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仏教大学講座講義集に学ぶ 【 日蓮大聖人の生涯 】
55
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2015/10/05(月) 22:05:48
また、現存する御書の中でも、「立正安国論」は二十余ヶ所にその名を見るし、「開目抄」でも四ヶ所に出ているのに本抄の場合は、僅かに「観心の本尊得意抄」の
一ヶ所かくして本抄は、三人余人並座の誡訓通り、厳格に護持して後世に伝えられたのである。のみである。それでは、大聖人は何故に、「観心本尊抄」を秘された
のであろうか。この点は「開目抄」と著しく相違する点である。それは第一に、「開目抄」上では「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり」
(P.186 ④)と一般的な問題提起から入り五重の相対の順を追って、末法下種三徳を明かされている。これに対し「観心本尊抄」は、天台の「摩訶止観」の文から
出発し、仏法の肝要の法門に焦点を当てて、末法の観心の本尊を示されている。故に「観心本尊抄」で展開されている事は、天台教学の真髄を究めた者でなければ
理解しがたく、安易な姿勢でこれに臨んでは誤解に陥る恐れがある。
第二に、「開目抄」に意図されている末法の人本尊の開顕は、ある意味でこれまでの大聖人の振舞いによって、実証済みだったといえる。また釈迦の法華経にも、
末法出現の法華経の行者の行動に関しては、かなり明確に述べられており、そこには疑いを挟む余地はない。これに対し法本尊については、法華経もある特定の
文によっては、示しておらず、全体の儀式の相がこれを示唆しているのである。そこには、凡智によっては測りがたい飛躍があり、故に深く本抄を秘されたので
ある。第三に、法本尊は、あくまで元意は、人本尊たる大聖人滅後、未来の衆生の為である。御在世中の人々は大聖人を拝み、大聖人を心に浮かべて題目を唱えた
のである。ごく限られた篤信の人のみ「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候」(P.1124 ⑭)と言われ、御本尊を授与し信仰の依処とせしめられたので
ある。従って、その法本尊の原理を解明した「観心本尊抄」は「無二の志」(P.255 ⑧)の人にのみ披見を許されたと考えられる。
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