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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

1美髯公:2015/05/25(月) 22:33:19

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 日蓮大聖人の生涯 】は、講義集の第一・二・三集に掲載されております。

3美髯公:2015/05/25(月) 22:43:10

  講義に入る前に、本講座の主旨について述べておきたい。
  第一に、日蓮大聖人の思想、精神を正しく理解する為には、その置かれた時代、社会を把握してこそ可能になる。一体、大聖人の生きた時代、社会は如何なる
  状況であったかを明らかにしていきたい。
 
  第二に、「日蓮大聖人の御化導は、立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われる様に、大聖人の仏法に於いて「立正」つまり仏法と「安国」
  すなわち社会とは不可分の関係にある。それは大聖人の生き方の中に、一貫して流れているものである。大聖人ほど、現実社会に関わり、民衆と共に
  生き抜かれた宗教者は他に類を見ない、
 と言っても過言ではない。可能な限り大聖人と社会との接点を、浮き彫りにしていきたい。

  第三に、之まで大聖人の思想、精神、人間像について善きに付け悪しきに付け、余りにも極端な捉え方をした為に、還って誤解を与えてしまっている。
  例えば、大聖人を神秘化したり、その思想を国家主義と做したりしている点である。これでは「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(P.919 ⑯)
  と言われている様に、一人の生きた人間としての大聖人像を浮き彫りにしたいと考えている。

5美髯公:2015/05/26(火) 22:37:46

      【 大聖人の出生と出身 】

  日蓮大聖人が、御自身の出生の生年について記されているのは、「波木井殿御書」(昭和新定ばんに収録)である。
 その冒頭に、「日蓮は日本国人王八十五代後堀河院の御宇貞応元年壬午安房の国長狭の郡東条郷の生まれ也。仏の滅後二千百七十一年に当たる也」と
 触れられている。また「御伝土代」(日蓮正宗第四祖日道上人が日蓮大聖人、二祖日興上人、三祖日目上人の伝記を記した草案)には「後の堀河の院の御宇、
 貞応元年二月十六日誕生なり」と記されている。これらの文献からも明らかな様に、末法万年を照らし晴らす使命を担った日蓮大聖人は貞応元年(一二二二年)
 二月十六日、安房国(現在の千葉県)長狭郡東条郷の海辺で出生された。大聖人の出身は、貴族の出でも、武士の出でもない。何の財力も権力も名誉もない、
 一介の庶民の中から出て行かれたのである。

  「本尊問答抄」に云く「日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当たる安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海女が子なり」(P.370 ⑧)と。
  「善無畏三蔵抄」に云く「東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず」(P.883 ⑨)と。
  「佐渡御勘気抄」に云く「日蓮は東夷・東条・安房の国海辺の施陀羅が子なり」(P.891 ⑪)と。
  「佐渡御書」に云く「日蓮今生には貧窮下賤のものと生まれ施陀羅が家より出たり」(P.958 ⑨)と。

 「施陀羅」とは梵語(Candâla)の音写で、屠者、殺者等と訳される。かつてインドではカ-ストと言って、身分を大きく四姓に分類し差別を設けた。(ブラ-フマン=
 司祭、クシャトリャ=王族、バイシャ=農工商の庶民、ス-ドラ=度民)施陀羅はこの四姓より下に置かれ、狩猟、漁労等の殺生、獄卒等を生業としている人達を、
 この枠に収めて不条理な差別を強いたのである。我が国の鎌倉時代には、そうした身分制度があった訳ではないが、大聖人の父三国の太夫が漁師であった事から、
 「施陀羅が子」と譬喩的に言われたのであろう。だが、江戸時代の様に士農工商の下に置かれた穢多の様な、はっきりとした差別を受けなかったにせよ、身分的に
 下層階級であった事は否めない。大聖人が「施陀羅が子」 「賤民が子」とあえて言い切られているのは、謙遜の意味もあるが、大聖人の仏法は何処までも民衆の
 側に立つものである、との宣言とみるべきである。最も虐げられ、犠牲を被って来た無名の庶民を人間の王者へと変革していく仏法 ─ それが大聖人の民衆仏法に、
 他ならないという事である。

6美髯公:2015/05/27(水) 22:37:36

  大聖人の出身について、海女が子、施陀羅が子と称したのは、必ずしもその出自を述べたのではなく、自分の教えを伝えようとする対象に向かって、自分もまた
 彼等と同じ階層の出身とする呼びかけの意味であると述べている人もいるが、やはり大聖人御自身のありのままの姿を披瀝されたものと解釈すべきである。後世の
 伝記の中には、大聖人の家系を聖武天皇の末裔としたり、藤原鎌足の子孫にしたりしている者があるが、これは貴賤上下の一切の差別を超えて、人間の平等を
 説いた大聖人の本意を歪めたものにしてしまっている。

  次に、大聖人が、当時「東夷」として蔑まれた東国の出身である、という事について述べておきたい。法然、親鸞、一遍、栄西、道元等の宗教者が何れも京都、
 西国の地域に生まれたのに対して、大聖人は唯一の東国出身者であった事は注目に値する。八世紀頃の東国は「更級日記」にも見られる様に、京都から遙かに
 遠い辺境の地と考えられていた。源頼朝が建久三年(一一九二年)東国の鎌倉に幕府を開いた事は画期的な事であったといえる。こうして政治の中心は東国に
 移行し、承久の変によってそれは確かなものとなったが、文化的には京畿から見れば後進地域であった事は否定できない。大聖人が清澄寺で出家して、本格的に
 仏教と取り組まれる段になって、比叡山を中心に京畿の寺院に遊学された事は、当時の状況としては当然の事であったろう。

 「本尊問答抄」には「遠国なるうへ寺とは名づけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに」(P.370 ⑨)と修学次代を振り返って、
 この様に述べられている。しかし、だからといって大聖人は、東国出身の気概を失われた訳ではない。むしろ、辺土の東国に生まれた事を誇りとさえされている。
 例えば、比叡山に留学中の三位房に対して、次の様な厳しい忠告をされている。
 「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御坊もそれていになりて天のにくまれかほるな。
  のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん、ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみ
  にもあらず・田舎法師にもあらず京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ、言をば但いなかことばにてあるべし」(P.1268 ⑧)

7美髯公:2015/05/28(木) 22:48:12

  大聖人は御自身の体験から、民衆の苦悩から遊離し、革新の息吹を失ってしまっている京の疲弊しきった雰囲気にのめり込んでしまう事を憂慮されたのである。
 事実、弟子であった小輔房は京都風に被れ、天魔に食い入られて慢心の虜になってしまったではないかと、先例を挙げ言葉も田舎言葉を失うなと注意を喚起されて
 いる。これは保守社会の頽廃した空気に染まっていない東国の溌剌たる精神を尊重されていたと考えられる。この様に東国の自主性を重んじる大聖人の姿勢は、
 立宗宣言以後、本格的な折伏弘教の舞台を政都・鎌倉という日本の実質上の中心地に置いたという点にも、強く反映されている様に思えてならない。

 大聖人が出生されたのは、鎌倉に幕府が開かれて僅か三十年後の事である。鎌倉と安房の間は海上輸送によって緊密に結ばれており、鎌倉の情報はかなり
 速やかにもたらされていたと思われる。大聖人が現実的視座から日本の現実を直視し、その中枢・東国とりわけ鎌倉こそ宗教革命の震源地と定められたのも、東国の
 安房の地で人間形成されていった事が大きく影響を及ぼしているのではあるまいか。

9美髯公:2015/05/29(金) 22:41:02

      【 清澄での修学時代 】

  幼名を善日麿と言った大聖人が、勉学の為に清澄寺の道善房の許に預けられたのは十二歳の時であった。「本尊問答抄」には「生年十二同じき郷の内・清澄寺と
 申す山にまかり登り住しき」(P.370 ⑧)と述べられている。小湊に近いこの寺は「清澄寺縁起」によれば、奈良朝の光仁天皇、宝亀二年(七七一年)、不思議法師
 という僧が、清澄山を訪れて、虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、小堂を建てて之を安置した事に始まるという。その後、叡山の慈覚大師円仁がここを訪れ、僧坊を
建立し天台密教の寺院にしたという。大聖人は入山して間もなく、本尊の虚空蔵菩薩に向かって願いを立てている。
 「幼少の時より学文に心かけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給え、十二のとしより此の願を立つ」(P.1292 ⑰)と。

 この様にして学問の道に入った大聖人に、直接学問の手ほどきをしたのは浄顕房、義浄房の二人であった様だ。「報恩抄」にも、この二人を指して「幼少の師匠」で
 あったと述べている。さて、大聖人が虚空蔵菩薩に対して願いを立てた事には子細があったという。「神国王御書」によれば、源平合戦、承久の乱の打ち続く戦乱に
 よって、社会も道徳も破壊され、しかも当時の仏教の高僧達の祈祷も何の効験もない事に対して、抜き差し難い疑問を抱いたのである。
 さらに、「妙法尼御前御返事(臨終一大事)」には
 「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも
 老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一大聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡と
 して、一切の諸人の死する時と並みに臨終の後とに引き向かえてみ候へばすこしもくもりなし」(P.1404 ⑦)とある様に、人生の無常を痛感し、人生の根本問題とも
 いうべき死を解決したいという念願から、仏教の書籍に没入していった事が明らかである。

 清澄寺には、大聖人の頭を満たすこれらの疑問を解決してくれる人はいなかった様だ。道善房にしても、浄顕房にしてもそれだけの器量者ではなかった。大聖人は
 自力で、それらの疑問の解決に取り組むほかなかったのである。「日本第一の智者となし給え」と願いを立てた大聖人の深い苦悩は、自身の智慧を磨き、
 やがて見事に開花していった。その願いが何時満願になったか定かでないが、建治二年(一二七六年)正月、五十五歳の時、かつての法兄達に宛てた手紙には、
 「正身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖に受け
 取り候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(「清澄寺大衆中」P.893 ⑪)と、その様子を述べている。ここに「日本第一の智者と
 なし給へ」と祈って、その通り「明星の如くなる大宝珠」を虚空蔵菩薩から受け取り、「一切経の勝劣粗是を知りぬ」と述べている事から、この時、既に内証では仏法の
 極理を把握したと考えられる。

11美髯公:2015/05/30(土) 22:47:14

  それは当時の人々の耳目を驚動する未聞の極理であった故に、末法救済の依り所として人々に明確に示す為には、それだけの体系化が求められた。確かな文証、
 理証、現証の裏付けがあってこそ、世の人々を納得させる事が出来、求める心を充足せしめていくからである。そのためには、八万法蔵と言われる釈尊の一切経を
 始め、あらゆる論釈、他宗の教義等を知悉しなければならなかった。大聖人は出家する事を決意されたのである。時に嘉禎三年(一二三七年)の十六歳の時で
 ある。師の道善房により剃髪の儀式を済ますと、名を是生房蓮長と改めた。しかし、清澄寺はそうした大聖人の心を十分に満たしうる条件は備えていなかった。
 「本尊問答抄」に「遠国なるうへ寺とは名づけて候へども修学の人なし」(P.370 ⑨)と慨嘆している様に、大聖人のつくべき碩学はいなかったのである。

 そこで大聖人は一旦、安房からも近い新興の中心地、鎌倉に出て学ぶ事にした。だが、鎌倉は学問的に何ら得る所なく、数年で帰山したようだ。そして改めて、文化の
 中心である京畿地方に仏教を求めた。仁治三年(一二四二年)、二十一歳の頃であったと伝えられている。まず天台宗の根本道場であり、当時の仏教界の最高学府
 ともいうべき比叡山に登り、ここを中心として三井園城寺、四天王寺、高野山、さらに京都、奈良の諸宗寺院を回って仏教研鑽に努めたのである。この遊学の期間は
 十数年に及んだ。

13美髯公:2015/05/31(日) 21:00:47

      【 立宗宣言と地頭の反発 】

  建長五年(一二五三年)四月二十八日、大聖人は師道善房の住坊となっている諸仏坊の持仏堂の南面に於いて、自身の所説を表明した。
 いわゆる立宗宣言である。時に午の刻。持仏堂の南面の広場には、道善房をはじめ、浄円房、少々の大衆が参集していた。伝える所によれば、これに先立って、
 大聖人は、四月二十二日から七日の間、禅定に入り満願の日 ― 二十八日の朝、蒿が森(今は旭日森)の頂上に立って、太陽に向かって「南無妙法蓮華経」と
 唱えたという。「報恩抄」及び「開目抄」には、末法出世の極理を説き始めるに当たって起こるであろう大難を予測し、胸中に葛藤が生じた事を述懐している。

 「此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば、殷の紂王の比干が胸を・さきしがごとく・・・・法道三蔵のかなやきをやかれがごとく・ならんずらん
 とはかねて知りしかども、法華経には『我身命を愛せず、但無上道を惜しむ』ととかれ涅槃経には『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』といさめ給えり、今度命をおしむ
 ならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をも・すくい奉るべき」(P.321 ⑭)と。
 なぜ大難の起こる事を予測したのであろうか。それには「此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり」とある、「此の事」とは何かを知らなければならない。大聖人は
 胸中に一人悟った法を説き顕すに当たって、当時現存する全ての宗派が三悪道流転の基であって、成仏得道の教えでない事を明瞭にしなければならなかった。
 故に四箇の格言として有名な、念仏は無限の業、禅宗は天魔の法、真言は亡国の法であるという痛烈な批判を行ったのである。

  諸宗は無徳道、妙法の一法のみが成仏得道の法である ― これを言うべきか、言わざるべきか。言えば三障四魔の障碍が競い起こり、三類の強敵の難を被る事は
 必定である。だが、もし言わなければ後生は無間の淵に沈み、父母・師匠を救えない事になってしまう。― 迷い抜いた末、法華経宝塔品に説かれる六難九易の文を
 目の当たりにした大聖人は、強盛な菩提心を起こし、「二辺の中にはいうべし」と断固決意し説き始めたのである。末法法華経の行者の道を選んだ大聖人は、
 その時既に法華経勧持品等に説かれる、あらゆる迫害を受ける事は覚悟の上であった。

 天台密教の寺、清澄寺の住持であり、自身は念仏を行じ、阿弥陀仏も自ら造った道善房の驚きは、並大抵のものではなかったに違いない。道善房は、偉大な成長を
 遂げた大聖人に、目映いばかりのものを覚えたであろうが、同時に大聖人の言説が地頭、東条景信の耳に達し、清澄寺そのものが迫害される事を、ひたすら恐れる
人でもあった。また、年老いていた為でもあろうか、念仏を捨てて大聖人と共に、新しい道を進む気概はさらに無かった。これに対して法兄の浄顕房、義浄房は
 一時は、愕然とした事であったろうが、大聖人の所説に共鳴し尊敬する側に立ったようである。「報恩抄」によれば、清澄寺の衆僧の中で特に、円智房や
 実成房等が大聖人に強く反発している。

15美髯公:2015/06/01(月) 23:15:26

  清澄寺に於ける立宗宣言の第一声が周辺に伝わると、六難九易の経文は具体的な姿を伴って現われた。道善房の心配通り、東条郷の地頭、東条景信の憤激を
 買ったのである。東条景信はその名字が示す通り、安房長狭郡東条郷に勢力を持つ武士であった。東条郷は源頼朝が伊勢外宮に寄進した東条御厨の一部で
 あったから、その地頭であることは、東条氏が土着の武士であった事を示している。地頭とは元来、庄園に置かれた管理者の呼称であったが、それを源頼朝が治安
 維持の名目で勅許を得て全国の荘園、公領に設置し、一つの職名とした。さらに承久の乱(承久三年=一二二一年)の結果、北条幕府はこの事変に勲功のあった
 御家人を没収した公家方の所領の地頭に任命し、全国支配を確立していった。この様に幕府の権力が、強大になるにつれて地頭も権威を増し、次第に横暴になって
 いった。初期の頃は、中央に送る貢物を横領する程度であったが、承久の乱以後その非道ぶりは激しくなり、土地そのものの略取を始めた。その際、庄の領主と
 衝突するのは必然の成行きであったといえる。

  東条景信もまた、こうした地頭の一人であった。景信は幕府中央の連署の重職にあった北条重時の御家人だったらしく、その威光を借りて様々な形で在地の領家を
 圧迫していた。この地の領家は北条支家の名越氏であった。三代執権・北条泰時の弟に当たる朝時が和田義盛の乱で功を挙げ、和田義盛の所領であった長狭郡
 一帯を変わって支配していたのである。この頃は既に当主の朝時は他界しており、その夫人が領家を切り回していたらしい。この女性が、大聖人の父母が重恩を
 受けた「領家の尼」または「大尼」と呼ばれた人であった。

 景信はまず、清澄寺と領家の所領の内の二間寺を念仏の寺とし、禁猟地域の清澄寺の飼鹿を狩って、この地域が自分の勢力範囲である事を示威しようと計った。
 それは明らかに、清澄寺と領家の所領侵略を意図したものであった。この時、大聖人は領家・清澄寺側にあって、事件を裁判に持ち込ませた。その結果、裁判は
 領家側に有利に展開し、一年も経たない内に二箇の寺は景信の掌中から離れた。完全な勝訴であった。この事件が、いつ頃の事であったかは明らかでないが、恐らく
 大聖人が遊学から帰った、直後の事ではなかったかと考えられる。地頭としての面目を潰された景信の、大聖人に向けられた遺恨は常のものではなかったに
 相違なく、報復の機会を窺っていたであろう事は想像に難くない。

16美髯公:2015/06/10(水) 21:57:57

  大聖人が痛烈な念仏批判を行ったとの報せを受けた景信は、時機到来とばかりに武力で大聖人を排除する手段に出たのである。領地侵犯の挫折という社会的な
 問題で鬱積していた景信の感情は、宗教上の問題で火が付けられた。また景信には、大聖人の立宗宣言が支配地内で起きた不祥事と映ったのであろう。景信は
 道善房に対して、大聖人引き渡しを迫ったものと思われる。一方、内部にあっても円智房、実成房等が道善房に、大聖人の勘当を迫った。道善房にとって大聖人は、
 幼少からの弟子であり内心では不便と思ったが、内外からの挟撃にあって破門せざるをえなかったようだ。

  「報恩抄」に云く「地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろ
 の弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし」(P.323 ⑩)と。大聖人は景信の追手を避けて清澄山を下り、景信の手の及ばない西条花房の
 蓮花寺にひとまず落ち着いた。この折、大聖人を匿い、道案内にたったのが浄顕房、義浄房の二人であった。同じく「報恩抄」に云く「日蓮が景信にあだまれて
 清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(P.324 ②)と。

 また、浄顕房に与えた「本尊問答抄」には「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公と
 おぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(P.373 ⑭)とある。大聖人が、その後間もなく安房を後に、政都・鎌倉に向かい松葉ケ谷の草案を拠点に、弘教の歩みを
 進めていったことは周知の通りである。

17美髯公:2015/06/11(木) 21:20:29

      【鎌倉での活躍】

  日蓮大聖人が幕府所在地・鎌倉に入り、松葉ケ谷に草案を結んだのは建長五年(一二五三年)八月の事である。当時、鎌倉は政治の中心地として経済、
 文化等の面に於いても、政都としての体制が固まりつつあった。執権職にあったのは北条時頼であり、この時まだ二十七歳の若さであった。執権政治は、この時頼に
 よって完成されたといわれている。時頼は禅に傾倒していた。蒙古民族に追われて日本に逃れてきていた、蘭渓道隆に建長寺を造営寄進したのも、同じく建長五年の
 十一月の事である。日蓮大聖人が、妙法を弘通する地として鎌倉を選び、単身、宗教革命の運動を展開した事は、重要な意義を含んでいる。即ち、宗教は本来、
 民衆の苦悩を除き社会を改革して、行くべき性質のものでなければならない。山林に閉じこもって、我が身だけの修行に励むという生き方は、宗教の為の宗教であって
 民衆仏法とは言えない。奈良六宗を始め、天台宗、真言宗の既成仏教が繁雑な形式に囚われ、空虚な議論に耽って宗教本来の使命を失っていたのは、民衆、
 社会と遊離し、貴族仏教化していたからに他ならない。

 日蓮大聖人は宗教本来の使命感の上から、社会の中に入り民衆一人一人を蘇生させ、偉大な宗教の土壌の上に万人が享受しうる文化、平和社会を構築しようと
 したのである。そのためには、一国の政治の中心地である鎌倉で妙法を弘める事が、宗教革命の楔を打つ事になり、それが全国へ波動を及ぼしていく事になると、
 確信されていたのであろう。宗教革命とは思想の変革を通し、人間の内にある生命、意識そのものを根本的に、変革する事を意味する。日蓮大聖人は当時、民衆の
 生命を蝕み、生命の醜悪な面を助長させていた浄土宗を始め真言宗、禅宗、律宗等と鋭く対決していったのである。それも明確な文献を引き、さらに道理、現実の
 証拠に基づき、あらゆる人が納得しうる宗教、思想運動を繰り広げていったのである。

  日蓮大聖人が諸宗の誤りの本質を突いたのに対し、大聖人当時に於いても、以後に於いても教理の上から反駁が無かった事は注目すべき事である。
 当時、あれだけ世間を騒がせた動きに対し、何の批判も出来なかったという事は、やはり理論の上で、既に敗れたと自覚していたからではなかろうか。そのために彼等は
 激しい動揺と恐れを抱いた様である。それ故、返って怨嫉を持ち、大聖人に対し権力による非難、迫害を加えていったと思われる。大聖人のこうした宗教運動の拠点と
 なったのは、松葉ケ谷の草庵である。十一月には比叡山の僧・成弁が草庵を訪れ、日蓮大聖人の崇高な人格と卓越した論調に敬服し最初の弟子となった。
 後に六老僧の一人となった日昭である。さらに翌建長六年の十月、日昭の甥が訪れ、同じく弟子となった。後に日朗という法号を与えられた。同じ年、下総・若宮の
 領主・富木胤継が入信している。それと前後して鎌倉の江間家の家臣・四条金吾頼基、池上宗仲・宗長の兄弟、工藤吉隆、進士善春、荏原義宗等が相次いで
 入信している。

18美髯公:2015/06/13(土) 21:49:09

      【相ついだ天変地】

  さて、当時の歴史年表を見てみると、日蓮大聖人が鎌倉に来てから年号が、屡々改元されている事に気がつく。三年後の建長八年には康元、翌年には正嘉、
 二年で正元、更に文応、弘長と僅か六年の間に五度も改元している。改元は天皇が交代したときに行われる場合と、天変地夭等の不祥事が重なるときに
 行われる場合とがあるが、当時は後者である。平安末期頃より天変地夭の現象が顕著になりつつあったが、特に建長八年(一二五六年)の頃から連年、
 大地震・暴風雨・流行病・旱魃・火災・寒波等が続いている。「吾妻鏡」 「続本朝通鑑」等には当時の悲惨な状況が、つぶさに記録されている。

 例えば、建長八年八月六日には、鎌倉に暴風雨が襲って、河川洪水、山岳大いに崩れて多数の死者が出、田畠の作毛悉く損亡したと記されている。
 同年九月には疫病が流行し、将軍・宗尊親王や執権・時頼等も感染している。

 正嘉元年(一二五七年)四月十六日に月食、続いて五月一日に日食があって祈祷を行っている。共に不吉な事として当時の人々が恐れた現象である。
 また、十八日の夜半には大地震があった。更に六月から七月にかけて旱魃が続き、雨乞いの修法祈祷を行っている。
 特に八月二十三日の夜戌の刻(午後八時)には、前代未聞の大地震が起こった。山岳は崩れ、人家は倒れ、築地は悉く破損し、所々に大地が裂け、
 火災は多発し、夥しい死者が出たと記されている。日蓮大聖人が「立正安国論」を執筆する直接の機縁となったのはこの大地震である。

19美髯公:2015/06/14(日) 21:23:08

 文永六年(一二六九年)十二月八日、日蓮大聖人が「立正安国論」を書写した時に加えた「立正安国論奥書」には「去ぬる正嘉元年太歳丁巳、八月二十三日、
 戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(P.33 ⑦)と明確に記されている。その他「安国論御勘由来」や幾多の御書に正嘉の大地震としてあげている。
 その後も、九月下旬まで地震が頻発し、十一月八日にはまた大地震が起きている。

 更に正嘉二年(一二五八年)八月一日には、暴風雨によって諸国の田園が損亡し、正元元年(一二五九年)には、全国的に大飢饉、疫病が流行し大半の
 人々が死んでいる。「続本朝通鑑」には、この頃の情勢について「天下飢饉、疫多く、人民多く死し、骸山野に満つ、時に小尼あり、京都に来往して好んで人の
 骸を食う。時人大いにこれを懼れ怪しむ」とあるが、その悲惨の一端を伺う事が出来る。

  「立正安国論」の冒頭に「旅客来たりて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり
 死を招くの輩既に大半を超え之を悲しまざる族敢て一人も無し」(P.17 ④)とあるが、ここに述べられていることは決して誇張ではなく、ありのままの世相を記している
 ことが理解されよう。日蓮大聖人は、こうした異常なまでの天変地夭、またそれによって苦悩する民衆の姿を見て、その原因と解決の法とを明らかにするために、
 駿河国(静岡県)岩本実相寺の経蔵に入り一切経を閲読した。時に正嘉二年二月と言われている。この折、日興上人が弟子になったという。

20美髯公:2015/06/15(月) 22:50:33

      【得宗・時頼への提出】

  日蓮大聖人は一切経を閲読した結果、天変地夭のよって来たる原因、また諸宗に祈祷を行わせるも一分の効験も顕われず、返って災いが増長するのは何故かと
 いう道理、文証を得る事が出来たのである。その結論に基づき、為政者を覚醒せしめんと決意し、警世の書「立正安国論」を著わした。文応元年(一二六〇年)
 七月十六日、日蓮大聖人は宿屋左衛門光則を通じ、この「立正安国論」を時の実権者・北条時頼に提出したのである。その大意は、仁王経、薬師経、大集経、
 金光明経の四教の明文を引いて、一切の三災七難の根源は、正法を信ぜず、仏説に背いた教えを信ずる所にある。とりわけ、社会を覆い人々の生命を蝕んでいる
 一凶は、法然の念仏に他ならない。この一凶を断ち、正法たる妙法を信仰するならば、幸福と平和の楽土が現出する。しかし、もしも為政者がこの迷妄に
 目覚めなかったならば、これまで起こっていない二つの大きな災難 ― 自界叛逆難と他国侵逼難が競い起こり、民衆はよるべき国土を失い、塗炭の苦しみに喘ぐで
 あろうと警告したものである。

  自界叛逆難とは、内乱・内戦の事であり、また他国侵逼難とは、他国からの侵略の事である。つまり、この二つは戦争を意味している。「立正安国論」で
 日蓮大聖人が主張している事は、単に他国の侵略を防ぐという消極的な面ではなく、内乱にせよ他国からの侵略にせよ、残酷で悲惨な戦争そのものを否定し、
 全世界に平和を確立しなければ一人一人の真実の幸福はないという点にある。これは「立正安国論」の最終結論が平和論で結ばれている事からも明らかである。
 およそ、為政者であるならば、当然この諫言に耳を傾けるべきであるのに、時頼はこの大聖人の叫びを黙殺した。禅に深く傾倒していた時頼にしてみれば、
 日蓮大聖人が世を乱す不遜の僧と映ったのかも知れない。また時頼が「立正安国論」を側近の者に、回覧した事も十分に考えられる事である。
 なぜなら「立正安国論」を提出して一ヶ月余り経た八月二十七日になって、突如念仏僧を交えた集団が松葉ケ谷の草庵を襲撃して来ているからである。

 つまり、連署で執権・長時の父に当たる北条重時は法然門下の証空の弟子・修観に帰依していた熱烈な念仏者であった。また、後の大聖人迫害の急先鋒となった
 極楽寺良観も、この重時に取り入っていた。念仏を一凶と断じられている「立正安国論」を見た彼等が激しい動揺を受けた半面、怒りを爆発させたであろう事は
 疑いない。草庵を追われた日蓮大聖人は弟子達と裏山に逃れ、一時下総の富木氏の許へ身を寄せた。しかし翌年には鎌倉に戻り、再び以前に勝る布教活動を
 展開している。その姿を見た念仏者達は、今度は悪口したという罪名で告訴しその結果、幕府は大聖人を伊豆へ流した。この処罰の背景に、北条重時の策動が
 あった事はいうまでもない。

21美髯公:2015/06/17(水) 21:26:41

      【社会を覆った諦観思想】

  「立正安国論」の中で特に念仏を一凶として、大きく取り上げた理由について述べておきたい。それは平安末期に始まった浄土信仰が、鎌倉時代に入って更に
 盛んとなり、日蓮大聖人の時代には、日本国中に念仏の哀音が覆い、社会全体に無気力の風潮が、漲っていたが故に他なら無い。比叡山でさえ、念仏信仰を
 認めなければ信者の庇護、寄進を受け取れない情勢となっており、奈良や高野山でも念仏修行者の数が夥しかったという。鎌倉で連署・北条重時が浄土宗の為に
 極楽寺を造営したのは「立正安国論」提出の前年である。後鳥羽院も念仏に帰依しており、念仏は庶民の間だけでなく、指導者層にも浸透しつつあったのである。

  浄土宗の教勢伸張を恐れた既成仏教の大寺院は、それを押さえようとした。元久元年(一二〇四年)、比叡山の衆徒は、専修念仏の禁止を天台の座主に
 要求した。弾圧を避けようとした法然は門弟を集め、自戒すべき項目を七箇条にして署名させた。この「七箇条制戒」には、門弟百九十人が数日に渡って署名
 している。この事からも法然の教団が、かなり大きくなっていた事が窺える。更に翌年元久二年、興福寺が念仏禁止を院に訴えた。その奏文の中に「洛辺近国では
 まだ尋常であるが、北陸・東海等の諸国に至っては、専修念仏の僧尼がさかんに破戒を事としている」(趣意)と記されているように、浄土信仰は全国的に広まっては
 いたが、同時に僧侶の堕落も顕著になっていたようである。

 この様に浄土信仰が急速に広まった原因は、一つには既成仏教の堕落が挙げられる。例えば、延暦寺の天台宗は宗教界の中心であったが、慈覚、智証の時に
 真言の邪義を取り入れ、法華経の正義を濁してしまった。更に座主は政治的な力まで持つようになり、院政期にはいると、座主の地位を巡って門閥の争いが激増して
 行った。また、延暦寺を始め興福寺、東大寺等の大寺院は寺領荘園の自衛の為に僧兵という武力集団を保持した。僧兵の横暴は次第に高まっていき、白河上皇の
 代になると強訴という手段で、詔勅、院宣等にも公然と反抗した。白河上皇も「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、これ朕が心に随わざる者」と嘆息したほどであった。
 既成仏教が自己保身の為に僧兵を保持した事自体、仏法の自殺行為であり「白法隠没」そのものの姿であったといえよう。結局、僧兵の出現が起因となって
 武士階級が抬頭し、武家政治へと移行するのである。人々は堕落しきった既成仏教から離れ、新しい宗教の到来を求めた。

23美髯公:2015/06/29(月) 21:26:56
  浄土信仰が広まった二番目の理由は、末法思想を基調とした厭世思想が民衆の間に定着していた事である。打ち続く災難や戦乱の為に、どんなに努力しても
 苦悩の泥沼から、抜け出す事の出来ないこの世は“憂き世”と映った。人々は絶望の果てに、今世に於ける幸せを諦め、来世を渇仰したのである。しかも永承七年
 (一〇五二年)は末法に入る年とされ、当時の人々の不安を一層かき立てた。慈円の「愚管抄」にも当時の世相を憂え「さてこの後のやうを見るに、世のなりまからん
 ずるさま、この二十年よりこのかた、ことし承久までの世の政、人の心ばへのむくいゆかんずる程の事のあやうさ、申かぎりなし」と記述されている。こうした幾つかの
 条件が複雑に絡み合う中に、来世を渇仰して極楽浄土への往生を説く浄土信仰が自然発生的に広まっていった。

 平安時代末期に法然が出て、全ての余行を捨てて、阿弥陀如来の名号を唱えさえすれば、極楽に往生できると説いた。文治五年(一一八九年)には、九条兼実が
 法然に帰依するに至り、浄土宗は教団として形を整えていったのである。建久九年(一一九八年)に書いた「選摘集」は九条兼実の求めに応じたものといわれている。
 しかし、念仏の教えは民衆の中に、深く根を下ろすと共に諦観思想を、社会に瀰漫させていったのである。以上の事から、日蓮大聖人が「立正安国論」で法然の
 浄土宗を、厳しく破折した所以が、明瞭に理解されよう。ただし、日蓮大聖人の真意は単に浄土宗だけでなく、広く諸宗の誤りを正すことにあったことはいうまでもない。

24美髯公:2015/06/29(月) 21:27:55

      【伊豆流罪】

  弘長元年(一二六一年)五月十二日、幕府は大聖人を逮捕し、何の吟味もなく伊豆の伊東に配流した。第一回目の権力による迫害であり、それは法華経
 勧持品に「数数擯出見れん」とある通り、法華経の行者として不可僻の王難であった。「下山御消息」には「日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ」
 (P.355 ⑦)とあり、また「妙法比丘尼子返事」には「念仏者等この由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は
 極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ」(P.1413 ①と述べられている。また「御遷化記録」にも、伊豆流罪の事が記録されて
 おり、「弘長元年辛酉五月十二日伊豆の国に流され御年四十伊東八郎左衛門尉に預けらる 立正安国論一巻を造り最明寺入道の奉る故なり 同三年二月
 二十二日赦免」とある。この記録によれば「立正安国論」による幕府諌暁が、伊豆流罪の誘因になった事が明らかである。

  大聖人を乗せた舟は強い風波の為か、目的地の伊東に着く事が出来ず川奈に到着した。ここで一ヶ月余りの間、漁師の船守弥三郎夫婦によって匿われている
 事から、恐らく難破したか不慮の事故に見舞われたのであろう。弥三郎夫婦の一身を賭した外護については、「船守弥三郎御書」に感謝の言葉を綴られており、
 教主大覚世尊が生まれ変わって、大聖人を助けたのであろうかとまで述べられている。この土地でも、大聖人を怨敵視する事甚だしく、鎌倉よりも過ぎる程で
 あったという。やがて大聖人は、川奈より伊東に移された。それは、伊東の地頭の伊東八郎左右衛門が重病になり、その平癒を要請してきたからである。この病を
 平癒させた事によって、地頭伊東氏は大聖人に帰服している。ところが後に退転して念仏真言に逆戻りした事は、「弁殿御消息」に「伊東の八郎ざゑもん今は
 しなののかみは・げんに、しにたりしを・いのりいけて念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが・かへりて念仏者・真言師になりて無間地獄に堕ぬ」(P.1225 ⑪)
 と、明らかである。

 大聖人が伊豆に流されるや急いで馳せつけ、大聖人に常随給仕したのは日興上人であった。「富士門家中見聞」上に云く「弘長元年の五月、師、伊豆の伊東に
 配流せられ給ふ伯耆公即伊東にゆいて給仕し給へり、行程百五十里文笈を荷担して遠しとし給はず、道条処々にて説法教化し給ふに宇佐美吉田に信者少々
 出来る。同三年二月十二日御赦免ありて鎌倉にかへり給ふ伯耆房御伴なり」(「要集」五巻 P.148)と。この様に日興上人は、常随給仕の合間にも寸暇を見つけて、
 付近の人々を折伏されている。更には、熱海にまで弘教の足を伸ばし、真言僧の金剛院行満を折伏されている。

  伊豆期に著わされた御著作に「四恩抄」 「教機時国抄」等がある。それらの御書には、当時の大聖人の内証の意が表明されている。「四恩抄」には「去年の五月
 十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住
 坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき」(P.936 ⑱)とあり、大聖人が法華経弘通の故に難を受けた事は、
 法華経を身で読んでいる証であると喜ばれている。また「教機時国抄」に「已上の此の五義を知って仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか」(P.440 ①)と、婉曲に
 大聖人が師徳を備えた仏であるとの内証の身分を表明されている。弘長三年(一二六三年)二月、大聖人は伊豆流罪を赦免されて鎌倉に帰られた。
 これは大聖人に罪はなく、諫言による流罪であったと見抜いた最明寺時頼の惜置によるものであった。この間、北条重時は狂疾に罹って、弘長元年十一月に
 急死している。

25美髯公:2015/06/30(火) 22:45:04

      【小松原法難と旧師との再会】

  日蓮大聖人が再び安房の地を踏んだのは、伊豆流罪を赦免された弘長三年(一二六三年)の翌年、文永元年頃であった。大聖人が十年ぶりに故郷に
 帰ったのは、亡き父の墓に詣でる事無く、老後の母にも会えずにいたのを、流罪を赦された機会に、かねてからの念願を果たす為であったと伝えられる。
 ところが、帰ってみると、母は重病の床に臥していた。大聖人は妙法をもって、母の病気平癒を祈った。「可延定業書」には、母の病気が平癒したのみならず、
 四カ年も寿命が延びた事が記されている。母の平癒後、大聖人は尚この地に留まり、安房方面の弘教活動を精力的に展開した。活動の拠点となったのは
 清澄寺退出の際、一時身を隠した西条花房の蓮華寺であったようで、九月二十二日に、ここで浄円房と対面し、念仏無間の由を具に説いている。

  不倶戴天の敵ともいうべき大聖人が十余年ぶりに安房に帰省し、活発な布教活動を行っている事は、地頭の東条景信の許にもいち早く伝わった事であろう。
 景信は大聖人要撃の機会を窺っていた。十一月十一日、大聖人は天津の領主、工藤吉隆の招きに応じて天津に赴く事になった。この日弟子の鏡忍房を始め、
 在家の信徒等十人程の人を伴って、東条松原の大路にさしかかった時、待ち伏せていた数百人に及ぶ景信の軍勢が一行を襲撃した。時刻は申酉の刻というから
 午後五時頃で、もう辺りはかなり暗くなっていた。

 一行十余人の内、ものの要にあう者 ― 応戦できる者は僅か三、四人であった。矢が降る雨のように射掛けられ、打ちかかる太刀は稲妻のように激しかった。
 この要撃で弟子一人が即座に討死にし、急を聞いて駆けつけてきた工藤吉隆も、善戦及ばず討たれてしまう。大聖人自身も頭に疵を受け、左手を打ち折られて、
 遂に最期かという最悪の状況に追い込まれたのである。しかし、新たな加勢によってか東条勢は逃散し、大聖人は九死に一生を得る事が出来た。
 この法難を小松原の法難という。襲撃を受けた一ヶ月後に、大聖人はこの小松原の法難の模様を記して、南条兵衛七郎に書き送っている。その中で「而も此の経は
 如来の現在すら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」等の経文を引いて、「されば日本国の持経者は・いまだこの経文にはあわせ給うはず唯日蓮こそよみはべれ・
 我不愛身命但惜無上道是なりされば日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(「南条兵衛七郎殿御書」P.1498 ⑩)と「法華経の行者」としての自覚を披瀝している。

27美髯公:2015/07/02(木) 22:51:40

  小松原の法難から三日後の十一月十四日、大聖人は道善房と再会した。所は蓮華寺であった。東条景信の襲撃の事を聞き、驚いて見舞いに来たのであろう。
 旧師道善房の許を去って以来十余年、その間一度も会う機会もなく、直接には音信も交わされなかったようである。この時、道善房は自ら不本意ながらも念仏を
 称え、阿弥陀仏を作ってしまったが、この罪によって地獄に堕ちるのだろうかと質問した。大聖人はこうした旧師に対し、昔を懐かしみ、いたわり、包容してあげたく
 思った事であろう。しかし、思い返せば生死の習いとして、老少不定でまた将来再び見参する事は、困難な事であろう。しかも、この道善房の兄・道義房義尚の
 臨終は思うようではなかった様である。旧師も同じく、無間の淵に沈ませてはならない、こう意を決して強い語調で答えた。

 「阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父・阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、
 我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給うはざりけるは豈不幸の人に非ずや・・・当世の道心者が後世を願うとも法華経・釈迦仏をば
 打ち捨て阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善人とは見えたけれども親を捨てて他人につく失免るべしとは
 見えず・・・・されば壯林最期の涅槃経に十悪、五逆よりも過ぎて恐ろしき者を出させ給ふに謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纏える
 智者共の中にこそ有るべしと身え侍れ」(「善無畏三蔵抄」P.889 ⑧)と、細々とその謂われを述べたが、当座は道善房には理解できなかったようである。
 その後、文永七年(一二七〇年)の頃、大聖人のこの時の厳しい言説が楔となったのであろうか、道善房は法華経を持ち少々信仰に目覚めたが、
 弱々しいものであったようである。

28美髯公:2015/07/04(土) 00:33:50

  大聖人は佐渡流罪の時、依智の本間邸から、いよいよ佐渡へ出発する直前に清澄寺の円浄房、義浄房等の人々に手紙を送っている。「佐渡御勘気抄」
 という題名の書である。その中で「日蓮は日本国・東夷・安房の国・海辺の施陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨ててまいらせん事あに石に
 小金を・かふるにあらずや・各各なげかせ給うべからず」(P.891 ⑪)と、一人一人の奮起を促し、次に道善の御房にもこの事をよく申し伝えて欲しいと依頼
 している。やはり、この前の年に漸く信仰に目覚めたという報せを受けていた大聖人にしてみれば、未曾有有の法難を目の当たりにした旧師の事が気がかり
 だったのであろう。この不安はその通り的中し、道善房は心臆して領家の尼と共に退転してしまったようである。

  「報恩抄」に云く「其の上いかなる事あれども子弟子なんどという者は不便なる者ぞかし。力なき人にも・あらざりしがさどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし
 事は法華経を信じたるにはあらぬぞかし」(P.323 ⑭)と。花房蓮花寺での邂逅の時、大聖人が予測した通り、義浄房や浄顕房とは佐渡流罪中も、身延に
 入山してからも音信が、途絶える事がなかったようだが、道善房とはその後再び会う機会がなかった。

29美髯公:2015/07/04(土) 23:41:38

      【他国侵逼難が現実化】

  文永五年即ち一二六八年は、日本の運命を決するような重大な年となった。当時、アジアを席捲しヨ-ロッパをも脅かしていた蒙古国は、遂に日本の従属を
 要求して、高麗人潘阜を使者として派遣してきた。世祖・フビライの日本宛詔書(国書)を携えた使者が、九州・太宰府に到着したのはこの年の一月十八日で
 あった。「立正安国論」上提後、七年有余にして他国侵逼難の警告は、現実のものとなって現われたのである。国書は直ちに鎌倉に送られ、幕府はこれを
 朝廷に奏上、評定の結果、国書に対して返牒は遣わさないとの決定が下された。返答を拒否した幕府は対策を急ぎ、西国の御家人に蒙古の襲来に備えるよう
 指令を与えた。更に三月五日には高齢の政村に代わって一八歳の時宗が執権につき、未曾有の国難に対処する体制を整えようとした。

 この様に蒙古の使者が服属を求めて日本に上陸した事は、上層部に対して相当の衝撃を与える事となった。関白の近衛基平公などは「国家の珍事、大事なり。
 万人驚嘆の外なし」(「深心院関白記」)と記している。また、当時蒙古の情報を伝えてきたのは、僅かに開いていた日宋間のル-トでしかなかったので、少ない情報が
 人々の不安をかき不安の表れとして、朝廷は諸社、七陵に奉幣して蒙古撃攘を祈祷しており、民間に於いても蒙古調伏の祈祷が行われた。立てた事は否めない。

  日蓮大聖人は「立正安国論」の原理が的中した事を確信し、再び国家諌暁を決意した。四月五日、一説のは北条家の実力者・平盛時(平左衛門尉
 頼綱の父)ともいわれる法鑒房に対し、一書を送り、直接、執権・時宗に対面する事を迫った。これが「安国論御勘由来」である。この書の最期に「唯偏に
 国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず、復禅門に対面を遂ぐ故に之を告ぐ之を用いざれば定めて後悔有る可し」(P.35 ⑫)と結んでいるが、ここに
 「禅門」とあるのは恐らく時宗を指すものと思われる。当時の時宗は、父・時頼に劣らず禅に傾倒していたようである。

30美髯公:2015/07/13(月) 23:44:52

 また、十月十一日には当時の幕府の権力者並びに諸大寺に十一通の書状を送って、公の場での法論を要求した。その中の「北条時宗への御状」には「抑も
 正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に
 当たれり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば
 重ねて又四方より責め来る可きなり」(P.169 ⑮)と厳しく諫めている。

 しかし、幕府はこの警告に対しても、表面的には何の反応も示さなかった。しかし裏面では極楽寺良観を始め、建長寺道隆、また七大寺の僧達は周章狼狽し、
 その対策に躍起となっていた。これが三年後の文永八年(一二七一年)九月の竜口の法難、それに続く佐渡流罪という大難へと進展していくのである。
 文永六年(一二六九年)九月、蒙古国から二度目の使者が来日した。同年の十二月八日、書写した「立正安国論」に添えた奥書にこの事を記して、最期に
 「既に勘文之に叶う。之に準じて之を思うに未来も亦然る可きか、此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮の力に非ず、法華経の真文の感応の至す所か」(P.33 ⑩)と
 述べ、「立正安国論」で警告した事が、事実として現われた事を指摘し、遠く未来の事を深く憂慮されている。

31美髯公:2015/07/16(木) 22:15:45

      【文永八年の法難】 

  日蓮大聖人が幕府評定所に召喚され、尋問を受けたのは文永八年(一二七一年)九月十日の事である。いよいよ権力による二度目の弾圧が始まったのである。
 この間の経緯は「種種御振舞御書」に詳しいが、それによるとこの召還の直接のきっかけとなったのは、極楽寺良観、道阿道教、念阿良忠等の念仏者による不当な
 讒奏であった事が明らかである。良観等はこの数ヶ月前に、念阿良忠の弟子・行敏の名をもって、大聖人とその門下を問注所に訴え出たが、大聖人の鋭い論駁に
 あい、かなり狼狽し焦慮していたようである。まともに当たったのでは、歯が立たないと見た彼等は、幕府上層部の夫人を煽動した。

 「種種御振舞御書」に云く「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す、
 故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頸をはねよと申す、
 御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出しててたづねらるべしとて召し出されぬ」(P.911 ③)と。この尼御前や
 上﨟の中には、当然、最明寺入道(北条時頼)、極楽寺入道(北条重時)の未亡人もいたであろうから、この讒言を聞き大聖人に対して怨恨を抱き、その筋に
 圧力をかけた事も当然予想される。良観側にとっては、筋書き通り事態が展開していったのである。

  当時、幕府も蒙古対策に命運を賭けており、内部を固める為に所謂悪党鎮圧に乗り出していた。この悪党というのは山賊、盗賊の類というより、むしろ幕府や
 守護に反抗する地頭、名主等を指している。幕府は全国的に悪党鎮圧を行ったが、特に膝元の鎌倉に於いて厳しく取り締まった事はいうまでもない。
 しかも、日蓮大聖人に対しては「立正安国論」による諌暁以来、権力に楯をつく不逞の僧侶という見方が強く支配しており、一度は伊豆へ流罪にしている。
 幕府側から見れば悪党的存在であった訳で、折が有れば一挙に抑圧してしまおうという企図はあったのであろう。

32美髯公:2015/07/18(土) 23:01:30

 こうした幾つかの条件が重なり合って、九月十日の召喚という事態に展開していったのである。この時、大聖人の尋問を行ったのは、侍所の所司(次官)であり、
 得宗・時宗の家令である平左衛門尉頼綱であった。恐らく公の場で二人が直に対面したのは、この時が最初であったと考えられ、それは、いわば宿命的な出会いと
 いえるもので、平左衛門尉は大聖人とその門下の弾圧に執念を燃やして行くのである。もとより「世間の失一分もなし」(P.958 ⑮)と、身の潔白を寸分も疑わない
 大聖人は、平左衛門尉の尋問を受けても少しも臆する所がない。むしろ毅然とした姿で、自らの信念を披瀝し逆に平左衛門尉の覚醒を促した。

  まず、良観等の訴えの件については「一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の
 時より申せし事なり」(P.911 ⑦)と弁明されている。つまり、建長寺・寿福寺等の寺塔を焼き払い、道隆・良観等の頸を斬れという事は確かに言ったというのである。
 この「頸を斬る」という事については、「立正安国論」に「夫れ釈迦以前の仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む」(P.30 ⑰)とあるように、
 謗法に対する布施を止めよという意味で用いられているのである。北条時頼は禅僧・道隆の為に建長寺を建立、寄進し更に執権職を退いた後は、最明寺に住して、
 世に最明寺殿と呼ばれた。時頼の大叔父に当たる重時は念仏の信者であったが、良観の為に極楽寺を建立、寄進し火災にあった後も、再建の費用を全面的に
 負担した。また京、奈良の大寺院は 天皇家や公卿から荘園の寄進をうけ、そこから取立てた租税によって経営を維持していた。

 この様に当時の寺院、宗教者は権力者から莫大な布施を受け、安定した生活を送る事が出来たのである。従って、誤れる宗教が民衆の不幸と社会の滅亡の
 原因である事を、鋭く指摘されていた大聖人にとって、権力者にその誤った宗教を捨てさせ、その支えとなる事を止めさせる事が第一の課題だったのである。
 また、故最明寺入道、極楽寺入道が地獄に堕ちた云云の件については、言下に否定している。「禅は天魔の所為、念仏は無間の業」という所説は、最明寺
 入道等が存命中から主張している法門であって、個人的に最明寺入道等堕獄と唱えているというのは全くの虚言であり、讒言であると。

33美髯公:2015/07/20(月) 21:35:18

 更に言葉をすすめて「詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合わせて・きこしめせ、さなく
 して彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使いを用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめ
 ありて遠流・流罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とてこの御一門どうしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方より
 せめられさせ給うべし、その時後悔あるべし」(P.911 ⑨)と。ここでかねてからの持論である自界叛逆と他国侵逼の二難を舌鋒鋭く警告しているが、大聖人は自身が
 罪を蒙って苦しむ事よりも、そのためにこうした戦乱に巻込まれ、苦悩の淵に沈んでいく民衆と社会を憂えているのである。

  この大聖人の私心を捨てきった真情は、二日後に認められた平左衛門尉宛の諫状(「一昨日御書」)にも溢れ出ている。云く「抑貴辺は当時天下の棟梁なり
 何ぞ国中の良材を損せんや、早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし世を安じ国を安んずるを忠と為し孝と為す、是れ偏に身の為に之を述べず君の為仏の為
 神の為一切衆生の為に言上せしむる所なり」(P.183 ⑰)と。この「一昨日御書」が、はたして平左衛門尉に渡ったかどうかは定かでない。ともあれ、この十日の
 取り調べに当たって、平左衛門尉は居丈高に詰問するつもりであったのが、返って大聖人から諫言される結果になったからであろう。ただ動転し激怒した、
 その有り様について、大聖人は「すこしもはばかる事なく物にくるう」(P.911 ⑭)と記されている。

 かくして、九月十二日申時(午後四時頃)日蓮大聖人は逮捕された。平左衛門尉が直接数百人の兵士を率いて、逮捕に出向したのである。
たった一人の貧しい僧を捕らえるのに、胴丸に身を固めた数百人の武士が押しかけて来たのであるから、その有り様は尋常なものではなく、捕物と言うよりむしろ
 恫喝的な襲撃に近かった様である。松葉ケ谷の粗末な庵室は踏み荒らされ、少輔房という郎従は大聖人の懐中にあった法華経の第五の巻をもって、大聖人の額を
 打ったという。第五の巻には「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加うるもの有らん」に始まる三類の強敵が説かれた勧持品が含まれている。仏の滅後、
 悪世末法に法華経を説くならば必ず迫害を蒙る事を明かした経巻によって、仏説通り打擲された訳である。故に「上野殿御返事」には「うつ杖も第五の巻うたるべしと
 云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり」(P.1557 ⑥)と記述されている。

34美髯公:2015/07/21(火) 22:55:19

 これに対し、大聖人は毅然として彼等の気違いじみた行動を見つめ、返って厳しい一喝を加えられている。そして、この為に鳴りを静めた一座の中で、悠々と
 平左衛門尉を諌暁されたのである。すなわち「平の左衛門並びに数百人に向かって云く『日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失うほどならば日本国のはしらをたをすに
 なりぬ』等云云」(P.312 ⑩)「日蓮は日本国の棟梁なり予を失うは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界叛逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・
 他国に打ち殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし」(P.287 ⑪)と。これは、文応元年(一二六〇年)の「立正安国論」上堤による国諫以来、二度目の
 国家諌暁とされる。

  大聖人は捕らわれ、幕府に引き立てられたが、その時の扱い方はまるで逆賊の様であったという。「神国王御書」に「両度の流罪に当てて日中に鎌倉の小路を
 わたす事・朝敵のごとし」(P.1525 ⑩)と。この時、日蓮大聖人は五十歳であった。「十二日酉の時・御勘気・武蔵守殿御あづかりにて」(P.951 ②)とある様に、
 夕方六時前後に、大聖人は武蔵の守宣時の預かりとして、その領国である佐渡流罪という裁決が下された。しかし、これはあくまでも表面上の事で、平左衛門尉の
 独断のもと密かに竜口の刑場で斬首、という段取りになっていた様である。

 夜中になって大聖人の身柄は、宣時の配下で佐渡の守護代・本間六郎左衛門の邸へ送られる事になった。途中、若宮小路の八幡宮の社前に差し掛かった時、
 大聖人は馬から降り、八幡大菩薩に向かって大音声をもって、今かかる大難に際し法華経の行者を、守護すると誓った願を果たそうとしないのは、どうしたわけか、と
 叱咤した。そこに居合わせた警固役の兵士達も肝を冷やした事であろう。更に大聖人護送の一行が由比ヶ浜に出て御霊の前に差し掛かった時、大聖人は童子の
 熊王丸をやって、近くの長谷に住む四条金吾の許に急を知らせた。それを聞いた四条金吾は馳せ参じて、大聖人の馬の轡に取りすがり大聖人と何処までも、生死を
 共にしようと決意した事は有名である。

35美髯公:2015/08/01(土) 23:19:07

  この後、依智滞留中に金吾に書き送った消息「四条金吾殿御消息(竜口御書)」には「かかる日蓮にともなひて、法華経の行者として腹を切らんとの給う 事
 かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹
 切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ」(P.1113 ⑯)とあり、また「崇峻天皇御書(三種財宝御書)」にも「返す返す今にわすれぬ事は頸切られんとせし時殿は
 ともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ
 給うとも用いひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば、釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ」(P.1173 ③)と
述べている。四条金吾が地獄に行くような事があれば、大聖人も地獄まで行こうとまでいわれているのである。金吾の人生は、この竜口の法難に於いて決定したと
言えよう。

 十三日の未明丑の時(御前二時頃)に、大聖人は竜口の頸の座に据えられた。金吾も感極まって「只今なり」と絶句すると、大聖人は「不かくのとのばらかな・
 これほどの悦びをばわらへかし」(P.913 ⑱)と逆に金吾を励ましている。死の直前とは思えない悠揚迫らぬ態度である。しかし、如何なる横暴な権力、武力を
 もっててしても御本仏の生命を、破壊する事は出来なかった。江ノ島の方角から光り物が東南から西北へ光り渡り、太刀取りは目が眩んで倒れ伏、兵士等は
 怖じ気づいて一町ばかりも逃散したという。この突発的な現象に、仰天して逃げまどう兵士達を見て大聖人は、「いかにとのばら・かかる太禍ある召人にはとをのくぞ
 近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなん」
 (P.914 ⑤)と一喝されている。

 この光り物については、科学的に説明する事も出来よう。例えば隕石が落下してくる時に、空気中で燃えて火球となるとその明るさは時として、数十億燭光に達する
 と言われている。だが問題とすべきは、客観条件としては、最早死を免れる事の出来ない状態の時に、こうした現象が起きたという事実、そして幕府の役人が
 大聖人の頸を遂に切れなかったという事実である。

36美髯公:2015/08/30(日) 23:51:52

      【発迹顕本の意義】

  この瞬間こそ、垂迹上行菩薩の再誕としての使命が終わり、久遠元初の自受用報身(御本仏の生命)と顕われた発迹顕本の時だったのである。
 この様に竜口の法難は、大聖人の仏法哲学上、極めて重要な意義をはらんでいる。つまりそれは、日蓮大聖人を末法の御本仏と見るか、単なる法華経を弘めた
 僧と見るか、という基本的考え方の分かれ道があると考えられるからである。この見方の相違は必然的に「開目抄」の評価にもつながって行く。その端的な例が、
 「開目抄」下の最後の結にある「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(P.237 ⑤)の文を、一部で「したしき父母なり」と誤読している事である。

 日蓮大聖人が主師親の三徳を具備した末法の御本仏であり、その重大な法義を開顕した書が「開目抄」である事を知れば、この様な根本的な誤りを犯すはずは
 ない。この様に、この竜口の法難の際の「発迹顕本」は「開目抄」を理解する上でも、また大聖人の教義に於いて一線を画した佐前佐後の問題を理解していく
 上でも、重要な事柄であるので触れておきたい。「発迹顕本」とは「迹を発って本地を顕す」と読む。迹とは「かげ」の意で、譬えて言えば、天の月が池の水面に
 映っている場合、水面に映った影が迹であり、天空にある月そのものが本地である。

 そこで、日蓮大聖人の場合に於いては、何が迹で何が本地なのかと言う事であるが、それについては「百六箇抄」の冒頭に明確な記述がある。
 すなわち「久遠名字より已来た本因本果の主・本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮詮要す」(P.854 ⑥)との文である。
 ここに、日蓮大聖人の振舞いに於いて、上行菩薩の再誕としてのそれは、あくまでも垂迹であり自受用報身の再誕としての大聖人の姿こそ、まさに本地である事が
 明瞭である。自受用報身とは「久遠名字より已来た本因本果の主」たる、最も根本の仏であり、無始無終の古仏である。法華経本門寿量品の仏と言えども、
 五百塵点劫成道という有始の仏である。その成道の為の本因として、寿量品には「我本行菩薩道」と、菩薩の道を行じたと説かれている。菩薩の道を行じたと
 言うからには、既にそこに依処とした仏法が厳然と存在した訳で、その法の正体を文底独一本門の南無妙法蓮華経と読むのである。

38美髯公:2015/09/09(水) 23:21:49

  日蓮大聖人が本地自受用報身であり、久遠名字已来の本因本果の主であると言う事は、この文底独一本門の南無妙法蓮華経を所持された、人法体一の
 最も根本の仏である事を意味する。そして「自受用報身」の再誕としての振舞いとは、本来その所持されている南無妙法蓮華経の大仏法を説き顕し、その実体を
 確立し全民衆救済の道を開く、末法の御本仏としての活動に他ならない。なお、内証の悟りの上で、仏界を覚知されたのは、清澄寺に於ける修業時代であった事は、
 既に述べた通りである。日蓮大聖人は「三沢抄(佐前佐後抄)」に「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」
 (P.1489 ⑦)と、佐前つまり竜口より以前の振舞いや教示は、垂迹上行菩薩の再誕としてのそれであると明言されている。「発迹顕本」の瞬間は竜口の頸の座で
 あったが、実際に本地自受用報身の立場から人本尊、法本尊を開顕されていったのは、佐渡へ流されてからであったので「さどの国へながされ候いし已前の法門は」
 と述べたものと思われる。

 また「報恩抄」に「去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模の国たつのくちにて切らるべかりしが、いかにしてやありけん其の夜は・のびて依智というところへ
 つきぬ、又十三日の夜はゆりたりと・どどめきしが又いかにやありけん・さどの国までゆく、今日切るあす切るといひしほどに四箇年」(P.322 ⑰)とあるように、
 竜口の法難とそれに続く佐渡流罪を一箇の大難とみなされている事にもよる。それでは上行菩薩としての振舞いとは一体如何なる事であろうか。菩薩とは菩提薩埵の
 略で、覚有情と訳されている。菩提薩埵の菩提とは道・智・覚の意で、薩埵とは衆生・有情、更に勇猛の義がある。つまり菩薩とは、自らの得道の為に法を求める
 求道者の立場と共に、仏弟子としてこの現実社会に勇気を持って仏法を弘め、人々を救済していく使命を担った存在である。

 とりわけ上行菩薩は仏滅後、末法に於いて妙法を弘め、一切の民衆を本源から蘇生させていく事を、誓った地涌の菩薩群の指導的立場に当たる。
 大聖人の本地は久遠元初の自受用報身であるが、垂迹として振舞う上行菩薩の立場は、あくまで「如来の使い」である。事実、大聖人の竜口以前に於ける
 言説は、仏教界が阿弥陀や大日如来等幻影のような権仏に執着し、爾前権教に迷っているのに対し、釈尊に還りその真実の教法である法華経に戻るべき事を
 叫ばれたのであった。そして大聖人自らも、絶望と苦悩の深淵に沈む民衆を救う為に、泥沼の様な社会の中に入り、妙法弘通の実践を展開されたのである。
 「立正安国論」を認め、時の権力者・北条時頼に向かって覚醒を促した第一回の国家諌暁も、十一通御書に見られる公場に於ける法論対決を迫られたのも、
 地涌の菩薩としての活動に外ならない。

39美髯公:2015/09/13(日) 23:27:19

  この様に地涌の菩薩の本義というのは、厳しい現実社会を直視し、自らの使命に従って人間群の中に飛び込み、民衆を救い社会を変革していく主体的、
 能動的な行動にあるといえよう。そして仏法を社会に開き、社会を仏法で潤して活力を与えて行く所に、地涌の菩薩の使命がある。大聖人の竜口以前の行動は、
 やがて陸続と出現する地涌の菩薩に対する、実践の在り方を示したものであったと考えられる。「種種御振舞御書」に云く「法華経の肝心・諸仏の眼目たる
 妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にも
 こへよかし」(P.910 ⑱)と。

 こうした大聖人の熱誠を尽くした戦いに対して、時の社会、民衆、そしてそれを代表する幕府権力が報いたものは何であったかといえば、松葉ケ谷の草庵への夜討ち、
 伊豆への流罪、小松原に於ける東条景信の要撃、更に竜口の死罪、佐渡の流罪という数々の大難であり、その他数知れない程の迫害であった。なかんずく竜口の
 頸の座に据えられる事によって、既に自らの死を賭けて、大聖人は上行菩薩として使命を全うし、法華経の金言そのものを証明し、乗越えられた訳である。
 故に、それ以後は末法御本仏として、万年尽未来際に残すべき三大秘法の御本尊の開顕と確立、そして大聖人の精神、意志を後世に伝えるべき伝持の人の
 育成の為の活動に入ったのである。

  有名な「開目抄」下の「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の
 弟子へをくればをそろしくてをそろしからず」(P.223 ⑯)の御文に、この間の心境が伺われる。実際に頸をはねられた訳ではないのに、「頸をはねられぬ」と
 言われているのは、上行菩薩の再誕としての、それ以前の自分は、ここで全て終わったのだという意である。次の「魂魄・佐土の国にいたりて」の「魂魄」とは、
 久遠元初の自受用報身としての生命であり、佐土以後に於いてはその内証の境涯を自在に顕されていったのである。「開目抄」の人本尊開顕はその第一声で
 あったと考えられる。

 「三沢抄」に云く「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頸をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもまことの事を
 いわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内に申す法門あり(中略)此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の
 星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、この時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」
 (P.1489 ⑩)と。「内内申す法門」とは、いうまでもなく「開目抄」の人本尊開顕と「観心本尊抄」の法本尊開顕を意味しているのである。
 ここで留意しなければならない点は、同じく「三沢抄」の「さどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(P.1489 ⑨)の文である。
 この文の真意は日蓮大聖人を単なる釈迦仏法の弘通者と見なすのではなく、末法の御本仏と知って、その場から翻って佐渡以前の御書を見ていかなければならない
 という意味である。

40美髯公:2015/09/16(水) 23:31:11

      【門下に及んだ弾圧】

  さて、竜口の法難後、大聖人は公式の決定通り、依智にある本間六郎左衛門の邸へ護送された。幕府内でも大聖人の処分に異論が出たらしく、十月十日
 佐渡に向かって出発するまで、およそ一月近く依智に留め置かれた。ところがその間、鎌倉では不審な火事や、人殺しの事件が頻発した。念仏者達は「日蓮が
 弟子共の火をつくるなり」(P.916 ①)と讒訴したために、幕府はこれを口実として一挙に大聖人一門を弾圧し、根絶やしにしようと計った。鎌倉の弟子・檀那の内、
 二百六十余人の名を記し、所領没収、御内追放、流罪、斬首等の刑罰に処した。十年前の伊豆流罪は、日蓮大聖人一人が受けた難であったのに対し、
 今度の法難は弟子・檀那全体に対する弾圧に広がったのである。それだけ、大聖人の教勢が拡張し、対外的にもかなり影響を与えつつあったと推測される。

 この間の弾圧の模様は大聖人にも知らされており、多くの御書に記されている。
 「今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひ・わづかの聴聞の俗人なんど来って重科に行わる」(P.200 ⑱)
 「竜口の頸の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ籠に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし」(P.504 ⑦)
 「同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頸の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず」(P.1189 ⑰)
 「故聖霊は法華経に命をすてて・をはしき、わづかの身命をささえしところを法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや」(P.1253 ⑱)

 これらの文によると、召籠、流罪の処罰を受けたのは出家の弟子達であった。筑後房日朗等五人は土籠に入れられた人達である。これらの人々の安否を気遣って
 書き綴った「五人土籠御書」には「今夜のかんずるにつけて。いよいよ我が身より心くるしさ申すばかりなし、ろうをいでさせ給いなば明年のはるかならずきたり給え
 みみへ・まいらすべし」(P.1212 ⑩)とある。又、佐渡流罪中に書かれた「諸法実相抄」にも「現在の大難を思いつづくるにもなみだ、未来の成仏を思うて喜ぶにも
 なみだせきあへず、鳥と虫とはなけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし」(P.1361 ⑤)とある様に、ここには日蓮大聖人の、御本仏ではある
 けれども、弟子の苦悩を、自分の苦しみとして涙を流される、一人の人間としての姿が浮き彫りにされている。大聖人の振舞いは仏界所具の九界の振舞いなのである。

41美髯公:2015/09/20(日) 22:17:20

  また妙一尼御前の夫の様に、在家の檀那は御内追放、所領没収の処罰を受けている。四条金吾は、主君・江間氏の庇護もあって、この処罰を免れた一人で
 あった。この門下にまで及んだ大弾圧により、退転者が続出した。「新尼御前御返事」には「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(P.907 ⑦)と
 記されている。また、文永十年(一二七三年)に書かれた「弁殿尼御前御書」には「弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(P.1224 ⑫)
 とある。更に「日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑いををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等(中略)
 日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべし」(P.960 ⑰)とある様に、師匠である日蓮大聖人を批判する者まで出てきたのである。

 具体的には少輔房、能都房等であり、彼等は自分だけでなく多くの同心の人まで、引き連れて転向、反逆していった。少輔房については、先にあげた「五人土籠
 御書」に、すでに「せうどのの但一人あるやつを・つけよかしとをもう心・心なしとえおもう人一人もなければしぬまで各各御はぢなり」(P.1212 ⑪)と述べられて
 いる。すなわち、多くの弟子達が捕らわれる中で、但一人助かった少輔房が権力側と気脈を通じていたらしい事を察知されているのである。ここで留意すべき点は、
 法門上の事ではなく事実無根の事ではあるが、放火、殺人と言った世間の事に事寄せて、弾圧が行われたという事である。

  竜口の法難を契機とした弾圧は、大聖人門下の間に疑いと動揺を生じ、拡大していった。この事は大聖人自身もすでに存知のことであったようだ。十月十日に
 依智を発ち二十一日に、越後の寺泊に到着した大聖人は富木常忍に書状(「寺泊御書」)を書き送っているが、その中に大聖人に向けられた批判を四項に渡って
 列挙している。「或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤議を立て難に値うと、或る人云く勧持品の如きは深位の菩薩の義なり安楽行品に違すと、或る人云く我も
 此の義を存すれども言わずと云云、或る人云く唯教門計りなり」(P.953 ⑪)と。ここでは「或る人」と第三者の批判の様に表現されているが、当然門下の中に
 こうした批判、疑いがあった事は否定できない。

42美髯公:2015/09/21(月) 22:59:41

 第一の「機を知らずして麤議を立て難に値う」という事は、如何なる仏教によって成仏得道するかという衆生の機根を弁別しないで、一様に南無妙法蓮
 華経の一法でしか、成仏の道はないと立てるのは粗雑な教義である。だから、難を蒙るのだという批判である。
 第二の勧持品と安楽行品の相違とはこういう事である。勧持品には「仏の滅度の後の恐怖悪世の中に於いて、我等当に広く説くべし。諸の無智の人の悪口
 罵詈等し、及び刀杖を加うる者有らん、我等皆当に忍ぶべし」と。恐怖悪世という末法に妙法を弘通するならば、必ず三類の強敵の迫害を受けると
 説かれている。

 ところが安楽行品には「如来の滅後に、末法の中に於いて、この経を説かんと欲せば、当に安楽行に住すべし。若しは口に宣説し、若しは経を読まん時、
 楽って人及び経典の過を説かざれ。亦、諸余の法師を軽慢せざれ」と浅学初心の行者のための修行法が説かれている。つまり、勧持品に説かれている
 三類の強敵を耐え忍んで弘教する方軌は深位の菩薩の修行法であって、安楽行品の教えに違背していると批判しているのである。
 第三の「此の義」とは明らかでないが、多分大聖人の立てている教説は自分も承知しているという増上慢を指していると思われる。
 第四の「教門計り」との批判は、大聖人は観心の法門を明らかにしていないという事である。
 「開目抄」はこれらの批判の内、第一と第二に対する回答であり、「観心本尊抄」は、第一と第四に対する完璧な回答であった、と見る事が出来る。

44美髯公:2015/09/22(火) 21:04:13

      【遠流の地・佐渡】
 
  十月十二日に国津の寺泊に着いた日蓮大聖人の一行は、日本海の風浪の静まるのを待ち、二十八日遠流の地・佐渡に第一歩をしるした。佐渡は、神亀元年
 (七二四年)に伊豆、安房、常陸、隠岐、土佐と共に遠流の地と定められて以来、多くの罪人が流されている。主だった所では、承久の乱の順徳上皇、永仁の
 京極為兼、正中の日野資朝、嘉吉の観世元清等の人達である。これらの人々が、この佐渡の地で生涯を閉じている様に、佐渡流罪は死罪も同然であったのである。
 佐渡の冬は天候が不順で、寒さも厳しい。今でも、シベリア方面からの季節風が、大佐渡山脈から吹き下ろし、厳しい寒さと雪が襲うという。大聖人はそうした
 佐渡の風土と鎌倉とを比べ、その模様を次の様に描写し、富木入道に送っている。

 「此比は十一月の下旬なれば相州鎌倉に候し時の思には四節の転変は万国皆同じかるべしと存候し処に此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻りにゆいて
 霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず、人の心は禽獣に同じく主師親を知らず何に況や仏法の邪正・師の善悪は思もよらざるを
や」(P.955 ④)日蓮大聖人はこの様な佐渡の地で足かけ四年、正味二年四ヶ月に渡って配流生活を強いられた。しかし、発迹顕本を遂げられた大聖人は、溢れ
 出る様な勢いで執筆活動を展開されているのである。「開目抄」を始め「観心本尊抄」 「当体義抄」 「諸法実相抄」 「生死一大事血脈抄」 「草木成仏口決」
 「顕仏未来記」「如説修行抄」 「佐渡御書」 「祈祷抄」等、数十編に上っている。この佐渡配流時代は、大聖人の一生にとって最も苦難の時期ではあったが、
 その半面最も充実した時となっているのである。

 文永九年(一二七二年)に書かれた「最蓮房御返事」に云く「されば我が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が
 弟子檀那とならん人は一歩も行かずして天竺の霊山を見・本有の寂光土へ昼夜に往復し給う事うれしともけりなし申す計り無し」(P。1343 ⑧)と。流人の身として、
 着る物、食べる物も乏しく、しかも絶えず生命の危険にさらされた、いわば地獄のどん底の様な生活の中で、この地こそ仏道修行の道場であり常寂光の世界である
 と、弟子となった最蓮房を激励されているのである。


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