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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

36 美髯公 :2015/08/30(日) 23:51:52

      【発迹顕本の意義】

  この瞬間こそ、垂迹上行菩薩の再誕としての使命が終わり、久遠元初の自受用報身(御本仏の生命)と顕われた発迹顕本の時だったのである。
 この様に竜口の法難は、大聖人の仏法哲学上、極めて重要な意義をはらんでいる。つまりそれは、日蓮大聖人を末法の御本仏と見るか、単なる法華経を弘めた
 僧と見るか、という基本的考え方の分かれ道があると考えられるからである。この見方の相違は必然的に「開目抄」の評価にもつながって行く。その端的な例が、
 「開目抄」下の最後の結にある「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(P.237 ⑤)の文を、一部で「したしき父母なり」と誤読している事である。

 日蓮大聖人が主師親の三徳を具備した末法の御本仏であり、その重大な法義を開顕した書が「開目抄」である事を知れば、この様な根本的な誤りを犯すはずは
 ない。この様に、この竜口の法難の際の「発迹顕本」は「開目抄」を理解する上でも、また大聖人の教義に於いて一線を画した佐前佐後の問題を理解していく
 上でも、重要な事柄であるので触れておきたい。「発迹顕本」とは「迹を発って本地を顕す」と読む。迹とは「かげ」の意で、譬えて言えば、天の月が池の水面に
 映っている場合、水面に映った影が迹であり、天空にある月そのものが本地である。

 そこで、日蓮大聖人の場合に於いては、何が迹で何が本地なのかと言う事であるが、それについては「百六箇抄」の冒頭に明確な記述がある。
 すなわち「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す」(P.854 ⑥)との文である。
 ここに、日蓮大聖人の振舞いに於いて、上行菩薩の再誕としてのそれは、あくまでも垂迹であり自受用報身の再誕としての大聖人の姿こそ、まさに本地である事が
 明瞭である。自受用報身とは「久遠名字より已来た本因本果の主」たる、最も根本の仏であり、無始無終の古仏である。法華経本門寿量品の仏と言えども、
 五百塵点劫成道という有始の仏である。その成道の為の本因として、寿量品には「我本行菩薩道」と、菩薩の道を行じたと説かれている。菩薩の道を行じたと
 言うからには、既にそこに依処とした仏法が厳然と存在した訳で、その法の正体を文底独一本門の南無妙法蓮華経と読むのである。


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