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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

71 美髯公 ◆zkpDymnu/M :2015/11/03(火) 19:53:11


      【文永の役】

  文永十一年(一二七四年)六月に、船の建造を完了した蒙古は、高麗兵五千六百を含めた総勢二万五千六百の日本遠征軍を編成し、十月三日、合浦を進発した。
 五日に対馬の西海岸を襲い、守護代の宗助国以下十数名が討死し、十日には壱岐を侵し、二十日には博多に上陸して来た。日本軍は少弐影助を大将としてこれを
 迎え撃ったが、蒙古軍独特の集団戦法、火薬を用いた新兵器、毒矢等の為に大苦戦を強いられ惨憺たる負け戦であった。ところが、夜になってどういう訳か、
 蒙古軍は船へ引き揚げてしまった。その夜半、大風雨が起こり多くの軍船は海の藻屑となった。その為一万数千の兵が溺死し、蒙古軍は一夜にして壊滅して
 しまった。蒙古軍の敗退が京都に伝えられたのは、十二月六日の事である。蒙古侵攻の有様は、身延の大聖人の許にもいち早く伝えられた。十一月十一日付の
 南条時光への消息に既に対馬、壱岐が襲われた事を記している。「大蒙古国よりよせて候と申せば、申せし事を御用いあらば・いかになんど・あはれなり、皆人の
 当時のいきつしまのやうにならせ給はん事・おもひやり候へば・なみだもとまらず」(P.1509 ⑤)

 結果的に蒙古軍が自滅したとはいえ、遂に他国侵逼難が現実となって現われ、多くの無辜の民が戦渦に巻込まれて死んでいった有り様を大聖人は悲しみ、憂えた。
 と共に他国侵逼という最大の難の根本原因に迷い、平和社会建設の原理である「立正安国論」の教えに目を開こうとしない、愚昧な指導者に対する大聖人の憤りは
 激烈であった。「顕立正意抄」に云く「去ぬる文永五年に蒙古国の牒状渡来する所をば朝に賢人有らば之を怪しむ可し、設い其れを信ぜざるとも去る文永八年九月
 十二日御勘気を蒙りしの時吐く所の強言次の年二月十一日に符号せしむ、情有らん者は之を信ず可し何に況や今年既に彼の国災兵の上二箇国を奪い取る設い
 木石為りと雖も設い禽獣為りと雖も感ず可く驚く可きに偏に只事に非ず天魔の国入って酔えるが如く狂えるが如く嘆く可し哀しむ可し恐る可し厭う可し」
 (P.537 ⑤)

 今後も為政者の間に何の反省の色もなく、民衆を忘れて政争に明け暮れ、究極の「立正」を欠くならば、再度蒙古の侵攻を蒙ざるを得ないとし、もしその様な
 事になれば、「先には・にるべくも・あるべからず、京と鎌倉とは但隠岐・対馬の如くなるべし」(P.1220 ⑰)と指摘されている。再び蒙古の大軍が侵攻して
 来たのは弘安四年(一二八一年)の事であった。之を「弘安の役」という。


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