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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

16 美髯公 :2015/06/10(水) 21:57:57

  大聖人が痛烈な念仏批判を行ったとの報せを受けた景信は、時機到来とばかりに武力で大聖人を排除する手段に出たのである。領地侵犯の挫折という社会的な
 問題で鬱積していた景信の感情は、宗教上の問題で火が付けられた。また景信には、大聖人の立宗宣言が支配地内で起きた不祥事と映ったのであろう。景信は
 道善房に対して、大聖人引き渡しを迫ったものと思われる。一方、内部にあっても円智房、実成房等が道善房に、大聖人の勘当を迫った。道善房にとって大聖人は、
 幼少からの弟子であり内心では不便と思ったが、内外からの挟撃にあって破門せざるをえなかったようだ。

  「報恩抄」に云く「地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろ
 の弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし」(P.323 ⑩)と。大聖人は景信の追手を避けて清澄山を下り、景信の手の及ばない西条花房の
 蓮花寺にひとまず落ち着いた。この折、大聖人を匿い、道案内にたったのが浄顕房、義浄房の二人であった。同じく「報恩抄」に云く「日蓮が景信にあだまれて
 清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(P.324 ②)と。

 また、浄顕房に与えた「本尊問答抄」には「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公と
 おぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(P.373 ⑭)とある。大聖人が、その後間もなく安房を後に、政都・鎌倉に向かい松葉ケ谷の草案を拠点に、弘教の歩みを
 進めていったことは周知の通りである。


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