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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

24 美髯公 :2015/06/29(月) 21:27:55

      【伊豆流罪】

  弘長元年(一二六一年)五月十二日、幕府は大聖人を逮捕し、何の吟味もなく伊豆の伊東に配流した。第一回目の権力による迫害であり、それは法華経
 勧持品に「数数擯出見れん」とある通り、法華経の行者として不可僻の王難であった。「下山御消息」には「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」
 (P.355 ⑦)とあり、また「妙法比丘尼子返事」には「念仏者等この由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は
 極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(P.1413 ①と述べられている。また「御遷化記録」にも、伊豆流罪の事が記録されて
 おり、「弘長元年辛酉五月十二日伊豆の国に流され御年四十伊東八郎左衛門尉に預けらる 立正安国論一巻を造り最明寺入道の奉る故なり 同三年二月
 二十二日赦免」とある。この記録によれば「立正安国論」による幕府諌暁が、伊豆流罪の誘因になった事が明らかである。

  大聖人を乗せた舟は強い風波の為か、目的地の伊東に着く事が出来ず川奈に到着した。ここで一ヶ月余りの間、漁師の船守弥三郎夫婦によって匿われている
 事から、恐らく難破したか不慮の事故に見舞われたのであろう。弥三郎夫婦の一身を賭した外護については、「船守弥三郎御書」に感謝の言葉を綴られており、
 教主大覚世尊が生まれ変わって、大聖人を助けたのであろうかとまで述べられている。この土地でも、大聖人を怨敵視する事甚だしく、鎌倉よりも過ぎる程で
 あったという。やがて大聖人は、川奈より伊東に移された。それは、伊東の地頭の伊東八郎左右衛門が重病になり、その平癒を要請してきたからである。この病を
 平癒させた事によって、地頭伊東氏は大聖人に帰服している。ところが後に退転して念仏真言に逆戻りした事は、「弁殿御消息」に「伊東の八郎ざゑもん今は
 しなののかみは・げんに、しにたりしを・いのりいけて念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが・かへりて念仏者・真言師になりて無間地獄に堕ぬ」(P.1225 ⑪)
 と、明らかである。

 大聖人が伊豆に流されるや急いで馳せつけ、大聖人に常随給仕したのは日興上人であった。「富士門家中見聞」上に云く「弘長元年の五月、師、伊豆の伊東に
 配流せられ給ふ伯耆公即伊東にゆいて給仕し給へり、行程百五十里文笈を荷担して遠しとし給はず、道条処々にて説法教化し給ふに宇佐美吉田に信者少々
 出来る。同三年二月十二日御赦免ありて鎌倉にかへり給ふ伯耆房御伴なり」(「要集」五巻 P.148)と。この様に日興上人は、常随給仕の合間にも寸暇を見つけて、
 付近の人々を折伏されている。更には、熱海にまで弘教の足を伸ばし、真言僧の金剛院行満を折伏されている。

  伊豆期に著わされた御著作に「四恩抄」 「教機時国抄」等がある。それらの御書には、当時の大聖人の内証の意が表明されている。「四恩抄」には「去年の五月
 十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住
 坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(P.936 ⑱)とあり、大聖人が法華経弘通の故に難を受けた事は、
 法華経を身で読んでいる証であると喜ばれている。また「教機時国抄」に「已上の此の五義を知って仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか」(P.440 ①)と、婉曲に
 大聖人が師徳を備えた仏であるとの内証の身分を表明されている。弘長三年(一二六三年)二月、大聖人は伊豆流罪を赦免されて鎌倉に帰られた。
 これは大聖人に罪はなく、諫言による流罪であったと見抜いた最明寺時頼の惜置によるものであった。この間、北条重時は狂疾に罹って、弘長元年十一月に
 急死している。


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