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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

32 美髯公 :2015/07/18(土) 23:01:30

 こうした幾つかの条件が重なり合って、九月十日の召喚という事態に展開していったのである。この時、大聖人の尋問を行ったのは、侍所の所司(次官)であり、
 得宗・時宗の家令である平左衛門尉頼綱であった。恐らく公の場で二人が直に対面したのは、この時が最初であったと考えられ、それは、いわば宿命的な出会いと
 いえるもので、平左衛門尉は大聖人とその門下の弾圧に執念を燃やして行くのである。もとより「世間の失一分もなし」(P.958 ⑮)と、身の潔白を寸分も疑わない
 大聖人は、平左衛門尉の尋問を受けても少しも臆する所がない。むしろ毅然とした姿で、自らの信念を披瀝し逆に平左衛門尉の覚醒を促した。

  まず、良観等の訴えの件については「一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の
 時より申せし事なり」(P.911 ⑦)と弁明されている。つまり、建長寺・寿福寺等の寺塔を焼き払い、道隆・良観等の頸を斬れという事は確かに言ったというのである。
 この「頸を斬る」という事については、「立正安国論」に「夫れ釈迦以前の仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(P.30 ⑰)とあるように、
 謗法に対する布施を止めよという意味で用いられているのである。北条時頼は禅僧・道隆の為に建長寺を建立、寄進し更に執権職を退いた後は、最明寺に住して、
 世に最明寺殿と呼ばれた。時頼の大叔父に当たる重時は念仏の信者であったが、良観の為に極楽寺を建立、寄進し火災にあった後も、再建の費用を全面的に
 負担した。また京、奈良の大寺院は 天皇家や公卿から荘園の寄進をうけ、そこから取立てた租税によって経営を維持していた。

 この様に当時の寺院、宗教者は権力者から莫大な布施を受け、安定した生活を送る事が出来たのである。従って、誤れる宗教が民衆の不幸と社会の滅亡の
 原因である事を、鋭く指摘されていた大聖人にとって、権力者にその誤った宗教を捨てさせ、その支えとなる事を止めさせる事が第一の課題だったのである。
 また、故最明寺入道、極楽寺入道が地獄に堕ちた云云の件については、言下に否定している。「禅は天魔の所為、念仏は無間の業」という所説は、最明寺
 入道等が存命中から主張している法門であって、個人的に最明寺入道等堕獄と唱えているというのは全くの虚言であり、讒言であると。


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