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仏教大学講座講義集に学ぶ       【 日蓮大聖人の生涯 】

1 美髯公 :2015/05/25(月) 22:33:19

 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の【 日蓮大聖人の生涯 】は、講義集の第一・二・三集に掲載されております。

3 美髯公 :2015/05/25(月) 22:43:10

  講義に入る前に、本講座の主旨について述べておきたい。
  第一に、日蓮大聖人の思想、精神を正しく理解する為には、その置かれた時代、社会を把握してこそ可能になる。一体、大聖人の生きた時代、社会は如何なる
  状況であったかを明らかにしていきたい。
 
  第二に、「日蓮大聖人の御化導は、立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われる様に、大聖人の仏法に於いて「立正」つまり仏法と「安国」
  すなわち社会とは不可分の関係にある。それは大聖人の生き方の中に、一貫して流れているものである。大聖人ほど、現実社会に関わり、民衆と共に
  生き抜かれた宗教者は他に類を見ない、
 と言っても過言ではない。可能な限り大聖人と社会との接点を、浮き彫りにしていきたい。

  第三に、之まで大聖人の思想、精神、人間像について善きに付け悪しきに付け、余りにも極端な捉え方をした為に、還って誤解を与えてしまっている。
  例えば、大聖人を神秘化したり、その思想を国家主義と做したりしている点である。これでは「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(P.919 ⑯)
  と言われている様に、一人の生きた人間としての大聖人像を浮き彫りにしたいと考えている。

5 美髯公 :2015/05/26(火) 22:37:46

      【 大聖人の出生と出身 】

  日蓮大聖人が、御自身の出生の生年について記されているのは、「波木井殿御書」(昭和新定ばんに収録)である。
 その冒頭に、「日蓮は日本国人王八十五代後堀河院の御宇貞応元年壬午安房の国長狭の郡東条郷の生まれ也。仏の滅後二千百七十一年に当たる也」と
 触れられている。また「御伝土代」(日蓮正宗第四祖日道上人が日蓮大聖人、二祖日興上人、三祖日目上人の伝記を記した草案)には「後の堀河の院の御宇、
 貞応元年二月十六日誕生なり」と記されている。これらの文献からも明らかな様に、末法万年を照らし晴らす使命を担った日蓮大聖人は貞応元年(一二二二年)
 二月十六日、安房国(現在の千葉県)長狭郡東条郷の海辺で出生された。大聖人の出身は、貴族の出でも、武士の出でもない。何の財力も権力も名誉もない、
 一介の庶民の中から出て行かれたのである。

  「本尊問答抄」に云く「日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当たる安房の国長狭の郡・東条の郷・片海の海女が子なり」(P.370 ⑧)と。
  「善無畏三蔵抄」に云く「東条片海の石中の賤民が子なり威徳なく有徳のものにあらず」(P.883 ⑨)と。
  「佐渡御勘気抄」に云く「日蓮は東夷・東条・安房の国海辺の施陀羅が子なり」(P.891 ⑪)と。
  「佐渡御書」に云く「日蓮今生には貧窮下賤のものと生まれ施陀羅が家より出たり」(P.958 ⑨)と。

 「施陀羅」とは梵語(Candâla)の音写で、屠者、殺者等と訳される。かつてインドではカ-ストと言って、身分を大きく四姓に分類し差別を設けた。(ブラ-フマン=
 司祭、クシャトリャ=王族、バイシャ=農工商の庶民、ス-ドラ=度民)施陀羅はこの四姓より下に置かれ、狩猟、漁労等の殺生、獄卒等を生業としている人達を、
 この枠に収めて不条理な差別を強いたのである。我が国の鎌倉時代には、そうした身分制度があった訳ではないが、大聖人の父三国の太夫が漁師であった事から、
 「施陀羅が子」と譬喩的に言われたのであろう。だが、江戸時代の様に士農工商の下に置かれた穢多の様な、はっきりとした差別を受けなかったにせよ、身分的に
 下層階級であった事は否めない。大聖人が「施陀羅が子」 「賤民が子」とあえて言い切られているのは、謙遜の意味もあるが、大聖人の仏法は何処までも民衆の
 側に立つものである、との宣言とみるべきである。最も虐げられ、犠牲を被って来た無名の庶民を人間の王者へと変革していく仏法 ─ それが大聖人の民衆仏法に、
 他ならないという事である。

6 美髯公 :2015/05/27(水) 22:37:36

  大聖人の出身について、海女が子、施陀羅が子と称したのは、必ずしもその出自を述べたのではなく、自分の教えを伝えようとする対象に向かって、自分もまた
 彼等と同じ階層の出身とする呼びかけの意味であると述べている人もいるが、やはり大聖人御自身のありのままの姿を披瀝されたものと解釈すべきである。後世の
 伝記の中には、大聖人の家系を聖武天皇の末裔としたり、藤原鎌足の子孫にしたりしている者があるが、これは貴賤上下の一切の差別を超えて、人間の平等を
 説いた大聖人の本意を歪めたものにしてしまっている。

  次に、大聖人が、当時「東夷」として蔑まれた東国の出身である、という事について述べておきたい。法然、親鸞、一遍、栄西、道元等の宗教者が何れも京都、
 西国の地域に生まれたのに対して、大聖人は唯一の東国出身者であった事は注目に値する。八世紀頃の東国は「更級日記」にも見られる様に、京都から遙かに
 遠い辺境の地と考えられていた。源頼朝が建久三年(一一九二年)東国の鎌倉に幕府を開いた事は画期的な事であったといえる。こうして政治の中心は東国に
 移行し、承久の変によってそれは確かなものとなったが、文化的には京畿から見れば後進地域であった事は否定できない。大聖人が清澄寺で出家して、本格的に
 仏教と取り組まれる段になって、比叡山を中心に京畿の寺院に遊学された事は、当時の状況としては当然の事であったろう。

 「本尊問答抄」には「遠国なるうへ寺とは名づけて候へども修学の人なし然而随分・諸国を修行して学問し候いしほどに」(P.370 ⑨)と修学次代を振り返って、
 この様に述べられている。しかし、だからといって大聖人は、東国出身の気概を失われた訳ではない。むしろ、辺土の東国に生まれた事を誇りとさえされている。
 例えば、比叡山に留学中の三位房に対して、次の様な厳しい忠告をされている。
 「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし、わ御坊もそれていになりて天のにくまれかほるな。
  のぼりていくばくもなきに実名をかうるでう物くるわし、定めてことばつき音なんども京なめりになりたるらん、ねずみがかわほりになりたるやうに・鳥にもあらずねずみ
  にもあらず・田舎法師にもあらず京法師にもにず・せう房がやうになりぬとをぼゆ、言をば但いなかことばにてあるべし」(P.1268 ⑧)

7 美髯公 :2015/05/28(木) 22:48:12

  大聖人は御自身の体験から、民衆の苦悩から遊離し、革新の息吹を失ってしまっている京の疲弊しきった雰囲気にのめり込んでしまう事を憂慮されたのである。
 事実、弟子であった小輔房は京都風に被れ、天魔に食い入られて慢心の虜になってしまったではないかと、先例を挙げ言葉も田舎言葉を失うなと注意を喚起されて
 いる。これは保守社会の頽廃した空気に染まっていない東国の溌剌たる精神を尊重されていたと考えられる。この様に東国の自主性を重んじる大聖人の姿勢は、
 立宗宣言以後、本格的な折伏弘教の舞台を政都・鎌倉という日本の実質上の中心地に置いたという点にも、強く反映されている様に思えてならない。

 大聖人が出生されたのは、鎌倉に幕府が開かれて僅か三十年後の事である。鎌倉と安房の間は海上輸送によって緊密に結ばれており、鎌倉の情報はかなり
 速やかにもたらされていたと思われる。大聖人が現実的視座から日本の現実を直視し、その中枢・東国とりわけ鎌倉こそ宗教革命の震源地と定められたのも、東国の
 安房の地で人間形成されていった事が大きく影響を及ぼしているのではあるまいか。

9 美髯公 :2015/05/29(金) 22:41:02

      【 清澄での修学時代 】

  幼名を善日麿と言った大聖人が、勉学の為に清澄寺の道善房の許に預けられたのは十二歳の時であった。「本尊問答抄」には「生年十二同じき郷の内・清澄寺と
 申す山にまかり登り住しき」(P.370 ⑧)と述べられている。小湊に近いこの寺は「清澄寺縁起」によれば、奈良朝の光仁天皇、宝亀二年(七七一年)、不思議法師
 という僧が、清澄山を訪れて、虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、小堂を建てて之を安置した事に始まるという。その後、叡山の慈覚大師円仁がここを訪れ、僧坊を
建立し天台密教の寺院にしたという。大聖人は入山して間もなく、本尊の虚空蔵菩薩に向かって願いを立てている。
 「幼少の時より学文に心かけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給え、十二のとしより此の願を立つ」(P.1292 ⑰)と。

 この様にして学問の道に入った大聖人に、直接学問の手ほどきをしたのは浄顕房、義浄房の二人であった様だ。「報恩抄」にも、この二人を指して「幼少の師匠」で
 あったと述べている。さて、大聖人が虚空蔵菩薩に対して願いを立てた事には子細があったという。「神国王御書」によれば、源平合戦、承久の乱の打ち続く戦乱に
 よって、社会も道徳も破壊され、しかも当時の仏教の高僧達の祈祷も何の効験もない事に対して、抜き差し難い疑問を抱いたのである。
 さらに、「妙法尼御前御返事(臨終一大事)」には
 「夫以みれば日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも
 老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一大聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡と
 して、一切の諸人の死する時と並みに臨終の後とに引き向かえてみ候へばすこしもくもりなし」(P.1404 ⑦)とある様に、人生の無常を痛感し、人生の根本問題とも
 いうべき死を解決したいという念願から、仏教の書籍に没入していった事が明らかである。

 清澄寺には、大聖人の頭を満たすこれらの疑問を解決してくれる人はいなかった様だ。道善房にしても、浄顕房にしてもそれだけの器量者ではなかった。大聖人は
 自力で、それらの疑問の解決に取り組むほかなかったのである。「日本第一の智者となし給え」と願いを立てた大聖人の深い苦悩は、自身の智慧を磨き、
 やがて見事に開花していった。その願いが何時満願になったか定かでないが、建治二年(一二七六年)正月、五十五歳の時、かつての法兄達に宛てた手紙には、
 「正身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりし事ありき、日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん明星の如くなる大宝珠を給いて右の袖に受け
 取り候いし故に一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是を知りぬ」(「清澄寺大衆中」P.893 ⑪)と、その様子を述べている。ここに「日本第一の智者と
 なし給へ」と祈って、その通り「明星の如くなる大宝珠」を虚空蔵菩薩から受け取り、「一切経の勝劣粗是を知りぬ」と述べている事から、この時、既に内証では仏法の
 極理を把握したと考えられる。

11 美髯公 :2015/05/30(土) 22:47:14

  それは当時の人々の耳目を驚動する未聞の極理であった故に、末法救済の依り所として人々に明確に示す為には、それだけの体系化が求められた。確かな文証、
 理証、現証の裏付けがあってこそ、世の人々を納得させる事が出来、求める心を充足せしめていくからである。そのためには、八万法蔵と言われる釈尊の一切経を
 始め、あらゆる論釈、他宗の教義等を知悉しなければならなかった。大聖人は出家する事を決意されたのである。時に嘉禎三年(一二三七年)の十六歳の時で
 ある。師の道善房により剃髪の儀式を済ますと、名を是生房蓮長と改めた。しかし、清澄寺はそうした大聖人の心を十分に満たしうる条件は備えていなかった。
 「本尊問答抄」に「遠国なるうへ寺とは名づけて候へども修学の人なし」(P.370 ⑨)と慨嘆している様に、大聖人のつくべき碩学はいなかったのである。

 そこで大聖人は一旦、安房からも近い新興の中心地、鎌倉に出て学ぶ事にした。だが、鎌倉は学問的に何ら得る所なく、数年で帰山したようだ。そして改めて、文化の
 中心である京畿地方に仏教を求めた。仁治三年(一二四二年)、二十一歳の頃であったと伝えられている。まず天台宗の根本道場であり、当時の仏教界の最高学府
 ともいうべき比叡山に登り、ここを中心として三井園城寺、四天王寺、高野山、さらに京都、奈良の諸宗寺院を回って仏教研鑽に努めたのである。この遊学の期間は
 十数年に及んだ。

13 美髯公 :2015/05/31(日) 21:00:47

      【 立宗宣言と地頭の反発 】

  建長五年(一二五三年)四月二十八日、大聖人は師道善房の住坊となっている諸仏坊の持仏堂の南面に於いて、自身の所説を表明した。
 いわゆる立宗宣言である。時に午の刻。持仏堂の南面の広場には、道善房をはじめ、浄円房、少々の大衆が参集していた。伝える所によれば、これに先立って、
 大聖人は、四月二十二日から七日の間、禅定に入り満願の日 ― 二十八日の朝、蒿が森(今は旭日森)の頂上に立って、太陽に向かって「南無妙法蓮華経」と
 唱えたという。「報恩抄」及び「開目抄」には、末法出世の極理を説き始めるに当たって起こるであろう大難を予測し、胸中に葛藤が生じた事を述懐している。

 「此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり、いゐいだすならば、殷の紂王の比干が胸を・さきしがごとく・・・・法道三蔵のかなやきをやかれがごとく・ならんずらん
 とはかねて知りしかども、法華経には『我身命を愛せず、但無上道を惜しむ』ととかれ涅槃経には『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』といさめ給えり、今度命をおしむ
 ならば・いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をも・すくい奉るべき」(P.321 ⑭)と。
 なぜ大難の起こる事を予測したのであろうか。それには「此の事・日本国の中に但日蓮一人計りしれり」とある、「此の事」とは何かを知らなければならない。大聖人は
 胸中に一人悟った法を説き顕すに当たって、当時現存する全ての宗派が三悪道流転の基であって、成仏得道の教えでない事を明瞭にしなければならなかった。
 故に四箇の格言として有名な、念仏は無限の業、禅宗は天魔の法、真言は亡国の法であるという痛烈な批判を行ったのである。

  諸宗は無徳道、妙法の一法のみが成仏得道の法である ― これを言うべきか、言わざるべきか。言えば三障四魔の障碍が競い起こり、三類の強敵の難を被る事は
 必定である。だが、もし言わなければ後生は無間の淵に沈み、父母・師匠を救えない事になってしまう。― 迷い抜いた末、法華経宝塔品に説かれる六難九易の文を
 目の当たりにした大聖人は、強盛な菩提心を起こし、「二辺の中にはいうべし」と断固決意し説き始めたのである。末法法華経の行者の道を選んだ大聖人は、
 その時既に法華経勧持品等に説かれる、あらゆる迫害を受ける事は覚悟の上であった。

 天台密教の寺、清澄寺の住持であり、自身は念仏を行じ、阿弥陀仏も自ら造った道善房の驚きは、並大抵のものではなかったに違いない。道善房は、偉大な成長を
 遂げた大聖人に、目映いばかりのものを覚えたであろうが、同時に大聖人の言説が地頭、東条景信の耳に達し、清澄寺そのものが迫害される事を、ひたすら恐れる
人でもあった。また、年老いていた為でもあろうか、念仏を捨てて大聖人と共に、新しい道を進む気概はさらに無かった。これに対して法兄の浄顕房、義浄房は
 一時は、愕然とした事であったろうが、大聖人の所説に共鳴し尊敬する側に立ったようである。「報恩抄」によれば、清澄寺の衆僧の中で特に、円智房や
 実成房等が大聖人に強く反発している。

15 美髯公 :2015/06/01(月) 23:15:26

  清澄寺に於ける立宗宣言の第一声が周辺に伝わると、六難九易の経文は具体的な姿を伴って現われた。道善房の心配通り、東条郷の地頭、東条景信の憤激を
 買ったのである。東条景信はその名字が示す通り、安房長狭郡東条郷に勢力を持つ武士であった。東条郷は源頼朝が伊勢外宮に寄進した東条御厨の一部で
 あったから、その地頭であることは、東条氏が土着の武士であった事を示している。地頭とは元来、庄園に置かれた管理者の呼称であったが、それを源頼朝が治安
 維持の名目で勅許を得て全国の荘園、公領に設置し、一つの職名とした。さらに承久の乱(承久三年=一二二一年)の結果、北条幕府はこの事変に勲功のあった
 御家人を没収した公家方の所領の地頭に任命し、全国支配を確立していった。この様に幕府の権力が、強大になるにつれて地頭も権威を増し、次第に横暴になって
 いった。初期の頃は、中央に送る貢物を横領する程度であったが、承久の乱以後その非道ぶりは激しくなり、土地そのものの略取を始めた。その際、庄の領主と
 衝突するのは必然の成行きであったといえる。

  東条景信もまた、こうした地頭の一人であった。景信は幕府中央の連署の重職にあった北条重時の御家人だったらしく、その威光を借りて様々な形で在地の領家を
 圧迫していた。この地の領家は北条支家の名越氏であった。三代執権・北条泰時の弟に当たる朝時が和田義盛の乱で功を挙げ、和田義盛の所領であった長狭郡
 一帯を変わって支配していたのである。この頃は既に当主の朝時は他界しており、その夫人が領家を切り回していたらしい。この女性が、大聖人の父母が重恩を
 受けた「領家の尼」または「大尼」と呼ばれた人であった。

 景信はまず、清澄寺と領家の所領の内の二間寺を念仏の寺とし、禁猟地域の清澄寺の飼鹿を狩って、この地域が自分の勢力範囲である事を示威しようと計った。
 それは明らかに、清澄寺と領家の所領侵略を意図したものであった。この時、大聖人は領家・清澄寺側にあって、事件を裁判に持ち込ませた。その結果、裁判は
 領家側に有利に展開し、一年も経たない内に二箇の寺は景信の掌中から離れた。完全な勝訴であった。この事件が、いつ頃の事であったかは明らかでないが、恐らく
 大聖人が遊学から帰った、直後の事ではなかったかと考えられる。地頭としての面目を潰された景信の、大聖人に向けられた遺恨は常のものではなかったに
 相違なく、報復の機会を窺っていたであろう事は想像に難くない。

16 美髯公 :2015/06/10(水) 21:57:57

  大聖人が痛烈な念仏批判を行ったとの報せを受けた景信は、時機到来とばかりに武力で大聖人を排除する手段に出たのである。領地侵犯の挫折という社会的な
 問題で鬱積していた景信の感情は、宗教上の問題で火が付けられた。また景信には、大聖人の立宗宣言が支配地内で起きた不祥事と映ったのであろう。景信は
 道善房に対して、大聖人引き渡しを迫ったものと思われる。一方、内部にあっても円智房、実成房等が道善房に、大聖人の勘当を迫った。道善房にとって大聖人は、
 幼少からの弟子であり内心では不便と思ったが、内外からの挟撃にあって破門せざるをえなかったようだ。

  「報恩抄」に云く「地頭景信がをそろしさといゐ・提婆・瞿伽利に・ことならぬ円智・実成が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて・いとをしと・をもうとしごろ
 の弟子等をだにも・すてられし人なれば後生はいかんがと疑わし」(P.323 ⑩)と。大聖人は景信の追手を避けて清澄山を下り、景信の手の及ばない西条花房の
 蓮花寺にひとまず落ち着いた。この折、大聖人を匿い、道案内にたったのが浄顕房、義浄房の二人であった。同じく「報恩抄」に云く「日蓮が景信にあだまれて
 清澄山を出でしにかくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり後生は疑いおぼすべからず」(P.324 ②)と。

 また、浄顕房に与えた「本尊問答抄」には「貴辺は地頭のいかりし時・義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公と
 おぼしめして生死をはなれさせ給うべし」(P.373 ⑭)とある。大聖人が、その後間もなく安房を後に、政都・鎌倉に向かい松葉ケ谷の草案を拠点に、弘教の歩みを
 進めていったことは周知の通りである。

17 美髯公 :2015/06/11(木) 21:20:29

      【鎌倉での活躍】

  日蓮大聖人が幕府所在地・鎌倉に入り、松葉ケ谷に草案を結んだのは建長五年(一二五三年)八月の事である。当時、鎌倉は政治の中心地として経済、
 文化等の面に於いても、政都としての体制が固まりつつあった。執権職にあったのは北条時頼であり、この時まだ二十七歳の若さであった。執権政治は、この時頼に
 よって完成されたといわれている。時頼は禅に傾倒していた。蒙古民族に追われて日本に逃れてきていた、蘭渓道隆に建長寺を造営寄進したのも、同じく建長五年の
 十一月の事である。日蓮大聖人が、妙法を弘通する地として鎌倉を選び、単身、宗教革命の運動を展開した事は、重要な意義を含んでいる。即ち、宗教は本来、
 民衆の苦悩を除き社会を改革して、行くべき性質のものでなければならない。山林に閉じこもって、我が身だけの修行に励むという生き方は、宗教の為の宗教であって
 民衆仏法とは言えない。奈良六宗を始め、天台宗、真言宗の既成仏教が繁雑な形式に囚われ、空虚な議論に耽って宗教本来の使命を失っていたのは、民衆、
 社会と遊離し、貴族仏教化していたからに他ならない。

 日蓮大聖人は宗教本来の使命感の上から、社会の中に入り民衆一人一人を蘇生させ、偉大な宗教の土壌の上に万人が享受しうる文化、平和社会を構築しようと
 したのである。そのためには、一国の政治の中心地である鎌倉で妙法を弘める事が、宗教革命の楔を打つ事になり、それが全国へ波動を及ぼしていく事になると、
 確信されていたのであろう。宗教革命とは思想の変革を通し、人間の内にある生命、意識そのものを根本的に、変革する事を意味する。日蓮大聖人は当時、民衆の
 生命を蝕み、生命の醜悪な面を助長させていた浄土宗を始め真言宗、禅宗、律宗等と鋭く対決していったのである。それも明確な文献を引き、さらに道理、現実の
 証拠に基づき、あらゆる人が納得しうる宗教、思想運動を繰り広げていったのである。

  日蓮大聖人が諸宗の誤りの本質を突いたのに対し、大聖人当時に於いても、以後に於いても教理の上から反駁が無かった事は注目すべき事である。
 当時、あれだけ世間を騒がせた動きに対し、何の批判も出来なかったという事は、やはり理論の上で、既に敗れたと自覚していたからではなかろうか。そのために彼等は
 激しい動揺と恐れを抱いた様である。それ故、返って怨嫉を持ち、大聖人に対し権力による非難、迫害を加えていったと思われる。大聖人のこうした宗教運動の拠点と
 なったのは、松葉ケ谷の草庵である。十一月には比叡山の僧・成弁が草庵を訪れ、日蓮大聖人の崇高な人格と卓越した論調に敬服し最初の弟子となった。
 後に六老僧の一人となった日昭である。さらに翌建長六年の十月、日昭の甥が訪れ、同じく弟子となった。後に日朗という法号を与えられた。同じ年、下総・若宮の
 領主・富木胤継が入信している。それと前後して鎌倉の江間家の家臣・四条金吾頼基、池上宗仲・宗長の兄弟、工藤吉隆、進士善春、荏原義宗等が相次いで
 入信している。


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