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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

60 美髯公 ◆zkpDymnu/M :2015/10/12(月) 20:48:52

      【佐渡赦免と三度の高名】

  日蓮大聖人が二年有余に及ぶ佐渡流罪を赦されて、佐渡を発ったのは文永十一年(一二七四年)三月十三日の事である。もとより「我今度の御勘気は世間の
 失一分もなし」(P.958 ⑮)と述べられている様に、日蓮大聖人は国法を犯した訳ではなかったので、幕府も赦免せざるを得なかったのである。また、執権・
 北条時宗が大聖人の赦免を決意した背景には、北条時宗の岳父に当たる安達泰盛の強い働きかけがあったとされている。と言うのは、能書家で大聖人の
 檀越であった大学三郎能本と、この安達泰盛の間に書を通じて親交が、あったと言われているからである。秋田城介、陸奥守を兼ね、評定衆にも列していた
 実力者安達泰盛に対し、大学三郎が大聖人赦免の懇請をした事は十分に肯ける事である。

 ともあれ、大聖人は佐渡を発った。しかし舟はそのまま、本土に直行する事が出来なかった様だ。「光日房御書」に「文永十一年二月十四日の御赦免状・同三月
 八日に佐渡の国につきぬ・同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風に
 はなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日に鎌倉に入りぬ」(P.928 ②)と、佐渡から鎌倉
 までの旅程が記述されている。恐らく佐渡守護代・本間六郎左衛門は、国津の松ヶ崎で舟を仕立て、十三日に大聖人を乗せたのであろう。

 国津の松ヶ崎を出て、直ぐに真浦に降りたというのは、沖合いの海がかなり荒れており、そのために一旦、真浦に引き返して波の静まるのを待ったのである。
 真浦に二泊し、十五日に船出したが、東風に煽られ南西に流され、越後(新潟県)の寺泊に着くべき所を柏崎に到着。陸路で越後の国府、信濃(長野県)の
 善光寺を経て、三月二十六日に政都・鎌倉の地を踏んだのである。二年数ヶ月ぶりに鎌倉に帰った大聖人の感慨はひとしおであったろう。佐渡でもそうで
 あったが、鎌倉までの道中に於いても念仏者、律師、真言師等は躍起になって妨害しようとしたが、結局どうする事も出来なかった。


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