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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

25 美髯公 :2015/06/30(火) 22:45:04

      【小松原法難と旧師との再会】

  日蓮大聖人が再び安房の地を踏んだのは、伊豆流罪を赦免された弘長三年(一二六三年)の翌年、文永元年頃であった。大聖人が十年ぶりに故郷に
 帰ったのは、亡き父の墓に詣でる事無く、老後の母にも会えずにいたのを、流罪を赦された機会に、かねてからの念願を果たす為であったと伝えられる。
 ところが、帰ってみると、母は重病の床に臥していた。大聖人は妙法をもって、母の病気平癒を祈った。「可延定業書」には、母の病気が平癒したのみならず、
 四カ年も寿命が延びた事が記されている。母の平癒後、大聖人は尚この地に留まり、安房方面の弘教活動を精力的に展開した。活動の拠点となったのは
 清澄寺退出の際、一時身を隠した西条花房の蓮華寺であったようで、九月二十二日に、ここで浄円房と対面し、念仏無間の由を具に説いている。

  不倶戴天の敵ともいうべき大聖人が十余年ぶりに安房に帰省し、活発な布教活動を行っている事は、地頭の東条景信の許にもいち早く伝わった事であろう。
 景信は大聖人要撃の機会を窺っていた。十一月十一日、大聖人は天津の領主、工藤吉隆の招きに応じて天津に赴く事になった。この日弟子の鏡忍房を始め、
 在家の信徒等十人程の人を伴って、東条松原の大路にさしかかった時、待ち伏せていた数百人に及ぶ景信の軍勢が一行を襲撃した。時刻は申酉の刻というから
 午後五時頃で、もう辺りはかなり暗くなっていた。

 一行十余人の内、ものの要にあう者 ― 応戦できる者は僅か三、四人であった。矢が降る雨のように射掛けられ、打ちかかる太刀は稲妻のように激しかった。
 この要撃で弟子一人が即座に討死にし、急を聞いて駆けつけてきた工藤吉隆も、善戦及ばず討たれてしまう。大聖人自身も頭に疵を受け、左手を打ち折られて、
 遂に最期かという最悪の状況に追い込まれたのである。しかし、新たな加勢によってか東条勢は逃散し、大聖人は九死に一生を得る事が出来た。
 この法難を小松原の法難という。襲撃を受けた一ヶ月後に、大聖人はこの小松原の法難の模様を記して、南条兵衛七郎に書き送っている。その中で「而も此の経は
 如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等の経文を引いて、「されば日本国の持経者は・いまだこの経文にはあわせ給うはず唯日蓮こそよみはべれ・
 我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(「南条兵衛七郎殿御書」P.1498 ⑩)と「法華経の行者」としての自覚を披瀝している。


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