したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

29 美髯公 :2015/07/04(土) 23:41:38

      【他国侵逼難が現実化】

  文永五年即ち一二六八年は、日本の運命を決するような重大な年となった。当時、アジアを席捲しヨ-ロッパをも脅かしていた蒙古国は、遂に日本の従属を
 要求して、高麗人潘阜を使者として派遣してきた。世祖・フビライの日本宛詔書(国書)を携えた使者が、九州・太宰府に到着したのはこの年の一月十八日で
 あった。「立正安国論」上提後、七年有余にして他国侵逼難の警告は、現実のものとなって現われたのである。国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はこれを
 朝廷に奏上、評定の結果、国書に対して返牒は遣わさないとの決定が下された。返答を拒否した幕府は対策を急ぎ、西国の御家人に蒙古の襲来に備えるよう
 指令を与えた。更に三月五日には高齢の政村に代わって一八歳の時宗が執権につき、未曾有の国難に対処する体制を整えようとした。

 この様に蒙古の使者が服属を求めて日本に上陸した事は、上層部に対して相当の衝撃を与える事となった。関白の近衛基平公などは「国家の珍事、大事なり。
 万人驚嘆の外なし」(「深心院関白記」)と記している。また、当時蒙古の情報を伝えてきたのは、僅かに開いていた日宋間のル-トでしかなかったので、少ない情報が
 人々の不安をかき不安の表れとして、朝廷は諸社、七陵に奉幣して蒙古撃攘を祈祷しており、民間に於いても蒙古調伏の祈祷が行われた。立てた事は否めない。

  日蓮大聖人は「立正安国論」の原理が的中した事を確信し、再び国家諌暁を決意した。四月五日、一説のは北条家の実力者・平盛時(平左衛門尉
 頼綱の父)ともいわれる法鑒房に対し、一書を送り、直接、執権・時宗に対面する事を迫った。これが「安国論御勘由来」である。この書の最期に「唯偏に
 国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず、復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」(P.35 ⑫)と結んでいるが、ここに
 「禅門」とあるのは恐らく時宗を指すものと思われる。当時の時宗は、父・時頼に劣らず禅に傾倒していたようである。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

■ したらば のおすすめアイテム ■

小林製薬の栄養補助食品 熟成黒にんにく 黒酢もろみ 約30日分 90粒 - 小林製薬


この欄のアイテムは掲示板管理メニューから自由に変更可能です。


掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板