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【トラベル】〜〜第二講座〜〜

22名無しさん:2024/12/10(火) 10:17:58
6.125 最初から総ての「真である」論理的文の何らかの記述を与えることは可能だ。しかも、論理の旧い解釈に随ってさえ。
6.1251 だから、論理においてはまた思いがけないことなど決して起り得ない。
6.126 或る文が論理に属すかどうかを、ひとは、当のシンボルの論理的諸属性を計算することで、計算することができる。
そして、それを我々は論理的文を「証明する」ときにおこなっている。我々は、意味や意義など気にかけること無く、ひとつの論理的文を他の諸論理的文から単なる諸記号規則に随って形成するのだから。
論理的文全般の証明は、我々がそれらの文を他の諸論理的文から或る種のオペレーションのサクセッシヴな適用によって生じさせる点に在る。はじめの諸トートロジーから繰り返しトートロジーを生み出すような、そんな諸オペレーションの。(しかも、ひとつのトートロジーからは諸トートロジーだけが帰結する。)
もちろん、論理の文全般がトートロジーであることを示すこの方法は、論理には全く非本質的だ。なにしろ、そこから証明がはじまる当の諸文は、証明無しでそれらがトートロジーであることを示さなければならないのだから。
6.1261 論理においてはプロセスと結果は同等だ。(だから、思いがけないことはひとつも無い。)

>>論理においてはプロセスと結果は同等だ。

プロセスと結果、という言葉の意味は、ウィトゲンシュタインいい、という意味がある。
ウィトは自分に都合のいい言葉を意図的に加工して述べているのではないか。

6.1262 論理における証明は、トートロジーの認識を、それが込み入っている場合でも容易にするための、メカニカルな補助手段に過ぎない。

6.1263 もし、ひとが或る有意味な文を他の有意味な諸文から論理的に証明することができ、さらに何らかの論理的文まで証明することができたとしたら、それはあまりに奇妙というものだろう。有意味な文の論理的証明と論理における証明がふたつの全く別々のことがらであるはずなのは、はじめから明らかだ。
6.1264 有意味な文は何ごとかを言明し、その証明はそのとおりであることを示す。論理においてはどんな文も何らかの証明の形式だ。
論理の文は何れも記号において表わされたモドゥス・ポーネンス〔modus ponens〕だ。(そして、ひとはモドゥス・ポーネンスを文によって表現することはできない。)
6.1265 ひとはいつでも論理のことを、どんな文もそれ自体の証明であるように解し得る。
6.127 論理の文は総て同権だ。それらのうちには根本法則に派生的文など本質的に存在しない。
どんなトートロジーも自らがトートロジーであることを示している。
6.1271 「論理的根本法則」の数が恣意的なことは明らかだ。ひとは論理を、例えば単にフレーゲの諸根本法則の論理積をつくることによって、ひとつの根本法則から演繹することもできただろうから。(フレーゲは、そんな根本法則はもうストレートには理解できない、とおそらくは言うことだろう。だが、フレーゲのような厳格な思索家が、論理的文の基準として理解しやすさの程を引き合いに出すとはおかしい。)
6.13 論理は学説ではなく、世界の鏡像だ。
論理は超越論的だ。

6.2 数学はひとつの論理的方法だ。
数学の文一般は等式であり、したがって、見かけの文だ。

>>見かけの文だ。

見かけの文とはいかがなものか。

23名無しさん:2024/12/10(火) 10:41:23
6.21 数学の文は何の思考も表現しはしない。
6.211 我々が生活において必要とするのは、決して数学的文ではないのだ。我々は数学的文をもっぱら数学に属さない諸文から同じく数学に属さない諸文を推論するのに利用する。
(哲学において、「我々はそもそもあの語、あの文を何のために用いるのか」という問いは繰り返し貴重な洞察を齎す。)
6.22 論理の文全般がトートロジーの形をとって示す世界の論理を、数学は等式全般で示す。
6.23 ふたつの表現が等号で結びつけれらるとき、それは、それらが互いに置換可能なことを意味する。だが、それが成り立つかどうかは、両表現そのものに自ずと顕現するはずだ。
ふたつの表現が互いに置換可能なことは、それらの論理的形式を特徴づける。
6.231 ひとがそれを二重否定と解し得ることは、肯定の一属性だ。
ひとがそれを「(1 + 1) + (1 + 1)」と解し得ることは、「1 + 1 + 1 + 1」の一属性だ。
6.232 フレーゲは言う。これらふたつの表現は、同じ意義〔Bedeutung〕をもつが、相異なる意味〔Sinn〕をもつ、と。
等式で本質的なのは、だが、等号が結びつけるふたつの表現が同じ意義をもつことを示すのに当の等式は必要ではないということだ。それは両表現そのものから察知され得るのだから。
6.2321 そして、数学の文一般は証明され得るということが意味するのは、数学の文の正しさは、それが表現していることがらそのものがその正しさの点で事実と比較されるのを必要とすること無く、悟られ得るということに過ぎないのだ。
6.2322 ふたつの表現の意義の同一性は主張され得ない。というのは、それらの意義について何かを主張し得るためには、私はそれらの意義を知る必要があるが、それらの意義を知ることで、私はそれらが同じものを指すのかそれとも別々のものを指すのかを諒解するからだ。
6.2323 等式は、私がそこから当のふたつの表現を考察するその観点、つまり、それらの同義性という観点をマークするだけだ。
6.233 ひとは数学的問題一般の解決に直観を必要とするか、という問いに対しては、まさに言語がここで必要な直観を提供する、という答えが返されるはずだ。
6.2331 計算のプロセスこそがその直観をとりなす。
計算は実験ではない。
6.234 数学は論理の一方法だ。
6.2341 数学的方法の本質を成しているのは、それが諸等式とともにはたらくことだ。数学のあらゆる文が自明なはずであることは、この方法に基いているのだ。
6.24 当の諸等式を得るための数学の方法は、代入法だ。
というのは、等式全般はふたつの表現の置換可能性を表現しており、我々は幾つかの等式から、それらに随って諸表現を別の諸表現に置き換えることで、新たな諸等式へと進むからだ。
6.241 例えば、2 × 2 = 4 という文の証明はこうだ。
(Ων)μ'x = Ων×μ'x Def.
Ω2×2'x = (Ω2)2'x = (Ω2)1+1'x
= Ω2'Ω2'x = Ω1+1'Ω1+1'x = (Ω'Ω)'(Ω'Ω)'x
= Ω'Ω'Ω'Ω'x = Ω1+1+1+1'x = Ω4'x
6.3 論理の探求とは総ての法則性の探求のことだ。そして、論理の外では総てが偶然だ。
6.31 いわゆる帰納法則は、とにかく論理法則ではあり得ない。それは明らかに有意味な文なのだから。――したがって、それはアプリオリな法則でもあり得ない。
6.32 因果法則は法則ではなく、何らかの法則の形式だ。
6.321 「因果法則」、これは種名だ。そして、例えば力学に諸最小法則――最小作用の法則のような――が存在するように、物理学には諸因果法則、因果形式の諸法則が存在する。
6.3211 実際、ひとは、何らかの「最小作用の法則」が在るに違いないと、それがどういう内容なのかを正確に把握する前から、予感してきたのだ。(ここでも、例のごとく、アプリオリに確実なのは純粋に論理的な何かであることが判明する。)
6.33 我々は保存法則なるものをアプリオリに信じているのではなくて、或る論理的形式の可能性をアプリオリに把握している。
6.34 根拠律、自然における連続性の原理、自然における最小消費の原理等々のような命題の総ては、科学の文の可能な造形についてのアプリオリな洞察だ。

24名無しさん:2024/12/10(火) 10:55:30
6.341 例えば、ニュートン力学は世界記述にひとつの統一的形式を提供する。不規則な黒い斑点のある白い平面を考えよう。そこで、我々はこう言う: どんな図柄がそれによって生じようと、当の平面を適当に細かい正方形の網で覆い、そして、それぞれの正方形について、それが白いのか黒いのかを述べることによって、私はその図柄の記述に望むだけ近づくことができる。私はこの方法によって件の平面の記述にひとつの統一的形式を与えおおすだろう。この形式は任意だ。三角形や六角形の目から成る網を同様の成功裡に用いることもできただろうから。三角網による記述の方が簡単にいったということもあり得る。つまり、我々は、件の平面を、細かい正方網よりも粗い三角網を使った方が正確に記述できた(あるいはその逆)等々ということも。別々の網には別々の世界記述のシステムが対応する。力学は、世界記述の文の総ては幾つかの所定の文――力学の諸公理――から或る所定の方法で得られるのでなければならない、と述べることで世界記述の一形式を規定する。それによって、力学は、科学的建築物の建設に資材を供給し、そしてこう言う: どんな建築物を建てるつもりにせよ、それをお前はもっぱらこれだけの資材でもってどうにかしなければならない。
(数のシステムによってあらゆる任意の数を書下すことができるように、ひとは力学のシステムによって物理学のあらゆる任意の文を書下すことができるはずだ。)
6.342 そして、いま、我々には論理と力学の相対的ポジションが見える。(ひとは件の網を例えば三角形と六角形からというように種々の図形から成るようにすることもできただろう。)先に述べられたような図柄が或る適当な形式の網によって記述され得ることは、当の図柄について何ごとも言明しはしない。(そのことはその種の図柄の何れについても当てはまるのだから。)だが、その図柄が特定の細かさをもつ特定の網によって完全に記述され得ること、これは当の図柄を特徴づける。
同様に、世界がニュートン力学によって記述され得ることは、世界について何ごとも言明しはしないが、しかし、世界がかの力学によってこのことがまさに成り立つとおりに記述され得ることは、世界を特徴づける。また、一方の力学によっての方が他方によってよりも世界は簡潔に記述され得るということも、世界についてなにがしかを述べている。

25名無しさん:2024/12/10(火) 11:35:44
6.343 力学は我々が世界記述に必要とする総ての真な文をひとつのプランに随って構成する企てだ。
6.3431 論理的機構全体を通じて、物理法則全般は世界の対象全般について語るのだ。
6.3432 我々は、力学による世界記述が恒に全く一般的であることを忘れてはならない。力学で話題にされるのは、例えば、特定の諸質点では決してなく、恒に不特定の諸質点ばかりだ。
6.35 我々の図柄における斑点は何れも幾何学的図形ではあるが、もちろん、幾何学はそれらの実際の形や位置については全く何も述べ得ない。件の網は、だが、純粋に幾何学的だ。その総ての属性はアプリオリに特定され得る。
根拠律等々のような法則は網を主題としている。網が記述するものをではない。
6.36 因果法則なるものが在ったならば、その内容はこうかも知れない: 「諸自然法則が存在する」。
だが、もちろん、ひとはそう言うことはできない。それは自ずと明らかになるのだ。
6.361 ヘルツの口吻でひとはこう言うかも知れない: ただ法則通りの聯関だけが思惟可能だ。
6.3611 我々はひとつのプロセスを「時の経過」と較べることなどできない――時の経過は存在しない。ただ何か別のプロセスと(例えばクロノメーターの動きと)較べ得るだけだ。
だから、時間的推移の記述は、もっぱら我々が何か別のプロセスに拠る限りにおいて可能だ。
全く同様のことが空間にも当てはまる。ひとが、例えば、ふたつの(両立しない)出来事について、他方でなく一方が起るべきどんな理由も存在しないのだからどちらも起り得ない、と言うとき、実際に問題になっているのは、どんな非対称性も存在しないならば、ひとはそれらふたつの出来事のうちのひとつを記述することなど全くできないということだ。そして、そのような非対称性が存在する場合、我々はそれを一方が現実のものとなり他方がならないことの理由と解し得る。
6.36111 カント流の右手と左手の問題、それらをひとは重ね合わし得ないという問題は、平面でも、それどころか一次元空間でも存立する。そこでは、a と b のようなふたつの合同な図形でさえ、当の空間の外へ動かされること無く重ね合わされることはあり得ない。

右手と左手は実は全く合同だ。しかし、そのこととひとがそれらを重ね合わし得ないことは何の関わりもない。
右手袋を四次元空間で回転させることができたならば、ひとはそれを左手に着け得ることだろう。
6.362 記述され得ることがらは、また、生じ得る。そして、因果法則によって締め出されるものとされることがらは、記述されもし得ない。
6.363 帰納のプロセスは、我々が自らの経験と調和させ得る最も単純な法則を採用する点に在る。
6.3631 そのプロセスは、だが、どんな論理的根拠づけももたない。ただ何らかの心理的根拠づけをもつだけだ。
最も単純なケースがとにかくまた実際に生じるだろうと信じる根拠など存在しないことは明らかだ。
6.36311 太陽があした昇るだろうというのは仮説であり、それは、我々は太陽が昇ることになるのかどうか判らないということを意味する。
6.37 或ることが生じたということから別の或ることが生じざるを得なくさせるような、そんな強制は存在しない。ただ何らかの論理的必然性だけが存在する。
6.371 いわゆる自然法則全般は自然現象全般の説明だという錯覚が、近代的世界観全体の基礎を成している。
6.372 それで、ひとびとは自然法則全般のもとに、何やら不可侵のもののもとでの如く、立ち尽くしている。古人が神や運命のもとにそうしたように。
そして、どちらも正当性と不当性をともにもってはいる。しかし、新たなシステムのもとでは総てが説明されているかのように見えてしまうのに対して、はっきりとした断絶を認めている点で、古人の方が明晰だ。
6.373 世界は私の意志とは独立している。
6.374 たとえ我々が望むことの総てが生じたとしても、それはやはり謂わば運命の恩寵でしかないだろう。それを保証するような、意志と世界の間の論理的聯関など存在しないのだし、それに、我々は仮定された物理的聯関そのものをまた欲することなどできないだろうから。
6.375 論理的必然性だけが存在するのと同様に、論理的不可能性だけがまた存在する。
6.3751 例えば、ふたつの色が視野の一箇所にともに在ることは不可能、しかも論理的に不可能だ。それは色の論理的構造によって排除されるのだから。
この矛盾が物理学においてどう表わされるか考えてみよう。それは、おおよそこうだ: ひとつの粒子が同時にふたつの速度をもつことはあり得ない、つまり、ひとつの粒子は同時にふたつの場処には在り得ない、つまり、同じ時、色々な場処における諸粒子は同一ではあり得ない。
(ふたつの基本的文の論理積はトートロジーでもコントラディクションでもあり得ないことは明らかだ。視野の一点が同時にふたつの相異なる色をもつという言明はコントラディクションだ。)
6.4 総ての文は対等だ。

26名無しさん:2024/12/10(火) 11:59:09
6.41 世界の意味は世界の外に在るはずだ。世界においては総ては在るがままに在り、生じるがままに生じる。世界の中には何の価値も存在しない――それに、存在したとしても、それは何の価値ももたないことだろう。
価値をもつ価値なるものが存在するならば、それは総ての生起と相在〔So-Seins〕の外に在るはずだ。総ての生起と相在は偶然的なのだから。
それを非偶然的にするものは、世界の中には在り得ない。在り得たとすれば、そのことはまた偶然的だろうから。
それは世界の外に在るはずだ。
6.42 したがって、倫理の文なども存在し得ない。
文は高次のものを何も表現し得ない。
6.421 倫理は言い表わされ得ないことは明らかだ。
倫理は超越論的だ。
(倫理と美学はひとつのものだ。)
6.422 「お前は ・ ・ ・ すべきだ」という形式の倫理法則を立てる際の最初の考えはこれだ: だが私がそれをしない場合には? しかし、倫理が通常の意味での罰および賞とは何の関わりもないことは明らかだ。だから、或る行為の諸帰結についてのこの問いは重要ではないはずだ。――少なくとも、そうした帰結は出来事であってはならない。件の問題設定にも何か正当なところはあるはずなのだから。たしかに、或る種の倫理的な罰や倫理的な賞は存在するには違いないが、しかし、それらは当の行為そのもののうちに在るはずだ。
(また、賞が何か好ましいことがらで、罰が好ましくないことがらである必要があることも明らかだ。)
6.423 倫理的なものの担い手としての意志は語られ得ない。
そして、現象としての意志はただ心理学の興味を惹くだけだ。
6.43 善き志なり悪しき志なりが世界を変えるにしても、それは、ただ世界の限界を変え得るだけであり、事実全般を変えることはできない。言語によって表現され得ることがらを変えることはできない。
要するに、世界は、そのときそれによって、そもそも別ものになるはずだ。世界は謂わば全体として減るか増えるかするはずだ。
幸福な者の世界は不幸な者の世界とは別ものだ。
6.431 死の際にさえ、世界は変わらない。終わるのだ。
6.4311 死は生の出来事ではない。死をひとが体験することはない。
ひとが永遠ということを無限の期間ではなく、無時間性と解するならば、現在において生きている者は永遠に生きている。
我々の視野が限り無いのと同様、我々の生は果てし無い。
6.4312 人間の魂の時間的不死性、つまり、魂が死後にも永遠に生き続けることは、到底保証されない。そればかりか、この仮定は、とりわけ、ひとが恒にそれによって叶えようとしていることがらを全く果たさない。そもそも私が永遠に生き続けることによって何か謎が解かれるのか? それに、そもそもその永遠の生は現在の生と同様に不可解ではないか? 空間と時間の中の生の謎の解決は、空間と時間の外に位置する。
(解かれるべきは自然科学の問題などではないのだ。)
6.432 世界がどのようであるかは、高次のものには全くどうでもいいことだ。神は自らを世界の中には啓示しない。
6.4321 事実の総てはもっぱら課題に必要とされる。解決にではない。
6.44 世界がどのようであるかではなくて、それが在ることが神秘だ。
6.45 永遠の相のもとの〔sub specie aeterni〕世界の観想は、全体――限定された――としての世界の観想だ。
限定された全体としての世界という感じが神秘だ。

27名無しさん:2024/12/10(火) 11:59:57
6.5 言い表わし得ない答えについては、ひとは当の問いも言い表わし得ない。
当の謎は存在しない。
そもそも或る問いが立てられ得るならば、それはまた答えられ得る。
6.51 懐疑論は、それが問われ得ないことがらを疑おうとするのならば、論駁不能なのではなく、明らかにナンセンスだ。
というのは、懐疑は何らかの問いが存立する場合にもっぱら存立し得て、問いというものは何らかの答えが存立する場合に、そしてその答えは何ごとかが述べられ得る場合に、もっぱら存立し得るからだ。
6.52 我々は、たとえ総ての可能な科学的な問いが解答されても、我々の生の問題は全く触れられないままだと感じる。もちろん、そのときにはもう何の問いも残ってはいないのであり、そして、このことこそが答えだ。
6.521 生の問題の消失によって、ひとは当の問題の解決に気づく。
(或る種の人間、彼らにおいて生の意味が長い懐疑の末に明らかとなったような、そんなひとびとが、当の意味がどんな点に在るのかを述べることができなかったのは、このことに由るのではないか。)
6.522 それでも、言い表わし得ないことがらは存在する。このことは自ずと明らかになる。それが神秘だ。
6.53 哲学の正しい方法は本来こうだろう: 述べられ得ること以外は、したがって、自然科学の諸文以外は――したがって、哲学に何の関わりもないこと以外は――何も述べないこと、そして、他人が何か形而上学的なことを言おうとしたら、彼がそうした文における或る種の記号に何の意義も与えてはいなかったことを明らかにしてみせること。この方法はその者には満足がいかないことだろう――彼は我々が彼に哲学を教えているという感じをもたないことだろう――が、しかし、これが唯一厳正な方法だろう。
6.54 私の諸文は、私を理解する者が、それらを通じて――それらによって――それらの上へと昇ったあげく、それらがナンセンスだと認識すること、そのことを通じて解明する。(彼は、謂わば梯子を登ってしまってから、それを抛棄しなければならない。)
彼はこれらの文をのりこえなければならならず、そうすれば、彼は世界を正しく見て取る。
7 語り得ないことがらについては、ひとは黙らなければならない。


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