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口舌の輩の部屋

1美髯公:2009/06/17(水) 15:26:01
 掲示板の主旨とはズレが生じますが、この部屋は意見交換を

主眼として行きたいと思います。

理由は簡単で、私が議論に向いてないタイプだからです。

そしてまた、謂れ無き悪口・雑言は禁句といたします。

犯せば、管理人さんよる即行削除の対象となります。

以上を御了承の上、入室をお願いいたします

2美髯公:2009/06/18(木) 12:52:55
 もう、すでに1年に渡って一部創価系掲示板において沖浦氏発言の

「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」に端を発した

お祭り状態が続いております。

 「衆生己心の妙法」が何時の間にやら「人」や「自分」に置き換わり、

「人」を「人界」と捉える人、「自分」を「沖浦氏自身のみ」と捉える人等

そして「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」を批判するのに

「五重の相対の本迹相対」を持って来る人等、これが学会教学かと思うと

嘆かわしくなるような事ばかり、どこの掲示板も書き連ねてあります。

そこで、今一度、語句の説明から確認して行こうと思います。

と、言っても私に大した教学が有るわけ無いので、教学小事典等からの

貼り付けになりますがね。(^^;ゞ ポリポリ

まぁ、気長に書き込んで行きますので、よろしく!

3管理人:2009/06/18(木) 18:53:50
お〜、いきなり凄いですね、わたくしも勉強させて頂きます。

4美髯公:2009/06/19(金) 00:31:04
 おばんです!

ヨイショしはっても、なぁ〜んもでぇへんでぇ(笑

古い書籍からの貼り付けだけでっせ(^^;

5美髯公:2009/06/21(日) 23:38:56
 『五重の相対』

今でも任用に出ているのかな?まぁ、詳しい説明は各人お調べあれ(^^;

 大聖人の教義の一つ。一切の宗教・哲学・思想を比較検討して

その浅深・高低・優劣を判釈する五つの批判原理を言う。

これらの判定により大聖人の仏法が最高で有ると言うことが証せらる。

①内外相対・②大小相対・③権実相対・④本迹相対⑤種脱相対ですね

①は仏教と仏教以外との比較優劣の判定、②は一代の諸経を小乗経と

大乗経に立て分け比較優劣の判定、③は大乗経の中でも法華経(実)と

法華経以外(権)に立て分け比較優劣の判定、④は法華経28品を

14品までを迹門、15品からを本門と立て分け比較優劣の判定、

⑤は大聖人の仏法(寿量文底下種益の法門)と釈迦の仏法(寿量文上脱益の法門)との

比較優劣の判定。

ここで、②〜④までの比較優劣は全て釈迦仏法内の事で有ると言うことが

解ると思います。

そして「五重の相対」の中の「本迹相対」は法華経28品の中での比較優劣です。

となれば、「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」を「五重の相対」の中の

「本迹相対」で批判するならば、「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」が

法華経迹門の中に有ると言うこと証明しなければならないはず、

しかしながら未だ証明された方は皆無。なぜか?

結局の所「本迹」というものが、よく解ってないのではないかと思います

かといって、私が解っていると言う訳ではありませんよ、念のために(^^;

ね、管理人さん期待ハズレでおまっしゃろ(笑

6管理人:2009/06/22(月) 21:44:38
美髯公さん、五重の相対は書かれている通り、宗教批判の基準として日蓮大聖人が示されました。
宗教の高低、勝劣、浅深を判定する基準を示したものですが、なぜか日蓮大聖人の書き著した御本尊とお題目を唱える側、(帰依する側)とが、比較、相対されるのかが理解できません。
お題目の五字の前につく南無、これをつけて南無妙法蓮華経と唱えるのですから、御本尊に帰依しますと祈る
ことになるのですから、当然、祈る側が本にはなるはずはありません。
そう考えるとおかしな話しですね。

7美髯公:2009/06/24(水) 23:12:43
 おばんですぅ、管理人はん

「五重の相対」は忘れなはれ(笑 

「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」に「五重の相対の本迹相対」を

持ってくるのは間違いであると言うこと言いたいが為に

>>5 を書かせて貰っったよってに

 >なぜか日蓮大聖人の書き著した御本尊とお題目を唱える側、
 >(帰依する側)とが、比較、相対されるのかが理解できません。

「本迹」に立て分けれないもんなんてありまへん、

すべてにおいて「本迹」は、ありますねん。

 >お題目の五字の前につく南無、これをつけて南無妙法蓮華経と
 >唱えるのですから、御本尊に帰依しますと祈ることになるのですから、
 >祈る側が当然、本にはなるはずはありません。
 >そう考えるとおかしな話しですね。

これなぁ、難しゅうおます。大聖人様も「五字・七字」と言うてますやろ

先生は「南無妙法蓮華経如来」と言われているしなぁ。

単純に「妙法蓮華経」に「南無」するとは言えないのではおまへんか?

まぁ、そう教わったのは事実でおますけどなぁ。

 >祈る側が当然、本にはなるはずはありません。

であるなら管理人はどのように思ていはるん?

8美髯公:2009/06/24(水) 23:45:53
 >>7
 >>であるなら管理人はどのように思ていはるん?



「であるなら管理人はんはどのように思ていはるん?」

に訂正させていただきます。

すんまへん、管理人はんへの敬称が抜けておりました m(__)m

9美髯公:2009/06/26(金) 22:41:17
 少し気になったので「相対」について、国語辞書ですが調べてみました

「対立」的なイメ−ジしか持ってなかったけど

色々とありますなぁ。(笑

 ①むきあっていること。対立。
 ②お互いに関係があること。
 ③差別界の現象
 ④他とひきはなしては考えられないこと

以上が国語辞書です

 ①他との勝劣浅深を比較すること
 ②相互に向き合っていること。
 ③相互に関係をもっていること。対立すること
 ④哲学上、絶対に対することばで、他との関係において存在すること。
  あるいは、一定の関係、状況において妥当することをいう。
 ⑤天台において、相対種の開会の略称として用いる。

以上が仏教哲学大事典からです。

上記の様に「相対」が使われているからと言って、

かならずしも「勝劣浅深」を意味するものでは無いという事です。

10管理人:2009/06/29(月) 06:40:41
美髯公さん、私の考えでは祈っている時が本、祈っていない時が迹だと考えますので、沖浦氏のこのご本尊が迹で人が本では凡夫の姿のままが本ということになってしまい、ご本尊に祈る必要がなくなってしまいます。
従って、ご本尊否定に繋がりかねませんし、とても危険です。
凡夫がご本尊に向かい唱題して行く時に、本と現れ、時に迹と現れるのです。
学会活動している時が本であり、していない時が迹です。
教学の研鑽をしているときが本であり、していないときが迹です。
人は元来仏であると説かれていますので、その仏界を顕すことの出来る南無妙法蓮華経を唱え、行動していく中に本と顕れるだと思います。
我見ですかね?

11美髯公:2009/06/29(月) 21:28:57
 おばんですぅ
 
 >>10
   そうでんなぁ、我見と思う所が大僻目!(笑

「我見ですかね?」を除いた全文、正解でおますv(^^

文中の「本迹」併せて「本」となし「ご本尊が迹で人が本」を「迹」となす。

てな具合でおます。そもそも、管理人はんの考えと「ご本尊が迹で人が本」は

寄って立つ位置が違いまんねん。

管理人はんの考えは実践論、「ご本尊が迹で人が本」は理論っちゅうか理屈。

事(単純に言うと実践)が「本」、理(単純に言うと理論)が「迹」と言う事でおます。

「凡夫の姿のままが本」では、あきまへんか?

まさか「三十二相八十種好」でないとアカンとか(^^;

また「凡夫の姿のままが本」の前提条件として

「信心の血脈」が必要というのは御承知ですよね。

12管理人:2009/06/30(火) 03:48:21
>「凡夫の姿のままが本」の前提条件として

>「信心の血脈」が必要というのは御承知ですよね

このふたつの文章のつながりが理解できないのですが、詳しく教えていただけませんか?

13美髯公:2009/06/30(火) 21:29:26
 すんまへんm(__)m

 >>「凡夫の姿のままが本」の前提条件として

 >>「信心の血脈」が必要というのは御承知ですよね

これ、無しに頼ンます(^^;。

どぉ〜も背伸びした書き込みになってしまった様ですわ(笑

自分から話しをグチャグチャになる方向に持って行ってどないすんねんってとこでおます

御迷惑かけますが、よしなに(^^;ゞ ポリポリ

14管理人:2009/06/30(火) 22:44:19
美髯公さん、本迹のスレッドを立ててくださっても構いませんよ。

15沖浦克治:2009/07/03(金) 06:02:47
 ここに書かせていただきます。
 内容は私の板に書いたものですので、マルチポストと判断なさるなら削除くださいませ。
 本当は本迹にスレッドが立ってから書きたかったのですが、何方もお立てにならないのでここに書かせていただきます。

 曼荼羅は、虚空会に建った宝塔を書き写したもの。
 御書にあります。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 『すりかたぎ』とは、書き写すとの意味ですね、現在の印刷やコピーです。
 お曼荼羅は虚空の宝塔を書き写したもの。ですので、宝塔が本来の姿で本、お曼荼羅は書き写されたもので迹です。
 双方の対比では必然的にこうなります。
 
 では、虚空の宝塔は何を書き写したものか?
 先生のご指導にありますね。

 『この宝塔は、衆生己心の妙法を虚空に写し取ったものですから迹です。
 衆生己心の妙法が本です。』(趣意)

 これではっきり致しました。
 お曼荼羅は、宝塔に対して迹。
 宝塔は、衆生己心の妙法に対して迹。
 ですので、衆生己心の妙法は双方に対して本。
 お曼荼羅は他の二つに対して必ず迹。

 物凄く単純なんですよ。
 所が複雑にして飯食ってた人がいるんです。
 日蓮正宗という宗派のボンさんですよ。
 以下に彼らの邪義を貼っておきます。
 天城さんや、恋さん、その他の眺め人が、この通りの意見を何度も何度も書いていますね。

 【破邪顕正】創価教義検証館 から、抜粋引用。

 池田名誉会長と教学部幹部は、「如来神力品第二十一」における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、
仏と九界の衆生との垣根を取り払い、「凡夫でしかない」という従属的な信仰的立場から、
「凡夫こそ仏なのだ」「人間こそが最高に尊貴なのだ」という主体的な信仰への変革こそが法華経の心 であるとしている。
その文証として日蓮大聖人御書全集から『諸法実相抄』の 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(全集P1358)
同じく、『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(全集P1359)を、その究極の表現として挙げ、
 「信仰実践者である衆生・凡夫こそ本仏であり、教えを説く仏は衆生の影(迹)の役割となる。
であるから、仏は我等衆生にとって主師親三徳を備えているのではなく、実は我等衆生が主師親三徳を被らせることによって仏を尊貴たらしめているのである。」
 「凡夫こそ本仏。仏は迹仏にすぎない。」
という、まさに「仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言」であると宣揚している。
 さらに、「絶対者と思われている神仏は、 実は凡夫=人間の影であり、用(働き)であり、人間のための手段にすぎない」として
「人間のための宗教」の大宣言であるとし、「人間が上、仏が下」とする創価学会独自の法義解釈を展開している。

16沖浦克治:2009/07/03(金) 07:43:39
 命の顕れ方です。

 大聖人様の人としてのお姿は迹ですね。
 少し微妙な問題ですが整理いたしましょう。

 『下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。』
 (百六箇抄)

 『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
 (百六箇抄)

 この御文が本物かどうか?
 ひとまずおきます。
 人として生きる姿は、命の永遠性から見ると、迹です。
 命そのものが己心の妙法で本で仏。
 私はこのように思います。
 ですので、私共も、大聖人様も現世は仮の姿で迹。
 命そのものが本です。

 『故聖霊は此の苦をまぬかれ給いすでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、』
 (上野殿後家尼御返事)

 命そのものは火にも焼けない。
 このように仰せですね。

 方便現涅槃。と言いますが、死ぬ事は方便だと説かれます。
 ですので、生きる事も方便です。
 命が、死んだり生きたりする事自体が命の性質の現われで、本質は更に深いところにある。
 これが仏法です。

 若退若出が命の本性です。

 『生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり』
 (御義口伝巻下)

 ですので、大聖人様も私共もこの世は仮の姿です。
 そして、仏と衆生も仮の姿なんですよ。

17管理人:2009/07/03(金) 09:57:51
沖浦さん、貴殿は理屈を捏ねる方に多い特有の理論展開をされますね。
結局、何が言いたいのか解らないし、これでは日蓮大聖人の仏法を下げる行為だけで終わってしまいますよ。
この信心にとって一番大事ななおかつ、基本的な行動というものに繋がらないではないですか。
ここが今の貴殿の心が文章に表れている部分だと思いますね。空理空論はいけません、事の一念三千で行きましょう。
では具体的に、その凡夫が本として現れる行動とはどんな行動なのでしょうか?

18沖浦克治:2009/07/03(金) 17:17:14
管理人さん

 何が言いたいかわからない??
 簡単です。
 仏法が人のためにあるのです。
 人が仏のためにいるのではありません。

 それが人が本、仏が迹と言うことなんですよ。
 
 ご理解いただけましたか?

19美髯公:2009/07/04(土) 21:17:28
 『本迹』

 ①本地、垂迹
  本地:仏・菩薩の本体
  垂迹:仏・菩薩が衆生教化のために種々の化身を現じる姿

 ②本門、迹門
  1) 法華経二十八品の前半十四品を迹門、後半十四品を本門と言う
  2) 釈迦仏法を迹門、日蓮仏法を本門と言う
  3) 迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智と言う
  4) 知識を迹門、智慧を本門と言う

と、言うことです(^^;ゞ ポリポリ 語句等はそれぞれでお調べあれ(笑

さて、「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」は何にあたるでしょうかね

20美髯公:2009/07/04(土) 22:20:40
 さて、書けるときに書き込んでおきましょうかね(笑

連投でスンマヘンなぁ(^^;

  「衆生己心の妙法が本(漫荼羅)御本尊が迹」でおますな

 『御義口伝 廿八品に一文充の大事  方便品』(御書全集 787ペ-ジ)

各人で参照の事

 『御義口伝講義 下』(792ペ-ジ)より

ここに、迹門とは、不変真如の理のことであり、
本門とは、随縁真如の智のことである。
また大御本尊に約して論ずるならば「是の法法位に住して」とは、
大御本尊は大宇宙の根元の法理であり、根本法則であるということである。
「世間の相常住」とは、大御本尊は、大宇宙の本源であると共に、
常住不滅の幸福なる当体であり、現実に、仏界を顕現している、躍動せる、
自受用智の当体であり、事実の上に、生活の上に、一切衆生の当体の上に
幸福をもたらす源泉であるということである。

 また大御本尊それ自体は「是の法法位に住して」お姿であり、
不変真如の理である。それを、さらに御本尊を根底に信心を開き、
人々の生活の上に、現実に、智慧となり、大生命力となって、涌現してくるとき、
これを「世間の相常住」と読むのである。

以上でおます。

この部分の講義は「当体義抄 第2章 十界の事相の所以を釈す」に

掲載されておますよってに所持されている御方は一度調べてみても

損は、ありまへんでぇ。


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