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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

63 美髯公 ◆zkpDymnu/M :2015/10/20(火) 22:11:14

      【平左衛門尉の関心事】

  時宗の権力体制を支えていた陰の人物は、安達泰盛と平左衛門尉頼綱であったと言われている。安達氏は代々、北条家と姻戚関係を結び、勢力を伸ばしてきた
 奥州出身の豪族である。泰盛もその娘を時宗に嫁がせ、多くの要職についていた事は前にも述べた通りである。平頼綱は、侍所の所司(次官)であると共に
 時宗の家令を兼ねていた。元々は御家人より身分の低い武士であったが、時宗の権力が強まるにつれて、いわば北条氏の総支配人とも言うべき家令の地位は
 不動のものとなり、頼綱はいつの間にか幕府の実力者にのし上がっていた。

 当時は、一般の御家人を外様の者と言い、北条得宗の家臣を御内の人々と言ったが、頼綱は御内の人々の長として得宗権力の強化を図る事に力を注いだ。
 その為に機会があれば外様から守護職、地頭職を取り上げその職分を御内の人々に与え、権力機構を北条一門で固めようとしていたのである。それに対して、
 安達泰盛は外様の人々から信望があり、外様を保護する立場にあった。また、評定衆による合議制を重視していたので、頼綱とは事あるごとに衝突し火花を
 散らしていたらしい。この様に、得宗の権力は二人の勢力均衡の上に、成り立っていたと言っても過言ではない。しかし、時頼の頃から重要政務は、得宗の
 私邸で行われた秘密会議で決定されており、評定衆による合議政治は形骸化しつつあったので、実際的には頼綱の方が羽振りを利かせていたのである。

 蒙古防衛対策も勿論、時宗の私邸で行われる政治会議で討議されたであろうから、その会議に於ける頼綱の意見は強い影響力を持っていたに違いない。
 いわば蒙古防衛の要の地位にあった頼綱にとって、最大の関心事は蒙古が何時攻めてくるかという侵攻時期の問題であった事は当然である。頼綱の蒙古侵攻の
 時期に関する質問に対して、大聖人は「経文にはいつとはみへ候はねども天の御気色いかりすくなからず・きうに見へて候よも今年はすごし候はじ」
 (P.287 ⑱)と断言した。事実、この時から半年後の十月五日に、蒙古・高麗の連合軍が対馬を攻撃し、更に博多に上陸した事は周知の通りである。


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