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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

17 美髯公 :2015/06/11(木) 21:20:29

      【鎌倉での活躍】

  日蓮大聖人が幕府所在地・鎌倉に入り、松葉ケ谷に草案を結んだのは建長五年(一二五三年)八月の事である。当時、鎌倉は政治の中心地として経済、
 文化等の面に於いても、政都としての体制が固まりつつあった。執権職にあったのは北条時頼であり、この時まだ二十七歳の若さであった。執権政治は、この時頼に
 よって完成されたといわれている。時頼は禅に傾倒していた。蒙古民族に追われて日本に逃れてきていた、蘭渓道隆に建長寺を造営寄進したのも、同じく建長五年の
 十一月の事である。日蓮大聖人が、妙法を弘通する地として鎌倉を選び、単身、宗教革命の運動を展開した事は、重要な意義を含んでいる。即ち、宗教は本来、
 民衆の苦悩を除き社会を改革して、行くべき性質のものでなければならない。山林に閉じこもって、我が身だけの修行に励むという生き方は、宗教の為の宗教であって
 民衆仏法とは言えない。奈良六宗を始め、天台宗、真言宗の既成仏教が繁雑な形式に囚われ、空虚な議論に耽って宗教本来の使命を失っていたのは、民衆、
 社会と遊離し、貴族仏教化していたからに他ならない。

 日蓮大聖人は宗教本来の使命感の上から、社会の中に入り民衆一人一人を蘇生させ、偉大な宗教の土壌の上に万人が享受しうる文化、平和社会を構築しようと
 したのである。そのためには、一国の政治の中心地である鎌倉で妙法を弘める事が、宗教革命の楔を打つ事になり、それが全国へ波動を及ぼしていく事になると、
 確信されていたのであろう。宗教革命とは思想の変革を通し、人間の内にある生命、意識そのものを根本的に、変革する事を意味する。日蓮大聖人は当時、民衆の
 生命を蝕み、生命の醜悪な面を助長させていた浄土宗を始め真言宗、禅宗、律宗等と鋭く対決していったのである。それも明確な文献を引き、さらに道理、現実の
 証拠に基づき、あらゆる人が納得しうる宗教、思想運動を繰り広げていったのである。

  日蓮大聖人が諸宗の誤りの本質を突いたのに対し、大聖人当時に於いても、以後に於いても教理の上から反駁が無かった事は注目すべき事である。
 当時、あれだけ世間を騒がせた動きに対し、何の批判も出来なかったという事は、やはり理論の上で、既に敗れたと自覚していたからではなかろうか。そのために彼等は
 激しい動揺と恐れを抱いた様である。それ故、返って怨嫉を持ち、大聖人に対し権力による非難、迫害を加えていったと思われる。大聖人のこうした宗教運動の拠点と
 なったのは、松葉ケ谷の草庵である。十一月には比叡山の僧・成弁が草庵を訪れ、日蓮大聖人の崇高な人格と卓越した論調に敬服し最初の弟子となった。
 後に六老僧の一人となった日昭である。さらに翌建長六年の十月、日昭の甥が訪れ、同じく弟子となった。後に日朗という法号を与えられた。同じ年、下総・若宮の
 領主・富木胤継が入信している。それと前後して鎌倉の江間家の家臣・四条金吾頼基、池上宗仲・宗長の兄弟、工藤吉隆、進士善春、荏原義宗等が相次いで
 入信している。


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