく、本尊の虚空蔵菩薩に向かって願いを立てている。
 「幼少の時より学文に心かけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給え、十二のとしより此の願を立つ」(P.1292 ⑰)と。

 この様にして学問の道に入った大聖人に、直接学問の手ほどきをしたのは浄顕房、義浄房の二人であった様だ。「報恩抄」にも、この二人を指して「幼少の師匠」で
 あったと述べている。さて、大聖人が虚空蔵菩薩に対して願いを立てた事には子細があったという。「神国王御書」によれば、源平合戦、承久の乱の打ち続く戦乱に
 よって、社会も道徳も破壊され、しかも当時の仏教の高僧達の祈祷も何の効験もない事に対して、抜き差し難い疑問を抱いたのである。
 さらに、「妙法尼御前御返事(臨終一大事)」には
 「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも
 老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一大聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡と
 して、一切の諸人の死する時と並みに臨終の後とに引き向かえてみ候へばすこしもくもりなし」(P.1404 ⑦)とある様に、人生の無常を痛感し、人生の根本問題とも
 いうべき死を解決したいという念願から、仏教の書籍に没入していった事が明らかである。

 清澄寺には、大聖人の頭を満たすこれらの疑問を解決してくれる人はいなかった様だ。道善房にしても、浄顕房にしてもそれだけの器量者ではなかった。大聖人は
 自力で、それらの疑問の解決に取り組むほかなかったのである。「日本第一の智者となし給え」と願いを立てた大聖人の深い苦悩は、自身の智慧を磨き、
 やがて見事に開花していった。その願いが何時満願になったか定かでないが、建治二年(一二七六年)正月、五十五歳の時、かつての法兄達に宛てた手紙には、
 「正身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖に受け
 取り候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(「清澄寺大衆中」P.893 ⑪)と、その様子を述べている。ここに「日本第一の智者と
 なし給へ」と祈って、その通り「明星の如くなる大宝珠」を虚空蔵菩薩から受け取り、「一切経の勝劣粗是を知りぬ」と述べている事から、この時、既に内証では仏法の
 極理を把握したと考えられる。


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