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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

6 美髯公 :2015/05/27(水) 22:37:36

  大聖人の出身について、海女が子、施陀羅が子と称したのは、必ずしもその出自を述べたのではなく、自分の教えを伝えようとする対象に向かって、自分もまた
 彼等と同じ階層の出身とする呼びかけの意味であると述べている人もいるが、やはり大聖人御自身のありのままの姿を披瀝されたものと解釈すべきである。後世の
 伝記の中には、大聖人の家系を聖武天皇の末裔としたり、藤原鎌足の子孫にしたりしている者があるが、これは貴賤上下の一切の差別を超えて、人間の平等を
 説いた大聖人の本意を歪めたものにしてしまっている。

  次に、大聖人が、当時「東夷」として蔑まれた東国の出身である、という事について述べておきたい。法然、親鸞、一遍、栄西、道元等の宗教者が何れも京都、
 西国の地域に生まれたのに対して、大聖人は唯一の東国出身者であった事は注目に値する。八世紀頃の東国は「更級日記」にも見られる様に、京都から遙かに
 遠い辺境の地と考えられていた。源頼朝が建久三年(一一九二年)東国の鎌倉に幕府を開いた事は画期的な事であったといえる。こうして政治の中心は東国に
 移行し、承久の変によってそれは確かなものとなったが、文化的には京畿から見れば後進地域であった事は否定できない。大聖人が清澄寺で出家して、本格的に
 仏教と取り組まれる段になって、比叡山を中心に京畿の寺院に遊学された事は、当時の状況としては当然の事であったろう。

 「本尊問答抄」には「遠国なるうへ寺とは名づけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに」(P.370 ⑨)と修学次代を振り返って、
 この様に述べられている。しかし、だからといって大聖人は、東国出身の気概を失われた訳ではない。むしろ、辺土の東国に生まれた事を誇りとさえされている。
 例えば、比叡山に留学中の三位房に対して、次の様な厳しい忠告をされている。
 「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御坊もそれていになりて天のにくまれかほるな。
  のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん、ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみ
  にもあらず・田舎法師にもあらず京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ、言をば但いなかことばにてあるべし」(P.1268 ⑧)


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